カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

ルターの誤りと現代世界の精神 結論

2017-01-23 01:42:02 | プロテスタント関連
結論

 ルターは自分の出した四つのsoli(のみ)を持って、キリスト教的道徳と、霊魂の内部における聖霊のわざ、そして全キリスト教世界を破壊した。

 まず、ルターはキリスト教的道徳を破壊した。何故なら自由選択能力なしには、すべての道徳は聖寵を受けることになるからである。ルターの次の言葉の中に、この考えの実りが鮮やかに描き出されている。ルター曰く「力強く罪を犯せ、そしてもっと強く信じろ」

 霊魂における聖霊の働きの最も美しい実りは聖人である。しかしルターは彼らを聖人の位から取り外してしまった。それはたとえルターが、自分の論理に従わずにその生涯においていくらかの聖母に対する信心を持っていたとしてもである。司祭職を拒否するものには聖寵の源が閉ざされる。ミサ聖祭を否定するものには十字架につけられ栄光を受けた主が取り去られる。

 最後にルターはキリスト教世界を破壊した。キリスト教世界とは、自由と聖寵との調和ある協力、天主と天主に従属する人間との間にある調和的な協力の上に打ち立てられた世界である。永遠なるものが時間において現れたことの上に立てられたキリスト教世界は、キリストが私たちにそのあがないの御血において残された制度のうちに成り立つ。つまり、その制度とは、婚姻の秘蹟と家族、修道院と神学校、司祭職と教皇制度、カトリック学校と、国家元首がその任務において天主の権威に参与するカトリック国家である。キリスト教世界の位階制度の構造において、これは天主に仕える天使聖人の秩序を反映し、天からのエルサレムの目に見える現れであった。

 ルターはしかし、結婚は単に純粋な世俗の事柄に過ぎない、修道者の誓願は天主から起源するものではなく、人間によるものでありゆゆしき乱用であると宣言した。ルターは教皇とローマ皇帝に反乱を起こし革命的精神に従属する。

 私たちはプロテスタントの信者を個人個人判断することは避けなければならない。彼らの中には彼らの責任によらないでどうしても仕方のない事情によって誤謬のうちにいるものがいる。しかしほとんどは宗教的無関心である。十字架につけられた私たちの主への純粋な愛のために、私たちは彼らにもう一度良く考え直してくれるように心からお願いしよう。彼らを父の家から遠ざけている自分たちの意図的な惨めな状態を考え直し、唯一の牧場、唯一の牧者のもとに立ち戻るようにとお願いする。それは他でもなく、聖母マリアの母なる保護とすべての聖人達の保護のもとに、私たちと一緒に、天主なるイエズスの御心の王国をこの地上に建設し、イエズスによって聖ペトロの上に立てられた主の聖なる教会に無私の心で使えるためである。(了)

ルターの誤りと現代世界の精神 4 Solus Deus(天主のみ)

2017-01-23 01:40:47 | プロテスタント関連
4 Solus Deus(天主のみ)

即ち、教会による救いの仲介と諸聖人の取り次ぎなし

 カトリックは二次的原因によって救いが伝えられると断言する。つまり、教会とその司祭的司牧によって、諸聖人とその取り次ぎによって、特に天主の御母聖母マリアの仲介によって救いが伝えられると主張する。プロテスタントは反対に救いは天主から直接来る、仲介無く来るという。従って秘蹟は聖寵の運河の第一の手段ではなく、共同体のしるし、イニシエーションの象徴である。

 この重大な誤謬に答えるためには、まず第一に天主ご自身がこの世の統治を二次的原因によることを望み、確立されたことを言わなければならない。このことは自然的分野においても超自然的分野においてもそうである。信仰と聖寵との秩序においてこのことは御托身の玄義、そして御托身の玄義の延長である位階制度・いけにえ・秘蹟生活をもつ教会の玄義においてすぐに明らかとなる。天主とキリストそして教会とは離すことができない。「父が私を派遣したように私もおまえたちを派遣する。」(ヨハネ20;21)と主は使徒たちに言われた。

 つまり、彼らは、天主なる御父と、またキリストと同じ使命、同じ権威、同じ効果を持っているのである。従って、もしキリストが自分のことを御父へと通じる唯一の道であると言われたのなら、教会は永遠の救いへと至る唯一の道である。主が信仰の宝、信仰の遺産(depositum fidei)、聖寵の宝、聖寵の遺産(depositum gratiae)を委託したのは使徒たちにであった。そのとき、秘蹟はイエズスキリストの人性が延長されたものとして見えてくる。何故なら、キリストの人性を通してその天主であることが明らかにされたからである。

 第二には、主はいろいろな方法で明らかに使徒たちにご自分の使命を続けるようにと命令された。「これを私の記念として行え」(ルカ2;14)「行ってすべての国々に教えよ。彼らに父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ。」(マテオ28;19)おまえたちが赦す罪は赦され、おまえたちが赦さない罪は赦されないであろう。」(ヨハネ20;23)「私は毎日世の終わりまでおまえたちとともにいる。」(マテオ28;20)聖ヤコボは、すでにどうして終油の秘蹟を授けるべきかについて教えている。(ヤコボ5;14)

 教会は、天主へと向かう人の道である。何故ならキリストが天と地、天主と人々との間の唯一の仲介者であるからである。キリストは道・真理・命である。しかし、天主は、その計り知れない玄義において、人をして救いの業に参与せしめようと望まれた。

 人はそのため王的司祭職によって、従って、位階制度を伴った司祭職によって、諸聖人の取りなしによって、キリスト者の努力によって、諸聖人の通功によって救いの業に参与できるのである。

