父親に草笛習ふ小学生 紅日2008年9月号
草笛は夏の季語。時代が新しくなるにつれて家が果たす機能は次第に痩せ細り遂には家は寝る場所だけになってしまう。戦前頃の家と現代社会の家と比較すれば家の機能がどれほど衰えてしまったのか明らかだ。戦前は生まれる場所も死ぬ場所も家であった。家に産婆さんが駆けつけて家で誰もが生まれるのが普通であった。死ぬ場所も医師が家に駆けつけて臨終を告げるのが普通であった。家には病院機能があった。また、大抵の家庭には仏間があり朝夕家族が仏間に集まり仏に拝むのが日課であった。家には宗教的機能もあった。人間の命の根幹に関わる機能までも家から消滅してしまった。
家で消滅したもっと大切な機能がある。それは家の教育機能である。「家庭教育」と言う言葉があるが、此れが既に言葉だけが残り家庭教育の実質が希薄化してしまった。「家庭教育」が死語になりつつある。戦前は祖父母や父母は家での重要な教師でもあった。庭の掃き方玄関の掃き方廊下の雑巾がけなど掃除の仕方は祖父母や父母が教えたのである。兄弟が学校から出された宿題を教えあう姿も珍しくなかった。
核家族化で先ず祖父母が家から消滅した。男女雇用均等法で家から専業主婦が消えて昭和40年代頃には「鍵っ子」と言う子供には実に寂しい言葉が流行した。家の教育力は一挙に低下した。親は子供の教育は学校や学習塾への依存度を一挙に高めた。現在では更に家庭教育力を奪う現象は全国的な保育所の拡充普及である。乳幼児から、生まれた直後から保育所に預けて家庭での教育が急低下されようとしている。家の機能が時代が降るにつれてどんどん剥奪されている。親子関係断絶深化が猛烈に進みつつある。貧困が底流に流れていると思うのであるが、「親の子殺し・子の親殺し」がマスコミで騒がれているが此れとの因果関係は関係は不明である。家が昔から具えていた機能である医療・看護・宗教・保育・教育・休息・保健などありとあらゆる家の機能が消滅しつつある。勿論、家機能として残留している部分もあるが消滅ピッチの方が遥かに早い。
家の機能劣化や家の崩壊が進行する中で親が子供に草笛の吹き方を教えていた。その様な心が温まる風景に遭遇した。家の機能崩壊が常に頭の中の片隅にあったので直ぐに俳句にすることが出来た。父に教えてもらった草笛、それは小学生の子には一生涯の思い出となることだろう。他の人に教えてもらった経験とは大きな隔たりがある。
この草笛には多くの種類がある。草笛の草はどのような草でもよいのではない。笛となるには息で振動が起きるような適切な硬さが求められる。余り柔らかい草では音が出ない。それから毒性のある草でも悪臭を放つ草でも具合が悪い。私は草の異臭で何度か吐き出した経験がある。私の覚えでは草笛の材料として草には、麦の葉。蒲公英の茎などを笛にすることが出来た。一番よい音が出たのは笹の葉や麦の葉だった。学校からの帰り道の草笛は哀しそうな音色だった。今思えば宿題をしてゆかないで先生に叱られた哀しさだったのかもしれない。
聖書には草笛が出てこないが、聖書に出て来る「笛」の頻度は比較的高い。また笛の種類にも多様性がある。笛は聖書には28回発見できる。旧約聖書では23回、新約聖書では5回、合計28回である。聖書に出て来る笛の多くは音楽の楽器としての笛、人々を集める合図としての笛、家畜を集める合図の為の笛であり、聖書に出て来る笛の主な機能は三つである。音楽・通信・牧畜の笛であり、聖書における笛の三大機能である。聖書に出て来る笛の種類は、その多い順から挙げれば次の如くである。
(聖書の中の単なる笛)
単なる笛が聖書には14回発見できる。その例は以下の如くである。
●創世記4-21では笛に関して「ユバルは笛や琴演奏者の先祖となった」と述べている。この場合笛は楽器である
●士師記5-16では笛に関して「羊の群れに向かって笛を吹いた」と述べている。笛は家畜に贈る合図である。信号としての笛だ。
●サムエル記上10-5では笛に関して「町に入る場合竪琴、手太鼓、笛、琴を奏でる音楽隊が先導した」と述べている。この場合は笛は楽器である。
●列王記上1-40では笛に関して「笛を吹いて大いに喜び合った」と述べている。笛は楽器であった。笛の普及の度合いが読取ることが出来る。
●ヨブ記21-12では笛に関して「笛の音を楽しんだ」と述べている。笛は楽器であった。
●ヨブ記30-31では笛に関して「琴は悲しみの音色となり、笛は泣く者の声であった」と述べている。笛は楽器である。
