聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その640―綱と紐、それぞれの用途

2011-08-28 19:29:37 | Weblog
               綱引きに鉢巻強く締めなほす      紅日2004年12月号
 綱引きは世界各国にも日本にも良く見られる。日本の場合、豊凶を占う神道の行事から始まったと言われている。新道の場合正月十五日の小正月に実施される場合が多く季語は新春となる。仏教でも盆綱引きとして盆行事として綱引きが開催される地方がある。それは盆綱引きと呼ばれるものであり、この場合は秋の季語となる。明治時代以降学校教育の運動会種目で綱引きが盛んに採用された。それは昔から全国各地に見られた神事としての綱引きや盆行事として綱引きを取り込んだのであろう。そして今は秋季運動会の一種目になっている為に綱引きも秋の季語として認識する結社もある。但し、玉入れと同様結社によって綱引きを季語と認めていない場合もある。
 結社により季語として認めるかどうか、その違いがあるのは日本列島の自然環境の複雑さと地域の違いの落差の大きさもあるだろう。北海道と沖縄に大きな自然の違いが有るだけではない。日本列島では山を一つ越えると、峠を境にして言葉も風習も異なる例にわれわれは良く出会う。中国や欧米では見られない日本独特の現象である。その様な日本の自然環境の多様性と俳句結社を構成する人々の自然認識や時代認識の違いが、季語と認めるか認めないかの違いの原因となるのだろう。掲句「綱引きに鉢巻強く締めなほす」は季語として認められた。
 聖書にも「綱」の単語が目に付く。聖書時代に既に綱は多くの場面で使われていた。また、「綱」と言えばその太さで差異がある「紐」も聖書には「綱」ほどは多くは無いが目に付く単語である。聖書にはそれぞれがどのような場面に出て来て、それぞれが、どの様に利用されてきたのであろうか。聖書の中の綱と紐との違いは興味ある問題だ。日本語では綱と紐という言葉が、その太さの大小で区分される。尚、縄は主として稲藁で綯われていて少し綱や紐とは概念が異なるのではないだろうか。縄は綯うのであり綱や紐は撚るのである。製法手段やその性質に大きな違いがあるので縄は別扱いとなるだろう。
 したがって、日本語では大小区分で、綱と紐の二段階に区分される。一方、英語では日本語よりその大小の区分が詳細である。英語では綱はRope、紐はCordであるが、その他にStringやStrapがある。英語ではその径の大きい順に並べれば、Rope、Strap、Cord、stringであろうか。そして、綱と紐との比較ならば糸を意味するThreadは比較の考察対象には入らない。日本文化よりも、英語文化圏の方が綱から紐への区分が細かい。日本語訳聖書ではこの区分はどうであろうか、私の観察した範囲では綱と紐との中間的な単語は見つけることが出来なかった。聖書の中の「綱」と「紐」のそれぞれの用途を一つ一つ取り上げながら聖書時代当時の人々の綱と紐の区分は用途に対する意識を考えてみたい。
                  (聖書の中の「綱」の巻別分布表)
●出エジプト記には「綱」は2回発見できた。それは以下である。
・33-18には「綱」に関して「幕屋の杭、及びその綱」と述べている。幕屋を張る為に使われた綱
・39-40には「綱」に関して「庭の周りの幕とその入り口の幕、綱と杭」と述べている。酷い日本語訳だ景色が全く見えない。訂正したい翻訳だが、此処では割愛する。これも幕屋を張る為の綱
●民数記には「綱」は4回発見できた。それは以下である。
・3-26には「綱」に関して「幕屋と祭壇を囲む庭の周りの幕とその入り口の幕、綱」と述べている。庭を包囲する幕を張る為の綱
・3-27には「綱」に関して「庭の周囲の柱と台座、杭、綱」と述べている。柱を四方から綱で張って柱が倒れなくしていた。柱(ポール)を垂直に保つ為の綱。
・4-26には「綱」に関して「幕屋と祭壇を囲む庭の周りの幕とその入り口の幕、綱」と述べている。幕張りの支柱を支える綱。
・4-32には「綱」に関して「庭の周りの幕とその入り口の幕、綱と杭」と述べている。訂正したい翻訳だが、此処では割愛する。これも幕屋を張る為の綱。
●ヨシュア記には「綱」は1回発見できた。それは以下である。
・2-15には「綱」に関して「ラハブは二人を窓から綱で吊り下ろした」と述べている。ラハブが二人の逃亡を助けている場面。人を吊り下げることが可能な強靭なロープであった。幕屋を張るためのロープが家にあったと推定出来る。
●列王記上には「綱」は1回発見できた。それは以下である。
・22-34には「綱」に関して「王は御者に言った『手綱を返して敵陣から脱出させて呉れ』」と述べている。この時代に、馬を制御する為の手綱の存在が認められる。
●列王記下には「綱」は2回発見できた。それは以下である。
・4-24には「綱」に関して「従者に『手綱を引いて進んでゆきなさい』と命じた」と述べている。馬の制御目的の手綱だ。
・9-23には「綱」に関して「ヨラムは手綱を引いて逃げ出した」と述べている。馬の制御目的の手綱だ。
●歴代誌下には「綱」は1回発見できた。それは以下である。
・18-33には「綱」に関して「王は御者に命じた『手綱を返して敵陣から脱出させてくれ』」と述べている。「手綱を返して」は今流で言えば「ユーターン」であろうか。
●ヨブ記には「綱」は7回発見できた。それは以下である。
・4-21には「綱」に関して「天幕の綱は引き抜かれて為すすべも無く死んでゆく」と述べている。天幕の支柱を支える綱の重要性が読み取れる。
・8-14には「綱」に関して「頼みの綱は断ち切られる。よりどころは蜘蛛の巣のようなもの」と述べている。この日本語訳は誤訳の疑いがある「蜘蛛の巣」ではなく。「綱」に対比するのであるから「蜘蛛の糸」でなければ場面が見えてこない。芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」を髣髴とさせる。
・18-10には「綱」に関して「綱が地に隠され張り巡らされ、行く道に仕掛けが待ち伏せている」と述べている。綱は狩猟用具の一つであった。
・30-11には「綱」に関して「彼らは手綱を振り切り、私を辱め轡を捨てて勝手に振舞う」と述べている。今まで馬に乗っていた自分を馬に乗れないようにしてしまった。「手綱に触れることもさせない、轡まで馬の口から外し捨ててしまった」と嘆き悲しんでいる場面だ。
・38-31には「綱」に関して「オリオンの綱をお前は緩めることが出来るか」と述べている。星座のオリオンの星を綱で結び付けているように表現している。星座に関する概念が既に紺の頃に存在していた。
・39-10には「綱」に関して「お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ、お前に従わせて谷間の畑を掘り起こすことが出来るか」と述べている。これも誤訳ではないか。「野牛を綱で縛り畝を曳かせることが出来るか、そして谷間の畑を鋤くことが出来るか」と言いたいのではないだろうか。野牛はできなかったが馴化された牛を耕作の役畜として利用していた。野生牛の馴化と役畜化が進んでいたことが窺がえる。
・40-26には「綱」に関して「お前はその鼻に綱をつけて顎を貫いて轡をかけることが出来るか」と述べている。これも日本語訳に無理を感じる。鼻に綱をつけて」が分かりにくい。当時は牛が生まれたら直ちに鼻穴を開けていたので「お前は牛の鼻穴に綱を通して」とすべきである。当時は既に、鼻の中に穴を開けて綱を通してさらには轡で牛を制御していた事が見えてくる。鼻穴と轡と一体化していた。鼻穴の無い轡はないだろう。
●詩篇には「綱」に関して4回発見された。それは以下である。
・32-9には「綱」に関して「分別の無い馬や騾馬のような振る舞うな。それは轡と手綱で動きを抑えなければならない」と述べている。此処では馬や騾馬とあるが、他には牛や駱駝なども馴化させ轡や手綱で制御支配していたことが聖書から読み取ることが可能だ。
・116-3には「綱」に関して「死の綱が私に絡みつき」と述べている。「死の綱」であるから、この場合の綱は仕掛けた罠の綱と考えられる。
・118-27には「綱」に関して「祭壇の角のところまで生贄を綱で引いてゆけ」と述べている。
・140-6には「綱」に関して「傲慢な者が私に罠を仕掛けて綱や網を張り巡らし、私の行く手に落し穴を掘っています」と述べている。綱や網は獣を捕獲する狩猟の道具だけではなく人間を捕獲する道具としても使われていた。
●箴言には「綱」は2回発見できた。それは以下である。
・5-22には「綱」に関して「主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり、自分の罪の綱が彼を捕える」と述べている。罠に綱が用いられていた。
・23-34には「綱」に関して「海の真ん中に横たわっているかのごとく、綱の端にぶら下がっているかのごとく」とのべている。人の脱力感を描写している。
●イザヤ書には「綱」は5回発見できた。それは以下である。
・5-18には「綱」に関して「虚しきものを手綱とし、罪を車の綱とし」と述べている。虚しきものに振り回されないように手綱で制御しなければならないとのべている。誘惑に打ち勝たねばならないとも読める。
・30-28には「綱」に関して「手綱を諸国民の顎にかけられる」と述べている。諸国民を支配することを比喩的に表現している。
・33-20には「綱」に関して「移されることの無い天幕。その杭は永遠に抜かれることはない。一本の綱も切られることも無い」と述べている。この場合の綱は天幕を張るための綱である。
・33-23には「綱」に関して「船の綱は緩み」と述べている。マストや帆など船体を支える様々の綱
・54-2には「綱」に関して「あなたの住まいの幕を広げ惜しまず綱を伸ばして杭を硬く打て」と述べている。この場合は、天幕を張るための綱。
●エレミヤ書には「綱」は8回発見できた。それは以下である。
・2-32には「綱」に関して「貴方は昔手綱を振り切って『私は仕える事は出来ない』といった」と述べている。「手綱を振り切って」は支配の拒絶を比ゆ的に表現している。
・5-5には「綱」に関して「彼らも軛を折り綱を断ち切った」と述べている。神の支配から逃れることを比ゆ的に述べている。
・10-20には「綱」に関して「天幕は略奪に遭い、天幕の綱は悉く切られた」と述べている。
・27-2には「綱」に関して「主は私にこういわれる。軛の横木と綱を作ってあなたの首に嵌めよ」と述べている。神に従うことを比ゆ的に表現している。
・38-6には「綱」に関して「役人たちはエレミヤを捕らえて監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱で吊り下ろされた。」と述べている。エレミヤが捉えられた風景を描いている。綱はエレミアを吊り下げた強靭な綱だった。日本語訳は「監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱で吊り下ろされた。」とあるが、日本語訳では「水溜め」は適切ではないと思う。翻訳者は貯水槽のつもりで「水溜め」と翻訳したのだろうが、日本語での「貯水槽」を「水溜」とするには無理があるのではないか。文章の前後からは思い切って「井戸」と翻訳されるべきだ。それの方が景色が良く見える。
・38-11には「綱」に関して「倉庫の下から古着やボロ切れを取ってきて、それを綱で水溜の中に居るエレミヤに吊り降ろした」と述べている。「ボロ切れ」ではなく「ボロ布」の方が分かり易いのではないか。綱は古着やボロ布を下に下ろすために使われた。
・38-12には「綱」に関して「『古着とボロ布を脇の下に挟んで綱にあてがいなさい』エレミヤは言われたとおりにした」と述べている。綱を直接挟めば怪我の原因になる。それを避ける為の対策だった。脇と綱との間の緩衝機能を持つ古着でありボロ布である。当時の綱は強靭であったが人間の肌には合わない荒っぽいざらつきがあるものだったと推定出来る。
・38-13には「綱」に関して「彼らはエレミアを綱で水溜りから引き上げた」と述べている。「水溜り」は井戸であったと推定出来る。
●エゼキエル書には「綱」は1回発見できた。それは以下である。
・には「綱」に関して「彼らはお前と取引を行った。豪華な衣服、紫の衣、美しく織り上げた布、多彩な敷物、丈夫に撚った綱を取引した」と述べている。綱は他に並べ上げられる物と比較すれば、貴重な商品であったことが窺がうことが可能である。
●ホセア書には「綱」は1回発見できた。それは以下である。
・11-4には「綱」に関して「私は人間の綱、愛の絆で彼らを導いた」と述べている。人と人との繋がりを綱で繋げると比喩的に表現している。
●使徒行伝には「綱」は3回発見できた。それは以下である。
