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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

体育会系幻想。

2011年04月02日 20時26分30秒 | 意識論関連
 野球部だとかサッカー部のガキが集団で道路を占拠して歩いていることがある。

 体育会系というと、厳格で規律正しい集団みたいな感覚があるようだが。実際には生物学的な社会形成習性によって、特定の人間に服従しているだけなので。その特定の人間がいなくなると途端にだらしなくなって、チンピラの集団みたいになる。

 どっかの一流大学で、麻薬だとか、集団レイプだのを、学生寮でやってたバカがいたな。

 元日本ハムの選手の新庄とかも、学生時代に先輩から虐待されたって言ってた。

 体育会系というのは、特定の人間による統率がなければ、ただのケダモノ集団に成り下がることが少なくない。

 部活をやっていることに対する学校からの評価欲しさに漫然とやっているバカガキには、自律的に自分達の行動を統制する意識は全くない。「悪いのは、みんな。」なのである。

 本当に野球をやりたいのであれば、道路を占拠しながらダラダラ横に拡がって歩いて他の通行者の迷惑になるようなことはしない。チンピラみたいな体育会系というのは、実はそのスポーツ自体には興味なんぞなくて、単に大人の顔色をうかがってウケ狙いでやっているだけである。こういうガキは大人になってもロクな人間にはならない。

 統率している大人の方も、従順であることに満足して、社会的な迷惑になっていることには意識が働いていないのである。

 自分勝手な奴が多すぎる。

 純粋行為として、本当に好きなことに熱中しているなら、他人の迷惑にも意識が向くものである。自分のやっていることに誇りを持っているし、また、持続可能性を望むからである。

 バカガキの「自分勝手。」というのは、やっていることがバカな大人の顔色うかがいが目的であるため。バカな大人の顔色以外に意識が働かない。

 バカな統率者というのは、自分自身も「そういう育て方。」しかされていないので、「虐待の連鎖。」よろしく、漫然と封建的な教育しかしない。

 元読売の江川卓は、従来の虐待じみた体育会系鍛練に異議を唱える。努力辛抱根性を要求する精神論的な鍛練は、将来選手としての自己管理に欠けるとして、学生時代に無理をさせることをやめるように言っている。

 戸塚ヨットスクールのような、封建的精神論教育というものを振り回せば、自発的に何をしていれば楽しいのかがわからなくて荒れているようなバカガキであれば、短絡的には統率することが可能である。

 自律がないなら、他律強制性によって従順なヒトにすることは簡単である。しかし、それはインスタントな教育法であり、それこそ一生服従させるための他人からの強制性を必要とするものであり。一向に自律は育たないのである。

 お前らは、過去の偉人の格言風味な話を引用すると、知的風味が漂って脳ミソが酔うらしいから、ここでアインシュタインでも引用してやる。(そーゆー言い方どうにかならんか。)

 「私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。」

 お前らは、自分達の固定観念に関わる話になると、急にノーベル賞受賞者の話を特殊扱いして意識から外そうとする。

 島田紳助と一緒だな。元チンピラ芸人の言っていることにどれだけの価値があるんだ。島田紳助がどれだけ深く考えていると思っているんだ。その場限りの世間ウケ狙いしかしないバカ芸人など、ただのペテン師であることくらい気付け。

 気付きたくないというのなら、読むんじゃねぇ。アクセスIPなんぞ糞喰らえだ。本当に理解できない読者なら淘汰の対象である。勝手にブックマークとか付けてんじゃねぇぞ。(怒りすぎだよ、落ち着けよ。)




資金。

2011年04月02日 17時42分45秒 | 日記
 被災地の瓦礫の中にひっくり返っている自動車とかトラクターのタイヤホーイルって、外して売ったら売れそう。盗まれる前に復興資金にしましょうよ。アルミホーイルならまだしも、スチールホイールはほったらかしにしとくと腐っちまうぞ。

 今ニュースでアメリカの牧師にクルアーンを燃やされたことに抗議してアフガニスタンで国連事務所が燃やされたそうだ。国連事務所への攻撃は八つ当たりだが。何でプロテスタントっていうのはバカが多いんだろう。

