聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その235―聖書の茶

2009-04-29 10:50:18 | Weblog
    機械にて刈りて茶の畝整える   1990年7月号
 茶摘、茶摘女、茶山、茶園、製茶、茶揉み、焙炉どれもが春の季語である。茶摘の季節に関連する語が春の季語である。しかし、「茶を刈る」は季語には無い。茶摘も製茶も機械化が進んでいるので「茶を刈る」も季語に入れてらえないだろうか、そんな思いでこんな句になってしまった。機械で茶を摘めば摘んだ後の畝が手で摘むよりすっきりしていることに気がついた。機械であるので茶の畝に凹凸が出来ないのである。機械の冷徹な均一性と言えば良いのだろうか、それとも機械の不思議さと言えば良いのだろうか、それとも機械の魔法性と言えば良いのであろうか。茶の畝の上を機械が通った後の整い方には驚いた。その驚きを句にした。
 聖書に「茶」はあるだろうかあちこちの文書をひっくり返したり、インターネットでひっくり返したりしたのであるが見つからなかった。茶そのものは見つからなかったが辛うじて「茶」一文字を発見できた。それは茶そのものではなく「茶色」または「栗色」である。
 士師記5-10において「茶色のロバに乗る者、毛氈に座る者、及び道を歩む者よ、共に歌え」とある。また別の聖書によればその部分を「栗毛の驢馬に乗り、敷物を敷いてその背に座り道を行くものよ、歌え」とある。同じ聖書でも翻訳の仕方で此れほど落差があるのであろうかと驚いた。前者は三人に呼びかけている場面であるが、後者は一人に呼びかけている場面になっている。それは兎も角として前者の場合は茶といっても翻訳者が「茶色」と翻訳したのであり、飲むお茶とは全く異なる。後者は「栗毛」と翻訳しているので「茶」では無いことがはっきりする。聖書にはこの他に「茶」は発見できなかった。
 既出の「世界の栽培作物の起源と伝播」によれば茶は原産地は概ね一箇所であるが二通りの伝播のルートがあるようだ。158頁に地図を添えてそのことが説明されている。茶の原産地はヒマラヤ山脈山麓であるが一つのルートは中国を経由して日本に渡ったいわゆる緑茶と呼ばれたり日本茶と呼ばれるものである。この緑茶は中国に於いて様々な形態に分かれた。もう一つはヒマラヤ山脈南麓の茶で紅茶である。欧米に広がった茶はその葉の色が黒いのでブラックティと呼ばれるものである。
 前者の緑茶は中国では紀元前1000年に溯り華北には西暦3世紀、そして日本には西暦8世紀頃に伝播した古い茶である。後者の紅茶はその歴史が極めて新しい。ヨーロッパに広がったのは18世紀から19世紀にかけての出来事だった。先ほど述べたようにイギリス人がインドを植民地にして茶の葉を本国に持ち帰って本国の水で茶を入れたのであるが香りも味も無かった。しかし船倉の隅で腐った茶を入れてみると芳醇な匂いと味を楽しめたので茶を発酵させることを学び紅茶として愛飲するのが始まりだったという。これが全世界に広がったブラックティで、中国語や日本語では紅茶と呼ばれている茶である。
 インドからヨーロッパに伝播した18世紀から19世紀にかけての茶は紅茶として初めてパレスチナ地方を通過したのであり聖書に出てくるはずが無いのである。聖書と茶とは全く関係が無い。現在でも水質に於いて茶を受容れる環境ではないのではなかろうか。戦乱の渦中パレスチナ地方に平和が訪れて穏やかになれば死ぬまでに一度は訪れたい地方である。どのような茶との距離があるのかまたは接触をしているのか調べたいものである。

