茶の花が匂う祇園の建仁寺 紅日2015年2月号
茶の花は冬の季語。小さくて白い花を咲かせる。目立たない花。日本文化にはお茶ほど根深く浸透しているものはない。「日常茶飯事」は日ごろ茶を飲んだり米のごはんを食べたりするようなありふれた行為や出来事を指摘している。茶が日本社会に根深く浸透していることを示す一成語である。中国から日本に茶が入った歴史は古いが、日本では近代に入ってから茶は重要な輸出品であった。明治政府の経済政策に対して不満を抱く旧藩士が沢山いた。云わば不満分子である旧藩士に静岡県の牧之原台地、磐田ヶ原台地などを与えて茶の栽培を奨励しつつ不満を宥めた。
茶摘みの童謡が現代日本社会で広く知られているが、その童謡も旧藩士に対する茶の生産と販売輸出促進の目的であった。明治維新政府の富国強兵殖産興業スローガンに基づく童謡であった。日本政府の熱心な販路拡張の結果欧米諸国に爆発的に売れた。現在の欧米人の緑茶消費量は少ない。当時の欧米人の緑茶に対する珍しさが爆発的に売れた原因であると推定される。
日本政府文化庁が選定した「日本の歌百選」にも選ばれている童謡「茶摘」は輸出奨励策の歌であったとしたが、その歌詞をよく見直せばそれがよくわかる。
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みじゃないか
茜襷に菅の笠」
日和つづきの今日この頃を
心のどこかに積みつつ歌う
「摘めよ摘め摘め
摘まにゃ日本の茶にならぬ」
最後の下り「摘まにゃ日本の茶にならぬ」ですべて種明かしをしている歌である。この歌を子供たちが日常的に口遊んでいれば、その親や地域の人々は茶摘みに励まなければならないと思うだろう。子供が大人を詩で洗脳する結果となる。子供を通じた労働奨励歌である。明治45年(1912)唱歌の教科書に掲載されたのであるが明治政府も財界も日清戦争や日露戦争の戦費獲得に大いに喜んだことであろう。
星川清親著「栽培植物の起源と伝播」158頁によれば茶の原産地はチベットから雲南省山岳地帯であるといわれる。BC10世紀であるから古い栽培作物だ。当初は薬用として栽培された嗜好品になったのは三国時代(222から280)である。そして、唐代には日本にも伝えられた。延暦24年(805)には最澄が種を初めて持ち帰って近江に植えた。
京都では、高雄の高山寺や祇園の建仁寺が茶の木が多いことで知られるが、日本に最初に茶が栽培され始めたのは京都府ではなく滋賀県である。滋賀県は京都府より古代史の史跡ははるかに多い。茶の栽培も早かったのは京都より滋賀であった。
ただし、日本で製茶業が本格的に始まったのは建久二年(1191)で時代が少し遅れた。日本でも最初は茶は薬用作物として栽培され薬として服用された。寺院、殊に全国各地に散在する薬師寺に茶の木が多いのはそのことが歴史的背景であろう。云うまでもなく、医学の発達しない時代であり、寺院が病院でもあった。全国に薬師寺が散在するのは病人は薬師寺で治癒を願っていたからである。
聖書に茶が出て来ないはずである。中国チベットや雲南省からヨーロッパに茶が広がったのは近代以降である。聖書と茶とは縁もゆかりもない。その原因は恐らく水質の違いにも大きな原因があったであろう。ヨーロッパにインド経由で茶葉が輸入されたものの、イギリス人はどんな工夫をしても母国の水では茶の香りも色も出ないのである。
彼らが茶葉を活用出来始めたのは偶然の出来事であると云われている。船倉の隅の水溜りにインドから運んできた茶葉が腐っていた。この腐った茶葉に湯を注ぐと湯の色は赤く染まり芳醇な香りを発したのである。これが紅茶(black tea)の出発点だるといわれる。偶然、船倉の隅で腐っていたからこそ紅茶がイギリスをはじめヨーロッパに広がった。
英語圏では紅茶がブラックティーと呼ばれるのは腐った茶葉の色が真っ黒だったからである。なお、紅茶は中国語であるそうだ。湯を注ぐと茶葉が緑ではなく、きれいな紅に染まったからである。人好き好きであるが、ブラックティーは何か汚らしい。飲食物とは思えない名称だ。紅茶のほうが美しく感じるのは私の先入観であるかもしれない。イギリスの泥棒同然の植民地政策の中で誕生した茶であり汚らしい名称は仕方がないのかもしれない。
国境には自然国境と数理的国境とがある。海洋や山脈や河川が国境になる事例を自然国境という。しかし、判然としないのは数理国境である。植民地の宗主国がテーブル上で経線や緯線を見ながら線引きをして生まれた国境であり、当該地域の国民や住民の意思が無視された線引きである。朝鮮半島の南北境界も同じである。
