生存や繁殖につながれば「進化。」と呼び、それ以外を「退化。」或は「進化の袋小路。」と呼ぶ。
生存や繁殖は全て結果論であって、それ自体は目的であることの証明などない。
身体の構造に限らず、行動習性であっても、それらは先天的、或は後天的に決定されるものである。
先天的であろうと、後天的であろうと。目的意識に基づいて選択された行動以外の全ては「目的。」であるとは言うことが出来ない。
イヌがどんなに高度な社会性を発揮しようとも、それは習性によって導き出された結果的行動であって。イヌ自身が目的意識に基づいて、本質的な自発的選択をしているわけではない。ヤクザとか、カルト宗教だとか、北朝鮮だとか、ナチス、ポルポト、挙げればキリがないが、生物学上での社会形成習性それ自体には、目的などないのである。偶発的に指導者が目的意識を持って、その社会を統率することができるとしても、あくまでその統率者個人の人格性、公益倫理的な自律判断によるものであり。結局重要なのは個人の資質であることに変わりはないのである。
優生学の危険性というものも、結局は生物学特有の「結果。」を「目的。」にこじつける論理性の欠落による曖昧さが原因なのである。
意識論では、結果は結果であって、遺伝的要因に関わらず、個人の目的意識次第が重要であることを論じている。
人間としての知能として、最も重要なのは公益倫理的な自律判断である。自律とは自発の中にあり、他にはない。そして、自発性とは意思と同義であり。意思とは個人の本質的選択の中にしかない。
特定の能力だけを抽出して、「あれも才能。これも才能。」とテキトーな大衆迎合をしていれば、大衆の脳は気分良くいられるであろう。どんなに特定能力に優れていても、人間としての公益倫理的な自律判断ができなければ、それは「人間としての知能。」でもなんでもないのである。
遺伝子解析からは、民族も国境も、そこからは抽出することはできない。従って科学的には民族浄化などという手法は存在し得ないのである。
たとえ虐待をされた人であっても、それを子供に連鎖しないようにすることが可能であり。それを行うのが当人の「意思。」であり、また「意識。」なのである。
本能の赴くままに、地動説を火炙りにしておけば多くのヒトは安心であろう。ヒトとはそういうものである。だが、ヒトは自らの意思によって人間としての行動を選択することも可能なのである。ただ漫然と論理性の欠落した生物学のパラダイムを鵜呑みにしておけば、多くの生物学者達は「安心。」であろうゾロアスター教に満足していれば、多くの文系哲学者達は安心して「前向きに生きる。」ことができるであろう。だが、それらは全て気分の問題でしかないのである。
気分的にどんなに「安心。」していても、「恐くない。」としても。それが論理的根拠を持たない観念である限り、理論的には「安全。」ではないのである。
「安全。」というものは科学的、工学理論的に追求するものであって、観念的に気分の赴くままに流されておけば確立されるようなものではない。世間では安全と安心をむやみにセット販売したがるが。気分的に安心しているから危険性が増すという事例は極めて多い。恐いと思うからこそ安全性への意識は働くのである。
失敗学や危険学なども、あくまで過去の悲惨な事例を真正面から捉えることから始まるのであり。引きちぎられた航空機の機体の破片を見て、その恐ろしさ、怖さを知ることから安全性というものは確立されるものなのである。
自らの意識の低さ、愚かさを認識して初めて自己自身の安全性というものは確立される。多くのヒトは、特に文系のヒトは気分的に荒むとしてこれを忌避したがる。こいつらは生物種としての「ヒト。」ではあっても、意識が働かない限り「人間。」とは言えない。
アスペクト盲などの盲目性も、既に存在している自分を正当化していないと気分的に嫌であるために、「意識から外す。無視する。」ことによって現実逃避をすることから生じるのである。
自分は責任を負う選択をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは卑怯者でしかない。それを多くのヒトは「謙虚。」とすりかえ、自己正当化をしたがる。それは「卑屈。」であって「謙虚。」ではない。
進化というのは、もはや遺伝的進化には意味がない。突然変異の結果自体に当人の「意識。」的選択は存在し得ないからである。発達障害、学習障害と呼ばれる人であっても、それは単に社会から疎外してしまうという構造的な結果論に過ぎない可能性も十分にある。当人の意思、自発性を無視した現在の学力偏重教育そのものからの脱構築を行わないと、本当の「才能。」を社会が潰している可能性は充分にありうる。
逆に言えば、カルト宗教だの占いだのスピリチュアルだのといったペテンに多くの「普通のヒト。」が引っ掛かるのは、現在の教育システム自体に根本的欠陥があるからに他ならない。バカを大量生産しておいて、一体何が「教育。」であろう。
私が論じる教育とは、別に奇異なものではなく。ノーベル賞受賞者達が論ずるような、本質的な自発性を重んじる教育をすべきであると言っているだけである。目先の学力だの成績に目を奪われ、本質的な自発性や、それに伴う自律判断を無視した大衆の基準を棄てて。深い考えに基づいた本当の天才達の言葉に耳を傾けろと言っているだけである。
それによって社会全体の持続可能性を得ることが出来れば、本当の意味での目的意識的選択による社会の進化となるのである。どこに「進む。」のかもわからずに、「進化。」もすったくれもあったものではない。
ナチスやオウムのように「進化の袋小路。」に陥ってしまうことを回避するには、個人が目的意識を持って行動選択することが大前提である。ただ漫然と体制に迎合していれば、気分的には安心かも知れないが、それは安全ではないのである。
