山葵田の水で林檎を洗いたり 紅日1995年10月
聖書に出て来る林檎をひとつひとつ丁寧に調べた心算であるが、調べているうちに聖書の頁をめくる指先が震えてきた。聖書であるから、聖典であり正典である。これが聖典であるのかという驚きで指先が震えて止まらなかった。醜悪としか受け取れないような人間の性意識と性生活が展開されているのである。中でも、雅歌と創世記はまるで二流猥褻雑誌である。文章が流麗であれば未だ救いもあるが、文章も粗雑で汚い二流猥褻雑誌である。日本語訳の翻訳技術にも問題があるが、本文の内容そのものが過激で醜悪であった。
そのことを此処に書き綴らなければならないのは少し時間がかかりそうだ。それは聖書をそのまま信じ込んでいる所謂敬虔なクリスチャン、またはキリスト教原理主義者のお顔が見え隠れするからである。聖書の雅歌に於ける猥褻はルターやカルバンの宗教改革時に於いてもそうだったが、昔から話題に上がり議論の的になっていた。この問題を取り上げると必ず騒然となると言われている。
(聖書で発見される「林檎」の調査で判明した事項)
<1>低頻度の単語
聖書には単語「林檎」は六箇所にしか発見できなかった。極めて頻度の低い単語であることが判明した。イブとアダムが林檎を食べたと言われているが、聖書創世記にはそのような描写は無い。創世記3-12に「あなたが私と共にいる様にして下さった女が、木からとって与えたので食べました」とあり、林檎とは一言も述べていない。樹種不明の果実である。
また、クリスマスツリーの青や赤の銀の玉は林檎であると言われるが、これも林檎と言われ始めたのは中世ドイツで開演された某歌劇から始まったのであり、ドイツの土着宗教が起源であり、聖書からの知識では無い。当り前のことであるが、そもそも聖書には単語として聖樹もクリスマスもクリスマスツリーも何処にも見当たらない。
<2>旧約聖書のみの林檎
聖書に発見される林檎は旧約聖書のみであり、新約聖書には林檎は皆無である。聖書に基づいて言うとすれば林檎はユダヤ教にのみ残る果実である。聖書から言えば林檎はユダヤ教の果実であり、キリスト教の果実ではないと言えないことは無い。旧約聖書には林檎が発見できて、新約聖書に林檎が発見できないのであるから。
<3>ヨーロッパの三つの林檎
ヨーロッパ諸国には「三つの林檎」があると昔から言われている。それはニュートンの林檎、カフカの変身に出て来る林檎、そしてキリスト教の林檎である。物理学実存主義キリスト教の三林檎だ。ニュートンとカフカはうなづけるが、キリスト教の林檎といわれると頭を傾げたくなる。日本人が聖書を読んでいたら、それはヨーロッパ諸国の認識違いではないかと思いたくなる。キリスト教がドイツに布教されるまでの土着の宗教に於ける林檎の存在が余程大きなものであったと推定される。
アメリカでは蝉も蝗も飛蝗もゲンゴロウも何もかもlocustだそうだ。蝉はcicadaと言う単語もあるが、locustでも良い。したがって、欧米人の日本の蝉の声は信じがたいそうで蝉の声を聞いて「静かさや岩に染み入る蝉の声」と言う風流は分からない。欧米人には鈴虫も蝉も単なる雑音である。ヨーロッパは国境が複雑であるために言語も曖昧であった背景があるかもしれない。林檎認識が曖昧なのは概念を明瞭に規定しない社会背景があるだろう。それがインドヨーロッパ語族の特徴であるのかもしれない。
隣の国はそういっているのであるからいちいち論争して互いに反発しなくても良いのではないかという意識が働くのであろう。只ですら戦乱が頻発し、経済が疲弊した地域ヨーロッパである。諍いを回避させる為のヨーロッパ諸国民の知恵かも知れない。それにしても、一神教らしからぬ林檎認識である。
<4>林檎も恋茄子(媚薬・催淫剤)並の植物か
聖書の中の林檎を調査しているうちに、聖書は猥褻書ではないかと目を疑うような場面が散見されることに気がついた。ことに創世記と雅歌に於いてそれが確かめられた。この部分を歪んで解釈すれば聖職者の性犯罪の多さの理由が聖書に潜んでいるのではないかとの疑念が浮かんでくるであろう。恋なすびは催淫剤のことである。世界には沢山の宗教があり聖典もあるが催淫剤が聖典に出てくるのは聖書やジャイナ教の聖典ぐらいでありきわめて珍しい現象である。聖書を読んでいて、どの箇所が多くの求道者に問題視されやすいのか以下に聖書の順序に従いその一部を列挙しておきたい。
①猥褻極まる姉妹の会話
創世記30-14には「あなたの子供がとってきた恋なすびを私ください」とある。これは姉妹の間の会話である。あなたの子供の持っている媚薬をよこせと言うのである。我々現代社会人には到底信じがたい姉妹の間の会話である。猥褻的と言うより猟奇的と言った方が適切かもしれない。
