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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

一週間ぶり。

2011年04月12日 09時58分15秒 | 日記
 ふう。やっとログイン画面の証明書不一致が治ってログインできました。あ、ソネットの方はどうなんだろう。連絡がないからまだ駄目なのかな。

 最初、gooブログ事務局からは、「スマートフォンには対応してない。」とか言って知らん顔されそうになった。でもNTTじゃエクスペリアとかのアンドロイド携帯電話を次々発売しているんだから、そんないい加減な対応ないだろって思ったさね。多分、ログイン画面というのはアクセスしてくる端末が何かを認識して、端末専用のログインページを表示するんだろうな。だから他のPCとかでは問題が発生しないんだろう。当初はソネットブログと同様の症状だったので、東芝アンドロイドのブラウザの問題かと思ったんだけど、結局はブログ事務局の方の問題だったらしい。詳細はわからないけど。

 しかし、証明書の署名がないっていうのはどうして発生するんだろう。まあ、ブログ自体を消そうとするならログイン画面に細工なんかしなくてもいいはずなので、なんかの手違いなんだろうな。

 ソネットブログの方もブログ自体を消すのは事務局のさじ加減一つなので、ログイン画面の証明書不良に神経質にならなくてもいいのかな。ブログの一つは何の連絡もなしに消されてたから、単なる情報統制であれば簡単なんだろうな。


 今、「ちぃさんぽ。」やってるんだけど、スズメって「ハタオリドリ科。」に属するのね。

 そういえば先刻原発の危険レベルだかがチェルノブイリと同じまで引き上げられたっつう話をしてた。はぁー。なんとかならんかな、原発。

 あ、ログインできなかったときにツイッターに書き込んだんだけど。科学自体が問題みたいな意見を読んだんだけど、それは違うと思う。科学技術それ自体が悪いんじゃなくて、それを使う人間の目的意識が問題なんだ。あ、でもこのことに触れると「日記。」じゃなくなるか。

 この記事がちゃんとアップできれば、とりあえず正常ってことですね。でわまた。

恋愛の自由。

2011年04月06日 17時16分53秒 | 意識論関連
 「恋愛の自由。」っていうのは、必ずしも正しいとは言えない。

 「哲学には好き嫌いがある。」とかっていうのと一緒で、論理的な根拠のない観念でしかない。

 生物学的な習性に流されて、結果的にDVとかに陥っていれば、それは社会的にも負担になるし、なにより子供がかわいそう。

 単にかわいそうなだけじゃなくて、その子供が大人になったときにまで社会的負担があるとすれば、「恋愛は自由。」だなんて言ってられない

 「子供は社会の財産。」だとか言っておいて、自分の子供だけは自分の所有物か何かと勘違いされては困る。

 単なる性欲と、相手の人間性を考慮した選択としての恋愛は全く別物。ヒトという種の生物というものは、どうしても本能が優先してしまいがち。だからその場限りの価値観だけで相手を選択してしまいがち。

 「自分だけには優しい。」とかって、一番危ないんだからね。他人には厳しいってことは、そのうち自分にだって厳しくなるんだからね。

 「釣った魚に、エサはやらん。」って言うじゃない。異常なまでに自分だけに特別扱いするってことは、下心全開だってことだからね。

 そういう話は義理の姉から散々聞かされた。何で気付かないんだろう。前頭核を活性させるような手法を使うのかね。

 DVとかでも、散々暴力を振るったあとに、急に優しくなったりするらしい。それって単に脳内物質の相転移による反射的な情動行動に過ぎないんだけどね。それは「心。」じゃなくて、単なる「感情。」でしかないんだよね。

 一通り暴れたりすると、何となくスッキリするんだよね。男同士でも喧嘩した後に仲良しになったりするじゃんか。あれもそう。

 溜まっている時にヌくと、気分的にスッキリするでしょ。あれと一緒。

 ノルアドレナリンとかっていうのは、一通り分泌すると大脳辺縁系が楽になるらしい。

 大脳辺縁系が促す情動行動っていうのは、それだけでは自分自身の意識的な選択であるとは言えないのです。

 難しいかな。

 難しいんだろうな。

 とにかく、「みんな、そうなんだ。」ってクラタマみたいに安心しないこと。それが一番バカな選択を促すんだからね。






3G。

2011年04月06日 16時20分54秒 | 日記
 東芝アンドロイド端末は新型がリリースするって話があったんだけど、震災の影響だか何だかで東芝のサイトから姿を消してしまった。

 いろいろと止まってしまったものとか、消えてしまうものが結構ある。寂しい。別に買い替えるつもりがあるわけじゃないけど、アンドロイドOSがVer.2.2になったのは新型の発売に合わせてのことだったので、何となく寂しい。

 そういえば、震災直後に鉄道運行情報をコピペしてたんだけど。あれって意味あったのかな。gooの運行状況とかって携帯で見られないのかな、見れると思うんだけど、つながり難かったとかあったのかな。途中からもっと詳しく書いている人見つけたので、丸投げしちゃったけど、携帯の情報サイトってそんなに手薄なのかな。何かおかしい。

 ブログのアクセス数からは、携帯電話が6割から7割だから、日本のネット通信の多くは携帯電話のはず。なのに携帯電話用のサイトが手薄って、なんか変。モバゲーとかばっかりテレビで宣伝してるけど、情報端末として携帯電話サイトをもっと充実させられるんじゃないのかな。

 革命テレビとかでスマホのアプリとかいろいろ紹介しているけど、あれってそんなにみんな面白いと思うのかな。おいらはよくわからない。「スマホで集団イルミネーション。」とかってアイデアは、誰かやってんのかな。東芝アンドロイド端末の場合は、ディスプレーが結構明るいからイルミネーションにも使えそうだけど、スマホの場合はディスプレーが暗い上に電池容量が少ないからイルミネーションは難しいのかな。

 まあ、やってるとすれば秘密でやってんだろうから、期待して待とうかな。誰もやってなかったりして。なはは。

 あ。そうだ、スマホの音声って結構大きい音出るみたいだから、音でもなんか集団アプリみたいの出来そうだよね。ただ、低音が全く出ないから、外付けでウーハーとか作ったら面白いかな。BOSEとかが作ってるバズーカ砲みたいなやつとか。電源にラジコンのバッテリーとか使えば安価に出来そう。