●詩篇1-1-6では笛に関して「琴と笛で主を讃えよ」と述べている。笛は楽器である。
●イザヤ書5-12では笛に関して「酒宴には琴あり、竪琴あり、鼓あり、笛あり」と述べている。当時は現在以上に人々は酒宴が大好きだった。酒宴であるからこの場合は笛は楽器である。
●イザヤ書30-29では笛に関して「笛を鳴らして主の山に来た」と述べている。主を讃える笛であり楽器に近い笛である。
●エレミヤ書48-36では笛に関して「モアブの為に笛のように嘆く」と述べている。笛の音色が心を表すので楽器に近い笛である
●マタイ伝11-17では笛に関して「笛を吹いたのに踊らない」と述べている。楽器の笛である。
●ルカ伝7-32では笛に関して「」と述べている。
●コリント人手紙14-7では笛に関して「笛や竪琴のような楽器」と述べている。
●黙示録18-22では笛に関して「笛を吹く者」と述べている。この場合の笛は職人としてまたは技能者としての「笛吹き」であり楽器としての「笛」である。
(聖書の中の角笛)
角笛が聖書には13回発見できる。それは以下の如くである。
●サムエル記上13-3では角笛に関して「サウルは国中遍く角笛を鳴らして言わせた」と述べている。人に対して注意を喚起する角笛であり、通信の角笛である。
●サムエル記下2-28では角笛に関して「角笛を吹いたので皆は立ち止まった」と述べている。注意喚起の角笛である。
●サムエル記下6-15では角笛に関して「喜びの叫びと角笛」と述べている。楽器の角笛である。
●歴代誌上15-28では角笛に関して「角笛を吹き鳴らし、ラッパとシンバル竪琴で囃した」と述べている。角笛はこの場合楽器である。
●歴代誌下15-14では角笛に関して「ラッパを吹き角笛を鳴らし」と述べている。この場合は角笛は楽器である。
●詩篇1-1-6では角笛に関して「ラッパと角笛とで」と述べている。此れも楽器としての角笛である。
●詩篇1-1-4では角笛に関して「琴と笛とで主をほめ讃える」と述べている。角笛は通信と楽器である
●ダニエル書3-5では角笛に関して「角笛を鳴らして主の山に来た」と述べている。角笛は通信と楽器である。
●ダニエル書3-7では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。楽器の角笛である。
●ダニエル書3-10では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。此れも楽器だ
●ダニエル書3-15では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。楽器を並べているのであり此れも楽器としての角笛。
●ホセア書5-8では角笛に関して「ギペアで角笛、ラマでラッパをならした」と述べている。人に呼びかける通信としての角笛である。
(聖書の中の横笛)
横笛が聖書の中では4回発見できる。それは以下の如くである。四回とも他の楽器と並列しているので角笛も楽器として扱われている。
●ダニエル書3-5では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-7では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-10では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-15では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
(聖書の中の風笛)
風笛が聖書の中では4回発見できる。それは以下の如くである。横笛と同様に風笛は他の楽器と並列しているので風笛も楽器であるが、当時は既に壮大な交響楽団が結成されていたと推定出来る。
●ダニエル書3-5では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-7では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-10では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-15では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
(聖書の中の口笛)
