聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その1005―雀の子(1)猛禽類

2014-08-31 00:30:17 | Weblog
                自転車のハンドル雀の子がとまる     2014年6月作
 俳句では雀は季語にはならない。しかし、「雀の子」は初夏には雀の繁殖期になるので、夏の季語になる。日本列島の雀の数が年々減少している。昭和と比べて平成は随分減少した。まだまだ減少するであろう。近い将来日本では雀が珍鳥になるとまで言われ始めている。雀減少の原因は大気汚染ではない。日本の家屋構造の激変であるといわれている。
 日本の住宅が都心部のマンションやアパート等コンクリートになって住宅から瓦が消滅したからだ。瓦屋根は雀の大切な営巣地であった。その営巣地が消滅し続けているからだ。その上、一戸建ての住宅でも瓦屋根が消滅している。瓦屋根からスレート葺の屋根に急変してしまったからである。
 雀も燕も人間との、殊に日本人との距離は古代から極めて近い。彼らは日本人に近づくことで安全圏内に入ることが出来ると信じている。彼らは人間に接近することにより鴉や鳶などの猛禽類から逃れることを知っている。しかし、その日本人の住宅から瓦屋根が消滅しているので、彼らは営倉場所を失ってしまった。それが雀が日本列島から急減している主因であると言われている。将来は屋根に設えるソーラーパネルも雀を減らす要因となるであろう。
 時代の流れと言えども、何とも寂しい話である。人と人と別れるのは寂しいことだが、人と野生動物と離れることも寂しいものである。何故、瓦屋根が消滅したのか。どうやら、この変化は日本列島の気候変動と間接的に関係があるようだ。それは、台風が日本列島に上陸する頻度が高まったこと。また、台風の風力が大きくなったことによるのであろう。
 平成に入って民家の屋根瓦がスレート葺に急速に変化した。住宅メーカーが台風対策を考え始めたからである。昭和の高度経済成長時代頃はまだまだ瓦屋根が多く台風が来るたびに紙切れの如くかわらが飛び散っていたのを目撃したことがある。風速20m程度で瓦が空に飛ぶようになるといわれている。平成に入ると風速30mの台風上陸するようになった。そうなると瓦葺の屋根が耐えられるはずが無い。気候変動が日本の住宅構造を変化させ、そしてそのことが人間と雀との距離を大きくしてしまったと考える事ができるであろう。
 どんな現象でも例外がある。京都は寺院の数が他の都市に比べて圧倒的に多い。幸いにも寺院には瓦屋根が残留している。京都では狭小化する雀の生活空間を寺院の瓦屋根が何とか守護しているようだ。作品「自転車のハンドル雀の子がとまる」は寺の傍にある駐輪場で生まれた作品。寺の傍の駐輪場には沢山のすずめが居た。自転車の荷台にも雀の子がいたので初めは「自転車の荷台に雀の子がとまる」としたのであるが、「自転車のハンドル雀の子がとまる」のほうが雀の人間への信頼心が表現できるので「ハンドル」にした。
 聖書には不思議なほど魚類の名称が出てこない。我々日本人は長大な海岸線と、無数の河川に恵まれ古代から動物たんぱく質を魚介類から摂取してきた。それだけに、聖書に魚の名称が出てこないことに一種の不思議さを感じる。
 魚ほどではないが、鳥類の名称も聖書には数が少ない。此処では聖書の鳥類の中での雀の位置を日本と比較しつつ考えて見たいと思う。先ず、聖書の中に描かれる全ての鳥類の名称を登場頻度の高い順に並べて、それぞれの鳥に対擦る当時の人々の意識を探ることにする。但し此処では単なる単語の「鳥」は除外することにした。名称に拘った。その上で聖書時代の人々の雀に対する意識を明確化しようと思う。
                (聖書に登場する猛禽類)
 Pat Alexander Baの編集による聖書百科事典、いのちのことば社1980年発行の14ページと15ページに従えば、鳥類は猛禽類、食用、外来鳥の三つに分類している。それは猛禽類としてワシ(ハゲワシを含む)、フクロウ、カラスの三種。食用としてはハト、スズメ、ウズラ、シャコの四種。外来鳥としてはツル、コウノトリ、クジャクの三種である。百科事典には聖書には合計10種類の鳥類が登場しているとしている。これに基づきその上で本文から聖書時代の人々のそれぞれの鳥に対する認識や感じ方を調査したい。「聖詩の詩」では三回に分けて調査記録を発表した。第一回の本稿では猛禽類を取り上げた。

(猛禽類)
 聖書における猛禽類の登場頻度順は下記であった。鷲が最高の頻度であった。鷲は聖書の鳥類の中でも高頻度の鳥であった。
ワシ(ハゲワシを含む)―35回
カラス―11回
フクロウ―7回
              
<<Ⅰ>>鷲
 35回の鷲の位置は下記であった。それぞれ本文の鷹の様態を簡単に述べた。
●出エジプト記には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・19-4には「貴方を鷲の翼に乗せて」とある。
 鷲は人を運ぶ鳥類と思われていた。

●レビ記には35回の鷲の内、2回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・11-13には「鳥類のうちで食べることができない禿鷲、ヒゲ鷲、黒禿鷲」とある。
 鷲は食用鳥類ではなかった。
・11-16には「鳥類のうちで食べることができない鷲みみずく」とある。

●申命記には35回の鷲の内、4回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・14-12には「食べてはならない禿鷲、ヒゲ鷲、黒禿鷲」とある。
・には「食べてはならない鷲みみずく」とある。 
レビ記にも申命記にも鷲は食べるなと禁止している。
・には「主は鷲が飛びいかかるように貴方に差し向けられる」とある。
 鷲の飛翔速度の速さを当時の人々は感じていた。
・には「鷲に乗せて運ぶように」とある。
 鷲は人などを運べる鳥であると想像していたようである。

●サムエル記には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・には「サウルとヨナタンは鷲より速い」とある。
 此処でも鷲の飛翔速度の速さを表現している。

●ヨブ記には35回の鷲の内、3回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・9-26には「獲物を襲う鷲のように速い」とある。
此処でも鷲の飛翔速度の速さを表現している。
・39-27には「鷲が高いところに巣を作る」とある。
 鷲は高いところに営巣していたことを人々は知っていた。鷲の生態に対する一定の知識があった。
・39-28には「鷲は岩場に住む」とある。
 鷲は高い木は岩窪に生活していた。人々は鷲の生態に対する一定の知識があった。

●詩編には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・103-5には「鷲のように若い」とある。
 鷲は速さや若さのシンボルとしての鳥であった。

●箴言には35回の鷲の内、3回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・23-5には「目をそらすや否や、富は消える。鷲のように翼をはやして天に飛び去る」とある。
 富の散逸は一瞬である。それを鷲の飛翔の速度で比ゆ的に表現している。
・30-17には「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は谷の鳥がえぐりだし、鷲の雛がついばむ」とある。
 鷲の雛が目玉を啄ばむとしている。比喩的なお話ではあるが、鷲の雛にまでの観察が及んでいた。
・30-19には「天にある鷲の道、岩の上の蛇の道、大海の中の船の道」とある。
 人々は鷲が常に飛んでいる空の道をしていたのであろう。

●イザヤ書には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・40-31には「望みを持つ人は鷲のように翼をはっている」とある。
 望みを抱く人は想像の翼をもっていると思われていた。NHKの朝の連続ドラマ「アンと花子」の中で主人公が「想像の翼を広げる」のセリフがあった。聖書のこの部分の引用であろう。

●エレミヤ書には35回の鷲の内、4回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・4-13には「戦車はつむじ風のようで、馬は鷲よりも早い」とある。
 此処でも鷲の飛翔の速さを表現している。 
・48-40には「敵は鷲のように飛んでくる」とある。
 鷲の速さを描写している。
・49-16には「鷲の巣は高い」とある。
 高い所に営巣していることが知られていた。
・49-22には「敵は鷲のように舞いあがり」とある。