②一人の男を姉妹ラケルとレアが性行為に於いて共有する
創世記30-15では姉妹はさらなる過激な行為を展開している。それは次のように述べている。「姉のレアは言った。『妹よあなたは、私の夫をとっただけで気がすまないのか、私の息子が持っている媚薬恋茄子まで奪いたいのか』と問いただす。
それに対して次のように妹のラケルは答えたのであった『それではお姉さんの子供の持っている恋茄子の代わりに、私の夫であるあの人がお姉さんと一種に寝るように準備をしましょう』と。自分の夫を姉に一晩愛を交わすように預けようと言うのである。これは只ならぬ事態である。この只ならぬ事態を平然と実施することに我々現代人は驚かざるを得ない。ユダヤ教信徒には同族結婚近親結婚が多いとされるのはこのくだりが影響しているのであろうか。
③男は自分の妻の姉と一夜を共にする
創世記30-16には次のように述べている。「ヤコブは自分の義理の姉に迎えられる。義理の姉のレアは『あなたは今夜は私の元に来なければなりません。なぜならば私は息子が持っていた恋茄子であなたを雇ったのですから』と義理の姉は説明しその夜はヤコブと共に寝た」とあるのだが、こんな義理の姉との不倫関係が聖書では当り前の流れの如く平然と描写されている。この平然として何もなかったかのごとく扱われていることに我々現代人は驚きを感じる。妹の夫を自分の寝屋に導く大胆な女、そしてその夫も何の抵抗も無く寝屋に入る大胆さ、不逞さを感じずには居れない。これが旧約聖書が説く愛のひとつの形と言うのであろうか。
④百合の群生地の中での出来事
雅歌4-5には「乳房は二匹の小鹿。百合に囲まれて草を食む双子のカモシカ。あなたの乳房はカモシカの双子である。カモシカが百合の花の中で草を食べているようだ。百合が群生している中での裸の女性描写である。
⑤性行為を促す場面
雅歌5-3には「私は既に着物を脱いでしまいました。どうしてまた着られましょうか。既に足を洗いました。どうしてまた、足を汚せようか」
女性が男性に性行為を促す下りである。じょせいの積極性が描写されている。
⑥女体描写
雅歌7-2には「サンダルの乙女の足は美しい。ふっくらとした腿は匠の手で磨かれた彫り物のようだ。秘められた所は丸い杯で、かぐわしき酒に満ちている。腹は百合に囲まれた小麦の山。乳房は二匹の小鹿、双子のカモシカ」とある。読んでいる者が恥ずかしくなるとうなくだりである。
⑦女性の乳房と息
雅歌7-7には「あなたの乳房が葡萄の房の如く、あなたの息の匂いが林檎の如く」とある。気品のある描写とはとても思えない。林檎の匂いが女の息に喩えられるとは想像もつかないたとえである。
⑧媚薬恋なすびを家の玄関に並べる破廉恥行為
雅歌7-14には「恋なすびは香り、見事な実が戸口に並んでいます。新しい実も古い実も恋人よあなたの為に取っておきました」とある。恋なすびは媚薬であり催淫剤でもある。性欲を昂進させて性欲を異様な状態にまで掻き立てようとする。それが恋なすであり、服用を間違えれば性の激しい幻覚の末に死に至ることもある危険な薬物である。それを恋人の為に用意している女性である。そしてその女性は恋なすびを戸口に並べていると言うのであるから、これはもはや異様な状態であり、猟奇的であると言わざるを得ない。これが聖書かと普通の人なら後ずさりしてしまう。
⑨兄と妹の接吻
雅歌8-1には「あなたはわが母の乳房を吸った、わが兄弟のようになってください。私が外であなたに会うとき、あなたにくちづけしても、誰も私をいやしめないであろう」我々日本人の儒教的精神と感覚からはとても理解しがたい近親相姦の景色である。
⑩妹からの求愛をどのように受け止めるか
雅歌8-8には「私の妹は未だ幼いので乳房は未だ無いが、この妹が誰かから求愛されれば私はどうすればよいのだろうか」とある。
雅歌の作者はソロモンであると言われているが、何を考えているのか分からない。性に関する正常な意識が逢ったとはとても思えない。性に意識に関して異様な発達を遂げたとしか思えない。
⑩男が乳房を見る平安
雅歌8-10には「私は城壁、私の乳房は、櫓のようでありました。それで私は彼の目には、平和を齎す者のようでありました」とある。女性は男性に平和と安堵を齎せ心の安らぎを与えるとしている。此処では乳房は城壁の櫓であると比ゆ的に表現している。誇張のある比ゆでわかりにくいが、女性の肉体は男性に安らぎと平安を与えると言いたいのであろう。
<5>アダムとイブの食べたのは林檎ではない
