カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

ルターの誤りと現代世界の精神 3 Sola gratia(聖寵のみ)

2017-01-22 03:15:24 | プロテスタント関連
3 Sola gratia(聖寵のみ)

即ち、人間の持つ道徳的自由による人間の協力なし

 ルターは、人間の義化と人間の聖化の業に人間自身が協力するという考えを受け入れたくなかった。

 ルターにとって天主の聖寵がすべてをなし全くそれだけですべてをなすと考えた。ルターは、原罪に関し、また原罪の結果に関する誤った概念によってこの人間の協力の否定へとたどり着いた。

 つまり、彼によると、原罪によって人間の本性はが、教会の教えているように「ただ単にきわめて深く傷つけられた」だけではなく、完全に破壊された、特に自由選択能力が完全に破壊され尽くされたという。従って、人間は天主からのメッセージを理解することも、天主の聖寵を受け入れることも全くできなくなったという。人間は天主の呼びかけに対しては耳を閉ざされ、いかなる方法によっても自分の癒しと救いのために協力することは不能になったという。

 ルターにとって義化がただ単なる外的過程に過ぎなくなったのは全く論理的である。天主はイエズス・キリストの功徳のマントを罪人に覆い被せ、彼は義化されたと宣言するが、罪人は内的には罪人のままのこりその存在は内的に全く変化していない。

 カトリックによって義化は罪人の状態から義とされた状態への真の内的移り変わりであり、外的宣言は、聖寵によるこの霊魂の変化とともに対をなしている。聖パウロは初代キリスト信者を清められたもの、義とされたもの、聖化されたもの、天主から愛されたものと呼んでいる。

 自由の否定はルターをしてすべての人間による超自然の業を行おうとすることは、また教会のすべての活動はむなしいこと、さらに生意気なことであると言わしめたがそれは論理的必然であった。そしてここから、彼のすべての論理的結論が流れ出ている。

 償いのいけにえの概念はルターによればキリストの制定に矛盾するという。教会による或いはその肢体による「代理の償い」は、キリストの功徳の軽視であり、天主に対する冒涜であるとさえルターは言う。

 苦行、悔悛、離脱、いけにえなどという概念はその意味を失い、もしあり得るとしたら、信仰から全くかけ離れたしるしとして受け入れられるに過ぎない。

 最後に、信仰はルターによれば天主に関する知識への参与でも、天主の啓示を受け入れることでもなく、キリストの功徳に対する盲目的な非理性的な信頼の一種でしかない。

 人間の自由選択能力の否定から2つの根本的結果が生じる。一つはすべての道徳秩序が崩れ、他方で天主の聖寵によって変容した被造物即ち、聖人はもはやあり得なくなってしまう。

 まず、道徳における変化を見てみよう。

 日常生活において、プロテスタントの夫婦間の道徳はカトリックの夫婦の道徳とは甚だしく異なっている。プロテスタントの多く住んでいるところの子供の数とカトリックの多く住んでいるところの子供の数を比べて見ればよく分かる。

 個人的生活において、プロテスタントの概念は考え方を深く変えている。統計によれば、例えば、プロテスタントの牧師よりもカトリックの司祭の方が十歳若くして死ぬことが分かっている。それにはいろいろの理由がある。カトリック司祭は毎日ミサ聖祭においてキリストとともに贖罪のいけにえとして自分自身を捧げる。彼は自分の羊の群のために命を捧げる。彼は早朝起床し聖務日課を唱え告解を聞く。彼は夜、真夜中でさえも終油の秘蹟のために出かけなければならない。司祭は天主と人々への愛のために心を砕き死んでいく。プロテスタントの牧師は別の生き方をする。牧師は共同体の座長であり週日には説教と聖歌を準備する。牧師は教区を組織し時々自分の共同体とともに主の記念の晩餐を捧げる。牧師には捧げるべきいけにえはなく、聞かなければならない告解もなく、運び申し上げる臨終の聖体の秘蹟もない。牧師は日曜日になると自分の教会にやってくる。教会とは生ける天主の家であると言うよりもむしろ集会場である。この集会場は集会が終われば次の日曜日までまた戸が閉められる。

 カルヴァンは原罪、義化、自由決定能力の否定についてルターの教えを踏襲する。そしてその原理を押し進める。もし人間が自分の救いにおいて何の役割をも果たすことができないとすると、天国へとあらかじめ予定されたものがあり、さらに地獄へとあらかじめ予定されたものがあって、人間は全く、いかにもがこうともその運命を変えることができないことになる。