生存や繁殖は全て結果論であって、それ自体は目的であることの証明などない。
身体の構造に限らず、行動習性であっても、それらは先天的、或は後天的に決定されるものである。
先天的であろうと、後天的であろうと。目的意識に基づいて選択された行動以外の全ては「目的。」であるとは言うことが出来ない。
イヌがどんなに高度な社会性を発揮しようとも、それは習性によって導き出された結果的行動であって。イヌ自身が目的意識に基づいて、本質的な自発的選択をしているわけではない。ヤクザとか、カルト宗教だとか、北朝鮮だとか、ナチス、ポルポト、挙げればキリがないが、生物学上での社会形成習性それ自体には、目的などないのである。偶発的に指導者が目的意識を持って、その社会を統率することができるとしても、あくまでその統率者個人の人格性、公益倫理的な自律判断によるものであり。結局重要なのは個人の資質であることに変わりはないのである。
優生学の危険性というものも、結局は生物学特有の「結果。」を「目的。」にこじつける論理性の欠落による曖昧さが原因なのである。
意識論では、結果は結果であって、遺伝的要因に関わらず、個人の目的意識次第が重要であることを論じている。
人間としての知能として、最も重要なのは公益倫理的な自律判断である。自律とは自発の中にあり、他にはない。そして、自発性とは意思と同義であり。意思とは個人の本質的選択の中にしかない。
特定の能力だけを抽出して、「あれも才能。これも才能。」とテキトーな大衆迎合をしていれば、大衆の脳は気分良くいられるであろう。どんなに特定能力に優れていても、人間としての公益倫理的な自律判断ができなければ、それは「人間としての知能。」でもなんでもないのである。
遺伝子解析からは、民族も国境も、そこからは抽出することはできない。従って科学的には民族浄化などという手法は存在し得ないのである。
たとえ虐待をされた人であっても、それを子供に連鎖しないようにすることが可能であり。それを行うのが当人の「意思。」であり、また「意識。」なのである。
本能の赴くままに、地動説を火炙りにしておけば多くのヒトは安心であろう。ヒトとはそういうものである。だが、ヒトは自らの意思によって人間としての行動を選択することも可能なのである。ただ漫然と論理性の欠落した生物学のパラダイムを鵜呑みにしておけば、多くの生物学者達は「安心。」であろうゾロアスター教に満足していれば、多くの文系哲学者達は安心して「前向きに生きる。」ことができるであろう。だが、それらは全て気分の問題でしかないのである。
気分的にどんなに「安心。」していても、「恐くない。」としても。それが論理的根拠を持たない観念である限り、理論的には「安全。」ではないのである。
「安全。」というものは科学的、工学理論的に追求するものであって、観念的に気分の赴くままに流されておけば確立されるようなものではない。世間では安全と安心をむやみにセット販売したがるが。気分的に安心しているから危険性が増すという事例は極めて多い。恐いと思うからこそ安全性への意識は働くのである。
失敗学や危険学なども、あくまで過去の悲惨な事例を真正面から捉えることから始まるのであり。引きちぎられた航空機の機体の破片を見て、その恐ろしさ、怖さを知ることから安全性というものは確立されるものなのである。
自らの意識の低さ、愚かさを認識して初めて自己自身の安全性というものは確立される。多くのヒトは、特に文系のヒトは気分的に荒むとしてこれを忌避したがる。こいつらは生物種としての「ヒト。」ではあっても、意識が働かない限り「人間。」とは言えない。
アスペクト盲などの盲目性も、既に存在している自分を正当化していないと気分的に嫌であるために、「意識から外す。無視する。」ことによって現実逃避をすることから生じるのである。
自分は責任を負う選択をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは卑怯者でしかない。それを多くのヒトは「謙虚。」とすりかえ、自己正当化をしたがる。それは「卑屈。」であって「謙虚。」ではない。
進化というのは、もはや遺伝的進化には意味がない。突然変異の結果自体に当人の「意識。」的選択は存在し得ないからである。発達障害、学習障害と呼ばれる人であっても、それは単に社会から疎外してしまうという構造的な結果論に過ぎない可能性も十分にある。当人の意思、自発性を無視した現在の学力偏重教育そのものからの脱構築を行わないと、本当の「才能。」を社会が潰している可能性は充分にありうる。
逆に言えば、カルト宗教だの占いだのスピリチュアルだのといったペテンに多くの「普通のヒト。」が引っ掛かるのは、現在の教育システム自体に根本的欠陥があるからに他ならない。バカを大量生産しておいて、一体何が「教育。」であろう。
私が論じる教育とは、別に奇異なものではなく。ノーベル賞受賞者達が論ずるような、本質的な自発性を重んじる教育をすべきであると言っているだけである。目先の学力だの成績に目を奪われ、本質的な自発性や、それに伴う自律判断を無視した大衆の基準を棄てて。深い考えに基づいた本当の天才達の言葉に耳を傾けろと言っているだけである。
それによって社会全体の持続可能性を得ることが出来れば、本当の意味での目的意識的選択による社会の進化となるのである。どこに「進む。」のかもわからずに、「進化。」もすったくれもあったものではない。
ナチスやオウムのように「進化の袋小路。」に陥ってしまうことを回避するには、個人が目的意識を持って行動選択することが大前提である。ただ漫然と体制に迎合していれば、気分的には安心かも知れないが、それは安全ではないのである。