・27-17には「綱」に関して「小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、風に船首の帆を揚げ」と述べている。場所はクレタ島の属島クラウダである。クラウダでのパウロ一行の難破風景を描写している。母船に救命ボートを綱で縛りつけて救命ボートを失わないように船員の必至な努力の姿が見える。
・27-32には「綱」に関して「兵士たちは綱を断ち切って小舟を流せるにまかせた」と述べている。母船から小舟で逃亡する兵士を描写している。
・27-40には「綱」に関して「舵の綱を解き放ち風に船首の帆を上げて砂浜に向かって進んだ」と述べている。場所はマルタ島である。マルタ島上陸の寸前を描いている。舵の綱は船の向きを固定させる為に縛られていた。愈々上陸する為に舵の綱が解かれ舵を目的地に向かって操作しなければならなくなった。当時の航海操舵術で綱で舵を綱で固定させることをしていた。
                   (聖書時代に於ける綱の性質やその用途)
(1)聖書には「綱」の文字が全部で42回という高い頻度で発見された。聖書の単語では比較的頻度が高く綱が生活必需品に近い存在だったことが推定出来る。
(2)綱の用途は幕屋や天幕や庭を囲む幕を張るために使われた綱が圧倒的に多かった。幕屋と杭と綱は三点は一対のものと見做されていたようである。
(3)天幕や幕屋の綱に並んで多いのが手綱であった。人々は家畜の順化と手綱に関して深い関心を抱いていた。
(4)綱は物を吊り下げる用具としてしばしば登場する。人間を持つ利下げら利する場面が数箇所で発見された。
(5)通商において綱は貴重な存在であり、豪華な服飾や布製品と並ぶくらいの貴重性が認められた。
(6)聖書を探したが「綱引き」は何処にも発見できなかった。掲句「綱引きに鉢巻強く締めなほす」は神事や仏事の宗教行事として生まれた。それが近代以降学校教育の運動会種目に採用された歴史がある。キリスト教文化圏でも綱引きが存在していたようである。物の本によれば紀元前2509年エジプトはサッカラ古墳の壁に綱引きが描写されていた。また紀元前500年頃にはギリシャで綱引きがスポーツ競技として存在していた。また、西欧圏では西暦1000年頃にスカンディナビアとプロシャの選手権大会が実施された記録がある。
(7)聖書には綱引きの戦いやスポーツの記述は一切無い。戦いはもっぱら血で血を洗う戦争だけであり。聖書は戦記物語であることが明白だ。それはサムエル記上17-49の「小石を石投げ紐を使って飛ばし、敵のぺリシテ人の額を撃った、石は額に食い込み彼はうつ伏せに倒れた」の例を取り上げるまでも無く描写が極めてリアルで血のにおいが漂うのが聖書の大きな特徴である。聖書の「石投げ紐」は聖書の戦争描写の陰惨さを教えてくれる。
                   (聖書に発見される「紐」の巻別分布表)
 聖書に見つけられる綱は42回という高い頻度だ発見されたが、「紐」は「綱」ほど高い頻度では発見出来なかった。6箇所しかなかった。聖書では綱が主役で紐は脇役であった。紐は旧約聖書だけに見つかった。それも5箇所の内の4箇所がサムエル記上に集中していた。
●サムエル記上には「紐」は4回発見できた。その箇所は以下である
・14-40には「滑らかな石を五つ選んで羊飼いの投石袋に入れた。そして、石投げ紐を手にしてぺリシテ人に向かっていった」とある。「石投げ紐」は武器であった。石投げ紐に石を装着して相手に向かって投げる武器だ。相手を倒すだけに威力があるので紐は綱より細いながらそれなりの強靭さを求められたのは明白だ。
・17-49には「小石を石投げ紐を使って飛ばし、敵のぺリシテ人の額を撃った、石は額に食い込み彼はうつ伏せに倒れた」とある。石は敵をうつ伏せに倒すほどの強力な弾丸だった。石投げ紐の威力を読者に見せ付けている。
・17-50には「ダビデは石投げ紐と小石でぺリシテ人に打ち勝ち、彼を撃ち殺した」とある。石投げ紐は殺傷能力のある凶器でもあり武器でもあった。
・25-29には「敵の命こそ石投げ紐で吹き飛ばされる」とある。ダビデの偉大さと強さを部下が讃えている場面である。武器は強力でなければ価値が無いことを物語っている。当時の石投げ紐は現代で言えば核兵器に当たる武器であったろう。
●には「紐」は1回発見できた。その箇所は以下である
・ヨブ記には「弓を射ても彼を追うことができない。石投げ紐の石も籾殻に変えてしまい」とある。籾殻は米の籾殻ではなく麦の籾殻である。石投げ紐で投げられても石には威力が無いことを物語っている。
●箴言には「紐」は1回発見できた。その箇所は以下である
・には「愚か者に名誉を与えるのは、それは石投げ紐に石を袋ごと番えるようなものだ」とある。愚か者に名誉を宛てえても意味が全く無い。それは武器にもならない石投げ紐であるのと同じだと比ゆ的に表現している。
                (聖書の中の「紐」の使用目的とその特徴)
(1)聖書の中の単語「紐」は「石投げ紐」にしか発見出来なかった。
(2)常葉隆興編著「聖書辞典」には566頁武器の項の中で「石投げ」と「石投げ機」に関して説明している。次のように説明している「『石投げ』はヘブライ語で「ケラ」。戦争用の武器としてだけではなく、牧童が羊を誘導する為にも利用していた。主として皮製だった」。また、その説明の傍に挿絵でも表現されていて、挿絵の場合は皮製と紐製の両者が描かれている。皮や紐を用いることで石の先進の勢いを付けて弾丸のようにして石を飛ばす。また、石投げ機も挿絵で描かれている。機は大きな台に固定され、踏み台に足で反動をつけながら踏みつけることで石を前方に飛ばす仕掛けになっている。当時の強力な武器であった。
(3)ミサイルは「石投げ」が語源である。昔も今も最新鋭の飛び道具だ。但し日本の武道では「飛び道具とは卑怯なり」として武士から蔑まれる対象となる。戦争には手段を選ぶのかそれとも選ばないのか。日本文化とキリスト教文化との落差があるのだろうか。戦争に関して、手段を選ばないことの良し悪しは議論はありそうだが、核兵器だけは議論の余地の無い世界になってもらいたい。人類が自らの手で自らの首を絞めるような行為であり言語道断である。人類は遺伝子にまで子々孫々に渡り傷つける核兵器の意味を考えるべきであろう。
(4)綱より紐は細いもので綱より脆弱なイメージがあるが強靭な武器に「石投げ紐」として利用していたことが判明した。
(5)服飾に紐を多用していたと考えられるが、理由は判明しないが聖書には服飾の紐としては一度も登場していなかった。服飾の腰紐などは余りにも当然であり聖書記者は書く必要性も感じなかったのであろう。

聖堂の詩その639―玉である宝石と擬宝珠、そして王座

2011-08-24 15:57:23 | Weblog
         玉入れの玉が飛交う青き空          紅日2004年12月号
 季語は結社によって異なる。[運動会」は秋の季語として殆どの俳句結社は認めているが、運動会の種目である綱引きや玉入れは季語として認める結社と認めない結社とがある。綱引きに関しては、全国で盆行事の中に盆綱引きがある。それが秋季運動会に取り入れられたこともあるり秋の季語として認められ始めたと推定される。結社によって季語として認めるのか認めないのか落差があるのは興味深い。
 例えば山口誓子主宰の俳句誌「天狼」では、俳句界では良く知られている季語「山笑う」などの自然を擬人化した季語は季語として認めていない。俳句作家が自然に対峙する時、自然認識に於いて厳密さに欠けることがあるのだろう。また作品に感動が薄れるからでもあろう。「玉いれ」は紅日句会では季語として認められている。掲句「玉入れの玉が飛交う青き空」は紅日句会俳句誌「紅日」に掲載されている。俳誌の主宰に選句していただいたうちの一句である。「玉入れ」は季語として認められている。私は運動会の青空の中で飛交う玉を描写することで秋の季節感を高めた。
 玉は球体のことである。聖書の中にこの球体を示す「玉」と言う単語がどれほどあるだろうか。玉に対する認識を日本人の目と聖書時代の人々の目とどのような落差や違いがあるのか聖書で調べてみた。日本語訳聖書の中の「玉」を認識するには、先ず日本語で使われている「玉」にはどのような「玉」が有るのか認識し、その上で日本語訳聖書の中の「玉」を比較しつつ考えるべきであろう。
 日本語の「玉」にはどのような意味があるのか、思い浮かぶ「玉」に関して日本語辞書などを引きながら列挙してみた。日本語の「玉」の意味は広範囲である。物理的な球体を意味する玉よりも他の玉の方が多い。
◎球体や円としての玉―パチンコ玉、ビー玉、一円玉、玉葱。また、この場合完全な球体ではなく算盤球など扁平球でも玉という。
◎玉を「ぎょく」と読む場合―宝石、玉霊、将棋の駒の玉、美しいや可愛らしいを意味する接頭語、天皇や皇帝の尊敬の為の接頭語(玉体や玉音)、商品俗称としての玉などが玉として列挙出来るであろう。玉には球体や円のほかには美しさや、可愛らしさ、優秀さ、そして権力の尊厳性や威厳性などの意味もある。さて、日本語訳聖書にはどの様な「玉」がみられるだろう。
                         (聖書の中の「玉」の巻別分布表)
●出エジプト記には「玉」は2回発見できた。その箇所は以下である。
・28-20には「玉」は「第四列藍玉、碧玉」とある。藍玉とはサファイアのこと。碧玉とはグリーンジャスパーのこと。両者とも宝石名称。アロンに着用させる胸当ての説明の一部。
・39-13には「玉」は28-20と同じ。
●民数記には「玉」は1回発見できた。その箇所は以下である。
・11-5には「玉」は「エジプトで食べた葱や玉葱や大蒜が忘れられない」とある。イスラエル人がエジプトを懐かしく思い出している一節。玉葱は聖書にこの一箇所でしか発見できない。英語では玉葱onionの語源は繋がり連結している意味がある。旧約聖書ヘブライ語では球体を意味しているかどうか不明。因みに日本では玉葱は18世紀に南蛮船で長崎に齎されたのが始まりで、本格栽培は明治17年頃から。「玉葱」の単語もそれ以降生まれた新しい日本語。葱の根が球体であることから「玉葱」と命名された。
●列王記上には「玉」は2回発見できた。その箇所は以下である。
・7-41には「玉」は「彼が作ったのは二本の柱。柱の頂にある柱頭の玉二つがある。」とある。柱の天辺に見られる球体物。その様な球体は日本でも見られる。寺院では回廊の欄干や階段の手摺に見られる。また、橋の欄干などにも目に付く。擬宝珠がそれである。擬宝珠は装飾を凝らしたものが多い。また多くは銅製であることから、柱に雨水などの浸透を予防し柱の腐食を抑止する目的もあったであろう。このような柱頭の建築装飾はもう一つの意味もある。それは、この擬宝珠は中国や朝鮮にも分布しており、仏教由来であるとの説もある。即ち、仏教の宝珠に由来していて、骨壷や舎利壷の形を模倣したもので。宝珠を擬似化したので擬宝珠と言われるようになった。そのほかにも玉葱由来など諸説ある。私は、中国敦厚にある莫高窟にも擬宝珠が幾つも発見出来た。敦煌はシルクロードの都市であり聖書地域と仏教地域との交流もあった。擬宝珠は聖書地域から仏教地域に入ったのか、それとも逆に仏教地域から聖書地域に入ったのかは定かではないが文化交流があったことは確実であり、擬宝珠はその交流の中で生まれた共通性ではないだろうか。
・7-42には「玉」は「柱頭の玉を覆う格子模様の浮き彫りのそれぞれに、二列に並べられていた」とある。分かりにくい翻訳である。読んでいる者に景色が見えない。私なら次のように翻訳するだろう。「柱頭の玉には此れを覆う格子模様の浮き彫りが施されていた。その様な柱頭が二列に立ち並んでいた」とすれば読者に景色を見せることが出来る。翻訳者は原典に忠実になるのも良いが、日本語訳聖書を読む人間は日本人であることを忘れてもらっては困る。原典に忠実であると同時に信徒や読者が理解の及ぶ表現にならなければならない。文章が長すぎることと句読点が適正でないことに問題がある。殊に一文章の中に多くのことを書き込もうとして何を言っているのかわからないケースが多い。聖書を読む日本人がその様な場面にしばしば遭遇するのは問題ではないか。奇怪な文章は伝道活動にも支障を来す。残念な現象である。
●歴代誌下には「玉」は2回発見できた。その箇所は以下である。
・4-12には「玉」は「彼が作ったのは、二本の柱、柱の頂にある柱頭の玉二つ、柱の頂にある柱頭の玉を覆う格子模様の浮彫り二つ」とある。がこれも妙な翻訳だ。「柱の頂にある柱頭の玉二つ」は可笑しいのではないか。「柱の頂」と柱頭とは意味が同じだ。何故同じ意味の言葉を重ねるのであろうか。私なら「彼が作ったものは、二本の柱とそれぞれの柱の天辺にある玉二つ」と翻訳するだろう。「柱の頂にある柱頭」は分かりにくい。何故このような翻訳になるのか不思議である。
