浜木綿が灯台よりも白く咲く 紅日1990年11月号
浜木綿はハマユウと読む。愛媛県宇和島市日振島での作品。昭和50年代だったと思う。NHK大河ドラマで藤原純友を描いた「風と雲と虹と」があった。あのころは私は松山から幾つもの山を超えて宇和海に魚を釣りにしばしば出かけた。釣りだけではなく職場で友人を多く作って生徒指導の助言も期待していた。生徒の指導は個人の力ではなく共同の力に負うことが大きい。その為には普段からの職場仲間の意思疎通も大切だと思っていた。釣行は仕事をも意識したが大切な息抜きでもあった。
松山宇和島間は道も悪く3時間かかった時代だ。テレビドラマにも影響され、反逆児としての藤原純友に興味を抱いた。宇和海でメバルやカサゴを釣りながら作品では「純友の島が霞みし宇和の海」が出来たこともあった。その内に純友が砦を築いた宇和海に浮かぶ日振島に行きたくなった。地歴部の生徒達に島へ一緒に渡ってみようと誘うと生徒達は藤原純友研究に夢中になった。彼らは学校近辺の純友関連史跡を歩いたり、図書館通いをして一生懸命調査に当たった。
勉強をしろと強制しなくとも彼らは興味を抱くと無我夢中で研究活動に打ち込むものである。その猛烈な学習ぶりには私がたじたじとなったことがしばしばだった。彼らの中には卒業後も歴史学や考古学の道に進んだものが多かった。地歴部の生徒たちは学校の図書館だけでは満足しなかった。県立図書館通いをもしはじめた。ある日のことである。私に県立図書館から電話があった。「生徒さんから図書を借りたいとの申し出がある。これは貴重な図書なので先生がこちらに直接来ていただきたい。生徒さんだけではお貸しすることが出来ません」などというお叱りを県立図書館から頂いたこともあった。電話越しに平謝りに謝ったことがあった。
松山は昔から生徒や学生を軽視する文化がある。松山の人々は穏やかな気質であるが、児童生徒は餓鬼であると決め付けている地方文化がある。子供を最初から見下す社会風潮がある。夏目漱石の小説「坊ちゃん」に意地の悪い生徒が沢山出て来るが、あの生徒の意地の悪さは大人の意識を反映したものであるから仕方が無い。そのような風潮は松山に赴任した直後から分ったので、そのように大人の松山人に私は対応した。図書館でも何処でもそのように対応した。生徒観の違いで松山人と衝突しても仕方が無いのである。
最近の生徒諸君は知らないが、昔の生徒達は本当に熱心だった。その気になれば燃え上がって取組む生徒が多かった。最後には一冊の研究ノートを仕上げたのには驚いた。私は教壇で歴史を教えたことは一度も無い。歴史教育には無縁の地理教師として三分の一世紀以上過ごした。歴史教育とは無縁であったが歴史学習は生徒にその気にさせることが肝心だとつくづく思った。歴史は時間軸、地理は空間軸であるが、この点では同じであると思った。学ぶとはその気になること。教師は燃えるべく薪を立てるのが仕事であり教師の「させる」の連発で燃えるはずの薪を寝かせてはならないと思った。
人名や年代を覚えることを強制する歴史の教員を良く見かけたが、覚えることを強制すれば歴史嫌いが増えるばかりだ。学習指導要領は使役動詞「させる」の連続である。生徒を牛や馬扱いだ。また、「など」の連続である。不明箇所が多すぎてうんざりである。学習指導要領や指導書や教科書と言えども人間が書いた文書だ。基礎的な大きなミスも沢山ある。文部省の学習指導要領や指導書は参考にすれば良いが、それに一字一句忠実に従い、生徒に「させてばかり」では授業の展開は大失敗確実である。科学的な認識を生徒と共に確かめあいつつ、学習活動を生徒諸君の夢や希望に結びつける一工夫が必要なのだと思ったものであった。
さて、掲句「浜木綿が灯台よりも白く咲く」は宇和島市沖に浮かぶ日振島の属島である沖ノ島での作品。生徒達と日振島の明海(あこ)に宿泊した。藤原純友の砦も藤原純友の井戸もある集落に宿所を取った。折角、日振島まで来たのである浜木綿自生地の小島も見学したかった。明海(あこ)の目の前の無人島だ。早朝民宿の漁船に乗せてもらい渡った。浜木綿が咲き乱れる小島、沖ノ島に灯台があったわけではない。明海(あこ)漁港の灯台である。灯台の白さと浜木綿との白さが、黒潮の流れ込むコバルトブルーの宇和海によく似合っていた。真夏の強烈な日差しを灯台の白さと浜木綿の白さが和らげた。恐らく生徒諸君は一生の思い出として残っていることだろう。