アダムとイブが食べたのは林檎ではない。名称不明の木の実である。創世記3-6には「女が見ると、その木はいかにも美味しそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた。女は実を食べ、一緒にいる男にも渡した」とある。何処にも林檎とは書いていない。木の実である。後世の人々が聖書から離れて勝手に想像してりんごとしたまでである。
<6>キリスト教文化圏の林檎と日本の林檎
日本に林檎が入ってきたのは九世紀ごろ平安時代中ごろであると推定されている。文献上の初見は「本草和名」(918)の記載に見える。鎌倉時代にはかなり普及していた。但し、平安時代に入ってきた林檎は中国系林檎で、一世紀ごろシルクロードを経由して中国に根を張った林檎であってヨーロッパの林檎とは質的な違いがあった。日本にヨーロッパ系の林檎が齎されるのは明治四年頃であった。この西洋系林檎が明治初期に入ると同時に平安時代から存続していた和林檎は消滅してしまった。明治の開国で和林檎が洋林檎に入れ替わって仕舞った。
いずれにしても日本人の林檎に対する意識は古来から清新さであった。太平洋戦争で日本列島が殆ど焼け野原になってしまったが、あの暗い日本を明るくしたのは昭和二十年の並木路子の「林檎のうた」であった。昭和二十年には松竹映画歌劇「そよかぜ」の主題歌であった。
サトウハチロー作詞、万城目正作曲の林檎の歌は下記の歌詞であったが、このうたが戦後の焼け跡に立つ日本人を再起させたと言っても過言ではない。
赤い林檎に唇よせて
黙ってみている青い空
林檎は何にも言わないけれど
林檎の気持ちはよく分かる
林檎可愛いや可愛いや林檎
この歌を耳にするたびに、私には焼け野が原から立ち上がろうとした苦痛で歪んだ顔の日本人群像が昨日のように鮮やかに見えてくる。あの戦争は戦時中も言論統制や食糧難で厳しかったそうだが、今振り返れば戦後の方が時間が長く決して楽な生活ではなかった。駅頭には進駐軍とパンパンと呼ばれる売春婦が溢れた時代でもあった。地域での諍い一族内部での諍いが多かったのを覚えている。丸木や鉄パイプを振り回す喧嘩が多かった。幼児の栄養失調による死亡も多かった。まだまだ暗い時代を引き摺っていたが新しい時代への飛躍も見られた。
私の長野県安曇野での作品「山葵田(わさびだ)の水にて林檎洗いたり」も時代は異なるが苦しいながらも歯を食いしばっていた時代の作品であり、それは自分との戦いでもあったが、清新な気持ちが漲っていた頃であった。これに対して、欧米での林檎に対する意識は性が勝っていて時には淫靡な果物として表現されることもあり日本の林檎に対する受け止め方と大きな開きがあることが歴然とした。
<7>何故、創世記や雅歌が正典なのだろうか
聖書には正典と外典とがある。「正典」は「せいてん」と読む。外典は日本語では「がいてん」の他に「げでん」や「とつふい」と二つの読み方がある。「がいてん」は漢読みであり中国語読みであるそうだ。聖書の旧約聖書、即ちユダヤ教の経典はエルサレム陥落後一世紀末に正典が決定されたが、キリスト教の正典と外典の区分は時代が遅れた。
キリスト以降であるのに、キリスト教の正典に何故創世記や雅歌が正典として選ばれたのか現代倫理から見れば不思議なことである。倫理や道徳は時代で変転するものである。支配者が交代すれば倫理や道徳も変転する場合が多いものであるが、キリスト教の多くの宗派は創世記や雅歌が正典として維持されていることに不自然さを感じてならない。
最も不自然だ得ると思うことはキリスト教の世界でこれが議論に上らないことである。触れることがいけないとされることをタブーと言うが、この問題に触れることがタブー視されているのではなかろうか。一方では聖職者や信徒の猥褻事件が後を断たないことである。そんな疑問を抱きつつ聖書の中の林檎に関する調査を終えようと思う。また新しいことに気がつけば、この問題に取組もうと思う。尚、ヨーロッパでは11世頃はありとあらゆる果実がaplleであったそうだ。果実全てが林檎である。中世ドイツの演劇舞台でクリスマスツリーに初めて林檎が飾られたのもそのような言語上の背景があったであろう。創世記のアダムとイブの言動を観察しても媚薬である恋なすびに近い何かを巻慈雨ザルを得ない。林檎の味と形質に性的な何かを感じて選んだのである。それにしても林檎に対する感じ方はキリスト教文化圏の人々と仏教文化圏の人々と落差があることは間違いない。
<8>アップル社の齧り林檎の暗示
コンピューターのメーカーのロゴマークに齧られた林檎を描いているが、創設者は禁断の林檎を食べてしまったと言う気持ちがあったのではないだろうか。人里鵜のその禁断のうちのひとつは仏教では煩悩と言うが、煩悩の最右翼である貪欲で無為な性欲ではなかろうか。また、原子力爆弾が広島長崎と投下されたが、その後実験では地球上に無数に投下された。