・4-13には「玉」は「石榴の実四百、それぞれの石榴の実は、柱の頂にある柱頭の玉を覆う格子模様の浮彫りのそれぞれに二列に並べていた」とある。何を述べているのか私には全く分からなかった。残念である。翻訳者は分かっているのであるが、私には分からない。一晩何度も読み直したが結局分からなかった。聖書の文章が描く風景が見えてこないとは本当に悔しいものである。但し、格子模様を浮彫りにした擬宝珠に石榴がアクセントとして加えられえているのは朧に見えるのであるが、どの様に石榴が擬宝珠に彫られているのか分からない。浮彫りの格子模様にどの様に石榴が二列で彫刻されているのか、この翻訳文では見えてこなかった。
●ヨブ記には「玉」は3回発見できた。その箇所は以下である。
・6-6には「玉」は「味がないものに塩をつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか」とある。この場合の玉子は鶏卵の玉子。
・26-9には「玉」は「神はご自分の雲を広げて玉座を覆い隠される」とある。玉は玉座のタマ。
・28-17には「玉」は「金も宝玉も知恵には較べられない。純金の器すら是に値しない」とある。「宝玉」のタマで宝石のことである。
●箴言には「玉」は1回発見できた。その箇所は以下である。
・20-15には「玉」は「金もあり珠玉も多い。しかし、貴い物は知識ある者」とある。「珠玉」は「しゅぎょく」であり、宝石のこと。
●雅歌には「玉」は4回発見できた。その箇所は以下である。
・1-10には「玉」は「玉飾りをかけた首も愛らしい」とある。玉飾りは宝石を繋ぎ合わせた装身具のことであり、この場合の玉は宝石のこと。
・3-9には「玉」は「ソロモン王は銀の台座に金の玉座」とある。玉座とは最高権力者である君主や王の座のこと。玉は最高権力者のこと。因みに、漢字の国という文字は玉を囲い防御する形象文字。
・4-9には「玉」は「貴方のひと目も、首飾りの一つの玉も」とある。玉は真珠または宝石のこと。
・5-14には「玉」は「手はタルシシュの珠玉を嵌めた金の円筒」とある。タルシシュは地名。スペイン南部と比定されている。タルシシュには精錬と言ういう意味もある。珠玉は宝石でタルシシュ産の宝石をちりばめた金の腕輪のこと。
●エゼキエル書には「玉」は1回発見できた。その箇所は以下である。
・28-13には「玉」は「ルビー、黄玉、紫水晶」とある。黄玉はアルミとフッ素を含む珪酸塩鉱石で宝石として扱われている。トパーズのこと。
●マタイ伝には「玉」は2回発見できた。その箇所は以下である。
・5-34には「玉」は「神の玉座」とある。玉座とは最高権力者の座のこと
・23-22には「玉」は「神の玉座」とある。玉座とは最高権力者の座のこと
●ヘブライ人への手紙には「玉」は3回発見できた。その箇所は以下である。
・1-8には「玉」は「神よあなたの玉座は永遠に続き」とある。玉座とは最高権力者の座のこと
・8-1には「玉」は「天におられる大いなる方の玉座の右の座につき」とある。玉座とは最高権力者の座のこと
・12-2には「玉」は「イエスは十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とある。玉座とは最高権力者の座のこと
●黙示録には「玉」は20回発見できた。その箇所は以下である。
・1-4には「玉」は「玉座にの前に居られる七つの霊」とある。玉座とは最高権力者の座のこと。
・3-21には「玉」は「私の父と共にその玉座についた」とある。玉座とは最高権力者の座のこと。
・4-2には「玉」は「その玉座に座っておられた方がいた」とある。玉座とは最高権力者の座のこと。
・4-3には「玉」は「玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」とある。玉座とは最高権力者の座のこと。
・4-4には「玉」は「玉座の周りには二十四の座があって」とある。玉座とは最高権力者の座のこと。
・4-5には「玉」は「玉座からは、稲妻、様々な音、雷が起きた。また玉座の前には七つの灯が燃えていた」とある。この翻訳も句読点が分かりにくいし文章も明瞭ではない。「様々な音」判然としない。翻訳文は「玉座からは稲妻が光り雷が轟いた。また、玉座の前には七つの灯が燃えていた」と訂正すべきではないのか。「様々な音」が冗漫である。稲妻に人々が驚き、「人々のざわめきなら」その様に明記すべきだ。
・4-6には「玉」は「玉座の前は水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいた」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・4-9には「玉」は「玉座に座って折られて世々限りなく生きておられる方に」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・4-10には「玉」は「玉座に座っておられる方の右に」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・5-1には「玉」は「玉座に座っている方の右手に」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・5-6には「玉」は「玉座と四つの生き物」とある。玉座は最高権力者の座のこと
・5-7には「玉」は「玉座に座っている方の右手から」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・5-11には「玉」は「玉座と生き物と長老達との周りに多くの天使の声を聞いた」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・5-13には「玉」は「玉座に座っておられる方と羊とに賛美、誉れ、栄光、権力が世々限りなくあるように」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・6-16には「玉」は「玉座に座っておられる方の顔」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・7-9には「玉」は「玉座の前と子羊の前に立って」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・7-10には「玉」は「玉座に座っておられる私の神と」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・7-11には「玉」は「天使たちは皆、玉座、長老達、そして四つの生き物を囲み」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・7-15には「玉」は「玉座に座っている方がこの世に幕屋を張る」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
・7-17には「玉」は「玉座に居られる子羊が彼らの牧者となり」とある。玉座は最高権力者の座のこと。
                (聖書の中に発見できる「玉」に関する大きな特徴)
(1)幾何学はギリシャ時代からの古い学問。円や球体は幾何学において昔も今も完全性と永遠性が強調される。「円満」と言う日本語もそこに源があるのかどうかは不明であるが、日本語においても玉や円は最高権力や最高価値を意味する場合が多い。また其処に由来すると推定されるが単位としての玉や円が一般的である。ただしそれは日本語訳聖書の範囲の話である。聖書の原典ヘブライ語に於いては、幾何学においての接点は見られないことは無いが、その様な玉や円の意味の存在の有無は不明である。
(2)日本語訳聖書の中の「玉」に関しては宝石、擬宝珠、王座の意味で使われていることが殆どであった。
(3)「玉座」は旧約聖書にも発見できるが、新約の黙示録で最も高い頻度でありそれは20回にも及んだ。
(4)建築様式の中では「玉」は柱頭の描写において使われている言葉であった。それは列王記上のでの7-41、7―42で二度。歴代誌下での4-12、4―13の二度である。合計四度であるがその描写において、「玉」は日本にもシルクロードの都市敦煌にも見られる擬宝珠と酷似している。キリスト教圏と仏教圏との間でシルクロードを通じた交流を窺がわせる一現象として取り上げられるのではないだろうか。橋の欄干などに見られる擬宝珠はキリスト教文化圏の中でも聖書の中で認識される。

聖堂の詩その638―日暮

2011-08-20 21:04:00 | Weblog
           日が暮れて籾殻山の火が赤し     紅日2004年11月号
 日が暮れるは秋の季語と思いがちであるが、季語ではない。掲句の場合季語は籾殻。脱穀したあとの残滓物籾殻は稲刈りが終わった田に必ず見られる。刈田の隅など出来る籾殻山は秋の風物詩。籾殻は今は農村にしか見ることが出来ないが、昭和20年代から40年代の始めごろまでは籾殻は都会でも年中見ることが可能だった。都会生活でも籾殻はしばしば目にするものであった。その理由は籾殻は当時梱包材料として利用されていたからだ。鶏卵や林檎の輸送には籾殻は欠かすことが出来ない梱包材料だった。輸送中、鶏卵を割らないように、林檎が傷つかないように籾殻は多用された。使用後は風呂の焚口で燃やされたり、台所の竈で燃やされたりしていた。農村の稲刈りの脱穀時に産出される籾殻は梱包材料であり燃料でもある。今は籾殻は田圃の中で燃やされるだけであり梱包材料や燃料になる事はない。価格の低廉なダンボールや発泡スチロールやビニール製の梱包材料に切り替えられてしまった。
 家畜飼育をベースにする欧米の農牧業と異なり、日本の田圃に煙が上がるのは一年少なくともに二度ある。第一回目は野焼きの煙である。春先に田圃や畦を焼き尽くす野焼きは、害虫や害虫の卵を焼くことが目的である。もうひとつは農耕には作物の病気は必ず付きまとう。その作物に蔓延る病原菌を焼き殺す目的もある。田畑の草木を焼くことで雑草やその種を排除する目的もある。また、草木を焼くことでそれを灰にすれば、それがひとりでに肥料と成る。勿論田畑を焼くことで田畑は黒くなり、草木の黒く焼けた炭は太陽熱を吸収し作物の種の発芽を促すことにもなる。春先の野焼きの農耕上の効用は山ほどあり、農夫の欠かすことが出来ない農作業である。
 そして田畑から上る第二の煙はこの籾殻焼きである。稲刈りが終わると田の一隅に大きな籾殻山が出来ている。この籾殻を焼くことも野焼きと同様に田畑の肥沃化には欠かすことが出来ない農作業。農業は常に未来を見詰める労働。サービス業や工業と異なり、農業労働の成果はすぐには出てこない。少なくとも半年は待たねばその収益が手に入らない。農業は未来を見詰める労働である。収益を手に入れるためには多くの戦いが伴う厳しい労働でもあるが常に労働は未来に向けられているのが他の産業と大きな違いだ。籾殻山を何の目的があって農夫は焼こうとするのか。籾殻が廃棄物であるからではない。勿論廃棄物処理も目的ではあるが、それ以上に籾殻焼きには大切な目的がある。土地を酸性からアルカリ性に切り替えることが出来るのは野焼きとこの籾殻焼きである。
 耕作を重ねると土はひとりでに酸性化して耕作が困難に成る。それを防ぐ為の田畑の肥沃化が籾殻焼きの目的だ。田畑を酸性からアルカリ性にするには野焼きや石灰を散布したりするが、それだけでは不十分である。また費用がかかる貝殻や石灰散布は大きな経済的負担であり効率が良くない。日本の農村に少なくとも一年に二回煙が立つのはその様な農民の田畑の酸性化を抑止する為の原始時代からの知恵である。田畑で物を燃やすのは田畑を肥沃にすることであり、正月の左義長行事も田畑の肥沃化も目的であったのだろう。
 そのような農耕に対する人類の知恵は、原始時代からみられた。熱帯地方に残存する世界最古の農業形態である移動式焼畑農業がそれである。山火事の後は作物が生育し易いことを人類は原始時代から習得していた。その事実を知って、意識して野に火を放った。人類が火をコントロールし始めたのは食の安全化目的であったのか、暖や灯りを取る目的であったのか、それとも耕作を円滑にする為だったのかどれかであったろう。田畑を燃やす、それは人類にとっては極めて古い出来事だったのだろう。
 日本は瑞穂の国といわれるが、日が暮れるに連れて、籾殻焼きの山の赤くなる火に、日本の原始時代の火を見る思いがした。昼の籾殻山には煙しか見えなかったが日が暮れるとその籾殻山の一隅に真っ赤な火が漏れ見えた。籾殻山の内部に火が隠れていたのである。火山模型の断面を見ているような気持ちになる。暗くなることで火が顕在化した。原始時代の火も現代の火もその原型が籾殻山に見えた。火は原始と現代と一体化させる。それは原始的農業形態である移動式焼畑農業の名残を其処にみるからだろう。その様な火を煌々と赤く見せる「日暮」という言葉は聖書のどのような場所に発見できるだろうか。それは日本語訳聖書には「日暮」と「日が暮れる」の二通りの形で表現されていた。名詞形と動詞形での表現であったが、その意味は同じなので混同しつつ聖書の巻別順序で列挙してみた。聖書に「日が暮れる」を含めて「日暮」は全部で七箇所に発見できた。それは以下の箇所であった。
