聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その1025―列(1)

2015-04-20 22:12:52 | Weblog
            鯖街道葵祭の列通る      紅日2014年7月号
 京都では桜が散れば、次の楽しみは葵祭。加茂川右岸の堤防には桜青葉の下を葵祭の列が通る。右岸は洛中洪水を抑止しなければならないので対岸の植物園側の堤防より高く築いていある。葵祭の頃は桜は青葉になっている。加茂川は北大路まで北上すると漸く高層マンションやアパートが減って、静かな葵祭になる。馬も加茂川沿いまで来ると気持ちが落ち着くのであろうか、馬が北大路橋を渡って加茂川沿いに右折した途端に大量の馬糞をたれる。行列先頭の検非違使の馬である。その馬糞を禰宜が駆け来て塵取りに掻き集めていた。馬に乗馬しているのは若い女性警察官で恥しさで馬上でもじもじしていた。藤で屋根を飾ったゆかしき牛車よりも、馬糞を掃く禰宜の姿の方が葵祭の雰囲気が盛り上がる。人々の祭への取り組みの真剣さが見えてくる。アルバイトばかりの葵祭ではない祭りの気迫が残留しているのである。祭りが地域の活動を離れて、派遣労働者ばかりになれば、日本の祭りもそれで御仕舞いだ。
 平安時代は加茂川は荒川だった。松ヶ崎から出町柳にかけては、荒地であった。豊臣秀吉は京都に洛中と洛外を分ける城壁を建設した。城壁兼堤防を築造した。道路は加茂川河川水位より大分高い。城壁兼堤防の上に道路が敷設されているので葵祭は秀吉の城壁道路以降加茂川沿いを北上した。今も加茂川の河川敷から仰ぎ見る葵祭の行列の天には真っ青な空が広がっている。私は各地で葵祭を見たが、上賀茂神社のまでの加茂川右岸は私の葵祭の特等席である。青葉の光の中を加茂川沿いを北上する景色は古代平安京を髣髴とさせる。
 作品「鯖街道葵祭の列通る」の鯖街道は「若狭十八里」というが京都若狭間は凡そ80kmの道程である。若狭を夕方出発すれば夜明け前に京都出町柳に到着した。京都若狭を結ぶ街道草分け道をも含めると10本以上あると言われている。主な道は出町柳から大原、朽木経由。もう一本は出町柳から上賀茂神社、鞍馬を若狭街道と言う。「鯖街道」は歴史学者が高度経済成長時代に命名した若狭街道の俗称である。新しい名前である。若狭街道を通じて若狭から魚介類や若狭塗橋や螺鈿の屏風や座卓を京都に持ってきた。その若狭産品の代表が鯖であった。。京都から織物穀物野菜農作物を若狭に移出した。出町柳の枡形商店街で若さの漁民は生活用品を買い入れて若さに帰っていた。若狭と京都出町柳は京都と日本海とを結ぶ幹線道路であった。もっと溯ると、若狭街道は明日香地方にまで伸びていて、明日香が都であった時代から若狭街道(鯖街道)は紆余曲折しながら存在していたと古文書にはその記録が存在している。
 日本文化では人々が列を作るのが大好きであると言われている。それは現代日本でも良く見られる風景だ。物事の順序を大切にする民族性が深く沈潜しているのであろう。ものの生産の複雑な過程ではその作業は最も意識されるのは順序である。順序が前後したり抜けたりすると商品価値が下落する商品が昔より、欧米諸国よりも遥かに多いのではなかろうか。平安時代から続いている漆器のことは英語ではJAPANといわれているが、その行程は二十から三十段階あるそうだ。何回も何回も漆を塗らなければ食器は出来上がらない。こうした日本工業の特性が順序や列を重視する考え方形成された背景になるのではなかろうか。欧米のように同一労働動意地賃金で期間雇用や派遣労働者では困難な工業である。古代から形成されたこの緻密さが、第二次世界大戦後の驚異的な経済成長を成し遂げた下地に存在していたのは確実だ。
 それは、人間関係にも指摘できる。労働者が欧米の如くそれぞれが流れ者で定職を持たないような生き方は長らく日本社会では認められなかった。仕事には無限大の極めるべき業や知識が潜んでいるからだ。そのことが日本の優れた工芸作品を誕生させた。多くの当り前の人は若い時に職に付くのであるが、その仕事を生涯までやりきるのが普通の生き方であり、欧米の如く転職を繰り返して流れ者の如く生きようとしても日本では困難であった。地域社会がそれを許さなかった。地域にも仕事にも順序と序列が暗黙の了解で深い意識の中で存在していた。序列は封建的側面であるがこれが日常生活を円滑化させたこともあったであろう。
  松尾芭蕉の作品で漢字「列」のあるものを探したが、発見できなかった。山口誓子の作品の中には三つの作品を探し出すことが出来た。

列柱に寒オリオンの三つの星
吾の航く天に峰雲堵列せる
病癌の列を離るるこゑなりしや

 俳句には漢字の「列」は出てきにくいのであろうか、芭蕉の作品では発見できなかった。山口誓子の作品にやっと三句見つけることが出来た。第一の作品。寒オリオンのの三つの星、その三つの星を映し出しているのはピラミッドであるとの話からの作品であろう。第二の作品は機上からの景色である。観閲する政治家が整列した兵隊の前を通っているかのごとき景色である。誓子の機上から見えた峰雲の捉え方であり、作者の連立する峰雲に対する感覚である。第三句は芭蕉の堅田での作品「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」を思い出しながらの作品であろう。私の作品の中には「鴨の群れ急流に入り列正す」があるが、日本の俳句には漢字「列」は少ないようである。



