カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

イエズスの王国

2017-05-31 23:19:49 | エキュメニズム
イエズスの王国

 イエズスの王国はいつもその御父の王国と結び付き、聖霊の交わりの中にある。

 今から70年前、1925年12月11日、教皇ピオ11世は素晴らしい Quas Primas という回勅を書き、王たるキリストの最高絶対の帝国を新たに高らかと宣言された。王たるキリストは、すべての被造物世界を、すべての民を、すべての人を、霊的・地上的なすべての秩序と権力を支配すると宣言した。

 イエズスは天主であるがゆえに王であり、人であるが故に王であるのではない。

 ピオ11世はこう声高く宣言する。

「人類を覆い尽くす災難の深い原因は、人類がそれと戦っているところの災難の原因はこれである。大部分の人々がイエズス・キリストとそのいとも聖なる掟を、彼らの習慣・個人生活・家庭生活・国家から追放してしまったために、この不幸の連鎖が全世界を侵略しているだけではない。さらに個人と国家とが我らの救い主の権威を頑固に拒否する限りにおいて、諸民族の間の継続する平和の希望も決して我らに輝かないであろう。我々はまずキリストの統治におけるキリストの平和を求めなければならないと既に警告した。我々は出来る限りそれに協力すると約束した。『キリストの統治において』なぜなら、平和を堅く再確立するためには、我らの主の統治を復古させることより更に効果的な手段がないと見えたからである。…」

 キリストがすべての人のうちに住まわれているとか、全人類はすなわち、素晴らしい地上の将来を目指して歩く天主の民である、とかとよく言われる。しかしこれは全く我々の信仰から程遠いものである。彼は全く幻想のうえになり立っている。

 王たるキリスト、救い主、その内に『天主性』の充満が住まわれているお方、我々をその聖なる十字架によりて贖われたお方、我々の唯一の希望、我らの信仰の原理、我らの愛徳のみなもと、「強き天主、永遠の父、平和の君(イザヤ9:5)」、イエズス・キリストこそにすべての誉れと栄光は帰せられねばならない。人類は、天主なる王キリストの権威を認めねばならない。そして、キリストの統治のうちに本当の平和を求めねばならない。

人間の人間による統治ではなく、キリストの統治、キリストによる統治でなければ本当の天主からの平和はこの地上にやって来ないだろう。

 人々は国家内の平和また国家間の平和を天主なしに作ろうとしている。相互条約、宣誓、平和の契り、など空しく結ぶ。しかしこのような平和への権力は人間には与えられていないのである。

 またあるものは、キリストなしに平和を作ろうとしている。平和のためにどんな宗教でもいい、良心にしたがって自分の思いのままさまざまな形態でそれぞれの「神」を拝めと言っている。しかしこの試みもまた空しい。真の天主はこの種の「宗教の自由」と見せかけ・ごまかしが大嫌いである。

 天の御父は全ての権能を御子イエズス・キリストに与え給うた。御子の十字架のいけにえによって、この世の救いは真の天主の御独り子のうちにのみあるのである。イエズス・キリストにのみ、この世の救いのための道・真理・命の充満が存するのである。そして、イエズス・キリストの配偶者であるカトリック教会は、このイエズスを知り・礼拝し・愛し・仕えるように教えをたれているのである。この世の幸せと、来世の永遠の幸せは彼にのみ、イエズス・キリストにのみ属している。

 教皇ピオ11世は言われる。

 「キリストは、すべての被造物の上に高揚する最高の優越性によって、古くからの慣用により、全き意味の充満において「王」の称号を得た。このゆえにキリストは人間知性の王と呼ばれる。それは主の精神が鋭く浸透し、その知識が広範にわたっているからと言うよりも、むしろ主が真理であり、主の御許から人々が真理を汲み取り、その真理に服従してそれを受け入れる必要があるからである。

 主はまた人間意志の王であると呼ばれる。なぜなら、主のうちに人間意志の絶対に完成した完全性と柔順が、天主のみ旨の聖性に対応するからのみならず、私たちの自由選択能力に示唆する動機づけと息吹、私たちをして最も高貴な行動へと燃え立たせる感情のためでもある。

