鯖街道葵祭の列通る 紅日2014年7月号
京都では桜が散れば、次の楽しみは葵祭。加茂川右岸の堤防には桜青葉の下を葵祭の列が通る。右岸は洛中洪水を抑止しなければならないので対岸の植物園側の堤防より高く築いていある。葵祭の頃は桜は青葉になっている。加茂川は北大路まで北上すると漸く高層マンションやアパートが減って、静かな葵祭になる。馬も加茂川沿いまで来ると気持ちが落ち着くのであろうか、馬が北大路橋を渡って加茂川沿いに右折した途端に大量の馬糞をたれる。行列先頭の検非違使の馬である。その馬糞を禰宜が駆け来て塵取りに掻き集めていた。馬に乗馬しているのは若い女性警察官で恥しさで馬上でもじもじしていた。藤で屋根を飾ったゆかしき牛車よりも、馬糞を掃く禰宜の姿の方が葵祭の雰囲気が盛り上がる。人々の祭への取り組みの真剣さが見えてくる。アルバイトばかりの葵祭ではない祭りの気迫が残留しているのである。祭りが地域の活動を離れて、派遣労働者ばかりになれば、日本の祭りもそれで御仕舞いだ。
平安時代は加茂川は荒川だった。松ヶ崎から出町柳にかけては、荒地であった。豊臣秀吉は京都に洛中と洛外を分ける城壁を建設した。城壁兼堤防を築造した。道路は加茂川河川水位より大分高い。城壁兼堤防の上に道路が敷設されているので葵祭は秀吉の城壁道路以降加茂川沿いを北上した。今も加茂川の河川敷から仰ぎ見る葵祭の行列の天には真っ青な空が広がっている。私は各地で葵祭を見たが、上賀茂神社のまでの加茂川右岸は私の葵祭の特等席である。青葉の光の中を加茂川沿いを北上する景色は古代平安京を髣髴とさせる。
作品「鯖街道葵祭の列通る」の鯖街道は「若狭十八里」というが京都若狭間は凡そ80kmの道程である。若狭を夕方出発すれば夜明け前に京都出町柳に到着した。京都若狭を結ぶ街道草分け道をも含めると10本以上あると言われている。主な道は出町柳から大原、朽木経由。もう一本は出町柳から上賀茂神社、鞍馬を若狭街道と言う。「鯖街道」は歴史学者が高度経済成長時代に命名した若狭街道の俗称である。新しい名前である。若狭街道を通じて若狭から魚介類や若狭塗橋や螺鈿の屏風や座卓を京都に持ってきた。その若狭産品の代表が鯖であった。。京都から織物穀物野菜農作物を若狭に移出した。出町柳の枡形商店街で若さの漁民は生活用品を買い入れて若さに帰っていた。若狭と京都出町柳は京都と日本海とを結ぶ幹線道路であった。もっと溯ると、若狭街道は明日香地方にまで伸びていて、明日香が都であった時代から若狭街道(鯖街道)は紆余曲折しながら存在していたと古文書にはその記録が存在している。
日本文化では人々が列を作るのが大好きであると言われている。それは現代日本でも良く見られる風景だ。物事の順序を大切にする民族性が深く沈潜しているのであろう。ものの生産の複雑な過程ではその作業は最も意識されるのは順序である。順序が前後したり抜けたりすると商品価値が下落する商品が昔より、欧米諸国よりも遥かに多いのではなかろうか。平安時代から続いている漆器のことは英語ではJAPANといわれているが、その行程は二十から三十段階あるそうだ。何回も何回も漆を塗らなければ食器は出来上がらない。こうした日本工業の特性が順序や列を重視する考え方形成された背景になるのではなかろうか。欧米のように同一労働動意地賃金で期間雇用や派遣労働者では困難な工業である。古代から形成されたこの緻密さが、第二次世界大戦後の驚異的な経済成長を成し遂げた下地に存在していたのは確実だ。
それは、人間関係にも指摘できる。労働者が欧米の如くそれぞれが流れ者で定職を持たないような生き方は長らく日本社会では認められなかった。仕事には無限大の極めるべき業や知識が潜んでいるからだ。そのことが日本の優れた工芸作品を誕生させた。多くの当り前の人は若い時に職に付くのであるが、その仕事を生涯までやりきるのが普通の生き方であり、欧米の如く転職を繰り返して流れ者の如く生きようとしても日本では困難であった。地域社会がそれを許さなかった。地域にも仕事にも順序と序列が暗黙の了解で深い意識の中で存在していた。序列は封建的側面であるがこれが日常生活を円滑化させたこともあったであろう。
松尾芭蕉の作品で漢字「列」のあるものを探したが、発見できなかった。山口誓子の作品の中には三つの作品を探し出すことが出来た。
列柱に寒オリオンの三つの星
吾の航く天に峰雲堵列せる
病癌の列を離るるこゑなりしや
俳句には漢字の「列」は出てきにくいのであろうか、芭蕉の作品では発見できなかった。山口誓子の作品にやっと三句見つけることが出来た。第一の作品。寒オリオンのの三つの星、その三つの星を映し出しているのはピラミッドであるとの話からの作品であろう。第二の作品は機上からの景色である。観閲する政治家が整列した兵隊の前を通っているかのごとき景色である。誓子の機上から見えた峰雲の捉え方であり、作者の連立する峰雲に対する感覚である。第三句は芭蕉の堅田での作品「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」を思い出しながらの作品であろう。私の作品の中には「鴨の群れ急流に入り列正す」があるが、日本の俳句には漢字「列」は少ないようである。