聖堂の詩その1024― 一本(2)

2015-04-16 16:45:07 | Weblog
           藁葺きの屋根に一本草芽吹く    紅日2014年6月号
 洛北と西近江とを繋ぐ古代からの道がある。滋賀県の県道30号線である。通称、山中越え。山中越えの最も標高が高いところが田之谷峠で比叡山ドライブウエーの入り口がある。田之谷峠では桜の落花が真っ最中。桜の中には既に散ってしまって桜青葉になっているものもある。俳句では桜青葉は夏の季語。つい先日まで雪がちらつく毎日だった。時間が早い。桜が散って青葉になりつつある。桜が散ってから夏は早い。もう、夏の用意をしなければならない。
 さて、作品「藁葺きの屋根に一本草芽吹く」から「一本」に注目して、聖書の中の全ての「一本」を引き出した上で、それを分析調査してみた。その結果判明したことや感じたことを下記に纏めた。
           
            (聖書の「一本」に関する調査で判明した事項と感じたこと)

<1>聖書では単語「一本」は低頻度の単語
 聖書では単語「一本」は46回発見された。これは聖書に出てくる単語の回数としては少ない単語であり、低頻度がである。旧約聖書では38回で、新約聖書では8回であった。

<2>創世記とダニエル書への集中
 46箇所の一本の中でも創世記とダニエル書に高い集中度を見せていた。創世記には7箇所、ダニエル書には6箇所の「一本」が集中していた。創世記の多くは樹木の一本であった。ダニエル書は山羊の角の一本が目立った。

<3>何が一本として聖書は描写しているか多い順に列挙した。
第一位:柱一本は五箇所に発見された。
    木一本は五箇所に発見された。
    髪一本は五箇所に発見された。
    羊の角一本は五箇所に発見された。
第二位:杖一本は四箇所に発見された。
第三位:茎一本は二箇所に発見された
    支柱一本は二箇所に発見された。
    指一本は二箇所に発見された。
第四位:糸一筋は一箇所に発見された。
    靴紐一本は一箇所に発見された。
    ぎょりゅうの木一本は一箇所に発見された。
    葡萄の木一本は一箇所に発見された。
    エニシダ一本は一箇所に発見された。
    材木一本は一箇所に発見された。
    円柱一本は一箇所に発見された。
    天幕の綱一本は一箇所に発見された。
    草一本は一箇所に発見された。
    松明一本は一箇所に発見された。
    骨一本は一箇所に発見された。
    測り縄一本は一箇所に発見された。

<4>柱、木、髪、羊の角
 何が一本であるのか、その高い頻度は柱、木、髪、羊の角であった。樹木や建材への強いこだわりがあったことが窺える。

<5>靴紐は聖書時代に既に存在した
 創世記14-23には靴紐が見られた。靴と言っても現代の靴とは距離がありサンダルまたは草鞋状の履物であったが、靴紐としか翻訳できないのであろう。

<6>目を引く葡萄よりアーモンドの木
 聖書には「葡萄」が301回発見できる。一方、あめんどう(アーモンド)9回しか発見できない。聖書ではアーモンドより葡萄が高い頻度で発見され、葡萄のほうが目立つのであるが、一本の木として出て来る場合は、アーモンドの木の方が目立つ存在である。支柱にアーモンドの花模様が彫り込まれたり、杖がアーモンドの木を使っていたことによる。

<7>一本の杖
 杖は歩く為の補助器具ではなく、指導者を象徴する道具でもあった。ことに旧約聖書で出てくる杖は指導者のしるしとしての杖であった。新約でもマルコ伝6-8には杖が登場するがこの場合は歩行補助具としての杖であった。
 
<8>草一本も生えない
 元来、草は厳しい環境でも生えるものである。しかし、厳しさが限界を超えて「草一本も生えない」という言い方は聖書にも日本語にも共通している点である。申命記29-22には「全土は焼け爛れて草一本も生えない」と描写していた。

<9>松明は村の放火の道具に活用された
 松明はその機能は照明だけではなかった。放火の道具になっていた。士師記15-4に於いてサムソンは村に放火する道具として松明を利用した。しかもその利用が極めて犯罪的である。二頭のジャッカルの尾を縛って、その上で縛り目に松明を結わえた。
 ジャッカルは自分の尾に火がついて驚くのであるが、一頭だけでない二頭が尾で縛られているのであるから、二頭とも灯におびえる行動をとるのであり、それこそ予想もつかないところにジャッカルが動き回る。村中がそのジャッカルの動きで火の海になる。時代が異なるとはいえ犯罪行為そのものである。
 聖書が描かれている地域は乾燥地域や半乾燥地域であるだけにサムソンのこの行動は日本の方か犯罪以上に恐れられたに違いない。サムソンの武勇伝として聖書で語られ手入るのであるが、二十一世紀の中東戦争の残虐性と聖書の残虐性とは同じである。かくして戦争がある理由は聖書に描かれている蛮行が存在しているからである。また信仰によりを之蛮行を肯定しているからである、と考えざるを得ない。宗教の非人道性が此処にあるのだろう。宗教の恐怖はこの点にあるといえるのではないだろうか。

<10>新約聖書の一本は殆どが髪
 新約聖書では一本の多くは髪であった。「神は何もかも知り尽くしている、人々の毛髪の数までご存知である」と表現している場面が多い。全知全能の神を描写する為に髪の本数が取り上げられた。神は一人ひとりの人体をも知り尽くしていると述べる為に髪が比喩的に取り上げられている。

聖堂の詩その1023― 一本(1)

