カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第2バチカン公会議とは :3

2017-01-17 01:53:02 | 第二バチカン公会議
第2バチカン公会議とは(3)

 私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。

異論2:公会議は通常普遍教導職を代表している

 この説はカッシキアクム説として唱えられています。この説の詳細については、カッシキアクムのノートCahiers de Cassiciacumに発表されています。

 この説の論理は単純です。つまり、こう言っています。

「通常教導職は、教皇と共に交わる司教たちの教導職である。ところで、公会議の際には世界中の司教たちが集まっていた。従ってこの公会議において、カトリック教会の通常普遍教導職がある。」

 カッシキアクム説を取る人たちは、この結論から、従ってこの公会議にはいかなる誤りもあってはならない、と結論付けます。それと同時に、第2バチカン公会議の教えは、教会が以前に行使した不可謬権を使っての教えと矛盾するものなので、パウロ6世教皇は本当の教皇(formaliter papa)ではなく(つまり、教皇としての権威を担うものではなく)、ただ単に聖ペトロの座を物理的に(materilaiter)占拠していたに過ぎない、と言うに至りました。

 しかし、第2バチカン公会議が教会の通常普遍教導権を行使したと言う点に問題があるのではないでしょうか。

 このカッシキアクム説については、教会の通常教導権が普遍的であるためには司教たちが集まるなどして、空間的に普遍的であるばかりか、いくらかの長い期間これを説くなど、時間においても広がっていなければならないなどと反論しようとした人がいました。[例えば、Pere Rene-Marie, "L'Infaillibilite du magistere ordinaire de l'Eglise", Una Voce Helvetica, janvier 1981]従って、公会議の教えが一時的であるので、通常普遍教導職ではなく、従って不可謬とは限らない、とするものでした。

 これについてはカッシキアクム説を採るルシアン神父(abbe Lucien)がその著書『教会の通常普遍教導権の不可謬性』(L'Infailliblite du magister ordinari et universel de l'Eglise, Documents de catholicite, 1984)の中で反論を加えています。しかし、ここではその詳しい論争の中には入らないことにします。

ここでは、第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、次の2点を挙げてみます。

理由その1

 まず、教皇ピオ9世は1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙の中でこう宣言しています。

「天主からの信仰行為によって表されなければならない服従は世界中に広がる全教会の通常教導職が天主から啓示されたものとして伝える事柄にまで及ばなければならない。」(ad ea quoque extendenda, quae ordinario totius Ecclesiae per orbem disperae magisterio tamquam divinitus revelata traduntur… DS 2880)

 1870年4月6日、マルティン司教(Mgr. Martin)は第1バチカン公会議中に発言しカトリック信仰についての憲章のPorro fide divinaの段落中に挿入された「普遍的」という言葉の意味を説明しました。

「この普遍的という言葉は教皇聖下が使徒書簡(教皇ピオ9世の1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙)の中で使われた言葉とほとんど同じ意味idem fere significatです。つまり地上に散在する全教会の教導職という意味です。」(Mansi 51, 322 A17-CI)

 ところで、司教たちが一堂に集った教導職は、地上に散在する司教たちの教導職とほとんど同じ意味なのでしょうか?地上の各地に散らばっていた司教たちが共に集うと言うことは、付帯的な違いに過ぎないのでしょうか。これは本質的な違いではないのでしょうか?

 この地上の各地に散らばっている全ての司教たちが同じことを信仰に属することとして教えるとき、この普遍的教導職は不可謬です。なぜなら、彼らが全世界に広がっているにもかかわらず同じことを教えているのは、これらが使徒たちから伝えられた教えにその教えの起源を持つからです。もしかららが物理的に距離的に離れ離れになっているにもかかわらず、同じことを教えうるとしたらそれは彼らが使徒からの聖伝という同じ源泉からの教えを汲んでいたからです。

 しかし、もし司教たちが一堂に集まっていたならばなぜ彼らが同じ教えを説いているかという理由に、別の理由が見出せます。つまり、圧力をかけられたとか、ほかの司教達に影響を受けたからなどです。これが第2バチカン公会議のときに起こったことではないでしょうか。もしも公会議が始まる前に、まだ世界各地に散在していた教父達に「信教の自由に関する公会議の教えが、既にあなた方の教区の信仰の一部となっていましたか?」とたずねたとしたら、その大多数が、もしかしたらその全員が、そのようなことは無いと答えていたことでしょう。しかし、公会議での4年間の圧力の後に、教父のほとんどを押し曲げることに成功してしまったのではないでしょうか。

