第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。
(解説)第二バチカン公会議
3-8、調整委員会
12月5日、ヨハネ23世は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの(ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言)、世界的に意味があるもの(ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言)という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。
第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、ヨハネ23世は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案[34]はすべてが否決されて捨て去られることになった。
1963年6月3日、会期終了後、次の会期に向けて草案(シェーマ)の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていたヨハネ23世は会議の終結を見ることなくこの世を去った。
1963年6月21日、ヨハネ23世のあとを受けてパウロ6世が選出された、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。
1963年8月26日 - 8月29日、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた(フルダ会議 Fulda Conference)。
3-9、4名の運営委員 moderatores 設置
1963年9月12日付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、新任教皇パウロ6世は、次のことを定めた。
4人の運営委員 moderatores の設定、
公会議の議長団の拡大(構成員を 10人から 12人に増加)とその職務を公会議運営手続上の問題のみに限定、
非キリスト教者との対話のための事務局の設置、
広報委員会の設置、傍聴者としての一般信徒代表の公会議への参加、
非カトリックのオブサーバーの増加、
などであった。
指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。
http://fsspxjapan.fc2web.com/qa/qa3.html
(解説)第二バチカン公会議
3-8、調整委員会
12月5日、ヨハネ23世は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの(ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言)、世界的に意味があるもの(ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言)という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。
第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、ヨハネ23世は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案[34]はすべてが否決されて捨て去られることになった。
1963年6月3日、会期終了後、次の会期に向けて草案(シェーマ)の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていたヨハネ23世は会議の終結を見ることなくこの世を去った。
1963年6月21日、ヨハネ23世のあとを受けてパウロ6世が選出された、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。
1963年8月26日 - 8月29日、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた(フルダ会議 Fulda Conference)。
3-9、4名の運営委員 moderatores 設置
1963年9月12日付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、新任教皇パウロ6世は、次のことを定めた。
4人の運営委員 moderatores の設定、
公会議の議長団の拡大(構成員を 10人から 12人に増加)とその職務を公会議運営手続上の問題のみに限定、
非キリスト教者との対話のための事務局の設置、
広報委員会の設置、傍聴者としての一般信徒代表の公会議への参加、
非カトリックのオブサーバーの増加、
などであった。
指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。
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