2015-04-11 15:21:51 | Weblog
              藁葺きの屋根に一本草芽吹く    紅日2014年6月号
 俳句には「一本の」という表現が良く見られる。鑑賞者の心を一本に集中してもらいたい。そのような作者の期待があるのであろう。俳句作品にはそれぞれに精緻な焦点が求められる。焦点がぼんやりした作品は失敗作だとも言われる。この作品では私は芽吹く草に焦点を絞り込んだ。作品が出来た瞬間も、藁屋根の一本の芽吹く草以外には目にはいらなかった。
 宗教もこれとよく似ている。ことに一神教が是に当てはまる。砂漠で生まれた一神教は殊によく似ている。ユダヤ教ではヤーベ以外に目にはいらない。キリスト教ではイエス以外に目にはいらない。イスラム教ではマホメット以外に目にはいらない。それぞれの神以外はあらゆるものが切り捨てられる社会。神以外は何もかも払拭される社会。
 平和も人権も何もかも切り捨てて、神の為なら自らの命をも投げ捨てて覚悟する社会。主君の為には命を投げる、日本の神道もこれと一脈が通じる。仏教はこれらと少し違いがあるようだ。宗教発祥地の気候の違いがあるのだろう。聖書には「荒野」が280回、「砂漠」が88回も出て来る。砂漠の厳しい自然環境が人々を一神教に導き易いのであろう。いずれにしても一点を重視する点では俳句と一神教とは似ているところもある。
 作品「藁葺きの屋根に一本草芽吹く」は悪環境の中で生きる草の生命力を写生した。藁といえども藁葺き屋根の藁は湛水力が無い。乾燥した藁屋根に良くぞ草が生きている。何処からか飛んできた草の種、または鳥の糞に混じっていた一粒の草の種を思う。草がたった一本であるからこそ、その生命力を遺憾なく発揮している。一本の草は、あのように生きなければならないと勇気を与える草でもある。一本の草でも人々に生きる力を与えるのであろうか。この作品の創作では自然と人間との深いかかわりを感じた瞬間でもあった。それは自然の心と人間の心の通じ合いであろう。
 作品では一本の草に焦点を絞るために「一本の草」としたのである。聖書ではどのような場合に「一本」とするのであろうか、聖書では何を一本としているのであろうか。それを調査してみた。聖書には単語「一本」は46箇所に発見された。一番多いのは創世記で7箇所に発見できた。二番目に多いのがダニエル書で、6箇所に発見された。他の巻では概ね三箇所から一箇所「一本」が発見された。分布が凡そ均等であった。以下に聖書の全ての「一本」を巻別に列挙した。

●創世記には7回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・14-23には「たとえ糸一筋、靴紐一本でも」とある。この場合の一本は靴紐を指摘している。
・21-15には「子供を一本の潅木の下で寝させ」とある。この場合の一本はを潅木指摘している。
・21-33には「アブラハムはベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植えた」とある。この場合の一本はぎょりゅうの木を指摘している。
ベエル・シェバは地名。南パレスティ名の集落。ペソル川上流で山麓部に位置する河畔の集落。ぎょりゅうは柳の木の名称でギョリュウ科ギョリュウ属。漢字では「御柳」と書く。
・32-11には「一本の杖を頼りに」とある。この場合の一本は杖を指摘している。
・40-9には「一本の葡萄の木」とある。この場合の一本は葡萄の木を指摘している。
・41-5には「ファラ王が夢を見た。七つの穂が一本の茎から出てきた」とある。この場合の一本は茎を指摘している。
・41-22には「七つの穂が一本の茎から出てきた」とある。この場合の一本は茎を指摘している。

●出エジプト記には3回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・15-25には「主はモーセに一本の木を示された。木を水に投げ込むと水は甘くなった」とある。この場合の一本は木を指摘している。
・25-33には「一本の支柱」とある。この場合の一本はアーモンドの花模様の入った支柱を指摘している。
・37-19には「一本の支柱」とある。この場合の一本はアーモンドの花模様の入った支柱を指摘している。

●民数記には3回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・17-17には「杖を一本づつ取れ」とある。この場合の一本は杖を指摘している。
・17-18には「家長は杖を一本ずつ持つべきだ」とある。この場合の一本は杖を指摘している。
・17-21には「指導者にも一本の杖」とある。この場合の一本は杖を指摘している。
 杖は権威の象徴であり、当時は杖を持つことは指導者の印を持つことでもあった。杖は歩く為の支えではなかった。社会階層を示す印であった。尚、杖はアーモンドの木であり、旧約時代は葡萄の木よりアーモンドの木が注目された。建造物の支柱にまでアーモンド模様が彫り込まれていた。アーモンドの木は指導者の象徴であり支配者階級の徴でもあった。
 聖書の中にはアーモンドを「あめんどう」と翻訳しているが、これは頂けない。さっぱり意味が分らない人が沢山居られるであろう。聖職者は信徒の指導者である。ひとりでも多くの信徒が理解できる話をすべきであり翻訳をすべきである。中身の無い威厳だけをひけらかす聖職者は信徒にとって迷惑な存在でしかない。それは目障りであり、居ない方がよいのである。それは似非教会であり信徒集団を堕落させるだけだ。

●申命記には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・29-22には「全土は硫黄と塩とで焼け爛れ、種は撒かず芽はでず、草一本生えていない」とある。この場合の一本は草を指摘している。神を欺いた部族には不毛の土地しか与えられないと予言している。「全土は硫黄と塩とで焼け爛れ」とあるが、これは分かりにくい焦土と化して硫黄と塩しかないと言っているのか、それとも硫黄と塩しかない全土が焼け爛れているのか判別しにくい。前者を言いたいのであれば硫黄と塩しかない全土が更に焼け爛れて草一本生えていない」とすべきであろう。なお、「一本の草さえ生えない」は生命の乏しさを表現している。草は元来何処にでも生える。しかし、背信の都市ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボムの如く草一本生えていないとしている。