 複数の端末で位相変化させて、音の出ている所がぐーるぐる回るアプリとか。

 Perfumeの楽曲とかで、それぞれの声があちこちから聞こえるとか。

 アプリのシンクロ速度が、端末ごとに違ったりするのかな。機種ごとに速度調整すれば何とかなるような気もする。

勘違い。

2011年04月06日 14時16分03秒 | 日記
 東北大学が、一秒間に200万コマの画像を記録できるC-MOS素子を開発したっつうんで、YouTubeに動画が載ってないかなと思って探したら、川島隆太が東北大学だったことを知ってびっくり、確か新潟かどっかの大学だか研究所だったかに所属していると思っていたので、我ながら記憶の曖昧さに驚いてしまった。

 で、YouTubeの方に高速度撮影動画があったかというと、なかったみたい。4月の5日に発表されているけど、震災の前から既に開発自体は済んでいたんだろうね。

荒らし。

2011年04月06日 13時20分40秒 | 日記
 ソネットブログの方へのログインが恐くてほったらかしにしといたら、案の定荒らされていた。

 あまりに幼稚な荒らしなので、念のため、皆さんもクリックしないようにしてください。

 ソネットに直接通報しとこうかな。

 でわまた。

 追記:

 以前の記事にも書いたんだけど、無責任な書き込みをすれば、通信会社とかブログ事務局にはIPアドレスが丸見えだかんね。スパムリストとかブラックリストに載っちゃうよ、注意しな。

 追記2:

 「荒らし。」とかされているってことは、結構アクセス数が増えたってことなのかね。秋葉の通り魔とかも荒らされたって言ってたらしいから、もしかすると「なりすまし。」とかもいたりして。いないか、2桁しかアクセスIPないもんね。基本的にはこのブログ以外に新しく書き込むことはほとんどないから、(たまにあるけど。)ペテン類にはくれぐれもご注意を。



情報隠蔽。

2011年04月05日 23時33分58秒 | 意識論関連
 何かさー、哲学に関するサイトってさー、みんな「この本買って読んでね。」とか「このセミナーに参加してね。」っつう有料なものばっかでさー。無料で読めるものが一切ないのってどういうことなのよ。

 学問ってさー、本来開かれているはずのもんなんじゃないのかねー。

 要するに哲学ってのは結局、学問風味な感じを醸し出しているけど、その実、中身が全くないんじゃないかねー。

 航空力学とかだったら鈴木真二が、えっとなんだっけ、「ベルヌーイの定理。」だとかっていうのを中学生でもわかるように説明しているじゃんよ。物理工学系の場合は誰でも読めるようになっているのに、何で哲学の場合は金取るんだろうね。

 開かれてないねー。閉じてるねー。隠蔽しているねー。おかしいねー。

 議論自体を最初から回避しているねー。

 小説とかなら「版権。」主張してもいいけどさ、学術理論の場合そんなものいらんでしょ。理論の場合、公表して検証に曝されないと理論としての価値が存在しないからね。


虚数。

2011年04月05日 23時10分00秒 | 意識論関連
 虚数意識論だとかいうのがあって、何でもヒトが認識できるのは整数世界だけだから、認識できない虚数世界がどうのこうのっつう話だった。

 認識できないものなんて、別に虚数空間に限らず、地震の発生だって、腫瘍の発生だって認識できないじゃん。3次元空間+時空間以外に何か空間の拡がりが存在するとしてもだよ、それが何か認識可能な事柄に影響を与えるわけじゃないんだよね。

 そもそも科学ってのは、「わからないこと。」なんていっぱいあるんだよね。だから研究する意味がある。それまでわからなかったことが、研究によってわかったりする。だから「やって見なくちゃ、わからない。大科学実験で。」っつう話。

 既にわかっている事柄というのは、認識可能な事柄に対することであって、認識不可能なものがあるからといって、それが認識可能な事柄に影響を与えるわけではない。

 つまり、理論的に確実なものっていうのは認識可能な事柄についてだけだっつう話なんだけど、だからって認識不可能な事柄が存在することとは無関係なんだよね。

 どーでもいーです。

 ある日突然、認識できていない事柄のために地球上から生物が死滅しても、そんなことは最初から認識できないんですから、どうにもならないんですよ。

 そういうのを、無駄な心労っつうんですー。

 そんなことより、認識可能な原子炉の方が人類には問題なんです。ネズミ避けの超音波発生装置が、ネズミにとって重大問題であっても、そんなことはヒトには関係ないんですー。

 でわまた。


現選択可能性。

2011年04月05日 22時45分26秒 | 意識論関連
 「書き逃げアンドロイド。」をググったときに、記事の上位3っつまでは表示させるのだが。その中に、以前書き始めてすぐにやめてしまった記事があったので、改めて書こうと思う。

 本質的自己選択というものがなければ、それ以外のあらゆる行動というものは全て本質的には自己選択ではない。あまりに自明な理屈ではある。

 この話に触れると、時折パニック障害のような情緒不安定に陥る人もいるので、学者とか専門家の学生以外にはあまりお勧めできない。

 当ブログのタイトルの「書き逃げ。」とは、ソネットブログに書いたままほったらかしになっている「意識論。」などのブログに由来する。この論文のようなものを読んだ人の中に、一体どれ程の精神不安定を及ぼしたのかがわからないので、私としてはどうしたものか、判断がつかない。

 とりあえず、この記事では本質的な自己とは何かについて論じてみるが。お勧めはできないので、予めご了承願う。



 §:本質的自己

 今、現在存在する自分とは何か。自分では選択していない遺伝的な構造に由来する本能や感情は、構造原理的に自己ということはできない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳の構造は自分では選択していないのである。

 従って、本能や欲望、感情といったものの全ては、それだけでは自己選択ということが出来ない。

 ここまでは一部の生物学者も理解したらしいのだが。ここから先、自分が育った社会環境や時代に由来する固定観念的なあらゆる価値観もまた、自己選択ではないという話には、多くの学者もついて来ることができないらしい。

