いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

あなたは生かされているか

2019-10-03 12:29:59 | 賛美の心

  あなたが正常な人間性を生きることを達成し、全き者にされたら、預言をしたり奥義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を造ったが、その後、人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を「死人」にしてしまった。したがってあなたが変わった後、あなたは死人とは違うものになる。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人についての言及は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者とは、生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことを指す。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による悲惨かつ非人道的な迫害や策略に耐えてきたため、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊の目覚めは、本質から始まらなければならない。彼らの本質において、少しずつ霊を目覚めさせなければならない。ある日、彼らが生かされた時、もはや障害物は何もなくなり、すべては順調に進む。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人の生き様は死の雰囲気をかなり含んでおり、死の気配に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。言葉に死を帯びている人々もおり、彼らの行動も死を帯びており、彼らが生き抜くもののほとんどすべてが死である。もし今日、人々が公に神について証ししても、この働きは失敗する。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたのあいだにはあまりにも多くの死人がいるからである。今日、なぜ神はしるしや不思議を示さないのか、そうすれば異邦人たちのあいだに神の働きをすばやく広めることができるのに、と言う人々がいる。死人は神について証しをすることはできない。生きている者だけが証しできるが、今日ほとんどの人は死んでおり、あまりにも多くの人が死に囚われて生きており、サタンの影響下にあり、勝利を得ることができない。それなのに彼らが神について証しをすることなどできるだろうか。福音の働きを広げることなどできるだろうか。

  暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもできない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを要求する。「死人」とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々であり、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことである。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉を生きることはできない。彼らは生きているが、歩く死体、呼吸する屍である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方はすべてサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。生かされることができる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を神は救う。生かされることができる人もいれば、そうでない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず、神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、それを実践することができず、いかなる真理を生きることもできず、さらに神の働きを故意に妨げる。彼らは神のためにいかなる働きを行なうこともできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会の資金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々は死人であり、救われない。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いを得られない。神の救いを得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでおり、完全にサタンに利用され、本性にあまりにも悪意があるからである。先の少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実であった人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっていた人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きゆえに神に従うようになったのであり、神の究極の愛ゆえに神を見ているのであり、神の義である性質ゆえに彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で正常である神の働きゆえに彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、彼らがどれほど善良であろうと、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいることだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが神と協力する覚悟があるということに尽きる。

  生きている人々は、神に忠実であるために神に得られ、神の約束の只中で暮らす。死人は、神に反対するために神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの只中で暮らす。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の真中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠実により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。神は生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神は生きている人々を神の国へ連れていき、永遠に神とともに留まるべく生きている人々を神の祝福へと連れて行く。神は死人を永遠の死に陥れる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。真に神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神と相容れない人々は必ず神の懲罰を受けながら生きる。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろうが、いつか神の肉は人の終末を直接に定めることはなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はさらに間違いを犯すことなどないことを知る。最終的には、神は必ず一人の余分も一人も欠けもなく、生かされる人々を神の国に連れて行き、生かされなかった死人はサタンの洞窟に投げ捨てられるのである。