●士師記には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・15-4には「サムソンは松明を持ってきてジャッカルの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた」とある。この場合の一本は松明を指摘している。
 サムソン電子と言う多国籍企業が隣国にある。サムソン電気の社名は日本にあった三星電気を模倣したという説もあり、また聖書に出て来るサムソンに由来しているとの説もある。後ろにアメリカのユダヤ系巨大資本があるとの話もあるが詳細は不明。韓国は朝鮮戦争時にキリスト教信徒が急激に増えて国民の20パーセントが信徒であると言われている。最近では日本に多くの牧師が派遣されていると言われている。従ってサムソン電子と言う社名はキリスト教との関係を誰もが思い浮かべる。
 聖書の中のサムソンは背信の部族ペリシテ人と戦った勇士として描かれている。ペリシテ人はパレスチナ人のことである。上記の一節は勇士サムソンが自分の女性をペリシテ人に奪われたことを恨みに思い、ペリシテ人の集落や畑を焼き払おうとしているところである。松明は明かりの為ではなく、集落や畑にジャッカルを利用して放火する場面である。 
 二匹のジャッカルの二本の尾を縛って、その真ん中の結び目に松明を括り付けた。そして、松明に火をつけた。その放火の手順を詳細に聖書に描かれている。恐らく二匹のジャッカルは尻尾に火がつき互いに引っ張り合い見境もない動きをしたと推定出来る。ジャッカルの行動を推定して行ったこの行動は各地にジャッカルが放火をすると見込んだ行動であり、あまりにも滑稽で非人間的である。放火は犯罪ではなかったのであろうか。当時は放火の善悪の判断が難しい時代であったのかもしれない。集落への放火は日常的行為であったのだろう。現代と全く異なる善悪の基準があったと推定出来る。

●サムエル記上には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・14-45には「髪の毛一本」とある。この場合の一本は髪を指摘している。

●サムエル記下には3回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・8-2には「縄一本分」とある。この場合の一本は測り縄の縄を指摘している。
・14-11には「髪の毛」とある。この場合の一本は髪を指摘している。
・18-11には「革帯」とある。この場合の一本は革帯を指摘している。

●列王記上には2回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・7-21には「柱」とある。この場合の一本は柱を指摘している。
・19-4には「エニシダ」とある。この場合の一本はエニシダを指摘している。

●列王記下には2回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・6-2には「梁にする材木」とある。この場合の一本は材木を指摘している。
・25-17には「柱」とある。この場合の一本は柱を指摘している。

●歴代誌下には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・3-17には「柱」とある。この場合の一本は柱を指摘している。

●詩編には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・34-21には「骨の一本も損なわれないように彼を守ってください」とある。この場合の一本は骨を指摘している。

●イザヤ書には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・33-20には「一本の天幕の綱も断たれることはない」とある。この場合の一本は綱を指摘している。

●エレミヤ書には2回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・52-21には「柱」とある。この場合の一本は柱を指摘している。
・52-22には「柱」とある。この場合の一本はを指摘している。

●エゼキエル書には4回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・37-10には「一本の木」とある。この場合の一本は木を指摘している。
・37-17には「一本の木」とある。この場合の一本は木を指摘している。
・37-19には「一本の木」とある。この場合の一本は木を指摘している。
・40-49には「一本の円柱」とある。この場合の一本はを指摘している。

●ダニエル書には6回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・4-7には「一本の木」とある。この場合の一本はを指摘している。
・7-8には「羊の一本の角」とある。この場合の一本は角を指摘している。
・7-20には「羊の一本の角」とある。この場合の一本は角を指摘している。
・8-3には「羊の一本の角」とある。この場合の一本は角を指摘している。
・8-5には「羊の一本の角」とある。この場合の一本は角を指摘している。
・8-9には「羊の一本の角」とある。この場合の一本は角を指摘している。

●マタイ伝には3回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・5-36には「髪の毛に誓ってはならない」とある。この場合の一本は髪を指摘している。
・10-30には「髪の毛残らず神に数えられている」とある。この場合の一本は髪を指摘している。
・23-4には「指一本貸そうとしない」とある。この場合の一本は指を指摘している。指は支援を意味する。

●マルコ伝には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・6-8には「旅には杖一本も持たず」とある。この場合の一本はを指摘している。この場合の杖は旧約の指導者の象徴としての杖と異なり、旅の必需品として杖を取り上げている。歩く為の補助器具としての実用の杖である。

●ルカ伝には3回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・11-46には「指一本もその荷物に触れようとしなかった」とある。この場合の一本は指を指摘している。支援や援助を意味する指。
・12-7には「髪の毛一本も残さず数えられている」とある。この場合の一本は髪を指摘している。
・21-18には「髪の毛の一本も決してなくならない」とある。この場合の一本は髪を指摘している。

●使徒行伝には1回の「一本」が発見された。その位置は下記である。
・27-34には「髪の毛一本もなくなることはない」とある。この場合の一本は髪を指摘している。


以上、聖書に出て来る「一本」の46箇所全て列挙したのであるが、この分析調査で判明した事項や特徴に関しては長くなりそうなので次号にて述べたい。

聖堂の詩その1022―花(2)