 このことを確認するかのように、神学者たちは、教義決定の公会議の教えはその定義の部分だけが不可謬であると教えています。これは教会の古典的な教えです。(Dictionnaire Theologie Catholique, "Infaillibilite du pape", col. 1700 (P. Galtier))

 歴史の中には、公会議が荘厳に教義決定せずに教えた事柄に反対して、合法的に反対意見が教えられ続けたこともあります。このことは、司教たちが一つに集まって何か宣言をする、と言うことだけでは必ずしもそれが不可謬であるとは限らないことを意味しています。例えば、

第4ラテラン公会議(DS800)と、第1バチカン公会議(DS3002)は、天使は物体的被造物と同時に(simul)創造された、といっています、しかし、この「同時simul」と言うことをどのように解釈するかで神学者たちは論議をしています。神学者の中には、時間においての同時性を否定することはできないと言う人もいますし、この時間においての同時性を主張するのは有力な意見の一つに過ぎないと言う人もします(Pesch, De Deo creante et elevante, n. 360; Zubizarreta, Theologia dogmatico-scholastica, II, n.832.)。聖トマス・アクイナスは時間における同時性に好意的です。

フィレンツェの公会議は、アルメニア人への宣言(decretum)の中で、叙品の秘跡について語っています。この宣言は7つの上級・下級品級を秘蹟として挙げています。しかし、下級品級は秘蹟でないと言う多くの神学者もいます。例えば、カエターヌスや聖アルフォンソ・デ・リグオリ、またベネディクト15世などがそうです。(Sacrae Theologiae Summa, BAC, Madrid, IV, p622参照)。今日では、フィレンツェの公会議では、教皇は何も教義決定しようとはせず、ただラテン典礼挙式をアルメニア人に説明しようとしただけだと解釈されています。この場合には、この宣言は不可謬とは限りません。このことは第2バチカン公会議の信教の自由の宣言との類比analogiaになります。

やはりフィレンツェの公会議では、叙階の秘跡の質料は「司教が新しく叙階されるものに差し出すカリスとパテナを触れる行為(これを『祭器具の伝授』と言います。)」である、としました。しかしピオ12世は、叙階の形相と質料を定義する際に、「フィレンツェの公会議は、『祭器具の伝授が私たちの主イエズス・キリストの御旨から必要であった』と教えようとしたわけではない」といわれ、フィレンツェ公会議の教えとは異なり、司教の按手こそが質料であるとしました。

更にまたフィレンツェの公会議では、終油の秘蹟の質料は司教が祝別したオリーブ油でなければならないと宣言しました(DS1324)。しかし、教皇クレメンテ8世は1595年8月30日の教令Super ritibus Italo-Graecorumの中で、単なる司祭の祝別した油であってもこの秘蹟の質料として承認しています。

 たとえ、歴史の中で確実に誤ったことを教えた公会議が無かったとしても、公会議がその全てにおいて必ず不可謬であるとは限りません。公会議が過去に誤らなかったと言うことは事実factumですが、しかしそれはこれからも必ずそうであると言う権利jusを持っているわけではありません。

 また、必ずしも不可謬とは限らないということの例として、福者の列福があります。

理由その2

 第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、第2の点を挙げてみます。それは、教える内容が信仰あるいは道徳に関する真理でなければならないということです。

 教会の通常普遍教導権は、信仰に関する真理を教えるものです。つまり、天主から啓示を受けた真理に関するものです。そして、この啓示と必ず結合している真理にもこの教導権は及びます。ところでこの教えは、堅く決定的に信じるべき真理であると提示されなければなりません。

「使徒たちの後継者である司教たちは、公会議であろうと、公会議以外であろうと、彼らのうちに同意を見、教皇のもとで、決定的な方法で信じなければならない教えを信者たちに押し付けるとき、彼らは不可謬である。」(Thesis 13. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 665)

