カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

比叡山宗教サミットについて

2017-06-07 17:47:52 | エキュメニズム
比叡山宗教サミットについて

 

2002年8月6日、今日は、私たちの主イエズス・キリストの御変容の祝日ですね。

この日、私たちの主は、ご自分がまことの天主であることを弟子たちの前で見せました。

「彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マテオ17:2)

今日、天主御父は私たちの主イエズス・キリストがご自分の子であることを証言します。

「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)

「私たちは主イエズス・キリストの力と来臨を知らせた時、巧みな作り話をしなかった。私たちはその天主の威光の目撃者であったからである。厳かな光栄の中から「これは私の愛する子である。私は彼を喜びとする」と声があって、主は父なる天主から誉れと光栄を受けられた。私たちも主と共に聖なる山にいた時、天から下るこの声を聞いた。」(2ペトロ1:16-18))

この日、私たちの主は、イエズス・キリストを信じ、洗礼を受け、天主の養子となった私たちが将来どのような栄光の姿に変わるかということをも教えたのです。

「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救世主イエズス・キリストを待っている。キリストは万物を支配下におく力によって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリピ3:20-21)

「私たちは、・・・主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄をますその同じ姿に変わる。」(2コリント3:18)

「後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示される時、私たちは天主に似たものになることを知っている。」(1ヨハネ3:2)

永遠の栄光の生命においてキリストに似たものとなるためには、生きているうちからキリストに似たものでなければなりません。私たちの主イエズス・キリストを信じなければなりません。

何故なら、永遠の復活後の新しい天と地、「天主は人の目の涙を全てぬぐわれ、死ももう無く、悲しみも叫びも苦労もなくなる」(黙示録21:4)「聖なる町、新しいエルサレム」は、「天主の栄光がそれを照らし、子羊がその灯り」(黙示録21:23)となるからです。子羊とはすなわち天主の子羊である私たちの主イエズス・キリストです。

私たちがこの世で罪を避けて平和に生活し、来世の永遠の福楽を得るためには、必ず私たちの主イエズス・キリストを知らなければなりません。

「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きて私を信じるものは永久に死なぬ。」(ヨハネ11:25)

「永遠の命とは、唯一の真の天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17:3)

イエズス・キリストはいいます。

「私はまもなく各自の行いに従って報いを持ってくる。私はアルファでありオメガであり、最初のものであり最後のものであり、始めであり終わりである。犬、魔術を使うもの、淫行者、殺害者、偶像礼拝者、偽りを好んで行うものはみな外にいる。」(黙示録22:12-15)

真理の天主、聖三位一体を礼拝しないものは、偶像崇拝者であり、天の遺産を相続することが出来ないのです。

「小さな子らよ、偶像を警戒せよ。」(1ヨハネ5:21)

天主御父の声はこう言います。

「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)

天主御父は、私たちの主イエズス・キリストを喜びとし、それ以外の偽りの神々を憎みます。

天主御父は、イエズス・キリストの教えを聞くように私たちに命じています。

私たちの主イエズス・キリストはいいます。

「私がいないとあなた達には何一つできぬ。」(ヨハネ15:5)

「私は一人ではなくて、父と共にまします。私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。」(ヨハネ16:32-33)

「まことにまことに私は言う。あなたたちが父に求めることは何でも、私の名によって与えられる。」(ヨハネ16:23)

私たちは世界の平和を切なく希求します。私たちは、イエズス・キリストの聖名によってのみこれを得ることが出来ると知っています。

「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, dona nobis pacem!

世の罪を除き給う天主の子羊よ、我らに平和を与え給え!」

なぜイエズス・キリストに求めるかというと、私たちが、私たちの主イエズス・キリスト抜きに、イエズス・キリストを無視して、真の世界平和を得ることは全く無理なことだからです。

私たちは、真理において、真の天主である私たちの主イエズス・キリストにおいて、その愛において全世界が一つとならなければなりません。イエズス・キリストの聖名によって世界の平和を求めなければなりません。

以上のことを考えると、イエズス・キリストを真の天主であると公式に認めない「比叡山宗教サミット」「世界平和祈りの集い」(天台宗国際平和宗教協力協会など主催)は、「天主から出たものではない・・・反キリストの霊である」(1ヨハネ4:3)と言わなければなりません。ですから、私たちには明らかに言うことが出来ます。「1987年に比叡山で開催した宗教サミットの精神」は、その目指すものは素晴らしいものですが、反キリストの精神であり、真の世界平和を実現させることは出来ない、と。

真の平和は、私たちの主イエズス・キリストの十字架のいけにえによって得られます。真のミサ聖祭によって得られます。それが私たちのカトリック信仰であります。

私たちカトリック信者にとっては、「比叡山宗教サミット」は全く関係のないものです。

私たちは聖パウロと共にこう言います。

「私たちの平和はキリストである。」(エフェゾ2:14)

 

 

主の御変容の歌

トマス小野田圭志

 

キリストを 求めるものは

より高く

まなざしを上げ、天を見つめよ。

とこしえの、主の栄光を

仰ぎ見よ、

万民の王、約束の主を。

シナイにて 十戒受けし

モイゼ来て

立法者なる主を指し示す。

またエリア、預言者たちが

告げ知らす

約束の主を 明らかにせり。

万民の 裁きの主と

空中で

生者と死者が 語りあいたり。

おん聖父は、声を響かせ

御弟子らに

「これわが愛子、これに聞けよ」と。

人の子は 真の姿を

証したり

御弟子らのため 受難の前に。

日の如く 光り輝く

主の御顔

御ころもこそは 白き雪なり。

栄光の 聖父の輝き

無限なる

燃えいずる愛 永遠の知慧。

「善きことぞ、ここに我らが

集うこと、

3つの幕屋を 作らんとせん。」

光の主 我らのこころ

照らしだし、

罪の闇から 連れ出し給え。

幸いな 御身を受けし

靈魂よ、

主の甘美さに 充ち満たされて。

いつの日か 腐りゆくこの

我が身をも

光る体と 主は変え給う。

とこしえの 天地の王を

礼拝す。

その御栄えは 世々限りなく。

アーメン

2002年灌仏会(花祭り)によせて

2017-06-07 17:45:59 | エキュメニズム
聖ピオ10世教皇が今、この世界を見たら・・・

 