2015-04-09 18:05:56 | Weblog
         コーヒーに落花一片浮かびたり  紅日2014年7月号
 比叡山も琵琶湖畔も桜が満開になった。今年は例年と違って山桜とソメイヨシノとが咲く順序が逆転しているのではないだろうか。例年は山桜が先に咲いて山桜が散るごろになるとソメイヨシノがさく。毎年そのような順序で見てきたが、今年はソメイヨシノが三月下旬後ラオから咲いて山桜が随分遅れて四月七日に咲き始めた。こんな経験は初めてだ。それとも私の認識違いだろうか。比叡山のドライブウエーのバス停田之谷峠は標高400m。今朝の田之谷峠は山桜が真っ盛りだった。例年なら青葉が出始めているのに。日本の花も何かの大きな自然の変化を感じているのかもしれない。聖書の中の「花」もそのような日本の自然の変化の中で観察してみた。最近の日本は国会中継を眺めていると日本の自然だけでなく社会も大きく変化してしまったとつくづく思う。「粛々と」の意味が議員さんたちの中でその深い意味まで分っていないらしい。選挙民に責任があるのかもしれない。日本の知性は大きく変化したと思う。

               (聖書に出てくる漢字「花」の調査で判明したことや感じた事項)
<1>花は聖書に中頻度
 聖書には漢字「花」が旧約聖書では104回、新約聖書では24回、総計126回発見することが出来た。その頻度は中頻度であることが分かった。聖書には比較的良く見る漢字である

<2>聖書でトップの花は百合
百合の花は8回
アーモンドの花の頻度は7回発見された。
葡萄の花の頻度は5回
ナツメヤシの花の頻度は3回発見された。
コフェルの花が1回
花房が1回
ひょうたんの花は1回

<3>植物名不詳の花または名称のない花
 聖書の中には、花嫁や花婿等植物名称でない花が多い。総計65回の名称の無き花が発見された。半数以上が名称の無き花であった。また植物であっても野の花や花輪等植物名称が無い事例も多かった。先ず、そのような例外の花の集計をした。
(植物でない花)
花婿は25回発見された。このうち旧約が10回、新約が15回であった。新約での花嫁への関心が旧約より大きい。
花嫁は23回発見された。このうち旧約が16回、新約が7回であった。旧約の方が花嫁の扱いは大きい。
(花嫁花婿以外の植物名称不明の花)
・凋む花がイザヤ書に4回
・野の花は3回発見された。詩編、イザヤ書、マタイ伝でそれぞれ一回ずつ。
・花輪は2回発見された。イザヤ書と使徒行伝に一回ずつ。
・火花が2回
・荒野に咲く花が1回
・花弁は民数記に1回
・純金の花模様が出エジプト記に2回
・黄金の花がレビ記に1回
・金の花が歴代誌に1回
・草花がヤコブの手紙に1回
・花が地に咲くが1回
・花のように咲くが1回
・花が散るがペテロの手紙に1回

<3>聖書に目立つ花嫁と花婿
 聖書には結婚の場面が目立って多い。単語数でも花の半分以上が花婿であったり花嫁であった
花婿が25回、花嫁が23回も発見された。但しこの場合一文節に重複していた事例もある。いずれにしても聖書には花婿と花嫁が目立ち漢字花の中でも突出している。聖書で名称がある植物の花では百合がトップであったが、それも一桁の七回でしかない。

<4>聖書の集団結婚
 花婿と花嫁とが聖書で目立つ存在である。キリスト教と集団結婚とイメージが重ねられる場合が多い。それが原因しているのであろう、日本の一部キリスト教宗派では現実社会で集団結婚が挙行されている。日本の内閣の一部や保守系議員さんにはキリスト教徒が随分増えた。朝鮮戦争時には韓国でもキリスト教徒が増加し国民の20パーセントにも達したと言われている。日本も昨今のグローバル化で増えたのであろうか。しかし、日本の場合は政治家には増えているようだが国民には増えていそうではない。中東に展開する宗教戦争の恐怖で一歩退いているようだ。テロ対無人爆撃機の戦争であり、いかに宗教戦争でないと両陣営が拒絶してもどう見ても宗教戦争であり、部外者には宗教戦争意外に見えない。日本は全く異なる宗教圏なのに何故参戦するのであろうか。これも不思議である。
 それにもめげず内閣メンバーや保守系議員が盛んに合同結婚に祝電を打ったりしていている。何年か前えであるが、そのことがマスコミでしばしば報じられた。日本人の中には、キリスト教は合同結婚するものだと思っている人もあるが、これは一部の教派であり大部分ではないだろう。しかし一方では日本ではキリスト教徒は合同結婚式をするものだという認識も弱くはない。大きく報道されたことがあるからあろう。また、際立ち目立つ奇異な現象であるからだろう。
 合同結婚を挙行するキリスト教一部教派と日本の保守政党とは浅からぬ関係があると言われている。合同結婚は日本と韓国と合同挙行され、集団の日本人と集団の韓国人とが結婚することになっている。国の性別はないといわれている。韓国人の男女日本人の男女が入り乱れていて、婚姻相手は教祖が指定していると言われている。
 日本文化ではこのような習慣がなく奇習であると感じる人々が多い。しかし、保守系政党と集団結婚を挙行する宗派とが深い関係がある点ではさまざまな意味でマスコミ等から注目されている。中でも集団結婚者の中にも行方不明者の問題が含まれていると言う点で共通点があるのか、北朝鮮の拉致問題と韓国の集団結婚と対比比較する週刊誌も遭った記憶がある。昔のことであるがざっと目を通した。
 但し、行方不明者の問題は北朝鮮による拉致問題が韓国の行方不明者問題より深く政府が関係してマスコミは大規模に取り扱う相違点がある。この益子mのと利上げからの違いは勿論、日本政府の姿勢による相違点であろう。聖書で花嫁や花婿と言われると一般の我々日本人は合同結婚が直に頭に浮かんでほかのことは何も考えない人が多いであろう。体制の違いに原因があると感じている人は少ないのではないか。
 聖書の中の「花」を考えれば当然花嫁や花婿の話になる。日本ではキリスト教での花嫁花婿といえば、一部の人々であるものの合同結婚へと意識が飛ぶ。キリスト教を考えれば、聖書を思い浮かべて合同結婚は触れないで済ませることが出来ない。浅薄な知識で誤解部分もあるがご容赦願いたい。宗教対立は私は一番好まぬこところである。ことに昨今の宗教にありがちな暴力的な対立は好まない。何時だったかエルサレム神殿で宗派間対立で暴動や傷害や殺人までおきて驚いた。実にオゾマシキ話である。あれが宗教で最も醜い場面だろう。聖職者が中心になって騒いでいるのであるから話にならない。宗教は「花」からかけ離れた遠いものだろうか。

