3 Sola gratia(聖寵のみ)
即ち、人間の持つ道徳的自由による人間の協力なし
ルターは、人間の義化と人間の聖化の業に人間自身が協力するという考えを受け入れたくなかった。
ルターにとって天主の聖寵がすべてをなし全くそれだけですべてをなすと考えた。ルターは、原罪に関し、また原罪の結果に関する誤った概念によってこの人間の協力の否定へとたどり着いた。
つまり、彼によると、原罪によって人間の本性はが、教会の教えているように「ただ単にきわめて深く傷つけられた」だけではなく、完全に破壊された、特に自由選択能力が完全に破壊され尽くされたという。従って、人間は天主からのメッセージを理解することも、天主の聖寵を受け入れることも全くできなくなったという。人間は天主の呼びかけに対しては耳を閉ざされ、いかなる方法によっても自分の癒しと救いのために協力することは不能になったという。
ルターにとって義化がただ単なる外的過程に過ぎなくなったのは全く論理的である。天主はイエズス・キリストの功徳のマントを罪人に覆い被せ、彼は義化されたと宣言するが、罪人は内的には罪人のままのこりその存在は内的に全く変化していない。
カトリックによって義化は罪人の状態から義とされた状態への真の内的移り変わりであり、外的宣言は、聖寵によるこの霊魂の変化とともに対をなしている。聖パウロは初代キリスト信者を清められたもの、義とされたもの、聖化されたもの、天主から愛されたものと呼んでいる。
自由の否定はルターをしてすべての人間による超自然の業を行おうとすることは、また教会のすべての活動はむなしいこと、さらに生意気なことであると言わしめたがそれは論理的必然であった。そしてここから、彼のすべての論理的結論が流れ出ている。
償いのいけにえの概念はルターによればキリストの制定に矛盾するという。教会による或いはその肢体による「代理の償い」は、キリストの功徳の軽視であり、天主に対する冒涜であるとさえルターは言う。
苦行、悔悛、離脱、いけにえなどという概念はその意味を失い、もしあり得るとしたら、信仰から全くかけ離れたしるしとして受け入れられるに過ぎない。
最後に、信仰はルターによれば天主に関する知識への参与でも、天主の啓示を受け入れることでもなく、キリストの功徳に対する盲目的な非理性的な信頼の一種でしかない。
人間の自由選択能力の否定から2つの根本的結果が生じる。一つはすべての道徳秩序が崩れ、他方で天主の聖寵によって変容した被造物即ち、聖人はもはやあり得なくなってしまう。
まず、道徳における変化を見てみよう。
日常生活において、プロテスタントの夫婦間の道徳はカトリックの夫婦の道徳とは甚だしく異なっている。プロテスタントの多く住んでいるところの子供の数とカトリックの多く住んでいるところの子供の数を比べて見ればよく分かる。
個人的生活において、プロテスタントの概念は考え方を深く変えている。統計によれば、例えば、プロテスタントの牧師よりもカトリックの司祭の方が十歳若くして死ぬことが分かっている。それにはいろいろの理由がある。カトリック司祭は毎日ミサ聖祭においてキリストとともに贖罪のいけにえとして自分自身を捧げる。彼は自分の羊の群のために命を捧げる。彼は早朝起床し聖務日課を唱え告解を聞く。彼は夜、真夜中でさえも終油の秘蹟のために出かけなければならない。司祭は天主と人々への愛のために心を砕き死んでいく。プロテスタントの牧師は別の生き方をする。牧師は共同体の座長であり週日には説教と聖歌を準備する。牧師は教区を組織し時々自分の共同体とともに主の記念の晩餐を捧げる。牧師には捧げるべきいけにえはなく、聞かなければならない告解もなく、運び申し上げる臨終の聖体の秘蹟もない。牧師は日曜日になると自分の教会にやってくる。教会とは生ける天主の家であると言うよりもむしろ集会場である。この集会場は集会が終われば次の日曜日までまた戸が閉められる。
カルヴァンは原罪、義化、自由決定能力の否定についてルターの教えを踏襲する。そしてその原理を押し進める。もし人間が自分の救いにおいて何の役割をも果たすことができないとすると、天国へとあらかじめ予定されたものがあり、さらに地獄へとあらかじめ予定されたものがあって、人間は全く、いかにもがこうともその運命を変えることができないことになる。
