聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その1067―聖書には茶がない

2016-01-26 09:47:24 | Weblog
           茶の花が匂う祇園の建仁寺     紅日2015年2月号

 茶の花は冬の季語。小さくて白い花を咲かせる。目立たない花。日本文化にはお茶ほど根深く浸透しているものはない。「日常茶飯事」は日ごろ茶を飲んだり米のごはんを食べたりするようなありふれた行為や出来事を指摘している。茶が日本社会に根深く浸透していることを示す一成語である。中国から日本に茶が入った歴史は古いが、日本では近代に入ってから茶は重要な輸出品であった。明治政府の経済政策に対して不満を抱く旧藩士が沢山いた。云わば不満分子である旧藩士に静岡県の牧之原台地、磐田ヶ原台地などを与えて茶の栽培を奨励しつつ不満を宥めた。

 茶摘みの童謡が現代日本社会で広く知られているが、その童謡も旧藩士に対する茶の生産と販売輸出促進の目的であった。明治維新政府の富国強兵殖産興業スローガンに基づく童謡であった。日本政府の熱心な販路拡張の結果欧米諸国に爆発的に売れた。現在の欧米人の緑茶消費量は少ない。当時の欧米人の緑茶に対する珍しさが爆発的に売れた原因であると推定される。

 日本政府文化庁が選定した「日本の歌百選」にも選ばれている童謡「茶摘」は輸出奨励策の歌であったとしたが、その歌詞をよく見直せばそれがよくわかる。

   夏も近づく八十八夜
   野にも山にも若葉が茂る
   「あれに見えるは茶摘みじゃないか
   茜襷に菅の笠」

   日和つづきの今日この頃を
   心のどこかに積みつつ歌う
   「摘めよ摘め摘め
   摘まにゃ日本の茶にならぬ」

 最後の下り「摘まにゃ日本の茶にならぬ」ですべて種明かしをしている歌である。この歌を子供たちが日常的に口遊んでいれば、その親や地域の人々は茶摘みに励まなければならないと思うだろう。子供が大人を詩で洗脳する結果となる。子供を通じた労働奨励歌である。明治45年(1912)唱歌の教科書に掲載されたのであるが明治政府も財界も日清戦争や日露戦争の戦費獲得に大いに喜んだことであろう。

 星川清親著「栽培植物の起源と伝播」158頁によれば茶の原産地はチベットから雲南省山岳地帯であるといわれる。BC10世紀であるから古い栽培作物だ。当初は薬用として栽培された嗜好品になったのは三国時代(222から280)である。そして、唐代には日本にも伝えられた。延暦24年(805)には最澄が種を初めて持ち帰って近江に植えた。

 京都では、高雄の高山寺や祇園の建仁寺が茶の木が多いことで知られるが、日本に最初に茶が栽培され始めたのは京都府ではなく滋賀県である。滋賀県は京都府より古代史の史跡ははるかに多い。茶の栽培も早かったのは京都より滋賀であった。

 ただし、日本で製茶業が本格的に始まったのは建久二年(1191)で時代が少し遅れた。日本でも最初は茶は薬用作物として栽培され薬として服用された。寺院、殊に全国各地に散在する薬師寺に茶の木が多いのはそのことが歴史的背景であろう。云うまでもなく、医学の発達しない時代であり、寺院が病院でもあった。全国に薬師寺が散在するのは病人は薬師寺で治癒を願っていたからである。

 聖書に茶が出て来ないはずである。中国チベットや雲南省からヨーロッパに茶が広がったのは近代以降である。聖書と茶とは縁もゆかりもない。その原因は恐らく水質の違いにも大きな原因があったであろう。ヨーロッパにインド経由で茶葉が輸入されたものの、イギリス人はどんな工夫をしても母国の水では茶の香りも色も出ないのである。

 彼らが茶葉を活用出来始めたのは偶然の出来事であると云われている。船倉の隅の水溜りにインドから運んできた茶葉が腐っていた。この腐った茶葉に湯を注ぐと湯の色は赤く染まり芳醇な香りを発したのである。これが紅茶(black tea)の出発点だるといわれる。偶然、船倉の隅で腐っていたからこそ紅茶がイギリスをはじめヨーロッパに広がった。

 英語圏では紅茶がブラックティーと呼ばれるのは腐った茶葉の色が真っ黒だったからである。なお、紅茶は中国語であるそうだ。湯を注ぐと茶葉が緑ではなく、きれいな紅に染まったからである。人好き好きであるが、ブラックティーは何か汚らしい。飲食物とは思えない名称だ。紅茶のほうが美しく感じるのは私の先入観であるかもしれない。イギリスの泥棒同然の植民地政策の中で誕生した茶であり汚らしい名称は仕方がないのかもしれない。

 国境には自然国境と数理的国境とがある。海洋や山脈や河川が国境になる事例を自然国境という。しかし、判然としないのは数理国境である。植民地の宗主国がテーブル上で経線や緯線を見ながら線引きをして生まれた国境であり、当該地域の国民や住民の意思が無視された線引きである。朝鮮半島の南北境界も同じである。

 イギリスやフランスの為政者がテーブルで取り決めた残酷な国境である。そのような決定の仕方のツケが今の中東地方や北アフリカの紛争の原因になっていることは明白だ。イギリスの植民地政策がその遠因となり、今の中東戦争の凄惨な場面が展開していると思えば、紅茶の名称がblack teaでもdirty teaでもよいと思う。