聖堂の詩その234―蚕

2009-04-28 03:47:17 | Weblog
   繭籠る蚕最後の糞をして    1992年9月号
   蚕室の棚で携帯ラジオ鳴る  1932年9月号
 春のお終いが迫ってきたので今回は二句取り上げてみた。蚕は春の季語。今は忘れられつつあるが養蚕業と製茶業は日本の輸出の花形産業であった。今も全国各地の農村には屋根裏に蚕室が設えられて、屋根の天辺に蚕室の空気抜きが見られる。京都郊外の田舎や滋賀県でも見られる。昔は絹や茶が花形産業でありそれは丁度現在の自動車産業と家電産業にあたるものだった。成功はしなかったが養蚕業は北海道にまで広げようとした。日本の外貨獲得意欲が如何に強かったか窺えるのである。また、その外貨の集積により戦争を始めることも可能となった。戦前の日本の農業は内需産業ではなく輸出産業でもあった。
 養蚕業も製茶業も戦前の輸出花形産業であり、外貨の稼ぎ頭であったことが忘れ去られるように、今の日本の自動車産業や家電産業も外貨の稼ぎ頭であることが忘れ去られる時代が近いのであろう。時代の動きが早いだけに自動車産業や家電産業が日本から姿を消すのは案外早そうである。アメリカの自動車ビッグスリー(GM・クライスラー・フォード)が倒産の危機を迎えていることからもそのような気がする。交通機関が自動車から鉄道等新しい交通体系に切り替わりつつあり自動車産業が黄昏期に入っている。国民の住居が郊外から都心部に移っていることもその一現象である。その意味に於いても電気自動車は自動車産業発達過程の最終局面だ。電力を含めてエネルギー浪費の本質は如何なる変化も無いからだ。
 ソーラーシステムに供されるシリコンの原材料は無尽蔵である。地球で最も大量に存在する元素、珪素Siは石ころであり無尽蔵である。石ころから電力を引き出せるようになったのであるが、Siの純度を高める時に消費される膨大な電力が一切明らかにされていない。また、同じようにソーラーシステムが耐用年数が過ぎた場合廃棄物となるのであるが、その時に消費する膨大なエネルギー消費に関し全く明らかにされない。廃棄物として処理が可能かどうかも分らないのである。そして、ランニングコストだけを明らかにしている。謂わば見せかけ省エネである。
 危険なのは省エネや二酸化炭素排出削減という言葉に対する甘えである。省エネや二酸化炭素削減はすなわち原油消費量の抑制に繋がらないで、逆に爆発的浪費に繋がる恐れがある。日本でガソリン消費抑制の高性能自動車が開発されたと同時に原油消費量が増加した経緯がある。省エネと言う甘えが浪費加速化の原因となった。同じ繰り返しが重ねられる可能性が大きいのである。1リッターガソリンで10km走行の自動車があった。それが1リッターガソリンで15m走行の自動車が開発された途端に人々は従来一日10km走行していたのであるが、一日40kmも50kmも走るようになるものである。省エネ車は「安心浪費」の問題を浮上させる結果となった。
 掲句は1992年の作品であり、最早蚕が外貨の稼ぎ頭にはなっていない戦後のことで愛媛県大洲市の養蚕農家での作品だ。細々と養蚕を継続していて、国内産の絹として国内に出荷されるものである。蚕は猛烈な大食漢である。エネルギー浪費の最右翼とも言える。農協から買ってきた蚕は文字通り虫眼鏡で見なければ分らないほどの小さなものである。これを風通しの良い蚕室で育てるのであるが、蚕の餌となる桑の葉を毎日大量に与えなければならない。ジリジリという音を食べながら葉をたちまち食べつくし大きくなるのはまるで化物である。
 従って日本列島の桑畑は考えている以上に広大であることに驚かされると同時に戦前輸出産業に如何に力を注いできたかがわかるのである。失敗したのであるが北海道まで日本政府は養蚕地域を拡大しようと試みた。山麓・台地・扇状地・自然堤防などありとあらゆる高燥地は殆どが桑畑に供されていた。政府国土交通省の国土地理院発行の地形図には野菜などを生産する単なる畑と桑畑とを別々に表記しているほど桑畑面積は広い。
 桑畑はアルファベットのYの最下部に小さな一を影として描いた記号であり、普通の菜園は点で囲んで表記している。畑でどちらが広いかといえば桑畑の方が遥かに広い。水田に次ぐほどの広さを占めている。日本は欧米に絹織物を出荷することにより外貨を獲得していたのである。政府はそれを奨励していた。日本の戦前の農業は輸出型産業であると言える所以である。
 製糸工場には貧しい農村地域から子女が働きに出ていた。彼女達には一汁一菜にも満たない貧しい食事が工場で与えられた。あまりにも食事は貧しく工場の監視員の目を盗んで繭の中から出てくる乾涸びた蛹を盗み食いすることにより密かに動物性蛋白質を摂取していたから彼女達が生き延びることが可能であったといわれている。現在の派遣労働者の悲哀と同じことが戦前も養蚕農家や製糸工場に展開していたのである。能率のみを追求することで外貨を稼ぎ出し戦争の準備を整えることが出来た。
 掲句は大食漢である蚕が繭籠る寸前を描いた。大食漢であるが故に糞の量も大きい。最後の糞をして自ら糸を吐きながら自分の神殿に入るが如く繭籠る姿を描いた。また、屋根裏の蚕室は蚕が育つ為に設計されている。大量に飼育するので自ずと蚕自身の息で蒸せて気温が上るのであり、風通しが良いように設計されている。
 ジリジリと音を立てて桑を食べる蚕の為であろうか蚕棚の上には携帯ラジオが付けっぱなしになっている。「お蚕さま」扱いだ。養蚕農家は音楽を聞かせてまでお蚕様のご機嫌を伺っているのである。大食漢の蚕の生産能率を引き上げる為にあらゆる手段を講じている。能率と効率以外には何も考えない功利主義が人間性を無視している。蚕が桑を食べる音とラジオの音が私の耳には功利主義の貧しさでもあり功利主義の哀歌にも聞こえた。
 聖書には蚕も繭も蛹も何処にも発見することが出来なかった。東アジアと西アジアとを繋ぐ陸上交通は絹の道であった。絹の道はヨーロッパ人の視点からの呼称である。東アジアから宝物としての絹がヨーロッパに齎されたのでザイデンシトラーフェン「絹の道」である。ドイツ人地理学者リヒトフォーフェンの著作「シナ」(1938)に於いてそのように命名した。そして、彼の弟子ヘディンが「The Silkroad」を表し世界的にシルクロードと呼ばれるようになった。シルクロードは新しい。古くても紀元前2世紀にしか遡ることが出来ない。聖書時代には未だ中国から絹がほんの少ししか届いていなかった。届いていたとしても一般化していないので聖書に出てくる頻度が低い。
 そもそも絹の生産の始まりは中国で紀元前3000年に溯る絹の生産方法は中国で長らく紙などとともにその製法は秘密化していた。製法を秘密にしたまま絹をシルクロードを通じインドやペルシャに輸出し始めたのが紀元前1000年頃であり、絹が古代エジプトの遺跡から発見されている。古代ローマの遺跡でも絹が発見されているが絹の製造技術は伝わらなかった。金と同じ重さで絹が交換され高価な衣料であり、贅沢を抑制する為にアウグスチヌス法に於いて絹の着用を禁止した程である。
 絹の製法がシルクロードを通じて初めて入って来たのは時代はずっと新しく六世紀に入ってからであり東ローマ帝国に入って来たのがはじめてである。従って聖書には「蚕」や「繭」という言葉が無い。聖書時代の衣服は亜麻や羊毛が中心であり絹はなかった。あっても製法も知られていないし庶民の手に入るものでもなかった。従って聖書に「絹」は全く無いとばかりに考えていたが、よく探せば三箇所だけに発見出来る。それは絹の生産を暗示するものではなく上記の如く中国から輸入されたものである。いずれも上流社会にのみ使われていたことがひと目で分る描写である。それは以下の三箇所である。
●エゼキエル書エルサレムの背信16-10には「そして美しく織った服を着せて上質の革靴を履かせて亜麻布を頭に被らせ、絹の衣をかけてやった。私はまた、装身具をお前につけて、腕には腕輪、首には首飾りを付けた。また、鼻には飾りの輪を耳には耳輪を、頭には美しい冠を被らせた」とあり贅を尽くす品々のうちの一品として絹が取り上げられている。
●エゼキエル書エルサレムの背信16-13には「お前は金銀で身を飾り亜麻布と絹とで美しく織った服を身につけた」とあり上記の文章に続けている。
●ヨハネの黙示録バビロンの滅亡18-12には「その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしき木と象牙細工、そして高価な木材や、青銅、鉄、大理石などで出来た器、肉桂、香料、香、乳香、葡萄酒、オリーブオイル、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、人間である」とあり絹が貴重品であったことが窺い知ることが出来る。また、この下りで印象的なのは人間が物品の一つとして並べられていることだ。そして人間のほかに「奴隷」が列挙され、人間以下の奴隷の存在があり、奴隷制があったことが読み取ることが出来る。併記される絹と奴隷それは階級社会の較差の大きさを髣髴とさせる。