教皇庁諸宗教対話評議会

議長 フランシス・アリンゼ枢機卿

2002年灌仏会(花祭り)によせて


親愛なる仏教徒の皆さん

 今年も灌仏会にあたって、教皇庁諸宗教対話評議会を代表し心からのお祝いを申しあげます。世界中の仏教徒の皆さんが喜びに満ちた素晴らしい祝日を迎えることが出来るようお祈りいたしております。

 今このお祝いの言葉を述べながらも去年の9月11日に起こったあの衝撃的な出来事を思い出さずにはいられません。あの時以来世界中の人々が未来に関して新たな恐れを抱いています。このような恐れの最中にあって、未来に向けてより平和な世界の実現のため、希望をはぐくみ、そしてこの希望に基づく文化を築き上げるのは、善意あるあらゆる人々と共にキリスト教徒、仏教徒としてのわたしたちの義務ではないでしょうか。

 今日、わたしたちは高度に発展した技術社会に生きています。この事実は、人間的価値観促進に関して様々な問題を提起します。このことについて皆さんと一緒に考えてみたいと思います。受胎の最初の瞬間から自然死に至るまでの各自の生命に対する権利は、人間的価値の中で疑いもなく最も重要なものの一つです。しかしながら、この生命に対する権利が、高度に進歩した技術に操作されると言う深刻なパラドックスともなっていると考えるべきです。このようなパラドックスは「死の文化」を作り出すまでになっています。そこでは、中絶や安楽死、または生命そのものに関する技術的実験行為が、あるところではすでに、また他のところではこれから法的にも認可されるだろうという事態にまで発展しています。何のとがもない無防備な生命や回復の希望のない病に犯された生命を死に追いやるような「死の文化」と何千という罪なき人々を虐殺するというあの9月11日のテロリズムとの間に何らかの相関関係を見出すことが出来るのではないでしょうか。双方とも人間の生命についての概念に起因するものです。

 仏教の教えや伝統は、ありとあらゆるもの、たとえ何の意味もないように見えるものをも尊重しています。何の価値もないようにみなされるものに対してもこれほどの配慮を示すのであれば、わたしたちキリスト者が、神ご自身の似姿として創造されたと信じる人間に対してはどれほどの尊敬を抱くことでしょう。人間の尊厳とその権利は、確かに近年カトリック信者たちが関心を示す最も重要な問題です。生命の権利が、自然死に至るまで完全に保護され、かつ、人間の尊厳に相応しい具体的な生き方が出来るための必要条件が、すべて整えられるような「生命の文化」をカトリック信者と仏教徒は、共に手を携えて築き上げるべきです。これこそ「死の文化」を阻止し打ち破るための方策だと思います。

人間の生命に対する尊敬は、社会的な現実となる以前に人々の心の中にこそはぐくまれるものだというのが、わたしたちの共通の確信です。ここでわたしは、おそらく、自分たち自身が目の当たりにしたあの悲劇的な出来事に躓き、最もその心を痛めている若者たちに特別な注意を向けてみたいと思います。生命の尊重に向けての若者たちの教育は今日最も急を要する事柄の一つです。青少年たちの間で確固たる倫理的確信や生命の文化が何よりも価値をもつようにするために、若者たちの教育についてわたしたちはそれぞれの宗教団体を通じて分かち合いをすることが出来るでしょう。社会全体の中に生命の文化と倫理がなによりも大切にされるようになって、はじめて生命尊重の原理が社会の中にも法制度にも根づくのを期待することが出来るのです。

親愛なる仏教徒の皆さん、これが今年皆さんと分かち合いたかった思いです。すべての人々にとってより平和で幸福な世界をもたらすだろうとの希望をもって、共に未来に目を向けましょう。灌仏会おめでとうございます。


2002年4月8日  バチカンにて、

教皇庁諸宗教対話評議会

議長 フランシス・アリンゼ枢機卿

カトリック中央協議会訳

http://www.cbcj.catholic.jp/doc/romadoc/02hana.htm






フランスの大司教および司教たちに宛てた

シヨン運動に関する教皇聖ピオ10世の回勅

『私の使徒的責務』(1910年)

尊敬すべき兄弟たちへ

私の使徒的責務により、私は信仰の純粋さとカトリックの規律を完璧に維持するために目を配らねばなりません。この責務はまた、私が信徒を悪と誤謬から守ることを求めますが、それは特に悪および誤謬が魅惑的な言葉で提示される場合にとりわけ必要となります。なぜなら、こういった言葉遣いは、熱情的な感情と響きの良い言葉使いとで、あいまいな概念やどうにでも取れる表現を包みかくし、一見魅力的ですが、しかし実際は不幸な結果をもたらすことになることを追求させようと人々の心を燃え立たせるのが常だからです。

(・・・)さらに奇妙であり、同時に懸念と悲しみとを呼び起こさずにはおかないのは、カトリックと自称し、上で述べたような条件で社会の再編を図る者たちの大胆不敵かつ軽薄さです。彼らはカトリック教会の枠を越え出たところで、あらゆる所からの労働者と共に、たとえこれらの労働者たちがどんな宗教を奉じていてもあるいは一切奉じていなくても、たとえ信仰を持っていようともいなくとも、自分たちを互いに隔て分けてしまう宗教的および哲学的信念といったものを放棄し、反対に「その源を問わず広い心に根ざした理想主義と道徳的力」という互いに一致させるものを共有する限りにおいて、これら労働者たちと共に「愛と正義の支配」を地上に打ち立てることを夢見ています。