 このカトリック信仰と切っても切れない結びつきがあるということから、この教えを受け入れなければならないと言う義務が生じるのです。通常普遍教導権であるためには、この教えが変わり得なく、天主から受けた啓示と分ちがかつ結びついているということを正確に述べなければなりません。ただ単に、啓示に基づくとか、啓示と合致するとか、教会によって伝えられたとか、聖霊において宣言する、と言っただけでは足りないのです。現代の高位聖職者の中には、変わり得ない真理があると言うことを認めようとしない人々がたくさんいますので、このような正確な表現をするのを好まないことでしょう。

 結論として、以上の理由から、第2バチカン公会議は通常普遍教導権のもつ不可謬性を持っていないということができるではないでしょうか。

第2バチカン公会議とは :2

2017-01-17 01:50:45 | 第二バチカン公会議
第2バチカン公会議とは(2)

 私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。

異論1:公会議は荘厳判断を下した

 あまり数は多くありませんが、公会議がドグマを公布したと主張している人々もいます。例えば、Sacerdotium誌や、Sub tuum praesidium誌がこの説を唱えています。

 もし私の理解が正しければ、この説を唱える人々によると、次のようにまとめることができます。

「まず、1964年11月16日の公会議事務総長の告知monitumにはこうある。

『公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。』(DC, 1964, no 1438, col. 1633, nota)

 ところで、公会議の中に定義付けがなされたことが見出される。特に『信教の自由に関する宣言Dignitatis Humanae』に含まれている信教の自由に関する教えだ。[Sacerdotium誌は、次の個所を引用して、強調を付けています。]

『このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望[信教の自由な実践に関する熱望]を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、教会の聖なる伝承と教説とを探求し、そこから、古いものと常に一致した新しいものを引き出す考えである。(1)

 このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。…信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、天主の啓示の言葉と理性そのものとによって認識されることを宣言する。(2)

 …その上、自由に関するこの教えは、天主の啓示に基づいているため、キリスト者は他の人々以上に、この教えを忠実に守らなければならない。…特に、社会における信教の自由は、キリスト教の信仰の行為と完全に一致するものである。(9)

 福音の真理に忠実な教会は、新教の自由の原則が、人間の尊厳と天主の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。教会は、師と使徒たちから受けた教えを長い世紀にわたって守り、伝えてきた。…(12)

 この教令の中で公布されたこれら全てのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。私も、キリストから私に授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父とともに、これらのことを聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが天主の光栄のために公布されるように命ずる。…(15)』

[Sacertoium誌は、これらの表現が、第1バチカン公会議が宣言した教皇の不可謬権の定義と合致すると言い、第1バチカン公会議の定義を引用しています。]

「我々は、キリスト教信仰の初めから受けた伝え[traditio]を忠実に守りつつ、我らの天主なる救い主の光栄のため、カトリック教の高揚のため、キリスト教の民の救いのため、聖なる公会議の承認をもって、次のことを天主ら啓示されたドグマであると定義する。

すなわち、ローマ教皇が教皇座から(ex cathedra)話すとき、つまり、全キリスト者の牧者かつ教師としての権能を(munus)行使しつつ、その最高の使徒の権威をもって全教会が持つべき信仰あるいは道徳に関する教義を定義するとき、聖ペトロにおいてローマ教皇自身に約束し給うた天主の助力を通して、(天主なる贖い主がご自分の教会が信仰あるいは道徳に関する教義を定義するとき、教会が不可謬的に教えを受けることを望まれたが、)その不可謬性をローマ教皇が享受する。したがって、その同じローマ教皇の諸定義は、教会の同意から来るのではなく、ご自身からのものであり、改変できないものである。」

しかしながら、この第1の異論には、問題が多くあります。例えば、すでに引用しましたように、パウロ6世教皇自身が1966年1月12日にはっきりと、この公会議は、

「…教会の教導職の不可謬権を行使した荘厳な教義決定的な定義を避けました…。1964年3月6日の公会議の宣言を思い出しましょう。これは、1964年11月16日にも繰り返されました。すなわち、公会議の司牧的性格を鑑み、公会議は不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けました。」(DC, 1964, no 1466, col. 420)と述べているからです。

