注連飾り売る弘法を祀る寺 紅日2011年3月号
注連飾は新春の季語。注連飾はその起源は様々な説がある。第一は天岩戸に張られたという日本神話説、第二は稲の豊作を祈る風習、第三は山や森の神体としての岩や古木飾る注連などがある。いずれも日本の神道にその源流が溯る事が出来るのであろう。キリスト教会に注連飾や松飾や鏡餅が飾られていることがある。これは聖書では明らかに偶像崇拝だと思う。注連飾であろうと松飾であろうと鏡餅であろうとその起源をたどれば神道である。偶像でなくとも他宗教の徴を飾ったり況や拝んだりするのは十戒に離反することであり背信行為である。しかしながらそれを指弾する訳にも行かない。牧師や信徒にはそれぞれの地域での長い生活習慣が文化が言動に反映するのは当然のことであり、無碍に「これは偶像崇拝だ」と指弾し大声を張り上げるわけにはゆかない。
作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「弘法を祀る寺」は京都駅南隣に位置する東寺のこと。東寺は俗称で正式名称は教王護国寺。東寺では毎月二十一日に市が開催される。キリスト教圏でもキリスト教会は定期市が開かれる例がある。寺院は古今東西人が集まりやすく市が立つことが多い。毎月、何日に市が立つのか、そのことが地名に定着する場合もある。三斎市、六斎市、二日市、四日市、廿日市などの地名は寺院で毎月何回市が立つのか、何時市が立つのか、その回数や日付が地名として定着した。日本列島には膨大な数の市地名が散在している。日本人の市(いち)に対する人々の関心が古代から強烈であったことの証である。
地方独自の市の存在は市民の商行為が根深く市民の意識に定着していたかを物語る。市民の商行為、これが経済活動の本質であり要である。所詮、人間の経済活動はそれぞれの地域に於いて、それぞれの国に於いて人々が大地に立ち自律しようとする営みである。現代日本にはその商行為が意識から消滅しつつある。巨大資本がそれを統括してしまい市民の「市」に対する意識が急送に消滅した。新自由主義の自由は世界の数人の資本を操る人間の自由であっても人類の自由ではない、国民の自由でもない、市民の自由でもない。巨大資本が世界を牛耳る新自由主義経済体制、人類の箸の上げ下ろしまで資本で管理支配する、これはある意味では自由主義経済の死滅である。自由主義経済体制を巨大資本が圧殺してしまったと言える。
東寺では一年間の最終である十二月二十一日に立つ市は「しまい弘法」と呼ばれている。しまい弘法は何時もの「弘法さん」と性格を異にしている。それは正月用品の販売が中心になる。丹波地方の豆、洛北上賀茂のすぐき、若狭地方の海産物などお節料理の食材販売の露店が軒を連ねている。京都人の正月の過ごし方が「しまい弘法」で観察することが出来る。中でも目に引くのが注連飾の露天市である。注連飾には地方独特の形態があり、それぞれの地方で独特の注連飾に出会うことが出来る。門松ほど地方色の違いが大きなものはない。地方の違いでその形態は全く異なる。
京都の注連飾売りは昔から大原女や白川女が洛中を歩き振売をしていた。大原や北白川で生産された注連飾なので近江の文化的影響がないわけではなかろう。大原や北白川はそれぞれ近江に通じる街道の入口に位置しているからだ。北白川は西近江に通じる山中越街道、大原は鯖街道経由で堅田や高島や今津などの琵琶湖の港町に出ることが可能である。東寺で売っている注連飾に漢字で「笑門」と墨で書かれた札が貼付されているのが特徴的であった。それは笑門来福、「笑う門には福来る」に由来するのであろう。近江にもこの種の門松があるのではないかと此の数年探しているのであるが、未だ見つからない。必ず発見されるであろう。
今回は作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「売る」に着目して、聖書の中に発見される商行為、「売る」を取り上げてみたい。聖書に発見される「売」の全てを取り上げて、古代中東地方の人々の商行為の実態に迫ってみたい。何を販売していたかに注目しつつ、聖書から判読出来る当時の人々の商行為を追求しようと思う。商行為の実態を掌握するには漢字の「買」も考慮に入れなければならないのであるが、今回は「買」に関しては割愛したい。
(旧約聖書に発見される漢字「売」の巻別分布表)
●創世記には単語「売」は10回発見される。その位置は
・31-15には「父は私達を売って」とある。
父が自分の子供を売っていた。人身売買が一般的であった。
・37-27には「あのイシュマエル人を売ろう」とある。
イスマエル人はアラブ人のこと。ここでも人身売買。
・37-28には「メダン人がヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った」とある。
ここでも人身売買。
・37-36には「メダン人がヨセフを売った」とある。
穴から引き上げられたヨセフはエジプトに売られた。ここでも人身売買。
・41-56には「ヨセフはエジプト人に穀物を売った」とある。
飢饉のエジプトでヨセフは穀物を売った。
・42-6には「ヨセフは国民に穀物を販売した」とある。
飢餓のエジプトでヨセフは穀物を販売する監督をしていた。
・45-4には「貴方がエジプトに売り飛ばした、そのヨセフです」とある。
ヨセフは人身売買を語っている。
・45-5には「私をエジプトに売ったこと」とある。
ここでも人身売買をのべている。
・47-20には「エジプト人は飢饉の為畑を売らなければならなかった」とある。
