比叡山宗教サミットについて
2002年8月6日、今日は、私たちの主イエズス・キリストの御変容の祝日ですね。
この日、私たちの主は、ご自分がまことの天主であることを弟子たちの前で見せました。
「彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マテオ17:2)
今日、天主御父は私たちの主イエズス・キリストがご自分の子であることを証言します。
「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)
「私たちは主イエズス・キリストの力と来臨を知らせた時、巧みな作り話をしなかった。私たちはその天主の威光の目撃者であったからである。厳かな光栄の中から「これは私の愛する子である。私は彼を喜びとする」と声があって、主は父なる天主から誉れと光栄を受けられた。私たちも主と共に聖なる山にいた時、天から下るこの声を聞いた。」(2ペトロ1:16-18))
この日、私たちの主は、イエズス・キリストを信じ、洗礼を受け、天主の養子となった私たちが将来どのような栄光の姿に変わるかということをも教えたのです。
「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救世主イエズス・キリストを待っている。キリストは万物を支配下におく力によって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリピ3:20-21)
「私たちは、・・・主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄をますその同じ姿に変わる。」(2コリント3:18)
「後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示される時、私たちは天主に似たものになることを知っている。」(1ヨハネ3:2)
永遠の栄光の生命においてキリストに似たものとなるためには、生きているうちからキリストに似たものでなければなりません。私たちの主イエズス・キリストを信じなければなりません。
何故なら、永遠の復活後の新しい天と地、「天主は人の目の涙を全てぬぐわれ、死ももう無く、悲しみも叫びも苦労もなくなる」(黙示録21:4)「聖なる町、新しいエルサレム」は、「天主の栄光がそれを照らし、子羊がその灯り」(黙示録21:23)となるからです。子羊とはすなわち天主の子羊である私たちの主イエズス・キリストです。
私たちがこの世で罪を避けて平和に生活し、来世の永遠の福楽を得るためには、必ず私たちの主イエズス・キリストを知らなければなりません。
「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きて私を信じるものは永久に死なぬ。」(ヨハネ11:25)
「永遠の命とは、唯一の真の天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17:3)
イエズス・キリストはいいます。
「私はまもなく各自の行いに従って報いを持ってくる。私はアルファでありオメガであり、最初のものであり最後のものであり、始めであり終わりである。犬、魔術を使うもの、淫行者、殺害者、偶像礼拝者、偽りを好んで行うものはみな外にいる。」(黙示録22:12-15)
真理の天主、聖三位一体を礼拝しないものは、偶像崇拝者であり、天の遺産を相続することが出来ないのです。
「小さな子らよ、偶像を警戒せよ。」(1ヨハネ5:21)
天主御父の声はこう言います。
「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)
天主御父は、私たちの主イエズス・キリストを喜びとし、それ以外の偽りの神々を憎みます。
天主御父は、イエズス・キリストの教えを聞くように私たちに命じています。
私たちの主イエズス・キリストはいいます。
「私がいないとあなた達には何一つできぬ。」(ヨハネ15:5)
「私は一人ではなくて、父と共にまします。私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。」(ヨハネ16:32-33)
「まことにまことに私は言う。あなたたちが父に求めることは何でも、私の名によって与えられる。」(ヨハネ16:23)
私たちは世界の平和を切なく希求します。私たちは、イエズス・キリストの聖名によってのみこれを得ることが出来ると知っています。
「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, dona nobis pacem!