口笛が聖書の中では1回発見できる。それは以下の如くである。
●ガリラヤ書10-8では口笛に関して「彼等に向かい、口笛を吹いて彼等を集める」と述べている。口笛は注意喚起の口笛であった。一種の通信道具としての口笛であった。
(聖書の中の笛吹き)
笛吹きは職業としての笛吹きである。または笛を吹く特殊技能を有する人間のことである。それは聖書では1回でそれは以下の如くである。
●マタイ伝9-23では笛吹きに関して「イエスは司の家に到着して、笛吹きどもや騒いでいる群衆に向かって言われた」と述べている。民衆の前で笛を吹いているのであり笛を福特殊技能の人間であることが推定出来る。このような「笛吹き」が出て来るのは旧約聖書新約聖書通じてこの一箇所だけである。イエスキリストの時代には笛の演奏者は職業として確立していたものとして推定出来る。
(聖書の中の喇叭)
喇叭は聖書の中では111回発見されるが、笛もラッパも管楽器である共通性があるのであるが、ラッパはその性質に大きな違いがあるので別の稿にて述べようと思う。
(聖書に描かれている笛の音色)
楽器は打楽器であろうと、弦楽器であろうと、そして管楽器であろうと。それぞれに楽器で人間の喜怒哀楽を表現することが可能である。聖書でも楽器での喜怒哀楽表現が多彩である。どの楽器であろうと楽器そのものの持つ音色に関して喜怒哀楽の長短がある。笛が含まれる管楽器の音色はどちらかと言えば喜怒哀楽のうち哀を表現すれ音色が長けているのではないか。草笛までも哀愁を帯びているのである。ヨブ記30-31やエレミヤ書48-36に於ける笛の音色の寂しさが気になるところである。現代音楽の楽器の中でも笛の音色は他の楽器に較べれば哀愁が漂う。古代の笛の音色との共通性を発見できる。それは父が子に教える草笛の音色も同じである。
音楽は瞬間芸術であり、音は瞬間に現れて瞬間に消えてしまう。現場で生まれて現場で消える。音はその場でなくなってしまう。音楽はその様な刹那性がある。音楽を残すには文字しかない。録音があるがその限界が限定される。古代音楽の復元は至難の業でありせめてできるのはそれを聞いた人々の文字化された言葉だけであり、描写だけである。文学や絵画などの芸術との大きな落差である。悔しいのであるが聖書に出て来る楽器の音は復元がほぼ不可能である。
草笛は夏の季語。時代が新しくなるにつれて家が果たす機能は次第に痩せ細り遂には家は寝る場所だけになってしまう。戦前頃の家と現代社会の家と比較すれば家の機能がどれほど衰えてしまったのか明らかだ。戦前は生まれる場所も死ぬ場所も家であった。家に産婆さんが駆けつけて家で誰もが生まれるのが普通であった。死ぬ場所も医師が家に駆けつけて臨終を告げるのが普通であった。家には病院機能があった。また、大抵の家庭には仏間があり朝夕家族が仏間に集まり仏に拝むのが日課であった。家には宗教的機能もあった。人間の命の根幹に関わる機能までも家から消滅してしまった。
家で消滅したもっと大切な機能がある。それは家の教育機能である。「家庭教育」と言う言葉があるが、此れが既に言葉だけが残り家庭教育の実質が希薄化してしまった。「家庭教育」が死語になりつつある。戦前は祖父母や父母は家での重要な教師でもあった。庭の掃き方玄関の掃き方廊下の雑巾がけなど掃除の仕方は祖父母や父母が教えたのである。兄弟が学校から出された宿題を教えあう姿も珍しくなかった。
核家族化で先ず祖父母が家から消滅した。男女雇用均等法で家から専業主婦が消えて昭和40年代頃には「鍵っ子」と言う子供には実に寂しい言葉が流行した。家の教育力は一挙に低下した。親は子供の教育は学校や学習塾への依存度を一挙に高めた。現在では更に家庭教育力を奪う現象は全国的な保育所の拡充普及である。乳幼児から、生まれた直後から保育所に預けて家庭での教育が急低下されようとしている。家の機能が時代が降るにつれてどんどん剥奪されている。親子関係断絶深化が猛烈に進みつつある。貧困が底流に流れていると思うのであるが、「親の子殺し・子の親殺し」がマスコミで騒がれているが此れとの因果関係は関係は不明である。家が昔から具えていた機能である医療・看護・宗教・保育・教育・休息・保健などありとあらゆる家の機能が消滅しつつある。勿論、家機能として残留している部分もあるが消滅ピッチの方が遥かに早い。