 ユダヤの諺に「本を燃やす者は、必ず人も燃やす。」ってのがあった。本を燃やすってのはナチズムと一緒だろ。

 自分が何をしているのかを、自分では理解できないのかね。

 「ふんしょ。」って入力しても、FSKARENは変換できない。残念。



情報公開。

2011年04月02日 14時31分09秒 | 日記
 近所にスゲー迷惑な奴っているんだけど。こいつの個人情報公開して社会的に排除するってできないのかね。

 単に文章だけで情報公開するんじゃ、個人的な怨恨による誹謗中傷になっちゃうけど。実際の迷惑行動を動画配信した上での情報公開ならアリなんじゃないかね。

 スゲーうるさいポンコツ車に乗っている奴に限って、どこにも行かずにその辺ぐーるぐる回っているだけなんだよね。お前本当は車に興味ないだろって思うんだけど、大抵サンダル履きだったりする。車好きな奴がサンダルで運転しないだろ。

 迷惑行為が録画可能な全ての家から撮った動画を一斉公開すれば、逆恨みもできないだろうからね。でも、こういう奴って一種の病気だから、認知症と一緒で認識させると一時的に「症状。」が悪化することもある。でも情報公開でボイコットされれば最終的には居場所がなくなるんだから、「負ける。」なんてことはない。

 迷惑な奴っていうのは、要するに服従相手が欲しくて、服従欲が満たされなくて、それによって自分の社会における「順位。」が決定されないことが不安なもんだから他人に迷惑かけておかないといられない。

 しつけを間違えた小型犬と一緒。

 こういバカは「天罰。」を下さない限り、自律的には行動を選択できない。イヌ用の天罰リモコンって売ってるでしょ。あれと一緒。

 言ってわからないなら、脳の身体性に「学習。」させれば良い。だから甘やかしたらつけあがるだけ。

 警察なんていうのは、車検を通過した後に何をしていても、ほったらかし。あいつらは手続きを踏まないと何にもしない。要は「しつけの行き届いた大型犬。」でしかない。


 追記:

 動画に関しては、通りすがりに携帯電話で投稿してもらって、多数からの「立証。」を得た上で。迷惑な奴の個人情報に関しては近隣住民とか同僚とかからの内部告発をしてもらえばいいのかな。そうすれば逆恨みは回避できるし、動画も数が集まりそう。

 そういうサイトって立ち上げられないのか。このブログでもできるのかな。動画ってどうやって募集すんだろ。ネット始めてから二ヶ月しか経たないので、全くわからん。

 ウィキリークスみたいな形式で、迷惑行為告発サイトって作れないのかな。明らかにうるさいバカを放置していると、自分までバカが感染しそう。違法改造車限定でもいいから作れないかな。警察って違法改造の場合は車検場から検査官をつれてこないと書類送検すらできないんだって。下らない法律だな。法手続きなんていうのは「既に決まって。」いるものでしかなくて、それだけ守っておけば世の中良くなる訳じゃない。だから立法機関としての議会があるんだからね。

 あ、そか、いわゆるツリー構造のページにしないとそういうページは作れないってことか。一次元の記事羅列形式しかないブログだとできないのか。うーむ。


 とにかく、迷惑な奴っていうのは、自分が何をしたいのかがわからないので、自分勝手な観念に基づいた、他人の外見を真似るだけなので。いくら他人に迷惑をかけても満足できない。

 ワイパー折りまくったバカと一緒で、八つ当たりをいくらしても満足できないことに自分では自律的には「気付く。」ということができない。だから異常にひつこくてウザい。

 一人金正日。

 うるさくしているってことは、目立ちたいんだろうから、個人情報を公開したって構わないだろう。でも、本当は目立ちたいんじゃなくて、誰かに叱られたいだけだったりする。

 ヤクザがヤクザに服従するのは、「畏れ。」「敬う。」畏敬の念を満足させたいから。

 あいつら本当は宗教がやりたいだけ。

 右翼とかも結局は天皇陛下を敬って満足したいだけ。天皇陛下が特攻服を望んでおられるわけがないし、拡声器で怒鳴り散らすことも望んでおられない。

 既に存在する自己を満足させる形式の自己満足。

 だから純粋行為としての禁欲性が出てこない。

 しかも迷惑。

 なにせ、本能的な行動に由来するものだから、強迫観念的に執着して、やめることができない。

 脳内麻薬の奴隷。

 ああ、ボイコットしたい。おいらはバカが嫌いなんだ。



ヒートアイランド。

2011年04月02日 13時40分50秒 | 日記
 東京都心部とかで発生するヒートアイランド現象とかってあるじゃんか。だから東京って暑いんだから、いっそのこと全部止めてみようか。