世の罪を除き給う天主の子羊よ、我らに平和を与え給え!」
なぜイエズス・キリストに求めるかというと、私たちが、私たちの主イエズス・キリスト抜きに、イエズス・キリストを無視して、真の世界平和を得ることは全く無理なことだからです。
私たちは、真理において、真の天主である私たちの主イエズス・キリストにおいて、その愛において全世界が一つとならなければなりません。イエズス・キリストの聖名によって世界の平和を求めなければなりません。
以上のことを考えると、イエズス・キリストを真の天主であると公式に認めない「比叡山宗教サミット」「世界平和祈りの集い」(天台宗国際平和宗教協力協会など主催)は、「天主から出たものではない・・・反キリストの霊である」(1ヨハネ4:3)と言わなければなりません。ですから、私たちには明らかに言うことが出来ます。「1987年に比叡山で開催した宗教サミットの精神」は、その目指すものは素晴らしいものですが、反キリストの精神であり、真の世界平和を実現させることは出来ない、と。
真の平和は、私たちの主イエズス・キリストの十字架のいけにえによって得られます。真のミサ聖祭によって得られます。それが私たちのカトリック信仰であります。
私たちカトリック信者にとっては、「比叡山宗教サミット」は全く関係のないものです。
私たちは聖パウロと共にこう言います。
「私たちの平和はキリストである。」(エフェゾ2:14)
主の御変容の歌
トマス小野田圭志
キリストを 求めるものは
より高く
まなざしを上げ、天を見つめよ。
とこしえの、主の栄光を
仰ぎ見よ、
万民の王、約束の主を。
シナイにて 十戒受けし
モイゼ来て
立法者なる主を指し示す。
またエリア、預言者たちが
告げ知らす
約束の主を 明らかにせり。
万民の 裁きの主と
空中で
生者と死者が 語りあいたり。
おん聖父は、声を響かせ
御弟子らに
「これわが愛子、これに聞けよ」と。
人の子は 真の姿を
証したり
御弟子らのため 受難の前に。
日の如く 光り輝く
主の御顔
御ころもこそは 白き雪なり。
栄光の 聖父の輝き
無限なる
燃えいずる愛 永遠の知慧。
「善きことぞ、ここに我らが
集うこと、
3つの幕屋を 作らんとせん。」
光の主 我らのこころ
照らしだし、
罪の闇から 連れ出し給え。
幸いな 御身を受けし
靈魂よ、
主の甘美さに 充ち満たされて。
いつの日か 腐りゆくこの
我が身をも
光る体と 主は変え給う。
とこしえの 天地の王を
礼拝す。
その御栄えは 世々限りなく。
アーメン
2002年8月6日、今日は、私たちの主イエズス・キリストの御変容の祝日ですね。
この日、私たちの主は、ご自分がまことの天主であることを弟子たちの前で見せました。
「彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マテオ17:2)
今日、天主御父は私たちの主イエズス・キリストがご自分の子であることを証言します。
「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)
「私たちは主イエズス・キリストの力と来臨を知らせた時、巧みな作り話をしなかった。私たちはその天主の威光の目撃者であったからである。厳かな光栄の中から「これは私の愛する子である。私は彼を喜びとする」と声があって、主は父なる天主から誉れと光栄を受けられた。私たちも主と共に聖なる山にいた時、天から下るこの声を聞いた。」(2ペトロ1:16-18))
この日、私たちの主は、イエズス・キリストを信じ、洗礼を受け、天主の養子となった私たちが将来どのような栄光の姿に変わるかということをも教えたのです。
「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救世主イエズス・キリストを待っている。キリストは万物を支配下におく力によって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリピ3:20-21)
「私たちは、・・・主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄をますその同じ姿に変わる。」(2コリント3:18)
「後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示される時、私たちは天主に似たものになることを知っている。」(1ヨハネ3:2)
永遠の栄光の生命においてキリストに似たものとなるためには、生きているうちからキリストに似たものでなければなりません。私たちの主イエズス・キリストを信じなければなりません。
何故なら、永遠の復活後の新しい天と地、「天主は人の目の涙を全てぬぐわれ、死ももう無く、悲しみも叫びも苦労もなくなる」(黙示録21:4)「聖なる町、新しいエルサレム」は、「天主の栄光がそれを照らし、子羊がその灯り」(黙示録21:23)となるからです。子羊とはすなわち天主の子羊である私たちの主イエズス・キリストです。
