カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第二バチカン公会議 3-3「典礼について」の草案をめぐって

2017-01-08 22:05:00 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

(解説)第二バチカン公会議

3-3「典礼について」の草案をめぐって

 1962年10月22日、第3回総会が開かれ「典礼について」の草案をめぐっての議論が開始した。これによって保守派と進歩派の対立が明らかにされた。

 保守派と言われたのは、事務総長のフェリチ枢機卿、ルッフィーニ枢機卿、オッタヴィアーニ枢機卿、シリ枢機卿など教皇庁系のイタリア人枢機卿ら、アイルランドのブラウン枢機卿、スペイン系、北米、南米の教父たちであった。ローマのラテラン大学も同意見であった。

 進歩派と言われたのは、ベルギーのスーネンス枢機卿、オランダのアルフリンク枢機卿、フランスのリエナール枢機卿、ドイツのフリンクス枢機卿やデフナー枢機卿、ベア枢機卿などの中央ヨーロッパ系(「ヨーロッパ同盟」と呼ばれていた)や少数の北イタリアの教父たちであった。その他、オランダのスキレベークス神父やフランスのコンガール神父、ドイツのラーナー神父などもいた。ローマのグレゴリオ大学も同意見であった。


3-4「典礼について」をめぐる保守派と進歩派の対立

 1962年10月22日 - 11月13日、典礼に関する草案について討論が行われた。進歩派のレジェ、アルフリンク、エルヒンガーなどの教父は、共同司式ミサパンとブドウ酒の両形色の聖体拝領を主張した。

 1962年10月30日の総会で、保守派のオッタヴィアーニ枢機卿はそれに反論したが、割り当てられた十分間にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、議長であった進歩派のアルフリンク枢機卿は、規定の時間を超えるとオッタヴィアーニ枢機卿のマイクのスイッチを突然切ってしまった。屈辱を受けたオッタヴィアーニ枢機卿は黙って自分の席に戻ったが、多数の教父は嘲笑と拍手で議長を支持した。


3-5「啓示の諸源泉について」の草案における意見の対立

 1962年11月14日 - 11月22日、「啓示の諸源泉について」の草案について討論が行われた。

 1962年11月14日、「啓示の諸源泉について」という予め作成されていた草案は、カトリックの教義を明確に出し過ぎておりエキュメニカルな観点から望ましくないと非難され、初日からリエナール、フリンクス、レジェ、ケーニッヒ、リッターなどの進歩派の教父が反対した。

 11月17日、デフナー枢機卿も加わり、進歩派は準備委員会によって作られた草案全体を却下しその代わりに、既にラーナー神父によって準備されていた草案を支持した。

 11月20日、議長であった進歩派のフリンクス枢機卿は「啓示の諸源泉について」の草案討議の中断を公会議の投票に付した。投票の結果、賛成は1386票、不賛成は822票であり、賛成投票は3分の2の多数には及ばなかった。事務総長のフェリチ枢機卿は、討議は続行すると宣言した。しかし、教皇ヨハネ23世は、ベア枢機卿とレジェ枢機卿の要求に屈服し、公会議の規定を無視して、この草案は破棄となった。


3-6「教会について」の草案における意見の対立

 1962年12月1日 - 12月7日、「教会について」の草案に関する討論が行われた。

 12月1日、「教会について」という予め作成されていた草案は、初日からリエナール(この草案は「キリストの神秘体をローマ教会と同一視している」)、フリンクス(「ギリシア・ラテンの教父思想の発露がない」)、デフナー(「神の民と司教団についての説明がない」)、ド・スメット(「勝利主義的法律的傾向が強い」)、レルカノ(「貧者の教会の思想がほしい」)、モンティーニ(「キリストと教会との関係の説明が不十分」)、マクシモス(「エキュメニカルな配慮が足りない」)などの進歩派の教父が反対した。この草案は、教皇の判断と決定によって、票決されることなく廃案となった。


3-7、その他の議事内容

1962年11月23日 - 11月26日、「マスコミについて」の草案に関する討論が行われた。
1962年11月26日 - 11月30日、「東方教会との一致について」、「聖母マリアについて」、「エキュメニズムについて」の3草案に関する討論が行われた。