聖堂の詩その1021―花(1)

2015-04-03 17:08:23 | Weblog
                 コーヒーに落花一片浮かびたり  紅日2014年7月号
 世界のコーヒーの殆どはブラジルとコロンビアで生産される。日本から見れば地球のほぼ裏側正確にはそれはアルゼンチンのラプラタ川河口であるが、コーヒーはブラジルやコロンビアで生産されている。そのコーヒーが当り前のように我々日本人が飲んでいる。ブラジル人の貴方は作るひと、日本人の私は飲むひとの関係だ。
 不思議と言えばよいのか、それとも不自然と言えばよいのか、この光景は奇妙である。動物園に世界中の動物を捕獲して見世物にしている人間特有の残虐性と似ている。産地と消費地が丁度地球の対蹠点にあたる。地球を手玉に取る不自然な人類の姿が見える。コーヒーを飲みながらよくも「地球に優しい」などと言えるものである。人類の傲慢さを感じてならない。
 これは人類が踏み込んでは成らない領域ではないのではなかろうか。私もコーヒーは好きなので時々飲む。コーヒーを飲む人々を批判しているのではない。人間行為の不自然さを指摘しているのである。地球の裏側で生産させて飲むコーヒーの不自然さである。資本力が大きければ何でもできると言われるが、ここまで来れば人間としての不自然さがあるのではないか。
 我々人類は核開発や遺伝子操作などの域にまで入り込んでしまった。ナノテクでは分子を製造改変することまで可能となった。人間として踏み込んではならない領域にまで来ているのではないだろうか。人類は何処まで貪欲なのだろうかと思う。何故もっと愚かしく生きることが出来ないのだろうかとも思う。肩に力を抜いて気楽に生きることを忘れてしまったのではないだろうか。「コーヒーに落花一辺浮かびたり」はそんなことをも考えつつ生まれた作品である。
 旧約聖書でのモーセの言動を通じて感じることは強烈な領土支配欲望である。母国を失ったユダヤ人と考えられていたのであろうが、その母国無きユダヤ人の強烈な領土支配意欲が淡々と聖書に綴られている。領土支配欲は領土争奪戦に顕われている。先を競って領土を支配しようとする欲望が強烈である。乳と蜜の滴る大地カナンに於ける領土支配欲がさりげなく描かれている。
 こうした支配欲は九回にも及ぶ十字軍遠征につながった。また帆船時代にはアジアやアフリカで展開された植民地化であった。各国が聖書に基づき貪欲な植民地争奪戦を展開した。キリスト教社会では日本では奴隷売買の対象地域となった。宣教と奴隷狩りとが同時進行した。天正年間のローマ少年視察団がその報告書で記録しているように何万人の日本人が奴隷として売買の対象となった。
 そうしたキリスト教圏の聖職者たちによる非人道的行為により、日本は鎖国政策に追い詰められた。鎖国の出発点は豊臣秀吉による禁教令に始まる。あまりにも強烈な植民地収奪競争を目の前にして禁教令を発布せざるを得なかった。今では恐怖感覚が緩んでしまったが、ブラジルでコーヒーを栽培させて日本でそれを飲むという非人間的行為も過激なキリスト教思想が背後にあるのではないだろうか。
 キリスト教文明社会での過激な競争恐怖がその裏側に見え隠れしている。日本には「生き馬の目を抜く」と言う諺がある。まさに昨今の日本と中東地方へのかかわり方にそれが見える。今の日本社会にもキリスト教的な争奪戦を好む危険な危険な雰囲気が充満している。聖書由来だと考えられるが過激な競争至上主義により社会全体が何もかもゲーム化している。
 一晩で企業のオーナーが交代することも日常茶飯事となった。これは安定した日本社会では恐怖である。ゲームを重視する聖書に由来する恐怖と言い換えることも出来ないことはない。年功序列賃金と終身雇用制は日本特有の雇用賃金体制であるが、それを奇異なものとしてキリスト教文化圏の人々が株主となって株主総会で発言する。また、派遣労働制度を肯定促進する目的があるのだろうが、同一労働同一賃金を押し付けている。此処まで過激な考え方を一国の一企業に押し付けてよいのだろうか。
 キリスト教文化圏に包囲されるグローバル化を進めれば零細企業が殆どである日本の伝統工業の匠や名人は消滅するのは確実である。風土と合致しない息が詰まるような日本社会に成るであろう。既に、零細企業は後継者が居なくなっている。外資によるゲームが中小企業や零細企業の恐怖感を膨張させている。経済活動をゲームとして考えるキリスト教文化がある。既に日本経済の土台が外資と言うシロアリに腐敗消滅させられている。過激な国際化思想やアナーキズムとも言える規制緩和の何でもあり思想は日本社会を踏み潰していると言えないことはない。
 日本の花見と言えば、我々はソメイヨシノを楽しんでいる。ソメイヨシノは江戸時代末期から明治にかけて開発された新品種の桜である。現在の東京都豊島区駒込に染井村があった。その染井村の植木職人が品種改良をして全国に「ソメイヨシノ」を販売普及させた。今の日本列島の桜は殆どがオソメイヨシノである。今も豊島区駒込の西福寺はその植木職人の菩提寺であり、その墓がある。また、園芸書「地錦抄」が保管されている。
 しかし、桜は古代から花は歌に取り上げられ「花」と言えば、在来種の桜の花を指していた。俳句でも「花」と言えば桜を指摘している。日本では、「花」と言えば何も言わなければそれは桜である。聖書ではそうではない、さまざまな花がある。「コーヒーに落花一片浮かびたり」の作品が生まれたのは、日本の花と外国人の花との認識の違いを感じて生まれた作品だった。聖書時代の人々はどのような花に関心や興味があったのか、知りたいと思い。聖書に出てくる全ての花を取り上げて、それを分析してみた。
 聖書全体では104箇所に漢字「花」が発見された。そのうち旧約が80箇所で新約が24箇所であった。聖書に出て来る単語としては中頻度の単語である。その中には「花嫁」や「花婿」など植物でない「花」も混入していた。昨今の日本社会では少子化の影響で結婚式も随分減少してしまい、花婿や花嫁と言う単語を耳にする機会も減った。
 花をつければ実が実るのが順序である。そのようなことも原因しているのか、子供が出来ない人々を配慮してであろうか、花婿や花嫁と言う言葉が結婚式場であまり耳にしない。遺伝子組組替え作物の将来への影響はわかっていない。分っていないが、遺伝子組替作物が流通している社会的背景があるのだろうが、随分時代が変化したものである。
 婚姻と出産と切り離して考える社会が一般化している。聖書の時代にはバイオ技術がなく遺伝子組み合えは無い。聖書では「花婿」や「花嫁」と言う言葉が大好きなようである。花と実とは密接な関係がある。戦時中の一部軍歌の中に「同じ国体の庭に咲く、咲いた花なら散るのは同じ」と歌われている。それは子孫を暗黙の了解で抹殺しても構わないといっているのであろう。若者が花となって散れば実をつけるものではないよと歌っているのではなかろうか。現実に実をつけず戦死していった。また、聖書には「花輪」などはひとつの植物を指摘しているのではない花もあった。聖書には花を指摘していない花の混入が見られた。それらを含めて、本文中には以下のような花が出てきていた。