 あと、1200cc以上の自動車も午前9時から3時頃まで走行禁止とか。電気自動車とか軽自動車だけしか走らなきゃ、結構涼しくなるんじゃないかな。

 無茶かな。

 でも、停電になったら無茶もすったくれもないんだから、無茶してみようよ。

 打ち水とかを水道水でやるともったいなから、河川の水を汲み上げて町に撒いてしまえばいいのかな。下水に蓋しておいて、高いところから道路に水を流したら涼しいのではないかな。この際人力ポンプで。

 下水の穴を塞ぐと、大雨の時に大変なことになるから、家の前の下水口だけはそれぞれの家で責任持って管理するとか。一斉にやればなんとかなるんじゃないのかね。

 台東区や江戸川区なら、多分ポンプ使わなくても水は入るはず。むしろどこまで入れるのかを制御することの方が難しいのかな。

 計画浸水。

 病院とか老人ホームといった、体の弱い人がいる施設や家庭だけが特権としてエアコン許可すれば、もしかして、結構涼しいかもよ。

 一回やってみたいな。一回やってみて効果がありそうなら継続すればいいじゃんか。一回やろうぜ。できるところまでやってみようぜ。

 ヤシマ作戦成功したじゃんか。あれよか大変そうだけど、絶対できない論証なんてないんだぜ。できたらカッコイイじゃん、カッコイイの好きだろ。おいらは好きじゃないけど。(何だよ。)

