伊藤は「利他こそがヒトの最も幸福だ」と述べたが
実際には利己的欲望にまみれた者の方が圧倒的に多く また 社会的にも有利な立場に立てるため 淘汰圧力的としては利己的であることの方が遺伝子が拡がりやすいのである
評価承認欲求というのは 元々は子供が親から評価承認してもらうことに対する脳への報酬によるものであり
子供の幼稚な「甘え」が血縁続柄を超えて社会に対して発揮されているのが評価承認欲求中毒である
評価承認欲求中毒になると 他人との比較における自己の優位性だけが価値になってしまい 他人を蹴落としてでも 騙してでも自分が利己的に優位に立つことだけが自己存在価値の全てになってしまうのである
ヒトはそもそも集団統率的協調性によって過酷な自然環境下を生き抜き ヒト同士での環境資源の奪い合い競争にも勝ち抜いた者だけが遺伝子を遺しているのであり
先天的に動物的な「社会性」として 封建的序列順位に基づく統率協調性を発揮することが「脳への報酬」として働くように「進化」しているのである
集団内部で群れの長や多数から評価承認されることを「常識(正解データ)」として学習し 群れの内部での序列競争によって自分が優位に立つことばかりを優先するようになることで ヒトは自分よりも順位序列が下とみなした相手を蔑み 暴力的な行動もできるようになるのである
サルの集団では 小さな子供は大人達からは邪魔扱いされる
サルに利他の概念などないからだ
それはヒトも同じで 自分達の属する集団組織の利益ばかりを優先することで 自律的な社会的責任を負わなくなるものなのである
東京電力福島第一原子力発電所事故においても 日本大学の組織腐敗においても 他の様々な名だたる大企業における不祥事においても 組織内部での出世競争や保身ばかりが優先し 社会的責任判断をしなくなるのがヒトという種の普遍的習性というものである
だが 自分から主体的に「生きて」いる人にとっては 自分が純粋に楽しめるためには社会安全性や公平性も必要となるからこそ 利他的行動もできるようになるのであって
他人との比較競争に依らない純粋な個人的楽しみの有無が 利他的行動の有無とも相関が見られるのである
加藤英明がトカゲ探しに夢中になるのは あくまで個人的で純粋な好奇心に因るものであり 他人との比較競争には何の興味もないからこそ 環境保全活動にも積極的に参加するのである
「撮り鉄」が迷惑行為をするのは 他人よりも作品に対する世間的評価ばかりを求めているからであって 純粋に写真が撮りたいわけではないからだ
サッカーチームのサポーターに無責任なフーリガンが出てくるのも 野球ファンが選手に対して誹謗中傷をするのも 純粋に試合を楽しんでいるのではなく 順位成績評価だけでしか選手達を見ていないからである
自分が無能で評価されない代わりに 応援している選手やチームの成績評価ばかりを求め 試合成績が悪いことに対して理不尽な怒りをぶつけて満足しようとするからである
評価承認欲求中毒者というのは 他人を蹴落とすことで自分が優位に立つことしか頭にないのであり 利他なんぞに興味は一切なくなる
他人からの評価や承認なんぞなくても 純粋に楽しいと思えることがあれば その楽しさを他人や次世代の子供達にも受け継ぎたいとも思えるようにもなる
「自分のことを大切にできない人は 他人も大切にできない」ものなのである
伊藤益は「究極的には自分がなくなる」などと言っていたが これは間違いである
まず自分が純粋に生きていてい楽しいと思えるからこそ 他人への配慮にも意識が働くのであって 「滅私奉公」的な観念は特攻隊のような偏った倒錯にも陥る危険性が排除できない
オウム真理教が地下鉄毒ガステロを実行したのも 「人類の救済」を目的として教祖に対する盲目的信頼によって「滅私奉公」したからであり
真理真実を見極める「自己」なくして本当の利他はあり得ないのである
特攻隊は主観的には「お国の為」だと思っていたものの それが根拠のない倒錯であることには気づくことができず 盲目的に権威に服従したからこそ 終戦後には「荒れた」のであり 自分で選んでいなかったからこそ 報復的に他人世間へと「荒れた」のである
「自己中心的な者に 自己はない」といわれるが 一見自己矛盾的なこの話は 「身勝手で利己的な者は 本質的な自己としての意識がない」ことを意味するのである
ヒトは 他人から評価されたり 他人と比較して優位な立場に立てれば快楽を感じるものである
だからこそ ヒトは他人を蹴落とし 利己的利益ばかりを求めるようにもなるのである
だが 他人を蹴落とし利己的利益ばかりを追求している自分の姿を客観的に見ることができれば そんな自分を肯定することが出来ずに自己嫌悪に陥り その自己嫌悪を見ないようにするため 「なかったこと」にするために むしろ利己的利益追求や他人の蹴落としにばかり邁進するようになるのである
「それしか快楽(脳への報酬)が感じられない」からである
純粋に楽しめることによって脳内麻薬の自給自足ができていれば 自ずと自然に利他的行動や他人への迷惑への配慮も働くようになるのであって 自己客観性というものは主体的に自己存在を肯定できる純粋な楽しみを感じられる自己なくしては発揮されることはないのである
評価承認欲求は自己肯定感のない行動を促し その自己嫌悪感から益々ヒトは迷惑行為に邁進するようにもなるものである
元暴走族だった人が 洋菓子作りに楽しみを見つけてケーキ職人になることで更生した例もある
洋菓子作りを楽しみ 続けるためには 他人への迷惑にも配慮しなければ続けることは出来ないのであって むしろ洋菓子を購入してくれる顧客達のために洋菓子を作ることにこそ喜びを感じられるようにもなるのである
自分が大切にできるものがあるからこそ 他人への配慮(利他)も働くようになるのである
Ende;