聖堂の詩その233―日振島より考える聖書の島

2009-04-27 11:41:59 | Weblog
     純友の島も霞みし宇和の海    1990年9月号
 霞は春の季語。春になれば西高東低の気圧配置が崩れ、中国からモンゴルにかけて拡がるゴビ砂漠に低気圧が発生してゴビ砂漠の砂が上空に巻き上げられる。その砂がはるばる日本に渡ってきて黄砂を降らせる。ゴビ砂漠に低気圧が発生するのは春でも早春である。従って日本列島にかかる霞も早春である。
 掲句は島の多い宇和海を描いた俳句で、佐田岬半島からの眺めである。佐田岬半島の付け根の町八幡浜市から三崎町まで凡そ40kmは現在は尾根伝いに幅の広い快適な道路が付けられている。快適に走ることが出来るので「メロディーライン」と呼ばれている。この名称から想像出来るのはこの道路がなかった時代のことである。想像を絶する悪路であったからこそ「メロディーライン」であり、リアス式海岸に沿う国道197号線が極端な悪路であった。愛媛県民からは「行くな国道」と揶揄されたほどの悪路であった。佐田岬半島の殆んどは蜜柑畑であるが、地質は輝緑安山岩と呼ばれる脆くて柔らかい岩石で少し雨が降れば泥濘となり緑色の水溜りが出来国道が通行止めになることがしばしばあった。多くの自動車の車輪が緑色の水溜りに落ち込んで動けなくなった。従って197国道の集落の人々の足は陸路より海路に依存していた。ポンポン蒸気船が集落と集落とを結んでおり、半島の集落は日常から陸の孤島であった。
 今は佐田岬半島の稜線沿いに快適なメロディーラインが走り八幡浜と三崎町と自動車で1時間余りで結ばれている。そのメロディーラインにはほぼ10km間隔に数箇所の展望台があり半島の北側に広がる瀬戸内海と南側に広がる宇和海とを展望できる。この地方は高速道路やメロディーラインで結ばれて愛媛県の圏内に入っているが、道路事情が悪かった頃には九州大分県との繫がりが強かった。佐田岬半島や宇和海に面した地方は九州と経済的結びつきだけでなく通婚圏が九州に含まれていて愛媛県とは文化的に一線を引いていた地域であった。
 佐田岬半島の南に広がる宇和海に藤原純友が海賊の首領となりその根城としていた島がある。日振島である。日振島は魚影が濃くしばしば生徒と共に魚釣りに訪れたことが有る。夜釣であまりにも魚が大きく何度も糸がぷっつりと切れたことがあった。電気浮諸共に魚に取られたこともあったが、クーラーに入り切らないほどの大きなイサキを何匹も生徒と一緒に持ち帰った。純友が日振島を根拠地にしたのは豊かな漁業資源に恵まれたこともあったであろう。そんなことを生徒と語り合いながら夜釣を楽しんだ。昼間は生徒達と純友の砦跡や井戸などの遺跡を見学した。それは昭和51年(1976)のことだった。NHK大河ドラマで「雲と虹と風と」を放映していた頃だった。生徒にせがまれて島にわたった時の話である。生徒と楽しんだ日振島を懐かしい気持ちで佐田岬半島のメロディーラインの展望台から眺めた。潮風の匂いは当時の思い出をより鮮明にしてくれこの俳句が生まれた。
 純友は海賊取締りの命を朝廷から受けた。伊予の海賊を取り締まりながら伊予の海賊の仲間に入り政権の転覆を企てた。眞に数奇な人生である。日振島は地理的に九州を攻略するのに絶好の地理的位置にある。日振島は九州攻略を考えた上での選択であった。彼が九州大宰府を攻めたが戦いで破れた。内側からの裏切りが原因だった。大宰府を制圧した後に都を攻略するつもりで居たのだろう。作戦に失敗し、逃げ延びた先が愛媛県松山市山西町の丘の上である。勿論その時は従えていた海賊は離散していた。
 山西町には駒立の岩が今も残っている。朝廷の追手を恐れ毎日駒立の岩に来て馬上から伊予灘を眺めていたそうだ。駒立の岩は現在は内陸にあるが当時は波打ち際に聳える岩だった。純友は警固使橘遠保にこの山西町で捕らえられ殺された。この藤原純友の乱に前後して紀貫之が土佐日記を書いている。海賊を恐れる場面が日記の各所に出てくるのはどうやらこのためであったようだ。海賊が蔓延り地方政治が乱れていたことが日記からも覗える。所得格差の拡大中枢権力の腐敗と地方政治の混乱は今の日本とよく似ているとも言える。政権が変わるだけではない政治が大きく変わる時代になったのであろうか。
 宇和海の日振島は勿論島である。四国も広い意味では島である。日本列島四島とも言うが、それは北海道・本州・九州であり四国も島である。郵便物には「愛媛県松山市云々」と書かないで「四国島松山市云々」でも配達されたこともあった。さて、聖書には島がどのように描かれているでろうか。聖書の中で島は次のような場面で出てくる。
●島はヘブライ語でその語源は住みに行くという意味がある。船乗りの目から見れば住みに行くと言う意味があるのであろう。従って海岸地方も島に含まれる場合がある。
イザヤ書20-6
イザヤ書23-2
●住むことが出来る場所の意味も有る
イザヤ書42-15
地の果てと言う意味で島が使われる場合も有る
イザヤ書41-5
●陸上から眺めて海上に浮ぶ島
使徒行伝13-6
 聖書には居住空間としての島の概念が見られた。日本語のように「島」は遠隔地または孤立地としての概念と異なる語感がありそうである。

聖堂の詩その232―啓蟄

2009-04-25 08:35:28 | Weblog
    啓蟄の地上地下鉄電車出づ     1990年5月号
 啓蟄は春の季語。三月六日ごろが啓蟄であると某俳句歳時記には説明しているが、説明に無理を感じないわけではない。その歳時記が首都圏に限定された歳時記であるならばそれで良いのであるが、北海道や沖縄でこの歳時記を使うことがあれば事態は随分混乱することであろう。北海道や沖縄では蛇や蜥蜴が冬眠から醒めるのは三月六日ではないからだ。日本列島は南北に長くしかも地形が複雑であり、地域の自然の違いの幅は大きく、俳句にはこの問題は常に付き纏うことである。キリスト教でも同じだ。葡萄の収穫時期北半球と南半球の違いがあるのは勿論フランスとイタリアとも違いがある。国や地域で異なる。
 葡萄酒の蔵出しの時期の違いも同じである。フランスでは各家庭の地下室で葡萄酒を醸造しているのであるが、葡萄酒は家ごとにその味が異なると言われているほどだ。昔は日本では各家庭で味噌を作っていた。「手前味噌」という諺があるが、その葡萄酒の違いは日本の味噌の味の違いに当るのであろう。世界には葡萄や葡萄酒が手に入らない地域すらある、または入手が極めて困難な地域が山ほどある。
 キリスト教の聖餐式に於いては葡萄酒に関してそれぞれ地域独自の対応の仕方がある。聖職者の世襲制に原因があると考えられるが、某司祭が聖餐式の葡萄酒にクレームを付けた話を耳にしたことがあるが、それは世襲制の中で育った聖職者に問題がある。葡萄酒にクレームをつける世襲制の司祭が間違いであり、司祭であろうと地域の人々の対応の仕方が間違っていると否定できないと考えるのが当たり前であろう。クレームは自然の中で営々と生きる人々を否定することに等しい。俳句も同じようなところがある。自然に関する人々の受け取り方を否定できないのである。俳句作家の個性を周りで磨き上げることが出来てもその俳句作家の個性を否定排除できないのである。
 地下鉄電車をどのように受け止めるのか、自然とのかかわりの中でどのように受け取るのかそれは、何もそのようなことを考えたことも無い人を含めて人それぞれ受け止め方が異なる。京都には戦前から地下鉄電車があった、それは阪急電車であり京都人は「新京阪」と呼んでいる。新京阪は西京極と河原町四条間のみが地下鉄になっているが戦前は四条大宮までしかなかった、平成に入って四条河原町まで延伸した。あの地下鉄で西京極で出来た句である。新京阪の地下鉄が菜の花畑が明るい西京極に出た瞬間に生まれた句である。
 漆黒の地下道の中を走ってきた地下鉄電車が生命の溢れる地上に出て来た。その瞬間を詩にした。蛇や蜥蜴が冬眠から目覚めるのは浅い地表面での現象である。ひと昔前のことだが子ども達と一緒にミミズがどの深さまで生息しているのか調べたことがあった。あちこちをスコップで掘り起こした。場所による違いがあるが最も深いのが25cmと言う調査結果を得たことがあった。同じ生命を持つ人間はそれに比べて何という業を持つのであろうかと言う驚きでもあった。人間は地中に深く穴を掘り電車を走らせている。人間の地中での活動はミミズや蜥蜴や蛇も及ばない深い地圏にまで及んでいる。自然で生きる生命を蹴散らし地中深く人間はその活動範囲を拡げている。
 地下鉄電車が陸上に出た瞬間、そのような人間の自然の中の生命を殺戮する残酷な業を感じながら生まれた作品である。悪魔性が付き纏う便利さのみに価値を追求する人間の悲惨な業であり、人間の科学信仰の悪魔性である。科学もイエスの教えに従えば広義の偶像の一つであるのかもしれない。それとも、必要以上にとてつもなく大きな頭脳を携えて連綿と生きて来た人類の原罪であろうか。
 大きな頭脳は忌まわしき核兵器を開発し遺伝子工学を発達させるに至っている。これは抑止不可能な悲しき人類の業であり、原罪としか言えない。宇宙開発に有頂天になる人々を見る時に常にそれを感じる。真の自由を失った人間を見る思いである。人工衛星を仰ぎその危険性を案じるよりも人間の万能性を感じ有頂天になる愚かしさである。このように考えると科学が一つの宗教にまで成長していると言えないことは無い。原子力発電所や人工衛星に対する人知への過信や科学崇拝はイエスキリストが戒めた偶像崇拝の一つであろう。科学が問題なのではない、科学を信奉する科学への過信は偶像崇拝ではなかろうか。
 聖書には啓蟄と言う言葉はなかった。冬眠から目が覚めて地中の生き物が活動を開始するという季節感が聖書時代には希薄であったのではなかろうか。復活祭はキリスト受難から三日目に蘇ったことを祝う祝日であり、地中の生物の活動開始とは何ら関係が無い。復活祭は三月二十一日から四月二十五日の間の日曜日で時期的には啓蟄とやや一致するが勿論何ら関係が無い。
 復活祭は英語でeasterであるその語源は①パンのイースト菌、②日の出の東方、③暁の女神オイステルの三つがあるが最も信頼出来そうなのがゲルマン民族の女神オイステルであるる。春分の女神オイステルを祝うのがイースターとなったとの説があるがこうなれば聖書との距離が大きくなり、イースターの語源で現在のキリストの蘇り、即ち復活祭を考えるのが難しくなって来るのである。聖書と全く関係の無いところで復活祭が決定されていたということになる。しかし、イースターと日本語の啓蟄と近い関係がある。
 「虫」は聖書に多くの場所で発見出来る。しかし、それは「啓蟄」ではない。啓蟄ではないが聖書に於いては虫をどのように描いているか確認して於くことも大切であろう。蛇や蜥蜴が冬眠から醒めることも啓蟄であるが、今回は蛇や蜥蜴は割愛して虫に限定した。聖書に於いて次のような個所で「虫」が発見出来た。
●腐敗物から発生するものとしては
ヨブ記7-5
●虫を蛆として説明している個所で、小さな生物で沢山の輪からなり、足は無いそして葡萄や瓢箪を一夜で食べつくすことが有ると表現している
申命記16-20
●一夜のうちにマナに発生することも有ると描いている個所
出エジプト記16-20
●虫は人を死なせることがあることもあると描いている個所
使徒行伝12-23
●人は弱く汚れているので虫に譬えている個所
ヨブ記25-6
イザヤ書41-14
●その他虫が出てくる場面
イザヤ書66-24
マルコによる福音書9-44
申命記28-39
詩編22-6
ヨナ記4-7
使徒行伝12-23
 啓蟄の概念は聖書にはないことが明らかになった。聖書時代に於いても虫は農耕に於いて苦労していることが窺い知ることが出来る。人間と虫との共存関係として描かれている場面は少ない。但し食虫に関してはイナゴと昆虫名を明記している。「虫を食べる」という言い方をしていない。
 虫の弱さと人間の弱さとを並列して述べながら人間も虫けらのように汚くて弱いと描く場面がヨブ記やイザヤ書に発見出来たが、虫の感じ方人間の感じ方に於いて興味深いところである。日本でも「虫けらのような人間」と言ったり、「虫をも殺さない顔をした人間だが本当は恐ろしい人だ」と言ったり、瀕死の人のことを「虫の息である」と表現することがある。虫の弱さに関する認識人間の弱さに関する認識は聖書時代も現代日本も大きな差はなさそうである。