 主はまた最後に心の王である。それは主の計り知れない愛徳と、霊魂たちを引き付けるその慈善の優しさのためである。なぜなら、今に至るまで、イエズス・キリストがかつて全世界から愛されまた将来愛されるがごとく、愛された方、また将来愛されるべき方はどんな人も存在しなかったし存在しないであろう。」

 「キリストは天使と人とによって天主として礼拝されるべきのみならず、更に、天使と人とはこの人(キリスト)の権勢におとなしく従わなければならない。」

 歴史上実在したダヴィドの王家の子孫ナザレトのイエズス・キリストは、象徴的な神話の主人公ではない。ナザレトのイエズス・キリストこそ正統的に合法的に『王権』を保持し、『全ての被造物の上における権能を』天主御父から受けたのである。そのために、我々全ての利益、将来、この地上での幸福、また来世での至福は、我々がいかに忠実であるかによって、主がその聖寵をどこまでお与えになられるかによって決まるほど、全くイエズス・キリスト次第なのである。

 我らの主イエズス、王たるキリストの主権の及ぶ範囲は3つあるとピオ11世は言われる。

「人類がそれに従わなくてはならない立法者としての権能、…御父から与えられた司法裁判権…、全てが主の命令に従うのが必要であるゆえに、また、反乱する罪人たちへの脅威として与えられた、だれも避けることの出来ない刑罰のゆえに、主に帰属されねばならない行政実行権」である。

「キリストは、贖い主として、その御血をもって教会を獲得した。司祭として自らを捧げまた、罪のためのいけにえとして永久に御自らを捧げられる。…こうして、主の王家の尊厳は贖い主また司祭としての本性に適応し与かる。」

 イエズス・キリストの王国は霊的であり、超自然的であり、天主への礼拝を伴う。主の王国は、しかしながら、この地上からのものでもなく、軍事的なものでもなく、哲学でもなく、文化でもない。

「しかしながら、人たるキリストに、いかなる形態であろうとも市民生活上の最高主権を拒否するものは、恥ずかしくも間違うものである。なぜなら人なるキリストは、全てがその思いのままに従ううべきであるほど絶対の被造物における権利を御父から戴いたからである。…我らの贖い主の王国は全ての人を包容する。」

「地上における生活の間、主は全くこの権威を行使することを控えられた。そして主は人間的事象の所有と指導をかつて獲得したが、主はそれを全て放棄されたし、また今なおその所有者にそれを放棄されている。この詩句によって素晴らしくも真理が表明されている。『主は地上の王座を夢見ない、それを天で与え給う主は。』」

 しかし、確かに主は直接、所有権と指導権を子の地上で行使しようとはされず、この世の王、この世の君主、帝王、諸侯にその帝国とその領土の所有と指導を委ねたが、主は王としての主権を認めなくてもよいと言ったわけではない。主は宗教的誉れを要求される。そして、王たるキリストに従順である限りにおいて、キリスト教の諸君主諸侯はイエズスの全能とその慈愛から全てを期待することが出来る。

 「私は全カトリック世界に王たるキリストを崇敬するように命ずるが、それは私が世界の現状によって現代世界の必要を予測するからであり、人類社会をむしばむペストにたいする最高の薬をもって対抗するからである。…実に、現代のペストは世俗主義と、その誤謬、その不敬虔な試みである。尊敬する兄弟たちよ、よく知ってのとおり、この災いは一日にして実ったのではない。人は、全ての国におけるキリストの権力を否定することからそれを始めた。次に、キリストご自身の権利から由来派生する公教会の権利を、全人類を教える権利、法を立てる権利、諸民族を指導する権利、彼らを永遠の至福へと導く権利を否定した。そこで、キリストの宗教は、淫祠邪教と少しずつ同等に取り扱われ、不都合なことにも同列に置かれた。続いて国家権力に従属され、君主と司法との思いのままにほとんど身を委ねている。あるものは更に天主からの宗教[カトリック教]を自然宗教・自然な感情と取り替えることを長々と説いている。」

 このピオ11世の上の言葉をどれほど日本の司教様、神父様に読んでもらいたいことか!