窮乏から強いられた畑の売却である。
・47-22には「農地を売らなかった」とある。
これも畑の売却である。
●出エジプト記には単語「売」は6回発見される。その位置は
・21-7には「娘を女奴隷として売る」とある。
・21-8には「女奴隷を裏切ったのであるから彼女を外国人に売る権利は無い」とある。
・21-16には「誘拐により手に入れた奴隷を売った場合死刑に処せられる」とある。
・21-35には「牛を売って」とある。
・21-37には「牛あるいは羊を盗んで売ったならば」とある。
・22-26には「彼が何も持ってない場合は、盗みの代償として身売りしなければならない」とある。
●レビ記には単語「売」は18回発見される。その位置は
・25-14には「土地の売買は相互に損害をあたえてはならない」とある。
・25-15には「残る収穫年数に応じて貴方に売る」とある。
畑の売買価格は収穫量と収穫年数に応じて決定されていたと推定出来る。
・25-16には「収穫できる年数に応じて貴方に売る」とある。
・25-23には「土地を売らねば成らない時にも買い戻す時の権利を放棄してはならない」とある。
買戻しの権利の留保は義務であった。土地価格の乱高下を抑止したい願望があったと推定出来る。
・25-25には「貧困が原因で土地を売却した場合、その親戚は買い戻す義務が生じる」とある。
転売による権利関係が移り易い事は行政にも大きな負担があったと推定出来る。
・25-27には「その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば自分の所有地の返却を受けることができる」とある。
「ヨベルの年」とはユダヤ教で定める50年に一度の「大恩赦の日」のこと。カトリック教会では25年に一度が「大恩赦の日」に定めている。負債も借金も抹消される日である。社会の貧富格差をこの方法で抑止しつつ社会の安定を図っていたと推定出来る。
・25-29には「城壁内の家屋を売った場合、その人はその年の終わりまで買い戻す権利を有する」とある。
買戻しの権利留保は社会秩序安定の目的であったと推定出来る。城壁内で住む住民の保護施策の一つであり、共同体を守護する目的である。
・25-34には「町の領域内の牧草地は売ることが出来ない。それは彼らの永久の所有物であるから」とある。
町の中の牧草地は城壁内の牧草地であると考えてもよい。それは町の食料源である。牧草地は売買禁止の規定で牧草地を確保する権利は永久に認められていた。
・25-27には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合。その身売りした同胞を奴隷にしてはならない」とある。
人身売買の例。
・25-39には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合、その人を貴方の奴隷にしてはならない」とある。
これも人身売買の例。同胞の団結力を弱めることを防いだと推定出来る。
・25-42には「エジプトから私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない」とある。
これも人身売買の「売」である。モーセの権威を述べている。
・25-47には「若し貴方の下に住む居留者、滞在者が豊かになり、貴方の同胞が貧しくなって、貴方の下に住む居留者に身売りした時は」とある。
これも人身売買。
・25-48には「兄弟は誰でも身売りした後に買い戻す権利がある」とある。
これも人身売買。
・25-51には「ヨベルの年までの年数が長ければ、その年に応じて身売りした金額との差額を買い戻し金として支払う」とある。
これも人身売買の例。ヨベルは大赦の日のこと。全てが許される日のことで50年周期で到来する。
・25-54には「身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も子供も手放される」とある。
これも人身売買。
・27-20には「買い戻さずに他人に転売した場合は、再びそれを買い戻すことは出来ない」とある。
これも人身売買。
・27-24には「ヨベルの年が来ると、その畑は畑を売った者の手元に戻る」とある。
取引の自由に一定の制約が設定されていた。それはヨベルの年であり、売主への返却義務が発生した。これも社会を安定させる為の一つの施策であったと考えられる。
・27-27には「汚れた動物の場合、初子の相当額に更にその五分の一を加えて買い戻すことができる」とある。
家畜売買の買い戻し条件である。
・27-28には「奉納品は家畜であれ畑であれ、それを売ったり買ったりすることは出来ない」とある。
主への奉納品の中には人間も含まれていた。しかも、奉納品の第一に人間を挙げている。人間を生贄として奉げる事があったことをうかがわせる下りである。
●申命記には単語「売」は8回発見される。その位置は
・2-28には「食物は金を払いますから売って食べさせ、水も金を払いますから飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです」とある。
食物を売るのはありうることであるが、当時は水も売っていた。乾燥地域であるものの水が売買の対象となり商品となっていた。
・14-21には「死んだ動物は食べてはならない。町の中に居る居留者に食べさせるか、外国人に売りなさい」とある。