聖堂の詩その231―幼仏

2009-04-24 16:19:03 | Weblog
   花祭り庫裏に甘茶が煮え滾る   1987年7月号(創刊号)
 花祭りは春の季語。花祭りと桜祭とはまったく異質なものである。混同している地域もある。一部地方では桜祭のことを花祭りと銘打って夜桜などで騒いでいるが、これは間違いである。花祭りは元来仏教行事である。四月八日の仏の誕生日を祝う行事である。花祭りは桜の下での酒宴でははい。花祭りには境内に花御堂が置かれて、その中に甘茶仏がすえられる。従って「花御堂」も「甘茶仏」もこの行事のものであり、季語になる。他には仏生会や潅仏会や浴仏も甘茶も花祭り関連の季語である。
 イエスの誕生は冬至に祝う。これからは日が長くなることへの喜びでもある。釈迦の誕生は春の生命の躍動を祝う季節に祝福される。いずれもその季節が生命の出発を祝福している。これから明るくなるという生命の萌芽がイエスの誕生であるとすれば生命の躍動は釈迦の誕生である。共通性は一切無いがスタートを祝おうとする気分は一脈通じている。日本の年度の始まりは四月であることは仏教行事との重なりもその理由であったであろう。 
 イエスキリストの誕生を祝うクリスマスと釈迦の誕生を祝う花祭りとに大きな違いに気がつくことがある。それは人々のイエスに対する扱いと釈迦に対する扱いとが根本的に違う大きな相違点がある。釈迦の誕生には誕生の姿が具現化されているのに対してイエスの誕生の姿が全く表には出て来ない点である。イエスの赤ちゃんである時の姿は全く無いのである。
 釈迦の誕生は誕生するや否や立っているのである。馬の如く産み落とされた瞬間に立っている。「天上天下唯独尊」と唱えながら立っている姿が幼仏として立像化されている。その立像に信徒たちは次々と甘茶をかけるのである。産湯としての甘茶である。幼仏を甘茶で潤すので釈迦誕生の花祭りのことを灌仏会とも呼ばれている。誕生したばかりの乾いた釈迦に産湯である甘茶で潤す行事、それが花祭りである。
 キリスト教のイエス誕生を祝福するべくクリスマスには馬小屋が出てくるが、イエスの赤ちゃんが全く出て来ない。これは仏教との大きな差である。恐らく偶像礼拝を禁じたことによるのであろう。イエスの誕生の姿はそれぞれの人々の心の中にあるものであり、イエスの教えからしてもイエス誕生の偶像を作る必要が全く無いということである。
 偶像崇拝は政治形態を独裁政治化させ易い力が働くのではなかろうか。民主政治は偶像崇拝や個人崇拝を排除し政治の責任を個人に求めようとする原理が働くのとその性格が対照的である。仏教国や道教国の偶像崇拝は花祭りに於いても表れている様に現代社会に於いても盛んである。中国の毛沢東に対する扱いや朝鮮の金政権の扱いに於いてもそれぞれが偶像崇拝であり個人崇拝である。そしてそれぞれが独裁政治に結びついている。この傾向はことに今の日本に於いて表面化し始めている。
 それはマスコミに出てくるコメンテーターが口をそろえて「強いリーダシップを持つ政治家の出現」を言うあの現象である。また国民もそれに追随し強いリーダーシップへの期待感が年毎に膨らんでいるのが私には不安である。これは言い換えれば独裁者の出現が待たれる」と言っているに等しい。日本に於いても中国の毛沢東や北朝鮮の金政権の出現を待望していると言えないか。
 その根本原因は日本の風土とも言える偶像崇拝に求められるのかもしれない。偶像を崇拝することにより他力本願的な貴方任せの政治形態を潜在的に待望しているのである。何時の瞬間でも独裁専制政治に陥る危うさを日本は抱えているような気がして仕方が無い。日本国は独裁政治への時限爆弾を抱えている風土を感じるのである。