 使徒行録の一説はルターの誤謬を論破するのに十分である。聖パウロはダマスへの道を行く途中で、彼が直接に受けた天主の光によって目が見えなくなった。しかし、彼が視力を回復するのはアナニアの祈りと按手によって、即ち人間の仲介によってのことであった。

 ルターは教皇を反キリストと言って侮辱する。彼は役務的司祭職を捨て去り、それを信者の共通司祭職によって置き換えた。諸聖人の崇敬と彼らの取りなしに対する信仰はプロテスタントにおいては崩壊した。

 教導職はもはや存在しないために、聖書をそのそれぞれの信者が読み、不可謬的に解釈し、そうして読まれた聖書が唯一の啓示を知る源なのであるから、信者はそれぞれ信仰の固有の尺度となる。こうして、プロテスタント主義が幾千幾万の党派に分裂する基礎が置かれた。そして、この論理的結論である宗教的無関心、宗教無差別主義にたどり着くには一歩踏み出せばよいだけである。プロテスタントともし現代、私たちがカトリックとプロテスタントの信仰の違いについて話し合いをしたとするとプロテスタントはこうお決まりの文句を出すだろう。「私たちはみんな同じ神様を拝んでいるのです。」

 プロテスタントによれば、従って自分の犯した罪の天主からの赦しを得るために、司祭の足下に跪く必要はない。天主に直接に赦しを乞う。従ってプロテスタントの牧師は叙階の必要がない。罪の赦しのための特別の権能を得る必要がない。牧師はキリスト者の共同体の代表である。牧師には確かに何か特別の勉強が必要だろうが、霊的権能の伝達が必要であるのではない。

 教会は、その救いの玄義とその役務の玄義において崩壊するともに、天主の御母聖母マリアへの信心も廃止された。プロテスタントのシステムの中には聖母の普遍的仲介のあるところがない。それは、諸聖人の取りなしがその中に位置を占め得ないのと同じ理由に基づく。

 

 何故天主は第二次原因によってこの世を統治しようと望まれたのか。何故特にこのことは超自然的秩序についていえるのか。何故天主は不可謬の教導職を望まれたのか。何故天主は司祭的な役務と諸聖人の通功を望まれたのか。

 まず第一の理由は私たちの人間本性から由来する。第二の理由は私たちの原罪後の性質から来る。

 無限なる天主、目に見えない永遠なる天主は、その無限の御憐れみにより、私たちが私たちと同じような有限の・目に見える・死すべき被造物の仲介を通して天主に近づくことができるように望まれた。もしモーゼでさえも天主をシナイ山の上で目の当たりに見た後には、自分の顔をベールで覆わなければならなかったのなら、私たちが直接に天主に近づくのはどれほど難しいことだろうか!

原罪を犯した後には天主は私たちが私たちの霊魂の傷を癒すのに五感に感じることのできる要素の下に私たちをおこうと望まれた。何故なら天主は最高の医者であり、教育者であるからだ。天主の望みによって、救いは数滴の水、少しの油、少しのパン、数滴のワイン、私たちと同じ罪人である人間の司祭の足下に罪を告白するためにひざまずくという行為をするかしないか、それらがあるかないかにかかってきた。傲慢な人間にとってなんと良い教えになることか!

 プロテスタントはキリストに忠実でありたいと自分では言っている。しかし彼らはキリストがその御血の値を持って打ち立てた制度を打ち捨てている。彼らはキリストがご自分のわざをこの地上において継続するために選んだ者たちを拒否する。彼らは類比の原理がわからないのでキリストが時空を通して伝えられ広がっていること(すなわち教会)を理解しない。

 ルターのこの四番目の誤謬は、必然的に聖霊降臨とカリスマ運動の時代へと結びつく。彼らによれば、誰でも位階制度を通さずに、司祭をも、聖母をも通さずに、直接聖霊を受ける。今誰もが教会の新しい時代について語っている。しかし、これはルターの打ち立てた誤った原理が最後に行き着くところ以外の何ものでもない。

 おそらく、この怪物のような異端への準備段階が、「神の民」という観念が皆に導入されたことによってなされたのだろう。この「神の民」というのはもともとは旧約聖書の中にあり、司祭階級を持った選民イスラエルのことを意味していた。しかし人々はこの言葉をプロテスタント主義の息吹のもとに民主主義的な意味に取っている。そしてこれは現在教会の位階制度と教会の司祭職を否定することを暗示している。

 新しい教会法の204条には、信者はそれぞれキリストの司祭職、預言職、王職に直接参与するとある。この時、現在の文脈においては役務的司祭職の放棄と否定を意味している。

 ルターのさらにもう一つの誤謬はその影響範囲と結果が大変重要である。それは、教皇と司祭職の権威を打ち捨てたためにルターは教会外に権威を探さなければならないと言う生存上の必要に迫られた。何故なら、ルターを支持する者たちの間で既に無秩序がほぼ根づいたように、大混乱と全くの無秩序を避けたいならばどうしても何か権威が必要だった。この権威を諸侯において彼は見いだした。彼は、自分の宗教を彼らの手に任せた。

 プロテスタント主義の歴史を外観するとき、プロテスタント主義は、たとえ独裁的権威であったとしてもどのようにして世俗の権威に身を委ねたかを見るのは興味深い。1933年、ヒトラーはプロテスタントの圧倒的な投票によって政権に付くことができた。しかし、それとは対照的にカトリック地方ではヒトラーの政党を拒否していたのだった。また同様に、東ドイツの共産主義体制はプロテスタントの牧師達の忠実な協力を期待することができた。