動物の肉を売る行為を描写している。街中の居留者や外国人は差別されていたことが分かるくだりである。食べてはいけない動物の肉を国内人には売ってはならないが外国人には売っても構わないのである。
・15-12には「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、貴方のところに売られてきて六年間奴隷として仕えたならば、七年目には貴方の下を去らねばならない」とある。
人身売買の規定を述べている。奴隷としての拘束期間の限定を設定している。
・18-8には「先祖の財産を売って得たものは別として」とある。
売買対象は先祖から引き継いだ財産。先祖の財産は自由に使うことが出来なかった。
・21-14には「彼女が貴方を気に入られなくなった場合、彼女の意のままに去らねばならない。決して金で売ってはならない。既に彼女を辱めたのであるから奴隷扱いは出来ない」とある。
「金で売ってはならない」は日本語でになっていない。「金目的で売ってはならない」或いは「売ってはならない」と翻訳すべきではないか。
・24-7には「イスラエルの人々の一人を誘拐し、之を奴隷のように扱ったり、人に売ろうとしたりするのを目撃したら、誘拐したその人間を殺し、貴方の中から悪を除去すべきである」とある。
これも人身売買であり。イスラエル人は擁護されなければならないと主張している。イスラエル人を奴隷扱いする人間は殺されるべきであるとしている。
・28-68には「奴隷として売ろうとしても、買ってくれるものは居ない」とある。
これも人身売買である。
・32-30には「神が彼らを売らなければ」とある。
これも人身売買。
●士師記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・2-14には「主はイスラエルを周りの敵の手に売り渡されて」とある。
主がイスラエルを見放した。この場合国を売却したことになる。主が国を売却していた。
・3-8には「主は偶像崇拝のイスラエルに対して怒りに燃えて彼らをアラム・ナハライムのクシャン・リシュアタイムに手渡された」とある。
アラムは現在のシリアに該当する。主は国家の売買が可能であった。偶像崇拝のイスラエルをシリアに売り渡した。
・4-2には「主はハツォルで王位に就いていたカナンの王にイスラエルを売り渡した」とある。
ハツォルはイスラエルのカナン征服時代。カナン人の王国の首都がハツォルであった。ここでも主は国家の売却が可能であったことを示している。主が売却して得た資本がどのように使われたのか不明である。聖書の中では、売却代金は使途不明金として宙に浮かんだままである。
・4-9には「主は女の手にシセラを売り渡される」とある。
主が人身売買をしていた。またここでも売買で発生した代金が使途不明金として宙に浮いている。シセラは女将軍だった。イスラエル北部を支配していたカナン人の将軍であった。
・10-7には「主はイスラエルの偶像崇拝に対して怒りに燃えて、イスラエルをペリシテ人とアモイ人に売却した」とある。
主は国も国民も売却したという。ここでも主は国家売買や人身売買をしていた。
●サムエル記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・12-9には「自分達の神、主を忘れたので、主はハツォル軍将軍のシセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡した」とある。
主による国家売買と国民売買が実行された。
●列王記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・21-20には「エリアは答えた『そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされる事に身を委ねるからだ』」とある。
当時、自分を売り渡すことが行われていた。自己売却があった。現代社会にも無い事は無いが、よほどの事態に追い込まれた場合、または自暴自棄の場合に限定される。
●列王記下には単語「売」は6回発見される。その位置は
・4-7には「その油を売って、負債を払いなさい」とある。
油は家の資産の中でも重要な位置にあったことが窺える。
・6-25には「驢馬一頭が八十シュケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られる」とある。
日本では鶯の糞が化粧品として売られていた時代があった。聖書の鳩の糞は畑に蒔く肥料として売買されていた。カブはヘブライ語、1.2リットルのこと。シェケルは重量単位で11グラム。シェケルは7世紀ごろから通貨単位になった。サマリアは大飢饉であったので法外な価格を形成した。
・7-1には「サマリアの城門で小麦粉、大麦が売られるようになる」とある。
大麦や小麦が商品として売買がなされていた。古代の穀物の扱いは日本と大きな落差がある。日本では穀物が商品作物として扱われていない。日本で商品作物の生産が盛んになり穀物が商品化し売買が始まったのは近世以降。日本ではそれまでは農民は農奴であり商品作物栽培の余地が与えられていなかった。
・7-16には「小麦と大麦が売られるようになった」とある。
・7-18には「サマリアの城門で小麦と大麦が売られるように成る」とある。
・17-17には「息子や娘を火の中に通らせ、占いやまじないを行わせ、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い」とある。