                     <聖書に見られる「日暮」の巻別分布表>
●ヨシュア記には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・2-5には「日が暮れて城門が閉まる頃、その人たちは出てゆきましたが、何処へ行ったのかわかりません。急いで追いかけたら追いつくかもしれません」とある。この文章からはいくつかのことが見える。
◎第一は当時は集落が城壁で囲まれていた。
◎第二は城門は日が暮れると鎖されて集落から出入りできなかった。
◎第三は日が暮れると城門を閉じる理由はいくつか考えられる。敵や野獣など外的から守る為。眠りを安全にするためなどが上げられるだろう。
◎第四は城門を閉じるのは、日暮でありそれは一日のけじめでもあったと推定される。
◎第五は城門から出れば一本道であったことが予想できる。「追いつくことが出来る」と言う下りから一本道であったことが推定出来る。
●ルツ記には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・2-17には「ルツはこうして日が暮れるまで畑で落穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は1エファ程にもなった」とある。この文章の下りから見えてくることは幾つかある。
◎第一は「日が暮れるまで労働につく」それはルツの落穂ひろいへの、懸命さや労働に対する真面目さをも表している。労働が終われば闇または暗い灯の下で生活しなければならないからである。
◎第二は律法には「落穂拾いは貧しい人のため残しておくべき労働であり地主は拾い集めてはならない」と言う律法があった。地主のボアズはルツの◎真面目な働きに感動し結婚することになる。その子供がエサイであり、エサイの子供がダビデ。
◎第三はルツが拾い集めた大麦は脱穀すると1エファにもなった。1エファは22リットルに匹敵する。石油ポリタンクは18リットルであるから、それよりも4リットル多い大麦を拾い集めた。それは大麦を脱穀した分量であるから落穂ひろいによる大収穫である。当時なら一人が一年間近く生きることが出来る分量ではなかっただろうか。一人が一年間生きる為に消費する主穀分量はその人の体重の半分が目安。
●箴言には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・7-9には「通りを過ぎて女の家の前に来ると、そちらに向かって歩いた。日暮時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって。見よ、女が彼を迎えている。遊女になりきった本心を見せない女が。」とある。若者と遊女の若者に対してみせる言動を描写している。「日暮時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって」は若者が得体の知れない遊女に吸い込まれてゆく様子を景色で描写している。薄闇の中に居ればよいのに真暗な夜半の闇に吸い込まれ消える様子を描写している。
●ダニエル書には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・8-14には「彼は続けた『日が暮れて、夜が明ける事二千三百回に及び、聖所は有るべき状態に戻る』」とある。神を冒涜し、神殿を汚す行為に対する罰は二千三百回の日没と夜明け、即ち二千三百日にも及ぶ。それが終われば聖所は元通りになる。二千三百日間のことを二千三百回の日没と夜明けであると表現していた。注すべき点は二千三百回の日暮れが先であり二千三百回の日の出が先ではないことだ。即ち一日の終わりと一日の始まりが日暮にあると言うことである。日本の場合は一日の始まりは夜明けであるが、旧約聖書の場合はそうではない。一日の境界の違いがある。一日の境界は聖書圏では夕、仏教圏では朝である。
●ルカ伝には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・4-40には「日が暮れると、病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人達をイエスの元へ連れてきた。イエスはその一人一人に手を置いて癒された」とある。この下りで注目すべき点が幾つかある。それは
◎第一に夜が開けると連れてきたのではない、日が暮れると連れてきたのである。一日の労働が終わり一日が終わらんとする頃に介護者が病人を連れてきた点である。それは一日の終わりに連れてきているのである。太陽の下での労働が終わり家に帰宅してから病人を連れてきている情景だ。病人の介護は労働の後でしかできなかった。一日の最後になってしまう病人への世話だ。
◎第二の注目点は現代社会から見れば驚く点がある。それは病人には介護者がいたということだ。現代社会には病人には介護者がいない独居老人が圧倒的多数である。今の日本の世帯数のうち三分の一が独居世帯である。若者高齢者を含めて世帯の数の三分の一は独居である。古代にはその様な実態は無かった。古代は家族の誰かが病人を介護していたことがこの一文から読み取ることが出来る。ある意味では古代のほうが先進的であったとも言える。一日の最後には病人を介護していたであろうことが読み取れる。
◎「イエスは手を置いて癒された」とあるが、手を置くだけでも癒されることがあり、医学的にも科学的にも問題の無い説明である。中国医学の触診や体のツボを手で押えることにより癒されることは世界で知られている。決してそれは「奇跡」ではない。古代医療行為の一つであったと考えられないことはない。
●使徒行伝には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・4-3には「二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」とある。これらの二人は民衆の前に立って復活をのべ伝えようとしているペテロとヨハネのことである。二人は投獄された。それは「既に日が暮れているからであった」とのべている。暗闇の中で何か起こされることを恐れたからであった。此処ではその様な意味での「日暮」である。この翻訳には無理があるのではなかろうか、それはキリスト教暦では今日と明日との境目は夕刻であるからだ。だとすれば「二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」は合理性に欠ける。ここは「二人を牢に朝まで入れておいた。既に日が暮れていたからである」としなければ、キリスト教暦と整合性が無い。
●エフェソ人への手紙には「日暮」は1回発見された。それは以下の箇所である。
・4-26には「怒ることはあっても罪を犯してはならない。日が暮れるまで怒ったままでいてはならない」とある。怒りは人間の罪ではないことになっている。しかし翌日まで怒りを持ち越さないように諭している。ここでも翌日のことを「日が暮らた後も」として「日暮」が一日の境界であることを明記している。
                     <聖書の中の「日暮」に関する大きな特徴>
(1)ヨシュア記2-5から読み取ることが出来るが、集落は城壁に囲まれていて、集落の出入り口である城門を閉ざすのは夕刻だった。夕刻は一日の終わりであり、始まりであることが城門の夕刻閉鎖により見えてくる。
(2)ルツ記2-17から見えることであるが、労働は日が暮れるまで続いた。当時は農耕地は城壁の外側にあり城門が鎖されるまで労働に従事していた。城門閉鎖が集落の門限でもあった。因みに、落穂拾いは畑主がしてはならないと律法で決められていた。小作人を殺してはならないという慣習法であったことが律法化されていたのであろう。
(3)箴言7-9から言えることは遊女との遊興は日暮以降であった。現代社会も同じであると推定出来る。
(4)ダニエル書8-14には2300日間のことを「2300回の朝夕の繰り返し」と述べている。2300日間を2300回の朝夕の繰り返しと表現していたのは一日の境界を強く意識していたからと推定出来る。朝夕を強調しつつ、2300日間を説明している。現代社会の一日とは一日に対する感覚が異なることに注意すべきではなかろうか。当時の人々の時間感覚を知る上で貴重な表現だと思う。
(5)ルカ伝4-40には現代社会と比較して幾つかの興味深い点がある。それは以下の点である。
◎第一は「日が暮れると、病気で苦しむ者を抱えている人が病人を連れてきた」とある。日が暮れるまで城壁の外で農作業に励んでいたことが推定される。明るい間の労働は場外の農場であった。
◎第二は日中は病人の介護に当ることが不可能だったと考えられる。なぜならば聖書には「日が暮れてから病人を連れてきた」とあるからだ。
◎第三は老人や病人の看病や介護は聖書の文面上から推定すれば家族が行っていた。この点が現代社会と大きく変化している。現代社会では病人は病院へ、高齢者は老人ホームに収容されるのが慣わしになっている。現代社会は核家族化が進んでいて家族が病人や高齢者の介護や看病をしない時代である。因みに日本政府の最近の調査によれば日本の全世帯数の三分の一は独居世帯であり、聖書に描かれているような実態は既に消滅している。家庭の子供に対する教育や養育機能はほぼ消滅している。また家庭の看病や看護機能もほぼ消滅している。それは家族社会が成長したのかそれとも退化後退したのか、また家庭機能が顕在化したのかそれとも消滅したのか、その判断は将来の社会学者や歴史学舎が判断するであろう。
◎第四はイエスキリストの病人に対する診断や医療行為は日没後であったから暗い灯りの下で行われたと言うことだ。当時の明かりは燈芯が麻布で燃料はオリーブオイルであった。灯りの原材料から判断してそれ程明るい明かりの下ではなかったと推定される。イエスの医療行為は手探りであったろう。
(6)エフェソ人への手紙4-29から読み取ることが出来る「夕暮」は、日が暮れるまで怒りを継続させるなと言う教えであり、それは日暮は一日のお終いであることから怒りを翌日に持ち越してはならないという教えでもあり、戒めでもある。心したいものである。
(7)掲句「日が暮れて籾殻山の火が赤し」の風景は日本が瑞穂の国であり稲作文化であることの賜物である。聖書地域で日暮に火を燃やすまたは火が見える農牧業風景は無い。聖書地域で既に展開していた有畜農業は人間が耕地を意識的にアルカリ性にしなくとも家畜の糞尿が耕地の酸性化を抑止し肥沃化していた。また、聖書地域は石灰岩質の土壌であり、元来アルカリ性成分を大量に含む土壌である。聖書には火事の風景が多いが野焼きや籾殻焼きは無い。日本と農業形態と根本的に異なるからである。聖書地域では耕地で火を燃やす必要がない。日暮でも火が見えない。

聖堂の詩その637―水の濁りと目の濁り

2011-08-17 10:58:18 | Weblog
          夕立が煙る琵琶湖の水濁る        紅日2007年10月
 夕立は夏の季語。夕立で琵琶湖の湖上は煙っていた。雨脚と湖面を叩きつける水飛沫で煙っていた。湖面そのものは真白になっていた。湖畔の湖水に目をやると何時もより濁っている。それを俳句にした。夕立の激しさが湖底の泥土を巻き上げている。それ程の激しい夕立だった。湖上は煙り、湖中は濁り、前が見えない琵琶湖だった。
 琵琶湖の水の汚れや濁りは時間によって大きな違いがある。場所によっても大きな違いがある。数mの違いで大きな汚れの違いが表れるものである。湖岸や琵琶湖に注ぐ108本の河川流域で田植え前の代掻きが始まると琵琶湖の汚れは一挙に進む。それは琵琶湖ではない。私は生徒達と一緒に愛媛県でメダカを使って水質調査をしたことがある。松山市の水源である「石手川水源保護地域」の石手川の四本の支流の水を毎週汲みに行きその水でめだかを飼育した。空き教室に四つの水槽を並べてメダカを飼育した。すると田植シーズンに入ると、どの河川から汲んで来た水でもメダカが次々と死亡するのである。代掻きをすることで水が汚れると同時に沈潜していた農薬などが河川水に混入するのだと推定されるが見事にどの水槽のメダカも次々死んでしまった。恐らく琵琶湖も同じであろう、汚れの原因は農作業に伴う汚濁である。湖水の汚濁は田植などの人為的原因だけではない。自然原因もある。梅雨や台風シーズンに入ると湖水を台風や梅雨が揺するので、湖底を掻き回して汚れもひどくなる。掲句の「夕立が煙る琵琶湖の水濁る」にあるように、夕立が湖底を掻き回し濁らせるのは湖畔で観察していると手に取るように見える。
 朝と夕との汚れの違いもある。これも人為的原因だと思われるが、夕方の方が汚れている場合が多い。私は大津市の十本余りの川の河口でCOD水質調査したことがある。夜は人間の活動が乏しいのが原因と考えられるが、朝河口で計測するとCOD値は低い。見た目でも分かるぐらい清浄だ。反対に夕の計測では朝より汚れていてCOD数値は大きくなっていた。人間はひとりひとりが、人に迷惑掛けていないと思っていても、それは錯覚であり、勝手に思っているだけで何らかの形で環境破壊に加担しているのだとつくづく思ったことだった。調査はもう、8年も前になるだろうか。データーは計測時間も正確に残している。書庫に仕舞いこんでいるので機会があれば探して取り出して此処で発表してみたい。