しかるに私たちがキリスト教国家を築くために必要とされた力、知識、超自然的徳を考えてみるとき、また何百万という殉教者の苦難、教会の教父ならびに博士たちの光、愛徳の英雄たちの献身、天から生まれた強固な位階秩序、天主の聖寵の大河、天主の知恵であり人となった御言葉、イエズス・キリストの命と精神によって建てられ、固められ、染み渡った全てを思うとき、そうです、これら全てを思うとき、新しい使徒たちが、あいまいな理想論と市民道徳を共通項に持って、カトリック教会がかつてしてきたことよりももっと良い業ができると夢中になっているのも見てぞっと震えます。彼らは一体、何を生み出そうとしているのでしょうか。かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。・・・私はさらに悪い事態が生じはしないかと恐れます。あらゆる信条・主張の混合から最終的に生ずるもの、また、この世界市民的な社会活動から利益を被るのは、・・・カトリック教会よりも普遍的な宗教(なぜならシヨン主義とはシヨンの指導者らが述べるところによれば一つの宗教なのですから)であり、ついに兄弟、同志となった全ての人々を「天主の御国」において一つにまとめる別の宗教です。彼らは言います。「我々は教会のためにではなく、人類のために働く」と。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も無く、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、「自由」と「人間の尊厳」との名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配する状態と、弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうだけでしょう。・・・

私たちの救い主の真の福音であると彼らが誤って信じた新しい福音へと彼らは運び去られてしまいました。・・・また必要なただ一つのことは、真の意味で社会の復興のために働く人たちの助けを借りて、フランス革命がうち砕いた過去の諸々の機構を再び採用し、それらを生み出したのと同じキリスト教的精神において、現代社会の物質的発展に由来する新たな環境にそれらを適合させることです。事実、人民の真の友は革命家でも革新派でもなく、伝統主義者なのです。」

1910年8月25日 ピオ10世教皇

革命の歴史:イエズスのみ国か、狂気の国か

2017-06-07 17:37:04 | エキュメニズム
革命の歴史:イエズスのみ国か、狂気の国か

革命の中に潜む、傲慢と肉欲の2つの根

オウム教とロシア

オウム真理教のテロ事件は、私たちに、イエズスを知らない人達の作る世界を目の前に見せてくれたようです。そしてこのテロ事件は化学兵器がこの世界に存在することを、実証してくれました。

皆さん思い出して下さい。1980年ソ連がアフガニスタンを侵略したときのことを。ニュースによれば、彼らは化学兵器戦争の先頭部隊を使って、慎重にしかし確実に残酷な実験をアフガニスタンのいくつもの村々でしていた、とのことです。

では“モスクワの手”が日本のオウム真理教にも伸びたのでしょうか? それとも、オウム真理教が、ロシアの安全管理の無さと無秩序とを利用したのでしょうか? 一体どうやって? 私たちにはまだオウム教の全貌が分かっていなく、捜査の段階です。 はっきりとはまだわかりません。

化学兵器はどうやって入手したか

まず、1992年には、オウム教のロシアの支部が作られ、既に15000人の信者がいたそうです。

1994年の1月、日本で交響楽団を作るためにロシアの優秀な音楽家達約百名ほどをスカウトするため、と言う口実である使節をロシアに派遣しているのです。そして彼らはロシアで《買い物》をし、オウム真理教の科学者たちは自分の研究を完成させようとするのです。1995年1月には、彼らは大量に日本に渡って来ます。楽器に交じって、試薬品、サンプル、化学薬品、実験器具が運び込まれたのでしょうか?? そうかも知れません。

こんな事を書くと、小説を読んでいるかのように思われるかも知れません。しかし、あの年の新春のあの信じられないような悲劇は、どうやって起こり得たのでしょうか。実は科学空想小説地味た現実が、あの悲劇を生んでいるのです。

ロシアでは1990年に250キロのウラニウムが誰かによって盗まれています! 250キロのウラニウムです!化学兵器が盗まれたり、あるいは買われたりされないとどうして言い切れるのでしょうか。実に、Oleg Lobowという安全保障理事会の責任者が、オウム真理教と過去3年間深い交わりがあったばかりか、1992年には巨額の金額を受け取っていたことが判っています。

ロシアの秘密計画

1987年には既に「新しい技術上の進歩によって核兵器の全廃さえも目指し得る」とオガルコフOgarkov元帥のチームの作戦係ルシェフ(Louchev)大将が『国家軍事歴史誌』6号に書いています。

当時、ソビエトの秘密計画“Biopreparat”(ビオプレパラート)という暗号の元に、秘密裏に進められた計画があったのです。そして複数の科学者たちはその成功のために勲章をもらっているのです。

この秘密計画については西側の秘密情報部は1988年から知ることが出来ました。何故なら、まず1人、次に3人の離脱者がこの計画について漏らしたからです。

1991年1992年には、複数のロシアの学者がビオプレララート作戦は、ロシアにとって、世界にとって危険であることを警告しています。ですから、オウム教の麻原がこのことに傾きかけるのはその頃ではないでしょうか。

しかし科学者たちの警告にもかかわらず、ロシアでは化学兵器は絶え間無く増大して行きました。

1974年には既にブレジネフは化学細菌兵器の研究開発のために莫大の金を予算に計上していました。それ以来、今に至るまで、サリン、ソマン、タブン、マスタード・ガス系の毒薬、が絶えず作られているのです。

それから9年後の1983年には、以前のように200~300人の秘密化学者だけがではもはやなく、12の研究所、5つの工場で、1万5千人の人が働いているのです。ゴルバチョフはその時既にその秘密計画を知っていました。そして2年後の1985年には権力の座に着くのです。