聖堂の詩その230―那智勝浦の鳶の声

2009-04-23 07:51:43 | Weblog
     浜大根咲く浜鳶の声淋し     1994年
 浜大根は春の季語。海岸の砂浜に自生しているアブラナ科の二年草である。もとは畑の大根であったのが、畑から落ちこぼれて野生化したものと推定されている。四月ごろ四弁の花が咲くが大根の花と良く似ているが、色は大根よりも濃く紅紫色である。以前、私は富山県高岡市雨晴海岸で
  浜大根テトラポットの下で咲く
を作ったことがあるが、浜大根も俳句にあまり出てくる季語ではない。海岸で目立たない地味な花なので季語の対象となりにくいのであろう。目立たないが私は好きな花である。潮風の匂いと紅紫色との相性があっていると思うのであるが、万人に共通しない私だけの好みなのかもしれない。
 浜大根咲く浜鳶の声淋しは熊野灘海岸での作品だったと記憶している。那智勝浦海岸で取り組んだ作品。熊野灘海岸はリアス式海岸で知られているが。もう一つの景観上の大きな特徴は真黒な磯浜海岸だ。真黒な小石の磯浜海岸で作った句である。勝浦の商店街で勝浦名物めはり寿司を買って来たのであるが、めはり寿司を頬張りながら真黒な小石の海岸を歩いて出来た俳句である。
 京都ではあまり知られていないのであるが高菜と呼ばれる野菜がある。昔は北九州各地の炭鉱労働者の住宅の菜園には必ずこの高菜があった。お上品な近畿地方の人々はあのおいしし高菜を知らないものとばかりに思っていたのであるが、めはり寿司を食べながら、近畿地方で初めてその高菜に出会うことが出来た。海苔の代わりにその高菜の漬物でおにぎりを包んだのがめはり寿司である。
 食べながら直ぐに気がついたのであるが、何故、めはり寿司と言うのか直ぐに分った。海苔で巻いたおにぎりと違い高菜漬のおにぎりには噛み切り難い野菜の繊維があるために食べる時には大きな目を開けなければ食べることが出来ない。顎が外れるぐらい大きな目を開けなければならないのである。それがめはり寿司の語源であろう。関西ではメバル関東ではカサゴという名称の魚が居るが、あのメバルの目にようにして食べなければならないメハリ寿司である。碁石のような真黒な磯浜海岸で食べためはり寿司の味は格別であった。
 那智黒という碁石や硯にする真っ黒な石が吉野川下流域で採掘出来る。吉野川から排出されるその真黒な石が真黒な磯浜海岸を形成しているのである。那智黒は地質学的には熊野層の中にある岩石のひとつであり、それは今から1500万年前に地中で火山の熱を帯びながら生まれた堆積岩の一種である。陸から海洋に次々吐き出される土石が海溝に堆積した。その堆積物が地中の熱を受けながらプレートの運動で地上に上昇してきた。現在のフィリピン海プレートがユーラシアプレートに沈み込む際に数10km深い地層であるプレートそのものは沈み込むのであるが、地表に堆積する表層部はプレートと共に地中のマントルに沈み込まないで、陸上に再び押し上げられるのである。
 大雑把に言えば日本列島はプレートの沈み込みの際に生じた削滓により誕生した陸地であり、日本列島はユーラシア大陸東縁にこびり付き誕生した「削滓列島」である。日本列島付近に於いて沈み込んでいるプレートは北米プレート、太平洋プレート、そしてフィリピン海プレートの合計三枚のプレートがある。この三枚のプレートの中で動きのピッチが最も早いのがフィリピン海プレートである。
 地殻表層部はユーラシア大陸の縁日本列島に押し上げられるのであるが、フィリピン海プレートは地下40kmから50kmにあり、年間数40cm前後の早いスピードでユーラシアプレートの下に潜り込んでいる。フィリピン海プレートの運動が最も早いので紀伊半島は日本列島の中で太平洋に向かって最も南に突出している。三陸海岸も相撲取りの腹の様に太平洋側に突き出しているのは太平洋プレートの沈み込みにより日本列島にこびり付いた削滓である。三陸海岸の沖合いにも和歌山県から静岡県にかけての沖合いにも地震の巣が日本列島で最も集中しているのはこのプレート性の地震によると言われている。
 紀伊半島の地質は日高層群、音無川層群、牟礼層群、熊野層群と北から南へと北東南西方向に中央構造線沿いに帯状に並んでいる。従ってそれぞれの層群の地質は北が古くて、南が新しい。最も新しいといっても1500万年前であり、太平洋に突き出した熊野層群である。1500万年前とは気が遠くなる時間である。日本列島の骨格が形成されたのが70万年前といわれている。それよりも二桁も古い。それは一大陸が分裂し現在の世界の大陸の形が漸く整いつつある時代のことである。
 人生の儚さが微かに頭を過った。鳶の声は人生の儚さを奏でる歌声に聞こえた。「人生は仮の宿」というがあるが、上手く言いあてている。人生だけではないこの地上の生きとし生けるものは全て儚い命しか与えられていない。あらゆる生き物は、謂わば地球の寄生虫でしかない。鳶は日本列島の何処にでも居る鳥であるがどちらかと言えば内陸部よりも海岸部に多い。日本列島の内陸部は杉や檜の人工林ばかりだ。内陸は生態系の循環が上手く作動していない、海岸部のほうが食物連鎖の動きが円滑なのであろう。鳶は目が良い。鳶に油揚げを盗られるという。海岸の方が猛禽類の鳶にとては食料が豊富なのであろう。
 眼光の鋭い鳶が聖書に登場するのであろうか、調べてみた。旧約聖書には発見出来た。ヘブライ語のダーヤやダッヤを日本語の鳶として翻訳している。三月ごろのパレスチナには現在でも鳶が沢山飛び交うという。地中で冬眠していた蛇や蜥蜴などをはじめとした小動物が春になると目覚め地上に出てくる。それを鳶が狙うのである。鳶は旧約聖書に二箇所発見できた。それは申命記とレビ記に於いてである。
 申命記14-11には次のように鳶を登場させている。「清い鳥は食べても良い。しかし、次の鳥は食べてはならない。ハゲワシ、ヒゲワシ、黒ハゲワシ、赤トビ、ハヤブサ、トビの類、カラスの類、ワシミミズク、小ミミズク、トラフズク、タカの類、森フクロウ、大コノハズク、小キンメフクロウ、コノハズク、ミサゴ、魚ミミズク、コウノトリ、青サギの類、ヤツカシラ鳥、コウモリ。羽根の有る虫は全て汚れたものであり、食べてはならない。清い鳥は全て食べても良い。死んだ動物は一切食べてはならない。町に居る居留民に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。」とある。
 食べても良い鳥と食べてはいけない鳥とを厳密に峻別している。食べてはいけない鳥は異邦人に与えさいと促がしつつ、ユダヤ人は選ばれた民であると明言している。食べ物を通じてユダヤ教の選民思想を主張している。この背景には今流行の生き残り思想が底流にある。腐肉を食べることにより伝染病にならないようにしている。ユダヤ人だけが腐肉を食べる猛禽類を食べるのを避けて生き残ろうとする。異邦人には猛禽類の肉を与えて絶滅させるという生き残り思想である。今の生き残り思想と極めて良く似ているのである。生きる為には何をしても構わない。競争相手である異邦人には腐肉を食べさせてもかまわない利己的思想が明白に表れている点では現代社会の生き残り主義と酷似している。それは戦争を含めて犯罪行為でも生き残る為には許される「生き残り思想」である。ヒットラーのユダヤ人狩りはこの部分を取り上げて実行に移された。そしてユダヤ人への迫害及び虐殺の口実を与えてしまった。ナチスの残虐行為を正当化させてしまった。
 聖書における第二の「鳶」はレビ記11-14に鳶が発見出来る。レビ記の「鳶」は一箇所以外は上記の申命記のコピーであり一文字も変わらない。一箇所というのは羽根の有る虫に関する例外規定である。申命記には羽根が有る虫は一切食べてはならないと食虫を禁止しているが、レビ記11-14では一部例外規定を設けている。イナゴは食べても良いことになっている。イナゴ食は許可しているのである。
 「但し羽根があり四本の足で動き群れをなすもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ脚をもつものは食べても良い。即ち、イナゴの類、羽根長イナゴの類、大イナゴの類、小イナゴの類は食べて良い。しかし、これ以外で羽根があり四本の足をもち、群れを成す昆虫は全て汚らわしい。以下の場合はあなた方は汚れる。死骸に触れる者は全て夕方までには汚れる。また、死骸を持ち運ぶ者は全て夕方までには汚れる。衣服は水洗いせよ。」と薦めている。
 聖書時代には伝染病がよほど当時は流行したのであろう。それは伝染病予防の為の書き残されたのであろうと想像出来る。鳶に関して聖書では忌み嫌われる動物として扱われている。現代日本での鳶の扱いとには大きな隔たりがありそうである。現代日本での鳶は猛禽類であるものの人間生活に近い鳥の一つとして感じられ扱われている。雀や燕ほどの親近感は無いが鳶が汚い鳥であると考えられたり怖れられたりしている鳥で無い。
 鳶の鳴き声は「ピィーーヒョロヒョロ」と人間の心の中に一抹の寂しさを促がす鳥であり、寧ろ親近感が湧く鳥である。童謡などにそれが表れている。例えば山田耕作作曲の歌には三曲鳶の歌が挙げられる。
  とんび  川路柳虹作曲
 鳶が輪を描く  ピーヒョロ ピーヒョローロ
 明日もお天気  ピーヒョロ ピーヒョローロ
 油揚げさらった ピーヒョロ ピーヒョローロ
 小僧が泣いてる ピーヒョロ ピーヒョローロ