聖書には浜木綿は発見できない。しかし、漢字で「綿」が発見できる。星川清親著「栽培植物の起源と伝播」184頁によれば、綿の原産地を数箇所挙げている。第一はインダス川モヘンジョダロ遺跡で綿布の破片が発見された。紀元前26世紀と推定されている。第二はアラビアである。ギリシャへは紀元前4世紀のアレキサンダー大王の遠征で拡がった。としている。
星川清親著「栽培植物の起源と伝播」によれば時代的には聖書に綿は発見されてもおかしくない。早速調べてみたが、綿が出て来る頻度はきわめて低かった。聖書には漢字「綿」は四回しか発見できなかった。ついでに聖書の他の天然繊維についてそれぞれの回数を調べてみた。
(聖書に出て来る繊維で、頻度が高い順)
麻と亜麻は―92回
羊毛は ―08回
毛糸は ―05回
山羊の毛 ―09回
毛織物は ―02回
絹は ー06回
綿は ―04回
麻や亜麻が圧倒的に多く、綿に回数が極めて低い。考えられるのは技術レベルである。聖書時代は綿を紡いだり織ったりする技術が余り発達していなかったことが推定出来る。聖書時代の人々はには綿はどのような存在であったか聖書で調べてみた。「聖堂の詩―その644」と重複するかもしれませんがご了承ください。
(聖書に発見できる漢字「綿」の分布)
●エステル記には綿は一回発見できた。それは以下である。
・1-6には綿を次のように描いている。「そこには純白の亜麻布、見事な綿織物、紫の幔幕が一連の銀の輪によってかけられた」とある。
●マタイ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・27-48には綿を次のように描いている。「その内の一人が直ぐに走り寄り、海綿を取り上げ酸い葡萄酒を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした」とある。
●マルコ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・15-36には綿を次のように描いている。「その内の一人が直ぐに走り寄り、海綿を取り上げ酸い葡萄酒を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした」とある。
●ヨハネ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・19-29には綿を次のように描いている。「ある者が走り寄り、海面に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けて」とある。
(聖書に出て来る漢字「綿」で判明した事項)
<1>綿は低頻度語
聖書全体で漢字「綿」は四箇所にしか発見できない。綿は聖書では極めて頻度が低い。低頻度語である。
<3>四回中三回は海綿の綿
聖書の漢字「綿」は全てが天然繊維の綿ではなかった。四回中三回が海綿であった。ギリシャのエーゲ海は海綿の産地で世界的に知名度が高いが、聖書時代から日常生活に海綿を活用していたと推定される。
<4>イエスの口元へ近づけた海綿
イエスを磔にしている。その十字架の下に下人たちが屯している。彼らは、海綿にたっぷりのぶどう酒を含ませてイエスの口元に含ませようとした。その目的はぶどう酒を摂取させることによる鎮痛作用を期待したものと推定される。
<5>聖書唯一の天然綿が出て来る場面
聖書に出て来る天然綿は一回だけであった。上に掲げた如く、エステル記1-6のみである。それはエステルがペルシャ王に嫁ぐ場面であり婚礼式の場面である。豪華絢爛たる婚礼式場であり、その中での綿布である。綿布は高価な希少価値があったことがこの場面から窺い知ることができる。
<6>綿工業の未発達
聖書時代はまだまだ綿の栽培そのものも、綿を紡いだり綿を織ったりする技術が未発達であった。衣料用繊維の中心は麻や亜麻が大半であった。亜麻や麻が聖書にて手来る回数は92回であるのに綿は1回しか出てこないことからもそのことが判断出来る。
<7>ハマユウ
浜木綿はハマユウと読むが、聖書には浜木綿が発見できなかった。浜木綿は熱帯地方がその原産地であり古代中東地方でも分布していたと推定されるが、聖書では発見できない。
したがって「浜木綿が灯台よりも白く咲く」のような景色が聖書時代に中東地方では見られなかったであろう。「浜木綿が灯台よりも白く咲く」は愛媛県宇和島市日振島での作品。藤原純友を思い浮かべながらの作品であった。船舶の位置はGPSで確かめられて灯台が減少する中で、日本国内でもこのような景観を発見するのが困難ではなかろうか。海岸から灯台が消滅する日本、それは海洋国日本らしさの消滅でもあろう。寂しい限りである。日本は大きな大きな曲がり角に来ているのではなかろうか。
