カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第二バチカン公会議 2:準備期間

2017-01-07 02:52:52 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

2、準備期間

 会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中のカトリック教会関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案(ラテン語で単数形schema と書き「スケーマ」と発音する、複数形は、schemata で「スケーマタ」と発音する。フランス語では、単数形 schéma (複数形 schémas )と書き「シェーマ」と発音する)を作成した。

2-1、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)

 1959年5月17日、教皇ヨハネ23世は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)を任命した。

 1959年6月18日、前準備委員会は、全世界の司教、修道会、カトリック大学などに公会議で討論すべき話題の提案を求めた。司教たちのからの返答によれば、カトリックの教理的な明確さを要求した司教は殆どいなかった。

 1960年6月5日、ヨハネ23世は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』Superno Dei Nutu によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会(commissiones praeconciliares)と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会 (Central Preparatory Commission for the Council)」 を置き、その委員を任命した。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった。

 1960年6月6日、日本の土井辰雄枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。中央準備委員会、各委員、顧問(consultor)の数は、その後の任命によって更に拡大し、1961年 2月までに、710人(内訳は委員393人、顧問317人)に達していた。更に1961年 12月には、827人となっていた。1962年 6月まで、中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。

 すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。

2-2、準備委員会顧問名簿

 1961年6月15日、中央準備委員会の第1回総会で、1960年6月に指名された準備委員会の顧問名簿と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された。 顧問名簿の中で、イヴ・コンガール、アンリ・ドゥ・リュバック、カール・ラーナーの少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。

2-3、中央準備委員会の総会

 1962年1月20日、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。

 1962年2月23日、マルセル・ルフェーブル大司教は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派のスコラ的で正確な学問的な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。

2-4、中央準備委員会の典礼についての討議

 1962年 3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。

 1962年3月27日、アンニバレ・ブニーニ神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした。

 この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。

 「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は異議を唱えた。この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」(オッタヴィアーニ)であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だった。

 1962年3月30日、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語のミサを提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した。

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(解説)第二バチカン公会議

2017-01-07 02:45:47 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

第2バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum 1962年~1965年)は、教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。

この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。


1、開会まで

 1869年の第1バチカン公会議では、カトリック教会がフランス革命によって生まれた近代革命世界を否定するというスタンスがとられた。

1.1、ピオ11世

 1923年5月23日、教皇ピウス11世は、枢機卿会議で、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために公会議を召集することは適宜か否かを枢機卿たちに問うた。

 このピオ11世の質問に対し、枢機卿たちはほぼ満場一致で公会議に反対した。特にビヨ枢機卿は、司教たちの深い見解の違いがあること、意見がまとまらない危険があること、教会に革命を起こそうとしている近代主義者たちによって公会議が操作される危険があること、伝統的なやり方よりも、民主的な慣行に適応する論争と宣伝活動が導入される危険があることを指摘した。

 しかし第1次世界大戦後の世界で、もはやカトリック教会だけが古色蒼然とした形をたもっていることは出来なかった。特に司牧の第一線で働く聖職者、宣教者、信徒たちの間で教会の現代化の必要性は痛感されていた。

1.2、ピオ12世

 1948年、ピウス12世は、ピウス11世の抱いていた公会議のアイデアを検討していた。ルフィニ枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿は、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた。そこでピウス12世は、65人の司教たちに打診したが、彼らの提案は常軌を逸脱していた。そこでピウス12世は、公会議はむしろ危険である、教会を窮地に落とすと判断し、公会議開催の考えを放棄した。

1.3、ヨハネ23世

 1959年1月25日、教皇ヨハネ23世は門外の聖パウロの修道院をふらりと訪れ、17人のローマ枢機卿の前で突然、公会議を召集することを告げた。これは教皇自身が下したもので、この決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた。」

 この突然の公会議開催の発表は大きい混乱を引き起こした。多くの枢機卿らは、司教たちがマスメディアの圧力を受ける危険を指摘して、公会議招集を止めようと促した。その理由は、ヨハネ23世は、以前、ブルガリアの教皇使節(在位:1925-1934)をしていたが、当時から「帰一東方教会」が、離教の正教徒らにしている帰一宣教活動に反対しており、新しいエキュメニズムを考えていたからである。

 神学者の間では、カール・ラーナーやイヴ・コンガールなどのように「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」ことを目指した一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代教会の信仰にこそ現代教会の活力の源泉が見出されるはずだ」とする一団という二つの大きなグループが生まれていた。

 また、第1バチカン公会議で本来話し合われるはずであった教会論の議論(これらは普仏戦争の勃発によって中断を余儀なくされた)を行うことで教会のアイデンティティーを再確認することの大切さも十分認識されていた。このような流れの中で、つなぎの老教皇とみられていたヨハネ23世が公会議の召集を発表したことは、カトリック教会と全世界にとって驚きと同時に大きな期待を持って迎えられた。

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聖人のインフレ

2017-01-07 02:10:24 | 列聖
私はカトリック信者です。カトリックの伝統と使徒継承を信じます。しかし、第二バチカン公会議後の教会はおかしいのです。数が多すぎて、そのすべての箇所を同時に挙げることは不可能です。思いつくものから、一つずつ紹介していきたいと思います。

例えば、公会議後のカトリック教会では、やたらめったら聖人が大量生産されています。それまで、少ない時だと、100年間にせいぜい一人列聖だったものが、公会議後は僅か数十年で500人以上の列聖です。

その中には、必ずしも信仰とは関係のなさそうな事由での列聖もあります。

(参考資料)

16世紀:1回の列聖式
17世紀:10回の列聖式、24名の聖人
18世紀:9回の列聖式、29名の聖人
19世紀:合計で8回の列聖式、80名の聖人
(レオ13世の統治期間(1878年から1903年まで):4回の列聖式、18名の聖人)
20世紀:
聖ピオ10世(1903-1914):2回の列聖式、4名の聖人、
ベネディクト15世(1914-1922):2回の列聖式、3名の聖人
ピオ11世(1922-1939):17回の列聖式、34名の聖人、
ピオ12世(1939-1958):21回の列聖式、33名の聖人、
ヨハネ23世(1958-1963):7回の列聖式、10名の聖人、
パウロ6世(1963―1978):20回の列聖式、81名の聖人、
ヨハネ・パウロ2世(1978年から2002年10月6日までの間):468名の聖人

http://www.immaculata.jp/mag2003/manila172.html