 都営住宅とかも、やっぱ最上階が暑いらしい。都営住宅の場合は寄り合い所みたいのが大抵あるから、部屋が暑い人は一カ所に集まってもらって、そこだけエアコン回すとか。

 消防署の前だけでも水浸しにしてもらうとか。

 風呂の残り湯撒くとか。

 マルエツとかって、真夏でも寒いくらいエアコンガンガン回してる。冷凍食品の棚は考えものだな。フタしとけよ、フタ。(二度言うなよ、ガラが悪いから。)断熱材のフタ。

 ヒトの持つポテンシャルって、限界って、本当の「SPEC」って。もしかして思っている以上にあるかも知れないじゃんか。

 「心頭滅却すれば、火もまた涼し。」ってのは嘘だけど。(嘘かよ。)東京っていう土地が持つ本来の気候を知る上で、排熱制限っつうのもアリかな。

 だから「やってみなくちゃ、わからない。大科学実験で。」

 NHK教育で企画立てろよ。

時代。

2011年04月02日 12時09分01秒 | 意識論関連
 今より、もっと良い時代とか、もっと良い社会というものがあるのかも知れない。

 でもよ、今より良い社会とか時代にすることができるなら、それが人類全体にとっては一番重要なことなんじゃねぇのかっつう話だ。

 偶発的に平和だったことを、いくら羨んでも、それは「結果。」でしかない。

 やっぱ「目的。」として選択しようぜ。

 想像してみ、「騙し合いのない世界。」とか。「戦争のない世界。」とか。

 夢とか理想のことだ。

 それは、自分だけが物質的な充足を得るような、短絡的欲望の世界ではない。

 自分が生きている実感を伴う世界だ。

 道端の小さな花を。

 夕暮れの空の色を

 吹き抜ける風を。


 今まで存在しなかったものは、これからも永遠に存在しないと。

 ヒトは錯覚する。

 何も実現しないと諦めておいた方が、ヒトは気分的に楽である。

 そういうふうに、できている。

 その結果としての自分に流されていることは、本当の自分ではない。

 既に存在している自分は、自分で選択していないからだ。

 本当の自分とは、今現在、この時から選択可能な行動選択の中にしかない。

 それは、とても難しいのかも知れないが。

 不可能であることの論証はない。

 一人では何も変わらないだろう。多数には「力。」があるからだ。

 その「力。」を何に、どう使うか。それを選択しようぜ。

















 閲覧数の多いブログってこんな感じで書いていることが多いから。

 こんな感じに書いたらお前らの脳ミソが酔うのかね。


 ごめんな、おいらはこういうの苦手なんだよ。

普遍「的」。

2011年04月02日 11時02分55秒 | 意識論関連
 カール:ライムンド:ポパーが言ってる「反証主義。」っつうのは、どんなにたくさんの結果を枚挙してきても、それがいきなり普遍性の論理的証明になんぞならんぞっつう話なんだけど。どうもヒトという種の生物の習性として、たくさんあるものとか、今までずっとそうだったっつうことに対する気分的安心が生ずるもんだから。どうしても論理的証明とかいらないんじゃないかって思い込んでる奴が少なからずいる。

 多くのヒトが陥りやすい凡庸な出来事であるならば、それを普遍「的」なんて言い方をする場合が多いけれど。それはあくまで「普遍のようだ。」「普遍っぽいな。」「普遍なんじゃぁねぇかぇ。」っつう話であって。別に論理的に普遍性証明が存在しない場合が結構ある。

 ヒトは、いままでずっと戦争をやめることができなかった。犯罪をなくすことができなかった。理論的に考えることができなかった。観念のまどろみに浸っていることしかできなかった。それをどんなにたくさん枚挙しても、それ以外の行動が絶対に不可能であることの論理的証明にはならない。

 多くのヒトが陥りやすい習性、傾向というものをきちんと認識し、理解し、漫然と習性や傾向に流されることなく、意識的に誤った行動に陥らないように心掛けることによって、誤った結果を回避することが可能となる。

 「多くの他人が陥りやすい過ちであるなら、自分も同じ過ちを冒すかも知れないとしても、気分的には恐くないな。」これは「赤信号、皆で渡れば、恐くない。」と一緒で、単なる芸人のギャグでしかない。

 多くの場合、権威に服従しておけば自分は無責任に何も考えずに行動しておいても「概ね。」問題が発生しない。このことを「普遍性。」証明であると勘違いしている場合が、あまりに多いのである。

 とある人が、こうブログに書いていた。「権威に服従しない社会は崩壊する。」と。

 アイヒマン実験に関する話の後に、これを書いたのである。アイヒマン実験というのは、漫然と権威に服従することによって社会が崩壊する可能性に言及したものである。それを書き込んだ後に、急に全く逆のことを書いてしまうというのは、この人には悪いが「頭がおかしい。」としか思えない。

 だが、現実には、こういう固定観念という「思い込み。」しか論じることのできない人は、決して少なくはない。自分の言っていることが、自分では論理的に理解できていない人は少なくないのである。

 特にマスコミというのは、根本的に文系の人間が中心であるため。理論的な理解をすることができずに、多数の人間と固定観念を共有して満足し、安心して理論的な理解を放棄する。

 こうした理論的理解の放棄というのは、本来理系であるはずの生物学や、生物学に属する脳科学、認知科学においても非常に多く見られる。

 理論的な話ができないなら、それはもはや科学ではない。

 どんなにチンパンジーに人間風味な行動を促す環境を作り出したとしても、そこから人間としての社会性を「立証。」することは構造原理的に不可能である。現実に他の集団の子供を噛み殺すという行動が観察されてしまっている以上、こうした残虐性を「反証。」することは不可能なのである。

 「かもしれない。」と言っているから許されると思ったら大間違いである。おいらみたいな素人であっても反証できるような話を、東大だの京大の教授職が言ってることが許されるわけねーだろっつう話である。

 アホか。





嫌がらせ。

2011年04月01日 22時40分11秒 | 日記
 あの、自転車の後ろのブレーキって、何であんなにうるさいんだろう。

 「鳴らない。」って書いてあっても鳴るよね。

 前のブレーキは、そんなにうるさくない。前のブレーキと同じものを後ろにも着けてくれればいいのにね。

 高級なスポーツサイクルは、そうなっている。

 雨上がりとか、物凄いうるさい。

 耳がおかしくなる。

 頭までおかしくなりそう。

 なんなんだろうね。嫌がらせかね。

 何のために?。

 なぞだわー。

無意識機能。

2011年04月01日 15時49分15秒 | 意識論関連
 大脳新皮質というのは、学習によって、神経回路を「整理。」することによって、高速高機能な無意識性能力を得ることができる。

