祈りは、クリスチャンが神との正常な関係を維持する手段の一つです。特に早祷と晩祷はクリスチャンにとって不可欠なことです。内山さんは毎日必ず祈ることにしていますが、しかし主が自分の祈りを聞き入れないといつも感じ、主の臨在さえ感じられません。彼はインターネットで自分の感じを書いた後、すぐ多くの兄弟姉妹の共感を呼びました。
内山さんの言葉が真実であることを証明するために、一部の兄弟姉妹はまた皆さんに打ち明け話をしました。彼らは次のように言っています。「毎回の祈りの中で多くの言葉を言ったが、多くの時、独り言を言い、或いは空気に対して話すように感じ、主が自分の祈りを聞き入れなかったとはっきり感じました。そのため、自分が主に捨てられたのではないかと疑っています」。
なぜ主がわたしたちの祈りを聞き入れないのですか。そこには、いくつかの原因があります。
第一番目の原因は、誠実な心によって主に祈ることをせず、神をごまかし、欺くことです。
主イエスはこう言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23)。だが、わたしたちは神に祈る時、いつも心を落ち着かせて心から神に祈ることをしません。祈る時、わたしたちの口が動いているが、心の中で家のことや、仕事のことを考えていて、心が乱れています。ある時、誠実な態度で祈り、心から祈ることをせず、口先だけで祈り、形式的に祈り、二言三言言っていいかげんにごまかしてしまいました。しかも、わたしたちが祈る時、いつも大きな話をし、無意味な言葉、尾ひれの付いた言葉を言います。例えば、わたしたちは主より自分の父母や事業を愛しますが、「神よ、わたしはあなたを愛します!」と祈り、家の中で気にくわぬことが起こると、消極的になって主を怨みますが、祈りの中で、主に感謝し、主を賛美するような言葉を言います。……心からの祈りをしないなら、そして祈るばかりで実際の行動が伴わず、祈りの中で大きな話をし、無意味な言葉、心にもない言葉を言ったとしたら、神をごまかし、欺いてしまうことになります。そのような祈りを、神は絶対に聞き入れません。
第二番目の原因は、祈りの意図、目的が正しくなく、いつも神が自分に何かを与えることを要求し、神に対する従順がないことです。
わたしたちは多くの時、祈りの中で本当のことを言うのだが、しかしいつも神に何かを要求します。例えば、仕事を持っていない者は、神に仕事を準備してくださるようにと祈り、子供を持っていない者は、神に子供を与えてくださるようにと祈り、商人は自分が神の祝福を得て、もっと多くのお金を稼ぐことができるように祈り、学生は神に賢しさ、知恵を与えてくださるようにと祈り、若者は神によい仕事を与えてくださるようにと祈り、老人は神の守りを得て、病気にもならず災難にも遭わず、無事に晩年を送るために祈ります。しかも、わたしたちは病気にかかったら、神に自分の病気をいやしてくださるようにと祈り、家に困難があったら、神に助けてくださるようにと祈ります。平安がある時、わたしたちは祈って主に感謝し、主を賛美し、しかも心の中に、主の守りを得て、いつまでも平安のうちに生きたいという欲望が生じます。患難に遭った時も、試練を受けた時も、わたしたちは神の支配、按配に従うことができず、神は苦杯をわたしたちから取り去って、わたしたちがもはや苦しみを受けないようにすると望んでいました。その上、わたしたちはいつも間違った位置に立って神に要求し、神がわたしたちの意志によって行うことを要求します。……こうして、わたしたちはそのように祈れば祈るほど、神からますます遠ざかります。なぜなら、そのように祈るのは、神と取り引きし、神を利用して自分の目的を達成するのであり、その中に、神に対する本当の信仰がなく、神に対する真の愛もないからです。神が言われたように、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタ15:8)。こういうわけで、そのような祈りを、神は全然聞き入れません。
第三番目の原因は、わたしたちの教会の中に聖霊の働きがなくて、主がわたしたちの祈りを聞かなくなることです。
これは最も重要な原因です。律法の時代の初期を思い出してください。あの時、神殿の中で聖霊の働きがありました。人が罪を犯したら、聖霊の懲らしめを受け、神に仕える祭司が律法を犯したら、天から火が下って来て、彼らを焼き殺しました。そのため、人々は神を怖がっていて、神を畏れる心を持っていました。だが、律法の時代の後期、すなわち主イエスが働き始めた時、ユダヤ人が神殿の中で両替したり、牛や羊や鳩を売ったりして、神殿を強盗の巣にしてしまったとしても、聖霊は彼らを懲らしめませんでした。こういう時、聖霊はもう神殿を離れて、主イエスの働きを守り始めました。それなら、人が神殿の中で律法を守っても、ヤーウェ神の御名によって祈っても、聖霊の働きを得られませんでした。こうして、ヤーウェ神に仕える神殿は徹底的に宗教的な場所になりました。
またわたしたちの教会を見てみましょう。わたしたちの今の教会は律法の時代の後期の教会と全く同じではありませんか。わたしたちは毎回欠かさずに集会に参加し、また教会の復興のために懸命に祈りますが、でも道を説く時、新しい光がありません。そのため、信徒たちも本当の供給を得られません。わたしたちは毎日聖書を読み、祈りますが、しかし聖書を読んだ後、字句の表面上の意味しか理解できず、主の言葉の真意が分かりません。その上、わたしたちは自分の霊の中が干からびて暗いとますます感じ、聖霊の臨在を感じられなくなり、たとえ酒食遊楽にふけり、地位、権勢をむさぼり、絶えず罪を犯すとしても、聖霊の懲らしめを受けません。同労者たちも腹を探り合って暗闘しますが、でも聖霊は彼らを懲らしめません。今、わたしたちは常に罪に征服されても、神に負い目があると感じず、わたしたちは異邦人のようになりました。……そのため、わたしたちはわたしたちの教会の中に聖霊の働きがないとはっきり感じました。
以上のいくつかの原因のほかに、また別の原因がありますが、ここではもう列挙しません。では、どのような祈りは主に聞き入れられますか。