いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神への祈り方-どのように祈れば主は耳を傾けてくださるでしょうか(下)

2019-10-14 15:54:23 | 賛美の心

(下)一、霊と誠実さをもって祈り、神に対して心からの言葉、うそ偽りのない言葉を言うべきである。
  わたしたちが知っているように、神は信実であって、不実さがなく、うそ偽りもなく、人に真心をもって接します。こういうわけで、神はわたしたちも誠実な言葉で言うことを望んでおられます。主イエスが言われたように、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)。だから、わたしたちが祈る時、自分が弱くなったなら、自分が弱くなったと言うべきあり、自分が強くなったなら、自分が強くなったと言うべきであり、心の中にどんな考え、計画があるか、どんな苦しみ、困難があるかを、腹を割って神に話すべきです。決まりが悪くて人に話せない言葉、事柄があるなら、神に隠しだてをせず、神に心を打ち明け、ありのままを言うべきです。神はわたしたちが彼に対しては心を打ち明け、隠しだてをせず、心中を包み隠さず、心からの言葉だけ言い、心から神に祈るのを見たら、わたしたちを導いて、彼のみこころを理解させます。こうして、わたしたちの問題と困難は解決されました。

  さらに、わたしたちは神の前で心を落ち着かせて祈り、心から神に祈るべきであり、漫然と祈ってはならず、またいいかげんに祈ってはなりません。わたしたちが父母と話す時、彼らを尊敬し、真面目に言葉を言うのは、父母が年長者で、しかもわたしたちを育てたからではありませんか。神がわたしたちを造り、わたしたちに命を与え、またわたしたちにすべてを供給したから、わたしたちが神に祈る時に神を畏れる心を抱くのは、理の当然ではありませんか。しかも、わたしたちが神に祈り求めるのも、神に真理を求めるのも、神と正常な関係を築き、神にわたしたちの実際の困難を解決してもらうためであり、最終的に利益を受け、益を得るのはわたしたち自身です。

二、被造物の位置に立つべきで、神に要求を出してはならず、従順な心をもって祈るべきである。
  毎日祈る時、わたしたちは心の中で、このことを確信しなければなりません。つまり、神が造物主で、わたしたちが神の支配の下にあり、大きなことであろうと、小さなことであろうと、毎日起こるすべてのことは神に支配され、按配されるのです。だから、どんなことが起こっても、わたしたちはこのように祈るべきです。「神よ!わたしはこのことに関する真理が分からず、どのようにすればあなたの心を満足させることができるかを知りません。どうかわたしに啓いてください。アーメン!」。わたしたちがこのように祈れば、神に喜ばれます。もしわたしたちが被造物の位置に立って造物主に祈り、ひれ伏して造物主を礼拝し、また神を賛美し、神に感謝するなら、被造物のわたしたちと神の関係が正常になりました。わたしたちが正しい位置に立ち、心を正しくしたら、神と正常な関係を持つようになります。わたしたちが心の中に神の位置を持ち、被造物の位置に立って神の働きと神の言葉に従い、神の言葉どおりに行うとしたら、わたしたちは神と正常な関係を持つようになりました。わたしたちが神と正常な関係を持ってこそ、聖霊の働きを得、神の臨在を享受することができます。

  ヨブは満山の牛や羊と子女たちを失いました。牛や羊が奪われ、子女たちが死んだという知らせを聞いた時、ヨブは、自分のすべては神から与えられるのだ、表面的には、牛や羊が強盗に奪われ、子女たちが倒れた家の下敷きになって死んだが、事実上それらは神に取り去られたのだ、と知っていました。だから、彼はひれ伏して拝み、従順な心をもって神に祈りました。その後、彼の体に重い皮膚病ができました。彼はつらいでしたが、たとえ自分の生まれた日を呪っても神を怨まず、かえって「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。わたしたちもヨブのように、神を神として扱うなら、神はわたしたちの心の中に神の位置があるのを見ると、絶えずわたしたちを導かれます。そうであれば、わたしたちの霊はますます鋭敏になり、わたしたちの思いもますます冷静になり、心の中に少しの腐敗があり、或いは自分の状態が少し異常になると、すぐそれに気づくことができます。それなら、わたしたちの腐敗は適時に解決されることができます。こうして、わたしたちと神の関係がますます親しくなり、わたしたちの進歩もますます早くなります。

三、教会の中に聖霊の働きがないなら、わたしたちは聖霊の働きを求めるために祈らなければならない。
  わたしたちが知っているように、律法の時代の後期、ユダヤ教が神の栄光を失った時、神は主イエスという御名によって恵みの時代を開き、贖いの仕事をなさいました。主イエスという御名を受け入れなかったすべての人がどんなことに会っても、どのようにヤーウェ神に祈り求め、祈っても、神は彼らの祈りを聞き入れませんでした。こうして、彼らは聖霊の働きを得られなくなりました。だが、主イエスの新しい仕事を受け入れた人たちは、主イエスの御名によって祈るため、生ける命の水の供給を得ました。だから、聖霊の働きはずっと彼らに伴っていました。

  今、わたしたちはどのように主の御名によって祈っても、聖霊の働きを得られません。これは、聖霊の働きが変わったことを明らかに示しています。聖書にこう書かれています。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりに日にその者を裁く」(ヨハ12:47-48)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペテ一4:17)。終わりの時、主が来て世を裁くことは必然的な趨勢です。主の言葉が発せられたら、必ず成就します。わたしはいつも祈って、主に油でわたしたちを塗るように求め、また、主がわたしたちを導いて生ける水の源を見つけさせ、わたしたちに真理を注ぎ、わたしたちを養うように願っています。主がどこへ行っても、わたしたちはついて行くべきです!わたしと同じ願いを持つ兄弟姉妹たちよ、わたしと一緒に祈って、主に、わたしたちを導いて彼の足跡について行けるようにすることを求めましょう。なぜなら、主がわたしたちにこう約束したからです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタ7:7)。