「主の目に悪とされる」の翻訳は妙である。「目に悪」は埃が目に入ったと誤解されかねない翻訳だ。「主の目から見て悪とされる」または「主から指弾されることを行い」とすべきではないだろうか。こんな日本語では聖書を読む日本人が減る一方だ。この場合も自己売却であり自暴自棄のことを指摘しているようである。
●ネヘミア記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・5-8には「彼らは私達に熟れれることになるのに」とある。
人身売買
・10-32には「穀物を売ろうとしても、安息日と聖日には買わない」とある。
穀物売買
・13-15には「安息日に食品を売っているので彼らを戒めた」とある。
食品売買
・13-16には「ティルス人は魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込んで安息日に、しかもエルサレムのユダヤ人に売っていた」とある。
ティルスは地中海に面した貿易都市であった。現在はレバノンの主要観光都市。ティルスはアラビア語であり岩のこと。岩礁海岸がそのような地名を定着させた。
・13-20には「取引する人もあらゆるものを売る人も、エルサレムの外で夜を過ごすことは少なからずあった」とある。
●エステル記には単語「売」は1回発見される。その位置は
・7-4には「奴隷として売る」とある。
人身売買
●ヨブ記には単語「売」は2回発見される。その位置は
・6-27には「友さえ売り物にするのか」とある。
人身売買
・40-30には「彼を取引にかけて商人達に切り売りできるか」とある。
人身売買
●詩篇には単語「売」は3回発見される。その位置は
・44-13には「自分の民を安く売り渡し、それを高く売ろうとはなさいませんでした」とある。
人身売買
・58-3には「お前達の手は不法を測り売りしている」とある。
不法の売買
・105-17には「奴隷として売られたヨセフ」とある。
人身売買
●箴言には単語「売」は3回発見される。その位置は
・11-26には「穀物を売り惜しむ」とある。
穀物売買
・31-18には「商売」とある。
「商売」の「売」
・31-24には「亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す」とある。
この下りは「亜麻布を織りそれを帯に仕立てて商人に売り渡した」としなければ説明しにくい。翻訳文は日本語として成立していない。翻訳文は日本語になっていない。亜麻栽培の原料生産と商品製造との分業は定かでないものの、家内制手工業が既に発達していた。商品製造と流通とが既に分業化していたことを窺わせる。
●イザヤ書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・24-2には「売る者も買う者も全て同じ運命になる」とある。
・47-15には「呪文を売り物にして来た」とある。
呪文を唱えて金背院を稼いでいた人々が居た。
呪文が売買対象物になった。
・50-1には「お前達の罪によってお前達は売り渡された」とある。
罪を負うことが人身売買の原因とされた。
人身売買
・52-3には「ただ同然で売られた貴方達は、銀によらず買い戻される」とある。
此処も人身売買
●エレミヤ書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・34-14には「ヘブライ人が身を売って」とある。
人身売買
●エゼキエル書には単語「売」は5回発見される。その位置は
・7-12には「買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが国の群集全てに及ぶから」とある。
売る者、売人である。
・7-13には「売ったものを買い戻すことは出来ない。全ての群集に対する審判の幻が撤回されないからだ」とある。
・16-15には「通りかかる者全てに媚を売り」とある。
売り物は媚
・30-12には「国を悪人に売りわたし」とある。
国が売買対象物であった。
・48-14には「一部でも売り渡したり、交換したりしてはならない」とある。
●ヨエル書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・4-3には「遊女を買うため少年を売り、酒を買うため少女を売った」とある。
人身売買
・4-6には「ユダとエルサレムの人々をギリシャに売り」とある。
国家売買
・4-7には「お前たちが彼らを売った」とある。
人身売買
・4-8には「彼らを遠くシェバ人に売る」とある。
人身売買
●アモス書には単語「売」は3回発見される。その位置は
・2-6には「貧者を靴一足の値段で売った」とある。
人身売買
・8-5には「新月祭は何時終わるのか、穀物を売りたいものだ。。安息日は何時終わるのか麦を売りつくしたい」とある。
穀類の販売
・8-6には「貧者を靴一足の値段で売る」とある。
人身売買
●ゼカリア書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・11-5には「買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売る時は、『主は誉め讃えられよ。私は金持ちになった』というが羊飼い達はそれを憐れまない」とある。
聖書の「売」は旧約聖書だけでも膨大な量になってしまった。知らぬ間に越年してしまっていた。聖書の「売」の新約聖書に関しては次号で調査結果を発表することにした。