 教皇が、あるいは公会議が荘厳判断を下すためには、その最高権威に訴えなければなりません。それは、第1バチカン公会議で述べられているとおりです。ところが、教皇聖下と公会議当局は、公会議が教導職としての教えではあるけれども、不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けた、と言っているのですから、最高の教導権の行使(公会議に教皇と司教たちが集ったこと)にもかかわらず、これはその最高の度合いでの行使ではなかったと言わねばなりません。なぜなら、教皇と司教たちは荘厳判断によって、特別教権の様式で教えることを望まなかったからです。この公会議では、「通常教権の権威を伴う教えを提供し」(パウロ6世教皇1966年1月12日)ているに過ぎなかったのです。

このことは、教会高位聖職者たちが公会議中と公会議後にどのような用語を使ったかということからも分かります。すでに申し上げましたように、パウロ6世は1963年9月12日に、枢機卿の長であったティスラン枢機卿に

公会議は、すでに宣言され、あるいは定義された(declarata vel definita)教義を、ただ単に示す(exponatur)だけなのだと言っています。まったく疑いなく、教皇はここで今度の公会議が荘厳宣言を避け、いかなる新しい教義決定もせずに、教会の通常教導権のみを行使するという意向を表明しています。実に、教義を示すことは、通常教導権に属し、判断することは荘厳教導権に属しています。

ドン・ポール・ノー師(Dom Paul Nau)によると、

「第1バチカン公会議の際に、ガッサー司教(Mgr. Gasser)によって、「荘厳教導権の行為は、決定的な断定と言う性格をもつのみならず、その特別な本性によって判断の断定であり判決を言い渡すことである」と説明されました。…

 判断を下すということは、聖座からのex cathedra定義決定における荘厳教導職固有の行為であり、通常教導職の教えと異なります。通常教導職は、ある知識の原理の中に、あるいは信仰の知識のための啓示の中に含まれていることを知らせることを目的としており、弟子の知性がそれを把握することができるようにそれをほぐして教える[ex-poser, ex-pliquer]ことです。数世紀も前から、説教者たちは信者たちに聖母が天に挙げられたことを啓示の中に含まれている真理として教えてきました。神学者たちはこの真理を、信仰箇条として御托身と聖母が天主の御母であることから引き出していました。」

[Paul Nau, "Le magistere pontifical ordinaire", Revue Thomiste, juillet-septembre 1962, p.358.]

 以上の理由から、第2バチカン公会議が教会の専門用語としての「定義」を含んでいないことは明らかではないでしょうか。このことは、1917年の教会法にも明言されています。Can.1323.§3. Declarata seu definita dogmatice res nulla intelligitur, nisi id manifeste constiterit.(いかなることも、明らかにそうであると言われていない限り、教義的にあるいは宣言され、あるいは定義されたと知解されてはならない。)この条項は、1983年の新しい教会法典にも採用されています。Can749.§3. Infallibiliter definita nulla intellegitur doctrina, nisi id manifesto constiterit.(明らかにそうであると言われていない限り、いかなる教えも不可謬的に定義されたと知解されてはならない。)

 教皇パウロ6世も言うように、公会議は教義決定を避けるためにdeclarataとかdefinitaと言った用語を使うことを避けているではないでしょうか。

 第1の異論を唱える人々は、「定義する」と言うことをよく理解していないように思われます。この人たちは、公会議を開催した当局が明らかに教義決定を避けたと言っているのを聞こうとしません。

 更に言えることは、もしも公会議が何らかの教義決定を下そうとしたのなら、公会議の宣言を、かなり重要な決議について訂正する必要があると考えたことでしょう。(例えば、信教の自由には制限があって、それは共通善bunum communisであるなどと、共通善の概念を再導入するなどして。)また、公会議の信教の自由に関する宣言に公に反対し、これをあからさまに拒否していた人たちを、例えばルフェーブル大司教とかデ・カスロトメイヤー司教などを異端者として断罪しなかったのでしょうか。パルミエリPalmieriは、De Romano Pontifice (Thesis XXXI)の中でこう書いています。(quoted in DTC, "ordre", 1317)

「もし定義された教えが、その瞬間から教会において効力を持ち、またそれ以外の定義が無かったとしたら、これは信仰の定義付けだと言うことができます。しかし、これに反対する教えが教会の中に存続しつづけ、ローマ聖座がこれを知りつつそれが存続するのを許すのなら、そしてそれを認めるのならまして、この教えは信仰の定義付けではなかったと言うことが許されています。」