浜木綿はハマユウと読む。愛媛県宇和島市日振島での作品。昭和50年代だったと思う。NHK大河ドラマで藤原純友を描いた「風と雲と虹と」があった。あのころは私は松山から幾つもの山を超えて宇和海に魚を釣りにしばしば出かけた。釣りだけではなく職場で友人を多く作って生徒指導の助言も期待していた。生徒の指導は個人の力ではなく共同の力に負うことが大きい。その為には普段からの職場仲間の意思疎通も大切だと思っていた。釣行は仕事をも意識したが大切な息抜きでもあった。
松山宇和島間は道も悪く3時間かかった時代だ。テレビドラマにも影響され、反逆児としての藤原純友に興味を抱いた。宇和海でメバルやカサゴを釣りながら作品では「純友の島が霞みし宇和の海」が出来たこともあった。その内に純友が砦を築いた宇和海に浮かぶ日振島に行きたくなった。地歴部の生徒達に島へ一緒に渡ってみようと誘うと生徒達は藤原純友研究に夢中になった。彼らは学校近辺の純友関連史跡を歩いたり、図書館通いをして一生懸命調査に当たった。
勉強をしろと強制しなくとも彼らは興味を抱くと無我夢中で研究活動に打ち込むものである。その猛烈な学習ぶりには私がたじたじとなったことがしばしばだった。彼らの中には卒業後も歴史学や考古学の道に進んだものが多かった。地歴部の生徒たちは学校の図書館だけでは満足しなかった。県立図書館通いをもしはじめた。ある日のことである。私に県立図書館から電話があった。「生徒さんから図書を借りたいとの申し出がある。これは貴重な図書なので先生がこちらに直接来ていただきたい。生徒さんだけではお貸しすることが出来ません」などというお叱りを県立図書館から頂いたこともあった。電話越しに平謝りに謝ったことがあった。
松山は昔から生徒や学生を軽視する文化がある。松山の人々は穏やかな気質であるが、児童生徒は餓鬼であると決め付けている地方文化がある。子供を最初から見下す社会風潮がある。夏目漱石の小説「坊ちゃん」に意地の悪い生徒が沢山出て来るが、あの生徒の意地の悪さは大人の意識を反映したものであるから仕方が無い。そのような風潮は松山に赴任した直後から分ったので、そのように大人の松山人に私は対応した。図書館でも何処でもそのように対応した。生徒観の違いで松山人と衝突しても仕方が無いのである。
最近の生徒諸君は知らないが、昔の生徒達は本当に熱心だった。その気になれば燃え上がって取組む生徒が多かった。最後には一冊の研究ノートを仕上げたのには驚いた。私は教壇で歴史を教えたことは一度も無い。歴史教育には無縁の地理教師として三分の一世紀以上過ごした。歴史教育とは無縁であったが歴史学習は生徒にその気にさせることが肝心だとつくづく思った。歴史は時間軸、地理は空間軸であるが、この点では同じであると思った。学ぶとはその気になること。教師は燃えるべく薪を立てるのが仕事であり教師の「させる」の連発で燃えるはずの薪を寝かせてはならないと思った。
人名や年代を覚えることを強制する歴史の教員を良く見かけたが、覚えることを強制すれば歴史嫌いが増えるばかりだ。学習指導要領は使役動詞「させる」の連続である。生徒を牛や馬扱いだ。また、「など」の連続である。不明箇所が多すぎてうんざりである。学習指導要領や指導書や教科書と言えども人間が書いた文書だ。基礎的な大きなミスも沢山ある。文部省の学習指導要領や指導書は参考にすれば良いが、それに一字一句忠実に従い、生徒に「させてばかり」では授業の展開は大失敗確実である。科学的な認識を生徒と共に確かめあいつつ、学習活動を生徒諸君の夢や希望に結びつける一工夫が必要なのだと思ったものであった。
さて、掲句「浜木綿が灯台よりも白く咲く」は宇和島市沖に浮かぶ日振島の属島である沖ノ島での作品。生徒達と日振島の明海(あこ)に宿泊した。藤原純友の砦も藤原純友の井戸もある集落に宿所を取った。折角、日振島まで来たのである浜木綿自生地の小島も見学したかった。明海(あこ)の目の前の無人島だ。早朝民宿の漁船に乗せてもらい渡った。浜木綿が咲き乱れる小島、沖ノ島に灯台があったわけではない。明海(あこ)漁港の灯台である。灯台の白さと浜木綿との白さが、黒潮の流れ込むコバルトブルーの宇和海によく似合っていた。真夏の強烈な日差しを灯台の白さと浜木綿の白さが和らげた。恐らく生徒諸君は一生の思い出として残っていることだろう。