●創世記には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・40-10には「葡萄の花」とある。

●出エジプト記には花は10回発見された。それは以下の箇所である。
・4-25には「血の花婿」とある。
・4-26には「血の花婿」とある。
・25-31には「アーモンドの花」とある。
・25-33には「アーモンドの花」とある。
・25-34には「アーモンドの花」とある。
・28-36には「純金の花模様」とある。植物名は不明
・37-17には「アーモンドの花」とある。
・37-19には「アーモンドの花」とある。
・37-20には「アーモンドの花」とある。
・39-30には「純金の花模様」とある。植物名は不明
 出エジプト記ではアーモンドの花が圧倒的に目立った。聖書の中にはアーモンドを「あめんどう」と表記しているものもあるが、「あめんどう」では誰にも分からないであろう。わからないことをそのまま書き綴るのが聖書であろうか。
 アーモンドはグリコがチョコレートでコーティングしたあの、アーモンドチョコレートの「アーモンド」であり西アジア原産の木の実である。またアーモンドの木はモーセの兄アロンが杖にしていたことでも知られ宗教的意味が籠められている。
 アーモンドは扁桃やカラモモ等の日本語が存在しているのである。聖書の中には「あめんどう」としている事例もある、翻訳者の意思が何処にあるのか分からない時がある。聖書を近寄りがたい不可解な書にするつもりであろうかと思うことがある。

●レビ記には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・には「黄金の花」とある。

●民数記には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・8-4には「台座から花弁まで」とある。植物名不明。
・17-23には「アーモンドの花」とある。

●列王記上には花は8回発見された。それは以下の箇所である。
・6-18には「ひょうたんの花」とある。
・6-29には「ナツメヤシの花」とある。
・6-32には「ナツメヤシの花」とある。
・6-35には「ナツメヤシの花」とある。
・7-19には「百合の花」とある。
・7-22には「百合の花」とある。
・7-26には「百合の花」とある。
・7-49には「金の花」とある。

●歴代誌下には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・4-5には「百合の花」とある。
・4-21には「金の花」とある。

●ヨブ記には花は3回発見された。それは以下の箇所である。
・5-7には「火花」とある。植物の花ではない。
・14-2には「花のように咲く」とある。漠然と花を指摘していて名称は分からない
・15-23には「葡萄の花」とある。

●詩編には花は5回発見された。それは以下の箇所である。
・19-6には「花婿」とある。植物の花ではない。
・90-6には「花」とある。花の名は不明。
・92-8には「花」とある。花の名は不明。
・103-15には「人の生涯は草のよう、野の花のように咲く」とある。花の名は不明。
・132-18には「王冠はダビデの上に花咲く」とある。植物名はない。「王冠の上に花咲く」は日本語として無理がある。ダビデに王冠は輝くとすべきだ。花は輝くと意訳するのが適切な翻訳ではないか。