 「潜在知。」などという、個人的、主観的な価値観、好き嫌いは。一面的には「個性。」ではあるのだが、それを「知能。」の一部であるとするのは大間違いである。

 成育環境に由来する個人の無意識的な価値観に個体差が存在したとしても、それは「個性。」ではあっても、自己自身で意識的に選択されたものではない。

 たとえば、虐待をされて育った人が、虐待を連鎖する行動とは。成育環境によって無意識な深層心理に刷り込まれた個人的な好き嫌いによって促される情動行動が原因である。

 成育環境によって、無意識的に学習「された。」ものの全ては、自己自身によって意識的に選択された行動とは言えないのである。

 過去に学習「された。」あらゆる情動行動の全ては、それだけでは本質的な自己選択ではない。

 「それだけ。」では本質的には「自己選択。」ではないのである。

 そこに何が介在すれば、本質的自己選択であると言えるのか。それが統合的な認識から導き出される、理性による行動選択である。

 ただ、完全なる統合的な認識などというものは存在しない。個人の認識可能な知識に絶対などというものは存在し得ないからである。従って、自分が知り得る範囲内、理解可能な範囲内においての統合的な認識における判断で構わない。しかし、認識可能であるにも関わらず、それを意識から外して無視していたり。あるいは認識不可能であるにも関わらず、あたかも認識できたような錯覚に陥って勝手な判断をする場合。それらは個人の認識可能な範囲を逸脱した認識に基づくものであり。これは本質的には理性的判断自体が伴わない。

 認識可能、理解可能な範囲内におけるあらゆるものを。全て客観的に認識するためには。そこに一切の感情や価値観によるバイアスを放棄した上での、冷静で広い視野を持った自己分析が必要である。

 恐らく、これが一番難しいのかも知れない。

 いわば、心理臨床的な自己治療の範囲になるのかも知れない。だが、生活習慣病の治療などにおいての治療と一緒で、「コレステロールの過剰摂取が循環器系に悪影響を及ぼす。」などの知識であれば、それは臨床医でなくとも知っておくべき内容であるのと同様。カルト宗教だの詐欺だのに引っ掛からないための感情コントロールの基礎として、本質的な自己自身の理性的な選択、判断というものは知っておくべき、身につけておくべきである。

 日本人というのは、とかく他人任せにばかり執着し、自律的に判断するということが大嫌いな民族性がある。「お役所仕事。」的な、上司に対する従順性と責任逃ればかりを考えていれば、封建的な縦割り制度に陥るのである。それが規則上において責任がないとしても、結果的に社会が崩壊してしまえば、社会の一員としての責任を放棄していたツケは払わなければならないのである。

 社会というものは、神から与えられたものではないので、間違いがあるのなら自分達で正さなければならないものなのである。封建的な年功序列制度に従順なだけの自律判断の欠落したヒトしかいないのであれば、社会は指導者任せにしかならない。それなら安物の新興宗教と変わらないのである。

 血液製剤の権威の言うなりになった厚生省の役人を糾弾しておきながら、一方では支離滅裂な東大名誉教授には何の批判もできないマスコミというのは。やっていることに論理的整合性が欠落している。こうした支離滅裂な行動というものは、マスコミに限らず、日本に限らず、多くのヒトに見られる行動選択である。

 単に振り込め詐欺に引っ掛かった程度であっても、暴力団の資金源になってしまっているのであれば、それは暴力団に協力したのと結果的には同じことであり。個人の損失だけで収まる話ではない。

 多くのヒトが頭が悪いままでは社会全体の損失になるのである。騙したつもりになっている者であっても、結局は社会全体が疲弊すれば、程度の差はあれ、誰しもが将来負担被ることになるのである。

 行動責任の重さというのは、人によってまちまちである。原子炉の運転に関わる人と、町のパン屋では違って当然である。しかし、パン屋にはパン屋なりの責任というものはある。重大な責任を負う技術者だけが倫理的判断を求められるのではなく、人にはそれぞれの立場なりの行動選択責任というものがあるのだ。厚生省の役人には行動責任を求めておきながら、マスコミの方は無責任な世間的ウケ狙いに邁進して良い理由など存在しない。

 世間多数からの要望なり、視聴率や販売部数を稼ぐことだけが本当の意味における「社会からの要請。」ではない。たとえ多数からの批判をされても、社会にとって必要な事柄、行動というのは存在する。公益倫理的な自律判断を行ったからといって、それが必ずしも報われるとは限らない。それでも、社会全体にとって必要な行動であるならば、それは自律的に選択しなければならない。人は必ずいつか死ぬのである、死に臨して目先の利益に何の意味があろうか。心安らかに死に臨むためには、本当に社会全体にとって必要な、公益的な倫理判断というものを自律的に選択することというのは、結局自分自身の人生にとって最も大切な選択なのである。

 目先の利益を優先し、結果的に社会全体の損失になるような選択を行えば。それは自分自身の良心を傷付けることになり、最終的には自己嫌悪にさいなまされ、後ろめたい気分を抱えたまま死に臨むことになる。養老孟司はそれを「健康。」と言った。

 生物としては、それを「健康。」であるとしても構わないであろう。だが、人間の精神としては充分不健康である。生物種としての「ヒト。」として健康であるか、それとも「一人の人間。」として健康であるか、本来選択の余地など始めからない。

 逆に、自己選択とは無関係の事柄に対して観念的に責任を感じてしまう場合というのもある。これもまた、理論的な「考え。」が伴わないことから生じる気分的な条件反射によるものであり、こうした観念的な自己嫌悪というものは理論的に「考え。」ていれば回避できるものでもある。

 心理臨床における認知行動療法というものも、自己自身の観念的自己嫌悪というものの原因を理性的に意識することによって、それが単なる気分的な錯覚に由来するものである場合には効果を発揮することが出来るのである。

 それに対して、現在の哲学界における、自分の気分を優先するような話のほとんど全ては、観念を利用して自己満足のまどろみに誘うだけのオカルト宗教でしかないのである。

 文系の人間、或は文系的に理論的思考のできない生物学者達というのは、結果と目的を区別することを嫌い、あらゆる結果論だけに意義を求める非論理的な観念に執着する。社会生物学はもとより、進化論の基礎となる「生物の目的は、生存。」という観念が間違いであることに言及できれば、自ずと悪名高い優性学の間違いにも言及できるのである。

 生物、それ自体に目的などない。結果的に生存していたものを、我々が「生物。」と分類しただけのことであり。分類されたものに目的が存在しなければならない論理的根拠などない。

 目的とは、そもそも当人の認識可能な範囲内における行動整理の結果でなくては目的とは言うことができない。無意識に漫然と行った行動がどのような結果になろうとも、それは全て結果であって、目的とは言えないのである。