「もし、キリストの王国が,それを権利上(de jure)受け入れる全ての人々を、事実上(de facto)含むのなら、平和をもたらす王、全てを和解させに来たもうた方、仕えられるためではなく仕えるために来たもうた方、全ての師として謙そんの模範となりこの徳を愛徳の掟と密接にかかわりのある主要な法律と立てた方、最後に『我がくびきは快く、我が荷は軽い』とのたまわれたキリストがこの地上に授けたもうこの平和について、どうして失望するのだろうか。

 ああ!もしも全ての人々が、全ての家族、全ての社会が、キリストによって自ら統治されるがままになったら、どれほどの幸福を味わうだろうか!

 今から25年前に私の先任者教皇レオ13世が全ての司教たちに語った言葉を使えば、『全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日、かくも多くの傷を癒すことが出来るだろう。全ての法は、その古き権威を取り戻すだろう。平和の豊かさは戻ってくるだろう。剣は落ち、武器は手から滑り落ちるだろう。』」

 教皇ピオ11世は、悲壮に訴える。

「このイエズス・キリストへのたち戻りをその行動によって準備し急がせるのはカトリック信者の努めであろう。しかし、彼らのうち数多くのものは社会生活において彼らの通常の地位を保持せず、真理のたいまつを運ぶものにふさわしい権威ももっていない。恐らく、この不利は、抵抗するのを控えているあるいは軟弱に抵抗している良き人々ののろさと控えめの責めに帰せられねばならないだろう。教会の敵は必然的に大胆さと向こう見ずをも増大させそこから利益を得ている。

 反対に、願わくは信者たちが全て、常に王たるキリストの旗印の元に勇敢に戦わなければならないことを理解するように。

 願わくは使徒職の火が彼らを燃やし、彼らは主から遠ざかってしまったあるいは主を知らない霊魂たちを主と和解させるために働かんことを。願わくは彼らは主の権利を守ることに努力するように。」

 全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日を待ちつつ、「この祝日の輝きが全ての民だみに届くように、人間の集会のかくも多くの不正な沈黙をそれらの勝利が補うように、ついにかかる顕示高揚の力が全世界の救いのためにイエズス・キリストの最高の帝国を承認するように、あるものを納得させ他のものを強制するように、王たるキリストの祝日を盛大に公式に祝うことを[命じる]。」

「世俗主義が引き起こし、社会に悲惨な不幸をもたらしている欠陥を排斥しある意味でそれを償うために」この大祝日が必要なのである。

「実に、国際会議、国民集会が我らの贖い主のいとも甘美なる聖名をふさわしくない沈黙で責め尽くせば責め尽くすほど、イエズス・キリストの王的尊厳と権能の権利を公表し知らせねばならないのである。」

(王としてのイエズス:4)

本当の政治

2017-05-31 23:18:19 | エキュメニズム
本当の政治

 ところで、政治とは何であろうか。本当の政治学とは、それによって国を生かす学問である。もしこの本当の政治の知がなければ、国は涙と血とのうちに滅びてしまうだろう。政治は力によって、腐敗によって、悪巧みによって権力を獲得し、権力を自分の手の内にした暁にはそれをありとあらゆる方法で確保する技術のことでもない。政治は更に社会倫理でもない。政治はまた、人々の間に自由・平等・兄弟愛の原理を君臨させるために応用でもない。

 本当の政治とは、国の共通の善を見いだし、それを保護し、それをすべての可能な合法的な手段によって守ることにある。共通の善とは、国の内部からの無秩序、また国の外部からの威嚇から守られた、国の主権と一致である。だから、このために、対外的には外交と軍隊が、対内的には警察と正義が必要である。この本当の政治がなければ、生命と国の存続は保証されないだろう。

 もしも政治を、「社会正義」を盾にして人間の崇敬、人権への奉仕、人間の必要・要求・欲望への奉仕を同一するとき、人間社会に分解と分裂の原理を導入するに等しい。これらのいわゆる「社会正義」こそは、人間の尊厳の守りだと大々的に説かれ、政治的・社会的な超大革命を教えている。