●コヘレトの言葉には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・には「アーモンドの花」とある。

●雅歌には花は20回発見された。それは以下の箇所である。
・1-14には「香り高いコフェルの花房」とある。
コフェルは北アフリカからインドにかけてのの河岸や平野に分布。低木で香りが良い白い花を咲かせる。
・2-2には「百合の花」とある。
・2-12には「花は地に咲く」とある。花名称は不明
・2-13には「葡萄の花」とある。
・2-15には「葡萄の花」とある。
・4-3には「柘榴の花」とある。
・4-8には「花嫁」とある。植物名称でない。
・4-9には「花嫁」とある。植物名称でない。
・4-10には「花嫁」とある。植物名称でない。
・4-11には「花嫁」とある。植物名称でない。
・4-12には「花嫁」とある。植物名称でない。
・4-13には「百合の花」とある。
・5-1には「花嫁」とある。植物名称でない。
・5-13には「百合の花」とある。
・6-2には「百合の花」とある。
・6-7には「柘榴の花」とある。
・6-11には「葡萄の花」とある。
・7-12には「香り高いコフェルの花房」とある。
・7-13には「葡萄の花」とある。
・8-6には「火花を散らす」とある。

●イザヤ書には花は15回発見された。それは以下の箇所である。
・1-31には「火花」とある。
・5-24には「花は塵となる」とある。植物名称でない。
・18-5には「花房が実と成る」とある。植物名称でない。
・27-6には「イスラエルは芽を出し花を咲かせる」とある。植物名称でない。イスラエルを花にたとえる。擬人化。
・28-1には「凋む花」とある。植物名称でない。
・28-4には「凋む花」とある。植物名称でない。
・28-5には「輝く花輪となる」とある。植物名称でない。
・35-1には「荒野に咲く野薔薇の花」とある。
・35-2には「花を咲かせる」とある。植物名称でない。
・40-6には「野の花」とある。植物名称でない。
・40-7には「凋む花」とある。植物名称でない。
・40-8には「凋む花」とある。植物名称でない。
・49-18には「花嫁」とある。植物名称でない。
・61-10には「花婿」とある。植物名称でない。
・62-5には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。

●エレミヤ書には花は6回発見された。それは以下の箇所である。
・2-2には「花嫁」とある。植物名称でない。
・2-32には「花嫁」とある。植物名称でない。
・7-34には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。
・16-9には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。
・25-10には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。
・33-11には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。

●エゼキエル書には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・7-10には「欧の杖に花が咲く」とある。アロンの杖。杖の木はアーモンドの木であるのでアーモンドの花。

●ホセア書には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・14-6には「百合の花」とある。
・14-8 には「葡萄の花」とある。

●ヨエル書には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・には「花婿と花嫁」とある。植物名称でない。

●ナホム書には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・には「レバノンの花」とある。植物名称でない。レバノンに咲く一般的な花の意味。植生の豊かなあのレバノンですら花はしおれるの意味。

●ハバクク書には花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・には「無花果の花」とある。

●マタイ伝には花は7回発見された。それは以下の箇所である。
・6-28には「野の花」とある。植物名称でない。野生の花であろう。野生ではない栽培花卉もあったことを推定させる。
・6-29には「栄華を極めたソロモンですら、この花のひとつほどにも着飾っていない」とある。花は特定の植物名ではない。「花を着飾る」と言う言い方があった。但し、ソロモンと比較するのであるから、花は美しいという感覚は当時存在していた。
・9-15には「花婿」とある。
・25-1には「花婿」とある。
・25-5には「花婿」とある。
・25-6には「花婿」とある。
・25-10には「花婿」とある。
 マタイ伝25章には、聖書で有名な集団結婚の場面がある。聖書には母親が子供を食べる人肉食の奇習が申命記や列王記下や哀歌において描写されているが、集団結婚もそれに並ぶものであろう。
 現在でも一部キリスト教では聖書に習い集団結婚が挙行されている。一部キリスト教の教派ではあるが、集団結婚が現代社会でも一般的な行事として認識されている。
 婚姻に於いても競争の原理が働いている。女性に男性があてがわれるかどうかの競争である。それは謂わば、市場原理主義の挙式である。狩猟社会に源流があるキリスト教社会特有の感覚であろう。なお、調査してみたが日本ではこのような習慣は発見できない。

●マルコ伝には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・2-19には「花婿」とある。植物名称でない。
・2-20には「花婿」とある。植物名称でない。

●ルカ伝には花は3回発見された。それは以下の箇所である。
・5-34には「花婿」とある。植物名称でない。
・5-35には「花婿」とある。植物名称でない。
・12-27には「ソロモンでさえ野の花ひとつ程にも着飾っていない」とある。植物名称でない。

●ヨハネ伝には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・2-9には「花婿」とある。植物名称でない。
・3-29には「花婿」とある。植物名称でない。

●使徒行伝には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・14-13には「花輪を捧げようとした」とある。植物名称でない。

●ヤコブの手紙には花は2回発見された。それは以下の箇所である。
・1-10には「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」とある。富裕層を蔑んでみている。
・1-11には「草は枯れ花は散り、美しさは失せるが如く富んでいる者も人生の半ばで消えうせる」とある。此処でも富裕層は蔑んで見られている。

●ペテロの手紙Ⅰには花は1回発見された。それは以下の箇所である。
・1-24には「花は散る」とある。花の命のはかなさは日本人と同じ感覚である。

●ヨハネの黙示録には花は6回発見された。それは以下の箇所である。
・18-23には「輝かしい花婿と花嫁」とある。
・19-7には「花嫁」とある。
・19-8には「花嫁は輝く清い衣を着た」とある。
・21-2には「夫の為に着飾った花嫁」とある。
・21-9には「子羊の妻である花嫁を見せよう」とある。植物名称ではない。見世物としての花嫁扱い。
・22-17には「花嫁」とある。

 聖書の花に関する観察や分析は長くなりすぎて分りにくくなるのを避けるため、次回「聖堂の詩―その1022(2)」に分割して述べることにした。