第2バチカン公会議とは(3)
私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。
異論2:公会議は通常普遍教導職を代表している
この説はカッシキアクム説として唱えられています。この説の詳細については、カッシキアクムのノートCahiers de Cassiciacumに発表されています。
この説の論理は単純です。つまり、こう言っています。
「通常教導職は、教皇と共に交わる司教たちの教導職である。ところで、公会議の際には世界中の司教たちが集まっていた。従ってこの公会議において、カトリック教会の通常普遍教導職がある。」
カッシキアクム説を取る人たちは、この結論から、従ってこの公会議にはいかなる誤りもあってはならない、と結論付けます。それと同時に、第2バチカン公会議の教えは、教会が以前に行使した不可謬権を使っての教えと矛盾するものなので、パウロ6世教皇は本当の教皇(formaliter papa)ではなく(つまり、教皇としての権威を担うものではなく)、ただ単に聖ペトロの座を物理的に(materilaiter)占拠していたに過ぎない、と言うに至りました。
しかし、第2バチカン公会議が教会の通常普遍教導権を行使したと言う点に問題があるのではないでしょうか。
このカッシキアクム説については、教会の通常教導権が普遍的であるためには司教たちが集まるなどして、空間的に普遍的であるばかりか、いくらかの長い期間これを説くなど、時間においても広がっていなければならないなどと反論しようとした人がいました。[例えば、Pere Rene-Marie, "L'Infaillibilite du magistere ordinaire de l'Eglise", Una Voce Helvetica, janvier 1981]従って、公会議の教えが一時的であるので、通常普遍教導職ではなく、従って不可謬とは限らない、とするものでした。
これについてはカッシキアクム説を採るルシアン神父(abbe Lucien)がその著書『教会の通常普遍教導権の不可謬性』(L'Infailliblite du magister ordinari et universel de l'Eglise, Documents de catholicite, 1984)の中で反論を加えています。しかし、ここではその詳しい論争の中には入らないことにします。
ここでは、第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、次の2点を挙げてみます。
理由その1
まず、教皇ピオ9世は1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙の中でこう宣言しています。
「天主からの信仰行為によって表されなければならない服従は世界中に広がる全教会の通常教導職が天主から啓示されたものとして伝える事柄にまで及ばなければならない。」(ad ea quoque extendenda, quae ordinario totius Ecclesiae per orbem disperae magisterio tamquam divinitus revelata traduntur… DS 2880)
1870年4月6日、マルティン司教(Mgr. Martin)は第1バチカン公会議中に発言しカトリック信仰についての憲章のPorro fide divinaの段落中に挿入された「普遍的」という言葉の意味を説明しました。
「この普遍的という言葉は教皇聖下が使徒書簡(教皇ピオ9世の1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙)の中で使われた言葉とほとんど同じ意味idem fere significatです。つまり地上に散在する全教会の教導職という意味です。」(Mansi 51, 322 A17-CI)
ところで、司教たちが一堂に集った教導職は、地上に散在する司教たちの教導職とほとんど同じ意味なのでしょうか?地上の各地に散らばっていた司教たちが共に集うと言うことは、付帯的な違いに過ぎないのでしょうか。これは本質的な違いではないのでしょうか?
