聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その830―売(1)

2012-12-27 03:44:28 | Weblog
          注連飾り売る弘法を祀る寺       紅日2011年3月号
 注連飾は新春の季語。注連飾はその起源は様々な説がある。第一は天岩戸に張られたという日本神話説、第二は稲の豊作を祈る風習、第三は山や森の神体としての岩や古木飾る注連などがある。いずれも日本の神道にその源流が溯る事が出来るのであろう。キリスト教会に注連飾や松飾や鏡餅が飾られていることがある。これは聖書では明らかに偶像崇拝だと思う。注連飾であろうと松飾であろうと鏡餅であろうとその起源をたどれば神道である。偶像でなくとも他宗教の徴を飾ったり況や拝んだりするのは十戒に離反することであり背信行為である。しかしながらそれを指弾する訳にも行かない。牧師や信徒にはそれぞれの地域での長い生活習慣が文化が言動に反映するのは当然のことであり、無碍に「これは偶像崇拝だ」と指弾し大声を張り上げるわけにはゆかない。
 作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「弘法を祀る寺」は京都駅南隣に位置する東寺のこと。東寺は俗称で正式名称は教王護国寺。東寺では毎月二十一日に市が開催される。キリスト教圏でもキリスト教会は定期市が開かれる例がある。寺院は古今東西人が集まりやすく市が立つことが多い。毎月、何日に市が立つのか、そのことが地名に定着する場合もある。三斎市、六斎市、二日市、四日市、廿日市などの地名は寺院で毎月何回市が立つのか、何時市が立つのか、その回数や日付が地名として定着した。日本列島には膨大な数の市地名が散在している。日本人の市(いち)に対する人々の関心が古代から強烈であったことの証である。
 地方独自の市の存在は市民の商行為が根深く市民の意識に定着していたかを物語る。市民の商行為、これが経済活動の本質であり要である。所詮、人間の経済活動はそれぞれの地域に於いて、それぞれの国に於いて人々が大地に立ち自律しようとする営みである。現代日本にはその商行為が意識から消滅しつつある。巨大資本がそれを統括してしまい市民の「市」に対する意識が急送に消滅した。新自由主義の自由は世界の数人の資本を操る人間の自由であっても人類の自由ではない、国民の自由でもない、市民の自由でもない。巨大資本が世界を牛耳る新自由主義経済体制、人類の箸の上げ下ろしまで資本で管理支配する、これはある意味では自由主義経済の死滅である。自由主義経済体制を巨大資本が圧殺してしまったと言える。
 東寺では一年間の最終である十二月二十一日に立つ市は「しまい弘法」と呼ばれている。しまい弘法は何時もの「弘法さん」と性格を異にしている。それは正月用品の販売が中心になる。丹波地方の豆、洛北上賀茂のすぐき、若狭地方の海産物などお節料理の食材販売の露店が軒を連ねている。京都人の正月の過ごし方が「しまい弘法」で観察することが出来る。中でも目に引くのが注連飾の露天市である。注連飾には地方独特の形態があり、それぞれの地方で独特の注連飾に出会うことが出来る。門松ほど地方色の違いが大きなものはない。地方の違いでその形態は全く異なる。
 京都の注連飾売りは昔から大原女や白川女が洛中を歩き振売をしていた。大原や北白川で生産された注連飾なので近江の文化的影響がないわけではなかろう。大原や北白川はそれぞれ近江に通じる街道の入口に位置しているからだ。北白川は西近江に通じる山中越街道、大原は鯖街道経由で堅田や高島や今津などの琵琶湖の港町に出ることが可能である。東寺で売っている注連飾に漢字で「笑門」と墨で書かれた札が貼付されているのが特徴的であった。それは笑門来福、「笑う門には福来る」に由来するのであろう。近江にもこの種の門松があるのではないかと此の数年探しているのであるが、未だ見つからない。必ず発見されるであろう。
 今回は作品「注連飾り売る弘法を祀る寺」の「売る」に着目して、聖書の中に発見される商行為、「売る」を取り上げてみたい。聖書に発見される「売」の全てを取り上げて、古代中東地方の人々の商行為の実態に迫ってみたい。何を販売していたかに注目しつつ、聖書から判読出来る当時の人々の商行為を追求しようと思う。商行為の実態を掌握するには漢字の「買」も考慮に入れなければならないのであるが、今回は「買」に関しては割愛したい。

                (旧約聖書に発見される漢字「売」の巻別分布表)
●創世記には単語「売」は10回発見される。その位置は
・31-15には「父は私達を売って」とある。
 父が自分の子供を売っていた。人身売買が一般的であった。

・37-27には「あのイシュマエル人を売ろう」とある。
 イスマエル人はアラブ人のこと。ここでも人身売買。

・37-28には「メダン人がヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った」とある。
 ここでも人身売買。