 茶はチベットから中国そして日本などのアジア諸国に広がった。英語文化圏に茶が入ったのはイギリスのインド植民地経営が始まりだった。従って聖書が描かれた古代中東地方には茶は見られなかった。茶は見られなかったが、没薬や甘松や乳香などの薬草は見られた。

 中国や日本の所謂green teaの薬効はその範囲が広い。
①茶の中に含まれているカフェーインは中枢神経を興奮させることによる覚醒作用、強心作用がある。また、熱発生作用による皮下脂肪燃焼作用がある。また、脳動脈収縮作用がある他に利尿作用がある。
②茶の中には他にカテキンがある。この薬効は血圧上昇抑制作用、コレステロール調節作用、血糖値抑制作用、牢か抑制作用、抗がん作用、抗菌作用などがある。
③また、茶に含まれるテアサポニンは小腸を活発化させ消化吸収を助ける。
④茶の中にあるテアニンは抗ストレス作用があり、心をゆったりさせる。

 日向ぼこ茶に立つ湯気の香しき

 縁側で茶の薬効に思いめぐらしながら、こんな作品もできた。茶は嗜好品であるが、幅広い薬効成分を含んでいる。薬師寺や多くの寺院で茶の木を多く見かけるのは当然と言えば当然である。さて、「茶の花が匂う祇園の建仁寺」であるが、建仁寺は臨済宗である。開基は源頼家で開山は栄西。栄西は永治元年(1141)~建保三年(1215)の人で平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶であった。彼が二度目の南宋への留学の際に茶を持ち帰ったといわれている。

 「栽培植物の起源と伝播」にあるように日本に茶葉が活用され始めたのは天平時代(729)であり古いのであるが、その後平安時代には喫茶の風習が廃れつつあった。そういえば「源氏物語」でも「枕草子」でも茶を楽しむ場面を描いた個所は思い出せない。栄西は茶の薬効を再認識して喫茶の風習を広げようとしたことで大きな業績があるのであろう。

 尚、京都府宇治市に源氏物語ミュージアムが設立された。観光施設はあたかも源氏物語と宇治茶と官界があるかの如く宣伝せ客寄せをしているが、宇治で茶の栽培が始まったのは14世おきに入ってからであり、源氏物語の時代には蛆での茶の栽培もなく、源氏物語と茶との関係も皆無である。源氏物語ミュージアムは観光客に大きな誤解を与えかねない観光施設である。

 さて、明庵栄西が鴨川のほとりに何故建仁寺を建立したのであろうか。不思議であるが、答えは椿科のの根深さがあった。茶の木も椿科の植物であるが、この椿が地に深く根を広げる性質がある。おそらく明庵栄西はその樹木の特徴を知っていたのではないだろうか。一本道路を隔てて西隣には「笹もってこい」の歌で知られる今宮神社がある。広大な笹薮の中に建立されたものと推定される。

 笹は、もちろん護岸堤防のネットの役割を果たして、水害から集落や市街地を守ってくれるのであるが、これら今宮神社と建仁寺から目を転じて南西方向の隣には、平家の根城であった六波羅探題が存在している。これらを守護するのは当時の至上命令であったことは言うまでもない。そのような鴨川の護岸目的で建仁寺や今宮神社が建立されたと推定できる。

 中島暢太郎著「鴨川水害史」を参照してもわかるのであるが、水害の多い時代は800年代中ごろから1000年代中頃にかけてと、1400年代初頭から1900年代末期にかけてである。600年代初頭から1000年代初頭までにかけてがこの時期に該当する。


               (聖書で発見された蓮や蓮根からの事項)
<1>聖書には蓮は発見されない
 聖書には一度も「蓮」や「蓮根」が発見されなかった。蓮の花は湿地帯に分布する作物であり、乾燥地帯や半乾燥地帯でははすが発見されるはずがない。ただし、中東地方には1787年に蓮が展示されたという記録は残留している。

<2>茶の木は鴨川のほとりでも栽培された
 僧侶栄西は明から茶の種を持ち帰り日本に広げた一人であるが、彼は平安時代に廃れつつあった茶飲の風習をも広めた。茶は当時薬でもあり庶民からももてはやされた。また、竹藪も鴨川の護岸用植物として珍重された。

<3>茶は明治時代の代表的輸出作物であった。「摘まにゃ、日本の茶にならぬ」とうたわれていた。
           

聖堂の詩その1066―聖書に発見できない蓮と蓮根

2016-01-23 14:08:07 | Weblog
                蓮根掘る親を待つ子は泥遊び        紅日既掲載

 暦の上では春であるが、これから厳寒期を迎えなければならない。そんな厳寒期での蓮根掘りを俳句で描写した。掲句は暖かい親子関係を描いた。子供が泥遊びしながら親の厳しい労働が終わるのを待っている。そんな風景に親の意勤勉さと子供の聡明さを感じた。昔は職場と住居が一体化していた。住職一致である。八百屋さんも魚屋さんも住宅と店舗は一つの屋根の下にあった。農業も同じだ住宅の周りが労働の場である田畑に囲まれていた。家の中の土間は農作業の場であった。

 現代社会はキリスト教文化の影響もあるだろうが、敗戦後歪んだ個人主義思想が広がり、極端な少子高齢化社会となった。大家族が核家族化し家族労働も家庭教育も喪失した。首都圏の世帯のほとんどが独居老人であり、これが東京オリンピックではさらに高齢化に拍車がかかり、高齢者の生活を支える労働者が居なくなるとの危機感が市民の中に広がっているが、止むを得ない事態であろう。地方都市と異なり首都圏の場合その人口が4000万人に達するため、日本人の内三人のうち一人が狭小な首都圏で生活しているため事態は想像を絶する深刻なことになるといわれている。