●哀歌には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・には「私にせまるものは鷲より速い」とある。
鷲の速さを描写している。
●エゼキエル書には35回の鷲の内、5回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・1-10には「人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろに鷲の顔を持っていた」とある。
・10-14には「ケルビムには四つの顔がある。第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四は鷲の顔をもつ」とある。ケルビムはガンダムという別称がある。中年日本人はガンダム世代とも呼ばれている。負け戦を知らない漫画で育てられた。同時に日本が世界で一番強力な国であるとどこかで過信している世代でもあるといわれている。
・17-3には「大鷲がレバノンに来る」とある。
・17-6には「葡萄の木は大鷲のほうに向かって伸びる」とある。
鷲は葡萄に関心を抱いていたと考えられていた。
・17-7には「葡萄の木の根は大鷲に向かって伸びる」とある。

●ダニエル書には35回の鷲の内、2回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・4-30には「ネブカドネザルの毛は鷲の羽のように」とある。
・7-4には「獅子のようであったが鷲の翼が生えていた」とある。

●ホセア書には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・には「鷲のように家を襲うものがいる」とある。
鷲は猛禽類らしく人家にでも襲いかかると考えられていた。
●オハディア書には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・4には「鷲のように高く飛び」とある。

●ハバクク書には35回の鷲の内、1回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・1-8には「獲物に襲いかかる鷲のように」とある。

●ヨハネの黙示録には35回の鷲の内、3回の鷲が発見された。その位置は下記である。
・4-7には「第四の生き物は鷲のであった」とある。
・8-13には「鷲が空高く飛ぶ」とある。
・12-4には「女に鷲の翼が与えられた」とある。

         (聖書の中の鷲の調査で判明した事項)

<1> 鷲は鳥類でも高い頻度
聖書には漢字「鷲」は35回発見された。

<2>人をも乗せる想像を掻き立てる鳥類
鷲は人間をも乗せることができると想像されていた。

<3>速さ
鷲はその飛翔スピードが速いと考えられていた。

<4>営巣場所
鷲は高い所で営巣すると考えられていた。

<5>鷲は軍隊の象徴
現在でも米軍のマークは鷲である。聖書の影響があると考えられる。

<6>鷲への豊かな人々のイメージ
聖書は雀は食用として扱われるだけであり売買の対象でしかなかった。しかし、当時の人々は鷲は雀よりも幅広いイメージを抱いていた。


<<Ⅱ>>フクロウ
聖書の中の梟は漢字の「梟」ではなく、ひらがなで「ふくろう」と表記している。聖書には7回の「ふくろう」が発見された。回数においては鷲と比べれば非常に少ない。その位置は下記である。
●レビ記には2回のふくろうが発見され、その位置は下記。
・11-17には「森ふくろう、糸みみずく、大このはずく」とある。
・11-18には「小きんめふくろう、このはずく、みさご」とある。

●申命記に1回のふくろうが発見され、その位置は下記。
・14-16には「森ふくろう、大このはずく、小きんめふくろう」とある。

●詩篇には1回のふくろうが発見され、その位置は下記。
・102-007には「荒野のみみずく、廃墟のふくろう」とある。

●イザヤ書には2回のふくろうが発見され、その位置は下記。
・34-11には「ふくろうとやまあらしがその土地を奪いみみずくと鳥がそこに住む。主はその上に測り縄として張り、空虚を錘としさげられる」とある。
・34-15には「ふくろうはそこに巣を作って卵をうみ卵をかえして、雛を翼の陰に集める。そこに、鳶も雄も雌も集まる」とある。

●ゼファニア書には1回のふくろうが発見され、その位置は下記。
・2-14には「あそこにはあらゆる獣が群れをなして伏せている。ふくろうとやまあらしは柱頭に宿りその声は窓にまでこだます。杉板ははがされて、荒廃は敷居に及ぶ」とある。

      (聖書の中の「梟」の調査で判明した事項)
<1>梟は低頻度語
 猛禽類「ふくろう」は聖書には7回しか発見できない。鷲の36回に比べれば極めて頻度が低い単語であり、ふくろうは聖書にはなじみの薄い鳥類である。

<2>ふくろうと人間との関係
 聖書でふくろうが描写されている地域は荒野、廃墟、柱頭などであり、荒涼とした地域がその登場場面であった。ふくろうの生活圏は人間には物悲しい地域であり繁栄や喧騒とは無縁の鳥類である。

<3>家の荒廃で最後に残留するもの
ふくろうとやまあらしは柱頭に宿りその声は窓にまでこだます。杉板ははがされて、荒廃は敷居に及ぶ」とあるが、廃墟は敷居にまで及ぶということは敷居によほど当時の人々は深い関心があったと推定できる。また、この一文で当時の家屋構造の一端を推量ることが可能である。梟は廃墟がよく似合う鳥類であった。

<4>百科事典に掲載されていなかった猛禽類
Pat Alexander Baの編集による聖書百科事典、いのちのことば社1980年発行の14ページと15ページには猛禽類としてワシ(ハゲワシを含む)、フクロウ、カラスの三種を挙げているが、それ以外にも聖書に猛禽類を発見できた。それはこのはずく、みみずく、鳶、やまあらし、みさごである

<5>空の怪物みさご
 みさごは英語でオスプレー。飛行機とヘリコプターと機能を持つ機種として開発された。上空から獲物の狙いを定めて急襲する姿が兵器開発の発端となった。みさごのように敵をとどまる上空から急襲出来たらなあという願望から生まれた機種である。

<6>敵への急襲
 米軍の軍章は鷲である。鷲は猛禽類の中では聖書に高いい頻度で出てくる。鷲もそうであるが、みさごも敵に気がつかれない内に急襲するのがその大きな取り柄である。急襲が米軍の理想戦闘形態であることがこのことからわかる。戦争の前には相互に名を名乗るのが日本では礼儀であるが、米軍ではそれはない。いきなり突撃するのがその特徴なのだろう。


<<Ⅲ>>烏
 聖書に出てくる「からす」はすべて漢字の「烏」で表記されている。漢字には「鴉」もあるが、「鴉」ではない。「烏」の回数は全部で11回。猛禽類では鷲がトップで、鷲がことに目立ったが、梟と烏が鷲に次ぐ。それぞれの回数は下記の結果であった。
鷲―36回
烏―11回
梟―7回
なお、聖書の中の烏の分布位置は下記である。
●創世記ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・8-7には「ノアの方舟から烏を放した」とある。
ノアの方舟に烏はえらばれていたのであるから、忌み嫌う鳥類ではなかった。

●レビ記ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・11-15には「鳥の類」とある。

●申命記ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・14-14には「鳥の類」とある。

●列王記上ではからすは2回発見できた。その位置は下記である。
・17-4には「その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこで貴方を養わせる」とある。
・17-6には「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉とを、また夕べにもパンと肉とを運んできた。水はその川から飲んだ」とある。
 日本では烏は縁起が悪いと思われがちな鳥類であるが、聖書では人間生活と烏とは至近距離であったことがうかがえる。

●ヨブ書ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・38-41には「誰が烏の為に餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」とある。
 烏に対する当時の人々の一定の憐憫の情が見える。

●詩篇ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・147-9には「獣や烏のたぐいを求めて鳴けば、主がお与えになる」とある。
 烏といえども生ある鳥類としての扱いが見える。

●箴言ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・30-17には「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は谷の烏がえぐりだし、鷲の雛が啄ばむ」とある。
 人間の眼球を烏が抉り出すという。聖書には猛禽類らしき烏の姿もある。

●雅歌ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・5-11には「頭は純金で髪はふさふさと烏の羽のように黒い」とある。
 日本では烏の羽のごとき黒髪とは言わない。聖書時代のほうが人間と烏との心理的距離は短かったことがうかがえる。

●イザヤ書ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・34-11には「梟とやまあらしがその土地を奪い、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に混乱を測り縄として張り空虚を錘として下げられ」とある。
 混沌とした世界を烏の動態を観察しながら描いている。

●ルカ伝ではからすは1回発見できた。その位置は下記である。
・12-24には「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなた方は、烏よりもどれほど価値があることか」とある。
 欲深く蓄えることをやめて神に供えることの大切さを烏の生態から民衆に解き明かそうといている。
          (聖書に出てくる烏の調査で判明した事項)
<1> 猛禽類の中で烏は鷲に次ぐ
 聖書には猛禽類として主として鷲、梟、烏、が登場したがその登場頻度は第一位は鷲―36回、第二位は烏―11回、第三位は梟―7回であった。鷲が突出していたが、鷲の次は烏であった。