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第二バチカン公会議 3:第1会期(Sessio Prima 1962年10月11日 - 12月8日)

2017-01-08 22:00:56 | 第二バチカン公会議

第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、以後の教えは大きく変わりました。

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3、第1会期(Sessio Prima 1962年10月11日 - 12月8日)

 教会憲章『フマネ・サルーティス』により、第2バチカン公会議は1962年に開催されることとされ、自発教令『コンシリウム・ディウ』により、開催の日は10月11日と定められた。

3-1、開会式(1962年10月11日)

 1962年10月11日、教皇を中心とした2500人の参加者たちは会場であるサン・ピエトロ大聖堂に集まり、ヴィエンヌ公会議以来の伝統的なスタイルの儀式によって公会議を開始した。そこには世界86カ国の政府から派遣された使節も参加していた。

 10月11日の荘厳な開会式においてヨハネ23世教皇は、第2バチカン公会議の目的として教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト者の一致・世界と教会の一致をはかることだとしつつ「世界の誤謬を糾弾するものではなく、慈悲をもって世界の問題に対処する態度を追求する」公会議とすることを説いた。

 ヨハネ23世は、公会議開会演説でその公会議の開催の理由と自分の楽観主義、公会議の方針をこう説明する。

「この会議のことは最初、ほとんど思いがけなく私の心に浮かんできたことで、次に、1959年1月25日、聖パウロの回心の祝日に当たってオスチア街道にある聖パウロ大聖堂で、そのまま単純に枢機卿各位の前で発表されたことであります。」 「日々の使徒的任務を遂行するにあたって、たびたび私の耳に届いて不愉快に思うことがあります。それは信仰の熱心に燃えていながら公平な判断と賢明な思慮を欠いた人々の声であります。この人々は、人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることが出来ず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと繰り返し言い続けます。... あたかも世の終りが近づいたかのように、つねに災いしか予告しない不運の預言者に私は絶対に賛成できません。」 「私たちのなすべきことは、ただこの高価な宝を守って、ひたすら古いことを研究することではありません。...この世界会議が第1にめざす目標は、教会の主要な教えのいくつかを討議することではなく、教父や過去および現代の神学者たちによって伝えられ、当然ここにご列席の皆様が知っておられる事柄を繰り返すことでもありません。...忠実に守られるべき、この確固不動の教えが、現代の要求する方法で探求され、説明されなければ成りません。尊ぶべき教えに含まれている真理、すなわち信仰の遺産そのものとこれを表す方法とは同じではありません。...おもに司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法でなければならないのです。」 「誤謬には教会はいつも反対し、時には断固とした厳しさをもって誤謬を断罪しましたが、現代のことについて申しますならば、キリストの花嫁である教会は、人々を厳しく取り扱うよりは、むしろ慈しみの薬を用いていやそうとしています。断罪するよりは、自分の教えの価値を示しながら、現代の要求に応える方が良いと思われます。」


3-2、第1回総会(1962年10月13日)

 第1会期(Sessio Prima)は10月13日の第1回総会(prima congregatio generalis)と共に開かれた。第1回総会は、委員会の委員の選挙が行われるはずだった。10の委員会はそれぞれ25人の委員を持ち、それぞれの委員長は教皇によって、さらに残る各委員会24人の内の8人は教皇によって選ばれ、のこる16人の委員は公会議が選出することになっていた。従って、公会議は計160人の委員を選ぶ予定であった。

 世界中至る所から来て初めて顔を合わせる司教たちの大半は、お互いを知らず、知っていてもわずかであった。従って、お互いに知らない司教2400人のために、特別専門委員会の委員として誰が適任なのか、聖座は司教たちに提案した。

 フェリチ枢機卿は参列している各司教たちに対し、選ぶ完全な自由を残しながら、第2バチカン公会議準備委員会の委員の名前のリストを配布した。その理由は、彼らは既に第2バチカン公会議の準備に携わっていたから経験を積んだ専門家だったからであり、自由に適任者を選ぶ助けになったからであった。聖座が選んだ彼らが教父たちによってそのまま選択されることは望ましいことだった。事務総長のフェリチ大司教は、委員たちの選挙に直ぐ入るように教父たちに指示した。