 蓮根掘りは寒風が吹きさらす厳寒の厳しい労働。蓮根掘るは冬の季語であるが、花としての蓮、蓮華は夏の季語になる。毎年6月ごろになると次々と蓮は咲き続ける。種類にもよるのであろうが毎朝ポン、ポンと音を立てて咲くものもある。耳を澄まさなければ聞こえないのであるが、早朝の静寂の中での咲く音は気落ちが良い。京都嵐山では天竜寺の蓮の群生が大きい。また、京都嵯峨野にも蓮の群生がある。嵐山や嵯峨野は早朝夜明け前に出かけて蓮が弾け咲く音に耳を傾けるのが良いとおもう。早朝に咲く初々しき蓮華はその清浄感からであろう、仏教には欠かすことが出来ない花である。

 私が二十歳頃だった。母親と早朝の高岡城を歩いたことがある。その時、母親は蓮が咲く瞬間は「ポン」と音がすると教えてくれたしてくれた。耳を澄ませば聞こえたような気がした。蓮を詠んだ作家は多い。
   暁闇を弾いて蓮の白さかな        芥川龍之介
   蓮開く音聞く人か朝まだき         正岡子規
   静けき朝音たてて白き蓮華のさくきぬ  石川啄木
 などがあるが、昔の文人は蓮が音を立てて咲くと思っていた。私もそのように思い込んでいたのだが、どうやら蓮は音を立てないで咲くのが真実なのだそうだ。真実とはつまらないこともある。真実とは面白くないこともある。音を立てて咲く蓮のほうが神秘的でしかも趣を感じるものである。聞こえると感じなければ本当の蓮が見えないような気がしないわけではない。

 さて話を聖書に戻すが、聖書には蓮の花も蓮根もどこにも発見できなかった。蓮は湿地帯に育つ植物であり、聖書が描かれる乾燥地域や半乾燥地域では蓮は育たない。仏教寺院でもキリスト教寺院でも最も目に触れるのは、献花や供花である。仏教寺院では蓮が欠かすことが出来ないのであるが仏典にも、「南妙法蓮華経」をはじめとして漢字「蓮」が沢山発見できる。一方、聖書の花は多岐にわたりその種類が多いのが特徴である。念のため、ここで聖書に出てくる植物で樹木を除いて大雑把に列挙すれば以下の如き結果であった。

<穀類>
・豆類、レンズ豆は発見される個所―サムエル書下17-28、エゼキエル書4-9、創世記25-34
<麦類>
・小麦、粟が発見された箇所―出エジプト記9-31、エゼキエル書4-9
<工芸作物>
・亜麻は紫色の花で亜麻が発見され箇所―出エジプト記26-1、ヨシュア記2-6、箴言31-13、エゼキエル書27-7、マルコ伝15-46
・紙、paperの前身パピルスが発見された箇所―出エジプト記2-3、ヨブ記8-11、イザヤ書18-2、イザヤ署35-7
<香料・調味料>
・肉桂が発見された箇所―雅歌4-14
・肉の香辛料クンミが発見された箇所―イザヤ書28-25
・あらゆる料理の調味料イノンドが発見された箇所―マタイ伝23-23
・邪気を払い浄めに使われるヒソプが発見された箇所―出エジプト記12-21、ヨハネ伝19-29
・黒からしとも呼ばれているが、油や香料を絞る目的の作物からしが発見される個所―マタイ伝13-31
<軟膏・医薬品・香水>
・香料としての乳香が発見される個所―出エジプト記30-34、レビ記2-1、15-16、マタイ伝2-11
・医薬品としての没薬が発見される個所―出エジプト記30-23、マタイ伝2-11、マルコ伝15-23、ヨハネ伝19-39
・軟膏として活用された甘松(ナルド)が発見される個所―雅歌4-13、マルコ伝14-3、ヨハネ伝12-3
・アヘンを採取する芥子を聖書ではヨモギとしている。その蓬(よもぎ)が発見される個所―申命記29-17、箴言5-4、エレミヤ書9-14、23-15、アモス書5-7、6-12、ヨハネの黙示録8-11、
<その他の野草>
・聖書に出てくる百合は現在の百合ではなく、ヒヤシンスやニワシロユリと推定されている。その百合が発見される個所―雅歌5-13、6-2、マタイ伝6-28
・聖書に出てくるバラは現在の薔薇ではなくサフランか水仙であると推定されている。そのバラが発見される個所―イザヤ書35-1
・日本では草餅にされるヨモギは次の個所―申命記29-17、箴言5-4、エレミヤ書9-14、23-15、アモス書5-7、6-12、ヨハネ黙示録8-11
・イエスが裁判を受ける時冠っていたいばらは次の個所で発見―マタイ伝7-16
・聖書で毒麦が発見されるのはマタイ伝のみ。その個所は以下―13-25,13-26、13-27、13-29、13-30、13-36、13-38、13-39、13-40.