この地上の各地に散らばっている全ての司教たちが同じことを信仰に属することとして教えるとき、この普遍的教導職は不可謬です。なぜなら、彼らが全世界に広がっているにもかかわらず同じことを教えているのは、これらが使徒たちから伝えられた教えにその教えの起源を持つからです。もしかららが物理的に距離的に離れ離れになっているにもかかわらず、同じことを教えうるとしたらそれは彼らが使徒からの聖伝という同じ源泉からの教えを汲んでいたからです。
しかし、もし司教たちが一堂に集まっていたならばなぜ彼らが同じ教えを説いているかという理由に、別の理由が見出せます。つまり、圧力をかけられたとか、ほかの司教達に影響を受けたからなどです。これが第2バチカン公会議のときに起こったことではないでしょうか。もしも公会議が始まる前に、まだ世界各地に散在していた教父達に「信教の自由に関する公会議の教えが、既にあなた方の教区の信仰の一部となっていましたか?」とたずねたとしたら、その大多数が、もしかしたらその全員が、そのようなことは無いと答えていたことでしょう。しかし、公会議での4年間の圧力の後に、教父のほとんどを押し曲げることに成功してしまったのではないでしょうか。
このことを確認するかのように、神学者たちは、教義決定の公会議の教えはその定義の部分だけが不可謬であると教えています。これは教会の古典的な教えです。(Dictionnaire Theologie Catholique, "Infaillibilite du pape", col. 1700 (P. Galtier))
歴史の中には、公会議が荘厳に教義決定せずに教えた事柄に反対して、合法的に反対意見が教えられ続けたこともあります。このことは、司教たちが一つに集まって何か宣言をする、と言うことだけでは必ずしもそれが不可謬であるとは限らないことを意味しています。例えば、
第4ラテラン公会議(DS800)と、第1バチカン公会議(DS3002)は、天使は物体的被造物と同時に(simul)創造された、といっています、しかし、この「同時simul」と言うことをどのように解釈するかで神学者たちは論議をしています。神学者の中には、時間においての同時性を否定することはできないと言う人もいますし、この時間においての同時性を主張するのは有力な意見の一つに過ぎないと言う人もします(Pesch, De Deo creante et elevante, n. 360; Zubizarreta, Theologia dogmatico-scholastica, II, n.832.)。聖トマス・アクイナスは時間における同時性に好意的です。
フィレンツェの公会議は、アルメニア人への宣言(decretum)の中で、叙品の秘跡について語っています。この宣言は7つの上級・下級品級を秘蹟として挙げています。しかし、下級品級は秘蹟でないと言う多くの神学者もいます。例えば、カエターヌスや聖アルフォンソ・デ・リグオリ、またベネディクト15世などがそうです。(Sacrae Theologiae Summa, BAC, Madrid, IV, p622参照)。今日では、フィレンツェの公会議では、教皇は何も教義決定しようとはせず、ただラテン典礼挙式をアルメニア人に説明しようとしただけだと解釈されています。この場合には、この宣言は不可謬とは限りません。このことは第2バチカン公会議の信教の自由の宣言との類比analogiaになります。
やはりフィレンツェの公会議では、叙階の秘跡の質料は「司教が新しく叙階されるものに差し出すカリスとパテナを触れる行為(これを『祭器具の伝授』と言います。)」である、としました。しかしピオ12世は、叙階の形相と質料を定義する際に、「フィレンツェの公会議は、『祭器具の伝授が私たちの主イエズス・キリストの御旨から必要であった』と教えようとしたわけではない」といわれ、フィレンツェ公会議の教えとは異なり、司教の按手こそが質料であるとしました。
更にまたフィレンツェの公会議では、終油の秘蹟の質料は司教が祝別したオリーブ油でなければならないと宣言しました(DS1324)。しかし、教皇クレメンテ8世は1595年8月30日の教令Super ritibus Italo-Graecorumの中で、単なる司祭の祝別した油であってもこの秘蹟の質料として承認しています。
たとえ、歴史の中で確実に誤ったことを教えた公会議が無かったとしても、公会議がその全てにおいて必ず不可謬であるとは限りません。公会議が過去に誤らなかったと言うことは事実factumですが、しかしそれはこれからも必ずそうであると言う権利jusを持っているわけではありません。
また、必ずしも不可謬とは限らないということの例として、福者の列福があります。
理由その2
第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、第2の点を挙げてみます。それは、教える内容が信仰あるいは道徳に関する真理でなければならないということです。
教会の通常普遍教導権は、信仰に関する真理を教えるものです。つまり、天主から啓示を受けた真理に関するものです。そして、この啓示と必ず結合している真理にもこの教導権は及びます。ところでこの教えは、堅く決定的に信じるべき真理であると提示されなければなりません。