ゴルバチョフの秘密作戦

ゴルバチョフは1991年までこの計画について西側に否定し、しらを切っているのです。しかし、1990年10月、北大西洋条約機構(NATOナトー)の元に、次の2つを実証する文章を東ドイツにおいて奪い取るのです。

モスクワは1980年から1983年にかけて西ヨーロッパに対して電撃戦争作戦を準備していたこと。

“Xデー”(計画実行の秘密の日のことです)がくると、東ドイツの特別部隊が第1戦闘部隊として前線に立ち、サリンなどの毒ガスを使って西洋を攻撃することになっていたこと。

サリンの他にもソマン、PS(クロロピクリン)、CG、AC(シアン水素)、VX、VR、などがあり、これらは瞬時のうちに人を殺すのだそうです。(東京の地下鉄で使われていたのは専門家によるとサリンではないそうです。なぜかというと、本当のサリンは無臭で目にもしみないそうだからです。そして、皮膚や呼吸器官から浸透して、筋肉をマヒさせ、数分で人を殺すそうです。そして跡形もなく分解してしまうのだそうです。)

細菌兵器の一つの「ボルティヌム」80グラム(たったの80グラム!)を空中に散らすと2キロメーター四方の空気を吸った人は全員死んでしまうそうです。これを80グラム作るのに1万~2万ドルあればよいのだそうです。

そして、イラン、イラク、北韓(朝鮮民主主義人民共和国のことを、韓国の私の敬愛する人々と共に、私はここで北韓[ほっかん]と呼びます。)などはオウムと同じくこれらの猛毒ガスを手にしています。そしてそれを飛ばすミサイル設備、飛行機、ヘリコプターなども十分にあります。(以上はMonde et Vie No580, 6 avril 1995、 14, rue Edmond Valentin, F-75007 Paris.の、P. de Villemarest氏の記事を参考にしました。)

狂気の世界へ

麻原のように、金と権力に飢えた男は自分の目的達成のためなら何でもするでしょう。金日成や金正成、スターリンやサダムフセインなどきっと麻原と同じタイプの男なのでしょう。

麻原はこうして自分の説を証明するためにか、世の終わりを作ろうとしていたかのようです。少なくも日本の終わり、日本民族絶滅さえも考えていたとしか思われません。ちょうど、共産主義者らが互いに「粛正」をしあって何千万人の「同胞」を殺し合ったように。また、金日成がスターリンの許可を得て、自分の目的遂行のために、たとえ同じ民族が戦い血を流し合うことになったとしても朝鮮戦争を起こしたように。

真の天主を信じない人は、金と血と権力に飢え、何でもするでしょう。天国も地獄も信じない人々はこの世の自分の利益追求のためなら、何でもするでしょう。

麻原は「宗教には幾分かの狂気がある」と言っていたそうですが、真の天主イエズス・キリストを信じないことにこそ、狂気があります。真の天主の創立したカトリック教会を信じないことに、狂気があります。

しかし、誰がロシアに第2の麻原がいないと言い切れるでしょうか。誰がロシアの化学細菌兵器は将来永久に使われることがないと言えるでしょうか。誰がロシアは国際テログループや狂気の集団に化学細菌兵器を秘密に手渡していると言えないでしょうか。

2つの国

サタンは始めから嘘つきで嘘の父、人殺しでした。(ヨハネ8:44-45)この世の中はますます福音の真理と正義から離れて行きます。人々は使徒から伝えられた教えを打ち捨て、新しい耳に快い教えに聞き惚れています。

天主のみ国はさらに遠ざかり、人間中心の世界を作ろうとしています。そして、人間中心であるかのように見えたその国は実はサタンの国、狂気の国であることに人類は気が付くことになるでしょう。

聖アウグスティヌスは、「De Civitate Dei神の国」という本の中で、2つの愛が2つの国を作ったこと、天主への愛が、自分をも軽んじる天主への愛が天主のみ国を作り、自己愛が、天主をも軽んじ軽蔑する自己愛が悪魔の国を作ったことを書いているのではないでしょうか。

レオ13世は、インモルターレ・デイ(Immortale Dei)という回勅の中で、中世ヨーロッパのキリスト教世界こそ、そんじょそこらにある秩序ではなく、人間の唯一の本当の秩序(Ordo)、キリスト教文明であると宣言しています。「福音の哲学が国家を統治していた時代がかつてあった。…」と。

信仰は「目に見えるもの、耳に聞こえるもの、感覚に感じることのできるもの」を通して目に見えないもの、感覚されることのない天主を信じることです。ad invisibilia per visibilia!

しかしピオ12世がいみじくもおっしゃったように、「異教的な人間中心主義(humanism)、自由放埒主義、18世紀の啓蒙主義、19世紀のイデア論と実証主義からくるゆるやかな長い霊的風化・分解」(1941年4月20日)によって、現代世界は全く非キリスト教化しています。カトリック教会の敵の仕業は「ここ最近数世紀にわたり、キリストの神秘的組織の一致の知的・道徳的・社会的風化を実現させようと試みました。それはまず、聖寵無き自然を求め、…キリストにはイエス!教会にはノー!と言うのです。次に、天主にはイエス!キリストにはノー!、そして最後には「神は死んだ!」との不敬虔な叫びを口から吐くのです。」

背教の世界

 そうです。現在この地上に、本当のキリスト教国家は一つもないのです。

この世はますます天主から、キリストから、その花嫁であるローマカトリック教会の教えからますます離れて、アダムとエワが、傲慢と肉欲によって最初の罪を犯したように、今も全人類は傲慢と肉欲に膨れ上がっているのです。

それでは、この世界の非キリスト教化がどのように進んだかを、そしてこれからどのように進んで行くかを簡単な図を書いてみましょう。ただし、ここで注意していただきたいのは、これは今までいかに反キリストの勢力が力を伸ばしてきたかを描くものであって、これは歴史の必然とか、運命であるとかと思わないでください。