 聖書の植物のどこを探しても、蓮も蓮華も蓮根も見つからなかった。聖書と蓮とは全く関係がないことが判明した。現代日本の多くの基督教会でも蓮を祭壇の献花や供花にすることは皆無である。香りの強いバラや白百合が多い。香りか強い花はキリスト教会では好まれる傾向がある。ただし、基督教会ではどのような花が献花や供花の対象になるかは時代の流れの中で変化し、定まったものはない。また花は地方によりその種類が多様であり、開花の時期も異なることから地域色や時代色があって当然であろう。

聖堂の詩その1065―琵琶湖畔の氷柱

2016-01-23 14:04:09 | Weblog
蘆原に氷柱が光る琵琶湖畔      紅日2015年4月号

 新春を迎えた。これからは一日一日日中の時間が伸びてくる。そんな新春であるが、地球上で起きていることは何もめでたいことがない。残酷凄惨な事件が元旦から毎日毎日連続している。私はもうこの世に親から生命をいただき70年以上になる。ミッドウエー開戦頃で太平洋戦争敗北空気が迫るころに生まれた。真珠湾攻撃からわずか半年で敗北ムードであった。この70余年の中で今ほど日本社会が不安定なことはなかった。食糧難にあえいだこともあった。友人が栄養失調で亡くなったこともあった。

 戦後は貧しくても何となく将来が見えていた。将来が薄明るく見えるのでひもじさに耐えることができた。今ほど不安定な時代ではなかった。現代日本社会は、正社員が非正規社員になったり、期間雇用労働者が派遣労働者になったり、また労働組合もなく、企業による嫌がらせは日常茶飯事である。明日首切られるかわからない時代である。また政府や財界は近い将来正社員を一人残らず派遣労働や期間雇用労働に切り替えると声高に叫んでいる。

 昔は困ったことがあれば労働組合に相談した。また、つらいことがあっても地域で助け合って何とか乗り越えることが出来た。しかし今は近所ですら「おはようございます」の挨拶も出来ない社会に零落してしまった。社会保障制度は瘦せ細り、明日からリストラで路頭に放り出されるかもしれない。そうなれば尽くす手段は何もない。強盗などの犯罪に走るよりほかはないのであろうか。明日何が起きるかわからない精神的不安が日本社会に充満しているといっても過言ではない。

 もっと深刻なのは宗教対立である。なかんずくユダヤキリスト連合対イスラム教が激しい。フランスのマスコミはムハメッドを誹謗揶揄した挿絵を全フランスと世界にばらまいた。一部過激派やマスコミによる扇動とは言われるものの、ユダヤキリスト教連合とイスラム教徒の対立はことに過激である。人の心を安らかにすべく宗教団体が異教徒を許し置くことができないとして、偶像崇拝者を無人爆撃機で大量虐殺しようとしている現状をマスコミが報じている。中東地方の戦場は燎原の火の如く広がっているのであるが、人類はこの火を消し止めることができないでいる。

 真偽のほどは不明だが、アメリカ財界やサウジアラビア王室はイスラム国に資金援助しているという噂が浮沈している。社会を不安定にすることで巨万の富が転がり込んで悔いる仕組みがあるのだろう。不安定であればあるほど無人爆撃機は飛ぶように売れるといわれている。私たちは冷え冷えとした正月を迎えた。冷え冷えとしているので今号は聖書に出てくる「氷」に関して綴ってみようと思う。聖堂の詩では氷に関してはすでに189号、394号、708号などで扱ったことがある。今回はもう少し角度を変えながら聖書の氷を観察して見ようと思う。  

 まず、聖書の中にどれぐらいの「氷柱」があるか捜しましたが、皆無でした。しかし、氷はいくつか発見できました。最近視力が随分衰えているのですが、私の計算では3回発見できました。それは以下の個所でした。

 ヨブ記では二回
 詩編では一回
 以上の三回でした。

 聖書の舞台は今と比べれば気候が穏やかで、夏の乾燥も現代ほど激しくなかったと推定されています。それでも、気候区の区分をすれば高山気候か、砂漠気候から半砂漠気候です。したがって山岳地帯では結氷があったのは聖書からでも明らかです。わずか三回しか聖書に「氷」は発見できませんが、わずかな氷で古代当時の気候す推定してみたいと思います。

 私は、世界で最も低い土地にある都市トルファンを研修のために二度訪問したことがあります。二度とも猛暑の八月でした。海抜154mに位置していて人口20万余の小都市でした。日中は水銀柱が50度近くに肉薄する時もありましたが、日が沈むと急に涼しくなります。そうするとトルファンの人々が町中に続々と出てきて活気ずきます。日中の森閑とした街とは様変わりです。そして深夜過ぎても市場を中心にして人々の声が聞こえてきます。トルファンの人々は夜活躍していました。

 しかし、これが冬になると急激に気温が下がります。天と地の落差があります。トルファンの最高気温は50度に迫る肌を刺すような酷暑であるが冬はマイナス20度からマイナス30度にまで気温が低下する。夏と冬の温度差は80度前後になることもある。内陸性に気候は寒暖の差が大きい。イスラエルも同じである海洋といえども地中海は陸地に囲まれた内海であり陸地に近い海洋であるためにトルファンまでは極端ではないが知れに近い気候であると考えてよい。内陸性の気候である。

 聖書の中では氷柱(つらら)は皆無であった。そこで、氷を探したがあまり見当たらない。外典を含めて六回しか発見できない。氷の開設に入る前に念のため聖書には正典と外典があることを確かめておきたい。キリスト教はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教の三派系に分類される。三派系といえば暴力のにおいがして恐ろしいのであるが、基督教も成立の新旧により、三派に大きく分けることが出来る。それぞれの宗派には聖典がある。この聖典が正典と外典とに分かれているので話がややこしい。

 多くの教会ではこの正典の読み方と外典の読み方をどのような角度から読めば良いのか全く説明してくれない。一部であるが、正典と外典があることを知らない神父や牧師がいるというのであるから驚きである。学校教育の頽廃堕落は神学校にまで及んでいるのであろう。

