カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第二バチカン公会議 5-3、現代世界における教会について

2017-01-10 00:47:06 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

5-3、現代世界における教会について

1964年9月30日、リベラル派の起草した「現代世界における教会について」の草案に追加が現れた。

1964年10月20日の上程予定日に、「現代世界における教会について」の草案(草案第13と呼ばれた)検討が上程されなかった。

1964年10月20日 - 11月10日、現代世界における教会についての教令が討論された。超自然の要素がないと批判されたが、差し戻しにはならなかった。これが後に「現代世界憲章」となる。

5-4、その他の議論

1964年11月10日 - 11月12日、修道生活についての草案が討論された。
1964年11月12日 - 11月17日、司祭養成についての草案が討論され、指針に還元された。
1964年11月17日 - 11月19日、キリスト教教育についての草案が討論され、指針に還元された。


第二バチカン公会議  5、第3会期(Sessio Tertia 1964年9月14日 - 11月21日)

2017-01-10 00:45:46 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

5、第3会期(Sessio Tertia 1964年9月14日 - 11月21日)

 翌年おこなわれた第3会期では信徒のオブザーバーたちもが招聘されて、多くのシェーマが精力的に検討された。特に教皇の首位権に関する第1バチカン公会議の決議を尊重しつつ、司教団の団体性指導原理を強調するという方法に関しての議論が白熱した。会期がすすんでもなかなか教令が形にならないことで参加者たちもあせり始めたが、最終的に『東方カトリック諸教会に関する教令』、『エキュメニズムに関する教令』 、『教会憲章』(Lumen Gentium)が成立させることができた。『司祭の役務と生活に関する教令』などのシェーマはいまだに不十分であるとして差し戻された。


5-1、司教団体主義

 1964年9月15日、第3会期開会の最初、スタッファ大司教は、公会議の議会則第6節、第57条に基づき、70人の教父たちを代表して発言許可を求めた。しかしその願いは拒否された。

 9月21日から9月29日まで、本文は一句節ずつ表決に付された。最終的には、1624票の賛成と、572票の条件付き賛成(placet juxta modum)、42票の反対となった。

 1964年11月7日、スタッファ大司教はパウロ6世に手紙を書いて、司教団体主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとする手続上の妨害(9月15日に発言許可が与えられなかったこと)を告発した(スタッファ作戦 Operation Staffa)。

 その間に、35人の枢機卿と大修道会の5人の総長らは、パウロ6世に10月18日付きのメモを書き、革新的な教えに関する彼らの「憂慮」を表明し、草案が曖昧で多義性を持ち、公会議後に極めてリベラルな意味に解釈される危険性があると指摘し、また考察のための休憩時間と、熟考の期間を要請した。

 パウロ6世は草案の多義性が持つ危険性があると信じることが出来ず、何も行動を取らなかったが、スタッファ枢機卿と同調する神学者たちの名前を列挙することを求めた。スタッファが3人の名前を挙げるとパウロ6世が高く評価する人々であり彼はうろたえた。しかし、何の手も打たなかった。その時、極端にリベラルな教父が曖昧な文章は公会議後にどのように解釈されるかを文章にした。この書面がパウロ6世に提出され、自分が欺されたと気づき涙を流した。

 そこでパウロ6世は国務長官に命じて、オッタヴィアーニ枢機卿に司教団体主義に関する草案の諸点の表現をもっと正確に述べるように求めた。これが「予備解説的注釈」 (Nota explicativa praevia) である。

 1964年11月14日、予備解説的注釈が教父らに示された。この注釈が草案に含まれている内容の意味を変えるか変えないかで議論が起こった。

 1964年11月16日第123回総会で、リベラルな教父たちが「暗黒の一週間 (Black Week)」と呼ぶ週が始まった。11月16日の告知で、公会議事務総長ペリクレ・フェリチ (Pericle Felici) 大司教は、論争を終らせるために「『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威[47]によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない」と発表があり、この注釈は『教会憲章』の一部となった。

5-2、その他の討論

1964年9月30日 - 10月6日、啓示についての草案が討論された。フラニッチ司教は草案は間違いではないが聖伝の充満性について大きな欠陥があると指摘した。デフナー枢機卿は78人のドイツ語圏司教らを代表して、啓示が全て聖書の中に含まれているか否かという難しい問題に触れずにうまく隠してあると賞賛した。
1964年10月7日 - 10月13日、信徒使徒職についての草案が討論された。
1964年10月13日 - 10月15日、司祭職についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元され、差し戻された。
1964年10月15日 - 10月20日、東方教会についての教令が討論された。
1964年11月6日 - 11月9日、宣教についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元された。指針は破棄され、草案が再準備された。

http://fsspxjapan.fc2web.com/qa/qa3.html

第二バチカン公会議 4-4、委員会の新委員

2017-01-10 00:44:06 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

4-4、委員会の新委員

 1963年11月21日、パウロ6世は、委員会の25名を30名に拡大すると決定した。

 1963年11月28日、5人の増員の選挙が行われ、5人とも世界同盟(進歩派のヨーロッパ同盟の拡大版)の進歩派から選ばれた。「この拡大によって司教団の意見がよりよく会議の草案に反映されるようになった。」

4-5、その他の議論

1963年11月22日、「典礼について」の草案の最終票決が行われ、1963年12月4日、「典礼について」の草案(Sacrosanctum Concilium)が公布された。

1963年11月14日 - 11月25日、「マスコミについて」の草案に関する討論が行われ、1963年11月25日、「マスコミについて」の草案の最終票決が行われた。最終的に1963年12月4日、「マスコミについて」の草案(Inter Mirifica)が公布された。

1963年11月18日 - 11月27日、「エキュメニズムついて」の草案に関する討論が行われた。1963年11月19日 - 12月2日、信経の自由についてのテキスト(「エキュメニズムついて」の草案の第5章)に関する討論が行われた。


4-6、請願書

 1963年12月3日、第2会期閉会の前日、213人の教父の署名がある「マルクス主義、社会主義、共産主義を論駁する」特別草案を要求する請願書が提出された。

1964年2月3日、教皇が公会議教父らと共に、ロシアと世界を聖母の汚れ無き御心に奉献することを求める嘆願書に、510人の高位聖職者たちが署名してパウロ6世に提出された。パウロ6世は、1965年 1月これを拒絶した。


4-7、休会中の動き

1964年初頭、パウロ6世は、コンスタンチノープルの総大主教アテナゴラス1世を訪問する。

1964年5月11日 - 5月22日、インスブルックでヨーロッパ同盟派の司教たちが会合を持った。

1964年1月15日、調整委員会の会合で、進歩派のデフナー枢機卿は、リベラル派にとって重要な問題のみを取り上げ、重要性の少ない細かい問題については、「指針」propositiones という形で簡単にまとめ、公会議のスピードをアップさせることを提案し採決された(デフナー計画 Dopfner plan)。