 大脳のほとんどは、既に整理「された。」、学習「された。」無意識機能であるため。脳地図のような領域の確定が可能である。

 こうした機能ごとの領域というものは、必ずしも先天的に決定されているようなものではなく、腕を失った人などで不要になった領域が、他の機能に「侵食。」されることもある。

 タイプライターやパソコンのキーボードなどは、ヒトという種の生物としての歴史において極最近の体験である。従って、こうしたものの学習というものも、先天的な機能とは異なる領域侵食によって発達するものであると言える。

 バカな生物学者は、それによって脳に障害が生ずるのではないかなどと言い出すが、それに関する実証的な根拠は全く存在しない。単なる観念的な恐怖心に過ぎない。

 バカは放置しておいて、無意識機能について話を戻そう。

 タイピングによる文字入力も、一種の言語機能の一つである。筆記言語に関わる機能の近傍の領域に作られるであろう、こうした機能も、後天的に「学習。」されたものであるが。一般に音声言語などとは異なり、ある程度の年齢にならないと学習しない場合が多いので、その学習の過程について記憶がある場合が多い。

 初めてキーボードなどに触れるとき、どのキーがどこにあるのかを一つづつ探しながら入力してゆく。

 しかし、ある程度慣れてくると、定型的な言葉に関しては、頭の中で思い描いただけで反射的に指が勝手に動くようになってくる。

 逆に、慣れすぎてしまうと、具体的にどのキーがどこにあるのかは意識上では意識できないままに入力するようになってしまう。どのキーがどこにあるのかをいちいち意識上で考えながら入力していたら、「何を書くか。」の意識をも奪ってしまうために、文章を打ち込むのに集中することができないからである。

 大脳の領域の多くは、こうした特定機能への「特化。」をした無意識機能であるため、その動作が極めて「整理。」されているために領域が明確に判別できるのである。

 特化された機能であるため、機械反射的に高速高機能であるのだが。一方では汎用性に欠けるため、特定機能以外には使えない。

 無意識機能というのは高速で特化された特定機能であり、機械手続き的な条件反射反応しかできないのである。

 こうした機械手続き的な条件反射反応しかできないのであれば、行動の全ては行動習性とか傾向性で全て説明されることになる。そこに本質的知能としての新しい認識は構造的に生じることはなく。チンパンジーのように環境以上の能力は発揮されることはない。


 本質的な知能としての意識機能が欠落していれば、ヒトの大脳容積は生物的には余剰でしかない。チンパンジー程度あれば生物「生存。」において充分だからである。

 認知症などの大脳萎縮の結果も、生物的には「生存。」には充分であろう。「生存。」に必要な能力以外を「整理。」することは、大脳辺縁系の反応として必然的な結果であるとも言える。

 水頭症などの疾患に由来する認知症以外のアルツハイマー型認知症の場合、本質的な意識、自発的な思考や新たに学習「する。」意思の欠落が原因ではないかと考えられる。まだ臨床的な検証もされていない上、原因に対する具体的な対策も確立していないので、現段階においては一般の患者への治療などへの応用はするべきではない。

 認知症というのは、当人に認識させると反って悪化することまであるので、あまり短絡的に応用すべきではない。

 応用として早急に必要なのは、大脳萎縮が特に生じていないにも関わらず、論理的に理解できない学者の頭の悪さである。国家最高学府の教授でありながら、理論的に理解できないというのはあまりに支離滅裂である。バカの多数決でバカげた観念を振り回して公費を浪費する現在の体制は、かなり根本的に見直す必要性がある。どうしても生物学者には理論的思考ができないというのならば、理工系の学者などによる精密検証も必要であろう。

 単に学力が高いだけのバカを大量生産するために国立大学の存在価値があるわけではない。被災地の学校でも論ずるように、「他人の為になる人。」を育てる機関でなければならない。それは、決してお念仏のように唱えておけばどうにかなるようなものではなく、学生個人の意思、意識の改革や、それができない学生や教員の「淘汰。」が必要である。