<2> ノアの方舟の乗船者
烏はノアの方舟の乗船者の一羽であり、決して忌み嫌われる鳥類ではなかったと考えられる。日本では古今東西烏は不吉な鳥類として感じられるのが一般的である。日本の烏に対する感じ方と大きな違いである。

<3>烏の高い知能
列王記上17-4には「その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこで貴方を養わせる」とある。また、続けて17-6には「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉とを、また夕べにもパンと肉とを運んできた。水はその川から飲んだ」とある。この二つの文章から烏は高い知能を備える鳥類として考えられていた。現代社会でも烏の知能の高さは評価されているが、すでに烏の知能の高さに関する認識は聖書時代からあったと考えられる。

<4>人も烏も神の造形
ルカ伝12-24には「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなた方は、烏よりもどれほど価値があることか」とある。烏も人も神の造形物として並列させて描写している。また、烏を見習えと教えを説いている。此処でも烏は忌み嫌う鳥類として扱っていない。

聖堂の詩その1004―宿駅

2014-08-28 06:21:23 | Weblog
              沢蟹の歩く街道宿場町           紅日2012年11月号

 滋賀県には旧宿場町の風景が数多く残されている。宿場町の景観を観光資源として最も活用しているのは醒ヶ井宿であろう。他には若狭街道通称鯖街道の熊川にも宿場町の面影を残している。宿場町は沢山の人々が泊まるのであり、そこには豊かな地下水が必要である。醒ヶ井宿も熊川宿も両者とも地下水が豊富な山間部に立地していた。地下水が豊富で岩清水が豊富なら必ず其処に生息しているのは沢蟹である。蟹や沢蟹は俳句では夏の季語として認められている。作品「沢蟹が街道歩く宿場町」は若狭街道の熊川宿で生まれた。
 聖堂の詩その1001に於いて聖書に出て来る漢字「宿」を調査した。その調査の中で宿場に関して詳細には触れなかった。聖書時代の駅伝制度の有無を考えるための重要な資料となるので此処で「宿場」に関して触れておきたい。聖堂の詩その1001では宿の種類は七種類あることを明らかにした。宿が出て来る頻度順に並べれば以下の如くであった。
 宿営:169回
 宿:12回
(野営:6回)
 野宿:4回
 宿屋:3回
 宿泊:1回
 宿舎:1回
 宿場:1回
 此処に出て来る宿場の情景を聖書の中で確かめておきたい。また、それを確かめることにより聖書時代に於ける駅伝制度の存在を考える資料としておきたい。聖書には宿場は発見されたが、宿駅は発見されない。宿場も宿駅も意味は同じであるが、宿場しか発見できなかった。しかも、それは1回だけであった。エレミヤ書で宿場が見つかった。
●エレミヤ書には漢字「宿場」は1回発見された。その位置は下記であった。
 ・41-17には「出発し、ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。彼らはエジプトに向かおうとしていた」とある。
 エレミヤは預言者。バビロン捕囚時代に活躍した預言者。エルサレムで活動をしていた。この場面はエジプトへの逃亡を主張する一団にエジプトへ連行されようとしているエレミヤを描写している。
 当時、既に宿場は存在していた。ベツレヘムの近くにキムハムという宿場に泊まったと述べている。エレミヤはエルサレムで生活していたのであるからエジプトへ向かうのでエルサレムの南方に中央山脈の稜線に伝い向かう。エルサレムから10kmの所にベツレヘムがあった。そして、キムハムは聖書地図で調べたが場所は不明であった。ベツレヘムの郊外であったと推定出来る。キムハムは聖書に出てくる唯一の宿場であった。聖書には唯一であるが、当時既に宿駅制度は存在していたと推定出来る。

               <聖書に発見された「宿場」に関する調査で判明した事項>
<1>宿場は低頻度語
 聖書に発見される単語「宿場」は一回しか発見できなかった。「宿駅」は一度も発見できなかった。宿場は聖書の低頻度語であることが分った。

<2>宿駅制度の存在
 エレミヤが預言者として活動をしたのはヨシュア王13年(紀元前627年)からバビロニアによりエルサレムが陥落する年(紀元前585年)である。聖書には「宿場」は子の一箇所しか発見できないものの、当時既に宿駅制度は存在していたものと推定出来る。

<3>エルサレムからベツレヘムへ
 エルサレムからエジプトへいたる街道の一部は中央山脈の尾根道に沿っていたと推定出来る。海抜高度の高い冷涼な地域に街道を敷設したものと推定出来る。

聖堂の詩その1003―囮

2014-08-23 13:18:47 | Weblog
           鯖街道農家が囮鮎を売る      紅日2012年11月号

 鯖街道を歩いていると藁屋根の軒先に「囮鮎あります」の札が下がっている。農家が囮鮎を売っている。若狭と京都出町柳駒形商店街とを結ぶ鯖街道は若狭の鮮魚を運ぶ街道として古代からの有名である。「土佐日記」を著した紀貫之はグルメであったらしく、平安時代からあったと伝えられる平八茶屋のある松ヶ崎を歌で詠んでいる。
   たなびかぬ時こそなけれあきもなき松ヶ崎より見ゆる白雲
 紀貫之は高野川沿いに今も門構え等に平安時代の面影を残すあの平八茶屋で流れ行く白雲を仰ぎ見ながら筆を走らせたのであろう。若狭から京都まで若狭街道十八里といわれているが、若狭京都松ヶ崎までは意外に近い。夕方、若狭小浜で籠に鯖や鯵などの魚をつめて出発すると、飛脚はリレーで熊川宿、朽木宿、途中宿、大原宿、を運搬して、夜明け前に京都松ヶ崎や京都出町柳に到着する。運搬時間は半日もかからないので平安時代でも生の魚が京都で食べることが可能であった。京都では鮮魚が食べられない、それが世間の相場であるが、京都松ヶ崎や京都で町柳は古代から別格である。
 但し、京都まで運搬される生の魚の量は少ない。殆どが保存が利く塩をしていたり乾物であったりする。松ヶ崎まで食べに来るのはよほどの食道楽であったろう。高野川沿いの松ヶ崎にある平八茶屋や出町柳に集合していたものと推定される。その一人が紀貫之であった。四国土佐国で新鮮で美味い魚を食べ、その味を熟知している。松ヶ崎へはしばしば魚を食べに来ていたのであろう。
 作品「鯖街道農家で囮鮎を売る」は鮮魚を運搬する街道沿いに川魚である鮎漁の囮鮎を売っている。鮮魚と川魚との奇妙な接点が鯖街道に発見された。それを俳句にした。西瓜の臭いがする鮎は季節感に溢れている。勿論、鮎は夏の魚であり、夏の季語。囮鮎(おとりあゆ)も夏の季語。囮鮎とは友釣りに使う鮎のこと。
 囮鮎には鰭に針で武装した鮎であり近づいてくる鮎をその針で引っ掛ける。鮎は自分の縄張りを守る習性がある。鮎は石に生える藻を食べて生きるのであるが、自分が確保した藻の領域に他の鮎が入り込むと猛然と襲い掛かる習性がある。その習性を利用するのが友釣りである。
 友釣りと書くが鮎にすれば全く友ではない。針で武装した鮎は侵入者だ。その侵入者の鮎の鰭に針が隠されていることを知らないで襲いかかる。そうして引っかかるのである。侵入者としての鮎、それが囮鮎である。囮鮎とは成程上手く命名するものだ。誰が命名したのかは知らないが、戦争経験者に違いない。
 戦争では直接対決する前に、敵の内部状況を充分知っておかねばならない。日本陸軍にもスパイ学校があったそうだ。「中野学校」だ。敵と直接対決する前に、敵を混乱に陥れることが大切で、スパイや囮は不可欠である。だとすれば戦記物とも言われる旧約聖書には漢字「囮」は当然発見されるであろう。
 キリスト教はややこしい。聖書には正典と外典があるそうだ。正式の正典とそうでない非正式の外典とに分けられている。これが宗派によって異なるのであるから話はややこしい。「囮」が発見されたのは、それはカトリックやギリシャ正教では正典であるがユダヤ教やプロテスタントでは外典であるシラ書で一箇所発見されるだけであった。聖書に於ける「囮」を検索してみたが、「おとり」は聖書において例外的存在であった。希少性の高い単語であることが判明した。そして発見されたユダヤ教やプロテスタントでは外典扱いであり、その外典であるシラ書には以下の如く「囮」を説明している。