 琵琶湖の水深は湖北と湖南とでは違いが大きい。湖北と湖南との境界は琵琶湖大橋にある。楽器の琵琶の括れの部分だ。括れは野洲川デルタが琵琶湖に突き出て形成された。湖北の最深部は103mで竹生島と安曇川河口の中点にある。湖南の最深部は5mで琵琶湖大橋付近で野洲川デルタの河口沖合いに位置する。その深さの違いは20倍以上に達している。平均水深でも大きな違いがあって、湖北は40mであるのに対して湖南は4m前後しかない。4mなら私が教職時代に瀬戸内海で素もぐりしたことがある深さだ。それ程深く無い。湖北と湖南の水深の違いが大きい。湖北と湖南との湖水環境は全く異なる。その落差の大きさは琵琶湖の水泳場を巡った人々はよく知っていると思う。彼らは汚れの違いをよく知っている。時間の余裕があれば、湖南を避けて、大抵足を伸ばして湖北の水泳場を選ぶ。水の透明度が全く違う。昭和20年代ごろは琵琶湖大橋の袂に真野水泳場があった。あの頃は泳いでいて足の指先まで見えたものだった。隔世の感である。今はとてもそこで泳ぐことは出来ない。昔の琵琶湖には内湖が無数にありその内湖が琵琶湖の浄化作用をしていたのであろう。今は内湖は埋め立てられて琵琶湖の浄化能力は大いに低落してしまった。
 湖北と湖南とはその容積に大きな落差がある。湖南が浅くて容積が小さくて、しかも湖岸の人口密度が高く人文活動の活発な湖南地方の方が湖水は汚れやすいのははっきりしている。琵琶湖の清浄化は湖南で人々が快適に泳ぐことが可能なことにしなければ琵琶湖が清浄化したとはいえない。琵琶湖の清浄化は湖南の湖水環境改善が一つの指標になるだろう。人々に「湖北は勿論湖南でも琵琶湖は気持ち良く泳げるようになった」と言える時代が何時来るのだろうか。掲句「夕立が煙る琵琶湖の水濁る」のように夕立ぐらいでたちまち湖水が濁るようでは心もとない。
 日本語訳聖書にも「濁り」と言う文字が幾つか発見できる。それ程高い頻度で発見できるわけではないが幾つか目に付いた。日本語訳聖書には五箇所の「濁り」を発見できた。それは「水の濁り」だけではなく「目の濁り」などが含まれていた。水の汚れも聖書にはあるが、心理描写としての目もある。「目は心を表す」とも言われるが、聖書時代の人々も現代社会と同様に、目の様子や目の状態には気を配っていたことが読み取れそうだ。相手の人の心を目で読むことをしていたのであろう。それは現代社会と同じである。
 「目は心を表す」、そのことに関して、興味深い話がある。英語が堪能な人が外国へ行って外国人と良く話しているのであるが本人も相手の外国人も心が全く通じ合わなかったというのである。一方英会話が全く出来ない人が同時に外国旅行をして外国人とは言葉が通じないので手真似や仕草や目で意思を通じるようにしたらしい。この場合、英会話が出来ない日本人も相手の外国人も心が良く通じ合ったという笑い話のような本当の話がある。「目は言葉以上に物語る」と言われるが正に目の大切さを説明するお話である。目の大切さをこの話で納得できるのであるが。日本語訳聖書にも「目」が出て来る頻度が極めて高く976回と言う高い頻度で聖書に発見されて、聖書時代の人々の目に対する関心が極めて高かったことを物語る。
 もう少し突っ込んだ話がある。それは日本人視力障害者と外国人視力障害者との意思疎通は健常者以上に充実していたと言う話である。目よりももっと大切なのは相互の心であるということだ。相手を理解する心が最も大切だということだ。言葉は大切であるが、言葉より大切なのは目であり、目よりも大切なのは心であると言うことだ。日本の学校教育に於ける外国語教育の盲点は意外とこのあたりにあるのかもしれない。小学校から外国語を学んでいても相手を理解したいと言う欲望がなければオウムや九官鳥に言葉を教えているのと同じだ。小学校からやれば慣れるだろうが九官鳥並でありオウム並みである、それ以上でもなく以下でもない。慣れるだけだ。
 相手を理解しようとする心の中の願望の存在が外国語教育の第一条件だ。それには一定の発達段階が求められるのは当然である。それは相手の人柄や相手の国柄に敬意や憧憬がなくてはならない。自分から独立した対象の認識がなければならない。それを日本の外国語教育では無視しているのではないだろうか。いきなりI am a boyやThis is a penでは何がなにやら分からない。この人は目が見えないのかなと思うのがオチでしかない。しかも、外国人に対して心の中で「毛唐」と呼んだりして蔑視を抱く外国語教師どれほど日本に沢山居ても生徒の学力が伸びるはずがない。さて、日本語訳聖書の「濁り」に話を戻したい。何処に五箇所の「濁り」があるか、それを下記に取り上げてみた。
                      <聖書の中の「濁り」の巻別分布表>
●箴言では1回の「濁り」が発見できる。それは以下である。
・23-29には「濁り」に関して「不幸なものは誰か、嘆かわしき者は誰か、諍いの絶えぬ者は誰か、愚痴を言うものは誰か、理由もなく傷だらけに成っているものは誰か、濁った目をしているものはだれか」とある。この場合の濁った目は体や心が病んでいる者のことであろう。
●エゼキエル書では2回の「濁り」が発見できる。それは以下である。
・32-2には「濁り」に関して「お前は川の鰐のようだ。川の中で暴れまわり、足を水で搔き混ぜて流れを濁らせた」とある。鰐が暴れ周り川底の泥を掻き混ぜて水世汚している情景が良く見える。
・32-13には「濁り」に関して「私は全ての家畜を豊かな水のほとりに追いやる。人の足は最早水を汚さす家畜のひづめも是を汚さない」とある。川の安定を描写している。
●マタイ伝では1回の「濁り」が発見できる。それは以下である。
・6-23には「濁り」に関して「体の灯は目である、目が澄んでいれば全身は明るいが、目が濁っていれば全身が暗い。だから貴方の中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろうか」とある。イエスの教えの下りの一部である。目が澄み渡っていれば体も心も明るい、しかし目が濁っていれば体も心も暗いと教えている。目の大切さをここでも教え訴えている。
●ルカ伝では1回の「濁り」が発見できる。それは以下である。
・11-34には「濁り」に関して「貴方の体のともし火は目である。目が澄んでいれば、貴方の全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とある。目が体を現している。目が澄んでいれば体も明るいが濁っていれば体も暗いとのべている。聖書では目は心だけではなく体をも現すとしている。これはルカ伝のイエスが群集に向かって教えを説いている一説であり、教えの中でも大切な箇所である。イエスは目は心だけではなく体を表現していると教えている。目の大切さを訴えている。視力障害者を開眼させる奇跡もこうした背景があるものと考えられる。目は単に見えるための道具ではない、目は人格をも表すものであることをイエスは力説している。因みに「目の濁り」の反対である「目が澄む」は聖書には2回発見できる。それはマタイ伝6-22及びルカ伝11-34の二箇所であり、いずれも「目の濁り」と「目が澄む」を対峙比較する形で綴られている。旧約にはない目の捉え方が新約にはあることがわかった。
                       <聖書の中の「濁り」に関する特徴>
(1)聖書には二つの濁りがあった。第一の濁りは水の濁りであり搔き混ぜることによる物理的な濁りである。第二の濁りは、目の濁りであり、瞳の濁りである。目の濁りは肉体的または心理的な濁りでもある。
(2)聖書には五箇所の濁りが発見できるが、その内水の濁りは1回で、目の濁りは4回で、目の濁りの方が水の濁りより多かった。
(3)エゼキエル書32-2に出て来る濁りは水の濁りであるが、この場面はエジプトであり、ナイル川であると推定される。聖書に出て来る乏しい水の濁りの一箇所である。
(4)エゼキエル書32-13もエジプトナイル川の畔であると推定される。人々はナイル川の水を濁らないようにし取水していたであろうかとが伺える情景である。少しの水へのショックでナイル川は濁っていたことが見えてくる。
(5)旧約聖書には目が澄んでいることと目が濁っていることの対比比較が無いが、新約聖書には目が澄むことと目が濁ることの大きな落差を詳細に述べていて、イエスは目が澄んでいることの重要性を説いている。

聖堂の詩その636―晴天と晴着と

2011-08-08 05:27:28 | Weblog
         天高し清少納言も来し鞍馬      紅日2010年12月号
 今年の立秋は八月八日。既に秋だ。天高しは秋の季語。秋は空気が澄み渡り天が高く見える。秋は「天高く馬肥ゆる」季節。鞍馬寺から貴船にかけての山道は私の吟行地である。鞍馬は電車を下りると何時もその渓谷の狭さを感じる。ことに鞍馬の火祭は渓谷の狭小さを実感する。見物客で鞍馬街道は立錐の余地もない。鞍馬渓谷が狭いだけに、鞍馬の天の高さがひときわ目立つ。それは、天狗に剣術の修業を受けた牛若丸の空中に於ける飛翔を思わせる高さである。鞍馬寺の山門をくぐると直ぐ目の前に由岐神社が鎮座している。その由岐神社から山道は九十九折の急坂にさしかかる。地形図を読むと山頂までの比高は50m以上はある。今はケーブルで山頂駅まで数分の乗車で辿り着くが、歩けばなかなかの坂道である。鞍馬寺の除夜の鐘を突きに来たことがあるが、大晦日深夜はケーブルカーは運休で雪の石段で転倒したことがあった。清少納言も鞍馬山を訪れているが、彼女はこの九十九折に難儀している。そのことは「枕草子」第130段に認められている。
   第130段近くて遠きもの
 「近くて遠きもの宮のべの祭り。思わぬはらから、親族の仲。鞍馬の九十九折といふ道。師走のつごもり、正月のついたちのほど。」と述べている。現代訳をすれば次のようになるのであろうか。「近くて遠く感じるものは宮のべの祭り。情愛の無い兄弟姉妹や親戚関係。鞍馬の九十九折の坂道。12月30日と元旦との間である」となるだろうか。なるほど鞍馬の九十九折の坂は由岐神社から登ると本殿が近くに見え隠れするのになかなか本殿に到達しない長い坂である。
 清少納言は距離を人間関係や近隣の事柄そして地理的事象、時の流れの中で遠近を分析解明しようとしている。「近くて遠い」は物理的距離だけではない。彼女の言及は時間と距離そして人間関係にいたる心理的遠近にまで及び、広範囲にまで遠近の考察が及んでいる。現代社会の我々の感じ方と極めてよくにている点が興味深い。第30段の「近くて遠きものに」続いて第131段には「遠くて近きもの」に関しても述べている。極めて短い文章であるが、読んでいて清少納言は平安期の大文豪であるとつくづく感じる。彼女の思いの届く知性の広さと深さを感じる。紫式部の情念に走る文章と一味異なる。掲句「天高し清少納言も来し鞍馬」は清少納言の知性の深さ、鞍馬山の谷の深さ、そして秋天の青の深さをスケッチした。鞍馬山の谷の深さが秋天の青を深くしている。
 さて、聖書には晴渡った空をどのように描写し捉えているのであろうか日本語訳聖書の中の「晴」に拘りながら、聖書の中に「晴」の文字を一つずつ拾いながら、聖書の「晴」に考察を加えてみた。聖書にざっと目を通してみると晴れには三つの晴が存在していることに気がつく。
◎それは第一に気象現象の晴
◎第二に「晴と褻」の晴であり「晴着」の「晴」である。
◎第三はこれも「晴と褻」の「晴」と似ているが「心が晴れ晴れする」の「晴」である。
 聖書には気象現象の「晴」もあるがその数は乏しかった。気象の晴ではなく「晴着」の晴が多いのが目立つ。聖書時代にも日本の「晴と褻」の概念があったとは考えにくい。「晴」に対する「褻」の概念を明確化したのは民俗学者柳田国男であるから、聖書の中の「晴着」は抵抗のある言葉である。余所行き、礼服、式服、盛装などの他の言葉で翻訳すべきではないかと思うのだがどうだろうか。聖書の中の一つ一つの「晴着」を取り上げながら吟味してみたい。聖書には以上全部で三つの「晴」があった。気象の晴、晴着の晴、心が晴れるの晴の三つである。晴を三分割して調査してみた。
                   <聖書の中の気象としての「晴」の巻別分布表>
 気象現象としての、晴は驚くほど聖書の中にはその回数は少なかった。新約聖書のイエスキリスト言葉としてマタイ伝一箇所出て来るだけだった。聖書地域では降水が無い晴天が当たり前の現象である。晴れは特殊な気象ではない。そのことが「晴」という言葉が聖書に乏しい背景では無いだろうか。地中海沿岸地方では雨の日には「良い天気ですね」と人々が挨拶する地方があるといわれている。天気が良いのは必ずしも晴天とは限らない。そうした聖書地域の気象現象の特殊性が気象現象の「晴れる」という言葉を聖書の中に少なくしている原因ではないだろうか。聖書を読む時は日本の気象環境を頭に入れながら読むべきではない。日本との気候の違いを念頭に入れながら聖書を読み進めるべきだ。砂漠やステップの乾燥気候や地中海性気候を常に念頭に入れて読むべきだろう。