注連飾は新春の季語。注連飾はその起源は様々な説がある。第一は天岩戸に張られたという日本神話説、第二は稲の豊作を祈る風習、第三は山や森の神体としての岩や古木飾る注連などがある。いずれも日本の神道にその源流が溯る事が出来るのであろう。キリスト教会に注連飾や松飾や鏡餅が飾られていることがある。これは聖書では明らかに偶像崇拝だと思う。注連飾であろうと松飾であろうと鏡餅であろうとその起源をたどれば神道である。偶像でなくとも他宗教の徴を飾ったり況や拝んだりするのは十戒に離反することであり背信行為である。しかしながらそれを指弾する訳にも行かない。牧師や信徒にはそれぞれの地域での長い生活習慣が文化が言動に反映するのは当然のことであり、無碍に「これは偶像崇拝だ」と指弾し大声を張り上げるわけにはゆかない。
作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「弘法を祀る寺」は京都駅南隣に位置する東寺のこと。東寺は俗称で正式名称は教王護国寺。東寺では毎月二十一日に市が開催される。キリスト教圏でもキリスト教会は定期市が開かれる例がある。寺院は古今東西人が集まりやすく市が立つことが多い。毎月、何日に市が立つのか、そのことが地名に定着する場合もある。三斎市、六斎市、二日市、四日市、廿日市などの地名は寺院で毎月何回市が立つのか、何時市が立つのか、その回数や日付が地名として定着した。日本列島には膨大な数の市地名が散在している。日本人の市(いち)に対する人々の関心が古代から強烈であったことの証である。
地方独自の市の存在は市民の商行為が根深く市民の意識に定着していたかを物語る。市民の商行為、これが経済活動の本質であり要である。所詮、人間の経済活動はそれぞれの地域に於いて、それぞれの国に於いて人々が大地に立ち自律しようとする営みである。現代日本にはその商行為が意識から消滅しつつある。巨大資本がそれを統括してしまい市民の「市」に対する意識が急送に消滅した。新自由主義の自由は世界の数人の資本を操る人間の自由であっても人類の自由ではない、国民の自由でもない、市民の自由でもない。巨大資本が世界を牛耳る新自由主義経済体制、人類の箸の上げ下ろしまで資本で管理支配する、これはある意味では自由主義経済の死滅である。自由主義経済体制を巨大資本が圧殺してしまったと言える。
東寺では一年間の最終である十二月二十一日に立つ市は「しまい弘法」と呼ばれている。しまい弘法は何時もの「弘法さん」と性格を異にしている。それは正月用品の販売が中心になる。丹波地方の豆、洛北上賀茂のすぐき、若狭地方の海産物などお節料理の食材販売の露店が軒を連ねている。京都人の正月の過ごし方が「しまい弘法」で観察することが出来る。中でも目に引くのが注連飾の露天市である。注連飾には地方独特の形態があり、それぞれの地方で独特の注連飾に出会うことが出来る。門松ほど地方色の違いが大きなものはない。地方の違いでその形態は全く異なる。
京都の注連飾売りは昔から大原女や白川女が洛中を歩き振売をしていた。大原や北白川で生産された注連飾なので近江の文化的影響がないわけではなかろう。大原や北白川はそれぞれ近江に通じる街道の入口に位置しているからだ。北白川は西近江に通じる山中越街道、大原は鯖街道経由で堅田や高島や今津などの琵琶湖の港町に出ることが可能である。東寺で売っている注連飾に漢字で「笑門」と墨で書かれた札が貼付されているのが特徴的であった。それは笑門来福、「笑う門には福来る」に由来するのであろう。近江にもこの種の門松があるのではないかと此の数年探しているのであるが、未だ見つからない。必ず発見されるであろう。
今回は作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「売る」に着目して、聖書の中に発見される商行為、「売る」を取り上げてみたい。聖書に発見される「売」の全てを取り上げて、古代中東地方の人々の商行為の実態に迫ってみたい。何を販売していたかに注目しつつ、聖書から判読出来る当時の人々の商行為を追求しようと思う。商行為の実態を掌握するには漢字の「買」も考慮に入れなければならないのであるが、今回は「買」に関しては割愛したい。
(旧約聖書に発見される漢字「売」の巻別分布表)
●創世記には単語「売」は10回発見される。その位置は
・31-15には「父は私達を売って」とある。
父が自分の子供を売っていた。人身売買が一般的であった。
・37-27には「あのイシュマエル人を売ろう」とある。
イスマエル人はアラブ人のこと。ここでも人身売買。
・37-28には「メダン人がヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った」とある。
ここでも人身売買。
・37-36には「メダン人がヨセフを売った」とある。
穴から引き上げられたヨセフはエジプトに売られた。ここでも人身売買。
・41-56には「ヨセフはエジプト人に穀物を売った」とある。
飢饉のエジプトでヨセフは穀物を売った。
・42-6には「ヨセフは国民に穀物を販売した」とある。
飢餓のエジプトでヨセフは穀物を販売する監督をしていた。
・45-4には「貴方がエジプトに売り飛ばした、そのヨセフです」とある。
ヨセフは人身売買を語っている。
・45-5には「私をエジプトに売ったこと」とある。
ここでも人身売買をのべている。
・47-20には「エジプト人は飢饉の為畑を売らなければならなかった」とある。