●シラ書で発見される漢字「囮」は1箇所発見された。その箇所は以下である。
・11-30には「高慢な人間の心は、籠の中のいる囮のうずらのようだ。密偵のようにお前を陥れようとすきを窺っている」とある。
 当時の鶉の捕獲方法が描かれていて興味深い。鶉の捕獲は囮の鶉が活用されていたようである。鶉を捕獲するために囮鶉を活用していたのである。聖書はその囮猟に於ける鶉を蔑んでいる。高慢であると蔑んでいる。またそれは丁度密偵、即ちスパイを活用するようなもので卑しい手法によるとして、戦争においてスパイの活用も卑しくて蔑むべき戦術であり手法であると指弾している。

 戦争に於ける囮の利用やスパイの活用は当時から存在していたことがこの文章から読み取ることが可能である。しかし、一方で戦争に於ける囮の活用やスパイの活用やは卑しくて蔑むべき手法であると考えられていた。

 日本にも日中戦争時や太平洋戦争時に陸軍中野学校」がスパイを養成していたのであるが、あまり公表できるような機関ではなかったようである。終戦直前には証拠隠滅のため陸軍は中野学校の多くの文書を焼却処分にしたそうだ。戦争が終わりそうになると、または軍隊が撤退する直前には証拠隠滅行為は当然の行為であるようだ。南京事件でも証拠隠滅行為は当然存在していたであろう。それを、事件全体が捏造であったなどと騒ぎ立てるのは妙な話である。 

     <聖書に発見された「おとり」に関する調査で判明した事項>
<1>希少性の高い単語囮
 聖書に発見される「おとり」は一箇所のみであった。「おとり」は聖書で希に見る単語である。おとりは戦場で使われる戦争用語である。戦記物とも言われる旧約聖書でも希に見る単語であることが判明した。

<2>ユダヤ教とプロテスタントではシラ書は外典であり正典ではない
 聖書には正典と外典がある。それは宗派によって異なることが判明した。単語「おとり」はシラ書で発見されたのであるが、このシラ書を正典とする宗派と外典とする宗派と二分される。「囮」が唯一発見されるシラ書はカトリックと正教は正典であるが、ユダヤ教やプロテスタントではシラ書は外典であり正式の聖典としては扱われていない。

<3>囮戦法やスパイ活用は蔑まれていた
 戦争で囮やスパイを使うのは古今東西当然のことである。しかし、聖書では戦争に於ける囮戦法やスパイの活用は蔑まれていた。他者を陥れる卑怯な戦法であると蔑まれていた。


聖堂の詩その1002―野が語源であるキャンプ

2014-08-14 12:32:47 | Weblog
           灯台が点りキャンプの灯が点る      紅日1998年7月号
 作品は佐田岬半島の佐田岬キャンプ場。岬のキャンプ場での作品。瀬戸内海と宇和海と隔てる佐田岬半島で風が強い岬である。暴風対策であろう、半島の尾根の一窪地を利用したキャンプ場だ。キャンプ場の窪地を出て200mほど岬道をさらに西進すると行き止まりで、聳える佐田岬灯台を仰ぎ見る。佐田三崎半島は第二次世界大戦中は要塞であった。瀬戸内海を出入りする全ての船を監視していた。キャンプ場の一角に砲台司令部がある。また、灯台の真下には二基の砲門を設えている。
 瀬戸内海への出入り口は三箇所ある。この豊後水道と関門海峡と紀伊水道である。関門海峡は古代から海外と頻繁な接触があった。豊後水道と紀伊水道は関門海峡に比べてその通路としては新しく、船の出入りを監視する岬は両者とも僻地である。日御碕には山口誓子の作品「燈台は光の館桜の夜」がある。同じ僻地でも佐田岬より日御碕の方が華やぎがあるのだろうか。佐田岬の花は厳寒時に咲く藪椿ばかりである。
 キャンプ即ちCampingの語源は屋外での一時的な生活のことであり、日本語訳では露営、野営、宿営である。しかし、Campingの語源はラテン語ではCamposであり、ポルトガル語であるブラジルの熱帯草原Camposやフランス語の草原Champは同じ系統の言葉である。したがってキャンプの語源のさらなる源流は草原と言う意味がある。野での生活を意味している。したがって、語源で考えればCanpinngはテントを張らない野宿が最も適切であると言うことになるのだろうか。テントは雨露に濡れる野宿から発展したものである。繊維工業や皮革工業の発展につれてCampingでテントが使われるようになったと考えて良いのではなかろうか。
 キャンプは欧米のスポーツとして日本に紹介された。ヨーロッパ大陸は多くの民族が犇き合い戦乱が絶えることが無かった。十字軍遠征からキャンプは戦時の宿営として重要だった。そして、キャンプはアメリカ大陸の西部開拓で成熟期を迎えた。アメリカインディアンの土地の略奪や銃による殺戮はあったがヨーロッパの民族対立と性質をことにし、キャンプの成熟期を迎えることが出来たのであろう。テントだけではなく携帯調理器具が最も充実した時期である。
 日本には中世の戦国時代があったが、既に身分制度が確立されており、戦時の武士の衣食住は農民が用意した。欧米の如く戦乱でのキャンプが発展する余地が無かったと推定される。また近世に入ると五畿七道の宿駅制度が整備されていた。その上、農民は封建制度の下土地に縛られ移動生活が許されないのでありキャンプの発展余地は皆無であった。
 日本に近代スポーツの一部としてのキャンプが入ってきたのは明治時代である。ヨーロッパ文化の無条件受容の時代であり、福沢諭吉の脱亜入欧富国強兵思想真っ只中にキャンプが入ってきた。皇族に限定された教育機関学習院に初めてキャンプが入ったのは明治40年(1907)のことであった。当時の院長であった乃木希典が遊泳演習としてキャンプを採用した。今流で言えば林間学校であった。二番目に古いキャンプは1922年にYMCAが開催した日光中禅寺湖でのキャンプであった。
 日本で本格的にキャンプが拡がったのは時代がずっと遅れて第二次世界大戦後である。1965年に日本キャンプ協会が設立されて高度経済成長と共にキャンプが国民レジャーとして発展した。欧米の地形は構造平野が広大で平野でのキャンプが主流で文字通りキャンプは野営であるが、日本列島は地球上で最も柔かく地殻変動が活発な環太平洋造山帯にあり、地形が複雑で地域の特性が変化に富んでいる。その為にキャンプサイトも多様で平野に限定されない。山岳地帯、高原、平野、河川敷、海浜等キャンプ場は多彩である。日本のキャンプは語源の草原と最もかけ離れていると言えよう。私は某高校に在職中山岳部の顧問をして居たのでキャンプの殆どは山岳キャンプだった。
 夏季休暇中のことである。歴史研究の研修を兼ねて生徒を引率しつつ韓国を視察したことがある。その一つの驚きはキャンプであった。韓国のキャンプは日本の三倍も四倍も盛んであることに驚かされた。山も川も海岸も所狭しと多彩なテントを発見することが出来た。恐らく韓国のキャンプ熱は徴兵制度の存在があるものと推定される。徴兵制の有無が日本と韓国のキャンプの違いを歴然とさせている。社会環境の違いがキャンプの違いを歴然とさせていた。旧約聖書に最も多いキャンプは日本語で宿営と翻訳されているのであるが、宿営は軍事用語である。韓国のキャンプ熱はそうした徴兵制の存在、即ち国民の軍事的環境が反映しているのであろう。
 この、「聖堂の詩」ではキャンプに関連してしばしば既に触れている。聖堂の詩その256―キャンプの灯、聖堂の詩その259―テント・天幕・幕屋、聖堂の詩その472―キャンプ、聖堂の詩その509―キャンプと陣営と、。聖堂の詩その603―キャンプファイヤーと火の粉等である。こうして振り返ると聖書と宿営との深い繋がりを感じる。
 今回はキャンプの語源に拘ってみたい。キャンプの語源はCampingの語源はポルトガル語Camposやフランス語の草原Champでありラテン語の草原に由来すると述べた。日本語訳では露営、野営、宿営である。語源に最も近い日本語翻訳は野営であろう。そこで今回は聖書に発見される野営を調査してみようと思う。前回はキャンプでも聖書に出て来る漢字「宿営」を調査した。今回は宿営との比較を意識しながら聖書に出て来る「野営」を調べた。