 目的とは、意識上において認識可能な知識に基づき、理性によって統合的に判断された行動選択の結果である。

 温室効果ガスの排出量を低減できなくても、おそらく今生きている人間にとっての損失にはならないであろう。ましてや先の短いジジイであれば、なをさらである。今まで温室効果ガスのことなど考えずに生活してきたからといって、漫然と温室効果ガスの削減に意識が働かないまま無意識に生活するというのは、そこに本質的意識が欠落しており、行動に影響を及ぼさないからである。

 認識可能でありながら、認識することを拒絶するのは。無意識的に刷り込まれた「学習。」行動のままに、全く意識が働かないからに他ならない。

 こうした無意識な行動しか促さない、単に既に存在しているだけの自己のことを私は、「既存在。」と呼び、それ以外の行動選択可能な意識的目的行動だけが、本質的な自己なのである。

 自分のあらゆる行動について、「なぜ、この選択を行っているのか。」を考える必要がある。無意識に漫然と行動選択していても、それが本質的な自己の選択ではない場合がある。むしろ、本質的な自己選択などしていない場合の方がほとんどであろう。

 こんなことを言うと、何をするにも自分の行動選択が信じられなくなって、自信喪失に陥り、何も出来なくなってしまう人もいるかも知れない。しかし、それは過剰反応である。一人の人間に出来ることなど、さしたるものではない。ほんの些細な行動選択であっても、より多くの人が行うことによって、社会の諸問題というのは解決可能にもなるのである。

 誰も読者個人に「世の中を救って下さい。」とは言っていないのである。自分を救世主か何かと勘違いするから、地下鉄に毒ガスを撒いたりすることになるのである。大人が一年間飲み続けても医学的には問題がない放射能汚染に過剰反応して、ペットボトルの水を買い占めするようなヒステリックな行動を採らない、そうした些細な行動選択の一つ一つによって、社会というのは良い方向に進むことができる。効率的で住みやすい社会にすることができるのである。

 一つ一つの行動選択に、もう少しだけ「配慮。」をして頂きたい。毎日コツコツと、地道に続けることが大切なのである。

 マスコミや、世間多数や、権威の言うことを鵜呑みにするのではなく。論理的に理解できないものは、「わかりません。」で構わない。科学的思考というのは、わからないことはハッキリと「わかりません。」と宣言する態度が必要である。

 論理的には理解できていないにも関わらず、「わかりません。」と明言することを恥ずかしいからといって、わかったような顔をしているから、本当は論理的には理解不可能な寝言を多くの人が理論だと思い込むことこそが、最も愚かなことであると認識すべきである。

 そもそも、「恥ずかしい。」という感情は、多数他人との比較によって導き出される感情であり。多数の人が陥っている間違いであれば、多くの人はそれを恥ずかしいとすら思うことはないのである。

 ヒトの大脳辺縁系というものは、原理的にそういうふうにできているものであることを、忘れるべきではない。

 「多くのヒトが思わないことであるならば、それは自分も思わなくても良いのではないか。」そう「思う。」かも知れない。この「思い。」の中には一切「考え。」が成立していないのである。もう一度読み返せばわかる。

 「思考。」という言葉には、「思い。」と「考え。」の両面がある。だが、本当に必要な「思い。」とは、理論的追求を行うための情熱としての「思い。」であって、固定観念としての勝手な「思い込み。」のことではない。それを勘違いしてはいけない。

 純粋理性とは、それ自体は人畜無害な論理性である。論理的な根拠に基づいて、その間違いが有害であると認識できた場合において、徹底した精密検証を行う情熱というもの自体は理性ではなく、情熱、感情である。しかし、思考の基となるものはあくまで理論的な精密検証性であって、アプリオリな思い込みに基づくものであってはならない。

 科学的「思考。」において主となるのは「考え。」でなければならず。これが逆転してしまうから科学ではなくなるのである。

 勝手な思い込みに対して、その事後正当化としての屁理屈をでっちあげればオカルトである。生物学における「生物の目的は、生存。」といったものも、こうしたオカルトの範疇に入るのである。単に生存だけを目的とするのであれば、ウイルス類やゴキブリでも充分目的を達することは可能であり。そこに公益倫理的な自律判断など、全く無意味である。

 生物進化における変異のほとんど全ては生存に適さない。それでもあらゆる変異によって、偶発的に環境に適応した個体が生ずることがある。その生存とはあくまで「結果。」論であって、個体の意思とは無関係である。にも関わらず生物学者達は、それを「生存戦略。」などと言い張る。どのような変異を生ずるのかすら、そこには何の意図も存在しないにも関わらず、それを「戦略。」などと言い張るのは、全くもってオカルトとしか言いようがない。

 学力が高いだけで、自律的には何も判断したがらない現在の生物学界の怠慢は。そもそも目的意識自体が無意識的な条件反射的なものでしかなかったからであろう。彼等にとって、生物学の進歩には興味がなく。ただ、漫然と従来の体制を維持することによって、自らの無能を隠蔽できれば満足なのである。

 こうした利己的な行動選択を行う人間が、人間としての価値を持ちうるのか、公費を用いて糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を作ることが、国立大学の役割であるのか。本来なら考えるまでもない話なのだが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない。」的に、漫然と実証不能の観念を唱え続けているのである。

 これは天下り役人の行動原理と同じで、自分達が今まで漫然と無批判に年功序列体制に服従し続けてきたことを、事後正当化するために体制維持に執着するのである。養老孟司が言う、「そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」とは、そういう意味である。養老の場合、医学部であったためにそれを大学では確立できなかった、だから文系の人間達を丸めこんで、あちこちの出版社に体制を作り出したのである。文系の人間なら理論的な理解など要らないからである。

 実に巧妙な言論統制システムの構築である。大学だけならこんなシステムは構築できなかったであろう。養老はそれで自分は頭が良いと思っているのである。

 養老が宮崎駿とか糸井重里といった文系の人間にばかり執着するのは、理論的に考えることのできる学者達では、自分の観念に丸め込むことができないことを知っているからである。