家の機能劣化や家の崩壊が進行する中で親が子供に草笛の吹き方を教えていた。その様な心が温まる風景に遭遇した。家の機能崩壊が常に頭の中の片隅にあったので直ぐに俳句にすることが出来た。父に教えてもらった草笛、それは小学生の子には一生涯の思い出となることだろう。他の人に教えてもらった経験とは大きな隔たりがある。
この草笛には多くの種類がある。草笛の草はどのような草でもよいのではない。笛となるには息で振動が起きるような適切な硬さが求められる。余り柔らかい草では音が出ない。それから毒性のある草でも悪臭を放つ草でも具合が悪い。私は草の異臭で何度か吐き出した経験がある。私の覚えでは草笛の材料として草には、麦の葉。蒲公英の茎などを笛にすることが出来た。一番よい音が出たのは笹の葉や麦の葉だった。学校からの帰り道の草笛は哀しそうな音色だった。今思えば宿題をしてゆかないで先生に叱られた哀しさだったのかもしれない。
聖書には草笛が出てこないが、聖書に出て来る「笛」の頻度は比較的高い。また笛の種類にも多様性がある。笛は聖書には28回発見できる。旧約聖書では23回、新約聖書では5回、合計28回である。聖書に出て来る笛の多くは音楽の楽器としての笛、人々を集める合図としての笛、家畜を集める合図の為の笛であり、聖書に出て来る笛の主な機能は三つである。音楽・通信・牧畜の笛であり、聖書における笛の三大機能である。聖書に出て来る笛の種類は、その多い順から挙げれば次の如くである。
(聖書の中の単なる笛)
単なる笛が聖書には14回発見できる。その例は以下の如くである。
●創世記4-21では笛に関して「ユバルは笛や琴演奏者の先祖となった」と述べている。この場合笛は楽器である
●士師記5-16では笛に関して「羊の群れに向かって笛を吹いた」と述べている。笛は家畜に贈る合図である。信号としての笛だ。
●サムエル記上10-5では笛に関して「町に入る場合竪琴、手太鼓、笛、琴を奏でる音楽隊が先導した」と述べている。この場合は笛は楽器である。
●列王記上1-40では笛に関して「笛を吹いて大いに喜び合った」と述べている。笛は楽器であった。笛の普及の度合いが読取ることが出来る。
●ヨブ記21-12では笛に関して「笛の音を楽しんだ」と述べている。笛は楽器であった。
●ヨブ記30-31では笛に関して「琴は悲しみの音色となり、笛は泣く者の声であった」と述べている。笛は楽器である。
●詩篇1-1-6では笛に関して「琴と笛で主を讃えよ」と述べている。笛は楽器である。
●イザヤ書5-12では笛に関して「酒宴には琴あり、竪琴あり、鼓あり、笛あり」と述べている。当時は現在以上に人々は酒宴が大好きだった。酒宴であるからこの場合は笛は楽器である。
●イザヤ書30-29では笛に関して「笛を鳴らして主の山に来た」と述べている。主を讃える笛であり楽器に近い笛である。
●エレミヤ書48-36では笛に関して「モアブの為に笛のように嘆く」と述べている。笛の音色が心を表すので楽器に近い笛である
●マタイ伝11-17では笛に関して「笛を吹いたのに踊らない」と述べている。楽器の笛である。
●ルカ伝7-32では笛に関して「」と述べている。
●コリント人手紙14-7では笛に関して「笛や竪琴のような楽器」と述べている。
●黙示録18-22では笛に関して「笛を吹く者」と述べている。この場合の笛は職人としてまたは技能者としての「笛吹き」であり楽器としての「笛」である。
(聖書の中の角笛)
角笛が聖書には13回発見できる。それは以下の如くである。
●サムエル記上13-3では角笛に関して「サウルは国中遍く角笛を鳴らして言わせた」と述べている。人に対して注意を喚起する角笛であり、通信の角笛である。
●サムエル記下2-28では角笛に関して「角笛を吹いたので皆は立ち止まった」と述べている。注意喚起の角笛である。
●サムエル記下6-15では角笛に関して「喜びの叫びと角笛」と述べている。楽器の角笛である。
●歴代誌上15-28では角笛に関して「角笛を吹き鳴らし、ラッパとシンバル竪琴で囃した」と述べている。角笛はこの場合楽器である。
●歴代誌下15-14では角笛に関して「ラッパを吹き角笛を鳴らし」と述べている。この場合は角笛は楽器である。
●詩篇1-1-6では角笛に関して「ラッパと角笛とで」と述べている。此れも楽器としての角笛である。
●詩篇1-1-4では角笛に関して「琴と笛とで主をほめ讃える」と述べている。角笛は通信と楽器である
●ダニエル書3-5では角笛に関して「角笛を鳴らして主の山に来た」と述べている。角笛は通信と楽器である。