                  <聖書に発見される漢字「野営」の分布>
●創世記には漢字「野営」は1回発見される。その位置は下記である。
・32-22には「こうして、贈物を先にゆかせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった」とある。
 野営は一夜であり短期的であったことが文面から読み取ることが可能である。
●ヨシュア記には漢字「野営」は3回発見される。その位置は下記である。
・3-1には「ヨシュアは朝早く起きてイスラエルの人々全てと共にシティムを出発し、ヨルダンに着いたが、川を渡る前にそこで野営した」とある。
 ヨルダン川の河畔での野営である。なお、シティムはシティムの谷のことであり、死海南端に位置する谷。ソドムとゴモラのある渓谷。
・4-3には「彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を12個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい」とある。
 「今夜野営する場所」とある。野営の簡易性が見える。その野営地には十二個の石が置かれるとあるが、氏族の数である12個であり、氏族の動静を掌握する目的で出発時に活用されたものと推定される。
・4-8には「イスラエルの人々はヨシュアの命じたとおりにした。主はヨシュア告げられたように、イスラエルの人々の部族の数にあわせて、12の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた」とある。
 ヨルダン川の真ん中の石を拾うのであるから。ヨルダン川は水のない川である。ヨルダン川の夏は水が乏しかったまたは水がない川であった。この十二個の石も十二氏族の動静を掌握する目的であったと推定出来る。
●サムエル記下には漢字「野営」は1回発見される。その位置は下記である。
・11-11には「ウリヤはダビデに答えた。『神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、私だけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたり出来るでしょうか。貴方は確かに生きておられます。私はそのようなことは出来ません」とある。
 主君や家臣が野営しているのに、私だけが帰宅して家での安穏な生活が出来ないとして、野営の辛さと家の生活の安楽さとを比較している。
●エズラ記には漢字「野営」は1回発見される。その位置は下記である。
・8-15には「私はアハワに向かって流れる川のほとりに彼らを集めた。そこで私たちは、三日間野営した。其処には民も祭司もいるのがわかったが、レビ人は見当たらなかった」とある。
 三日間野営したとあり、野営の短期性を読み取ることができる。尚、アハワはバビロニアを流れる川の名称。

                (野営を調査して判明した事項)

<1>野営は低頻度語
 野営は聖書には6回しか発見できない低頻度がであることがわかった。また、旧約には発見できるが新約には野営が発見できない。

<2>野営の短期性
 野営は一夜または長くとも三泊程度の短期の宿営であった。

<3>野営の簡素さ
 野営は一般的な宿営と比較すると簡素さが目立つ。粗末な宿営であり不自由な生活が強いられたと推定される。

<4>河畔での野営
 野営は河畔で行われる場合が多かった。

<5>ヨルダン川の渇水期
 ヨルダン川には渇水期があった。恐らく降水量の乏しい夏から秋にかけてであろう。その頃は川の真ん中で石を拾うことが可能であった。ヨシュア記4-8にはイスラエルの人々の部族の数にあわせて、12の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた」とあるが、この文面から渇水期が推定出来る。


聖堂の詩その1001―宿

2014-08-05 11:42:37 | Weblog
              祇園祭宿の料理は鱧尽くし        紅日2014年8月号
 沖縄の石垣島の海底を遊泳したことがある。目的は巨大なマンタを一度見たかったからだ。もう一つは日本列島の端の端へ行ってみたかったからだ。また、隣国との文化接触を観察し経験したかったからである。海の透明度が高いのは冬か春。私は潜水するときは冬を選ぶことにしている。正月に行ったこともあり、正月料理の一部台湾料理と似ていたものがあった。漁家の民宿に泊まったのであるが、高校生は皆夏休みや冬休みは台湾にアルバイトに出てゆくそうだ。
 石垣島の川平湾では昼の潜水だけでなく夜間潜水も経験した。夜間潜水でガイドは恐ろしい話をしていた。舟中では体はなるべく低くしていてほしいといのである。その理由は夜は明かりを目指してダツが舟に飛び込んでくるだけではなく、人間の体を突き刺すことがある。体の向こう側に抜けることもあるそうだ。突き刺されば大量出血で命は無いという。
 石垣島でダツにお目にかからなかった。家に帰って百科事典でダツを調べるとそのくちばしの先端の長さと鋭さには驚いた。世の中にはこんな恐ろしい魚が居るものだ、海は危険地帯だと思った。作品「祇園祭宿の料理は鱧尽くし」の鱧は祇園祭が近づくとめったに見かけないが魚屋の店頭に並んでいることもある。鱧はダツほど先端は鋭くは無いものの、その面構えはダツより恐ろしい。京都祇園祭の鱧の多くは淡路島の南に浮かぶ沼島(ぬしま)で水揚げされる。白身の魚だが小骨が多いので骨きりが出来なければならないので一般家庭では鱧をおろすことは難しい。店頭に並ぶのは骨きりを済ませて発泡スティロールの皿に平たく伸ばされ原形をとどめない鱧が多い。
 先端が尖った点ではダツと鱧とは魚形が似ているが、その性質は大きな違いがある。ダツはサヨリや秋刀魚に近く青身の魚である。それに対して鱧は鮫に近く死後は体内にアンモニアを発する。広島県の自動車会社、昔は東洋工業という名称だったが今はマツダである。この会社の自動車走行試験場が三次盆地にある。三次の名物は海から離れているにもかかわらず鮫の刺身で知られている。三次では鮫の刺身とは言わない。ワニの刺身との呼称がある。自動車走行試験場がある片田舎の名物が刺身であることもバランスが取れないのであるが、中国地方で海から最も遠いところで刺身が名物であるのも奇妙な取り合わせである。鮫は死後アンモニアを発するので海から離れた内陸部でも刺身が可能であった。死後一週間は食べられる。古人がそのような知識を持っていて古くからの郷土料理になっている。
 ワニの刺身は見かけはマグロと似ている。三次盆地のスーパーマーケットでも売っているので手元にアイスボックスがあれば買って帰って試食して見られると良いと思う。魚肉からアンモニアを発するというのであるから一日ぐらいは日持ちは可能である。あっさりして歯ごたえがよく鮫の肉とは思えない。鱧も鮫も死後アンモニアを発するという点で同じであるようだ。京都の一年で一番暑いのは祇園祭である。酷暑の中でしかも海から遠い京都で食中毒にもならないで鱧が食べられるのは鱧が体内から発するアンモニアがあるお陰だ。海魚が乏しい京都である。平安時代から京都で鱧が食べられていた。これも古人の知恵である。
 若し、平安時代から冷蔵庫があれば京都で鱧を食べることは無かったであろう。因みにハモの語源は漁師に噛み付く獰猛な魚であることに由来する。漢字で魚偏に豊と書くのは鱧程鮮魚の中で料理方法が多い魚は無いことによる。モノが乏しければ人間はそれなりに知恵が働く動物である。そう考えると、豊かさは知恵を滅ぼす元凶かもしれない。大量生産のモノに溢れる今の日本社会の将来はどうなるのっだろうか、その頃は私は生きていないものの、心配なことである。
 この号では鱧を取り上げるのではない。聖書には魚の名称が皆無であるから日本でも特殊な魚の鱧が聖書に発見されるはずが無い。この号では漢字「宿」を取り上げてみたい。ローマ時代には街道と宿駅が整えられていたのであり、それ以前も宿駅は存在していたと推定されるので此処では漢字「宿」を取り上げて聖書時代には人々は宿に対してどのような認識を抱いていたのか確かめてみたい。この調査では移動が可能な宿営を含めた構築物や建築物としての宿に限定した。追求するものを複雑化させないために「聖霊が宿る」や「子が宿る」などの動詞の「宿る」は排除し調査を進めた。その結果190回の宿が発見された。中頻度語であり聖書の中ではしばしば目に付く単語である。以下が聖書に発見された「宿」の分布である。