 教会は政治をしない。もし教会が政治に介入するとしたら、それは主イエズスの模範に従い、イエズスのご命令に従うためである。つまり、この世の利益やこの世のイデオロギーのためではなく、真理を証明するためである。つまり、イエズスが真の天主であり真の人であるということを証明するためである。

(王としてのイエズス:3)

人はすべて王ではない

2017-05-31 23:16:46 | エキュメニズム
人はすべて王ではない

 イエズス・キリストはその福音の中で一度も人を王だ、とか超越している、聖である、と言われたことはなかった。

 イエズスが地上に来たのは一般人間の哲学的、道徳的、政治的な素晴らしさ・優秀性を説くためではなかった。人間のペルソナの超越的性格を証明するためでもなかった。本当のキリスト信者はそのようなことを、そのようなウソを、そのような冒涜を、そのような不敬虔を決して認め得ないであろう。

 イエズスは人間の尊厳を守るために十字架に付けられたのでもなければ、人間の主権を宣言するために死なれたのでもない。イエズスは人間の超越性とその不可侵犯性を守りに人となったのでもない。イエズスは人類教の殉教者ではない。

 わたしたちは、この人間への信仰も、人間の崇敬(Cult of Man)も、人間のための人間による人間の奉仕も持ち合わせていない。

「人により頼み、肉を自分の腕とし、その心を主から遠ざけるものは呪われる。(エレミア17・5) 個人個人どんな人間でも王であり、王でなければならない、と言うのはイエズスの教えではない。それは、無政府状態への、しかも無制限の無秩序への反乱の原理である。

(王としてのイエズス:2)

イエズス・キリストは王である

2017-05-30 16:08:20 | エキュメニズム
イエズス・キリストは王である。

 イエズス・キリストのみが王である。ミサの時に私たちは、こう歌う。Tu solus sanctus,Tu solus Dominus, Tu solus altissimus Jesu Christe!御身のみ聖なり、御身のみ主なり、御身のみいと高きものなり、イエズス・キリストよ、と。

 我々は真の天主・真の人なるイエズス・キリストにのみ光栄を帰すべきである。イエズス・キリストが『我ありEgo sum』として唯一保持するその光栄をイエズスから奪い、人を天主であるかのごとく、王であるかのごとく、全宇宙の支配者であるかのごとく、また自分自身の主であるかのごとく、人に栄光を帰すべきではない。聖書は天主のみ聖なるかな聖なるかな聖なるかな!と言う。

 聖書はまず天主こそが王であると言う。天主なる御父は常に聖なるお方であり、主であり、すべての師である。天主なる御父は王であり、父である。

 そして天主イエズス・キリストの御国であるカトリック教会は、終わることがない。CUJUS REGNI NON ERIT FINIS. 私たちの主は、世の終わりまでこの教会とともにいることを約束して下さった。たとえ奥村一郎神父様が「キリスト教は自然消滅でしょう」と考えて、疑問に思い、「これは今でも私にとって、禅で言う『大疑団』です」と言ったとしても、たとえ故松下幸之助さんががっかりしたとしても、(以上、カトリック新聞1999年12月19日の4面を参照)キリスト教は、真の天主のうち立てた宗教であるから、永遠である。これは正しいことであり、真理だ。

 この世は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない、と主は言われた。

 そして、イエズス・キリストのこの普遍の王権を認めないとき、イエズス・キリストが天主であることを認めず、信じないとき、この人たちは「キリストを自分の持ち物のように、小さくしてしまっている…まるで1つのグループの長であるかのように」。もしそのことをイエズス・キリスト様に申し訳ないと思うのなら、主をまことの天主として、信じ礼拝しなければならない。

 旧約の予言者と聖書記者が語るのは来るべき天主の王国についてである。旧約時代の、天主自信が認めたサウルと、天主ご自身の選ばれたダヴィドを除けば天主の前に立つことのできる王はない。(新約において、イエズス・キリストの唯一の花嫁である教会が聖別した王を除けば、天主の前にたちうる王はない。)そして、このダヴィドの血筋から王の王、主の主、永遠不変の王国を約束されたメシア、ダヴィドの子、天主の子、イエズス・キリストが現れたもう。天主なる御子はこの2重の親子関係によって、諸国の支配を約束されたイスラエルの王である。