 しかし聖座によって予期されていなかった出来事が起きた。公会議は、その初日から、公会議教父たちの大部分は、何か異常なことが起きていると感じた。教皇庁のスタッフになる準備委員会によって提案された議事運営方法にリールの司教リエナール枢機卿が異議を唱えたからだ。リエナール枢機卿は、マイクを取ろうとすると、議長であったティスラン枢機卿は形だけの抵抗をした。リエナール枢機卿はマイクを取り大きな声で抗議し、フェリチ枢機卿のリストは司教らの自由を奪う教皇庁からの圧迫であると非難した。リエナール枢機卿は拍手喝采を受けた。

 公会議事務総長フェリチ大司教はこれに反対の考えだったが、ケルンのフリンクス大司教が次に演説し、リエナール枢機卿を支持して更なる拍手喝采を受けた。最初の議長のティスラン枢機卿は10月16日まで選挙を延期することを宣言した。

 こうして第1回総会は、わずか20分で議事を終了し閉会した。オランダの或る司教は、公会議会場から退場しつつ友人の司祭に「私たちの最初の勝利だった!」と叫んだ。

 この「クーデター」を計画していた枢機卿たちは、既にライン川周辺の中部ヨーロッパ作成のリストを準備していた。それは、リベラル派のリストであった。

 10月16日、第2回総会で、委員会委員の投票が行われた。しかし、投票に付しても、このリストは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得なかった。そこで、リベラルな枢機卿たちはヨハネ23世教皇に規則の例外を認めさせるように圧力をかけた。投票総数の半分以上を獲得している、これは明らかに公会議の大多数の意志である、と。教皇ヨハネ23世は公会議の規定を無視してこのリストを受け入れ、公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれた。この結果、自分たちの立てた109人の候補者の内79人が当選し「ヨーロッパ同盟」は座席の 49%を得た。教皇による指名により、更に8人がヨーロッパ同盟の委員が成立した。更に、典礼・教育・宣教・修道生活の専門として見なされていた修道会総長評議会が立てた候補者は誰一人として当選しなかった。

 既製のリストによれば委員の100人はイタリア人司教が予定されていたが、イタリア人は20名に留まった。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属していた。冒頭の選挙において聖座を押さえて自己主張した司教らは、公会議の指導権をますます握っていった。このことは「ライン河はティベル河に流れはじめた」と論評された。

 以降、公会議では単に教皇庁準備委員会の提示したものに参加者が賛成するのではなく、参加者たちがグループをつくって議論を繰り返しながら主体的に話し合いをすすめていくというスタイルがつくられていく。

 10月15日、委員選挙と平行し、フリンクスは、リエナール、アルフリンクの進歩派は、公会議の最初の議題は最も進歩的な内容、すなわち典礼について討論されるべきだと主張し、議長団の10人はヨハネ23世にそれを要求しに謁見していた。

 10月16日、同じく第2回総会で、公会議の最初の議題として最も進歩的な草案が討議されることが発表された。つまり「典礼について」であった。こうして、検邪聖省を中心とする「教皇庁的考え方は予想以上の抵抗にあって自由な前進を阻まれたのである。しかも抵抗する司教団に支持を与えたのは教皇自身であった。」

 第1会期では、典礼の諸問題、東方典礼の問題などが扱われた。同時に話し合われた啓示についての討論では、草案が棄却され、書き直しが求められた。第1会期は結局満足のいく成果をみることができなかったが、以後の会期の運営のあり方が確立された。

 第1会期では予め準備されていたいかなる草案も承認されなかったという事実が、ラッツィンガー神父によれば「第1会期の偉大な、驚くべき、正真正銘の肯定的結果」だった。これは「準備作業の背後にあった精神に反対する強い反動」の証拠で「公会議の第一会期のエポック・メイキングな特徴である」と呼んでいる。

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第二バチカン公会議 2-5、スーネンス計画

2017-01-08 21:09:29 | 第二バチカン公会議
第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。