                     <聖書に発見される漢字「宿」の分布>
●創世記には6回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・25-16には「村落や宿営地」とある。
・25-18には「道沿いに宿営する」とある。
・32-14には「ヤコブは野宿した」とある。
・33-18には「町のそばに宿営した」とある。
・42-27には「途中の宿」とある。
・43-21には「宿で袋を開けた」とある。

●出エジプト記には18回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・13-20には「エアムに宿営した」とある。
・14-2には「海辺に宿営」とある。
・14-9には「海辺に宿営」とある。
・15-27には「泉に宿営」とある。
・16-13には「宿営地に露が降りた」とある。
・17-1には「宿営地には水が無かった」とある。
・18-5には「モーセは神の山に宿営した」とある。
・19-2には「山に向かって宿営した」とある。
・19-16には「角笛の音に宿営地の人々は怯えた」とある。
・19-17には「モーセは民を宿営地から連れ出した」とある。
・29-14には「雄牛は宿営の外で焼き捨てる」とある。
・32-19には「宿営地に接近する」とある。
・32-26には「宿営の入り口に立つ」とある。
・32-27には「宿営の入り口」とある。
・33-7には「宿営の外」とある。
・33-11には「モーセは宿営に戻った」とある。
・36-6には「モーセは宿営の人々に命じた」とある。

●レビ記には17回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・4-12には「宿営の外の焼却場」とある。
・4-21には「雄牛の残滓は宿営の外に」とある。
・6-4には「燃え滓は宿営の外に」とある。
・8-17には「宿営の外で焼却する」とある。
・9-11には「宿営の外で焼却する」とある。
・10-4には「宿営の外に運び出せ」とある。
・10-5には「宿営の外に運び出した」とある。
・13-46には「宿営の外で住まねばならない」とある。
・14-3には「祭司は宿営の外に出てきて患者を調べる」とある。
・14-8には「彼は宿営に戻ることが出来る」とある。
・16-26には「初めて宿営に戻ることが出来る」とある。
・16-27には「捧げ物の雄牛と雄の山羊は宿営の外に運び出し焼却する」とある。
・16-28には「体を洗って初めて宿営に戻ることが出来る」とある。
・17-3には「宿営の内であれ、外であれ牛、羊、山羊を屠っても」とある。
・24-10には「この男が宿営においてイスラエル人と争った」とある。
・24-14には「神を冒涜した男は宿営の外に連れ出し」とある。
・24-23には「神を冒涜した男を宿営の外に連れ出し石打で殺した」とある。

●民数記には107回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・1-50には「レビ人には幕屋の周りに宿営させない」とある。
・1-51には「宿営する時はレビ人がそれを組立てる」とある。
・1-52には「部隊ごとに旗を立てて宿営する」とある。
・1-53には「レビ人は掟の幕屋の周りに宿営する」とある。
・2-2には「家系の印を描いた旗を掲げて宿営する」とある。
・2-3には「ユダの宿営の旗の下に部隊ごとに宿営する」とある。
・2-5には「共に宿営するのはイカサル族」とある。
・2-9には「ユダの宿営に属する者は総数18万64000人」とある。
・2-10には「ルペンの宿営の旗の下に部隊ごとに位置を取る」とある。
・2-12には「共に宿営するのはシメオン族」とある。
・2-16には「ルペンの宿営」とある。
・2-17には「レビ人の宿営に囲まれて」とある。
・2-18には「エフラムの宿営の旗の下」とある。
・2-20には「共に宿営するのはマナセ族」とある。
・2-24には「エフラムの宿営に属する者は10万800人」とある。
・2-25には「ダンの宿営の旗の下に」とある。
・2-27には「それと共に宿営するのはアシェル族」とある。
・2-31には「ダンの宿営に登録されたものは15万7600人」とある。
・2-32には「宿営に属する者の総数は60万3550人」とある。
・2-34には「モーセの命令どおりそれぞれの旗の下に宿営し」とある。
・3-23には「ゲルジョン族は幕屋の裏手即ち西側に宿営する」とある。
・3-29には「ケハト族は幕屋の脇すなわち南側に宿営する」とある。
・3-35には「メラリ族は幕屋の脇即ち北側に宿営する」とある。
・3-38には「モーセとアロンは幕屋の正面に宿営する」とある。
・4-5には「アロンは宿営に移動にあたった、其処に来て聖所の垂れ幕をはずす」とある。
・4-15には「アロンは宿営の移動に当たっては」とある。
・5-2には「病気の者は宿営の外に出す」とある。
・5-3には「病気の者は男女とも必ず宿営から外に出しなさい。宿営を汚すな」とある。
・5-4には「彼らを宿営の外に出した」とある。
・9-17には「雲が一つの場所にとどまるとそこに宿営した」とある。
・9-18には「雲が幕屋の上にとどまっている間はそこに宿営した」とある。
・9-20には「雲が日数しかとどまらないことがあたが、主の命令で宿営した」とある。
・9-23には「主の命令で宿営し、主の命令で旅立つ」とある。
・10-2には「銀の喇叭を二本作りなさい。宿営を旅立たせるために用いなさい」とある。
・10-5には「喇叭を吹くと東に宿営している者が旅立つ」とある。
・10-6には「二度目の喇叭で南に宿営している者が旅立つ」とある。
・10-14には「宿営の旗を先頭にして部隊ごとに出発した」とある。
・10-34には「宿営を旅立つ時、昼は主の雲が彼らの上にあった」とある。
・11-1には「民が不満を言った。主はそれを聞いて宿営を端から焼こうとした」とある。
・11-9には「宿営に夜露が降りるとマナにも降った」とある。
・11-26には「宿営に二人が残っていた。彼らは宿営で予言状態になった」とある。
・11-27には「宿営で予言状態になっているとモーセに告げた」とある。
・11-30には「モーセは宿営に引き上げた」とある。
・11-31には「主は海からうずらを吹き寄せ宿営に落とした」とある。
・11-32には「うずらを集めて宿営の周りにひろめた」とある。
・12-14には「ミリアムを宿営から離しなさい」とある。
・12-15には「ミリアムは宿営から隔離された」とある。
・12-16には「その後、民はハッテロトを出発してバランの荒野に宿営した」とある。
・14-44には「主の契約の箱とモーセは宿営から離れなかった」とある。
・15-35には「モーセは言った『その男は宿営の外で石打で殺すべきだ』」とある。
・15-36には「彼を宿営の外に連れ出して石打で殺した」とある。
・19-3には「宿営の外に引きだして彼の前で屠る」とある。
・19-7には「体に水を浴びてから宿営に入ることが出来る」とある。
・19-9には「体が清められた人が雌牛の灰を集めて宿営の外の綺麗なところに置く」とある。
・21-10には「イスラエルの人々はナポトに宿営した」とある。
・21-11には「ナポトを出ると、イイエ・アベリムで宿営した」とある。
・21-12には「其処を旅立ち、セレドの谷に宿営した」とある。
・21-13には「アルノンの川の向こう岸に宿営した」とある。
・22-1には「イスラエルの人々はモアブの平野に宿営した」とある。
・24-2には「バラムは部隊ごとに宿営するのを見渡した」とある。
・31-10には「彼らの町も村も悉く火を放ち焼き払った」とある。
・31-13には「モーセは宿営の外で彼らを迎えた」とある。
・31-19には「モーセは『宿営の外で七日間とどまりなさい。そして身を清め』と命じた」とある。
・31-24には「服を洗うと貴方たちは清くなる。その後宿営に入りなさい」とある。
・33-5には「イスラエルの人々はラメセスを出発してスコトで宿営をした」とある。
・33-6には「スコトを出発してエタムで宿営した」とある。
・33-7には「エタムを出発してミクドルの前で宿営した」とある。
・33-8には「ピハヒロトを出発してマラで宿営した」とある。
・33-9には「マラを出発してエリムで宿営した」とある。
・33-10には「エリムを出発して葦の海の畔で宿営した」とある。
・33-11には「葦の海を出発してシンの荒野で宿営した」とある。
・33-12には「シンの荒野を出発してドフカに宿営した」とある。
・33-13には「ドフカを出発してアルシュに宿営した」とある。
・33-14には「アルシュを出発してレフィディムに宿営した」とある。
・33-15には「レフィディムを出発してシナイの荒野で宿営した」とある。
・33-16には「シナイの荒野を出発してキプロト・ハタアワで宿営した」とある。
・33-17には「キプロト・ハタアワを出発してハシェロトで宿営した」とある。
・33-18には「ハシェロトを出発してリトマで宿営した」とある。
・33-19には「リトマを出発してリモン・ペレツで宿営した」とある。
・33-20には「リモンを出発してリブナで宿営した」とある。
・33-21には「リブナを出発してでリサ宿営した」とある。
・33-22には「リサを出発してでケヘラタ宿営した」とある。
・33-23には「ケヘラタを出発してシェフェル山で宿営した」とある。
・33-24には「ケフェル山を出発してハラダで宿営した」とある。
・33-25には「ハラダを出発してマクヘロトで宿営した」とある。
・33-26には「マクヘロトを出発してタハトで宿営した」とある。
・33-27には「タハトを出発してテラで宿営した」とある。
・33-28には「テラを出発してミトカで宿営した」とある。
・33-29には「ミトカを出発してハシュモナで宿営した」とある。
・33-30には「ハシュモナを出発してモセロトで宿営した」とある。
・33-31には「モセロトを出発してベネ・ヤアカンで宿営した」とある。
・33-32には「ベネ・ヤアカンを出発してホル・ギドガドで宿営した」とある。
・33-33には「ホル・ギドガドを出発してヨトバタで宿営した」とある。
・33-34には「ヨトバタを出発してアブロナで宿営した」とある。
・33-35には「アブロナを出発してエツヨン・ゲベルで宿営した」とある。
・33-36には「エツヨン・ゲベルを出発してカデシュで宿営した」とある。
・33-37には「カデシュを出発してホル山で宿営した」とある。
・33-41には「ホル山を出発してツアルモナで宿営した」とある。
・33-42には「ツアルモナを出発してブノンで宿営した」とある。
・33-43には「ブノンを出発してオポトで宿営した」とある。
・33-44には「オポトを出発してイイエ・アバリムで宿営した」とある。
・33-45には「イイエ・アバリムを出発してディポンで宿営した」とある。
・33-46には「ディポンを出発してアルモン・ディブラタイムで宿営した」とある。
・33-47には「アルモン・ディブラタイムを出発してアバリム山で宿営した」とある。
・33-48には「アバリム山を出発してモアブの平野で宿営した」とある。
・33-49には「彼らの宿営はヨルダン川に沿ったモアブ平野にあるヘト・エシモトからアベル・シティムに及んだ」とある。