「使徒たちの後継者である司教たちは、公会議であろうと、公会議以外であろうと、彼らのうちに同意を見、教皇のもとで、決定的な方法で信じなければならない教えを信者たちに押し付けるとき、彼らは不可謬である。」(Thesis 13. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 665)
このカトリック信仰と切っても切れない結びつきがあるということから、この教えを受け入れなければならないと言う義務が生じるのです。通常普遍教導権であるためには、この教えが変わり得なく、天主から受けた啓示と分ちがかつ結びついているということを正確に述べなければなりません。ただ単に、啓示に基づくとか、啓示と合致するとか、教会によって伝えられたとか、聖霊において宣言する、と言っただけでは足りないのです。現代の高位聖職者の中には、変わり得ない真理があると言うことを認めようとしない人々がたくさんいますので、このような正確な表現をするのを好まないことでしょう。
結論として、以上の理由から、第2バチカン公会議は通常普遍教導権のもつ不可謬性を持っていないということができるではないでしょうか。
私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。
異論2:公会議は通常普遍教導職を代表している
この説はカッシキアクム説として唱えられています。この説の詳細については、カッシキアクムのノートCahiers de Cassiciacumに発表されています。
この説の論理は単純です。つまり、こう言っています。
「通常教導職は、教皇と共に交わる司教たちの教導職である。ところで、公会議の際には世界中の司教たちが集まっていた。従ってこの公会議において、カトリック教会の通常普遍教導職がある。」
カッシキアクム説を取る人たちは、この結論から、従ってこの公会議にはいかなる誤りもあってはならない、と結論付けます。それと同時に、第2バチカン公会議の教えは、教会が以前に行使した不可謬権を使っての教えと矛盾するものなので、パウロ6世教皇は本当の教皇(formaliter papa)ではなく(つまり、教皇としての権威を担うものではなく)、ただ単に聖ペトロの座を物理的に(materilaiter)占拠していたに過ぎない、と言うに至りました。
しかし、第2バチカン公会議が教会の通常普遍教導権を行使したと言う点に問題があるのではないでしょうか。
このカッシキアクム説については、教会の通常教導権が普遍的であるためには司教たちが集まるなどして、空間的に普遍的であるばかりか、いくらかの長い期間これを説くなど、時間においても広がっていなければならないなどと反論しようとした人がいました。[例えば、Pere Rene-Marie, "L'Infaillibilite du magistere ordinaire de l'Eglise", Una Voce Helvetica, janvier 1981]従って、公会議の教えが一時的であるので、通常普遍教導職ではなく、従って不可謬とは限らない、とするものでした。
これについてはカッシキアクム説を採るルシアン神父(abbe Lucien)がその著書『教会の通常普遍教導権の不可謬性』(L'Infailliblite du magister ordinari et universel de l'Eglise, Documents de catholicite, 1984)の中で反論を加えています。しかし、ここではその詳しい論争の中には入らないことにします。
ここでは、第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、次の2点を挙げてみます。
理由その1
まず、教皇ピオ9世は1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙の中でこう宣言しています。
「天主からの信仰行為によって表されなければならない服従は世界中に広がる全教会の通常教導職が天主から啓示されたものとして伝える事柄にまで及ばなければならない。」(ad ea quoque extendenda, quae ordinario totius Ecclesiae per orbem disperae magisterio tamquam divinitus revelata traduntur… DS 2880)
1870年4月6日、マルティン司教(Mgr. Martin)は第1バチカン公会議中に発言しカトリック信仰についての憲章のPorro fide divinaの段落中に挿入された「普遍的」という言葉の意味を説明しました。
「この普遍的という言葉は教皇聖下が使徒書簡(教皇ピオ9世の1863年12月21日のミュンヘンの大司教宛への手紙)の中で使われた言葉とほとんど同じ意味idem fere significatです。つまり地上に散在する全教会の教導職という意味です。」(Mansi 51, 322 A17-CI)
ところで、司教たちが一堂に集った教導職は、地上に散在する司教たちの教導職とほとんど同じ意味なのでしょうか?地上の各地に散らばっていた司教たちが共に集うと言うことは、付帯的な違いに過ぎないのでしょうか。これは本質的な違いではないのでしょうか?