 人はどうよって天国にあらかじめ予定されているの知ることができるのか。基本的には天主の現世的な祝福が豊富にあることによって分かる、という。天国へとあらかじめ予定されて言うことを誰もが望みそれを証明しようとカルヴァン主義の良い信者は天主の現世的な祝福をあらゆる限りの方法で議論しようとする。統計を見れば一目瞭然のように、カトリックの国々とプロテスタントの国々では物質的繁栄において大きな違いがある。

 では、聖人について一言述べよう。

 プロテスタントの中に聖人かいないだけでなく、聖人がいてはならないのである。カトリックにとって聖人とは天主の聖寵によって新たにされ、変容された人だ。彼は、自分の固有の功徳によってではなく天主の働きかけによって、天主の聖寵の効果によって罪の状態から正義の状態へと移行した。天主の聖寵は彼をイエズス・キリストの十字架の力によって清め、照らし、強め、聖化する。

 しかし、人間の自由意志は、聖寵によって高めらるので、聖人は天主の働きかけに徳のある協力、しばしば英雄的な協力さえも提供しなければならない。

 聖人であるということは天主の友であるということ、天主三位一体の命に参与していること、自分において洗礼の聖寵と堅振の聖寵を充満まで発展させること、自己放棄と徳の内的追求の生活においてキリストを生きながらまね、学ぶことを意味している。聖人とは、生けるブドウの木であるキリストにつながっている枝であり、純粋な人間の力を遥かに越えて高められたものだ。彼の生活はすでにこの地上にありながら天上にある。

 しかし、プロテスタントはこの天主の聖寵と人間の自由との調和ある協力を否定する。プロテスタントはさらにキリスト信者の霊魂がキリストの霊魂のに姿に変えられていくことを否定しもする。それ故プロテスタントにとって偉大な人間、有徳な人々は存在するけれど、聖人は持ち得ないのである。

 この文脈において聖パウロの言葉を引用しうる。

「私は今あなたたちのために受けた苦しみを喜び、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの苦しみの欠けたところを満たそうとする。」

内在的に言えば、キリストの聖寵に欠けたところなど全くない。しかし、キリストは必要に迫られてではなく、ただその善良さとその計り知れない哀れみによって、私たちがご自分のあがないの業に協力することができるようにと望まれた。そのことを福者「三位一体のエリザベト」は自分の作った祈りの中でこう素晴らしく表現している。「我が愛するキリストよ、愛のために十字架につけられたものよ、礼拝者、贖罪者、救い主として我がもとに来たり給え。・・・願わくは、御言葉の托身のように、主が我において主の業をなし給わんことを。願わくは我れが主にとりて付け足しの人性となるように。我において主がご自分の玄義を更新されんことを。」

 諸聖人の通功における贖罪のいけにえと償いの概念も現実もないために、プロテスタントにおいては全キリスト教生活の基本的要素がない。

 つまり、ミサ聖祭、祭壇上の天主なるいけにえとの私たち霊魂の一致、が無い。カトリック信者の生活はミサ聖祭を生きることである。カトリックの毎日は、confiteor であり、gloriaであり、credoであり、絶え間ない奉献であり、霊魂がその創造主・救い主・裁き主と絶えず一致する聖体拝領である。

 ルターはミサの奉献とローマ・カノンを厭わしいものとして戦いを挑んだがこれは論理的であった。ルターはすぐに典礼を改革し、いけにえの性格を取り除いてしまう。少なくとも贖罪的いけにえ、懇願的いけにえの性格を消し去った。彼は賛美と感謝のいけにえの性格だけを残しておいた。聖変化の言葉は(本当に聖変化させる秘蹟としてではなく)叙述的性格を取った。ラテン語は俗語に取って代わった。聖体拝領は両形態で配られた。

 ミサ聖祭の現実は、私たちのキリスト教生活が、天国の永遠の光栄の光に霊魂が到達するまでは、霊的戦い(ルカ513)成熟、努力であるという現実と密接にかかわっている。私たちカトリック信者が毎日の聖体拝領において受ける聖霊の火こそ私たちに宣教精神と使徒職の精神を与えてくれる。イエズスとマリアの使徒たちの軍団が福音を告げ知らせるために全世界を駆け回り天主の御言葉を汗と時には流血のうちに蒔いているのを見るのはなんと素晴らしい光景だろうか。それと同時に、宣教する教会の使徒職と比べるとき、プロテスタント主義はなんと貧弱であろうか。

 カトリック信者にとって、教会の内部でプロテスタント主義が根を張っているのを見るのはなんと悲しいことであろうか。悲しいことに、ミサの聖なるいけにえが共同体の食事に変わり、司祭は会衆の座長となり、祭壇は食卓となり、至聖所は空っぽの冷え冷えとした何の飾りもない集会場に変わるのを見ている。