聖書には浜木綿は発見できない。しかし、漢字で「綿」が発見できる。星川清親著「栽培植物の起源と伝播」184頁によれば、綿の原産地を数箇所挙げている。第一はインダス川モヘンジョダロ遺跡で綿布の破片が発見された。紀元前26世紀と推定されている。第二はアラビアである。ギリシャへは紀元前4世紀のアレキサンダー大王の遠征で拡がった。としている。
星川清親著「栽培植物の起源と伝播」によれば時代的には聖書に綿は発見されてもおかしくない。早速調べてみたが、綿が出て来る頻度はきわめて低かった。聖書には漢字「綿」は四回しか発見できなかった。ついでに聖書の他の天然繊維についてそれぞれの回数を調べてみた。
(聖書に出て来る繊維で、頻度が高い順)
麻と亜麻は―92回
羊毛は ―08回
毛糸は ―05回
山羊の毛 ―09回
毛織物は ―02回
絹は ー06回
綿は ―04回
麻や亜麻が圧倒的に多く、綿に回数が極めて低い。考えられるのは技術レベルである。聖書時代は綿を紡いだり織ったりする技術が余り発達していなかったことが推定出来る。聖書時代の人々はには綿はどのような存在であったか聖書で調べてみた。「聖堂の詩―その644」と重複するかもしれませんがご了承ください。
(聖書に発見できる漢字「綿」の分布)
●エステル記には綿は一回発見できた。それは以下である。
・1-6には綿を次のように描いている。「そこには純白の亜麻布、見事な綿織物、紫の幔幕が一連の銀の輪によってかけられた」とある。
●マタイ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・27-48には綿を次のように描いている。「その内の一人が直ぐに走り寄り、海綿を取り上げ酸い葡萄酒を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした」とある。
●マルコ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・15-36には綿を次のように描いている。「その内の一人が直ぐに走り寄り、海綿を取り上げ酸い葡萄酒を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした」とある。
●ヨハネ伝には綿は一回発見できた。それは以下である。
・19-29には綿を次のように描いている。「ある者が走り寄り、海面に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けて」とある。
(聖書に出て来る漢字「綿」で判明した事項)
<1>綿は低頻度語
聖書全体で漢字「綿」は四箇所にしか発見できない。綿は聖書では極めて頻度が低い。低頻度語である。
<3>四回中三回は海綿の綿
聖書の漢字「綿」は全てが天然繊維の綿ではなかった。四回中三回が海綿であった。ギリシャのエーゲ海は海綿の産地で世界的に知名度が高いが、聖書時代から日常生活に海綿を活用していたと推定される。
<4>イエスの口元へ近づけた海綿
イエスを磔にしている。その十字架の下に下人たちが屯している。彼らは、海綿にたっぷりのぶどう酒を含ませてイエスの口元に含ませようとした。その目的はぶどう酒を摂取させることによる鎮痛作用を期待したものと推定される。
<5>聖書唯一の天然綿が出て来る場面
聖書に出て来る天然綿は一回だけであった。上に掲げた如く、エステル記1-6のみである。それはエステルがペルシャ王に嫁ぐ場面であり婚礼式の場面である。豪華絢爛たる婚礼式場であり、その中での綿布である。綿布は高価な希少価値があったことがこの場面から窺い知ることができる。
<6>綿工業の未発達
聖書時代はまだまだ綿の栽培そのものも、綿を紡いだり綿を織ったりする技術が未発達であった。衣料用繊維の中心は麻や亜麻が大半であった。亜麻や麻が聖書にて手来る回数は92回であるのに綿は1回しか出てこないことからもそのことが判断出来る。
<7>ハマユウ
浜木綿はハマユウと読むが、聖書には浜木綿が発見できなかった。浜木綿は熱帯地方がその原産地であり古代中東地方でも分布していたと推定されるが、聖書では発見できない。
したがって「浜木綿が灯台よりも白く咲く」のような景色が聖書時代に中東地方では見られなかったであろう。「浜木綿が灯台よりも白く咲く」は愛媛県宇和島市日振島での作品。藤原純友を思い浮かべながらの作品であった。船舶の位置はGPSで確かめられて灯台が減少する中で、日本国内でもこのような景観を発見するのが困難ではなかろうか。海岸から灯台が消滅する日本、それは海洋国日本らしさの消滅でもあろう。寂しい限りである。日本は大きな大きな曲がり角に来ているのではなかろうか。