●ダニエル書3-7では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。楽器の角笛である。
●ダニエル書3-10では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。此れも楽器だ
●ダニエル書3-15では角笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。楽器を並べているのであり此れも楽器としての角笛。
●ホセア書5-8では角笛に関して「ギペアで角笛、ラマでラッパをならした」と述べている。人に呼びかける通信としての角笛である。
(聖書の中の横笛)
横笛が聖書の中では4回発見できる。それは以下の如くである。四回とも他の楽器と並列しているので角笛も楽器として扱われている。
●ダニエル書3-5では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-7では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-10では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
●ダニエル書3-15では横笛に関して「角笛、横笛、琴」と述べている。
(聖書の中の風笛)
風笛が聖書の中では4回発見できる。それは以下の如くである。横笛と同様に風笛は他の楽器と並列しているので風笛も楽器であるが、当時は既に壮大な交響楽団が結成されていたと推定出来る。
●ダニエル書3-5では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-7では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-10では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
●ダニエル書3-15では風笛に関して「三角琴、竪琴、風笛」と述べている。
(聖書の中の口笛)
口笛が聖書の中では1回発見できる。それは以下の如くである。
●ガリラヤ書10-8では口笛に関して「彼等に向かい、口笛を吹いて彼等を集める」と述べている。口笛は注意喚起の口笛であった。一種の通信道具としての口笛であった。
(聖書の中の笛吹き)
笛吹きは職業としての笛吹きである。または笛を吹く特殊技能を有する人間のことである。それは聖書では1回でそれは以下の如くである。
●マタイ伝9-23では笛吹きに関して「イエスは司の家に到着して、笛吹きどもや騒いでいる群衆に向かって言われた」と述べている。民衆の前で笛を吹いているのであり笛を福特殊技能の人間であることが推定出来る。このような「笛吹き」が出て来るのは旧約聖書新約聖書通じてこの一箇所だけである。イエスキリストの時代には笛の演奏者は職業として確立していたものとして推定出来る。
(聖書の中の喇叭)
喇叭は聖書の中では111回発見されるが、笛もラッパも管楽器である共通性があるのであるが、ラッパはその性質に大きな違いがあるので別の稿にて述べようと思う。
(聖書に描かれている笛の音色)
楽器は打楽器であろうと、弦楽器であろうと、そして管楽器であろうと。それぞれに楽器で人間の喜怒哀楽を表現することが可能である。聖書でも楽器での喜怒哀楽表現が多彩である。どの楽器であろうと楽器そのものの持つ音色に関して喜怒哀楽の長短がある。笛が含まれる管楽器の音色はどちらかと言えば喜怒哀楽のうち哀を表現すれ音色が長けているのではないか。草笛までも哀愁を帯びているのである。ヨブ記30-31やエレミヤ書48-36に於ける笛の音色の寂しさが気になるところである。現代音楽の楽器の中でも笛の音色は他の楽器に較べれば哀愁が漂う。古代の笛の音色との共通性を発見できる。それは父が子に教える草笛の音色も同じである。
音楽は瞬間芸術であり、音は瞬間に現れて瞬間に消えてしまう。現場で生まれて現場で消える。音はその場でなくなってしまう。音楽はその様な刹那性がある。音楽を残すには文字しかない。録音があるがその限界が限定される。古代音楽の復元は至難の業でありせめてできるのはそれを聞いた人々の文字化された言葉だけであり、描写だけである。文学や絵画などの芸術との大きな落差である。悔しいのであるが聖書に出て来る楽器の音は復元がほぼ不可能である。