 尤も現代日本では神学校で学びたい人は乏しく、全国各地の神学校や大学付属の神学部は風前の灯らしい。神学部などでは、教師独りに生徒が一人という学校はざらにある。生徒がゼロで廃講準備の学部もあるとのこと。

 大雑把な言い方であるが、正統な聖典を正典と言い、新しく発見された聖書は亜流で外典であるとされていることが多い。氷が発見された聖書の巻は、ヨブ記、詩編、知恵の書、シラ書、ダニエル書補遺、エズラ記(ラテン語)がある。これらの内、前の二つヨブ記と詩編は正典であるが、他はすべてが外典である。       

                 (聖書に発見される「氷」の巻別分布表)
●ヨブ記には「氷」は2回発見される。その箇所は以下である。
・6-16には「流れは氷に覆われることがある。雪が解けて流れることもある」とある。
 流れとあるので河川の結氷である。イスラエル河川は多くの河川はWadiであり、一時的に流れることがあっても四季を通じて絶えず流れていない。おそらくこの川は標高2916mヘルモン山の豊かな雪解け水が豊かに流れるヨルダン川であろう。それ以外の川は考えにくい。
 結氷したヨルダン川の氷の下に流れが見える。また、その頃は雪解水も音を立って流れている。そんな春先の結氷と雪解の景色であるが、このような光景が中東地方に見ることが出来るのは標高2916mの頂が万年雪のヘルモン山の周辺でしか見ることが出来ないであろう。
・37-10には「神が息を吹きかければ氷が出来て、水の広がりは凍って固まる」とある。
 「神が吹きかければ」としているが、風が吹けば地上の熱を奪い結氷し易いことを描写している。そのような科学的認識もあった。

●詩篇には「氷」は1回発見される。その箇所は以下である。
・147-17には「氷塊がパンくずの如く投げられる。誰がその寒さに耐えられようか」とある。「氷塊がパンくずの如く投げられる」は理解しがたい表現である。パン屑の如く投げるは細氷(ダイアモンドダスト)であろうか。キリスト教文化圏では古代から食べものを粗末にしていたのであろうか。童話「ヘンデルとグレーテル」でも道を迷うわないように道にパン屑を落としてきたことが描写されている。それほど小麦粉やパン屑が有り余っていたのであろうか。不思議な現象だ。
 日本ではこんな行為は絶対に許されない行為である。日本は長らく米本位制の国であった。家禄制度は江戸時代だけではない。戦後まで国民一人残らず米穀通帳が与えられそれが身分証明書でもあった。それは米の配給だけでなかった。通学定期の購入でも、如何なる行為でも通帳提示が求められた。日本文化では米粒を捨てるまたはご飯粒を投げることは絶対に許されることではない。
 それは道徳上に於いても「勿体無い」という言葉が先に飛び出して許される行為ではないことは言うまでも無い。従って、これは比喩的表現であるもののこの箇所は我々の理解を超える比喩的表現であり情景であり理解の及ばない箇所の一つであろう。日本文化とキリスト教文化の厚い壁を感じる一箇所だ。

●知恵の書には「氷」は2回発見される。その箇所は以下である。
 「知恵の書」は「ソロモンの知恵」とも呼ばれていて、イスラエルの歴史を振り返りつつ、其処には常に知恵があったことを述べている。カトリックやギリシャ正教では旧約聖書に含めている。ユダヤ教やプロテスタントでは外典としての扱いである。
・16-22には「雪と氷は火に耐えて解けなかった。それは雹の降る中で燃え盛る火、雨の中で輝く火が、敵どもの収穫を台無しにあいたことを、知らせる為であった」とある。
・19-21には「炎は、かよわい生き物がその中を歩いても、その肉を焦がすことはなく、氷のように解けやすい天からの食べ物も解かすことはなかった」とある。

●シラ書には「氷」は1回発見される。その箇所は以下である。
 シラ書はカトリックやギリシャ正教では旧約聖書の一部としているが、ユダヤ教もプロテスタントも外典として扱っており正式の聖書には含まれていない。シラ書は集会の書とも呼ばれている。シラは人名。シラ書は人間関係教育や礼儀作法を述べており、律法への忠実の重要性を訴えている。人間関係が難しい時代に著されたのであろう。
・43-20には「寒い北風が吹くと、水の面は堅い氷となる。水のある所何処にでも吹きつければ、水はあたかも胸当てをつけたようになる」とある。
 今から5000年前の縄文時代は温暖社会で別であるが、一般に現代よりも古代のほうが気温が低かったといわれる。北風で水面の熱が奪われて結氷する。また結氷は水の膨張作用であり、「水はあたかも胸当てをつけたようになる」と表現していて、12枚の胸当ての宝飾に違いがあるように、結氷は水の膨張率の違いであることを当時の人々は知っていたと推定できる。

●ダニエル書補遺には1回発見された。
・1には「氷と寒さよ、主を賛美し、代々に称えあがめよ」とある。
 氷や寒さは主を賛美する現象であると考えられていた。農産物の扱い、例えば保存などで氷や寒さが不可欠であるという認識があったのではなかろうか。

●エズラ記(ラテン語)には1回発見された。
・3-19には「貴方の栄光は火と地震と風と氷の四つの門を通り過ぎ、イスラエルに栄光を与えた」とある。
 氷は関門の一つとして考えられた。