万が一、第2バチカン公会議の信教の自由に関する教えが信仰のドグマであったとしたら、バチカン当局は聖ペトロ会にこの教義の点に関する反対をその会員に取り消すようにと求めなければ、聖ペトロ会が教会法的に創立され得なかったことでしょう。しかし、実際はバチカン当局は信教の自由に関する宣言をドグマとして受け入れることを要求せずに、聖ペトロ会の設立を教会法的に認めました。

第2バチカン公会議とは

2017-01-17 01:47:52 | 第二バチカン公会議
第2バチカン公会議とは

第2バチカン公会議の権威

 以下の議論は、ドミニコ会ペトロ・マリ神父の論文(L'Autorite du Concile par le Pere Pierre-Marie O.P. Directeur de la revue Le Sel de la Terre, "Eglise et contre-Eglise au Concile Vatican II" Publication du Courrier de Rome, BP 156, F-78001 Versailles Cedex, France, pp287 - 325)の論旨を日本語にしたものです。

第2バチカン公会議に関する公文書

ヨハネ23世は1962年10月11日公会議開会演説でこう言っています。

「また、この世界会議が第1に目指す目標は、教会の主要な教えのいくつかを討議することではなく、教父や過去および現代の神学者たちによって伝えられ、当然ここに御参列の皆様が知っておられる事柄を、繰り返すことでもありません。… 尊ぶべき教えに含まれている真理、すなわち信仰の遺産そのものと、これをあらわす形式とは同じではありません。もちろん、あらわす形式は異なっていても、その教えの意味は変わるものではありません。この方法は重視しなければならないものであって、もし必要とあれば適当な表現法を見出すために、どこまでも忍耐強く努力しなければなりません。すなわち、特に司牧的な性格を持つ教導の任務に、よく合致する表現法でなければならないでしょう。」(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. I, Pars I, 1970, p.171-172. 『歴史に輝く教会』pp333—334)

この有名な文章によって、教義決定の公会議と司牧的な公会議(この分類に入るのは第2バチカン公会議だけです。)との区別が生まれました。

パウロ6世は1963年9月23日、第2会期の開催演説の中で、故ヨハネ23世を称えてこう言っています。

「あなたは、いったん中断された研究を再開し、検討が中止された法律を再び討議するために、使徒の後継者である兄弟たちを召集されただけでなく、彼らが教皇と一体であると感じ、『キリスト教の聖なる遺産を効果的な方法を持って保存し、また説明するために』教皇から力と導きを受けるように召集されたのでした。しかし、公会議にもう一つ別の最高目的もお加えになりました。それは、今やますます急を要し、以前にも増して実り豊かなものと思われる司牧上の目的であります。あなたは次のような警告をお与えになりました。『教会の教えの2,3の中心問題を取り上げることが私たちの第1の目的ではありません。…むしろ、この教えを現代の必要に応じるように研究解釈しなければなりません』。… ですから、この会議の最初の教父であるあなたが示してくださり、私が続けたいと願っている道筋を決して忘れはいたしません。すなわち、『カトリックの教えの貴重なこの宝物を、古いからと言うだけの理由で保存するのが私たちの任務ではありません。むしろ、時代が求めている課題を喜んで恐れずに引き受け、過去20世紀の間に教会が歩んできた道を進んでいくことが私たちの任務なのです。』従って『司牧的な性格を持つ教導の任務に最もよく合致する表現法でなければならなりません。』」(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. I, Pars I, 1970, p. 185‐186. 『歴史に輝く教会』pp353—354)

パウロ6世はこの開催演説で、前任者の司牧的な公会議を実現させたいと言う願いを自分のものとしています。パウロ6世はこの開催演説の数日前(1963年9月12日)に、枢機卿の長であったティスラン枢機卿に次のような手紙を書いています。

「これらの草案を新しくすることで、この公会議の司牧的な性格を大事にしました。信仰に関する確かで不変の教義は、教会の最高教導職によって、そして先立つ数々の公会議、特にトリエント公会議と第1バチカン公会議によって宣言されあるいは定義されました。この教義には忠実に服従しなければならず、また、この教義が現代に相応しいやり方で示され、現代人が容易に真理を抱き入れキリストによって私たちのために与えられた救いが受け入れられるようにされなければなりません。」(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. II, Pars I, 1971, p. 11. 私訳)