私たちがこの世で罪を避けて平和に生活し、来世の永遠の福楽を得るためには、必ず私たちの主イエズス・キリストを知らなければなりません。
「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きて私を信じるものは永久に死なぬ。」(ヨハネ11:25)
「永遠の命とは、唯一の真の天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17:3)
イエズス・キリストはいいます。
「私はまもなく各自の行いに従って報いを持ってくる。私はアルファでありオメガであり、最初のものであり最後のものであり、始めであり終わりである。犬、魔術を使うもの、淫行者、殺害者、偶像礼拝者、偽りを好んで行うものはみな外にいる。」(黙示録22:12-15)
真理の天主、聖三位一体を礼拝しないものは、偶像崇拝者であり、天の遺産を相続することが出来ないのです。
「小さな子らよ、偶像を警戒せよ。」(1ヨハネ5:21)
天主御父の声はこう言います。
「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」(マテオ17:5)
天主御父は、私たちの主イエズス・キリストを喜びとし、それ以外の偽りの神々を憎みます。
天主御父は、イエズス・キリストの教えを聞くように私たちに命じています。
私たちの主イエズス・キリストはいいます。
「私がいないとあなた達には何一つできぬ。」(ヨハネ15:5)
「私は一人ではなくて、父と共にまします。私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。」(ヨハネ16:32-33)
「まことにまことに私は言う。あなたたちが父に求めることは何でも、私の名によって与えられる。」(ヨハネ16:23)
私たちは世界の平和を切なく希求します。私たちは、イエズス・キリストの聖名によってのみこれを得ることが出来ると知っています。
「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, dona nobis pacem!
世の罪を除き給う天主の子羊よ、我らに平和を与え給え!」
なぜイエズス・キリストに求めるかというと、私たちが、私たちの主イエズス・キリスト抜きに、イエズス・キリストを無視して、真の世界平和を得ることは全く無理なことだからです。
私たちは、真理において、真の天主である私たちの主イエズス・キリストにおいて、その愛において全世界が一つとならなければなりません。イエズス・キリストの聖名によって世界の平和を求めなければなりません。
以上のことを考えると、イエズス・キリストを真の天主であると公式に認めない「比叡山宗教サミット」「世界平和祈りの集い」(天台宗国際平和宗教協力協会など主催)は、「天主から出たものではない・・・反キリストの霊である」(1ヨハネ4:3)と言わなければなりません。ですから、私たちには明らかに言うことが出来ます。「1987年に比叡山で開催した宗教サミットの精神」は、その目指すものは素晴らしいものですが、反キリストの精神であり、真の世界平和を実現させることは出来ない、と。
真の平和は、私たちの主イエズス・キリストの十字架のいけにえによって得られます。真のミサ聖祭によって得られます。それが私たちのカトリック信仰であります。
私たちカトリック信者にとっては、「比叡山宗教サミット」は全く関係のないものです。
私たちは聖パウロと共にこう言います。
「私たちの平和はキリストである。」(エフェゾ2:14)
主の御変容の歌
トマス小野田圭志
キリストを 求めるものは
より高く
まなざしを上げ、天を見つめよ。
とこしえの、主の栄光を
仰ぎ見よ、
万民の王、約束の主を。
シナイにて 十戒受けし
モイゼ来て
立法者なる主を指し示す。
またエリア、預言者たちが
告げ知らす
約束の主を 明らかにせり。
万民の 裁きの主と
空中で
生者と死者が 語りあいたり。
おん聖父は、声を響かせ
御弟子らに
「これわが愛子、これに聞けよ」と。
人の子は 真の姿を
証したり
御弟子らのため 受難の前に。
日の如く 光り輝く
主の御顔
御ころもこそは 白き雪なり。
栄光の 聖父の輝き
無限なる
燃えいずる愛 永遠の知慧。
「善きことぞ、ここに我らが
集うこと、
3つの幕屋を 作らんとせん。」
光の主 我らのこころ
照らしだし、
罪の闇から 連れ出し給え。
幸いな 御身を受けし
靈魂よ、
主の甘美さに 充ち満たされて。
いつの日か 腐りゆくこの
我が身をも
光る体と 主は変え給う。
とこしえの 天地の王を
礼拝す。
その御栄えは 世々限りなく。
アーメン