            (聖書の中に出て来る当時の人々の氷についての認識)
(1)聖書に氷雪ははない
 日本語には「氷雪」と言う熟語があるが、氷と雪とが気象現象上の凍結物質であるとして並列して認識されている。聖書では「氷雪」という単語は発見されなかった。「氷」が全部で6回しか発見できない。一方雪は24回聖書に発見され。気象現象の凍結物質としては雪より氷よりも遥かに低い頻度で聖書に表れる。結氷は希少性の高い気象現象である。

(2)雪が一位、氷が六位
 因みに低温気象現象時に生成される氷雪以外の他の物質に関して某日本語訳聖書に出て来る高い頻度順に並べると以下の如くであった。
第一位雪が26回
第二位霰が19回
第三位雹が18回
第四位霜が09回
第五位氷が08回
 であった。霰や雹が以外に高い頻度で出て来ることが判明した。あらゆる低温気象現象で最も頻度が低いのが氷であった。古代の中東地方での結氷は低温気象現象の中も稀に見ることしか出来ないものであったことが伺い窺い知ることが出来る。

(3)凍結の多様性
 水が凍って氷になるとその容積は大きくなり膨張する物理的性質があるが、既に古代からそのような物理的性質を人々は理解していた。それはシラ書43-20において確かめられる。それは、「水のある所何処にでも吹きつければ、水はあたかも胸当てをつけたようになる」としており、胸当てのように水面が膨張することを描写している。

(4)春先の凍結河川
 ヨブ記6-16には「流れは氷に覆われることがある。雪が解けて流れることもある」とある。河川結氷の春先の情景を人々は知っていた。

(5)勿体ないが無い社会
 詩篇147-17には「氷塊がパンくずの如く投げられる」とある。比ゆ的表現であろうが、我々日本人では理解しがたい食べものの扱いである。

(6)パンくずの如き氷とは
 詩篇147-17には「氷塊がパンくずの如く投げられる」とある。これは細氷(ダイアモンドダスト)のことだろうか。パンを細かく千切って投げていたのだろうか。千切るとすれば粉に近い千切りかたであり考えにくい。しかも、細氷(ダイアモンドダスト)は日本でも北海道一部の極寒地のマイナス10度以下の地方であり中東地方では考えにくい気象現象である。

聖堂の詩その1064―新約の地震(2)

2016-01-23 13:58:51 | Weblog
               雪積る大地余震の地鳴りする      紅日2013年3月号

 2016年元旦から岡山県北部で地震があった。気象庁のデータによれば岡山県北部のほかに岩手県沖、福島県沖、沖縄本島近海、北海道日高地方、トカラ列島、長崎県南部などにも自信があった。岡山は震度3、岩手は震度2、他地域はすべて震度1で大きな地震ではない。一日に有感地震が日本列島全体で複数回起きるのは普通で、無感地震を含めると毎日日本列島には地震がある。別に珍しいことではない。

 しかし、昨年は口永良部が大爆発を起こした。他には桜島、霧島、箱根山、蔵王など多くの火山が動き始めている。昨年は火山活動が多かっただけに、地震は不気味である。地震速報が入ると心臓が凍りそうな心地である。

 今朝も福島県沖で地震があったのであるが、福島原発ではすでに放射能汚染水が満水で地下水遮断評決版が傾斜しているそうだ。その上、消費済み核燃料プールが階上に設置されているだけに心配である。プールが転覆すればどうなるか考えると背筋が凍りつきそうになる。そんなことが起きれば、今度こそ首都圏は全滅であろう。元旦の地震の多さの中で、そんなことを案じた。

●マルコ伝には漢字「地震」1回発見された。以下がその位置であった。
・13-8には次のように述べている。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がり、方々に地震が起きて、飢饉が起きる。これらは産の苦しみの始まりである」と。
 マタイ伝24-7と重複

●ルカ伝には漢字「地震」1回発見された。以下がその位置であった。
・21-11には次のように述べている。「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」と。
 地震が原因で飢餓に襲われる事例は、日本の場合地震による水田の水位低下、河川流路変更により灌漑水路に水が届かない等米作への打撃がその原因であった。また、火山性地震の場合は火山噴火の噴煙により太陽光線が遮られ地上の稲が育たないことも飢餓の原因であった。
 中東地方は水田耕作は見られない。農地のすべてが畑作や放牧地で地震が飢餓の直接原因にはなりにくかった。家屋の崩壊建造物の崩壊が人々の生産活動をストップさせ、そのことによる食料調達が困難に陥った。それが飢餓の原因であったと推定される。
 なお、本文には「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」とあるが、「著しい徴が天に現れる」とあるが、この場合「天の著しい徴」は天界の星ではなく、即ち星座ではなく、火山噴煙ではなかろうか。当時は星座に関する知識が普及しているので、地震が原因の星座の変化はありえない事象である。
おそらくこの火山はカルメル山であると推定できる。シナイ山も火山であるが、エルサレムから400㎞もあり、あまりにも遠い。カルメル山が適当である。カルメル山はエルサレム北方100㎞に位置する火山。冬の偏西風が北または北西風の場合、風下にある高地エルサレムはすっぽりと噴煙の中に入るであろう。「著しい徴が天に現れる」はそのことを示していると推定できる。したがってこの場合の地震はカルメル山の火山性地震ではなかろうか。

●マルコ伝には漢字「地震」1回発見された。以下がその位置であった。
・13-8には次のように述べている。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がり、方々に地震が起きて、飢饉が起きる。これらは産の苦しみの始まりである」と。
 マタイ伝24-7と重複