 ここでも教皇は公会議がすでに宣言され、あるいは定義された(declarata vel definita)教義を、ただ単に示す(exponatur)だけなのだと言っています。まったく疑いなく、教皇はここで今度の公会議が荘厳宣言を避け、いかなる新しい教義決定もせずに教会の通常教導権のみを行使するという意向を表明しています。

教会位階は今度の公会議の教えにどれほどの権威を与えようとしているかを私たちに示す文章を更に引用しましょう。公会議議長の長であったティスラン枢機卿が1964年9月15日にした訓戒を引用します。

「この公会議は教皇ヨハネ・パウロ23世が何度も繰り返し断言したように、教義上の新しい点を定めるためにあるのではありません。この公会議に固有の目的は、教会の司牧上の熱心が新しい飛躍を得て、それが司教区、教区、全ての宣教の地で、更に全ての修道会、平信徒のグループ(ordines)においてより活動的でより実りの多いものとなることにあります。」(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. III, Pars I, 1973, p. 29. 私訳)

アリストテレスと聖トマス・アクイナスによると、知識には実践知と観想知とがあり、実践知は何か行為をしたり何かを作ったりするための知識で、観想知とは真理を認識するための知識です。ティスラン枢機卿の訓戒は明らかに公会議が観想的な性質のものではなく、もっぱら実践的な性質をもつものだと言うことを示しています。この公会議は真理を正確に観想的に述べるということよりも、実際的な行動に大きな関心が向けられているということに注意しましょう。

 公会議事務総長のした告知も引用しなければなりません。公会議事務総長であったペリクレ・フェリチ(Pericle Felici)大司教は1964年11月16日第123総会において、「教会に関する教義憲章Lumen Gentium」について1964年3月6日の宣言を引用し、こう告知(monitum)しました。

「投票を受ける、『教会についてDe Ecclesia』の草案において示されている教義の神学的資格は何であるかと求められました。この質問に付いて、教義委員会は次のように答えました。

 論を待つまでもなく、公会議の文章は公知の一般的な規則によって解釈されなければなりません。教義委員会は1964年3月6日の宣言を参照するようにと求めます。以下がその文章です。

『公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。聖なる教会会議が教会の最高教職による教理として、述べる他の事柄は、すべての、そして各のキリスト信者はそれを教会会議自身の方針に従って(juxta mentem)受け入れ(excipere)、受領し(amplecti)なければならない。この教会会議の方針は取り扱われている題材と表現方法から神学的解釈の法則に従って知ることができる。』」(ラテン語原文Acta Synodalia Sacrosancti Concilii oecumenici Vaticani II, Typis polyglottis Vaticanis, Vol. I, Pars VIII, 1976, p.171-172. 私訳『自覚を深める教会』pp202‐203を参照)

教皇パウロ6世は、1965年12月7日、公会議閉会演説において「教会は特別の教導権によって、特別の教義を定義しなかった」と次のように宣言しました。

「しかし、ここで次のことに注意しなければなりません。教会は特別の教導権によって、特別の教義を定義しませんでしたが、多くの問題について、現代人の良心の基準となり、行動の原理となる事柄を権威をもって教えたのであります。そのうえ教会は、現代人と対話を始めたのであります。常に自己の権威と力を保持しながら、司牧的愛に特有な親切と友好的態度をとったのであります。全ての人が教会に耳を傾け、教会を理解することを望んだのです。そのため知識階級の人々だけが理解できるような表現ではなく、普通一般に用いられている表現を使ったのであります。更に人々の心をひきつけ、人々を説得するために、生活体験や人々の心に呼びかけたのであります。すなわち、教会はあるがままの現代人に話しかけたのであります。」(pp445‐446)

パウロ6世は、1966年1月12日の一般謁見の時に、「公会議は不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けた」ことをこう説明しています。

「公会議は教会の教導職の不可謬権を行使した荘厳な教義決定的な定義を避けましたが、このような公会議が与える教えのもつ権威すなわち神学的資格は何かと疑問に思う人々もあります。その答えを私たちはよく知っています。1964年3月6日の公会議の宣言を思い出しましょう。これは、1964年11月16日にも繰り返されました。すなわち、公会議の司牧的性格を鑑み、公会議は不可謬の印を伴うドグマの全ての特別宣言を避けました。しかし公会議は、通常教権の権威を伴う教えを提供し、それはそれぞれの文章の本性と目的とに合わせて公会議の心にのっとって従順に受け入れられなければなりません。」(DC, 1964, no 1466, col. 420)