●申命記には2回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・1-33には「貴方たちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によってゆく手を示された」とある。
・29-10には「宿営内の寄宿者。薪を集めるものから水を汲むものまで」とある。

●ヨシュア記には11回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・1-11には「宿営内を巡り民に命じよ」とある。
・3-2には「民の役人は宿営内を巡った」とある。
・4-19には「エリコの東の境にあるギルガルに宿営した」とある。
・5-8には「割礼の傷が癒えるまで宿営内にとどまった」とある。
・5-10には「ギルガルに宿営した」とある。
・6-11には「主の箱を担いで町をめぐらせ一周させた。その後宿営に戻った」とある。
・6-14には「二日目も町を一周させて宿営に戻った」とある。
・6-18には「イスラエルの宿営全体を滅ぼさないようにせよ」とある。
・6-23には「宿営の傍に避難させた」とある。
・8-13には「全ての宿営を張った」とある。宿営はテントの意味がある。
・18-9には「シロの宿営」とある。

●士師記には2回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・11-18には「アルノンの向こう側に宿営をした」とある。
・20-4には「私は側女と共に宿を取った」とある。

●サムエル記上には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・26-5には「サウルは幕営の中で寝ており、兵士はその周りに宿営した」とある。

●列王記下には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・19-23には「高いレバノン杉、見事な糸杉も伐採した。その果てに達した宿営地は木の生い茂る森であった」とある。

●歴代誌上には2回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・9-18には「レビ人の宿営」とある。
・9-19には「先祖も宿営の入り口を守った」とある。

●ヨブ記には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・31-32には「見知らぬ人すら野宿させたことはない。我が家の扉は常に旅人に開かれていた」とある。

●詩編には4回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・55-7には「宿を求める」とある。
・69-26には「宿営は荒れ果て」とある。
・106-16には「彼らは宿営でモーセをねたみ」とある。
・119-54には「この仮の宿では」とある。

●イザヤ書には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・32-18には「安らかな宿」とある。

●エレミヤ書には4回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・9-1には「旅人の宿」とある。
・14-8には「宿を求める旅人」とある。
・41-17には「ベツレヘムに近いキムハムの宿場」とある。
・51-59には「宿営の長」とある。

●ダニエル書には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・11-45には「天幕を張って王の宿営とする」とある。

●ミカ書には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・4-10には「町を出て野宿しなければならない」とある。

●マタイ伝には3回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・25-35には「旅をしたときに宿を貸し」とある。
・25-38には「宿を貸す」とある。
・25-43には「宿を貸す」とある。

●ルカ伝には6回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・2-7には「宿屋には彼らが泊まる場所が無かった」とある。
・2-8には「羊飼いたちは野宿をした」とある。
・9-12には「村や里へ行って宿をとり」とある。
・10-34には「宿屋に連れて行って介抱した」とある。
・10-35には「宿屋の主人に2ディナリオンを渡した」とある。
・19-7には「宿を取った」とある。

●使徒行伝には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・28-23には「パウロの宿舎」とある。

●フィレモンへの手紙には1回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・22には「宿泊の用意」とある。

●ヘブライ人への手紙には2回の漢字「宿」が発見された。その位置は下記である。
・13-11には「体は宿営の外で焼かれる」とある。
・13-13には「宿営の外にでて」とある。


                   <聖書に発見される漢字「宿」の調査で判明した事項>
<1>漢字「宿」は中頻度語
 聖書に発見される漢字「宿」は190回発見された。但し、この数字には「聖霊が宿る」や「子が宿る」などは排除した。構築物または建造物に限定した「宿」のみを取り上げた。190回はその結果の数字である。聖書を読んでいて比較的目に付く単語であり漢字である。
当時の人々が其処に宿所を置くかは比較的強い関心事であったことであることが推定出来る。宿の頻度の高さから、宿は当時から人々の眠りの場であり安らぎの空間であったことが推定出来る。

<2>宿営は軍事用語
 宿営は国語辞典には二つの意味があるとしている。第一は軍隊が陣地に宿泊すること。第二は出動した部隊が営舎の外で宿泊すること。宿営は軍隊が陣地等、特別な場所での宿泊のことである。新約聖書の翻訳宿営は軍隊の移動を意識して翻訳されていることに留意すべきである。戦略を意識した軍隊の移動として描写していることに留意すべきであろう。旧約聖書は戦記物語であると言われるが、このような点に於いても戦記らしさが表れている。モーセ率いる進軍の物語である。蜜と乳が滴る土地を占領する進軍劇である。

<3>宿の種類
 聖書の中の宿を調べていると、宿には幾つかの種類があることが分かった。それは、高頻度順に列挙することで判明した。以下がその順序である。頻度が高い順に並べた結果である。
 宿営:169回
 宿:12回
(野営:6回)
 野宿:4回
 宿屋:3回
 宿泊:1回
 宿舎:1回
 宿場:1回
 漢字「宿」では宿営、宿、野営、野宿、宿屋、宿泊、宿舎、宿場の七種類の宿が発見された。また、漢字「宿」とは直接関係がないが、参考の為に「野営」も数字に上げてみた。

<4>圧倒的に多い宿営
 聖書の「宿」の中では宿営が圧倒的に多かった。宿、野営、野宿、宿屋、宿泊、宿舎を大きく引き離していた。聖書時代に於ける、宿営の重要性が際立っている。移動生活に伴う宿営が宿泊する場合当たり前の存在であった。人々は未だ遊牧の移動生活の色彩が強く、それは集落への定住生活がまだまだ定着していなかったことの証でもある。