●ルカ伝には漢字「地震」1回発見された。以下がその位置であった。
・21-11には次のように述べている。「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」と。
 地震が原因で飢餓に襲われる事例は、日本の場合地震による水田の水位低下、河川流路変更により灌漑水路に水が届かない等米作への打撃がその原因であった。また、火山性地震の場合は火山噴火の噴煙により太陽光線が遮られ地上の稲が育たないことも飢餓の原因であった。
 中東地方は水田耕作は見られない。農地のすべてが畑作や放牧地で地震が飢餓の直接原因にはなりにくかった。家屋の崩壊建造物の崩壊が人々の生産活動をストップさせ、そのことによる食料調達が困難に陥った。それが飢餓の原因であったと推定される。
 なお、本文には「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」とあるが、「著しい徴が天に現れる」とあるが、この場合「天の著しい徴」は天界の星ではなく、即ち星座ではなく、火山噴煙ではなかろうか。当時は星座に関する知識が普及しているので、地震が原因の星座の変化はありえない事象である。
おそらくこの火山はカルメル山であろう。シナイ山も火山であるが、シナイ山はエルサレムから400㎞もあり、あまりにも遠い。カルメル山の可能性の方が高い。カルメル山はエルサレム北方100㎞に位置する火山。地中海に面した火山で偏西風をまともに受ける山。冬の偏西風が北または北西風の場合、風下にある高地エルサレムはすっぽりと噴煙の中に入るであろう。
 「著しい徴が天に現れる」は火山現象を示していると推定できる。したがってこの場合の地震もカルメル山の火山性地震であると推定される。火山性地震の後に噴火が起きてその上で噴煙が流れてきてで著しい徴が天にあらわれた。噴煙で真っ暗になったということではなかろうか。一年中青空の地中海性気候である。そんな青空の国での火山噴煙は人々には驚くべき現象であった。

●使徒行伝には漢字「地震」1回発見された。
・16-16には次のように述べている。「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」と。
 パウロはやくざと女との関係を断ち切りました。やくざは女からはいってくる資金源を断たれたことを怒り、パウロを囚人に追い込みました。その牢屋での描写がこの一節です。それはエーゲ海に面したピリピ市です。ピリピの市街地の一隅にある牢獄での出来事でした。突然、大地震が起きたとあります。牢屋は囚人が逃げないように設えた頑丈な建物です。その土台が揺れたというのですからよほどの大地震であったと推定できます。
 この地震も火山が多い地域の近傍なので、火山爆発に伴う地震であったと推定されます。ギリシャにサントリニー諸島があります。その島々はすべて火山島であり、BC197年から始まって、紀元に入っても何度も爆発を繰り返して数多くの火山島を形成しています。それがサントリニー諸島と呼ばれるようになりました。したがってピリピでの地震もそれに伴うものでしょう。
サントリニー諸島は現在ではヨーロッパの避暑地であり観光地になっている。いくつもの島が時代を分けて形成された。最長20mにも及ぶ巨大島の誕生に伴う地震であるだけに巨大地震であったと推定される。ピリピからサントリニーまでの直線距離は450㎞で少し離れているものの、生成された火山の大きさからすればピリピでの大地震は不思議ではない。

●ヨハネの黙示録には漢字「地震」5回発見された。
 (黙示録とは何か)
 黙示録とは英語ではギリシャ語のアポカリュプシスの翻訳。接頭語アポ(離れての意味)を冠するカリュプシス(覆いつくすの意味)である。英語ではRevelationであり暴露するやすっぱ抜くという意味がある。日本の週刊誌がやるようなことだ。そのように言えば黙示録の威厳も形なしであるが、キリスト教文化圏と我々仏教文化圏との落差であるかもしれない。
 ユダヤキリスト教文化圏では今まで誰も言わなかったこと、誰も語らなかったことに価値を見つける。科学はそのような性質がなければ科学ではないとの認識が欧米社会では強烈である。模倣は絶対に許されない世界がユダヤキリスト教文化圏にある。欧米では派遣労働を含めて労働時間の切り売りや労働をゲーム視するのはこの点に由来するのであろう。語り継いだり人に伝えることは欧米では労働ではない。その人の頭の瞬間的閃きやその結果による企業収益だけが労働である。日本は時間を超越した労働の共同作業で文化が形成されるが、ユダヤキリスト教文化は個人の一瞬技や手柄が重視され集団共同作業や伝承を忌み嫌う文化がある。それはユダヤキリスト教文化と仏教文化との大きな落差だ。
 この黙示録が著されたのはそれはローマ帝国の暴君ネロが支配していた時代であり紀元69年ごろであると推定されている。内容は多岐にまたがって複雑であるが、最も主張している点はハルマゲドンであろう。神による最後の審判、天国への導き、地獄への転落が主旨ではなかろうか。日本の仏教でいえば釈迦への道か閻魔への道である。極めて過激思想であり、選択肢の強要はオウム真理の主張と重複している点もある。この黙示録の著者はイエスの弟子ヨハネのしもべであるといわれている。彼は黙示録原稿を書き終えてパチモス島に残した。パトモス島はエーゲ海に浮かぶ小島でトルコのイズミル沖に浮かぶ。そのようなヨハネによる黙示録の中に漢字「地震」は5回発見された。以下がそれぞれの位置である。

・6-12には次のように述べている。「また、見ていると、子羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになった」と。
 子羊が第六の封印を開いた、その時地震が起きた」とあり、読み方ににもよるが、徐羊が地震を引き起こしたかの如く描写である。地震を自然現象と捉えないで、人や神や動物が地震を起こしたかの如く認識があったのではないだろうか。