 イエズスの以前のすべての予言者と、イエズスが後継者と選ばれた使徒たちは僕である。しかし、彼らはイエズスの来るべき王国の光栄と権勢とを与かるものと約束された。

 イエズスが天主であることを信ずるものはその信仰によって洗礼を受け、イエズスの司祭職・その予言職・その王国に与かることができるようになる。そして養子により天主の子として呼ばれそうなるのである。こうして、信者はイエズスがその頭であるキリストの神秘体の肢体となる。

 そして、羊飼いは、天使のメッセージを聞いて信じた。イエズス・キリストをまことの救い主、天主として、王の王として礼拝した。

『諸宗教の市』と「諸宗教の議会」:5

2017-05-30 11:52:23 | エキュメニズム
『諸宗教の市』と「諸宗教の議会」:5

 既にこのアメリカ人大司教は、今世紀中のアメリカ政治を特徴付けることとなる汎民主主義的帝国主義を自分のものとするです。教会と、(カトリック教会から排斥されたはずの)フランス革命の考えを世界中に押し付ける使命があるとするこの帝国主義とを結び付けるという考えは、それ自体全く驚くべきことでした。しかし時代は人々の考えが少しずつ道を外れて行く時代でした。


 クライン神父は『ヘッカー(Haekker)神父の生涯』と言う本を訳します。この翻訳本にはアイルランド大司教の序言と、ギボンズ司教の手紙が付けられ、まさしく『政党宣言』でした。しかしこの訳本は排斥され書店から取り除かれました。後にシャルボネルはこう告白しています。「疑いも無く、これらの人々(ヘッカー神父、アイルランド大司教、コアン(Koane)司教、クライン神父)が代表する考えのために背教することになった。しかしわたしはそれをわたしの解放と呼びます。」(Revue chretienne, 1er octobre 1899)

 つまり、既に「新しい教会」そしてその「新しい司祭」が問題になっていたのです。この「新しい教会」は諸宗教の精神的一致という観念のうえになり立っています。つまりその土台は個別の誰にも属してはいなく全ての者として属する土台の上に、です。これはまさしくフリーメーソンの定義そのものです。

 「フリーメーソンは、全ての気候の住民に、全ての礼拝様式の人々に合う普遍的な道徳であり、その一つの不変の道徳は排他的な土着の諸宗教よりもより広く普遍的である。」(Tableau Historique, philosophique et moral de la Franc-Maconnerie, par le F∴ Ragot, secretaire du Grand-Orient, in l’Action francaise, 15 aout 1907)

 既に19世紀の中葉にはグラン・オリエントはこう信仰宣言しています。「この地球上の個別の宗教を全て含むある一つの世界的宗教がある。それこそ、我々が信奉するものである。」(Bulletin du G. 4. O∴ de France, juiller 1856, in l’Action francaise, 15 aout 1907)

 そして奇妙なことに、この考えは『世界的イスラエル契約(l’Alliance Isra lite Universelle)』と全く同じ考えです。

 既に19世紀中葉から、フリーメーソン的な考えを、世界統一宗教を支持する巨大なそして不気味な運動が起こっているのです。この運動は、ローマ・カトリック教会の基礎、すなわち天主からの啓示自体を否定するにも拘わらず、教会の懐の中にも幾人かの信奉者を持っていたのです。

 教皇レオ13世は1896年6月29日に『サティス・コニトゥム』(Satis cognitum)というすばらしい回勅を発表しています。(興味がある方は、デンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』エンデルレ書店3300~3310をご覧ください。)

 「イエズス・キリストは、大体の点では似てはいるが、使徒信経を唱えるとき我々が『我は唯一の教会を信じ奉る』と言う程に唯一の不可分の教会を形成するこれらの絆によって互いに結ばれていない別個の複数の共同体から成る一つの教会を考えもされず、創立もされなかった。」

 レオ13世の言うことを、今世紀初頭にピオ11世は、その回勅『モルタリウム・アニモス』の中で、全く同じことを繰り返されています。