イギリスやフランスの為政者がテーブルで取り決めた残酷な国境である。そのような決定の仕方のツケが今の中東地方や北アフリカの紛争の原因になっていることは明白だ。イギリスの植民地政策がその遠因となり、今の中東戦争の凄惨な場面が展開していると思えば、紅茶の名称がblack teaでもdirty teaでもよいと思う。
茶はチベットから中国そして日本などのアジア諸国に広がった。英語文化圏に茶が入ったのはイギリスのインド植民地経営が始まりだった。従って聖書が描かれた古代中東地方には茶は見られなかった。茶は見られなかったが、没薬や甘松や乳香などの薬草は見られた。
中国や日本の所謂green teaの薬効はその範囲が広い。
①茶の中に含まれているカフェーインは中枢神経を興奮させることによる覚醒作用、強心作用がある。また、熱発生作用による皮下脂肪燃焼作用がある。また、脳動脈収縮作用がある他に利尿作用がある。
②茶の中には他にカテキンがある。この薬効は血圧上昇抑制作用、コレステロール調節作用、血糖値抑制作用、牢か抑制作用、抗がん作用、抗菌作用などがある。
③また、茶に含まれるテアサポニンは小腸を活発化させ消化吸収を助ける。
④茶の中にあるテアニンは抗ストレス作用があり、心をゆったりさせる。
日向ぼこ茶に立つ湯気の香しき
縁側で茶の薬効に思いめぐらしながら、こんな作品もできた。茶は嗜好品であるが、幅広い薬効成分を含んでいる。薬師寺や多くの寺院で茶の木を多く見かけるのは当然と言えば当然である。さて、「茶の花が匂う祇園の建仁寺」であるが、建仁寺は臨済宗である。開基は源頼家で開山は栄西。栄西は永治元年(1141)~建保三年(1215)の人で平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶であった。彼が二度目の南宋への留学の際に茶を持ち帰ったといわれている。
「栽培植物の起源と伝播」にあるように日本に茶葉が活用され始めたのは天平時代(729)であり古いのであるが、その後平安時代には喫茶の風習が廃れつつあった。そういえば「源氏物語」でも「枕草子」でも茶を楽しむ場面を描いた個所は思い出せない。栄西は茶の薬効を再認識して喫茶の風習を広げようとしたことで大きな業績があるのであろう。
尚、京都府宇治市に源氏物語ミュージアムが設立された。観光施設はあたかも源氏物語と宇治茶と官界があるかの如く宣伝せ客寄せをしているが、宇治で茶の栽培が始まったのは14世おきに入ってからであり、源氏物語の時代には蛆での茶の栽培もなく、源氏物語と茶との関係も皆無である。源氏物語ミュージアムは観光客に大きな誤解を与えかねない観光施設である。
さて、明庵栄西が鴨川のほとりに何故建仁寺を建立したのであろうか。不思議であるが、答えは椿科のの根深さがあった。茶の木も椿科の植物であるが、この椿が地に深く根を広げる性質がある。おそらく明庵栄西はその樹木の特徴を知っていたのではないだろうか。一本道路を隔てて西隣には「笹もってこい」の歌で知られる今宮神社がある。広大な笹薮の中に建立されたものと推定される。
笹は、もちろん護岸堤防のネットの役割を果たして、水害から集落や市街地を守ってくれるのであるが、これら今宮神社と建仁寺から目を転じて南西方向の隣には、平家の根城であった六波羅探題が存在している。これらを守護するのは当時の至上命令であったことは言うまでもない。そのような鴨川の護岸目的で建仁寺や今宮神社が建立されたと推定できる。
中島暢太郎著「鴨川水害史」を参照してもわかるのであるが、水害の多い時代は800年代中ごろから1000年代中頃にかけてと、1400年代初頭から1900年代末期にかけてである。600年代初頭から1000年代初頭までにかけてがこの時期に該当する。
(聖書で発見された蓮や蓮根からの事項)
<1>聖書には蓮は発見されない
聖書には一度も「蓮」や「蓮根」が発見されなかった。蓮の花は湿地帯に分布する作物であり、乾燥地帯や半乾燥地帯でははすが発見されるはずがない。ただし、中東地方には1787年に蓮が展示されたという記録は残留している。
<2>茶の木は鴨川のほとりでも栽培された
僧侶栄西は明から茶の種を持ち帰り日本に広げた一人であるが、彼は平安時代に廃れつつあった茶飲の風習をも広めた。茶は当時薬でもあり庶民からももてはやされた。また、竹藪も鴨川の護岸用植物として珍重された。
<3>茶は明治時代の代表的輸出作物であった。「摘まにゃ、日本の茶にならぬ」とうたわれていた。