 現在は東北地方の災害対応があるので、優先順位としてはそちらを優先するべきであろうが。災害に乗じて事実撹乱、証拠隠滅をされてしまっては話にならない。まあ、既に公表されたものなら隠蔽しようもないので、逆に公表させること、情報開示を徹底させることが大切であろう。




実証。

2011年04月01日 15時10分16秒 | 意識論関連
 瞑想や座禅を行っていた人の方が、もしかすると振り込め詐欺への耐性が低いとか。あるいは認知症になりやすいとか。そういった統計的実証も可能かも知れない。

 振り込め詐欺の被害者とか、認知症患者というのは個人情報に関わるので、在野の理屈屋には検証のしようがない。

 認知症患者の傾向性というものに、「自慢をしたがる。」傾向があるという。これは他人からの評価に対する執着の現れであり。これは一つの左証にはなるだろう。

 他にもこうした証明はあるはずだが、詳細をすぐに忘れてしまう。こうした実証自体に意識が働かないのは、社会的評価にあまり関心が向いていないからであろう。もう少し貪欲になった方がいいかも知れない。






兵隊。

2011年04月01日 14時47分36秒 | 意識論関連
 軍隊というものは、兵隊に絶対服従をさせるために自律的判断を行うことから意識を逸らせるために過剰な訓練を行うのである。

 ヒトという種の生物を、どんなに鍛えたところで、所詮は鉄砲弾一発で役立たずになることに変わりはなく。戦術的には鍛練の効果はほとんど全くない。

 上官からの命令に服従させ続けることによって、服従することに「馴らし。」自律的に考えて行動することを不具にすることが、訓練の厳しさの本当の理由である。

 これは安物の仏教の修業とも共通するものであり。その最も先鋭化したものが瞑想とか座禅であろう。

 訓練を行っている上官自身も、実際にはその上官からの命令に従うようにシツケられているため。一種の「虐待の連鎖。」のように部下にも強制する。その行動には一切疑いを抱く意識などほとんど存在しない。

 福島原発のレスキュー隊長のように、部下の心配で精神的に病んでしまうということは、実は珍しいことではない。乃木希典大将の自害も、同じ「責任。」感からの行動である。

 こうした感覚的な「責任。」への「悩み。」とは、実際にはサバイバーズギルドと同じで、ある種の錯覚であり、アプリオリな観念である。本当は当人に道義的責任など存在しない。隊長であっても、所詮は「上。」からの命令に従っているだけであり、本当の責任とは、現場の隊長にあるのではない。

 では、福島原発の責任とはどこにあるのか。それは原子力政策に対する国民の無関心と、それに乗じて原発運営にたかった利権者達の方にある。

 だから隊長も含めて被害者なのである。


煩悩。

2011年04月01日 13時19分59秒 | 意識論関連
 「煩わしい悩み。」と書いて「煩悩。」。

 「考えた。」つもりになっている人というのがいる。「Aにしようか、それともBにしようか。」その選択に論理的根拠があるならば、それは「考え。」である。

 実際には、「考え。」ではなくて、単に「悩んで。」いることの方が圧倒的に多いらしい。

 「悩んで。」いるということは、要するに気分的にどっちにしようか「悩んで。」いるだけで。どんなに気分的に「悩んで。」も、それは「考え。」ではない。

 気分的なバイアスであれば、それは環境依存に他ならない。気分的な好き嫌い自体が当人の意識的選択ではない上に、その場の気分自体もまた自律的選択ではないからだ。

 気分的に「悩む。」と、感情的に疲れるので。あたかも「たくさん考えた。」ような気分に陥る人は少なくない。

 ハーバード大学のマイケル:サンデルの講義とかは、受講者に「悩み。」を与えているだけである。受講者はややこしい状況、あるいは判断不能な状況というものを与えられて、その与えられた条件内部だけで「悩む。」だけで。「なぜ、そんな状況になったのか。」とか、「なぜ、その状況だけしか考えてはいけないのか。」には意識が働かない。もとい、「働き難い。」