窮乏から強いられた畑の売却である。
・47-22には「農地を売らなかった」とある。
これも畑の売却である。
●出エジプト記には単語「売」は6回発見される。その位置は
・21-7には「娘を女奴隷として売る」とある。
・21-8には「女奴隷を裏切ったのであるから彼女を外国人に売る権利は無い」とある。
・21-16には「誘拐により手に入れた奴隷を売った場合死刑に処せられる」とある。
・21-35には「牛を売って」とある。
・21-37には「牛あるいは羊を盗んで売ったならば」とある。
・22-26には「彼が何も持ってない場合は、盗みの代償として身売りしなければならない」とある。
●レビ記には単語「売」は18回発見される。その位置は
・25-14には「土地の売買は相互に損害をあたえてはならない」とある。
・25-15には「残る収穫年数に応じて貴方に売る」とある。
畑の売買価格は収穫量と収穫年数に応じて決定されていたと推定出来る。
・25-16には「収穫できる年数に応じて貴方に売る」とある。
・25-23には「土地を売らねば成らない時にも買い戻す時の権利を放棄してはならない」とある。
買戻しの権利の留保は義務であった。土地価格の乱高下を抑止したい願望があったと推定出来る。
・25-25には「貧困が原因で土地を売却した場合、その親戚は買い戻す義務が生じる」とある。
転売による権利関係が移り易い事は行政にも大きな負担があったと推定出来る。
・25-27には「その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば自分の所有地の返却を受けることができる」とある。
「ヨベルの年」とはユダヤ教で定める50年に一度の「大恩赦の日」のこと。カトリック教会では25年に一度が「大恩赦の日」に定めている。負債も借金も抹消される日である。社会の貧富格差をこの方法で抑止しつつ社会の安定を図っていたと推定出来る。
・25-29には「城壁内の家屋を売った場合、その人はその年の終わりまで買い戻す権利を有する」とある。
買戻しの権利留保は社会秩序安定の目的であったと推定出来る。城壁内で住む住民の保護施策の一つであり、共同体を守護する目的である。
・25-34には「町の領域内の牧草地は売ることが出来ない。それは彼らの永久の所有物であるから」とある。
町の中の牧草地は城壁内の牧草地であると考えてもよい。それは町の食料源である。牧草地は売買禁止の規定で牧草地を確保する権利は永久に認められていた。
・25-27には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合。その身売りした同胞を奴隷にしてはならない」とある。
人身売買の例。
・25-39には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合、その人を貴方の奴隷にしてはならない」とある。
これも人身売買の例。同胞の団結力を弱めることを防いだと推定出来る。
・25-42には「エジプトから私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない」とある。
これも人身売買の「売」である。モーセの権威を述べている。
・25-47には「若し貴方の下に住む居留者、滞在者が豊かになり、貴方の同胞が貧しくなって、貴方の下に住む居留者に身売りした時は」とある。
これも人身売買。
・25-48には「兄弟は誰でも身売りした後に買い戻す権利がある」とある。
これも人身売買。
・25-51には「ヨベルの年までの年数が長ければ、その年に応じて身売りした金額との差額を買い戻し金として支払う」とある。
これも人身売買の例。ヨベルは大赦の日のこと。全てが許される日のことで50年周期で到来する。
・25-54には「身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も子供も手放される」とある。
これも人身売買。
・27-20には「買い戻さずに他人に転売した場合は、再びそれを買い戻すことは出来ない」とある。
これも人身売買。
・27-24には「ヨベルの年が来ると、その畑は畑を売った者の手元に戻る」とある。
取引の自由に一定の制約が設定されていた。それはヨベルの年であり、売主への返却義務が発生した。これも社会を安定させる為の一つの施策であったと考えられる。
・27-27には「汚れた動物の場合、初子の相当額に更にその五分の一を加えて買い戻すことができる」とある。
家畜売買の買い戻し条件である。
・27-28には「奉納品は家畜であれ畑であれ、それを売ったり買ったりすることは出来ない」とある。
主への奉納品の中には人間も含まれていた。しかも、奉納品の第一に人間を挙げている。人間を生贄として奉げる事があったことをうかがわせる下りである。
●申命記には単語「売」は8回発見される。その位置は
・2-28には「食物は金を払いますから売って食べさせ、水も金を払いますから飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです」とある。
食物を売るのはありうることであるが、当時は水も売っていた。乾燥地域であるものの水が売買の対象となり商品となっていた。
・14-21には「死んだ動物は食べてはならない。町の中に居る居留者に食べさせるか、外国人に売りなさい」とある。