茶の花は冬の季語。小さくて白い花を咲かせる。目立たない花。日本文化にはお茶ほど根深く浸透しているものはない。「日常茶飯事」は日ごろ茶を飲んだり米のごはんを食べたりするようなありふれた行為や出来事を指摘している。茶が日本社会に根深く浸透していることを示す一成語である。中国から日本に茶が入った歴史は古いが、日本では近代に入ってから茶は重要な輸出品であった。明治政府の経済政策に対して不満を抱く旧藩士が沢山いた。云わば不満分子である旧藩士に静岡県の牧之原台地、磐田ヶ原台地などを与えて茶の栽培を奨励しつつ不満を宥めた。
茶摘みの童謡が現代日本社会で広く知られているが、その童謡も旧藩士に対する茶の生産と販売輸出促進の目的であった。明治維新政府の富国強兵殖産興業スローガンに基づく童謡であった。日本政府の熱心な販路拡張の結果欧米諸国に爆発的に売れた。現在の欧米人の緑茶消費量は少ない。当時の欧米人の緑茶に対する珍しさが爆発的に売れた原因であると推定される。
日本政府文化庁が選定した「日本の歌百選」にも選ばれている童謡「茶摘」は輸出奨励策の歌であったとしたが、その歌詞をよく見直せばそれがよくわかる。
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みじゃないか
茜襷に菅の笠」
日和つづきの今日この頃を
心のどこかに積みつつ歌う
「摘めよ摘め摘め
摘まにゃ日本の茶にならぬ」
最後の下り「摘まにゃ日本の茶にならぬ」ですべて種明かしをしている歌である。この歌を子供たちが日常的に口遊んでいれば、その親や地域の人々は茶摘みに励まなければならないと思うだろう。子供が大人を詩で洗脳する結果となる。子供を通じた労働奨励歌である。明治45年(1912)唱歌の教科書に掲載されたのであるが明治政府も財界も日清戦争や日露戦争の戦費獲得に大いに喜んだことであろう。
星川清親著「栽培植物の起源と伝播」158頁によれば茶の原産地はチベットから雲南省山岳地帯であるといわれる。BC10世紀であるから古い栽培作物だ。当初は薬用として栽培された嗜好品になったのは三国時代(222から280)である。そして、唐代には日本にも伝えられた。延暦24年(805)には最澄が種を初めて持ち帰って近江に植えた。
京都では、高雄の高山寺や祇園の建仁寺が茶の木が多いことで知られるが、日本に最初に茶が栽培され始めたのは京都府ではなく滋賀県である。滋賀県は京都府より古代史の史跡ははるかに多い。茶の栽培も早かったのは京都より滋賀であった。
ただし、日本で製茶業が本格的に始まったのは建久二年(1191)で時代が少し遅れた。日本でも最初は茶は薬用作物として栽培され薬として服用された。寺院、殊に全国各地に散在する薬師寺に茶の木が多いのはそのことが歴史的背景であろう。云うまでもなく、医学の発達しない時代であり、寺院が病院でもあった。全国に薬師寺が散在するのは病人は薬師寺で治癒を願っていたからである。
聖書に茶が出て来ないはずである。中国チベットや雲南省からヨーロッパに茶が広がったのは近代以降である。聖書と茶とは縁もゆかりもない。その原因は恐らく水質の違いにも大きな原因があったであろう。ヨーロッパにインド経由で茶葉が輸入されたものの、イギリス人はどんな工夫をしても母国の水では茶の香りも色も出ないのである。
彼らが茶葉を活用出来始めたのは偶然の出来事であると云われている。船倉の隅の水溜りにインドから運んできた茶葉が腐っていた。この腐った茶葉に湯を注ぐと湯の色は赤く染まり芳醇な香りを発したのである。これが紅茶(black tea)の出発点だるといわれる。偶然、船倉の隅で腐っていたからこそ紅茶がイギリスをはじめヨーロッパに広がった。
英語圏では紅茶がブラックティーと呼ばれるのは腐った茶葉の色が真っ黒だったからである。なお、紅茶は中国語であるそうだ。湯を注ぐと茶葉が緑ではなく、きれいな紅に染まったからである。人好き好きであるが、ブラックティーは何か汚らしい。飲食物とは思えない名称だ。紅茶のほうが美しく感じるのは私の先入観であるかもしれない。イギリスの泥棒同然の植民地政策の中で誕生した茶であり汚らしい名称は仕方がないのかもしれない。
国境には自然国境と数理的国境とがある。海洋や山脈や河川が国境になる事例を自然国境という。しかし、判然としないのは数理国境である。植民地の宗主国がテーブル上で経線や緯線を見ながら線引きをして生まれた国境であり、当該地域の国民や住民の意思が無視された線引きである。朝鮮半島の南北境界も同じである。