●マタイ伝16-2には次のように記している。「イエスはお答えになった。『あなた達は、夕方には夕焼けだから晴だ』という。朝には『朝焼けだから今日は嵐だ』という。あなた達は空模様を見て天気を見分けることを知っているのに、時代のしるしを見ることが出来ないのか」とある。この日本語翻訳にも大きいな問題がありそうだ。私なら「イエスは次のように答えられた。『あなた方は、夕方には夕焼けだから明日は晴だ』という。『朝焼けだから雲が低いから今日は嵐だ』という。あなた達は観天望気が出来るのに何故時代の変化を見ることが出来ないのか」と翻訳するだろう。
 日本語訳聖書のこの下りの第一の問題点は聖書の敬語や謙譲語の問題である。何にでも「御」を冠するのは読みにくいこともあるし、人を小馬鹿にして排除する場合がある。丁寧さは度を越せば嫌味になる。この場合は「御答えになられた」は現代社会においては問題を感じる。「御答え」ではなく「答えられた」で敬意を充分に払っている気がする。
 第二番目に気になる点は「『あなた達は、夕方には夕焼けだから晴だ』という」翻訳文だ。「夕焼けの翌日は晴」と良く言われている。ならば「夕方には夕焼けだから晴」としないで「夕方には夕焼けだから明日は晴」と日本語訳するほうが分かり易いのではないだろうか。原典は分からないのであるが「明日」を一言入れることで読者の理解が明瞭になる。聖書には気象現象の「晴」という言葉はこの一箇所しか見つけることは出来なかった。聖書の中では、気象の晴という言葉の希少性が確かめられた。
 因みに天気俚諺では「夕焼けは明日は晴、朝焼けは雨」と良く言われている。聖書由来も考えられるが、英国にもRed sky at night;shepherds deligt,Red sky in the morning;shepherds warning(夕焼けは羊飼いの喜び、朝焼けは羊飼いの警告)の天気俚諺がある。しかし俚諺がはずれることもある。夕焼けの質を見誤ると夕焼けでも翌日は雨になることがしばしばだ。全ての夕焼けが明日の晴を約束するわけではない。真っ青な空が赤く染まりゆく夕焼けは晴である。しかし、どす黒い夕焼けは低気圧接近の予兆で翌日は雨だ。天気は西から東に変わるのであり、夕方に西の空に雨雲などの暗雲が立ち込め、雲を赤黒く染める夕焼けの場合明日は雨。それは日本でも聖書地域でも同じ。水蒸気が少なく真っ青な空が次第に赤く染まり一番星が瞬くような美しい夕焼けは晴である。聖書は真っ青な空が赤く染まり行く美しい夕焼けを指摘しているのであり、水蒸気密度が高いどす黒い暗雲を太陽が照らす夕焼けではない。
 第三の気になる点は日本の気候と聖書地域の気候の大きな違いだ。この本文を読む限りはイエスが弟子に教えている場面は夕焼けを指差しているのであり、季節は夏だと思い込んでしまうことだ。日本では夕焼けに対する季節感は夏である。俳句でも夕焼けは夏の季語である。地中海地方の気候区はケッペンの気候区分に従えばCsで表示される。これは温帯であり、夏は極めて雨が少ない気候を示している。地中海性気候やステップ気候や砂漠気候の夏は猛烈な砂埃の季節だ。砂漠の砂が吹き続けて空は砂埃で暗くなる。日本の春先の霞や黄砂現象である。その様な季節には美しい青空が赤くなる夕焼けは見えない。聖書地域の気候区である地中海性気候Csや乾燥気候の砂漠気候BW・ステップ気候BSでは夕焼けは弱い雨の日が続く冬にしか我々は観察することが出来ないだろう。雨が砂塵の飛散を抑え空気が澄み渡っているのである。従ってイエスが「『あなた達は、夕方には夕焼けだから晴だ』という。朝には『朝焼けだから今日は嵐だ』という。あなた達は空模様を見て天気を見分けることを知っているのに、時代のしるしを見ることが出来ないのか」と弟子に叱責しつつ教え諭されたのは冬である。もう少し幅を広げて言えば晩秋から初春の可能性が高い。地中海性気候は、冬でなければ雨が降ったり嵐が吹いたりする恐れが無いからである。大西洋から湿った偏西風が太陽の回帰に伴い聖書地域に吹き込むからである。
                    <聖書の中の「晴着」の巻別分布表>
 日本語訳聖書には気象を表す晴は一箇所にしか見つからなかったが、晴着の晴はその数は圧倒的に多い。聖書時代の人々は服飾に神経を尖らせていた証しであろう。小学館の国語大辞典で晴に関する単語や熟語を拾ってみた。小学館の国語大辞典は全十巻に跨る大きな書物だが、この辞典のよい所は古文書からの引用が掲載されていることだ。言葉から時代を遡り当時の時代や世相や人々の思いが推定出来て史実を確かめることも出来る点にある。それを意識して晴関連の単語や熟語を取り上げてみたい。
○「晴れがましさ」は菊池寛著の「蘭学事始」にある。
○「晴着」は芭蕉の「奥の細道」の白川の関での句「卯の花をかざして関の晴着かな」がある。
○「晴衣」は浄瑠璃の「百合若大臣野守鏡」に出て来る。今織るはまた父の殿御はれぎぬ」とある。
○「晴際」は徳富濾過の「思い出の記」に出て来る。「晴際の小雨ひやりひやり顔を撲って」とある。
○「晴曇」は藤原基俊の作品で古今和歌集に出て来る。「晴曇り時雨は定めなき物をふりはてぬるはわが身なりけり」
○「晴褻」は名語記Ⅱに出て来る「はれけのけ、如何、けは褻れなり。天晴れて、きらきらしき日を、はれとなずく、晴也。」
○「晴装束」は浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」にある。「大名小名美麗を餝る晴装束」
○「晴らす」は源氏物語「浮舟」に出て来る。「かきくらしはせれぬみねのあまくもにうきてよをふる身をもなさはや」
○「晴れて」は、わだかまりがなくなる意。内田魯庵の「社会百面相」に出て来る。「所詮晴れて世の中に出られない運命」
○「晴れ晴れ」は尾崎紅葉の「多情多恨」に出て来る。「晴れ晴れした霜日和」
○「晴振る舞い」は「源平盛衰記」に出て来る。「弓矢取身の晴ぶるまい。戦場に過ぎたる事候まじ」
○「晴間」は「源氏物語」の「松風」に出て来る。「心の闇、晴間無く」
○「晴まじらい」は晴の場での交際のことをを言うが、源氏物語の「紅梅」に出て来る。晴まじらいし給はん女などは」
○「晴れやか」は夏目瀬石の「虞美人草」にでてくる。「晴れやかに練り行く」
○「晴業」は晴の仕事のことで、浄瑠璃の「用明天皇職人鑑」に出て来る。「晴業の勝負にや」
○「晴れ渡る」は一点の曇りもなく隅々まで晴れることで、続古事談Ⅱに出て来る。「雑色のこわき装束して晴れ渡るを」
 晴関連の単語は潤沢で幅が広い。晴れは古代から使われてきた言葉であり源氏物語に頻出している。しかし、多くは天候の晴ではなく、公式の場や正式のという意味で多用されているのが特徴的である。また、「晴着」の単語は松尾芭蕉の「奥の細道」に既に出て来ているので、日本語では少なくとも近世以降使われていた単語である事は明白だ。
 さて、日本での現代社会での「晴着」の言葉に対する感じ方はどうだろうか。それは、民俗学者柳田国男が民俗学から概念を明瞭にした「晴と褻」の対立対峙の概念での「晴」に拘るのでは無いだろうか。民俗学者柳田国男は明治8年(1875)~昭和37年(1962)の詩人であり民俗学者であるが、昨今の高校の「現代社会」の教科書の中で彼の「晴と褻」を詳細に説明している。現代人が「晴」を耳にすれば柳田国男の言う正式や公式に心が惹かれるであろう。そうすれば、今の人々の「晴着」という言葉に対しての「晴」の意識は低く、「晴着」といえば「正式服装」のイメージが強い。「晴れ晴れとした気持ち」の「晴」ではなく、「恨みを晴らす」の「晴」ではなく、柳田国男の晴である正式の晴、公式の場での晴に心に我々の心がが傾くのではないだろうか。だとすれば聖書の日本語訳としては「晴着」ではなくて、「正装」や「式服」の方が現代日本人の頭の中に素直に入るのではないか。聖書には押並べて全て「晴着」と翻訳しているのであるが「正装」や「式服」として翻訳したほうが分かり易い場面が幾つか見られた。
 聖書の中の「晴着」は機械的翻訳の感を否めないことはない。聖書の「晴着」の全てを此処に列挙するので読者の皆様方が「晴着」を「正装」や「式服」や「余所行き」や「正装」や「官位就任正装」や「羽織袴」などに置き換えつつそれぞれを吟味して読んでいただければ良いのではないかと思う。文脈がもっと引き立ち文章に明瞭なメリハリが付くこともあるに違いない。「聖書は心である」と司祭はしばしば口にされるのであり、慎重に吟味したいものである。聖書には12回の「晴着」があった。気象の「晴」は一回しかなかったのに較べてその回数が多い。
●創世記には「晴着」が5回発見できる。それは以下である。
・27-5には「リベカは、家に仕舞っておいた上の息子の晴着を取り出して、下の息子のヤコブに着せ」とある。この場合は「晴着」は「余所行き」でも通じる。
・37-3には「ヨセフは年寄りっ子であったので、どの息子より可愛がり、彼には裾の長い晴着を作ってやった」とある。
・37-23には「ヨセフが来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴着を剥ぎ取った」とある。この翻訳は「ヨセフが来ると、兄たちはヨセフが着ていた裾の長い晴着を剥ぎ取った」とするほうが分かり易いのではないか。何の目的があり「ヨセフが着ていた着物、裾の長い晴着」として句点で文章をきるのか意味が分からない。聖書には理解しがたき句読点が打たれている箇所が沢山ある。原書に忠実なのかも知れないが読む人間は日本人である。日本語として適正な句読点を打つべきだと思う。翻訳者は原書に甘えがあってはならないと思う。日本人が読む日本語へと翻訳するのが大切ではないのだろうか。
・37-32には「彼らは裾の長い晴着を父の元へ送り届けた」とある。
・45-22には「全員に晴着を与えた」とある。
●詩篇には「晴着」が1回発見できる。それは以下である。
・45-14には「王妃は栄光の輝き、進み入る晴着は金糸の織り」とある。この翻訳は「王妃は栄光に輝き進み入られた。正装は金の糸で織られ輝いていた」とすればどうだろうか。王妃となる戴冠式であるから晴着ではなく「正装」が相応しいと私は考える。「晴着」は「晴と褻」の対立概念が邪魔をしている気がしないでもない。
●イザヤ書には「晴着」が3回発見できる。それは以下である。
・3-22には「主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、脛飾り、飾り帯、匂い袋、お守り、指輪、鼻輪、晴着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストールなど」とある。鼻輪を除いて、現代社会と共通するものが随分多い点が興味深い。
・3-24には「晴着は粗布に変わる」とある。
・61-10には「主は救いの衣を私に着せて恵みの晴着を着せて下さる」とある。この場合の「晴着」は最も適切な翻訳だと思った、
●エレミヤ書には「晴着」が1回発見できる。それは以下である。
・2-32には「花嫁が晴着の帯を忘れるだろうか」とある。「花嫁の晴着」でも良いが、日本語には「花嫁衣裳」と言う美しい言葉がある。「花嫁が花嫁衣裳の帯を忘れるだろうか」の方が自然ではないか。
●ゼカリヤ書には「晴着」が2回発見できる。それは以下である。
・3-4には「御使いはヨシュアに言った。『私はお前の罪を取り去った。晴着を着せてもらいなさい』」とある。
・3-5には「彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴着を着せた」とある。
●ユディト記には「晴着」が1回発見できる。それは以下である。
・10-3には「夫マナセが生きていた時に着ていた晴着を纏った」とある。
                  <聖書の中の「心が晴れる」等心理的な「晴」の巻別分布表>
 ここまでは、日本語訳聖書の中の気象の「晴」、「晴と褻」の「晴着」を見てきたが、他にも日本語訳聖書には「晴」があった。それは「晴れ晴れする」などの心理的な「晴」である。心が重荷からから解放され、心が軽くなる心理的な「晴」である。日本語訳聖書には心理的な「晴」は全部で四箇所発見できた。それ程数は多くは無い。それは次の箇所である。因みに、{天晴れ(あっぱれ)」は聖書には発見できなかった。
●列王記上には心理的な「晴」は1回発見できる。それは以下である。
・8-66には「主は全ての恵みを喜び祝い、心晴れやかに自分の天幕へと帰っていった」とある。
●歴代誌下には心理的な「晴」は1回発見できる。それは以下である。
・7-10には「主は全ての恵みを喜び祝い、心晴れやかであった」とある。