 更に重要な文章があります。1962年12月1日第31総会の際に、ルフェーブル大司教は一つの議題について2つの公文書を作ることを、すなわち、一つは教義的なものを作り、もう一つは司牧的な文書を作ることを提案しました。ルフェーブル大司教のこの発言については、大司教自身がこう語っています。

「この公会議のあいまいさは、最初の会合のときからあらわになりました。私たちは一体何を目的として一堂に集ったのでしょうか?教皇ヨハネ23世の演説は、教皇が公会議をどのように教義を司牧的に表現するように方向付けようとしていたかをよく物語っています(1962年10月11日の演説)。しかし、あいまいさは残り、提案や議論を通して、公会議が何を望んでいたのかを知るのに困難を感じていました。そこで、11月27日の私の提案があったのです。この提案は、私はすでに(公会議議始まる前に)中央準備委員会に提出していました。そしてこれは120名の委員の賛成という大多数を得ていました。

 しかし、私たちは公会議の準備のときからすでに多くの時間を経ていました。

 私の提案はルフィーニ枢機卿(Cardinal Ruffini)や、ロワ司教、つまり現在のロア枢機卿(Cardinal Roy)の賛成を得ていました。

 これは、公会議の司牧的性格をよりよく限定する機会となったことでしょう。しかし、この提案は猛烈な反対に会いました。『公会議は教義決定の会議ではなく司牧的公会議である。私たちは新しい教義を定義しようとは望まない。ただ真理を司牧的に提示するのみだ。』と。リベラル派と進歩派はあいまいな環境の中に生きるのを好みます。公会議の目的を明らかにするのを彼らは非常に嫌がりました。そこで私の提案は受け入れられませんでした。」

ルフェーブル大司教は、公会議でこう発言しました。

「…現在の状況と、教皇の明らかな望みを鑑みて、皆に直接に発言する必要性が、以前の公会議におけるよりもより明らかであるように思えます。もしかしたらこれがこの公会議の特別な性格なのかもしれません。…

 他方で、私たちの取り扱う題材の性格そのものから、また、教皇聖下御自身のお言葉からも、『公会議にとって、キリスト教の教義の聖なる遺産をより効果的な方法で保存し表明することが、最も重要なことである』ことは明らかです。…

 従って、この最も重要な理由のために、絶対に次の2つの望みを尊重しまた保持しなければなりません。つまり、学問をつんだものの養成の為に、ドグマ的でスコラ的なやり方で教義を表明すること。そして、第2にその他の人々のために、より司牧的なやり方で真理を提示すること、この2つです。

 この2つのすばらしい望みをどうしたら満足させることができるでしょうか。いとも愛する兄弟たちよ、私は謙遜に次の解決策を提案します。これはすでに幾人の教父たちによって指摘されたことでもあります。…

 すなわち、各々の委員会は2つの文章を提案し、1つは教義的であり、これは神学者たちのために使われます。もう一つは、より司牧的で、その他の人々つまり、カトリック信者やカトリックではない人々、未信者のためのものです。

 こうすることによって、今私たちの感じている困難の多くはすばらしい解決策を見出し、本当に効果的となることでしょう。なぜなら

 教義的に貧弱であろうと、司牧的に貧弱であろうと、非常に険しい困難を引き起こす反対をする余地が無くなるからです。

 こうすることによって、あれほど多くの注意を払って準備され、私たちの愛する司祭たち、特に教授や神学者たちに真理を提示するのに非常に有益なドグマ的な文書は、信仰の最高の規範としてとどまるでしょう。この聖なる教義のこの文章を教父たちは喜んで受け入れることに疑いはありません。

 こうすることによって、また、司牧的文書はより簡単にいろいろな国々の言葉に訳されて、時に世俗の学問にはたけてはいるけれども神学者ではない、全ての人々に、よりわかりやすい方法で真理を提示し得ることでしょう。全ての人々は、この公会議から真理の光をどれほどの感謝をもって受けることでしょうか!…」