この地上の各地に散らばっている全ての司教たちが同じことを信仰に属することとして教えるとき、この普遍的教導職は不可謬です。なぜなら、彼らが全世界に広がっているにもかかわらず同じことを教えているのは、これらが使徒たちから伝えられた教えにその教えの起源を持つからです。もしかららが物理的に距離的に離れ離れになっているにもかかわらず、同じことを教えうるとしたらそれは彼らが使徒からの聖伝という同じ源泉からの教えを汲んでいたからです。
しかし、もし司教たちが一堂に集まっていたならばなぜ彼らが同じ教えを説いているかという理由に、別の理由が見出せます。つまり、圧力をかけられたとか、ほかの司教達に影響を受けたからなどです。これが第2バチカン公会議のときに起こったことではないでしょうか。もしも公会議が始まる前に、まだ世界各地に散在していた教父達に「信教の自由に関する公会議の教えが、既にあなた方の教区の信仰の一部となっていましたか?」とたずねたとしたら、その大多数が、もしかしたらその全員が、そのようなことは無いと答えていたことでしょう。しかし、公会議での4年間の圧力の後に、教父のほとんどを押し曲げることに成功してしまったのではないでしょうか。
このことを確認するかのように、神学者たちは、教義決定の公会議の教えはその定義の部分だけが不可謬であると教えています。これは教会の古典的な教えです。(Dictionnaire Theologie Catholique, "Infaillibilite du pape", col. 1700 (P. Galtier))
歴史の中には、公会議が荘厳に教義決定せずに教えた事柄に反対して、合法的に反対意見が教えられ続けたこともあります。このことは、司教たちが一つに集まって何か宣言をする、と言うことだけでは必ずしもそれが不可謬であるとは限らないことを意味しています。例えば、
第4ラテラン公会議(DS800)と、第1バチカン公会議(DS3002)は、天使は物体的被造物と同時に(simul)創造された、といっています、しかし、この「同時simul」と言うことをどのように解釈するかで神学者たちは論議をしています。神学者の中には、時間においての同時性を否定することはできないと言う人もいますし、この時間においての同時性を主張するのは有力な意見の一つに過ぎないと言う人もします(Pesch, De Deo creante et elevante, n. 360; Zubizarreta, Theologia dogmatico-scholastica, II, n.832.)。聖トマス・アクイナスは時間における同時性に好意的です。
フィレンツェの公会議は、アルメニア人への宣言(decretum)の中で、叙品の秘跡について語っています。この宣言は7つの上級・下級品級を秘蹟として挙げています。しかし、下級品級は秘蹟でないと言う多くの神学者もいます。例えば、カエターヌスや聖アルフォンソ・デ・リグオリ、またベネディクト15世などがそうです。(Sacrae Theologiae Summa, BAC, Madrid, IV, p622参照)。今日では、フィレンツェの公会議では、教皇は何も教義決定しようとはせず、ただラテン典礼挙式をアルメニア人に説明しようとしただけだと解釈されています。この場合には、この宣言は不可謬とは限りません。このことは第2バチカン公会議の信教の自由の宣言との類比analogiaになります。
やはりフィレンツェの公会議では、叙階の秘跡の質料は「司教が新しく叙階されるものに差し出すカリスとパテナを触れる行為(これを『祭器具の伝授』と言います。)」である、としました。しかしピオ12世は、叙階の形相と質料を定義する際に、「フィレンツェの公会議は、『祭器具の伝授が私たちの主イエズス・キリストの御旨から必要であった』と教えようとしたわけではない」といわれ、フィレンツェ公会議の教えとは異なり、司教の按手こそが質料であるとしました。
更にまたフィレンツェの公会議では、終油の秘蹟の質料は司教が祝別したオリーブ油でなければならないと宣言しました(DS1324)。しかし、教皇クレメンテ8世は1595年8月30日の教令Super ritibus Italo-Graecorumの中で、単なる司祭の祝別した油であってもこの秘蹟の質料として承認しています。
たとえ、歴史の中で確実に誤ったことを教えた公会議が無かったとしても、公会議がその全てにおいて必ず不可謬であるとは限りません。公会議が過去に誤らなかったと言うことは事実factumですが、しかしそれはこれからも必ずそうであると言う権利jusを持っているわけではありません。
また、必ずしも不可謬とは限らないということの例として、福者の列福があります。
理由その2
第2バチカン公会議が教会の通常教導職を表すものではなかったと言う理由として、第2の点を挙げてみます。それは、教える内容が信仰あるいは道徳に関する真理でなければならないということです。
教会の通常普遍教導権は、信仰に関する真理を教えるものです。つまり、天主から啓示を受けた真理に関するものです。そして、この啓示と必ず結合している真理にもこの教導権は及びます。ところでこの教えは、堅く決定的に信じるべき真理であると提示されなければなりません。
「使徒たちの後継者である司教たちは、公会議であろうと、公会議以外であろうと、彼らのうちに同意を見、教皇のもとで、決定的な方法で信じなければならない教えを信者たちに押し付けるとき、彼らは不可謬である。」(Thesis 13. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 665)
このカトリック信仰と切っても切れない結びつきがあるということから、この教えを受け入れなければならないと言う義務が生じるのです。通常普遍教導権であるためには、この教えが変わり得なく、天主から受けた啓示と分ちがかつ結びついているということを正確に述べなければなりません。ただ単に、啓示に基づくとか、啓示と合致するとか、教会によって伝えられたとか、聖霊において宣言する、と言っただけでは足りないのです。現代の高位聖職者の中には、変わり得ない真理があると言うことを認めようとしない人々がたくさんいますので、このような正確な表現をするのを好まないことでしょう。
結論として、以上の理由から、第2バチカン公会議は通常普遍教導権のもつ不可謬性を持っていないということができるではないでしょうか。