私はこの反天主の歴史について、Giulio-maria TAM神父様の書かれた、「Notes sur la Revolution dans l’Eglise ─── Les conditions de la vraie restauration et l’importance des exercices de Saint Ignace, Ed FIDELITERを参考に致しました。

13世紀:キリスト教世界= 現実主義+天主+イエズス・キリスト+カトリック教会+熱心な超自然の生活

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14~15世紀:人間中心主義革命= 現実主義+天主+イエズス・キリスト+カトリック教会-熱心 = 非超自然主義・自然享楽主義

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1517年 :プロテスタント革命>

現実主義+天主+イエズス・キリスト-カトリック教会 = 背教:宗教の自由

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1789年 :自由主義革命 = 現実主義+天主-イエズス・キリスト = 還俗主義:世俗主義:非神聖化

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1917年 :共産主義革命 = 現実主義-天主 = 無神論

 ↓

   ?  第4革命 - 現実主義 =狂気

人間中心主義革命とは、ルネッサンスのころ人間が天主への従属という甘美なくびきを打ち捨てようとすることです。まず、超自然的な熱心、超自然の生活を捨て始めるのです。人間の生活は、苦しみ・イエズスと苦しみにおいて一致することにあるのではなく、この世の生活を気楽に面白おかしく楽しんで暮らせ、という異教的な考えがはびこるのです。そして、この人生快楽思想のなかにその後のすべての革命の芽があります。そうです、共産主義革命と、サタン崇拝の社会化に至るまですべての革命の芽が、です。

この革命の中には傲慢と肉欲の2つの根があります。

傲慢とは、平等主義のことで、天主様に対して人間の自立を謳い、人間はすべての中心であると叫び、誤謬と悪徳、悪習にたいする黙認の精神がはびこるのです。それは過去の権威に対する軽蔑と、独立の裏返しなのです。

肉欲とは、自由主義のことで、宗教・霊的事柄・痛悔・苦行に対する軽蔑、犠牲の心の欠如、自然の高揚、黙認への賛美の傾向です。

1517年のプロテスタント革命は、カトリック教会からの独立を目指したものでした。聖母はこの世に、聖イグナチオを通して霊操という薬をお与えになりました。この薬は、革命の嵐がますます強くなればなるほど、私たちにとってますます必要になってくるでしょう。この宗教の自由、良心の誤った自由に関する要求は、1648年、ウエストファリアの条約によって、社会的な地位を得てしまうのです。プロテスタント革命の中にも傲慢と肉欲との2つの根があります。

傲慢とは、平等主義のことで、教皇様の権威を公的に拒否することです。聖書のみ!と叫びつつ天主の立てた権威の前にひざを屈めるのではなく、自分勝手な意見の前にひざを屈めるのです。

肉欲とは、聖職者の独身制度の廃止、離婚の導入に現れています。

1789年の「フランス大革命」と呼ばれている、自由主義革命とは、王の王であるイエズス・キリストを廃位させたことです。イエズス・キリストの天主としての権利は、この革命のときに剥奪されました。その根はやはり2つあります。

第1は傲慢で、平等主義の原理を確立させました。教義に関する平等主義は、淫祠邪教の教えもイエズスキリストの教えも同じレベルで扱えと言います。それは真理の相対主義を生み出すのです。つまり、ピラトの言ったように、真理なんて何差!真理なんかあるか!と言うのです。教会は社会生活において今まで教授していたさまざまな特権を失ってしまい、政府は真理をもはや保護しなくなるのです。政治的には、すべての主権は人民から来る!という神話を作り、聖パウロの教えを拒否するのです。そして貴族制の廃止。すべては低俗に低級になって行くのです。

第2の根は肉欲で、自由主義の原理が確立されました。自分の情念が要求するものは、淫らなものであれ、卑しくあれ、低俗であれ、主張し公に実行する権利を認めるのです。

1917年の共産主義革命とは、1789年に市民生活のうえで確立された平等主義と、1848年政治上確立された平等主義を、経済的にも確立させようという運動です。この革命にもやはり2つの根があります。

まず第1の根は傲慢で、最後の不平等を破壊させようとしました。つまり、経済的平等を打ち立てようとするのです。更に、人間生活のすべての外見を平等にさせようとするのです。制服、人民服、住居、アパート、行動様式、思考様式、意見、意志、すべてを企画統制し、同じくしようとするのです。

第2は肉欲で、憎しみです。嫉妬と羨望は、すべての不平等を平等にさせようとします。富めるものへの憎しみは自由をさえも廃止させます。

第4革命

では、第4革命とは何でしょうか。それはもし、天主様がこのままそれを阻止されないとしたら、この世が1517・1789・1917年に続いて打ち立てるものです。この革命は人間中心主義革命の論理的結論なのです。それは私達の生きている現実を否定するものです。

この革命では、政治的には、世界共和国、世界連邦が確立され、唯一の政府が全人類を支配するでしょう。そのときには、恐らく、唯一の言語、唯一の貨幣を作りだし、(カトリック教会とは全く関係のない)世界統一宗教を生み出すでしょう。その根もやはり2つでしょう。

まず、傲慢。自分勝手と自分の欲望の赴くままをしたい、というかんがえです。それぞれのペルソナ(人格)は最高主体だ!とし[なんだか、金日成の話を聞いているようではないですか]、一人一人が王となるのです。それは無秩序を生み、無政府状態を作りだし、各自が好き放題をするでしょう。密教や魔術が大はやりとなるでしょう。人々はサタンを礼拝しだすでしょう。