 受験に合格した大学生であっても、学食で一人食事をすることの強迫観念を自己分析することはできない。もとい、「したがらない。」

 「普通の人。」の多くは、考えが浅い。考えの浅い人間が多数を占めている場合、その方が気分的に安心なので、考えが浅いままでも「安心。」なのである。

 判断というものを行うとき、そこに論理的根拠が伴わない、単なる気分的な好き嫌いのバイアスに拠る選択であれば、それは本質的には自律的に「考えた判断。」ではなく。環境依存的に既に存在している固定観念、好き嫌いに由来する無為無策な「反射行動。」に過ぎない。

 その反射行動に至るまでに、どんなに「悩んだ。」としても、その「悩み。」にどんなに神経を擦り減らしても、葛藤しても。それは「考え。」ではないのである。

 気分的な「煩わしさ。」こそが、むしろ「考え。」を阻害する。だから「煩悩。」というのであろう。

 本質的な有神論者の場合、危険な状況であっても命がけで「正しい。」行動をとることがある。というか、とる人のことを本当の有神論者というのであるが。こういう人には「悩み。」がない。恐れを知らない。ムスリムは「神以外の何物も、私は恐れない。」と言う。あまりに危険な状況でも無謀な程「正しい。」行動をとるので、できれば一人ではなく、ある程度大きな組織との連携を取って欲しい場面も、しばしばある。

 こういう人を、私は一人でも失いたくないからだ。

 別にイスラム教に限ったことではないが。大抵の「有神論者。」と名乗っている者の、少なからずは、「神がいないなら、何をしても構わない。」と思っているような自律判断の欠落した事実上の無神論者である。だからテロだの戦争だのが終わらない。

 パレスチナの女性救急隊員による自爆テロなど、イスラムの教えでは女性が殉教することは許されていないにも関わらず殉教に踏み切った。これは自分が神の祝福を受けられないことを知っていながら、自らの無力感に絶望したのであろう。

 パレスチナでの救急隊員の仕事というのは、とんでもない無謀な仕事である。ほとんど津波被災地の救出活動みたいなことが、何十年も続いているのである。しかし、相手は自然ではなく、ユダヤ人の強迫観念による迫害であり。人災である。ましてやパレスチナにおいて「大きな組織。」といえば、あまり選択の余地はない。何せ国連が放置している状態であるから、手詰まりになるのも仕方あるまい。

 ユダヤ人は、ナチスに迫害されたために、恐怖に怯えて「自分達の国。」を欲しがっているのであり。旧約聖書にある「約束。」を盲目的に信じ込まずにはいられないのである。

 モーゼの十戒の中には、「神がいないなら、何をしても許される。」というくだりがある。これは自律的な判断を一切放棄し、全てを神の責任に押し付ける精神的怠慢に他ならない。

 そもそも、軍隊というものは、生物学的な社会形成習性を経験則的にシステマチックに利用した、盲目的服従組織に他ならない。兵隊個人は命令以外に意識が働かなくなるように、過剰な訓練によって服従することを脳の身体性に刷り込み「学習。」されるため。結果的に「監獄実験。」のような虐待行動に陥るのである。

 本質的意識が働かなければ、そこに「心。」は宿らないからである。

 ユダヤの兵隊は、ただ上官の命令に従いパレスチナ人を迫害する。そこにナチスの吏官の亡霊が宿っていることも知らずに。だからアウシュビッツとやっていることが似てくるのである。犯罪者のプロファイリング同様、無意識な人間の行動というのは類似性が必ず出てくる。それはつまり「凡庸。」な出来事でもあるからだ。

 ヒトという種の生物の習性を利用することによって、自律的な「考え。」を阻害することが可能であるため、洗脳などのペテンが成立するのである。 

 これ程までに科学技術の進歩した現代においても、未だに戦争などという野蛮行為がなくならないのは。ヒトという種の生物を工学的に解析していないからである。

 既に社会心理学的実験の成果は充分にあがっている。その「結果。」をどう読み解くか、そこに意識が働かないから、世の中に変革が起きないのである。

 「豚の耳に小判。」である。豚の耳に小判をあてがっても、豚は嫌がるだけであろう。豚のままで満足か、それとも拒絶するか。本来は「選択の余地などない。」のである。