人はどうよって天国にあらかじめ予定されているの知ることができるのか。基本的には天主の現世的な祝福が豊富にあることによって分かる、という。天国へとあらかじめ予定されて言うことを誰もが望みそれを証明しようとカルヴァン主義の良い信者は天主の現世的な祝福をあらゆる限りの方法で議論しようとする。統計を見れば一目瞭然のように、カトリックの国々とプロテスタントの国々では物質的繁栄において大きな違いがある。
では、聖人について一言述べよう。
プロテスタントの中に聖人かいないだけでなく、聖人がいてはならないのである。カトリックにとって聖人とは天主の聖寵によって新たにされ、変容された人だ。彼は、自分の固有の功徳によってではなく天主の働きかけによって、天主の聖寵の効果によって罪の状態から正義の状態へと移行した。天主の聖寵は彼をイエズス・キリストの十字架の力によって清め、照らし、強め、聖化する。
しかし、人間の自由意志は、聖寵によって高めらるので、聖人は天主の働きかけに徳のある協力、しばしば英雄的な協力さえも提供しなければならない。
聖人であるということは天主の友であるということ、天主三位一体の命に参与していること、自分において洗礼の聖寵と堅振の聖寵を充満まで発展させること、自己放棄と徳の内的追求の生活においてキリストを生きながらまね、学ぶことを意味している。聖人とは、生けるブドウの木であるキリストにつながっている枝であり、純粋な人間の力を遥かに越えて高められたものだ。彼の生活はすでにこの地上にありながら天上にある。
しかし、プロテスタントはこの天主の聖寵と人間の自由との調和ある協力を否定する。プロテスタントはさらにキリスト信者の霊魂がキリストの霊魂のに姿に変えられていくことを否定しもする。それ故プロテスタントにとって偉大な人間、有徳な人々は存在するけれど、聖人は持ち得ないのである。
この文脈において聖パウロの言葉を引用しうる。
「私は今あなたたちのために受けた苦しみを喜び、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの苦しみの欠けたところを満たそうとする。」
内在的に言えば、キリストの聖寵に欠けたところなど全くない。しかし、キリストは必要に迫られてではなく、ただその善良さとその計り知れない哀れみによって、私たちがご自分のあがないの業に協力することができるようにと望まれた。そのことを福者「三位一体のエリザベト」は自分の作った祈りの中でこう素晴らしく表現している。「我が愛するキリストよ、愛のために十字架につけられたものよ、礼拝者、贖罪者、救い主として我がもとに来たり給え。・・・願わくは、御言葉の托身のように、主が我において主の業をなし給わんことを。願わくは我れが主にとりて付け足しの人性となるように。我において主がご自分の玄義を更新されんことを。」
諸聖人の通功における贖罪のいけにえと償いの概念も現実もないために、プロテスタントにおいては全キリスト教生活の基本的要素がない。
つまり、ミサ聖祭、祭壇上の天主なるいけにえとの私たち霊魂の一致、が無い。カトリック信者の生活はミサ聖祭を生きることである。カトリックの毎日は、confiteor であり、gloriaであり、credoであり、絶え間ない奉献であり、霊魂がその創造主・救い主・裁き主と絶えず一致する聖体拝領である。
ルターはミサの奉献とローマ・カノンを厭わしいものとして戦いを挑んだがこれは論理的であった。ルターはすぐに典礼を改革し、いけにえの性格を取り除いてしまう。少なくとも贖罪的いけにえ、懇願的いけにえの性格を消し去った。彼は賛美と感謝のいけにえの性格だけを残しておいた。聖変化の言葉は(本当に聖変化させる秘蹟としてではなく)叙述的性格を取った。ラテン語は俗語に取って代わった。聖体拝領は両形態で配られた。