動物の肉を売る行為を描写している。街中の居留者や外国人は差別されていたことが分かるくだりである。食べてはいけない動物の肉を国内人には売ってはならないが外国人には売っても構わないのである。
・15-12には「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、貴方のところに売られてきて六年間奴隷として仕えたならば、七年目には貴方の下を去らねばならない」とある。
人身売買の規定を述べている。奴隷としての拘束期間の限定を設定している。
・18-8には「先祖の財産を売って得たものは別として」とある。
売買対象は先祖から引き継いだ財産。先祖の財産は自由に使うことが出来なかった。
・21-14には「彼女が貴方を気に入られなくなった場合、彼女の意のままに去らねばならない。決して金で売ってはならない。既に彼女を辱めたのであるから奴隷扱いは出来ない」とある。
「金で売ってはならない」は日本語でになっていない。「金目的で売ってはならない」或いは「売ってはならない」と翻訳すべきではないか。
・24-7には「イスラエルの人々の一人を誘拐し、之を奴隷のように扱ったり、人に売ろうとしたりするのを目撃したら、誘拐したその人間を殺し、貴方の中から悪を除去すべきである」とある。
これも人身売買であり。イスラエル人は擁護されなければならないと主張している。イスラエル人を奴隷扱いする人間は殺されるべきであるとしている。
・28-68には「奴隷として売ろうとしても、買ってくれるものは居ない」とある。
これも人身売買である。
・32-30には「神が彼らを売らなければ」とある。
これも人身売買。
●士師記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・2-14には「主はイスラエルを周りの敵の手に売り渡されて」とある。
主がイスラエルを見放した。この場合国を売却したことになる。主が国を売却していた。
・3-8には「主は偶像崇拝のイスラエルに対して怒りに燃えて彼らをアラム・ナハライムのクシャン・リシュアタイムに手渡された」とある。
アラムは現在のシリアに該当する。主は国家の売買が可能であった。偶像崇拝のイスラエルをシリアに売り渡した。
・4-2には「主はハツォルで王位に就いていたカナンの王にイスラエルを売り渡した」とある。
ハツォルはイスラエルのカナン征服時代。カナン人の王国の首都がハツォルであった。ここでも主は国家の売却が可能であったことを示している。主が売却して得た資本がどのように使われたのか不明である。聖書の中では、売却代金は使途不明金として宙に浮かんだままである。
・4-9には「主は女の手にシセラを売り渡される」とある。
主が人身売買をしていた。またここでも売買で発生した代金が使途不明金として宙に浮いている。シセラは女将軍だった。イスラエル北部を支配していたカナン人の将軍であった。
・10-7には「主はイスラエルの偶像崇拝に対して怒りに燃えて、イスラエルをペリシテ人とアモイ人に売却した」とある。
主は国も国民も売却したという。ここでも主は国家売買や人身売買をしていた。
●サムエル記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・12-9には「自分達の神、主を忘れたので、主はハツォル軍将軍のシセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡した」とある。
主による国家売買と国民売買が実行された。
●列王記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・21-20には「エリアは答えた『そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされる事に身を委ねるからだ』」とある。
当時、自分を売り渡すことが行われていた。自己売却があった。現代社会にも無い事は無いが、よほどの事態に追い込まれた場合、または自暴自棄の場合に限定される。
●列王記下には単語「売」は6回発見される。その位置は
・4-7には「その油を売って、負債を払いなさい」とある。
油は家の資産の中でも重要な位置にあったことが窺える。
・6-25には「驢馬一頭が八十シュケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られる」とある。
日本では鶯の糞が化粧品として売られていた時代があった。聖書の鳩の糞は畑に蒔く肥料として売買されていた。カブはヘブライ語、1.2リットルのこと。シェケルは重量単位で11グラム。シェケルは7世紀ごろから通貨単位になった。サマリアは大飢饉であったので法外な価格を形成した。
・7-1には「サマリアの城門で小麦粉、大麦が売られるようになる」とある。
大麦や小麦が商品として売買がなされていた。古代の穀物の扱いは日本と大きな落差がある。日本では穀物が商品作物として扱われていない。日本で商品作物の生産が盛んになり穀物が商品化し売買が始まったのは近世以降。日本ではそれまでは農民は農奴であり商品作物栽培の余地が与えられていなかった。
・7-16には「小麦と大麦が売られるようになった」とある。
・7-18には「サマリアの城門で小麦と大麦が売られるように成る」とある。
・17-17には「息子や娘を火の中に通らせ、占いやまじないを行わせ、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い」とある。