 ああ、なんだか「本質的自己とは何か。」についての話から逸脱してしまった。そもそも、そんなに話すこと自体はあんまりないので、単に理解できるかどうかは読者の問題であって、私がどんなに説明しても、理解するための「エサ。」があるわけでもなし。本当に自発的に知りたいと思うのであれば、わからない部分はコメントにでも書いてくれ。おそらく何も反応はないであろう、それならお前らバカなんだろうな。







乱文。

2011年04月05日 13時01分04秒 | 日記
 真夏の電力消費量は、一般家庭で15%程度抑えればなんとかなるらしい。

 でも、本当に暑い日の場合は、エアコンは全開で回していても冷房が追いつかない日というのがあるから、そうなると15%の節電というのはどうなるんだろう。

 エアコンの定格電力は、1200ワットから1500ワットぐらいだと思うのだが。その15%というと、180ワットから225ワット程度の節電が必要ということになる。

 この際、エアコンや冷蔵庫以外を全て消したとしても、200ワット削減というのは結構難しそうである。複数の部屋でエアコンを回しているのならば、一カ所に全員集まって稼動台数を削減することはできるかも知れないが、最初から一台しか稼動していない家庭の場合は削減の方法がなくなる。

 電力消費量の少ない夜間にアイスノンとか氷を作っておいて、日中首とかに当てておけば多少エアコンの温度設定を上げることも可能なのかと思うが、体を直接冷やすと結構後で体調を崩すことが多い。

 は!。200ワットっつうと、人力発電可能なワット数だった。だからどうしたって言われそうだが、数値的には不可能ではないってことではある。人力などの生体動力というのは非常に効率の良い動力装置であり、温室効果ガス削減にも、ヒートアイランド抑制にもなる。その上メタボリック対策にもなるなら、最高の選択じゃんか。あ、そうだ、デブに漕がせばいいんだ。(偏見。)いや、おいらも漕いでもいいけど、人力発電ってなんとかならんかな。

 モーターと発電機は構造が基本的には一緒。だから、使われていないモーター、発電機を片っ端から人力発電や風力発電用に改造すれば、面白いことになりそう。あ、待てよ、動力を電力に変換すると効率が悪いんだった。どのくらい悪いんだろう、30%低下するとすれば、140ワットってことか。

 風力の場合は風任せだけど、人力の場合はある程度は一定動力が確保できる。問題は発電のための装置の数を用意することだろうな。人力発電の場合、とにかく数がものを言う。どんなにたくさんの参加者を集められたとしても、発電機がなければ意味がない。

 うーん、でも、どうせ人力動力を使うんだったら、エアコンのコンプレッサーを直接駆動したいな。そうすれば損失は0になる。病院のエアコンの一部を人力にしておけば、自家発電の電力は生命維持装置とかに集中できるから、停電に対しても長時間耐えられるようになる。

 あ、家庭用100ボルトコンセントがついている自動車ってあったよね。あれは何ワットくらい使えるんだろう。

 とりとめがないって思ったでしょ。もちろん、この記事で結論なんか出す気なんかないからね。おいらの知識なんて限られている、でも限られた知識もそれぞれが持ち寄ることによって初めてまとめることができるようになる。

 多くの「普通の人。」っつうのは、「誰か、頭の良い人が全て考えてくれている。」とか勝手に思い込んでいて、自分のアイデアとか知識を一切出そうとしない。使える使えないに関しては専門家が判断すればいいのであって、そうでない人はとにかく出せるだけだしておくようにした方がいい。原子炉の専門家だけなら建設用機械が注水に使えるなんて気が付かないでしょ、それと一緒で、専門家っつうのは専門以外何にも知らないんだから、いろんな人が意見を出しても構わない。

 あ、そうだ、原子炉の取水口のひび割れから汚染された水がダダ漏れになってるのを止めるのに、下水とか汚水処理施設で問題となる「一番流れを阻害するゴミ。」の種類が使えるのではないだろうか。これは原子炉の技術者ではなくて、汚水処理の、それも理論家ではなくて実際の現場の人じゃないと知らないんじゃないかな。

 まあ、でも低濃度汚染水は垂れ流しが決まっているからどうでもいいのかな。



 マルエツなどのスーパーマーケットの場合、冷凍食品は日中封鎖するとかすれば結構な冷房制限が出来そうである。バリューローソンもね。

 15%か。多分、25%くらいを目標にしないと削減できないんだろうな。東京は暑いからな。熊谷とかもっと暑いんだそうだから、戦後育ちのエアコン嫌いな世代程熱中症で死ぬらしい。うちの爺さんもエアコンが嫌いだ。汗まみれになっているのが気持ちいいらしい。そのくせ水分採るのが嫌いなので、先日腎臓結石で大騒ぎになった。

 腎臓結石っつうのは、物凄い痛がるのでびっくりである。のたうち回るので何事が起きたのかと慌てて病院に担ぎ込んだら、「あ、こりゃ石だ。」と診断され、しもでふでふ、じゃなかった、東十条の病院に転送されていった。腎臓結石の場合、痛いだけで命には全く別状ないらしいので、人騒がせな病気である。数日したら、一度だけ血尿が出て、それきり痛みが消えたらしい。医者曰く、「出たね。」とのこと。見えない程小さい石だったらしい。





開発環境。

2011年04月04日 14時39分03秒 | 日記
 アンドロイドの開発環境が乗っかるのが、XPとIntelMacとUbuntuとかってLinuxなんだそうだ。

 東芝アンドロイドでできたら良いなって思ったけど、そうはいかないらしい。端末を買うときにUbuntuLinuxとどっちにしようか迷ったんだけど、何だかな。

 C++Builderって今あるのかと思って探したら、Bolandとは違う会社の製品になってた。Bolandの前にも確か別のメーカーだったと思うので、なんだかあちこち販売元が変わるんだな。ホビー向けのが¥18000とかだった。以前は¥6000くらいで買えた気がする。

 プログラミング言語っつうのはプラットフォームによってまちまちなので、一つの環境だけを学習しても、他の環境ではちんぷんかんぷんな場合が多い。C系とかJavaの場合はコードの中身は似たような文法らしいんだけど、コンポーネントっつうか提供されるクラスとかが違うと可搬性がなくって、古いプログラムコードが使えないことが多い。

 おいらはプログラミング自体にはあまり興味がないので、いろんな開発環境に対応するのが面倒臭い。画像処理がしたいだけなので、何かスタンダードなOSっていうのがあると良いなって思う。