  鳶ひょろひょろ   西条八十作曲
 鳶ひょろひょろ      ひょうろひょろ
 おなかが空いて      ひょうろひょろ
 山から町へ出てくれば   親の無い子が泣いていた
 親の無い子の油揚げは   欲しさは欲しし 取れもせず
 鳶堪えて ひょうろひょろ もとの山へ ひょうろひょろ

  鳶のお昼ね       野口雨情
 枯木に止って 鳶がお昼ね
 落ちたら危ない ピーヒョロロー
 枯木でお昼ね 鳶が夢見た
 飛ばぬと危ない ピーヒョロロー
 
 などが童謡にあるが、童謡であるからであろうが鳶への憎しみや汚れを全く感じて居ない。寧ろ鳶への憐憫の情が込められた歌が多い。鳶への認識の仕方が現代日本と聖書との間に大きな落差が認められるのである。他には山形民謡に鳶の歌がある。いずれも鳶に対する汚れや排他的扱いは無い。時代と地理との違いがあるが、この対称性から考えればよほどの伝染病の恐れが聖書時代にあったものと考えて良いのではなかろうか。聖書に於いては鳶に対するあまりにも極端に忌み嫌う感覚を受ける。その原因は伝染病だけなのであろうか。

聖堂の詩その229―薬

2009-04-21 18:17:20 | Weblog
     薬師仏花の明りに指光る    1994年6月号
 花と言えば桜のことであり春の季語であるが、花に関連する季語は多い。花の寺、花吹雪、花の山、花雪洞、花曇り、花冷えなどである。「花明り」や「花の明り」も春の季語であるが、「花明り」で俳句を作る人は数が少ない。満開の桜の下の光を花明りという。また寺の桜が満開となり暗いお堂の中まで柔らかい桜の光で明るくなる。これも花明りだ。
 掲句はお堂の中の花明りを浴びる薬師如来をスケッチした。薬師如来の指に焦点を合わせて描いた。仏師は薬師如来の指先をよほど注意して彫るのであろう。仏像を見る我々の目はひとりでに真先に指先に行ってしまう。仏像の姿勢も影響しているであろうが指先が薬師如来の心を表しているような気がする。薬壷を持つ左手を膝に置いて、今正に右手の指先で患部を塗ろうとする仏像の姿には誰もが癒されるのであろう。
 仏教寺院もキリスト教寺院もそれぞれの共通点は嘗ては多様な機能を持って居て人々が集まる空間であったということだ。医学が発達していない時代では病院でもあり、寺は学校教育が発達していない時代では寺子屋があり学校でもあった。基督教会でも日曜学校がありイエスの教えを説いた。また寺院は人が集まり易いということで仏教寺院でもキリスト教寺院でも境内や広場に市場が立つのが通例であった。寺院に四日市や十日市が立った。洋の東西を問わずそれが地名として定着する場合もあった。しかし、商業経済が発達するにつれこれ等は分業化し寺院が寂れる原因ともなった。教育は学校が担うようになった。病気は病院が担うようになった。医療は専門病院が担うようになった。学校は公教育機関が担うようになった。そして商業活動は商店街や百貨店が担うようになった。それにつれて教会や寺が廃れ寂れた。
 これは家の機能の低下と良く似ている現象である。昔は家は多機能を兼ね備えていた。家そのものが教育の場であった。子どもが家業の手伝いをすることで親が子どもの教師の役割を果たし、家そのものは学校でもあった。誰かが病気になれば家族全員が看病するのが当たり前であり家族が医師であり看護婦の役割を果たした。家そのものが病院でもあった。また、家の中には仏壇があり仏間があり家が宗教的機能まで担っていた。これらの家の機能は商業経済の発達で次々消滅してしまった。家庭教育が大切だと力説する人も居るが、社会の大きな変化を考慮した上で力説しなければ、力説が空回りすることもある。
 商業経済の発達につれ家も寺院もその機能を次々消失しているだけに、現代社会に於いて家とは何か寺院とは何かが問い直されているのではなかろうか。家は単に寝る為の空間だけでは無い筈である。家族がほっとできる空間でなければならないとすれば、あればそれなりの工夫がなされているのであろうかという問題が何処の家庭にでも残るのであるが現実にはそれがおざなりにされていないだろうか。寺院はただひたすら観光収入を当てにしたり賽銭や献金のみをあてにする集金機関では無い筈である。家には家でなければ果たすことが出来ない機能が有るはずである。寺院も寺院独自の寺院でなければ果たすことが出来ない機能が有るはずである。
 その機能の取捨選択が現代社会で未だに出来ていないのではないだろうか。交通整理が出来ていない。認識の共有化が出来ていない。だからこそ学校と家庭の無責任な凭れ合いが横行するのかも知れない。それぞれの機能を明瞭化し仕事の分担と責任を明らかにしていない。そして学校と家庭の狭間に立たされて大きな迷惑を被るのは児童生徒学生である。
 キリスト教会には医療設備としての機能を備えていた時代もあった。現在も宗教法人立の病院が全国的に見られる。キリスト教会が市場であったり、学校であったりした教会が多機能があった時代には、教会そのものがが病院であった時代もあった。ところで治療に大きな働きをなす「薬」が聖書ではどのような場面に出てくるのであろうか、調べてみた。
●ヤコブが死んだ時エジプトの薬の専門家が来て遺体に防腐剤を塗った。死体を何時までも生前の状態に保存する工夫をしていた場面がある。
創世記50-2
●エジプト人は目や足の治療を行い、それぞれの目的に応じた多くの薬を持っていたと描いた個所は。
エレミヤ書46-11
●ギリシャではクロトナの医師が最も有名であった。それに次ぐのがアフリカのクレネの医者であった。医者を助けるのは薬剤師であった。この点については現在医学と同じである。このようなことを描いている個所は。
出エジプト記15-26
歴代誌下6-12
エレミヤ記8-22
マタイによる福音書9-12
マルコによる福音書5-26
出エジプト記30-35
ネヘミヤ記3-8
●治療法に於いては血を拭いたこと、包帯を巻いたこと、そして傷口に薬として油を塗ったことについて描いている箇所
イザヤ書1-6
●油と葡萄酒、あるいは酒と油とを混ぜ合わせた薬を傷口に塗ったり、大きな傷口の場合油を浴びさせて治療したと描いている個所
イザヤ書1-6
ルカによる福音書10-32
ヤコブの手紙5-14
●干し無花果の膏薬や乳香のハップも治療に使われた。
列王記下20-7
エレミヤ書8-22
●草木の根や葉を治療薬として利用されたことを述べている箇所
エゼキエル記47-12
●葡萄酒は薬でもあった。これからは水ばかり飲まないで胃の為に、また度々起きる病気の為に葡萄酒を飲みなさいと葡萄酒を飲むことを薦めている場面が有る。それは
テモテへの手紙Ⅰ5-23
 聖餐式に関して神学論を展開する牧師をあちこちで見かけるが、神学論を振りかざすほどのことは無いのではないかということが聖書から読み取ることが出来る。葡萄酒は当時の貴重な医薬品として位置付けられ、日曜毎に適量を飲みながら健康を保ったのではなかろうか。当時の一つの生活の智恵からの聖餐式と受け取れないことは無いので有る。聖書を読む場合当時の生活事情を復元しつつ現代的意味を捉える必要が有るのではなかろうか。肉とか血液の問題に関して神学論を振りかざす必要が有るのかどうかである。健康な肉体や健康な血液の為に適切な葡萄酒を摂取していたと考えるのが良いのではなかろうか。
 仏教であろうとキリスト教であろうとその聖典には薬と健康が必ず付き纏う。健康は洋の東西を問わず、今昔を問わず人類永遠の課題であることは間違い。信仰心の薄い私はそのように思うのである。