核爆弾開発者はユダヤ教徒だそうだ。それはアメリカの偉大なノーベル賞受賞者オッペンハイマーである。彼自身も不幸にも実験中の放射能被爆で1967年2月18日に逝去している。京都新聞2015年8月23日付け京大名誉教授佐藤文隆の投稿で京都大学基礎物理学研究所で講演をしたこともあると伝えている。太平洋戦争は英米諸国に日本は綺麗に乗せられたと言われている。アメリカの元国務長官は原発再稼働を条件に低廉な天然ガスを輸すつすることを約束した。アメリカ企業押し付けの原発政策も、安保法案も乗せられているので花井かとの疑念が高まりつつある。広島長崎についで東京でありうとまことしやかに囁かれるようになっている。核開発も禁断の実であり、齧られたりんごなにであろう。また、遺伝子組み換え操作なども齧られた禁断の実林檎では無かったのだろうか。アップル社創業者はそのように言及していないが、私はあのアップル社の齧られた林檎をみてはそのように感じる。
隣国と常に友好親善関係を結ぶことは大切である。今こそ日本で最も優れた外交官近江高月町出身の江戸時代の儒学者雨森芳州を学ぶべきだ、信義を最も大切にした外交を展開し朝鮮通信士制度を保護確立した。怯えでいきり立った薩摩長州の下級藩士がそれを破壊して戦乱の明治維新に突入した。福沢諭吉の脱亜入欧思想の延長上にある周辺国蔑視による怯えと模倣による隷従の二本立ての外交政策を取ったのである。そのような卑屈な精神で日本は前向きに進むはずが無い。そのような道を辿り今再び同じ轍を踏もうとしている。暗黒軍国政治に今再び踏もうとしている。すでに秘密法や安保法でそのお膳立てが整えられた。日本は東アジアのイスラエル国に仕立て上げられ最悪の事態に追い込まれるだろう。その疑心暗鬼が広島長崎の次歯どこかという声が上る背景だ。
<9>禁断の林檎を齧る日本
今の日本の政治家はそんな明治維新の回帰しようとしているが、同じ轍を踏み、広島長崎の次はどこかと怯える毎日を送ることになるだろう。戦争とは古今東西「昨日の友は今日の敵」である。そのような事例は山ほどある。日本の与党政治家は隣国との友好親善や国安全保障は核武装なくして考えるのは無理としている。時の流れを観察していると禁断の林檎を広島長崎で齧り東京で齧ることになると不安を抱く人が居るのはもっともである。日本の政治家が軍事や核武装なくして平和は無いと主張するなら、国民は無為な性欲や核兵器や遺伝子組換えと除草剤のTPP農業なくしても友好親善関係を維持できる手立てを考えなければならない。そのほかに日本人は生きる道が無い。
欧米諸国は何処の国でも隣国の国語を学ぼうとするが、日本は隣国の国語を学ぼうとしない。周辺国との友好関係は先ず文化を知ること言葉を知ることから始めるのであり、隣国の文化を蔑視したり言語を軽視してはならない。況や隣国との関係は核武装や軍事力の威嚇で始めるものではない。古今東西そのような歴史は必ず両国に取り返し似つかない甚大な被害を蒙ることになる。もう、東京で林檎を齧れば福島原子炉爆発崩壊と共に国を支えるべく国民は一人も居なくなる。国家存亡危機ではないのである、国民が居なくなるのである。国家が為政者だけのものものなら、「国家」は何処かへ亡命しているだろう。
「人類の英知」と言う言葉がある、本当に英知があるのだろうか、この頃そうは思わなくなった。原理主義という拝金主義で生き残りだけを考えた制度である労働者全員を派遣労働者にすること内部留保を最大限に高める,ことが理念として確立し制度化してしまった。そして日本企業の株主は海外の株主に隷従する社長しか社長になれない時代になった。全ての企業は内部留保を優先し、株式配当を優先する企業が当り前になった。
企業には札束が腐ってはいるが後継者も育てない非人間的機構となってしまった。資本が動かないこれは自由主義経済の最悪事態である。その最悪事態が到来した。それを安易に戦争で「成長」を計り戦争で打開しようとしている。そんな経済に政治が揺さぶられ国民が揺さぶられている現実を見ていて人類は猿以下の知恵しかないのではないかとおもう。自由が何であるか考えようともし無くなった。
学校社会は現実社会の鏡であると言うが、虐め教室は虐め職場に広がり虐め政治に拡がってしまった。「人類の英知」は微塵も感じない。人々は禁断の林檎を美味いと舌なめずりをしている。禁断の実林檎を齧る人間の姿を見ていて暴力に依拠したがる猿以下の現象に遭遇することがしばしばである。猿ですらサルを殺すことをしないのに人間は武器で人間を殺す。オバマ氏は無人爆撃機で虐殺している。オバマ氏を第二のヒットラーにしては成らないと思うのだが、神はこのような時どんな言葉を我々に与えてくれるのであろうか。アップル社のロゴを見ていてそう思う。