 四百五十年前ルターの時にあったように、今では生ける天主の地上における現存の代わりに共同体が自分のために祝っている。客観的な天主が啓示された真理の代わりに、自由な良心が声を上げている。従順、服従、奉仕の代わりに、人間解放と人間の権利が幅を利かせている。現代カトリックは跪いて舌の上に我らの主を受けようとしたがらない。彼は大人だ。自分で取る。信仰・礼拝・統治の一致である教会は無数の意見と思潮の寄せ集まりに席を譲り、自分勝手に作り上げる主観的な典礼に、自由良心の逸脱へと完全に分解している。教会の超自然的性格は、特にその典礼の超自然的性格は、人間中心主義、非超自然主義、放埒主義の利益のために消滅してしまった。

 プロテスタント主義と新カトリック主義との間に存在する親子関係を発見するのは難しくない。カトリックであるということは、謙遜であるということ、完全な従属の精神において天主の啓示を受け入れること、御父の家で子供として生きることを意味している。プロテスタント主義の裏には、永遠ある反逆者、いにしえの蛇によって与えられた合い言葉が隠されている。「おまえたちは天主のごとくなるだろう。」プロテスタントは、新カトリックと同じく、その精神においても、その意志においても、外的態度においても、従おうとしない。彼は膝をかがめることを知らない。“Non serviam”私は従わない!これが彼の標語である。

 

ルターの誤りと現代世界の精神 2:Sola fides(信仰のみ)即ち、善業なし

2017-01-22 03:13:52 | プロテスタント関連
2 Sola fides(信仰のみ)即ち、善業なし

 ルターは救いのためには信仰のみで十分であり、その他の善業は不必要だという。施し、断食、苦行、修道生活における完徳の道、これらは功徳がないと言う。ルターは、人はそれらすべての善業において罪を犯しているのだとさえ言った。

 ア)聖書の中にはこのプロテスタントの誤謬を論破する明らかな断言がある。

聖ヤコボの手紙にはこう書いてある。「善業のない信仰も死んでいる」(2;26)

黙示録の中には、主において死ぬ人々は幸いである何故なら「業は彼らに従うからである」(14;13)とある。

 またマカベの書下には勇敢なユダが募金を行って、罪償のいけにえを捧げるようにエルサレムに送った話がある「これは聖い信心深い考えである」(12;45)

 ルターは自分の「信仰のみ」という説を擁護するのが困難であるということを良く知っていた。そのため聖ヤコボの手紙を「藁くずの手紙」として簡単に捨て去り、黙示録を疑わしいとし、マカベの書を外典としたのだった。

 イ)信仰と業との間と、霊魂と肉体からなる人間の本性との間との関係には類比が存在する。

 霊魂は体を通して表現し、体は霊魂の道具である。この二つの間には相互関係があり、相互に影響し合っている。例えば、もし私が御聖体の前で跪くとすると、キリストの現存についての(内的)信仰を(外的に)表明するのである。他方で、外的なしぐさは、例えば、十字架のしるし、御辞儀などはそれをするたびごとに、私の信仰を強めてくれる。霊魂は外的な印によって内的に養われる。さらに、死による霊魂と肉体との分離の後には、霊魂と肉体とがもう一度その一致と相互補足を得る最後の審判のその日まで分離が続くが、それは一時的な状態でしかないということも忘れてはならない。

 信仰と業との間にある関係についても類比によって見てみなければならない。一方で、信仰は業によって表明され、業は信仰の延長として現れる。他方で、善業は信仰を強める。信仰無くしては、業は、ちょうど霊魂をなくし死んだ肉体と同じく死んでいる。同じく、善業無くしては信仰は全く弱々しいか死んだも同然だと言わなくてはならない。

 我々は、ちょうど霊魂と肉体とが2つ揃って初めて人間を構成するように、信仰と善業は天主の前で2つ揃って初めて功徳となるのだと言える。

 人間の肉体も栄光へと呼ばれている。そして肉体の栄光化も人間の永遠の幸福の一部をなしている。

 この類比の光の下で、我々はこう考えることができる。善業は我々の義化・聖化・光栄化に貢献する。

 ウ)ロゴス(御言葉)は人となった。御言葉は霊魂と、目に見える人間の肉体を取った。。それと同様に、類比的に、信仰は「托身」する傾向にある。私たちのカテドラル、至聖所、教会、巡礼、行列、神学校、修道院、キリスト教施設、これらは皆目に見えるようになった私たちの信仰であり、さらに言えば石の建物、目に見える社会組織(例えばカトリック家庭、修道院、カトリック国家など)において「托身」した信仰なのである。