●ヨブ記には心理的な「晴」は1回発見できる。それは以下である。
・には「その時こそ貴方は晴れ晴れと顔を上げて、動ずることは無く、恐怖を抱くこともない」とある。
●イザヤ書には心理的な「晴」は1回発見できる。それは以下である。
・60-5には「貴方は畏れつつも喜びに輝き、慄きつつも心は晴れやかになる」とある。
                 <日本語訳聖書に発見される「晴」の主な特徴>
(1)日本語訳聖書には全部で17回の「晴」の文字が発見できた。日本語訳聖書の中ではそれほど数の多い文字ではない。
(2)聖書には「天高し清少納言も来し鞍馬」のように秋の抜けるような透明な天を表現する「晴」は発見できなかった。聖書の於ける気象の「晴」はマタイ伝にしか発見できない。聖書地域の晴に関しては次の点が指摘できる。
①気象の晴はキリストが弟子に教えを授ける場面でマタイ伝16-2である。この場面以外に聖書には気象の「晴」は無い。
②この場面には「夕方で夕焼けだから明日は晴れる」とあるが、季節は冬を中心にして晩秋から初春であると推定出来る。それは夕焼けは聖書地域では夏の夕焼けは遭遇しにくいからである。また同じ箇所に「朝焼けは雨」とあり、聖書地域での降水季節は冬が中心であり、晩秋から初春での多いからである。
(3)聖書には気象の「晴」を表す箇所が1箇所にだけ発見できた。聖書のほかの晴は「晴着」が十二回の高い頻度で発見。精神的な「心が晴れる」の「晴」は四回の頻度だった。聖書の晴は気象や心理の晴ではなく「晴と褻」の「晴着」が支配的であった。
(4)日本でも「晴着」は松尾芭蕉の白川の関での句「卯の花をかざして関の晴着かな」にもある。少なくとも近世から「晴着」の言葉を高い頻度で日本では使っていた。しかし、「晴着」の現代日本での感じ方は「晴と褻」の概念で捉えがちなので、聖書には他の言葉で翻訳したほうがイメージが明瞭に成る場合もある。「正装」や「花嫁衣裳」と翻訳したほうが読者発するイメージがより明瞭化する場合があった。
(5)晴着をはじめとして人間が身につけ着飾るものが現代社会と非常に近いことが聖書で判明した。鼻輪は現代社会には無いが他の装飾具は今の時代と酷似している事が分かった。イザヤ書3-22には次のように述べている。「主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、脛飾り、飾り帯、匂い袋、お守り、指輪、鼻輪、晴着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストールなど」とある。

聖堂の詩その635―文字

2011-08-05 17:31:43 | Weblog
        哲学の道にて仰ぐ大文字        紅日2010年11月号
 八月に入れば直ぐに立秋だ。八月七日が立秋。今日が三日だから後四日で立秋になると思っただけでも心がそわそわする。熱い熱いと言いながらも八月に入ると時折吹く風が涼しくなる。吐息が出るほどの気持ちの良い爽やかな風が体を包む瞬間がある。夏が大好きな人もいるが私は苦手だ。八月に入ると体の力が抜けるほどほっとする。
 琵琶湖疏水沿いの細道を「哲学の道」と呼んでいる。南禅寺から銀閣寺にいたる琵琶湖疏水沿いの石畳の細道のことである。何時頃から「哲学の道」と呼ぶようになったのか知らないが、昔は「思索の道」と呼ばれていたことを覚えている。私が大学生だった昭和40年代には未だ「哲学の道」と呼んでいなかったような気がする。勿論、この思索の道または哲学の道は哲学者西田幾多郎が思索した道に因んで命名された。京都大学で教鞭を取ったのは明治43年(1910)から昭和3年(1928)までだった。大正時代の京大の教員だった。大正時代にこの道を思索して歩いたのであろう。何時だったか西田幾多郎の大正時代の住居を探そうとして沿道の住民に尋ねながら歩いたことがあったが結局発見できなかった。
 「哲学の道」であるから私には分からなかった方が良いのかもしれない。石川県の生家は石川県河北市宇ノ気町森であり、はっきりしているが京都大学で教鞭を取った頃の住居は近隣の方々に聞きながら探したが定かではなかった。「哲学の道」は桜の並木道でもあるので場所を選ばなければならないが、その真上には大文字山の大の字が迫って見える。掲句「哲学の道にて仰ぐ大文字」真っ赤に燃え盛る大の字を仰ぎながら生まれた作品。西田幾多郎も仰ぎ見たであろう。大文字の大の交点には弘法大師を祀る祠がある、弘法大師、即ち四国遍路の空海を祀っていることになる。そうすると、送り火は真言宗行事ということになる。西田幾多郎は1897年に出家して禅宗僧になった。宗派はまったく異なる禅宗だ。禅僧の「哲学の道」から真言宗の大文字を仰ぎ見るのは何とも奇妙な気持ちになる。
 哲学の道の傍の法然院近くには西田幾多郎が詠んだ歌碑が立っている。其処には「人は人、吾はわれ也とにかく吾行く道を吾は行くなり」と彫られている。哲学者らしく分かりにくい歌である。分かりにくいだけあって彼の人生は波乱に富んでいて離婚と再婚を何度も繰返している。私が住居を探しても分からなかった理由はそんな所にあるのかもしれない。「絶対矛盾の自己同一」を言わしめた禅宗とは本当に分からない。また、この分かりにくさの象徴としての西田哲学が京都大学の青年達を太平洋戦争の特攻隊に駆り立てたとの話も巷に囁かれたこともあった。確かに青年の戦意を鼓舞したであろう大きな御影石の国旗掲揚台は哲学の道界隈に目に付く。交番所傍に一箇所、土産物屋が立ち並ぶ銀閣寺参道中程に一箇所、そして大文字の大の字の交点の弘法大師祠の隣に一箇所、合計三箇所もある。
 バクダッド空爆開始の時にブッシュ大統領は「神の御名により空爆開始」と叫んだ。叫びと同時に駆逐艦からミサイルが真っ赤な火を噴き打ち上げられた。テレビ映像に彼の顔が大写しされ、スピーカーを通じて彼の雄叫びが我々の耳に飛び込んだ。掲句「哲学の道にて仰ぐ大文字」は宗教は何故対立しあうのだろうという素朴な疑問を抱きながら生まれた作品でもあった。私のような脳細胞が単純な人間には宗教戦争が本当に分からない。人命を最も大切にすべく宗教が好戦的になる理屈が分からない。イエスキリストの教えには全くそのようなことを述べていないのであるが、宗教の排他性と絶対性が戦争に駆り立てるのであろうか。いずれにしろ、この戦争はユダヤ・キリスト教連合とイスラム教と激突する宗教戦争であることをブッシュ大統領のバクダッド空爆宣言で私は確信出来た。この戦争は泥沼化し数百年継続することは確実だ。そして当事者国や同盟国の経済は十字軍遠征時代と同じようにボロボロになる。戦争当事者国と同盟国の国民生活は破綻するのは間違いないと私は直感した。21世紀の十字軍戦争だとわ直感した。
 バクダッド空爆の直後だったと思うが、ブッシュ大統領自身が「この戦争は第10回十字軍遠征である」と明言した。私もバクダッド空爆やその後の各国で続く戦争も宗教戦争だと確信している。「テロとの戦い」は国民に戦争を正当化させる一つのフレーズであり実質的には宗教戦争なのだと確信した。残念ながらその頃の私の直感と確信が的を得ているようだ。予想通り戦争は長引いた。宗教戦争は無限に続くのが普通である。宗教戦争は当事者国もその同盟国も次々と国家財政が破綻し始めるのが必然である。国民に平等に等しく消費税を課しても、消費税率を如何に高く引き上げても、戦費はそれでは間に合わなくなりギリシャは遂に財政が破綻した。また、アメリカは勿論、多くのEU諸国が財政破綻に直面して国民は塗炭の苦しみに喘いでいる。米軍兵士にも給与が遅配欠配される有様だと報じられていた。
 近い将来日本でも更に失業者は激増し、国民生活は今よりもっともっと厳しくなるのは覚悟しなければなるまい。先は見えているのだが日々営々と生きる他にはどうにもならない。宗教戦争は誰もが止めることが出来ない。西田幾多郎が晩年叫んだ「絶対矛盾の自己同一」はこのことなのかも知れない。西田幾多郎が「絶対矛盾の自己同一」を叫んだ時も世界大恐慌が始まる頃であり今の時代と酷似している。大文字の大の交点は真言宗であり、哲学の道は禅宗である。その二つの関係は私にとっては宗教戦争でもあった。赤々と燃え盛る大文字の火はテレビで放映されたバクダッド空爆時の燃え上がる炎に見えた。
 大文字焼きの大の字の大は象形文字であり人間が立ちながら両手両足を広げた姿を表しているのであるが、古代人は人の姿を描いた絵画を基にしながら人の姿で大きいことの意味を持たせた。大小は対峙語だた、大の反対小は指示文字であり小さな三点から生まれた文字と全くその起源を異にしている。ネオンの無い時代に、人間の姿をしている文字を火を燃やしながら形作る。そして遠方で眺める人に燃やす人々の気持ちを伝えるという発想は当時としては極めて斬新であったに違いない。
 人類にとっては文字の発明は画期的だった。元来は絵画であったが、それを抽象観念化させ文字へと発展させた人類は自分の知識と心を時間と空間を超越して伝えることが可能にした。人類史から見ればIT技術の進歩よりも文字の発明の方が遥かに大きく文化や文明を大きく変化させた。自分の心を文字化して永遠に時間を超越して伝えることが文字では可能である。また、自分の心を自分が行動したことも無い地域にまで空間を超越して文字では伝達することが可能である。頭脳から生まれた知識や心が時間と空間を超えて伝えることが可能な文字の発明は地球上の人類生活を一変させた。文字の発明は人類史上での大きなターニングポイントであった。IT技術とは比べ物にならないほどの人類文明の飛躍的発達を促した道具の一つであったことは明白だ。
 我々人類が目前にしている聖書の存在は人類が発明した文字があるからこそ可能である。文字が無ければ現在聖書を手にすることが出来ないし聖書に接することも不可能だ。文字の有難さをつくづく感じなければならないと思う。それだけに言葉の大切さと翻訳作業の大切さを深く感じる。その聖書の中では「文字」という単語はどのような場面で出て来て聖書時代の人々は文字をどのように扱いそして感じていたのか興味深いことである。それを聖書の中の「文字」という単語を拾いつつ考察を加えてみたいと思う。さすがに聖書時代の人々は文字への拘りが強かったらしく聖書には20回「文字」という単語を発見できた。聖書に出て来る単語の中では比較的高い頻度ではなかろうか。巻別での分布表は下記である。
●出エジプト記では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・32-15では「文字」を「モーセには二枚の掟の板が彼の手元にあり、板には文字が書かれていた」と描写している。当時は文字を認める対象物は洞窟の壁面や粘土板や板やパピルスに限定されていた。紙の無い時代である。
●エズラ記では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・4-7では「文字」を「ビシュラム、ミトレダト、タベエル及びその仲間はペルシャ王アルタクセルクセスに手紙を送った。その文書はアラム語で書かれていた」と描写している。アラム語はセム語に属した言語でシリアやメソポタミアで話されていた。手紙は当時既に日常的に交わされていた。聖書には87回もの「手紙」が発見出来た。(注1)勿論、パピルスに書かれた手紙である。粘土板や板では書簡の輸送コストが大きい。(注2)
●エステル記では3回の「文字」が発見された。それは以下である。
・1-22では「文字」を「王は全ての州に勅書を送った。それは州ごとに州の文字で、また民族語とにその民族の言語で書いた」と描写している。州ごとに文字が異なっていたまた民族ごとにも言葉が違っていた。現代よりも文字の違いが大きく言葉の違いも大きかった。それは一権力の統治の難しさをもその裏側で物語っている。
・3-12では「文字」を「王の書記官が招集され各州長各族長に宛ててハマンの命ずるままに勅書が書き綴られた。それは州ごとに州の文字を、部族ごとに部族の言葉で書き記された」と描写している。王専属の書記官が配属されていた。書記官は王の言葉に従いしたため記録し文書を作成した。文字の近い言語の違いで何人もの書記官が配属されていたことが読み取ることができる。州ごとに文字が異なった、部族ごとに言語も異なった。
・8-9では「文字」を「王の書記官が召集された。インドからクシュまで127州にいるユダヤ人と総監、地方長官、諸州の高官たちに対してモルデカイの命ずるままに文書が作成された。それは各州ごとに州の文字で、各部族ごとに部族の言葉で認められた」と描写している。
●エゼキエル記では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・2-10では「文字」を「彼が巻物を私の前で広げると表にも裏にも文字が書かれてあった。それは哀歌と呻きと嘆きの言葉であった」と描写している。巻物の裏にも表にも文字が書かれていた。この時代にはまだ紙が無くパピルスの時代であるが、パピルスの貴重性が見えるくだりである。パピルスが貴重であるからこそ裏にも表にも文字が記されていたと推定される。