 ルフェーブル大司教のこの賢明な提案が、猛烈な反対にあったこと自体、そしてこの提案がついには受け入れられなかったこと自体が、公会議はその教えを正確に定義することを避けようとしたと言うことを示しています。

私たちは更に「権威からの論法」を使って、公会議の神学者たちや、顧問たちが公会議の権威について述べていることを引用することができます。

例えば、イギリスの最も活動的で最もリベラルな公会議の教父の一人であったバトラー(B.C. Butler)司教は、「教皇からあるいは公会議から出て来る教えが、全てが全て不可謬であるとは限らない。公会議がそれ以前の不可謬の定義を引用している場合を除けば、第2バチカン公会議の出した命題は、それ自体不可謬であるようなものは1つも無い」と言っています。

Not "all teachings emanating from a pope or an ecumenical council are infallible. There is no single proposition of Vatican II --- except where it is citing previous infallible definitions --- whichi is in itself infallible." In the Light of Theology (London, 1968), p55 quoted in Michael Davies The Second Vatican Council and Religious Liberty, The Newmann Press, 1922, p.257

ここでバトラー司教は重要な区別をしています。つまり、「第2バチカン公会議の文章は不可謬の教えを含み得る。しかしもし不可謬の教えがあったとしたら、それは第2バチカン公会議の中に含まれているからではなくて、それが既に別の荘厳教導権を持って不可謬的に定義され済みであったからである。」という区別です。

 ドロンゾ神父(E. Doronzo, OMI)は、オッセルヴァトーレ・ロマーノの1972年9月14可付けの記事の中で、第2バチカン公会議の文章が不可謬とは限らないことをはっきりと述べています。「特別教導権が不可謬ではない例には、第2バチカン公会議の様々の文章、そしてレオ13世からパウロ6世までの偉大なる教皇回勅のほとんどがそうです。」

(Examples of the non-infallible Extraordinary Magisterium include the various documents of Vatican II and most of the great papal Encyclicals from Leo XIII to Paul IV. Quoted in Michael Davies, ebidem, p.258.)

 イエズス会のジョゼフ・クリハン神父(Father Joseph Crehan)は、『神学カトリック辞典A Catholic Dictionary of Theology』(London, 1971, v.3, p.227)の中で、教会に関する教令を公布するとき、definimus(定義する)とする代わりにdecernimus ac statuimus(決定し制定する)とすることによって、不可謬の定義の無い教えを提示したと言う事実について述べています。公会議が発布した16の公文書は全て同じ言葉で発布されています。

 ウィリアム・マーシュナーは、信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)が聖伝の教えと矛盾しないと言うことを示そうとして、1983年秋号の『信仰と理性Faith and Reason』誌にこう書いています。

「私はそのほかの全ての神学者と共に、新しい範囲(ground)は不可謬とは限らない教えであると言えます。…私は公会議の教えが誤っている可能性があることを指摘します。

 ところで、カトリックの神学者がこのような可能性が存在することを認めることができるのでしょうか。勿論できます。信教の自由に関する宣言は、不可謬ではない文書です。そして、この宣言が提示している教えは「新しい発展」であると考えられています。従って、すでに通常教導職によって(ex magisterio ordinario)ドグマであると認められたものではありません。そのために、カトリック信者がこの教えに対して持たなければならない宗教上の同意(religious assent)の種類は、この教えが誤っていると言う論理的可能性を排除しない同意です。しかし、むしろ私たちの同意は、この教えが誤っていると言う全ての可能性を排除しています。」(quoted in Michael Davies, ibidem, 1992, p.261)

教会の教導職のうち、少なくとも2つの形態は不可謬権によって保護されています。それは、荘厳な判断によって教えられるものと、もう一つは通常普遍教導職によって教えられるものです。

第1バチカン公会議はこう言っています。「さらに、文字に書かれたあるいは伝えられた天主のみ言葉に含まれている、そしてあるいは荘厳判断によって(solemni iudicio)あるいは通常普遍的教導権によって(ordinario et universi magisterio)教会によって天主が啓示されたものとして信ずるべきであると示されたそれを全て「天主よりのカトリック信仰」によって信じなければならない。」第三総会:カトリック信仰に関する教義憲章《デイ・フィリウス》第三章

 私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。