 エ)教会は、我らの主イエズス・キリストの延長、続き、継続である。教会は従って、目に見える位階制度と、目に見える秘蹟を持つ。

 秘蹟とは実に目に見えない聖寵を意味しかつ含み、伝達する目に見える印である。教会とは信仰と聖寵とを含む器のようである。善業は秘蹟と同じ仕方で信仰を含み強める。善業はただ単に信仰の結果ではなく信仰を生きることである。

 オ)キリスト教の神秘はただ単に精神を照らす神秘ではない。霊魂の全機能とさらには肉体さえも完全に関与する神秘なのである。信仰は知性を照らし、天主の愛は意志を燃え立たせ、永遠の美しさは心を揺り動かし、肉体は霊的となる。

 では、愛徳はどのようにして表現されるのか。もちろんそれは業によってである!

 もし、業をキリスト教的愛徳のしるしと実りであると考えると、「信仰のみ」の教えは徳のうちでもっとの偉大な徳である愛徳を殺すものになる。

 聖パウロは愛徳は信仰と希望に勝り、信仰・希望は死後廃れても、愛徳だけは永遠なもの故に永遠に留まると言った。

ルターの誤りと現代世界の精神

2017-01-22 03:13:03 | プロテスタント関連
ルターの誤りと現代世界の精神

フランツ・シュミットバーガー神父

はじめに

 

 現代世界の誤謬を良く理解するために、特にカトリック教会の内部に介入した出来事を良く理解するために、プロテスタント運動におけるルターとその賛同者の立場を良くもっと掘り下げてつかみ、新プロテスタント主義と新現代主義と比較する必要があると思われる。

 ルターの主張を本質的なものは次の4つの「のみ(soli)」に要約される。

* Sola scriptura(聖書のみ)即ち、教会の聖伝なし

* Sola fides(信仰のみ)即ち、善業なし

* Sola gratia(聖寵のみ)即ち、人間の持つ道徳的自由による人間の協力なし

* Solus Deus(天主のみ)即ち、教会による救いの仲介と諸聖人の取り次ぎなし

 

1 Sola scriptura(聖書のみ)即ち、教会の聖伝なし

 ルターは聖書が天主の啓示の唯一の源であり、キリスト信者はそれぞれそれを正しく理解し解釈するために聖霊の息吹を受けるという。ルターによれば、教会の教導職は、むしろ、それ自体で明らかである天主のみ言葉を暗くする。俗な言い方をすれば、牛乳屋に牛乳を買いに行くよりも、直接牛の乳を搾った方がよい。

 プロテスタントは、その名称とその指針の如何を問わず、エホバの証人に至るまで、ルターのこの断言を自分のものとしている。しかし、これは、聖書そのものの証言からとったとても強力な議論に反対しなければならない。

 ア)ヨハネ20:30〜31には、こう書いてある。

「イエズスは弟子たちの前で、この本には記さなかったほかの多くのしるしを行われた。」さらに、ヨハネ21:25には、「イエズスが行われたことはこのほかにも多いが、一つ一つ記したなら全世界さえもその書かれた本を入れることができまいと私は思うのである。」

 この言葉は、聖書が、イエズスのみ言葉と行いの一部、抜粋に過ぎないことを明らかに示している。何を基準にして聖書に何を入れるかを選択したのかは全く明らかではない。救いに必要なキリストの教えは聖書にだけ含まれていて、そのほかはとるに足らない詳細に過ぎない、というのは、全く根拠のない仮説に過ぎない。

 イ)主は、ご自分の弟子らに行って教えるように命令された。「全世界に行ってすべての被造物に福音を述べ伝えよ」(マルコ1:15)主は、彼らに本を書くようにとは命令されなかった。

 教会の生命のはじめにあったのは、まず真理の霊である聖霊の息吹に基づく生ける教えであった。このことは他方で、全く直接に明らかな理由に対応している。即ち、自然と超自然の創り主である天主は、この世の統治と、救いの伝達において人々を道具としてお使いになること、まさにそれにおいて生の言葉は人から人への伝達において全く重要な役割を果たしていること。創造主はご自分のみ業を良くご存じである。特に人間の霊魂とその機能、その願いと、生命を人間に伝達する方法について良くご存じである。