●ダニエル記では6回の「文字」が発見された。それは以下である。
・5-5では「文字」を「その時、手の指が現れ灯に照らされた王宮の壁に文字を書き始めた。王は書き進める指先を見詰めた」と描写している。王も知者もこの文字を読めなかった。読もうとして理解することを真剣に求めた姿があった。しかし、王や識者でも文字が読めなかった。識字率の低い時代であったことを窺い知ることが出来る。
・5-15では「文字」を「賢者や祈祷師を連れてきて是を読ませようとして、解釈させようとした。しかし、彼らには出来なかった」と描写している。文字を書いた人間の意志は明瞭に存在しているのであるが、それを読む力が無く途方にくれている。現代社会では考古学や歴史学の専門家にはこのような場面に遭遇するが、権力者に読めない苦しみは無い。権力者が読めないことの苦悩を描写している。言語や文字が多い時代である。このような事態はしばしば有った事であろう。
・5-16では「文字」を「お前には解釈したり難問を解く力があると聞いた。若しこの文字を読み意味を教えてくれたら、お前に紫の着物を着せよう。そして、金の鎖を首にかけて、王国を支配する第三の地位を与えよう」と描写している。権力者の文字へのこだわり解明への必至な努力が見える場面である。
・5-17では「文字」を「ダニエルは王に答えた『褒美などは要りません。報酬は誰か他の者に与えてください。しかし私はその文字を読んで解釈はいたします』」と描写している。ダニエルの多才さと賢明さ、そして謙虚さを描写している。
・5-24では「文字」を「その為に神は、あの手を遣わし文字を書かせたのです」と描写している。
・5-25では「文字」を「さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そしてパルシン。」と描写している。
●マタイ伝では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・5-18では「文字」を「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消えることは無い」と描写している。この下りは、キリスト教が布教された後でも旧約聖書の重要性を主張している。この翻訳に無理を感じるのは私だけだろうか。キリスト教は「みことばの宗教」と主張する司祭が多い。だとすればこの日本語訳の「一点一画」には無理がある。「一点一画」は漢字の点や画を示すのであり、読者の頭に過るの形象文字を初めとした漢字である。律法の原典は漢字で書かれていない。此処での翻訳の場合「一点一画」ではなく「一文字も」とすべきではないか。「律法の文字から一つの文字も消えることは無い」とすべきではないのか。言葉は正しく使われるべきである。
●ルカ伝では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・16-17では「文字」を「律法の文字の一画がなくなるより、天地がうせるほうが易しい」と描写している。この翻訳も無理を感じる。「律法の一文字がなくなるより」と翻訳するのが適切ではないのか。「一画」は日本人の場合誰もが漢字をイメージしてしまい、原典への距離が遠ざかる。なお、この文章の中の「律法」とはモーセ五書のことである。それは創世記、民数記、レビ記、申命記の五書のことを指す。
●ローマ人への手紙では3回の「文字」が発見された。それは以下である。
・2-27では「文字」を「体に割礼を受けなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。貴方は律法の文字を所有し、割礼を受けていながら律法を破っているのですから」と描写している。「律法の文字を所有する」とは律法を守ろうとしていることを意味するのであろう。この場合の文字は遵守精神のこと。
・2-29では「文字」を「内心がユダヤ人である者こそがユダヤ人であり、文字によってではなく「霊」によって心に施された割礼こそが割礼である。その誉れは人からではなく神から受ける。」と描写している。
・7-6では「文字」を「私達は、自分を縛っていた律法に対して死んだものとなり、律法から解放されています。その結果文字に従う古い生き方ではなく「霊」に従う新しい生き方で仕えようとしている」と描写している。律法に従うことを「文字に従う」と表現している。文字は消えてなくならないと述べているのであり、そのことに補完的説明を加えている。律法に関しては、形式ではなく霊において従うことを説明している。
●コリント人への手紙Ⅱでは2回の「文字」が発見された。それは以下である。
・3-6では「文字」を「神は私達に契約に仕える資格、それは文字ではなく霊に仕える資格を与えてくれた文字は殺しますが、霊は生かします」と描写している。此処では「律法」のことを「文字」といっている。
・3-7では「文字」を「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセに顔に輝いていた」と描写している。
●マカバイ記Ⅰでは1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・14-26では「文字」を「『彼と彼の兄弟たち、また一族は、結束してイスラエルの敵と戦った。彼らはイスラエルに自由を打ち立てた』と書いた文字を銅版に文字を刻んで是を石碑にはめ込みシオンの丘に立てた」と描写している。
●シラ書では1回の「文字」が発見された。それは以下である。
・45-11では「文字」を「『彼と彼の兄弟たち、また一族は、結束してイスラエルの敵と戦った。彼らはイスラエルに自由を打ち立てた』と書いた文字を銅版に文字を刻んで是を石碑にはめ込みシオンの丘に立てた」と描写している。

          <聖書時代の人々の文字に対する感じ方や認識をしていたか。また扱い方にどのような特徴があったか>
 聖書を通じて聖書時代の人々は文字をどのように感じたり認識したりしていたのか。また、文字をどのように扱ったのか、それを聖書の「文字」を本文から拾いつつ吟味しながら明らかにしてみた。以下のような特徴があることが判明した。それを列挙してみた。
(1)出エジプト記32-15聖書には文字を板に書いていた場面がある。多くの場合はパピルスであったと推定される。紙が聖書地域に入ったのはずっと遅れてからのことでAD.751年のタラス河畔の戦い以降のこと。
(2)エステル記1-22によれば文字は州ごとに異なる文字を使っていた。また言語も部族ごとにその違いがあった。地形の険しさが文字の違いや言語の違いを齎した。地形の険しさは交通の妨げとなり文化交流の障害となった。
(3)エステル記3-21によれば王は領地に書簡を送るとき多くの書記官に手紙を書かせた。領地内には多くの文字の違う地域と言語の違う地域を擁するからであった。
(4)エゼキエル書2-10によれば巻物の裏表に文字が記されていた。パピルスの希少性を物語っていると推定される。
(5)ダニエル書には支配者が文字を読めない苦悩が描かれている。それは当時の識字率の低さをも物語っている。読み解くことが出来るものに対しては褒賞が与えられた。
(6)マタイ伝にもルカ伝にも律法は消滅しないと力説している。律法とは旧約聖書のモーセ五書のことであるが、モーセ五書は消滅することがないと力説している。
(7)マタイ伝やルカ伝では「文字」を比喩的に表現している。旧約聖書の律法が消えないことを「文字は消えない」としている。
(8)コリント人への手紙で割礼を説明している。律法の文字に従うのではなく霊に従うとしている。
(9)シラ書では文字を銅版に書いている。銅版は物理変化や化学変化もしにくい性質がある。一度書けば消滅することが無い。その様な文字の永久保存の知識が既にあった。
(10)同じくシラ書には石碑に文字を書くのではなく、石碑に文字を書いた銅版をはめ込んだ。石碑に文字を書き込めば、掘り込みが難しく文字が大きくなってしまう。その上、石の風化により文字が消滅し易い。その様な知識が当時既にあった。文字を少しでも長く保ちたい願望、即ち文字を通じた情報を少しでも長く保ちたい願望がシラ書を通じて見えてくる。

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(注1)聖書に出て来る「手紙」の発見箇所。合計87箇所の高い頻度で「手紙」が発見され、聖書が描かれた時代には人々はしきりに手紙を書かれていたと推定出来る。距離を越えることができる伝達方法は当時狼煙などがあったが、狼煙では複雑な情報が伝えにくく手紙は人の意思を直接相手に伝える伝達方法の一つだった。受信人に口頭により伝聞として伝える方法もあったが、それは発信者の心を正確に伝えることは困難だったろう。仲介者の心が混じるからである。聖書が描かれた時代の人々は文字を認めることにより発信者が受信者に正確に伝える努力をしていたのは確実である。その痕跡が聖書の中にある多くの書簡文書として確認出来る。当時は既に高度な通信手段が発達していたことが伺える。
●サムエル記では「手紙」は2回発見できる。それは以下である。
・11-14、11―15
●列王記上では「手紙」は3回発見できる。それは以下である。
・21-8、21-9、21―11
●列王記下では「手紙」は9回発見できる。それは以下である。
・5-5、5-6、5-7、10―1、10-2、10-6、10-7、19-14、20-12
●歴代誌下では「手紙」は5回発見できる。それは以下である。
・2-11、21-12、30-1、30-6、32-17
●エズラ記では「手紙」は8回発見できる。それは以下である。
・4-7、4-8、4-11、4-18、4-23、5-6、5―7、7-11
●ネヘミヤ記では「手紙」は6回発見できる。それは以下である。
・2-7、2-8、2-9、6-5、6-17、6-19
●イザヤ書では「手紙」は2回発見できる。それは以下である。
・37-14、39―1
●エレミヤ書では「手紙」は5回発見できる。それは以下である。
・29-1、29-3、29-25、29-28、29-29
●使徒行伝では「手紙」は6回発見できる。それは以下である。
・18-27、21-15、22-5、23-25、23-33、23-34
●ローマ人への手紙では「手紙」は1回発見できる。それは以下である。
・16-22
●コリント人への手紙Ⅰでは「手紙」は2回発見できる。それは以下である。
・5-9、16-3
●コリント人への手紙Ⅱでは「手紙」は5回発見できる。それは以下である。
・3-3、7-8、10-9、10-10、10-11
●ガラテヤ人への手紙では「手紙」は章名称で1回発見できる。
●ピリピ人への手紙では「手紙」は章名称で1回発見できる。
●コロサイ人への手紙では「手紙」は章名称で1回発見できる。
●テサロニケ人への手紙Ⅰでは「手紙」は1回発見できる。それは以下である。
・5-27
●テサロニケ人への手紙Ⅱでは「手紙」は4回発見できる。それは以下である。
・2-2、2―15、3-14、3―17
●テモテへの手紙Ⅰでは「手紙」は1回発見される。それは以下である。
・3-14
●テモテへの手紙Ⅱでは「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●テトスへの手紙では「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●ピレモンへの手紙では「手紙」は1回発見できる。それは以下である。
・1-21
●へブル人への手紙では「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●ペテロへの手紙Ⅰでは「手紙」は1回発見できる。それは以下である。
・5-12
●ペテロへの手紙Ⅱでは「手紙」は2回発見できる。それは以下である。
・3-1、3―16
●ヨハネの手紙Ⅰでは「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●ヨハネの手紙Ⅱでは「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●ヨハネの手紙Ⅲでは「手紙」は章の名称で1回発見できる。
●ユダの手紙では「手紙」は1回発見出来る。それは以下である。
・3-

(注2)当時既に伝書鳩は利用されていた。伝書鳩の最古の記録はBC5000年シュメールの粘土板に発見できる。古代エジプトでも漁師が漁場を知らせる為に伝書鳩を使っていた記録がある。ローマ帝国では軍人が通信手段として鳩を活用していた。聖書の創世記8-8~8-11に鳩がノアの方舟に戻る場面があるが、通信手段に使っていたことを伺わせる一場面だ。また、鳩を賢さを喩える場面にしばしば登場するがそれも鳩の帰巣性を指摘しているものと推定される。聖書が描かれた時代には鳩通信は一般的であったようだが聖書には創世記にしか描写記述が無い。