聖堂の詩その228―柳井の三和土

2009-04-20 09:58:44 | Weblog
     三和土より地虫の出づる醤油蔵   1994年5月号
 三月十六日は啓蟄であり啓蟄は春の季語である。土の中で冬眠していた蟻、蛇、蜥蜴が目覚めて地上に出てくるのが啓蟄だ。地虫出るや、蟻穴を出る、蜥蜴穴を出るも春の季語である。植物の萌芽だけでなく動物の眠りからの目覚めは春の象徴だ。
 掲句は山口県柳井市にあるとある醤油蔵での作品。醤油蔵に虫を発見した。醤油倉らしからぬ虫である。柳井は柳井商業高校が全国的に知られて高校野球の強い地方である。野球だけではない、柳井は遠浅海岸で昔から製塩業が盛んだった。製塩業が味噌や醤油を生産する醸造業の発達を促がして柳井は醤油蔵が立並ぶ風景が最も特徴的だ。
 柳井は何処の古い醤油蔵を覗いても土間は三和土となっているのが共通している。三和土は「タタキ」と読む。タタキと読ませる当て字である。何故「三和土」をタタキと読ませるのか。それはタタキの製法が関係している。土と苦汁と石灰の三つを混ぜて土間に敷き詰め上から叩くからである。だから「三和土」と書くのだそうだ。現在のコンクリートがこれに当る。コンクリートの無い時代、雨や雪が土間に降り込んで土間が泥濘にならないようにする為の工夫が三和土である。
 近代の初め頃までは日本列島の海岸部は至るところで製塩が盛んであった。海岸部には日本中至るところに「塩釜」や「塩井」や「塩浜」など製塩関連地名が今も残存しているのがその証拠である。近代以降の日本の製塩は瀬戸内海沿岸に集中するようになった。瀬戸内海沿岸の年間晴天日数が日本で一番多く、製塩に伴う薪の消費量が少なくて済む。しかも塩の消費地に近く日本列島で最も製塩業に適しているからで、明治末期以降政府が塩の専売制を確立し塩の生産販売を集中管理したからである。柳井も瀬戸内海沿岸で製塩業が盛んな都市のひとつになったのはこのような地理的歴史的背景がある。
 柳井は三和土の原材料産出地が近い。三和土を作りやすい土地柄である。製塩の副産物としての苦汁が豊富である。また山口県は秋吉台の石灰岩洞窟が全国で知られているが、山口県全域は石灰岩が豊富で小野田などセメント工業が盛んであることで分るように石灰岩が豊富な地方である。このような地理的条件が柳井の古い醤油蔵に三和土を残しているのであろう。
 聖書にも三和土があったのではないかという描写が幾つか発見出来る。第一に挙げられるのはヨシュア記2-8に於いてである。それはヨシュアが使わした二人の斥候を遊女が匿い逃がす場面である。「遊女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に匿っていたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川の通じる道を渡し場まで追いかけて行った。二人が未だ寝てしまわないうちに、遊女ラハブ屋上に上って来て言った」とある。
 当時の住居には屋上があったのである。屋上は物置にも使われていたことが亜麻の束の中に匿っていたという描写から想像出来る。屋上であるから当然、防水機能もあったわけでありモルタル施工が施されていたであろうことが想像出来る。モルタルであるから日本のタタキ「三和土」であることが考えられるのである。そして聖書地域である地中海と死海とに挟まれたパレスチナ地方には洞窟が多くあり、それは鍾乳洞で広範囲にわたり石灰岩が分布していて海もあり山口県の地理環境と酷似しているのである。
 第二の聖書における「三和土」であるが、それは申命記22-8に発見出来る。それは屋根の作り方が規則で制約を受けている個所である。「家を新築するならば、屋根に欄干を付けなければならない。そうすれば人が屋根から落ちても、貴方の家が血を流した罪で問われることは無い」とある。この一文からは、よほど多くに人が屋根から落ちて大怪我をしていたことが読み取れるのである。多くの人が屋根から落ちるので規制を加えなければならなかったのである。これも恐らく屋上であり、雨漏りのしないモルタル施工であったろう。屋根にも土間にも「三和土」があったことが容易に想像出来るのである。多くの場合聖書には「屋上」と明記していたり、「屋根に欄干を付けよ」と義務付けているのでありモルタル施工であったと想像出来る。
 屋根瓦が無いことは無かった。ルカによる福音書5-18には屋根瓦が出てくる。「イエスが病気を癒しておられた。男たちは中風の人を床に乗せたまま運んできて、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆がこれを阻み、運び込む方法が無かった。そこで男たちは屋根に上って瓦を剥し人々の真中のイエスの前に病人を床ごと吊り降ろした。イエスはその人々の信仰の篤さを見て「人々よ貴方の罪は許された」と述べた。」とある。屋根瓦を剥したとあり屋根瓦が既に存在していたことは事実である。 
 上記の如く屋根瓦はエゼキエル書4-1に述べる筆記の道具としてだけではなく、明らかに建材として利用されていた。時代により異なるであろうが、平野部など比較的雨の少ない地方にはモルタル施工の屋上が有る家屋が多く分布し、山間部など雨の多い地方は屋根の勾配が強く屋根瓦が使われた家屋が多かったであろう。