ロック・ミュージックの歌手やグループを見て下さい。彼らのほとんどは大手を振ってサタンを信じています。現代の超能力、テレパシー、などのオカルトブーム、ニュー・エイジ運動を見てください。これについて、沢田昭夫教授の『革新的保守主義のすすめ』の「呪術師たちの饗宴」も参考になります。アメリカでは90年代の最大の犯罪はサタン信仰関係の犯罪だと言われるそうです。またイギリスでも40万から10万の魔女、悪魔京都、魔術師がいるというそうです。私もロンドンで真っ黒の服に包まれた一人の気持ち悪い魔女を見たことがあります。

そして肉欲。自由恋愛、結婚生活への不忠実。

婚前交渉容認、一夫多妻性容認[エスニック文化の権利を守れ!複合文化だ!自由万歳!という地獄からの声が聞こえて来ませんか。]堕胎、離婚。

安楽死、麻薬の合法化。[マルクスは、宗教は人民のアヘンだと言いましたが、私たちはアヘンは若者の宗教だ、と言わなければならなくなるでしょう!]

男も女もないとしてホモ、レスビアンなどの同性愛が流行り、合法化されるでしょう。最近開かれた国連のカイロ会議の決議を見てください!快楽は人間の権利だ!と言っているではないですか。「我快楽す、ゆえに我あり!」と。

人間の生命は天主から与えられた賜物、恵み、偉大なる神秘なのですが、もはや天主から与えられた生命を、天主への言及なしに、天主への関係なしに、人間だけの勝手気ままに取り扱うでしょう。性的退廃は社会のすみずみにまで、更に小さな子供にまでも広がるでしょう。知性と意志による人間の情念の管理という教育が全く軽視されるでしょう。子供は動物のように肉欲のままに従って生きるように育てられるでしょう。 この社会では人は成聖の状態においていることが出来ない、罪の社会秩序が出来ることでしょう。

岩下壮一神父様の予言

「まさか! 何をたわけたことを書いているのか。」とおっしゃる声が聞こえます。岩下壮一神父様の書かれた「カトリックの信仰」(講談社学術文庫)第6章を見て下さい。そこに、「現代文明と禁断の果実」と言う題のもとに「意識的に神から離れた泰西の近代文明は、如実にエデンの園の活劇を繰り返したものにすぎぬ」事が書かれています。

「キリスト教の信仰に背いた現代人は、人間は神のごとくなるべきだという」のです。ウェルズは「人道主義の理想」つまり、「人間中心主義」「人間主上主義」が理想とするところを小説に描いています。

「そこには、かつて“野蛮人共”が「結婚」とよんだ桎梏は、もはや存在しない。…優生学は人類の難病や望ましからぬ多くの部分[つまり身体障害者、遺伝病に悩む人、“望まれない子どのたち”、老人、社会にとって“無駄な”人]を淘汰しつくした[つまり堕胎し、安楽死させ、殺し、抹殺しつくした]。オリュンポスの神々のごとく典型的の肉体美を有する男女は[そこではそのような優生学上“健全な”人々しか生きる権利が無い]、裸体で[人間の快楽万歳!]この天空海闊の理想郷を闊歩しつつ自由恋愛を楽しむ[そこでは天主の創造の業への協力が、自分の快楽と満足のひたすらなる追求になり下がり、愛の実りであるはずの子供達は、あるいは自分の満足のための邪魔物、あるいは自分のおもちゃでしか無くなる]。」

そうです。服も無き、結婚も無き、この未開の野蛮な世界こそ、真の天主から離れる現代人の行く末なのです。天主を離れたこれら野獣同様の人間たちは、野獣同様の自分たちの「人権」「自由」「尊厳」を声高らかに宣言するでしょう。そして、ついには彼らは、こう言い出すでしょう。

「野生の動物にも生きる権利を認めろ!野鳥を守れ!野獣の生存権とその尊厳を守れ!森林を破壊するな!人間はこの野獣に席を譲れ!我らも野獣だ!動物を殺すな!植物を摘むな!木を切るな!野獣のための野獣による野獣の世界を作れ!」と。

 このような人たちは、人間のする人工的な産児制限、避妊薬、フリーセックスという罪には何も抗議しませんが、自然破壊こそが大罪であって、「地球を大切にする」事こそが第一と考えるでしょう。

誤った神学の論理的結末

どうぞ、ある誤った論理、思想、ある誤った“神学”がそのまま香部屋でじっとしていると思わないで下さい。神学における誤謬は町角に出ると流血事件となるのです。

カトリック信仰が中世にカトリック文化を生み、カトリック社会を作り、カトリック文明を築き上げたように、人間中心の考えは人間中心の文化を作り人間中心の社会を作ります。

プロテスタントの教えも、プロテスタント文化とプロテスタント社会を作ります。社会主義の教えも社会主義の文化と社会主義の国家を造ります。もちろんサタン崇拝の人々はサタン崇拝の“文化”を築き、サタン崇拝の社会を作ろうとします。論理上の誤りが人々に広められると、社会上どれほどの惨事をもたらすことになるか、例を挙げて見ます。

ルワンダの例

例えば、中央アフリカ、ルワンダで昨年起こった大虐殺、50万人の虐殺された事件の裏にも、誤った“神学”があったのです。カトリックの聖伝による教えは、天主はさまざまの違った人々をいろいろに作られたこと、例えば、指導者にふさわしい人、被指導者にふさわしい人びと、あることに長けているある才能ももった人、などなどをいろいろ作られること、そしてすべての人々は人種的特徴、才能をいかし、それをほかの人々のために使い、お互いに補い合って調和ある社会を作り上げることを教えています。

聖ピオ10世は、1903年12月18日に、モートゥー・プロプリオ(自発書簡)によって次のように教えておられます。

1.人間社会は、天主によって確立されたものとして、等しからざる要素から成る。それらの要素を等しくしようとすることは不可能であり、初回にとって崩壊の元である。

2.社会のさまざまの成員の間における平等はただ単に次の事実にのみにある。すなわち、全ての人間は天主によって作られ、キリストによって贖われ、彼らの功徳、あるいは悪事により、それ相応に正義に基づいて天主によって裁かれ、報いを受けあるいは罰せられなければならない。