<5>設営専門集団レビ人
 民数記1-50以降にはレビ人のことが描写されている。レビ人は幕屋設営に対する特別な任務が与えられていた。宿営はテントであるが、人々が生活するテントと幕屋とは別物であり、幕屋はその内部に祭壇があり礼拝堂であった。幕屋の設営に関してはレビ人に任されていた、またレビ人以外には幕屋の設営は許されなかった。レビ人以外の者が設営した場合処刑になるほど厳格なものであった。レビ人は幕屋設営職業集団であった。したがって、レビ人の宿営地は幕屋の傍に決められていた。砂漠気候であり、日射が強烈で幕屋の設営も撤収も手際よく遂行されなければならない。手馴れた部族でなければならなかったのであろう。

<6>宿営地に部族ごとの旗
 民数記2-2には「部族ごとに旗を立てて宿営する」とある。また、民数記2-34には「モーセの命令どおりにそれぞれの旗に下に宿営した」とある。これら二つの章節から、宿営は部族単位で行われたことが推定出来る。そして、それぞれの部族はそれぞれの部族の旗を掲げなければならなかった。エジプトから脱出したユダヤ人を明数記2-32で述べている如くエジプトを脱出したユダヤ人総数は60万3550人である。京都市の人口の凡そ半数にも及ぶ多数の人々である。その巨大集団をモーセが率いるのである。モーセがエジプト脱出巨大集団を監督引率するには部族ごとの旗印が必要であったと推定される。

<7>幕屋の周りの特定部族の宿営
 民数記3-23~3-38に於いて幕屋の周りは宿営の指定席であったことが分かる。特定の部族のみが幕屋の周りに設営することが許された。幕屋の西側はゲルジョン族、南側はケハト族、北側はメラリ族、そして幕屋の正面即ち東側はモーセとアロンの宿営が許された。幕屋は祭壇が置かれる謂わば移動式礼拝堂である。礼拝堂であるだけに邪気排除されなければならない。邪気を排除するのに相応しい部族が選ばれたのであると推定出来る。

<8>病人の宿営地での扱い
 民数記5-2~5-4までに当時の人々の病人に対する扱いが描写されている。聖書時代は医療が未発達な時代であり、人々は伝染病を最も恐れていたことは明白である。病人は宿営地から排除する他に病気を予防する方法が無かった。病人は例外なく宿営地から排除される運命であった。

<9>砂漠に於ける雲の重要な役割
 民数記9-17~9-18までには砂漠に於ける雲の役割が描写されている。雲には二つの役割があると人々は考えていたと推定出来る。第一は雲は旅路の水先案内であり、砂漠の羅針盤としての機能を持っていた。雲は山にぶつかることにより生じやすい性質があり。また山麓は水源地の場合が多いからであると推定出来る。第二は雲は宿営地に陰を形成し裁くでも涼しさを提供していた。その雲の性質を人々は熟知していたのであろう。民数記9-18には「雲が幕屋の上にとどまっている間は底に宿営した」とある。雲の無い砂漠はそれは炎熱地獄であったろう。砂漠を旅する人々にとって雲の存在ほどありがたいものは無い。

<10>宿に関して旧約聖書時代から新約聖書時代への変化
 旧約聖書の宿は殆どが宿営であり移動式住居であった。それは遊牧生活の名残でもある。新約聖書には宿営はあるが旧約聖書ほどではない。そのことは新約聖書時代に入ると遊牧生活から農耕生活への移行の証であると考えられる。新約聖書には宿営が相対的に減少するのは農耕定住生活に変化しつつあることの証である。
 新約聖書の宿の大きな特徴はマタイ伝やルカ伝に「宿屋」が散見されることである。「宿屋」であるから商業ベースの宿所である。宿営は自家用の移動式宿舎であるが、宿屋は商業ベースの宿舎であり、新約聖書時代には商業ベースの宿屋が存在していたことを窺い知ることが可能である。新約聖書時代は商業活動の活発さが宿に対する考察だけでも推し量ることが出来る。また、宿屋の存在は街道の充実と延伸、そして交通の発達が飛躍的に進歩したことを窺わせる。

聖堂の詩その1000―渦

2014-08-02 09:29:11 | Weblog
             滝壷の中で渦巻く白い砂       紅日2003年10月号
 滝はその冷涼感から夏の季語。滝壷も夏の季語になる。滝壷の透き通る水の中で真白な砂が渦を巻いていた。透明な水に渦巻く白砂の美しさに驚き生まれた作品。
 大文字山山頂から如意ヶ岳山頂までの鞍部は尾根道でつながっている。その尾根道の途中にJR山科駅に下りる谷がある。山科川の一支流の浸食作用が形成した谷である。谷底を辿る急な山道がなだらかになると毘沙門堂の裏に出てくる。それまでは山道で人家や構築物は全く無い。山科毘沙門堂は義士祭の義士の集合場所で有名である。山科駅は更に真っ直ぐ南へ15分の徒歩のところにある。
 作品は毘沙門堂の裏で出来た。大きな滝つぼではない。谷川に泥土が堆積して生まれた堆積岩の一種である頁岩が露出している。その一角に小さなポットホールが沢山ある。その中の大き目のポットホールで作品は生まれた。
 ポットホールは甌穴のことで河床の岩盤にみられる窪地である。岩盤の割れ目や軟弱な部分に礫が飛び込んで礫がその中で渦流により回転運動をする。回転運動は岩盤の穴をどんどん拡大する。礫の回転による穴の深化と拡大であるからその表面は滑らかで美しい。穴の直径は小さなもので数センチ、大きなもので数メーターにも及ぶ。
 愛媛県美川町にある八釜甌穴は見事である。愛媛県の八釜の甌穴は石灰岩の岩盤に形成された大規模なもので、ポットホールと言えども直径5mもの大きな滝つぼに成長している。言い伝えでは此処へ身投げした人は二度と浮上しないそうだ。滝へ降りる道は崖道である。谷間に轟く滝壺の音は不気味である。
 愛媛県の八釜甌穴は国の天然記念物に指定されているが、京都山科にも同じ甌穴があるのには驚いた。山科は規模が小さいが歴然とした甌穴でありペットホールである。作品はその甌穴の中を描写した。透き通る水の美しさ、その水の中で水流で回転する真白な砂を発見した。多くの登山者はこの甌穴を見過ごしているのではなかろうか。朱塗りの毘沙門堂の裏側であり、毘沙門堂が一つの目印になるだろう。
 聖堂の詩では滝を扱ったことがある。それは聖堂の詩その894取り上げた。聖書には漢字「滝」は一回しか発見できない。それは哀歌にしか発見できないことを述べた。哀歌3-48には「私の民の娘は打ち砕かれ、私の目は滝の如く涙を流す」としている。聖書が描かれた地域は石灰岩地形が卓越し鍾乳洞内部に滝が発見できると思うのであるが、哀歌に一箇所しかない。何故一箇所にしか滝が発見されないのか考えてみる値打ちがありそうだが、それは新たに稿を立ち上げて取り上げてみたい。
 そこで、今回は漢字「渦」を取り上げてみたい。聖書時代の人々はどのような場所に渦を発見したのか、そして渦に対してどのような認識をしていたのか。聖書地域は乾燥地域であるだけに興味深いことである。


               <聖書にでてくる漢字「渦」の調査で判明した事項>
<1>低頻度語の渦
 聖書には漢字「渦」が二回しか発見できない。きわめて頻度が低い希少性の高い単語であることが分かった。
<2>渦は旧約聖書のみ
 単語「渦」は旧約聖書に発見されたが、新約聖書には発見できない。自然環境の描写はそれが正確か不正確は別として旧約聖書の方が豊富である。
<3>渦は水中にも大気中にもあるとの認識があった
 渦の描写は、詩編88篇では大洪水の中の渦を描写していた。エレミヤ書での渦はつむじ風の渦であり大気中の渦を描写している。渦は水中にも大気中にも存在するものである。そのような認識が聖書時代からあった。
<4>砂の回転の渦
 「滝壷の中で渦巻く白い砂」の如く砂が回転するような描写としての渦は聖書には発見できなかった。渦が何かを回転させる描写は聖書には発見できなかった。