 でも、Androidが普及した場合に、Android端末でも開発できた方が良いんじゃないかとか、素人的には思う。電子レンジにキーボード繋げてプログラミングとか。うひひ。

 やっぱテレビがAndroidで動いているのが一番最初なんじゃないかな。

 家電の全てがAndoroidで動くなんて話もあるけど、それって何か恐いような気がする。外出中に電子レンジが勝手に作動してみたり。真夏にヒーターガンガンかかってたり。お風呂のお湯があふれ返ってたり。現状でもトロイの木馬が問題になっていたりするのに、そんな危ないことできるのかな。

 ホームコンピューティングに関しては、ネットワークにつないでおくのは恐いな。情報出力は出来ても、入力動作は出来ない方が安心だと思うのはおいらだけかね。

 電子レンジもトースターもタイマーが付いているけど。ガスコンロだけはついていないので、数年に一回くらいの割合で、ヤカンの空焚きをしてしまうことがある。油ではないので何となく安心してしまうらしい。なんでガスコンロにはタイマーがついていないのだろう。

 最近はヤカンをガスコンロにかけたら、必ずタイマーのスイッチを押して持ち歩くようにしているので忘れることはなくなった。キッチンにカメラとかがついていて、火を使っているのに5分以上人が離れている場合に警告してくれるコンピュータとかあると良いなって思う。玄関のドアに鍵を刺しっ放しにしちゃうことも一度あった。こういうミスをしたときにコンピュータが「おいおい、危ないぞ。」っつって教えてくれると有り難いな。

 生体の脳ってのは、機械と違って「忘れる。」っつう機能が組み込まれている。機械と生体とは一長一短あるので、機械が得意なことは機械任せにした方が、生体の脳にとって楽な動作が可能になる。

 キーボードをタイピングしていても、何を書くのかに集中できるように、意識を繁雑なオーバーヘッドから解放すれば、もっといろいろな発見や発明も可能になるのかもね。

 もちろん、自発的研究テーマがあればの話で。それがないと余計な近所迷惑をしていないといられない人間も増えることになる。




ストロボ。

2011年04月04日 08時50分34秒 | 日記
 テレビの記者会見で、スチルカメラのストロボが鬱陶しい。目がおかしくなる。予め共同で照明器具を用意しとくとか、なんか方法があるだろうよ。

 動画撮影する時と時間ずらすとか。そもそも今のデジタル一眼レフって感度高いんだからビデオ用の照明でも充分撮れるんじゃないのかね。

 それとも、何か会見している人に嫌がらせのつもりでストロボ焚いているのかね。

 パカパカ、焚きまくりやがって。

 動画の方でもストロボの露出を抑制するような画像処理もできるんじゃないのかね。何の工夫もしないのかね。バカなのかね。

即時的。

2011年04月04日 00時06分11秒 | 意識論関連
 チンパンジーの利他行動に関する、京大や東大の研究者達は、自分達の観念に基づいた都合の良い結果だけを抽出して相互利他行動の立証だと言い張っている。

 「即時的には自分の利益にならない行動。」(*:注)をチンパンジーが採ったとしても、それが本質的な自律行動判断によるものであるとは限らない。なぜなら、シエラレオネのゲリラに置き換えても、同様の行動くらいは採れるはずであるからだ。だとしたら、それがゲリラの残虐性の反証になるとでも言うのか。

 生物学というのは、いわば進化論などにおける、「結果に対する事後追認的説明。」という平たく言えば、「結果に対する、こじつけ。」の思考形式から脱することができないらしい。

 チンパンジーが、「即時的には自分の利益にならない行動。」を採っている可能性はある。そこに異論はない。即時的には自分の利益にならなくても、後になって自分の利益になりそうなことを予測する程度の知能があっても構わない。だが、それが人間が行う公益倫理的な自律判断のような行動を説明することはできない。

 既に社会生物学の価値は存在しない。そのことは既にこいつらは理解しているはずである。
社会生物学には価値がないことに言及したのは私である。それに対する反論風味な「実証。」を挙げてきたのが山本真也や田中正之である。

 如何なる事後追認的説明を行っても、それらは全てこじつけなのである。そのことは動かしようのない理論的事実である。従来の生物学における事後こじつけパラダイムから脱することができないということ自体が、こいつらの頭の悪さを証明しているのである。

 それとも何か?、従来の生物学におけるあらゆる事後こじつけ的実証の全てを反証しなければ、自律的には判断できないバカしかいないから、無視していても安心だとでも思っているのであろうか。

 そうだとすれば、こいつらは生物学には自発的進歩の必要ない、固定観念だけを追認するだけのお役所仕事がしたいだけなのであり。要するに本質的自発性が全くない、漫然とした体制維持体質にどっぷり浸かっていたいだけの精神的に怠惰な人間に過ぎない。

 たとえ、どんなに体力的に努力していようとも、精神的には怠惰なのである。それは、あたかも命懸けで地下鉄に毒ガスを散布するカルト宗教の幹部と同じ精神構造なのである。

 ヒトであってもチンパンジーであっても、騙し合いは行われる。それは事実である。もはや動かしようのないものである。従って、限定的な利他行動などをどんなにたくさん抽出しても、そこから人間だけが行う公益倫理的な自律判断を「証明。」することはできない。

 本質的な人間としての社会性というものは、進化生物学的な事後追認的説明によって証明するものではなく。個人の意思、意識によって、自発的に行われるものであり。それはどんなにたくさんの行動結果を枚挙しても証明することは構造原理的に不可能である。

 これは、説明しないとわからんか。よっぽどバカなのか?。

 反論すらしてこないな。

 無視しとけば、どうにかなると思っているのかな。

 税金無駄遣いしているんだから、それ相応の説明責任っつうものがあるんだけどな。マスコミも文系なので論理的な理解ができなくて、しかも生物学界の誰も理解したがらないもんだから、ほったらかしで良いと思っているらしい。

*:注 京大の記事では「即時的には相手の利益にならない行動。」と書いてあった。これは「即時的には自分の利益にならない行動。」の書き間違いである。


順位。

2011年04月03日 14時19分08秒 | 日記
 ブログの機能としては、単に総アクセス数しかわからないんだけど、ブログタイトルでググってみると、具体的記事の上位3位までは表示されるので、どの記事が良く読まれているのかは一応わかる。