ミサ聖祭の現実は、私たちのキリスト教生活が、天国の永遠の光栄の光に霊魂が到達するまでは、霊的戦い(ルカ513)成熟、努力であるという現実と密接にかかわっている。私たちカトリック信者が毎日の聖体拝領において受ける聖霊の火こそ私たちに宣教精神と使徒職の精神を与えてくれる。イエズスとマリアの使徒たちの軍団が福音を告げ知らせるために全世界を駆け回り天主の御言葉を汗と時には流血のうちに蒔いているのを見るのはなんと素晴らしい光景だろうか。それと同時に、宣教する教会の使徒職と比べるとき、プロテスタント主義はなんと貧弱であろうか。
カトリック信者にとって、教会の内部でプロテスタント主義が根を張っているのを見るのはなんと悲しいことであろうか。悲しいことに、ミサの聖なるいけにえが共同体の食事に変わり、司祭は会衆の座長となり、祭壇は食卓となり、至聖所は空っぽの冷え冷えとした何の飾りもない集会場に変わるのを見ている。
四百五十年前ルターの時にあったように、今では生ける天主の地上における現存の代わりに共同体が自分のために祝っている。客観的な天主が啓示された真理の代わりに、自由な良心が声を上げている。従順、服従、奉仕の代わりに、人間解放と人間の権利が幅を利かせている。現代カトリックは跪いて舌の上に我らの主を受けようとしたがらない。彼は大人だ。自分で取る。信仰・礼拝・統治の一致である教会は無数の意見と思潮の寄せ集まりに席を譲り、自分勝手に作り上げる主観的な典礼に、自由良心の逸脱へと完全に分解している。教会の超自然的性格は、特にその典礼の超自然的性格は、人間中心主義、非超自然主義、放埒主義の利益のために消滅してしまった。
プロテスタント主義と新カトリック主義との間に存在する親子関係を発見するのは難しくない。カトリックであるということは、謙遜であるということ、完全な従属の精神において天主の啓示を受け入れること、御父の家で子供として生きることを意味している。プロテスタント主義の裏には、永遠ある反逆者、いにしえの蛇によって与えられた合い言葉が隠されている。「おまえたちは天主のごとくなるだろう。」プロテスタントは、新カトリックと同じく、その精神においても、その意志においても、外的態度においても、従おうとしない。彼は膝をかがめることを知らない。“Non serviam”私は従わない!これが彼の標語である。
即ち、人間の持つ道徳的自由による人間の協力なし
ルターは、人間の義化と人間の聖化の業に人間自身が協力するという考えを受け入れたくなかった。
ルターにとって天主の聖寵がすべてをなし全くそれだけですべてをなすと考えた。ルターは、原罪に関し、また原罪の結果に関する誤った概念によってこの人間の協力の否定へとたどり着いた。
つまり、彼によると、原罪によって人間の本性はが、教会の教えているように「ただ単にきわめて深く傷つけられた」だけではなく、完全に破壊された、特に自由選択能力が完全に破壊され尽くされたという。従って、人間は天主からのメッセージを理解することも、天主の聖寵を受け入れることも全くできなくなったという。人間は天主の呼びかけに対しては耳を閉ざされ、いかなる方法によっても自分の癒しと救いのために協力することは不能になったという。
ルターにとって義化がただ単なる外的過程に過ぎなくなったのは全く論理的である。天主はイエズス・キリストの功徳のマントを罪人に覆い被せ、彼は義化されたと宣言するが、罪人は内的には罪人のままのこりその存在は内的に全く変化していない。
カトリックによって義化は罪人の状態から義とされた状態への真の内的移り変わりであり、外的宣言は、聖寵によるこの霊魂の変化とともに対をなしている。聖パウロは初代キリスト信者を清められたもの、義とされたもの、聖化されたもの、天主から愛されたものと呼んでいる。
自由の否定はルターをしてすべての人間による超自然の業を行おうとすることは、また教会のすべての活動はむなしいこと、さらに生意気なことであると言わしめたがそれは論理的必然であった。そしてここから、彼のすべての論理的結論が流れ出ている。
償いのいけにえの概念はルターによればキリストの制定に矛盾するという。教会による或いはその肢体による「代理の償い」は、キリストの功徳の軽視であり、天主に対する冒涜であるとさえルターは言う。
苦行、悔悛、離脱、いけにえなどという概念はその意味を失い、もしあり得るとしたら、信仰から全くかけ離れたしるしとして受け入れられるに過ぎない。