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2-5、スーネンス計画

 ヨハネ23世は、スーネンスを中央準備委員会員に指名したが、準備作業に全く指針を提供しなかったヨハネ23世にとって、秘密裏にスーネンスに73と多すぎる草案を縮小することを任せた。

 スーネンスは、予備草案を全て二つの枠組みで作り直そうとした。教会内部に向けての発言と、教会外部に向けての発言という二つの領域である。このスーネンス計画は、第2バチカン公会議開始前の1962年4月の終わりには準備完了され、5月中旬には、教皇の命令でこの計画が、少数の有力な枢機卿たちに伝達された。デフナー、モンティーニ、シリ、リエナール、レルカノなどの枢機卿らであった。これは予備草案を廃案にすることであった。準備委員会には仕事を続けさせながら、同時にその廃案を他の委員会に任せていた。


2-6、「キリスト教一致促進事務局」

 「キリスト教一致促進事務局」は、10の下部の委員会に属している専門家らに対して、他の委員会で取り扱っていた議題に関する提案や草案の下書きを、エキュメニズムの観点で作成させていた。同時に、特別草案として、エキュメニズム、信教の自由及びユダヤ人問題に関する草案も準備させた。キリスト教一致促進事務局は、この3つの特別草案をオッタヴィアーニの神学委員会に送ったが、神学委員会は無視した。

 1962年2月1日、ヨハネ23世は、対立関係にある草案が、オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会およびその他の委員会を通さないで直接中央準備委員会に上がるように定めた。この一つが、信教の自由に関する草案だった。


2-7、中央準備委員会の第7回総会

 1962年6月18日、最終総会である中央準備委員会の第7回総会が開かれた。

 1962年6月19日、最終会議の2日前、中央準備委員会は対立関係にある二つの草案を討論することになっていた。一つは、オッタヴィアーニ枢機卿が直接作成した神学委員会の「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関する草案である。もう一つは、ベア枢機卿のキリスト教一致のための事務局が草稿した「信教の自由」という草案である。

 枢機卿たちは二つの陣営に分かれて、激論をした。オッタヴィアーニ枢機卿の草案の中心になる関心事は、カトリック信仰の保護であり、真の宗教における市民全員の一致に基礎をおいた世俗の共通善の保全であった。自由とは、真理と善徳のためであって、誤りや悪のためにあるのではない。ベア枢機卿の草案は、すべての場合とすべての人々に信教の自由が適用される、とした。

 イタリア系、スペイン系、ラテン・アメリカ系の教父らは、オッタヴィアーニの草案に賛成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父たちは、ベアの草案を支持して、真っ二つに対立していた。

 この準備委員会はほとんどが聖座のスタッフによって編成されていたが、彼らによって73にのぼる公会議文書の草案(シェーマ、シェマータ)が完成した。

 委員会は多くの草案を変更し、採用されなかった草案もあった。教会法改訂委員会に送り返されたり、他の草案と合体した草案もあった。草案の数は圧縮され縮小され 73から 20に減った。

 7月13日、草案の内、公会議で討議されるべき7つの草案が将来の公会議教父たちに送付された。スキレベークス神父はこの草案を厳しく批判しドイツ語圏の司教たちに広く配布された。これは各国語に訳されて広く読まれた。

 7月20日、中央準備委員会の職務は終了した。公会議には枢機卿団、司教団や修道会の長上、顧問神学者団以外にも歴史上初めてオブザーバーとしてプロテスタント諸教会や東方正教会の代表者たちへの参加が要請された。実際にそれらの代表団がバチカンに到着したことで、議題の一つであった教会の一致(エキュメニズム)へ向けての機運も高まっていった。

 前述の人々を含んだ会議の参加者は史上空前の規模であった。予定参加者は実に2908名に及んだ。実際に第1会期の初めに参加できたのは2540人であり、全会期を通じて参加者は2100人から2300人程度になったが、それ以外にも投票権を持つ参加者(公会議教父)が私的な顧問として招聘していた神学者たちやスタッフを含めるとそれは膨大な数に上っていた。


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