聖書に出て来る林檎をひとつひとつ丁寧に調べた心算であるが、調べているうちに聖書の頁をめくる指先が震えてきた。聖書であるから、聖典であり正典である。これが聖典であるのかという驚きで指先が震えて止まらなかった。醜悪としか受け取れないような人間の性意識と性生活が展開されているのである。中でも、雅歌と創世記はまるで二流猥褻雑誌である。文章が流麗であれば未だ救いもあるが、文章も粗雑で汚い二流猥褻雑誌である。日本語訳の翻訳技術にも問題があるが、本文の内容そのものが過激で醜悪であった。
そのことを此処に書き綴らなければならないのは少し時間がかかりそうだ。それは聖書をそのまま信じ込んでいる所謂敬虔なクリスチャン、またはキリスト教原理主義者のお顔が見え隠れするからである。聖書の雅歌に於ける猥褻はルターやカルバンの宗教改革時に於いてもそうだったが、昔から話題に上がり議論の的になっていた。この問題を取り上げると必ず騒然となると言われている。
(聖書で発見される「林檎」の調査で判明した事項)
<1>低頻度の単語
聖書には単語「林檎」は六箇所にしか発見できなかった。極めて頻度の低い単語であることが判明した。イブとアダムが林檎を食べたと言われているが、聖書創世記にはそのような描写は無い。創世記3-12に「あなたが私と共にいる様にして下さった女が、木からとって与えたので食べました」とあり、林檎とは一言も述べていない。樹種不明の果実である。
また、クリスマスツリーの青や赤の銀の玉は林檎であると言われるが、これも林檎と言われ始めたのは中世ドイツで開演された某歌劇から始まったのであり、ドイツの土着宗教が起源であり、聖書からの知識では無い。当り前のことであるが、そもそも聖書には単語として聖樹もクリスマスもクリスマスツリーも何処にも見当たらない。
<2>旧約聖書のみの林檎
聖書に発見される林檎は旧約聖書のみであり、新約聖書には林檎は皆無である。聖書に基づいて言うとすれば林檎はユダヤ教にのみ残る果実である。聖書から言えば林檎はユダヤ教の果実であり、キリスト教の果実ではないと言えないことは無い。旧約聖書には林檎が発見できて、新約聖書に林檎が発見できないのであるから。
<3>ヨーロッパの三つの林檎
ヨーロッパ諸国には「三つの林檎」があると昔から言われている。それはニュートンの林檎、カフカの変身に出て来る林檎、そしてキリスト教の林檎である。物理学実存主義キリスト教の三林檎だ。ニュートンとカフカはうなづけるが、キリスト教の林檎といわれると頭を傾げたくなる。日本人が聖書を読んでいたら、それはヨーロッパ諸国の認識違いではないかと思いたくなる。キリスト教がドイツに布教されるまでの土着の宗教に於ける林檎の存在が余程大きなものであったと推定される。
アメリカでは蝉も蝗も飛蝗もゲンゴロウも何もかもlocustだそうだ。蝉はcicadaと言う単語もあるが、locustでも良い。したがって、欧米人の日本の蝉の声は信じがたいそうで蝉の声を聞いて「静かさや岩に染み入る蝉の声」と言う風流は分からない。欧米人には鈴虫も蝉も単なる雑音である。ヨーロッパは国境が複雑であるために言語も曖昧であった背景があるかもしれない。林檎認識が曖昧なのは概念を明瞭に規定しない社会背景があるだろう。それがインドヨーロッパ語族の特徴であるのかもしれない。
隣の国はそういっているのであるからいちいち論争して互いに反発しなくても良いのではないかという意識が働くのであろう。只ですら戦乱が頻発し、経済が疲弊した地域ヨーロッパである。諍いを回避させる為のヨーロッパ諸国民の知恵かも知れない。それにしても、一神教らしからぬ林檎認識である。
<4>林檎も恋茄子(媚薬・催淫剤)並の植物か
聖書の中の林檎を調査しているうちに、聖書は猥褻書ではないかと目を疑うような場面が散見されることに気がついた。ことに創世記と雅歌に於いてそれが確かめられた。この部分を歪んで解釈すれば聖職者の性犯罪の多さの理由が聖書に潜んでいるのではないかとの疑念が浮かんでくるであろう。恋なすびは催淫剤のことである。世界には沢山の宗教があり聖典もあるが催淫剤が聖典に出てくるのは聖書やジャイナ教の聖典ぐらいでありきわめて珍しい現象である。聖書を読んでいて、どの箇所が多くの求道者に問題視されやすいのか以下に聖書の順序に従いその一部を列挙しておきたい。
①猥褻極まる姉妹の会話
創世記30-14には「あなたの子供がとってきた恋なすびを私ください」とある。これは姉妹の間の会話である。あなたの子供の持っている媚薬をよこせと言うのである。我々現代社会人には到底信じがたい姉妹の間の会話である。猥褻的と言うより猟奇的と言った方が適切かもしれない。