聖堂の詩その227―蝶に爆音

2009-04-18 22:02:21 | Weblog
    飛ぶ蝶に爆音落とす軍用機     1994年5月号
 蝶は春の季語。呑気に飛んでいる蝶に爆音が落ちた。それは春昼の一瞬の出来事だった。愛媛県や高知県沖では米軍爆撃機の訓練が良く行われる。山口県呉米軍基地を出発して愛媛県や高知県沖まで飛来する。何故このような場所で米軍が訓練するのか良く分らない。私の想像ではこの地域の地形が朝鮮半島の地形と良く似ているからだと思う。
 日本列島最長の断層線であるが、長野県諏訪湖から熊本県不知火海に抜ける断層線である。それは西日本を二分する中央構造線メディアンラインである。人工衛星から眺めるとまるでナイフで西日本を二分するように見える。それが愛媛県を通っている。愛媛県の石鎚皿が峰連峰から佐田岬にかけて瀬戸内海に切立つ断層山脈である。朝鮮半島では北朝鮮から韓国にかけて太白山脈が日本海に面して切立つ断層山脈が有る。これら二つの地形的酷似性が指摘できる。愛媛県や高知県沖での訓練は朝鮮半島での有事を前提にして居るのではなかろうか。私はそのようなことを想像するのである。
 毎日の様に訓練が続く日も有る石鎚皿ヶ峰連峰では軍用機のパイロットの顔が見えるぐらい山の斜面に急降下する。山の傾斜面ぎりぎりにまで接近する訓練である。その時の爆音は四国山地全体に木魂す様な爆音であり、耳を劈くような戦闘機のジェットエンジンの轟音の直後に爆音を落とす。そのような訓練飛行が一日に何度も繰り返えされる。実戦ならば音だけでなく実弾を投下させることになる。爆音は人間だけでなく蝶にも驚きだ。爆音により蝶の羽ばたき方が一瞬ぐらりと変化する。それを俳句で描いてみた。
 聖書には戦闘機は出て来ない。しかし、聖書には戦争場面を描く個所が沢山出てくる。その中で気になりつつ良く目にするのが戦車である。戦車と言えば我々はキャタピラの戦車を思うのであるが、聖書時代の戦車はそのようなものではなく荷馬車のようなものであった。しかし、戦車はその頃最も強力な武器の一つに挙げられていたであろう。聖書には次のような個所に登場している。
●戦車としての機能を果たさないようにするには馬の腱を切断していた。そのような場面を描く個所は
サムエル記下8-4
●戦車には馬を繋いだ。それを説明している場面は
出エジプト記14-9
●ぺリシテ人がイスラエルと戦う為に用意したのは戦車の数が三万台、騎兵は六千、兵士は浜辺の砂の数だった。ぺリシテ人がイスラエルに向かって作り上げた陣について述べている個所は
サムエル記上13-5
●ヨセフは車を用意させた。父イスラエルに会いに行くためである。とあるがこの車は戦車であっただろう。ヨセフは戦車を用意させたのである。当時は戦車は車でもあり移動用交通手段でもあった。そのような場面は創世記46-29にある。また、使徒行伝8-28に於いても戦車でもあり移動手段としての馬車でも有る場面が描かれている。
●カナン人は鉄の戦車を持っていて強いかもしれないと述べている。鉄の戦車が存在したのである。全面的に鉄ではなかっただろうが一部鉄を使った戦車があったことが想像出来る。
ヨシュア記17-18
●エジプト人の戦車の様子を描く箇所
イザヤ書31-1
●クシュ人とリビア人は戦車を保有していたこと描いた個所
歴代誌下16-8
●「私がお前と馬にのた時」とあるが、これは戦車であろう。複数の人間が馬に乗ることは出来ないわけではないが、戦車が自然である。
列王記下9-25
●ヨセフの子等は「住民が鉄の戦車を持っている」と説明している個所は
ヨシュア記17-16
 戦車は戦場でも使われるが日常の交通手段としても活用されていたことが読み取ることが出来る。戦車は荷馬車でもあり戦場だけでなく日常生活の交通手段として貴重な働きを担った。但し馬車や戦車が使えるのは上流社会の軍人や身分が高い者に限定された。
 馬車の最も古いのは紀元前2500年に遡ることが出来るが、旧約聖書時代は戦車や馬車の利用範囲は極めて狭かった。それは道路が整備されて居なったからである。戦車や馬車は主として集落内部またはその周辺に限定されていた。道路が整備されておらず、泥濘に車輪がはまり込んで使えないのである。その点については既に奈良時代家が有ったとも言われるが、平安時代の牛車と同じである。牛車は都大路の狭い範囲でしか利用することが出来なかった。新約聖書時代に入るとローマが道路整備に力を入れたので戦車や馬車は集落間を結ぶ交通機関として利用できるようになったと言われている。

聖堂の詩その226ー蚯蚓

2009-04-18 04:05:00 | Weblog
    一匹の蚯蚓を囲む遠足子     1998年6月号
 遠足は春の季語。遠足の子ども達のことを遠足子とも言うがこれも春の季語である。学校で新入生を迎える、または新学期クラス編成によりクラスのメンバーが大きく変わる。そのような状況下で真先にしなければならないことは自己紹介である。学校を離れて野山で自己紹介をしつつ深い親交を持つことが期待できるのが遠足である。遠足にはそのような教育目的が潜在的に設定されていた。最近は学校行事がぎっしり詰まり、あいている所に遠足が実施され遠足が秋であったり冬であったりしている。良し悪しは別にして、教育現場で遠足の目的があまり意識されなくなってしまった。だからこそ春の遠足が演劇鑑賞などに置き換えられたれたりしているケースが多い。教育現場の教員の目的喪失が無きにしも有らずである。
 そのような遠足の一風景が掲句である。蚯蚓は読みにくい文字であるが「みみず」である。当て字であろうが漢字の描く絵画に深い意味が込められていそうだ。此処ではその説明を省くことにする。一般的に長い動物は蛇や蚯蚓を含めて子ども達は恐怖の目で見てしまう傾向が有る。幼稚園や小学生は尚更である。悲鳴をあげて逃げる子どもが多いものだ。子ども達には蚯蚓は恐ろしい動物であるが怖いもの見たさの好奇心も人一倍強い年令である。
 沢山の仲間となら蚯蚓を観察することが出来る。棒でつつくことも出来る。皆で蚯蚓を眺めることにより、棒でつつくことにより、遠足を通じてクラスの仲間の形成が期待出来る。無意識に助け合うことの大切さを学ぶ。恐怖を仲間と共に居る安心感で乗り越えることが出来る。暗黙のうちの互助精神の形成である。これが学校内では期待できないフィールドに於ける遠足の絶大な効果の一つだ。自然が躍動する春真っ只中の名刺交換・自己紹介目的の遠足であり、互助精神形成は遠足の教育目的の副産物である。
 この蚯蚓が聖書に有るかどうか。有った、有った、有りました。聖書には何でも有る。蛇が出て来ることは知っていたが、蚯蚓まで登場していることに驚いた。但し蚯蚓では無いのかと疑うことが出来る場面である。それを発見したのは一箇所である。蚯蚓と疑わしき場所が聖書に出てくるのはイザヤ書14-11の一箇所ではなかろうか。「お前の高ぶりは、琴の響きと共に陰府に落ちた。蛆がお前の下に寝床となり虫がお前を覆う」の一節である。「虫がお前を覆う」の虫は蚯蚓ではないかと推定することが出来る。
 日本語訳では「虫がお前を覆う」と翻訳されているが、この虫は蚯蚓ではないかと推定される。ヘブライ語で書かれた旧約聖書が手元に無いので判然としない。推定しか出来ないのが残念である。日本語に翻訳するのなら、それが読者に分るようにしてもらいたい。そうすれば聖書がもっと鮮やかに見えて来るのではないだろうか。「虫がお前を覆う」ではわからないのである。丁寧な翻訳をしていただきたいものである。
 聖書の読者は神学を知らない、聖職者ではない。聖職者は読者に神学を直接語ることはしてもらいたくない。誰が読んでも分るように翻訳するのが聖職者本来の仕事ではないか。神学を人々にぶっつけるような聖書翻訳では信徒が増えるはずが無い。それは布教活動ではない。その地域に応じて、我々凡人でも鮮明に見えるようにする、それが聖職者の主要業務ではなかろうか。
 学校の先生にもそのような方が居られる、自分にも分らない教科書の内容を手引書通りに説明して生徒を煙に巻こうとする先生方である。先ず教科書を疑い本質を探ろうとしないから煙に巻き生徒を混乱させる現実があり授業を腐らせる現実が有るのではないか。聖書には少ないが日本の地理の教科書は極めて「諸」や「など」の使用頻度が高い。生徒と一緒に一冊の教科書にどれだけ「など」を使用しているのか調べたことがあった。30個所前後に赤線を引くことになった。あまりにも多くの「など」が目に付いた。
 嘗て教科書内容の認識違いや誤記を発見したことが有り訂正してもらったことが有るので教科書会社に早速問い合わせてみた。執筆者の気持ちを知りたいので誰が執筆したのかとお聞きした。誰が執筆したのかは秘密であるとのことだった。教科書会社はそれは文部省の指示に基づく訂正によるものであり筆者の責任ではないとの答が返って来た。教科書であろうと聖書であろうと読者にとって「など」と言われた途端に前が見えなくなるものである。描く風景が消えるのである。生徒が新しい教科書を手にすれば心をときめかせて読み耽り、一日で読了する。そのような教科書作りに取り組んでもらいたい。
 そのような点にまで学習塾や予備校の業者が介在する余地を作ってはならない。現場は業者が介在しなければ動けない。そのような無責任な姿勢が生徒の教科書離れの原因ではないか。同じ原因が聖書離れの原因になっているのではないかと疑われるような翻訳が無いわけでない。面白い教科書、奥行きの深い教科書であり聖書翻訳でなければならない、今のままでは残念ながら学校も教会も前進が期待しにくい。中味が無い権威や名誉ばかりが前面に出る社会は後退することはあるが前進はない。