 やっぱりあんまり意識論関連の記事には興味がないらしく、「日記。」が上位を占めている。たまに分類が間違っていることもあったりするかも知れないので、読者が「どひゃー。」とか「うひゃー。」とか「あべしっ。」とか「ひでぶっ。」とか思っているかも知れない。

 ソネットブログと異なり、gooブログだと単一ブログしか許されないので、ややこしい話とバカ話が混在していて、雰囲気的に信憑性が欠けて、余計意識論関連の話は周知されないのかも知れない。雰囲気に流されている時点で理解できていないので、どうでもいいことではある。

 何だかYouTubeWidgetの記事にアクセスが集中している。東芝アンドロイドの機能について知りたがっている人が多いのかも知れない。

 東芝アンドロイドは、新型の3G以降でなくても、ネット上からアップデートすることでYouTubeも観賞に耐えられるようになる。アップデート自体は有料とは書いていなかったので、もしかすると新型が出る度に高性能化するのかも知れない。根本的に違うマシンになってしまうとダメかもしれないので、はっきりとは言えないが。

 他のマシンと比較したことはないので、果たして東芝アンドロイドの動画再生機能が高いのかどうかはわからないのだが、一応観賞には耐えられる。昔のキヤノンのノートパソコンとは異なり、音声にデジタル系ノイズも入らず、音楽も充分楽しめる。画面がそれなりに大きいのでスマートフォンよりは動画を楽しむには悪い選択ではないかも知れない。デジタルテレビへの出力はあるのだが、ブロックノイズとかは多少入るので、大画面テレビにつないでも、あまりきれいではないかも知れない。

 YouTubeWidgetという名前の「Widgit。」が何なのかがわからなくて見られているのかも知れない。私もよくわからないのだが、YouTube専用の再生アプリみたいのが初めから入っているような感じである。

 そうか、今流行りのアンドロイドアプリか何かと思って興味を引いているのかも知れない。YouTubeWidgetが東芝以外のスマートフォンで使えるのかどうかは全くわからない。でもスマートフォンはデフォルトで動画再生機能がついていないのかな。どうなんだろう。

 マシンも書いている奴もかなり特殊なので、あんまり多くの人が求める情報は書けないかも知れない。まあ、ネットなんてそんなもんだ。

 監獄実験とかアイヒマン実験はググると出てくるが、バーナル効果実験とかフィニアス:ゲイジに関する記事は出てこない。ネットというのは結構流行り廃りが激しいらしい。英語サイトにまで手を出せば出てくるのかも知れないが、英文は読めないので諦めている。そもそも綴りがわからないので、探すことすらできない。

 結構Wikipediaもスカスカで、欲しい情報は出てこないものである。私も記事を書いてみたいのだが、何せ一般的には認知されていない異端なので、あんまり公共性の高いページに書くのも気が引ける。一般認知が進んでからでも遅くはないと思うので、とりあえずはブログだけにしておこうとも思う。

 論理的判断ができないことに関しては結構気が小さくて、あまり踏み切れない。自分の感情など信用していないので、そういう結果になる。それが果たして「謙虚。」かと言われると、自分ではよくわからない。単なる臆病なのではないか。

 権威性に散々反論しておいて、臆病というのも不思議に見えるかも知れないが、理論というのは権威もすったくれもないので、気分的な臆病とかとは関係がない。

 そういうことです。でわまた。




哲学。

2011年04月03日 11時08分28秒 | 意識論関連
 哲学というと、学生の場合はカリキュラムに組まれているから仕方なしに教わるだけで、いろいろな哲学者と言われる人間の言っている内容を、ただ漫然と理解し、覚えるだけのものになってしまっている。

 基本的にバカ学生というのは、成績という抽象化された「エサ。」に対する機械手続き的条件反射として、無意識に、大して自発的意欲もなく、ただ与えられた課題として、試験で成績を獲得することにしか意識が働いていないまま、大量の情報を鵜呑みにするだけである。

 ある有名な哲学者と言われる人物の言葉があるとする。それが本当に理論的根拠を伴う結論としての言葉であるのか。それとも、単に実証不能の観念であるのか。まず、それが判別できていない。

 これに関しては、学生だけでなく、教師の方まで判別できていないことが非常に多いので、学問というよりは、現在の哲学は単なるオカルトと化している。

 こうしたオカルト化の要因として、一つは教育システムにおける学力偏重に起因する本質的自発性の欠如と。もう一つは哲学と分類されている内容の多くが気分的な満足を促すことによって思考停止に陥れる傾向がある。

 実証不能の観念を鵜呑みにする原因とは、読んだ者が気分的に「楽になる。」とか、「前向きになれる。」とか、「元気、勇気が出る。」といった。大脳辺縁系の条件反射に起因する思考停止、思考の過剰な「整理。」によるものである。

 思考の「整理。」というものは、行動や思考における目的意識の違いによって整理の方向が決定される。チンパンジーの瞬間記憶能力などに見られるように、最終的に「エサ。」が得られることだけを目的としている場合、その意識、意思、動機は極めて短絡的であるため、異常なまでの執着心によって、異常なまでの高速高機能を獲得することができる。

 チンパンジーの瞬間記憶テストをヒトの学生が行っても、チンパンジー程の短絡的な思考整理が働かないために、チンパンジーよりも低い能力しか獲得できない。

 「エサが欲しい。」というのも、ある種の自発性ではある。だが、ヒトが持つような、見返りの必要としない純粋な好奇心とは全く異なる自発性であり。これは予め組み込まれた本能的な自発性であって、本質的には自発性ではなく、単なる条件反射に過ぎない。

 純粋な好奇心というものは、本能的な条件反射とは全く異なる、いわば脳の余剰としての自発性であり。極めて主観的な個人的好みに由来する、個体としての生物生存には無駄な行動である。

 個体生存としては無駄な行動なのだが、個人的好奇心による科学知見の発展というのは、人類全体にとっては非常に有意義なものに発展する可能性を持っており。社会において重要なものである。

 しかし、こうした本質的自発性に由来する研究への意欲というものは、あくまで個人の主観的な好みに由来するものであって、特定の学力が高いだけの生徒に押し付けてどうにかなるようなものではない。