②一人の男を姉妹ラケルとレアが性行為に於いて共有する
創世記30-15では姉妹はさらなる過激な行為を展開している。それは次のように述べている。「姉のレアは言った。『妹よあなたは、私の夫をとっただけで気がすまないのか、私の息子が持っている媚薬恋茄子まで奪いたいのか』と問いただす。
それに対して次のように妹のラケルは答えたのであった『それではお姉さんの子供の持っている恋茄子の代わりに、私の夫であるあの人がお姉さんと一種に寝るように準備をしましょう』と。自分の夫を姉に一晩愛を交わすように預けようと言うのである。これは只ならぬ事態である。この只ならぬ事態を平然と実施することに我々現代人は驚かざるを得ない。ユダヤ教信徒には同族結婚近親結婚が多いとされるのはこのくだりが影響しているのであろうか。
③男は自分の妻の姉と一夜を共にする
創世記30-16には次のように述べている。「ヤコブは自分の義理の姉に迎えられる。義理の姉のレアは『あなたは今夜は私の元に来なければなりません。なぜならば私は息子が持っていた恋茄子であなたを雇ったのですから』と義理の姉は説明しその夜はヤコブと共に寝た」とあるのだが、こんな義理の姉との不倫関係が聖書では当り前の流れの如く平然と描写されている。この平然として何もなかったかのごとく扱われていることに我々現代人は驚きを感じる。妹の夫を自分の寝屋に導く大胆な女、そしてその夫も何の抵抗も無く寝屋に入る大胆さ、不逞さを感じずには居れない。これが旧約聖書が説く愛のひとつの形と言うのであろうか。
④百合の群生地の中での出来事
雅歌4-5には「乳房は二匹の小鹿。百合に囲まれて草を食む双子のカモシカ。あなたの乳房はカモシカの双子である。カモシカが百合の花の中で草を食べているようだ。百合が群生している中での裸の女性描写である。
⑤性行為を促す場面
雅歌5-3には「私は既に着物を脱いでしまいました。どうしてまた着られましょうか。既に足を洗いました。どうしてまた、足を汚せようか」
女性が男性に性行為を促す下りである。じょせいの積極性が描写されている。
⑥女体描写
雅歌7-2には「サンダルの乙女の足は美しい。ふっくらとした腿は匠の手で磨かれた彫り物のようだ。秘められた所は丸い杯で、かぐわしき酒に満ちている。腹は百合に囲まれた小麦の山。乳房は二匹の小鹿、双子のカモシカ」とある。読んでいる者が恥ずかしくなるとうなくだりである。
⑦女性の乳房と息
雅歌7-7には「あなたの乳房が葡萄の房の如く、あなたの息の匂いが林檎の如く」とある。気品のある描写とはとても思えない。林檎の匂いが女の息に喩えられるとは想像もつかないたとえである。
⑧媚薬恋なすびを家の玄関に並べる破廉恥行為
雅歌7-14には「恋なすびは香り、見事な実が戸口に並んでいます。新しい実も古い実も恋人よあなたの為に取っておきました」とある。恋なすびは媚薬であり催淫剤でもある。性欲を昂進させて性欲を異様な状態にまで掻き立てようとする。それが恋なすであり、服用を間違えれば性の激しい幻覚の末に死に至ることもある危険な薬物である。それを恋人の為に用意している女性である。そしてその女性は恋なすびを戸口に並べていると言うのであるから、これはもはや異様な状態であり、猟奇的であると言わざるを得ない。これが聖書かと普通の人なら後ずさりしてしまう。
⑨兄と妹の接吻
雅歌8-1には「あなたはわが母の乳房を吸った、わが兄弟のようになってください。私が外であなたに会うとき、あなたにくちづけしても、誰も私をいやしめないであろう」我々日本人の儒教的精神と感覚からはとても理解しがたい近親相姦の景色である。
⑩妹からの求愛をどのように受け止めるか
雅歌8-8には「私の妹は未だ幼いので乳房は未だ無いが、この妹が誰かから求愛されれば私はどうすればよいのだろうか」とある。
雅歌の作者はソロモンであると言われているが、何を考えているのか分からない。性に関する正常な意識が逢ったとはとても思えない。性に意識に関して異様な発達を遂げたとしか思えない。
⑩男が乳房を見る平安
雅歌8-10には「私は城壁、私の乳房は、櫓のようでありました。それで私は彼の目には、平和を齎す者のようでありました」とある。女性は男性に平和と安堵を齎せ心の安らぎを与えるとしている。此処では乳房は城壁の櫓であると比ゆ的に表現している。誇張のある比ゆでわかりにくいが、女性の肉体は男性に安らぎと平安を与えると言いたいのであろう。
<5>アダムとイブの食べたのは林檎ではない