 聖パウロは言った。「信仰は聞くことから始まる」と。

 ウ)聖書は、教会が存在しだしてから幾年かたった後に書かれたが、その間にも教会生活はすでに開花し、聖なるいけにえや福音の宣教、秘蹟の授与、福音の原理にそった教会の統治が行われていた。もしも聖書が教会の最高の基礎だとしたら教会は原初存在し得なかったことになる。

 エ)誰が聖書に含まれているものと聖書に含まれていないものを定めたのか。言いかえると誰が聖書の正典(カノン)を定めたのか。

 どれが聖書の正典であるかについての基準は聖書自体の中にはない。なぜなら、もしそのような基準が聖書の中にあったとしたらその基準自体いったい誰が定めたのかという疑問が生じるだろうからだ。

 従って、聖書の外にこの基準がなければならず、その基準は霊感を受けた正真正銘の書き物とそうでない聖書外典とを確実にはっきりと区別し識別しなければならない。この基準は、キリストによって制定された教導権に属し、この教導権は数世紀にわたって聖霊の導きの下に信仰の遺産をいっさい変えることなく伝達する。

 オ)聖書の内容について疑問や論争が起こった場合には、誰が聖書を正しく解釈するのか。

 ルターとプロテスタントらは「聖霊が」という。カトリックはそれに同意するがしかしその曖昧な発言を明確にこう言い表す。

「聖霊は人々から成り立つ天主の定めた制度において、つまり、教会の教導職において客観的に自らを表す。それは信仰の遺産の保存が全くの疑いや、主観的相対化を越えてなされるようにするためである。

 まさしく、プロテスタントの諸宗派がそのほとんどが互いに矛盾しつつ分裂を繰り返しているそのこと自体が、天主は信仰の遺産をいかなる個人にも社会集団にも委託せず、ただ単に聖ペトロとその他の使徒たちにゆだね、ご自分は彼らとともにこの世の終わりまでおられることを証明している。

 プロテスタントらはカトリックの教えに反対する何らの積極的なものをも持たない。彼らはただ単にカトリックの教えの批判に生きている。彼らは私たち、彼らとは別のカトリックたちは彼らよりも良くは無いという。なぜなら、彼らによれば、最後のよりどころとしての聖書を持っているが、私たちには、聖書のほかに、教義の集大成という余計なものを持っているからだという。

 この反論に対する答は簡単だ。カトリック教会は、教義の集大成でも、道徳体系でもなく、エンマヌエル、即ち私たちのうちに生き続け、行動し続ける天主たる人であり、ご自分のいけにえにおいて、その秘蹟において、ご自分の立てた位階制度において、生き、行動し続け、信仰の遺産を守り続けるのである。

 教会は、聖伝を持っているのではなく、教会自体が本質的に聖伝なのである。即ち、教会は、人となった御言葉の継続なのである。従って、洗礼を授けるのも教えるのも教会が洗礼するのでも教えるのでもなく、人間の司祭、最高司祭としての教皇を、道具として使いそれによって救いを与えようと、固有的にそして最終的にはキリストがいけにえを捧げ、洗礼を授け、教えているのである。

 従って、教会は、新しく何が真理であるかを定め(発明するのではなく!)現代の諸問題に対して態度を決め、区別し、論破し、議論し排斥することが、基本的にはいつもできる生ける教導職である限りにおいて、生けるキリストなのである。主は使徒たちに仰せられた。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は私を拒む人である。そして、私を拒む人は、私を送られたお方を拒むのである。」(ルカ1:16)

 不釣り合いなまで「御言葉」に重みを置くプロテスタントの立場は冷たい理性主義(rationalism) に他ならない。プロテスタントの立場は、御言葉は人(肉)となったことを認めようとしない。私たちの主がいけにえとなられ、私たちの救いのために時と場所を越えてこのいけにえを継続されることを認めようとしない。

 彼らは祭壇を捨て去り、その代わりに説教台を置く。説教と聖歌とがその中心であって、屠られた子羊や生ける天主の聖櫃が中心であるのではない。現代に生きるカトリック信者は、今述べたしるしの下でのプロテスタントの宗教改革が今教会内部でもう一度新たにされているのを見て、苦しまずにはいられない。彼らは、今、教会の教導職の拒否、継続し伝え続けるキリストの否定、神秘の拒否、冷たい理性主義、即ち非超自然主義への移行を見ている。

 16世紀に、シュトゥットゥガルト市がプロテスタントになるとき、新しい宗教を採用する日を決め、その日にはHofkircheで最後のミサを捧げた。そして、司祭は、聖櫃から御聖体を取り除き、キリストの現存を示す聖体ランプの火は消された。その建物は今でもある。しかし、エンマヌエルはそこから立ち去ってしまった。