・8-5には次のように述べている。「それから、天使が香炉をとり、それを祭壇の火を満たし地上に投げつけると、雷、様々な音、稲妻、地震が起きた」と。
 香炉を投げつけたその瞬間に地震が起きたとある。ここでも香炉を投げつけた天使が地震を起こしたかの如き描写である。

・11-13には次のように述べている。「そのとき、大地震が起きて、都の十分の一が壊れて、この地震のために七千人が死んだ。残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた」と。
 都の十分の一が破壊され7000人が犠牲者になったとあるが、この地震は黙示録が描かれた直近のイスラエル大地震のことを指摘していると推定される。それは紀元前BC31年8月21日のことであり、当時詳細な震災記録が筆者であるヨハネのしもべの手元に残留していたのであろう。

・11-19には次のように述べている。「そして、天にある神殿が開かれ、その神殿の中にある契約の箱が見えて、稲妻、様々な音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降り始めた」と。
 この場所も神殿が開かれて初めて地震が起きたと描写されている。地震は人為的な現象であると考えられていた。この地震も紀元前BC31年8月21日のイスラエル大地震であったと推定される。

・16-18には次のように述べている。「そして、稲妻、様々な音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、未だかつてない大地震であった」と。この地震も紀元前BC31年8月21日のイスラエル大地震であったと推定される。


                  (聖書の中で地震に関して調査し判明した事項)

<1>聖書に出てくる火山
 地震はその原因からは大まかに三つに分類される。第一はプレートの活動による大型地震である。第二は、その活動に伴う活断層が引き起こす活断層の地震がある。そして、第三の活動は火山性の活動である。中東地方にはこれらすべての地震がある。まず、火山性の地震を取り上げてみる。現在の中東地方の代表的火山はアララット山(トルコ)、ネムルト山(トルコ)、ダマーヴァンド山(イラン)、タフータン山(イラン)などが挙げられる。火山には活動期と活動休止期とがある。また周期的に発動する事例が多い。
 聖書には二つの火山が挙げられる。いずれも現在は活動休止期である。第一はエルサレム宮殿北方で地中海に面したカルメル山である。もう一つは列王記19-11に出てくるが、エリアが主とであった山である。当時はホブレと呼んでいたげ、現在はシナイ山と呼んでいる火山である。
 
<2>全能の万軍の主が顧みる時に地震が起きる
 イザヤ書29-6「万軍の主によってお前は顧みられる。雷鳴、地震、大音響と共に旋風、嵐、焼き尽す炎のうちに。」と。あらゆる軍隊を統率支配するのは主であった。主は万軍の主」である軍事力を支配し指令し管理しているそれが主であった。聖書にはこの「万軍の主」は248回も数えることができた。
 如何に多くの人々は軍事力へ大きく依存していたかが見えてくる。民族への憎悪や偶像崇拝者の忌避は虐殺で報いた場面が多数あった。キリスト教やユダヤ教は成立以降無数の戦争を繰り返している。この点は仏教にも指摘できる。
 今もなお中東地方で血を血で洗う戦乱を繰り返している。その思想的背景にはこれら宗教特有の軍事力依存がないとは言えないであろう。ドイツナチスと同じように米軍も軍隊は鷲の記章を付けている。因みに聖書には鷲は59回も発見される。
 鷲の記章を付けたブッシュ大統領のバクダッド攻撃合図を従軍テレビカメラが追いかけた。そんなブッシュが「空爆の成功を祈って、アーメン」と唱えたことが今も忘れられない。聖書の中では万軍の主が顧みる時に地震と共に雷鳴、旋風、嵐、炎が起きている。万軍の主の恐怖と全能を描写している。

<3>地震は人為的にまたは動物行動で起こされた
 地震はどうやら人為的または動物行動が引き起こすもの、または深く関連するものと当時は考えられていた。地球のマントル対流に伴うプレート運動による地殻変動や活断層の発生に関する知識は当時は皆無であった。いくつかの場面でそのようなことが言える。
 第一は列王記19-11であり「主の御前に風が起こり、山を裂き風の後に地震が起きた。
 主の行動と地震とが密接にかかわっていることがうかがえる。
 第二にはイザヤ署29-6である。そこには「万軍の主によってお前は顧みられる。雷鳴地震、旋風炎の内にあり」とあってこれも万軍の主と地震とが深く関連付け られる。
 第三にはエゼキエル署「私は情熱で語る。必ずその日に、大地震が起きると」とし神や人間の石で地震が起きると考えていた。
 第四にはマタイ伝24-7には国家間対立や国民対立がj日心をひこ起こすと考えていた。
 第五にはマタイ伝27-54ではイエスキリストが張り付けられている場面である。ここでは百人隊長が地震が起きたりするのはイエスキリストが神の子ではないかと いう疑念を抱き始めている。これも地震は人為的に起きるのではないかと人々は感じていたことを示す一場面である。
 第六は同じくマタイ伝で28-2で描写されている天使の行動である。天使が石の上に座るために地震を引き起こして巨石を転がし、その上に座したとしている。地 震を起こしたのはこの場合天使であるかのごとく描かれている。
 第七は黙示録6-12である。子羊が契約の箱の封印を切ったことにより同時に地震が起きたと描写されている。子羊の行為が地震を引き起こしたとしている。
 第九は黙示録8-5である。ここでは天使が香炉を地上に投げつけたことで地震が起きていると描写している。
 第十はこれも黙示録であるが、11-13には地震を恐れ人々は天の神の栄光を称えたとあり、地震は神が引き起こすものと信じられていた。