アダムとイブが食べたのは林檎ではない。名称不明の木の実である。創世記3-6には「女が見ると、その木はいかにも美味しそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた。女は実を食べ、一緒にいる男にも渡した」とある。何処にも林檎とは書いていない。木の実である。後世の人々が聖書から離れて勝手に想像してりんごとしたまでである。
<6>キリスト教文化圏の林檎と日本の林檎
日本に林檎が入ってきたのは九世紀ごろ平安時代中ごろであると推定されている。文献上の初見は「本草和名」(918)の記載に見える。鎌倉時代にはかなり普及していた。但し、平安時代に入ってきた林檎は中国系林檎で、一世紀ごろシルクロードを経由して中国に根を張った林檎であってヨーロッパの林檎とは質的な違いがあった。日本にヨーロッパ系の林檎が齎されるのは明治四年頃であった。この西洋系林檎が明治初期に入ると同時に平安時代から存続していた和林檎は消滅してしまった。明治の開国で和林檎が洋林檎に入れ替わって仕舞った。
いずれにしても日本人の林檎に対する意識は古来から清新さであった。太平洋戦争で日本列島が殆ど焼け野原になってしまったが、あの暗い日本を明るくしたのは昭和二十年の並木路子の「林檎のうた」であった。昭和二十年には松竹映画歌劇「そよかぜ」の主題歌であった。
サトウハチロー作詞、万城目正作曲の林檎の歌は下記の歌詞であったが、このうたが戦後の焼け跡に立つ日本人を再起させたと言っても過言ではない。
赤い林檎に唇よせて
黙ってみている青い空
林檎は何にも言わないけれど
林檎の気持ちはよく分かる
林檎可愛いや可愛いや林檎
この歌を耳にするたびに、私には焼け野が原から立ち上がろうとした苦痛で歪んだ顔の日本人群像が昨日のように鮮やかに見えてくる。あの戦争は戦時中も言論統制や食糧難で厳しかったそうだが、今振り返れば戦後の方が時間が長く決して楽な生活ではなかった。駅頭には進駐軍とパンパンと呼ばれる売春婦が溢れた時代でもあった。地域での諍い一族内部での諍いが多かったのを覚えている。丸木や鉄パイプを振り回す喧嘩が多かった。幼児の栄養失調による死亡も多かった。まだまだ暗い時代を引き摺っていたが新しい時代への飛躍も見られた。
私の長野県安曇野での作品「山葵田(わさびだ)の水にて林檎洗いたり」も時代は異なるが苦しいながらも歯を食いしばっていた時代の作品であり、それは自分との戦いでもあったが、清新な気持ちが漲っていた頃であった。これに対して、欧米での林檎に対する意識は性が勝っていて時には淫靡な果物として表現されることもあり日本の林檎に対する受け止め方と大きな開きがあることが歴然とした。
<7>何故、創世記や雅歌が正典なのだろうか
聖書には正典と外典とがある。「正典」は「せいてん」と読む。外典は日本語では「がいてん」の他に「げでん」や「とつふい」と二つの読み方がある。「がいてん」は漢読みであり中国語読みであるそうだ。聖書の旧約聖書、即ちユダヤ教の経典はエルサレム陥落後一世紀末に正典が決定されたが、キリスト教の正典と外典の区分は時代が遅れた。
キリスト以降であるのに、キリスト教の正典に何故創世記や雅歌が正典として選ばれたのか現代倫理から見れば不思議なことである。倫理や道徳は時代で変転するものである。支配者が交代すれば倫理や道徳も変転する場合が多いものであるが、キリスト教の多くの宗派は創世記や雅歌が正典として維持されていることに不自然さを感じてならない。
最も不自然だ得ると思うことはキリスト教の世界でこれが議論に上らないことである。触れることがいけないとされることをタブーと言うが、この問題に触れることがタブー視されているのではなかろうか。一方では聖職者や信徒の猥褻事件が後を断たないことである。そんな疑問を抱きつつ聖書の中の林檎に関する調査を終えようと思う。また新しいことに気がつけば、この問題に取組もうと思う。尚、ヨーロッパでは11世頃はありとあらゆる果実がaplleであったそうだ。果実全てが林檎である。中世ドイツの演劇舞台でクリスマスツリーに初めて林檎が飾られたのもそのような言語上の背景があったであろう。創世記のアダムとイブの言動を観察しても媚薬である恋なすびに近い何かを巻慈雨ザルを得ない。林檎の味と形質に性的な何かを感じて選んだのである。それにしても林檎に対する感じ方はキリスト教文化圏の人々と仏教文化圏の人々と落差があることは間違いない。
<8>アップル社の齧り林檎の暗示
コンピューターのメーカーのロゴマークに齧られた林檎を描いているが、創設者は禁断の林檎を食べてしまったと言う気持ちがあったのではないだろうか。人里鵜のその禁断のうちのひとつは仏教では煩悩と言うが、煩悩の最右翼である貪欲で無為な性欲ではなかろうか。また、原子力爆弾が広島長崎と投下されたが、その後実験では地球上に無数に投下された。