最後に、信仰はルターによれば天主に関する知識への参与でも、天主の啓示を受け入れることでもなく、キリストの功徳に対する盲目的な非理性的な信頼の一種でしかない。
人間の自由選択能力の否定から2つの根本的結果が生じる。一つはすべての道徳秩序が崩れ、他方で天主の聖寵によって変容した被造物即ち、聖人はもはやあり得なくなってしまう。
まず、道徳における変化を見てみよう。
日常生活において、プロテスタントの夫婦間の道徳はカトリックの夫婦の道徳とは甚だしく異なっている。プロテスタントの多く住んでいるところの子供の数とカトリックの多く住んでいるところの子供の数を比べて見ればよく分かる。
個人的生活において、プロテスタントの概念は考え方を深く変えている。統計によれば、例えば、プロテスタントの牧師よりもカトリックの司祭の方が十歳若くして死ぬことが分かっている。それにはいろいろの理由がある。カトリック司祭は毎日ミサ聖祭においてキリストとともに贖罪のいけにえとして自分自身を捧げる。彼は自分の羊の群のために命を捧げる。彼は早朝起床し聖務日課を唱え告解を聞く。彼は夜、真夜中でさえも終油の秘蹟のために出かけなければならない。司祭は天主と人々への愛のために心を砕き死んでいく。プロテスタントの牧師は別の生き方をする。牧師は共同体の座長であり週日には説教と聖歌を準備する。牧師は教区を組織し時々自分の共同体とともに主の記念の晩餐を捧げる。牧師には捧げるべきいけにえはなく、聞かなければならない告解もなく、運び申し上げる臨終の聖体の秘蹟もない。牧師は日曜日になると自分の教会にやってくる。教会とは生ける天主の家であると言うよりもむしろ集会場である。この集会場は集会が終われば次の日曜日までまた戸が閉められる。
カルヴァンは原罪、義化、自由決定能力の否定についてルターの教えを踏襲する。そしてその原理を押し進める。もし人間が自分の救いにおいて何の役割をも果たすことができないとすると、天国へとあらかじめ予定されたものがあり、さらに地獄へとあらかじめ予定されたものがあって、人間は全く、いかにもがこうともその運命を変えることができないことになる。
人はどうよって天国にあらかじめ予定されているの知ることができるのか。基本的には天主の現世的な祝福が豊富にあることによって分かる、という。天国へとあらかじめ予定されて言うことを誰もが望みそれを証明しようとカルヴァン主義の良い信者は天主の現世的な祝福をあらゆる限りの方法で議論しようとする。統計を見れば一目瞭然のように、カトリックの国々とプロテスタントの国々では物質的繁栄において大きな違いがある。
では、聖人について一言述べよう。
プロテスタントの中に聖人かいないだけでなく、聖人がいてはならないのである。カトリックにとって聖人とは天主の聖寵によって新たにされ、変容された人だ。彼は、自分の固有の功徳によってではなく天主の働きかけによって、天主の聖寵の効果によって罪の状態から正義の状態へと移行した。天主の聖寵は彼をイエズス・キリストの十字架の力によって清め、照らし、強め、聖化する。
しかし、人間の自由意志は、聖寵によって高めらるので、聖人は天主の働きかけに徳のある協力、しばしば英雄的な協力さえも提供しなければならない。
聖人であるということは天主の友であるということ、天主三位一体の命に参与していること、自分において洗礼の聖寵と堅振の聖寵を充満まで発展させること、自己放棄と徳の内的追求の生活においてキリストを生きながらまね、学ぶことを意味している。聖人とは、生けるブドウの木であるキリストにつながっている枝であり、純粋な人間の力を遥かに越えて高められたものだ。彼の生活はすでにこの地上にありながら天上にある。
しかし、プロテスタントはこの天主の聖寵と人間の自由との調和ある協力を否定する。プロテスタントはさらにキリスト信者の霊魂がキリストの霊魂のに姿に変えられていくことを否定しもする。それ故プロテスタントにとって偉大な人間、有徳な人々は存在するけれど、聖人は持ち得ないのである。
この文脈において聖パウロの言葉を引用しうる。