 「リベラルアーツ。」という言葉は、日本語に翻訳されると「一般教養大学。」となる。日本語の表記には「リベラル。」の意味が消えてしまっている。

 「リベラル。」という言葉には、「自由。」とか、「自発的好奇心。」といった意味があるはずなのだが。日本人の民族性として個人的な好みに由来する自発性を蔑ろにする傾向があるため、ただ「広く知ること。」という意味で「一般教養。」と訳されるのであろう。

 「広く知る。」ことの本来の意義とは、それによって拡がる認識によって促される、本質的な自発行為の自律的発見にあるのだが。日本においては漫然と広く薄く覚えるだけの雑学類に成り下がっている。

 どんなにテレビのクイズ番組で高得点を得られても、そこから従来とは異なる新しい発見や発明が導き出されることはない。むしろ、教わったことを漫然と覚えただけの「クイズ脳。」に「特化。」、すなはち過剰な「整理。」がされるだけであり。むしろ汎用性を失ってしまうことにもなるのである。

 広く薄く知っていることの方が汎用的であると、一般的には思うのかも知れないが。それは汎用性というよりは凡庸性でしかないのである。

 自発的な思考による、凡庸ではない考えにまで達するには、特定の凡庸な観念に由来する凡庸性に特化されてはならないのである。

 専門化による、知識上での汎用性とは異なり。思考上における汎用性がなければ、本質的知能発揮としての意味がないのである。

 学力成績という基準からは、こうした思考上の汎用性、思考の深度を測ることは原理的にできない。誰も思いつかなかった新しい発見であっても、その意味を測定者が理解できなければならず。予め測定者が新しい発見についての知見を持てるはずもなく。本質的な知能というものは原理的に測定することが出来ないものなのである。

 平たく言えば、バカの基準で天才を測ることはできないということである。「バカ。」が言い過ぎなら「凡人。」に置き換えても構わない。

 専門性による知識の偏りに由来する、他の分野に対する、或は一般的知識の欠如による「バカ。」さと、凡庸性に由来する「バカ。」さとは厳格に区別しなければならない。

 小柴昌俊が量子力学バカであることや、田中耕一が実験バカであることというのは。凡庸性に由来するバカとは全く異なるものなのである。別にノーベル賞受賞者に限ったことではなく、近所のパン屋が他の店とは異なる美味いパンを焼くということであっても、大変重要な知能なのである。あくまで「社会的な成功。」というのは「現社会における結果。」であり、それもまた本質的知能を測るための基準ではないのである。

 ヒトは理性だけでは息苦しくなる。そのために科学理論とは無関係な芸術に関わる「気晴らし。」も必要である。だが、これを混同しては絶対にならない。

 金子みすずの詩のUAによる朗読や、あーちゃんの動画配信で精神的に癒されるのは悪くはない。しかし、ニーチェのゾロアスター教を哲学であると勘違いするのは大間違いである。イスラム教典のような厳格な戒律とは異なり、ゾロアスター教などのオカルト新興宗教というのは読み手が勝手な解釈をこじつけることが可能であるため、宗教としてすら出来損ないなのである。

 私は宗教者ではないので、宗教を最終的な結論とすることはできない。だが、人間としての在り方として、マトモな宗教にはオカルト哲学には存在しない自律的な公益倫理性に言及していることに異論はなかろう。キリストの代用で超人だとか持ち出すとか、資本家が気に入らないからと労働者の代表に服従するなどというのは、その場しのぎの戯言でしかない。

 北朝鮮労働党総書記金正日は、学生時代に「マルクスは、なぜ民衆が封建社会に陥るのかを説明していない。」ことに気付いている。気付いていながらなぜ自分が封建制度の穴の底に陥っているのかは説明するつもりはないらない。

 「宗教は阿片である。」と論じた社会主義自体が、現実にはオカルト新興宗教に陥っている現実をみれば、安物の新興宗教をでっちあげることがどんなに危険であるかは、経験的にも我々は知っているはずである。

 ましてやゾロアスター教など論外である。一方的にゾロアスター教を正当化するような番組だけを放送しておいて、反論は無視するNHKの体制には呆れ返るばかりだ。NHKの編成や解説委員はバカの集団なのか。

 何か、腹立ってくると説明から離れて抗議にしか意識が働かん。頭を冷やして出直してくる。でわまた。







糞喰らえ。

2011年04月02日 22時34分22秒 | 日記
 アクセスIPが減少すると、やっぱり書いている「甲斐。」というものがなくなるので、気分的に面倒臭くなって、やさぐれてくる。

 何となくアクセスIPが減ってゆくと、世の中理解力のないバカしかいないのかと、どうしても思ってしまう。

 アクセスIPはあまり記事内容に関わらず増減するので、たまたま少ない時もあるのかも知れない。まあ、勝手に苛ついているだけなので、「アホかこいつ。」とか思っていて構わない。

 あんまり頭良いとも自分でも思わないので、そんなもんである。(どんなもんだよ。)

 感情が言動に影響しているとも言えるが。内容自体には影響していないのでどうでもいいかと思う。

 腹が立つのも、真面目に考えているからであり。テキトーに考えていれば腹も立たない。

 ただ、「考え。」が真面目なのと、「思い込み。」でヒステリーになっているのは違うので、その辺は違いが判りにくいかも知れない。

 あまりブログの体裁には意識が働いていおらず、gooブログのデフォルトの状態のまま書いているので、もしかすると読みにくいのかな。姪っ子の携帯で表示させる分には、文字数が多いと読むのが大変そうであるが、一応読むことに支障はなさそうである。

 そもそも、精神的に弱い人なら読むなと言っているのだから、閲覧数の増減を気にする必要はないのだが。まあ、生物種としての「ヒト。」であることに変わりはないので、多少影響もある。文章の体裁として冷静を装うのも、ある意味「嘘。」なのではないかとも思うので、ヒステリックな文体も、訂正せずにそのまま載せておくことにしている。

 間違いのない人間などいないのだから、間違えたのなら、それを踏まえて間違いを再発しないようにするための標本として、間違えたまま曝しておく方が良いのではないかとも思う。その意味においても、たとえ間違った内容の書籍であっても燃やすものではない。間違っているなら、その間違いを指摘すれば良いのであって。指摘するためにも間違いは遺しておくのが重要である。具体的に指摘できないから燃やすというヒステリックな行動に出るのであって、キリスト教徒というのは気に入らないとすぐに燃やしてごまかそうとする。その相手が地動説であろうと、イスラム教典であろうと見境がない。