核爆弾開発者はユダヤ教徒だそうだ。それはアメリカの偉大なノーベル賞受賞者オッペンハイマーである。彼自身も不幸にも実験中の放射能被爆で1967年2月18日に逝去している。京都新聞2015年8月23日付け京大名誉教授佐藤文隆の投稿で京都大学基礎物理学研究所で講演をしたこともあると伝えている。太平洋戦争は英米諸国に日本は綺麗に乗せられたと言われている。アメリカの元国務長官は原発再稼働を条件に低廉な天然ガスを輸すつすることを約束した。アメリカ企業押し付けの原発政策も、安保法案も乗せられているので花井かとの疑念が高まりつつある。広島長崎についで東京でありうとまことしやかに囁かれるようになっている。核開発も禁断の実であり、齧られたりんごなにであろう。また、遺伝子組み換え操作なども齧られた禁断の実林檎では無かったのだろうか。アップル社創業者はそのように言及していないが、私はあのアップル社の齧られた林檎をみてはそのように感じる。
隣国と常に友好親善関係を結ぶことは大切である。今こそ日本で最も優れた外交官近江高月町出身の江戸時代の儒学者雨森芳州を学ぶべきだ、信義を最も大切にした外交を展開し朝鮮通信士制度を保護確立した。怯えでいきり立った薩摩長州の下級藩士がそれを破壊して戦乱の明治維新に突入した。福沢諭吉の脱亜入欧思想の延長上にある周辺国蔑視による怯えと模倣による隷従の二本立ての外交政策を取ったのである。そのような卑屈な精神で日本は前向きに進むはずが無い。そのような道を辿り今再び同じ轍を踏もうとしている。暗黒軍国政治に今再び踏もうとしている。すでに秘密法や安保法でそのお膳立てが整えられた。日本は東アジアのイスラエル国に仕立て上げられ最悪の事態に追い込まれるだろう。その疑心暗鬼が広島長崎の次歯どこかという声が上る背景だ。
<9>禁断の林檎を齧る日本
今の日本の政治家はそんな明治維新の回帰しようとしているが、同じ轍を踏み、広島長崎の次はどこかと怯える毎日を送ることになるだろう。戦争とは古今東西「昨日の友は今日の敵」である。そのような事例は山ほどある。日本の与党政治家は隣国との友好親善や国安全保障は核武装なくして考えるのは無理としている。時の流れを観察していると禁断の林檎を広島長崎で齧り東京で齧ることになると不安を抱く人が居るのはもっともである。日本の政治家が軍事や核武装なくして平和は無いと主張するなら、国民は無為な性欲や核兵器や遺伝子組換えと除草剤のTPP農業なくしても友好親善関係を維持できる手立てを考えなければならない。そのほかに日本人は生きる道が無い。
欧米諸国は何処の国でも隣国の国語を学ぼうとするが、日本は隣国の国語を学ぼうとしない。周辺国との友好関係は先ず文化を知ること言葉を知ることから始めるのであり、隣国の文化を蔑視したり言語を軽視してはならない。況や隣国との関係は核武装や軍事力の威嚇で始めるものではない。古今東西そのような歴史は必ず両国に取り返し似つかない甚大な被害を蒙ることになる。もう、東京で林檎を齧れば福島原子炉爆発崩壊と共に国を支えるべく国民は一人も居なくなる。国家存亡危機ではないのである、国民が居なくなるのである。国家が為政者だけのものものなら、「国家」は何処かへ亡命しているだろう。
「人類の英知」と言う言葉がある、本当に英知があるのだろうか、この頃そうは思わなくなった。原理主義という拝金主義で生き残りだけを考えた制度である労働者全員を派遣労働者にすること内部留保を最大限に高める,ことが理念として確立し制度化してしまった。そして日本企業の株主は海外の株主に隷従する社長しか社長になれない時代になった。全ての企業は内部留保を優先し、株式配当を優先する企業が当り前になった。
企業には札束が腐ってはいるが後継者も育てない非人間的機構となってしまった。資本が動かないこれは自由主義経済の最悪事態である。その最悪事態が到来した。それを安易に戦争で「成長」を計り戦争で打開しようとしている。そんな経済に政治が揺さぶられ国民が揺さぶられている現実を見ていて人類は猿以下の知恵しかないのではないかとおもう。自由が何であるか考えようともし無くなった。
学校社会は現実社会の鏡であると言うが、虐め教室は虐め職場に広がり虐め政治に拡がってしまった。「人類の英知」は微塵も感じない。人々は禁断の林檎を美味いと舌なめずりをしている。禁断の実林檎を齧る人間の姿を見ていて暴力に依拠したがる猿以下の現象に遭遇することがしばしばである。猿ですらサルを殺すことをしないのに人間は武器で人間を殺す。オバマ氏は無人爆撃機で虐殺している。オバマ氏を第二のヒットラーにしては成らないと思うのだが、神はこのような時どんな言葉を我々に与えてくれるのであろうか。アップル社のロゴを見ていてそう思う。