「私は今あなたたちのために受けた苦しみを喜び、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの苦しみの欠けたところを満たそうとする。」
内在的に言えば、キリストの聖寵に欠けたところなど全くない。しかし、キリストは必要に迫られてではなく、ただその善良さとその計り知れない哀れみによって、私たちがご自分のあがないの業に協力することができるようにと望まれた。そのことを福者「三位一体のエリザベト」は自分の作った祈りの中でこう素晴らしく表現している。「我が愛するキリストよ、愛のために十字架につけられたものよ、礼拝者、贖罪者、救い主として我がもとに来たり給え。・・・願わくは、御言葉の托身のように、主が我において主の業をなし給わんことを。願わくは我れが主にとりて付け足しの人性となるように。我において主がご自分の玄義を更新されんことを。」
諸聖人の通功における贖罪のいけにえと償いの概念も現実もないために、プロテスタントにおいては全キリスト教生活の基本的要素がない。
つまり、ミサ聖祭、祭壇上の天主なるいけにえとの私たち霊魂の一致、が無い。カトリック信者の生活はミサ聖祭を生きることである。カトリックの毎日は、confiteor であり、gloriaであり、credoであり、絶え間ない奉献であり、霊魂がその創造主・救い主・裁き主と絶えず一致する聖体拝領である。
ルターはミサの奉献とローマ・カノンを厭わしいものとして戦いを挑んだがこれは論理的であった。ルターはすぐに典礼を改革し、いけにえの性格を取り除いてしまう。少なくとも贖罪的いけにえ、懇願的いけにえの性格を消し去った。彼は賛美と感謝のいけにえの性格だけを残しておいた。聖変化の言葉は(本当に聖変化させる秘蹟としてではなく)叙述的性格を取った。ラテン語は俗語に取って代わった。聖体拝領は両形態で配られた。
ミサ聖祭の現実は、私たちのキリスト教生活が、天国の永遠の光栄の光に霊魂が到達するまでは、霊的戦い(ルカ513)成熟、努力であるという現実と密接にかかわっている。私たちカトリック信者が毎日の聖体拝領において受ける聖霊の火こそ私たちに宣教精神と使徒職の精神を与えてくれる。イエズスとマリアの使徒たちの軍団が福音を告げ知らせるために全世界を駆け回り天主の御言葉を汗と時には流血のうちに蒔いているのを見るのはなんと素晴らしい光景だろうか。それと同時に、宣教する教会の使徒職と比べるとき、プロテスタント主義はなんと貧弱であろうか。
カトリック信者にとって、教会の内部でプロテスタント主義が根を張っているのを見るのはなんと悲しいことであろうか。悲しいことに、ミサの聖なるいけにえが共同体の食事に変わり、司祭は会衆の座長となり、祭壇は食卓となり、至聖所は空っぽの冷え冷えとした何の飾りもない集会場に変わるのを見ている。
四百五十年前ルターの時にあったように、今では生ける天主の地上における現存の代わりに共同体が自分のために祝っている。客観的な天主が啓示された真理の代わりに、自由な良心が声を上げている。従順、服従、奉仕の代わりに、人間解放と人間の権利が幅を利かせている。現代カトリックは跪いて舌の上に我らの主を受けようとしたがらない。彼は大人だ。自分で取る。信仰・礼拝・統治の一致である教会は無数の意見と思潮の寄せ集まりに席を譲り、自分勝手に作り上げる主観的な典礼に、自由良心の逸脱へと完全に分解している。教会の超自然的性格は、特にその典礼の超自然的性格は、人間中心主義、非超自然主義、放埒主義の利益のために消滅してしまった。
プロテスタント主義と新カトリック主義との間に存在する親子関係を発見するのは難しくない。カトリックであるということは、謙遜であるということ、完全な従属の精神において天主の啓示を受け入れること、御父の家で子供として生きることを意味している。プロテスタント主義の裏には、永遠ある反逆者、いにしえの蛇によって与えられた合い言葉が隠されている。「おまえたちは天主のごとくなるだろう。」プロテスタントは、新カトリックと同じく、その精神においても、その意志においても、外的態度においても、従おうとしない。彼は膝をかがめることを知らない。“Non serviam”私は従わない!これが彼の標語である。