イギリスやフランスの為政者がテーブルで取り決めた残酷な国境である。そのような決定の仕方のツケが今の中東地方や北アフリカの紛争の原因になっていることは明白だ。イギリスの植民地政策がその遠因となり、今の中東戦争の凄惨な場面が展開していると思えば、紅茶の名称がblack teaでもdirty teaでもよいと思う。
茶はチベットから中国そして日本などのアジア諸国に広がった。英語文化圏に茶が入ったのはイギリスのインド植民地経営が始まりだった。従って聖書が描かれた古代中東地方には茶は見られなかった。茶は見られなかったが、没薬や甘松や乳香などの薬草は見られた。
中国や日本の所謂green teaの薬効はその範囲が広い。
①茶の中に含まれているカフェーインは中枢神経を興奮させることによる覚醒作用、強心作用がある。また、熱発生作用による皮下脂肪燃焼作用がある。また、脳動脈収縮作用がある他に利尿作用がある。
②茶の中には他にカテキンがある。この薬効は血圧上昇抑制作用、コレステロール調節作用、血糖値抑制作用、牢か抑制作用、抗がん作用、抗菌作用などがある。
③また、茶に含まれるテアサポニンは小腸を活発化させ消化吸収を助ける。
④茶の中にあるテアニンは抗ストレス作用があり、心をゆったりさせる。
日向ぼこ茶に立つ湯気の香しき
縁側で茶の薬効に思いめぐらしながら、こんな作品もできた。茶は嗜好品であるが、幅広い薬効成分を含んでいる。薬師寺や多くの寺院で茶の木を多く見かけるのは当然と言えば当然である。さて、「茶の花が匂う祇園の建仁寺」であるが、建仁寺は臨済宗である。開基は源頼家で開山は栄西。栄西は永治元年(1141)~建保三年(1215)の人で平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶であった。彼が二度目の南宋への留学の際に茶を持ち帰ったといわれている。
「栽培植物の起源と伝播」にあるように日本に茶葉が活用され始めたのは天平時代(729)であり古いのであるが、その後平安時代には喫茶の風習が廃れつつあった。そういえば「源氏物語」でも「枕草子」でも茶を楽しむ場面を描いた個所は思い出せない。栄西は茶の薬効を再認識して喫茶の風習を広げようとしたことで大きな業績があるのであろう。
尚、京都府宇治市に源氏物語ミュージアムが設立された。観光施設はあたかも源氏物語と宇治茶と官界があるかの如く宣伝せ客寄せをしているが、宇治で茶の栽培が始まったのは14世おきに入ってからであり、源氏物語の時代には蛆での茶の栽培もなく、源氏物語と茶との関係も皆無である。源氏物語ミュージアムは観光客に大きな誤解を与えかねない観光施設である。
さて、明庵栄西が鴨川のほとりに何故建仁寺を建立したのであろうか。不思議であるが、答えは椿科のの根深さがあった。茶の木も椿科の植物であるが、この椿が地に深く根を広げる性質がある。おそらく明庵栄西はその樹木の特徴を知っていたのではないだろうか。一本道路を隔てて西隣には「笹もってこい」の歌で知られる今宮神社がある。広大な笹薮の中に建立されたものと推定される。
笹は、もちろん護岸堤防のネットの役割を果たして、水害から集落や市街地を守ってくれるのであるが、これら今宮神社と建仁寺から目を転じて南西方向の隣には、平家の根城であった六波羅探題が存在している。これらを守護するのは当時の至上命令であったことは言うまでもない。そのような鴨川の護岸目的で建仁寺や今宮神社が建立されたと推定できる。
中島暢太郎著「鴨川水害史」を参照してもわかるのであるが、水害の多い時代は800年代中ごろから1000年代中頃にかけてと、1400年代初頭から1900年代末期にかけてである。600年代初頭から1000年代初頭までにかけてがこの時期に該当する。
(聖書で発見された蓮や蓮根からの事項)
<1>聖書には蓮は発見されない
聖書には一度も「蓮」や「蓮根」が発見されなかった。蓮の花は湿地帯に分布する作物であり、乾燥地帯や半乾燥地帯でははすが発見されるはずがない。ただし、中東地方には1787年に蓮が展示されたという記録は残留している。
<2>茶の木は鴨川のほとりでも栽培された
僧侶栄西は明から茶の種を持ち帰り日本に広げた一人であるが、彼は平安時代に廃れつつあった茶飲の風習をも広めた。茶は当時薬でもあり庶民からももてはやされた。また、竹藪も鴨川の護岸用植物として珍重された。
<3>茶は明治時代の代表的輸出作物であった。「摘まにゃ、日本の茶にならぬ」とうたわれていた。