3.したがって、社会の中に統治者と臣民が存在し、雇用者と労働者が存在し、教育を受けたものと教育を受けなかったものが存在し、上流階級と下級階級が存在し、彼らが全て愛の絆によって結ばれ、互いに助け合い、彼らの究極の目的である天国に到達することと、この地上における物質的道徳的福祉を得ることを達成することは、天主によって確立された秩序にかなっている。

しかし、ルワンダではこのカトリックの常識が、平等主義と民主主義の近代主義によって打ち捨てられ、悲惨な結果をもたらしたのでした。

ルワンダの歴史

ルワンダでは白人が1894年に来る前には、800年にわたってトゥチという少数部族が大多数の農耕民族であったフトゥ族を平和的に支配していたのです。なぜならトゥチ族は天賦的に支配の能力をもち、彼らはこの才能を乱用するほど愚かではなかったからです。ベルギーの宣教師たちがルワンダにやって来て本当の宗教を教えるのですが、両部族のこの自然な秩序は全くきれいに保たれたままでした。トゥチ族もフトゥ族もともに同じ言葉を話し、1933年には共に両部族の国は、トゥチの王ムタラ3世によって王たるキリストに奉献され、共に長い祝賀会を開くのです。しかし、両大戦間に少しずつ近代主義が浸透し始めるのです。《人は神だ。キリストではなく、人こそが王だ。一人一人だれにでも投票権がある!》1939年から1945年の『民主主義の十字軍』の名前によって、“神聖にして犯すべからず”とされた民主主義のために、白人たちは多くの血を世界中で流しました。近代主義者の聖職者やリーダーたちは、フトゥ族に、少数派のトゥチが統治するという“非民主的”な状況を変えるために立ち上がれと教えるのです。最初のトゥチ族の流血は1963年でした。そして1973年以後続いてトゥチとフトゥとの間で両者の多くの血が流され、昨年の(そして、必ずしも“最後の”、とは言えない!)50万にの大虐殺が起こっているのです。(これについては、Fideliter誌1995年のある号に、Bonterre神父様が記事を書いておられます。)

北韓の例

「でも、第四革命ですか?」と、おっしゃるかも知れません。

最近ちくま新書の『朝鮮民族を読み解く─北と南に共通するもの』(古田博司著)を読みました。その第2章には、著者が北韓へ行かれたことの報告があります。

著者、古田氏は、“「局所局所に巨大建築物がバベルの塔ごとく天空をあざむき、そそり立っている」平壌”の近郊にある主体科学院での「討論」会で、北韓の国家の指導理念である「主体思想」を聞かれました。彼は、それを4点にまとめています。そしてその4点目が、「主体思想は、神ではなく、人間を信ずる宗教である。」としています。そして「この第4点目ゆえに、世界基督教統一神霊協会の教祖文鮮明師[あの『反共思想』で有名な!]は1991年11月に北朝鮮入りし、金日成首領と握手をかわすことができた」(060頁)そうです。[沢田教授も指摘するように、赤(共産主義)と緑(まじない)は結合するのです。ちょうどスイカのように緑も切ってみれば中は赤なのです。]

つまり、北韓では、第4革命が達成されようとしています。天主の無き人間を礼拝する宗教が、北韓の国家宗教なのです。そしてそれは世界統一宗教の計画と一致しているのです。「結局マルクス主義は社会主義制度が成った後には、革命をどのように継続し、社会主義、共産主義社会をどのように建設するかという問題については、正しい回答を与えることはできなかった」(金正日)そうなので、「主体思想がマルクス主義の延長上に無いことを示した」(061頁)そうです。

しかし、具体的にどうやって革命を継続させるかにおいて、主体思想はマルクスの考えていたような革命の継続では無いかも知れませんが、天主の無い社会建設・人間を神と崇拝する人間至上主義世界の建設において、いにしえからの革命の継続であり、天主への反乱の延長線上にあるのです。

静観は許されない

プロテスタント革命のときに教皇レオ10世は、事を楽観して、「修道士同志のケンカ」としか理解出来なかったのです。

フランスのルイ16世も、啓蒙思想をほほ笑んで見て、楽観していたに過ぎませんでした。ピオ9世は、1873年3月6日にこう言っていました。「黙認せよ、黙認せよとそそのかすこれらの人々を、リベラルなカトリックと呼ぶ。彼らこそ我々の敵だと自称する人々よりもずっと危険であり害を与える。…和解を求める不賢明なものたち、彼らは、我々の力を弱体化させている。」

聖ピオ10世は「人民の本当の友は、革新主義者でも革命家でもなく、聖伝主義者(traditionalists)である。」と言っておられます。

カトリック信者の義務

そうです、聖伝支持のカトリック信者だけがこの社会を再建することが出来るのです。もしわたしたちがイエズスの聖心に立ち戻らないならば、この世はますます人間中心になり、オウム教だの原理教だの狂気を信じる人々で一杯になることでしょう。岩下壮一神父様と共に、使徒継承のカトリック教会と共に、次の3つの質問にこう答えましょう。

問:「どんな宗教によっても、人の道を全うし、真の幸福を得られるか。

答:人の道を全うし、真の幸福を得るには、必ず真の宗教によらなければなりません。

問:真の宗教は幾つもあるか。

答:真の神は一つ、真理は一つ、人の道は一つであるから、真の宗教もただ一つであります。

問:真の宗教はどれであるか。

答:真の宗教は公教(カトリック)であります。」(「カトリックの信仰」42・44頁)」

 なぜなら、カトリック教会だけが、真の宗教のみの有する、 理性を超越することはあり得ても、理性と矛盾しないこと、 人間の五倫の道に、抵触しないこと、 時と場所の如何を問わず、根本において変化の無い人の本性に基づくものである以上、時代や国によって変化のないこと、の3点を満たす天主の啓示された宗教だからです。カトリック教会だけが真の宗教であることについては、岩下神父様の『カトリックの信仰』をお読みください。

