カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第二バチカン公会議 4-3、聖母マリアに関する草案

2017-01-09 23:32:26 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

4-3、聖母マリアに関する草案

 元来、聖母マリアに関する草案(De Beata Maria Virgine, Matre Dei et Matre hominum)は独立した文書だった。オッタヴィアーニ枢機卿はこれを独立した決議文として成立させようとしていた。

 しかし、1963年、第2会期が始まる前、フルダ会議で、カール・ラーナーは「エキュメニカルな観点から見て、悪い結果をもたらす」ので「分裂の原因となることを避ける平和的な妥協」を求めていた。ラッツィンガー、グリルマイアー、ゼンメルロートも同様であった。

 9月30日、第2会期が始まるやいなや、フリンクス枢機卿は、マリアに関する草案を「過度なマリア信心」と批判し、教会論の一部として短縮し編入すべきという意見を出した。 10月2日、シルバ枢機卿もマリア論を教会論の一部とするべきと主張した。 10月3日、デ・アリッバ枢機卿は、60人の司教の名前で、マリア論を独立した草案とすべきだと要求し、約600人の司教の陳情書が提出された。 10月24日、サントス枢機卿は、独立した聖母草案を求める代表として審議報告を行い、他方でケーニヒ枢機卿は編入を求める代表として報告を行った。 10月27日、グロティ司教は、エキュメニズムとは、真理を宣言することなのか、隠すことなのか?と問うた。

 10月29日、独立草案か編入かを問う投票で、賛成 1114 対 反対 1074 で、教会論への編入を要望する意見がわずかの差で多数を占めた。


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第二バチカン公会議  4、第2会期(Sessio Secunda 1963年9月29日 - 12月4日)

2017-01-09 23:31:25 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

4、第2会期(Sessio Secunda 1963年9月29日 - 12月4日)

 9月29日の第2会期(Sessio Secunda)の初頭、新教皇パウロ6世は議題が多すぎて収拾がつかなかった第1会期の結果を踏まえて、公会議の優先議題を明示した。それは以下の四つである。

教会論の確立と司教団の役割の検討
教会の刷新・現代化
エキュメニズムの推進
カトリック教会と現代世界の対話

 第2会期においては、司教権あるいは司教団の性格、教会における聖母マリアの地位が、保守派と進歩派との論争点となった[37]。

 さまざまな議題について議論はつきなかったが、この会期の中で『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium) と『広報機関に関する教令』の二つが一応の成立を見たことで、このまま議論だけで終わるのではないかという参加者自身の不安が取り除かれた。

 1963年9月30日、教会論の草案をめぐって討論が開始した。

4-1、司教団について

 第2会期の間、「教会について」神学委員会が準備した草案が廃案となった後、新しい第2次草案が激しく討論された。

 10月4日 - 10月16日、教会の最高教導機関としての司教団 ordo episcoporum, collegium episcoporum を認めるか否かが討論されて、127人の教父が発言した。教父たちは、3つの派に分かれた。

ローマ系の聖伝派:彼らによれば、教皇だけが、神授の権利により、全世界の教会の唯一の頭であり、教皇のみが最高権威の充満を完全に持つ。ペトロは、キリストの代理者(教皇)だからこそ、使徒団の頭である。司教団は、公会議という例外において、固有の行動を行使するのみ。司教団という、全教会に対する神授の最高権威は無い。
ラディカル・リベラル派:彼らによれば、司教たちが一つの団体を構成し、教皇は司教団体の意見を参照して始めて決断を下すことが出来る。
穏健なリベラル派:彼らによれば、司教たちは一つの団体を構成し、頭である教皇に従い、教皇は、司教団体とは独立して、個人的な権能を行使することができる。ペトロは司教団の頭だからこそ、キリストの代理者である。神授の権利により、教会は恒常的に公会議状態である。教会は、教皇と、教皇と共にある司教団という二つの頭を持つ。

 この問題の討議は、意見が明確に対立したまま打ち切られ、次の議題に移された。

 1963年10月16日 - 10月24日、信徒についての草案が討論された。

4-2、司教団についての試験的投票

 10月14日、運営委員会のスーネンス枢機卿は、司教団の問題に関して4点についての試験的投票を10月17日に行うと発表した。しかしフェリチ事務総長、議長団、調整委員会の保守派はそのような票決に反対した。このような投票を運営委員会が行うことは、調整委員会に対する越権行為であると考えられていた。反対のために10月17日の投票は行われなかった。

 10月29日、運営委員会は、投票の問題点を4つではなく次の5点として発表し、翌日に投票が実施された。

司教聖別の秘蹟性
司教の団体性
教会の最高教導機関としての司教団
司教の神的起源
恒久的聖職身分としての助祭

 10月30日、試験的投票の結果、5点のいずれも3分の2以上の大多数を得た。 11月5日、「司教と司教区行政について」の草案が討議された。 11月6日、マクシモス・ザイグ大主教は司教評議会の設立案を支持した。 オッタヴィアーニ枢機卿とブラウン枢機卿は、10月30日の試験的投票は神学委員会を拘束する力がない、司教団に関する教えも確立されていないと反論した。 ルフェーブル大司教は「奇蹟によったかのように、この公会議でそのような原則を見つけだしたとしたら、公会議教父たちの一人がそうほとんど断言したように、論理的に言って、ローマ教会は、天主が創立した自分の構造に関する基本原則を何も知らずに間違いつづけてきたと断定しなければならないこととなる」と論じた。

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第二バチカン公会議 3-8、調整委員会

2017-01-09 23:18:45 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

3-8、調整委員会

 12月5日、ヨハネ23世は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの(ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言)、世界的に意味があるもの(ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言)という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。

 第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、ヨハネ23世は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案[34]はすべてが否決されて捨て去られることになった。

 1963年6月3日、会期終了後、次の会期に向けて草案(シェーマ)の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていたヨハネ23世は会議の終結を見ることなくこの世を去った。

 1963年6月21日、ヨハネ23世のあとを受けてパウロ6世が選出された、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。

1963年8月26日 - 8月29日、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた(フルダ会議 Fulda Conference)。

3-9、4名の運営委員 moderatores 設置

1963年9月12日付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、新任教皇パウロ6世は、次のことを定めた。

4人の運営委員 moderatores の設定、
公会議の議長団の拡大(構成員を 10人から 12人に増加)とその職務を公会議運営手続上の問題のみに限定、
非キリスト教者との対話のための事務局の設置、
広報委員会の設置、傍聴者としての一般信徒代表の公会議への参加、
非カトリックのオブサーバーの増加、

などであった。

 指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。

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