「主の目に悪とされる」の翻訳は妙である。「目に悪」は埃が目に入ったと誤解されかねない翻訳だ。「主の目から見て悪とされる」または「主から指弾されることを行い」とすべきではないだろうか。こんな日本語では聖書を読む日本人が減る一方だ。この場合も自己売却であり自暴自棄のことを指摘しているようである。
●ネヘミア記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・5-8には「彼らは私達に熟れれることになるのに」とある。
人身売買
・10-32には「穀物を売ろうとしても、安息日と聖日には買わない」とある。
穀物売買
・13-15には「安息日に食品を売っているので彼らを戒めた」とある。
食品売買
・13-16には「ティルス人は魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込んで安息日に、しかもエルサレムのユダヤ人に売っていた」とある。
ティルスは地中海に面した貿易都市であった。現在はレバノンの主要観光都市。ティルスはアラビア語であり岩のこと。岩礁海岸がそのような地名を定着させた。
・13-20には「取引する人もあらゆるものを売る人も、エルサレムの外で夜を過ごすことは少なからずあった」とある。
●エステル記には単語「売」は1回発見される。その位置は
・7-4には「奴隷として売る」とある。
人身売買
●ヨブ記には単語「売」は2回発見される。その位置は
・6-27には「友さえ売り物にするのか」とある。
人身売買
・40-30には「彼を取引にかけて商人達に切り売りできるか」とある。
人身売買
●詩篇には単語「売」は3回発見される。その位置は
・44-13には「自分の民を安く売り渡し、それを高く売ろうとはなさいませんでした」とある。
人身売買
・58-3には「お前達の手は不法を測り売りしている」とある。
不法の売買
・105-17には「奴隷として売られたヨセフ」とある。
人身売買
●箴言には単語「売」は3回発見される。その位置は
・11-26には「穀物を売り惜しむ」とある。
穀物売買
・31-18には「商売」とある。
「商売」の「売」
・31-24には「亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す」とある。
この下りは「亜麻布を織りそれを帯に仕立てて商人に売り渡した」としなければ説明しにくい。翻訳文は日本語として成立していない。翻訳文は日本語になっていない。亜麻栽培の原料生産と商品製造との分業は定かでないものの、家内制手工業が既に発達していた。商品製造と流通とが既に分業化していたことを窺わせる。
●イザヤ書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・24-2には「売る者も買う者も全て同じ運命になる」とある。
・47-15には「呪文を売り物にして来た」とある。
呪文を唱えて金背院を稼いでいた人々が居た。
呪文が売買対象物になった。
・50-1には「お前達の罪によってお前達は売り渡された」とある。
罪を負うことが人身売買の原因とされた。
人身売買
・52-3には「ただ同然で売られた貴方達は、銀によらず買い戻される」とある。
此処も人身売買
●エレミヤ書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・34-14には「ヘブライ人が身を売って」とある。
人身売買
●エゼキエル書には単語「売」は5回発見される。その位置は
・7-12には「買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが国の群集全てに及ぶから」とある。
売る者、売人である。
・7-13には「売ったものを買い戻すことは出来ない。全ての群集に対する審判の幻が撤回されないからだ」とある。
・16-15には「通りかかる者全てに媚を売り」とある。
売り物は媚
・30-12には「国を悪人に売りわたし」とある。
国が売買対象物であった。
・48-14には「一部でも売り渡したり、交換したりしてはならない」とある。
●ヨエル書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・4-3には「遊女を買うため少年を売り、酒を買うため少女を売った」とある。
人身売買
・4-6には「ユダとエルサレムの人々をギリシャに売り」とある。
国家売買
・4-7には「お前たちが彼らを売った」とある。
人身売買
・4-8には「彼らを遠くシェバ人に売る」とある。
人身売買
●アモス書には単語「売」は3回発見される。その位置は
・2-6には「貧者を靴一足の値段で売った」とある。
人身売買
・8-5には「新月祭は何時終わるのか、穀物を売りたいものだ。。安息日は何時終わるのか麦を売りつくしたい」とある。
穀類の販売
・8-6には「貧者を靴一足の値段で売る」とある。
人身売買
●ゼカリア書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・11-5には「買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売る時は、『主は誉め讃えられよ。私は金持ちになった』というが羊飼い達はそれを憐れまない」とある。
聖書の「売」は旧約聖書だけでも膨大な量になってしまった。知らぬ間に越年してしまっていた。聖書の「売」の新約聖書に関しては次号で調査結果を発表することにした。