私たちの希望である聖母の汚れなき聖心

聖母の汚れなき御心に信頼致しましょう。「最後には私の汚れなき聖心が勝利をおさめるでしょう」!確かに、ルチフェルは自分の罪とアダムの罪によって天主様の作られた原初の正義の状態を破壊してしまいましたが、天主はご自分の愛のご計画を捨てようとはされませんでした。天主はこの被造物の世界をご托身によって、ご受難によって、ご聖体によって、また天主の御母聖母マリアと教皇を与えることによって、更に一層この世界を立て直してくださったのです。

ルチフェルはまたもこの地上に打ち立てられた、感嘆すべきカトリック文明を、さまざまの革命によって破壊しました。フランス革命の直後(1794年)、フランスの思想家ジョゼフ・ドゥ・メストレ(Joseph de Maistre)は、こう書いていました。

「革命は、完璧にサタン的であった。反革命は天使的であるか、あるいは何も無いか、のどちらかであろう。しかし、何も無いというのは(天主様が存在する以上)考えられない。」

「革命は、その反対の原理によってしか、全く消し尽くすことができない。」「革命は反対の原理によってしか本当に終了し、死亡し、絶滅され、その後はその反対の原理が自ら行動するだろう。」

さらに、「最後にはすべては、(天主様のみ摂理により)よい方向に変わるだろう」と。

天主様は聖母の汚れなき聖心の特別な介入により、サタンによって崩されたこのがれきの中から更にすばらしく更に感嘆すべく、天主様の愛のご計画を復興させることでしょう。私たちはロザリオを唱えましょう。聖母の汚れなき聖心が一刻も早く勝利を収めるように祈りましょう。

現代世界における「シヨン」運動の再出現

2017-06-06 22:51:34 | エキュメニズム
現代世界における「シヨン」運動の再出現

 この教会の敵は現代社会に、名前を変え、姿を変え、別のグループ組織の元にもう1度、姿を現すでしょう。聖ピオ10世のこの手紙は、あたかも現代の私たちに現代私たちの目前にいる教会の敵について描き出しているかのようです。

 「人間の尊厳」「人間の自由」「平等」などが声高く叫ばれ、世界中の諸宗教の代表者たちが「平和」のために、例えばアシジに一堂に集い、国連ではキリストのない「道徳的価値」のみが謳われている現代は、かつて排斥されたはずのシヨン運動がまた蘇ったかのようです。司教様はじめ、司祭は今声高らかにこの排斥された「シヨン」を信奉しています。

 私たちはシオン主義者のようなうつろな夢を追いかけるべきではありません。教会の聖伝の教えに忠実であるべきです。歴代の教皇様がたの聖伝に基づくカトリックの教えに忠実であるべきです。

 願わくは、読者の皆様が、社会問題や社会に関する知識が昨日誕生したばかりだと思い込ませんように。願わくは、教会と国家がいつも幸いにも協調し、この目的のために豊饒的な組織を引き起こしたことを知りますように。

 教会は妥協的な協定を結ぶことによって人々の幸福を一度も裏切ったことがないことを、教会がその過去を捨て去る必要などないことを、皆様が良く知りますように。天主が社会をお建てになったのとは別のようには社会を建設することができないことを確信しますように。

 日本の社会の再建のための本当の働き手の協力とともに、革命によって壊されてしまった組織をもう一度取り戻し、それを息吹いた同じキリスト教精神のうちにもう一度、現代社会にそして日本の社会に適応させれば十分であることを確信するように。

なぜなら、民衆の本当の友は、革命家でもなく、改革者でもなく、伝統主義者なのであるから。

 もし教会が社会の土台を敷き、その仕事を指導しないなら人は本当の意味で、「社会」を建設し得ないでしょう。本当の意味で「文明」とはもはや発明するものではないのです。新しい国も雲の上に建てるものでもないのです。「文明」はかつてあり今でもあります。それはキリスト教文明であり、それはカトリックの国です。

 願わくは天におけるがごとく地にも御国の来たらんことを!

 以上は、L'Eglise occup e, par Jacques Ploncard d'Assac 2e dition. Edition de Chir , B.P.1, Chir -en-Montreuil F86190 Vouill , France Tel 49.51.83.04 を参考にしました。私たちは、聖ピオ10世の上記の「私の使徒的職務」をお読みになることを皆様にぜひお勧めします。

 英語では、《Our Apostolic Mandate》という題で、Angelus Press, 2918 Tracy Avenue, Kansas City, Missouri 64109-1529 U.S.A.(816)753-3150, Fax(816)753-3557 で注文できます。

 フランス語版では、《Ecrits Doctrinaux de S. Pie X》と言う題で、Edition TEQUI, 82 Rue Bonaparte, F75006 Paris, France. Tel 43.26.04.58 から注文できます。


(シヨン運動について 了)

排斥の意味

2017-06-06 22:50:54 | エキュメニズム
排斥の意味

 シャルル・モラスはこう言っています。「『わたしはおまえを知らない』『わたしはおまえを最早知らぬ。』これが、排斥のすべての意味である。人は長い間この排斥の判決を受けた人々のことをかわいそうに思った。しかし、この判決が守り強めてくれた数多くの暗闇の民のために、この判決がどれほどの助けになったかということは、今日感嘆されなければならないだろう。」

 さて、マルク・サンニエはフォガッザロの勧めに従いこの判決文に服従しました。シヨンは姿を消しました。しかし、その精神はなかなか消えるものではありませんでした。


(シヨン運動について:15)