京都では桜が散れば、次の楽しみは葵祭。加茂川右岸の堤防には桜青葉の下を葵祭の列が通る。右岸は洛中洪水を抑止しなければならないので対岸の植物園側の堤防より高く築いていある。葵祭の頃は桜は青葉になっている。加茂川は北大路まで北上すると漸く高層マンションやアパートが減って、静かな葵祭になる。馬も加茂川沿いまで来ると気持ちが落ち着くのであろうか、馬が北大路橋を渡って加茂川沿いに右折した途端に大量の馬糞をたれる。行列先頭の検非違使の馬である。その馬糞を禰宜が駆け来て塵取りに掻き集めていた。馬に乗馬しているのは若い女性警察官で恥しさで馬上でもじもじしていた。藤で屋根を飾ったゆかしき牛車よりも、馬糞を掃く禰宜の姿の方が葵祭の雰囲気が盛り上がる。人々の祭への取り組みの真剣さが見えてくる。アルバイトばかりの葵祭ではない祭りの気迫が残留しているのである。祭りが地域の活動を離れて、派遣労働者ばかりになれば、日本の祭りもそれで御仕舞いだ。
平安時代は加茂川は荒川だった。松ヶ崎から出町柳にかけては、荒地であった。豊臣秀吉は京都に洛中と洛外を分ける城壁を建設した。城壁兼堤防を築造した。道路は加茂川河川水位より大分高い。城壁兼堤防の上に道路が敷設されているので葵祭は秀吉の城壁道路以降加茂川沿いを北上した。今も加茂川の河川敷から仰ぎ見る葵祭の行列の天には真っ青な空が広がっている。私は各地で葵祭を見たが、上賀茂神社のまでの加茂川右岸は私の葵祭の特等席である。青葉の光の中を加茂川沿いを北上する景色は古代平安京を髣髴とさせる。
作品「鯖街道葵祭の列通る」の鯖街道は「若狭十八里」というが京都若狭間は凡そ80kmの道程である。若狭を夕方出発すれば夜明け前に京都出町柳に到着した。京都若狭を結ぶ街道草分け道をも含めると10本以上あると言われている。主な道は出町柳から大原、朽木経由。もう一本は出町柳から上賀茂神社、鞍馬を若狭街道と言う。「鯖街道」は歴史学者が高度経済成長時代に命名した若狭街道の俗称である。新しい名前である。若狭街道を通じて若狭から魚介類や若狭塗橋や螺鈿の屏風や座卓を京都に持ってきた。その若狭産品の代表が鯖であった。。京都から織物穀物野菜農作物を若狭に移出した。出町柳の枡形商店街で若さの漁民は生活用品を買い入れて若さに帰っていた。若狭と京都出町柳は京都と日本海とを結ぶ幹線道路であった。もっと溯ると、若狭街道は明日香地方にまで伸びていて、明日香が都であった時代から若狭街道(鯖街道)は紆余曲折しながら存在していたと古文書にはその記録が存在している。
日本文化では人々が列を作るのが大好きであると言われている。それは現代日本でも良く見られる風景だ。物事の順序を大切にする民族性が深く沈潜しているのであろう。ものの生産の複雑な過程ではその作業は最も意識されるのは順序である。順序が前後したり抜けたりすると商品価値が下落する商品が昔より、欧米諸国よりも遥かに多いのではなかろうか。平安時代から続いている漆器のことは英語ではJAPANといわれているが、その行程は二十から三十段階あるそうだ。何回も何回も漆を塗らなければ食器は出来上がらない。こうした日本工業の特性が順序や列を重視する考え方形成された背景になるのではなかろうか。欧米のように同一労働動意地賃金で期間雇用や派遣労働者では困難な工業である。古代から形成されたこの緻密さが、第二次世界大戦後の驚異的な経済成長を成し遂げた下地に存在していたのは確実だ。
それは、人間関係にも指摘できる。労働者が欧米の如くそれぞれが流れ者で定職を持たないような生き方は長らく日本社会では認められなかった。仕事には無限大の極めるべき業や知識が潜んでいるからだ。そのことが日本の優れた工芸作品を誕生させた。多くの当り前の人は若い時に職に付くのであるが、その仕事を生涯までやりきるのが普通の生き方であり、欧米の如く転職を繰り返して流れ者の如く生きようとしても日本では困難であった。地域社会がそれを許さなかった。地域にも仕事にも順序と序列が暗黙の了解で深い意識の中で存在していた。序列は封建的側面であるがこれが日常生活を円滑化させたこともあったであろう。
松尾芭蕉の作品で漢字「列」のあるものを探したが、発見できなかった。山口誓子の作品の中には三つの作品を探し出すことが出来た。
列柱に寒オリオンの三つの星
吾の航く天に峰雲堵列せる
病癌の列を離るるこゑなりしや
俳句には漢字の「列」は出てきにくいのであろうか、芭蕉の作品では発見できなかった。山口誓子の作品にやっと三句見つけることが出来た。第一の作品。寒オリオンのの三つの星、その三つの星を映し出しているのはピラミッドであるとの話からの作品であろう。第二の作品は機上からの景色である。観閲する政治家が整列した兵隊の前を通っているかのごとき景色である。誓子の機上から見えた峰雲の捉え方であり、作者の連立する峰雲に対する感覚である。第三句は芭蕉の堅田での作品「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」を思い出しながらの作品であろう。私の作品の中には「鴨の群れ急流に入り列正す」があるが、日本の俳句には漢字「列」は少ないようである。