・37-36には「メダン人がヨセフを売った」とある。
 穴から引き上げられたヨセフはエジプトに売られた。ここでも人身売買。

・41-56には「ヨセフはエジプト人に穀物を売った」とある。
 飢饉のエジプトでヨセフは穀物を売った。

・42-6には「ヨセフは国民に穀物を販売した」とある。
 飢餓のエジプトでヨセフは穀物を販売する監督をしていた。

・45-4には「貴方がエジプトに売り飛ばした、そのヨセフです」とある。
 ヨセフは人身売買を語っている。

・45-5には「私をエジプトに売ったこと」とある。
 ここでも人身売買をのべている。

・47-20には「エジプト人は飢饉の為畑を売らなければならなかった」とある。
 窮乏から強いられた畑の売却である。

・47-22には「農地を売らなかった」とある。
 これも畑の売却である。

●出エジプト記には単語「売」は6回発見される。その位置は
・21-7には「娘を女奴隷として売る」とある。

・21-8には「女奴隷を裏切ったのであるから彼女を外国人に売る権利は無い」とある。

・21-16には「誘拐により手に入れた奴隷を売った場合死刑に処せられる」とある。

・21-35には「牛を売って」とある。

・21-37には「牛あるいは羊を盗んで売ったならば」とある。

・22-26には「彼が何も持ってない場合は、盗みの代償として身売りしなければならない」とある。

●レビ記には単語「売」は18回発見される。その位置は
・25-14には「土地の売買は相互に損害をあたえてはならない」とある。

・25-15には「残る収穫年数に応じて貴方に売る」とある。
 畑の売買価格は収穫量と収穫年数に応じて決定されていたと推定出来る。

・25-16には「収穫できる年数に応じて貴方に売る」とある。

・25-23には「土地を売らねば成らない時にも買い戻す時の権利を放棄してはならない」とある。
 買戻しの権利の留保は義務であった。土地価格の乱高下を抑止したい願望があったと推定出来る。

・25-25には「貧困が原因で土地を売却した場合、その親戚は買い戻す義務が生じる」とある。
 転売による権利関係が移り易い事は行政にも大きな負担があったと推定出来る。

・25-27には「その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば自分の所有地の返却を受けることができる」とある。
 「ヨベルの年」とはユダヤ教で定める50年に一度の「大恩赦の日」のこと。カトリック教会では25年に一度が「大恩赦の日」に定めている。負債も借金も抹消される日である。社会の貧富格差をこの方法で抑止しつつ社会の安定を図っていたと推定出来る。

・25-29には「城壁内の家屋を売った場合、その人はその年の終わりまで買い戻す権利を有する」とある。
 買戻しの権利留保は社会秩序安定の目的であったと推定出来る。城壁内で住む住民の保護施策の一つであり、共同体を守護する目的である。

・25-34には「町の領域内の牧草地は売ることが出来ない。それは彼らの永久の所有物であるから」とある。
 町の中の牧草地は城壁内の牧草地であると考えてもよい。それは町の食料源である。牧草地は売買禁止の規定で牧草地を確保する権利は永久に認められていた。

・25-27には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合。その身売りした同胞を奴隷にしてはならない」とある。
 人身売買の例。

・25-39には「同胞が貧しさが原因で身売りした場合、その人を貴方の奴隷にしてはならない」とある。
 これも人身売買の例。同胞の団結力を弱めることを防いだと推定出来る。

・25-42には「エジプトから私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない」とある。
 これも人身売買の「売」である。モーセの権威を述べている。

・25-47には「若し貴方の下に住む居留者、滞在者が豊かになり、貴方の同胞が貧しくなって、貴方の下に住む居留者に身売りした時は」とある。
 これも人身売買。

・25-48には「兄弟は誰でも身売りした後に買い戻す権利がある」とある。
 これも人身売買。

・25-51には「ヨベルの年までの年数が長ければ、その年に応じて身売りした金額との差額を買い戻し金として支払う」とある。
 これも人身売買の例。ヨベルは大赦の日のこと。全てが許される日のことで50年周期で到来する。

・25-54には「身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も子供も手放される」とある。
 これも人身売買。

・27-20には「買い戻さずに他人に転売した場合は、再びそれを買い戻すことは出来ない」とある。
 これも人身売買。

・27-24には「ヨベルの年が来ると、その畑は畑を売った者の手元に戻る」とある。
 取引の自由に一定の制約が設定されていた。それはヨベルの年であり、売主への返却義務が発生した。これも社会を安定させる為の一つの施策であったと考えられる。

・27-27には「汚れた動物の場合、初子の相当額に更にその五分の一を加えて買い戻すことができる」とある。
 家畜売買の買い戻し条件である。

・27-28には「奉納品は家畜であれ畑であれ、それを売ったり買ったりすることは出来ない」とある。
 主への奉納品の中には人間も含まれていた。しかも、奉納品の第一に人間を挙げている。人間を生贄として奉げる事があったことをうかがわせる下りである。

●申命記には単語「売」は8回発見される。その位置は
・2-28には「食物は金を払いますから売って食べさせ、水も金を払いますから飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです」とある。
 食物を売るのはありうることであるが、当時は水も売っていた。乾燥地域であるものの水が売買の対象となり商品となっていた。

・14-21には「死んだ動物は食べてはならない。町の中に居る居留者に食べさせるか、外国人に売りなさい」とある。
 動物の肉を売る行為を描写している。街中の居留者や外国人は差別されていたことが分かるくだりである。食べてはいけない動物の肉を国内人には売ってはならないが外国人には売っても構わないのである。

・15-12には「同胞のヘブライ人の男あるいは女が、貴方のところに売られてきて六年間奴隷として仕えたならば、七年目には貴方の下を去らねばならない」とある。
 人身売買の規定を述べている。奴隷としての拘束期間の限定を設定している。

・18-8には「先祖の財産を売って得たものは別として」とある。
 売買対象は先祖から引き継いだ財産。先祖の財産は自由に使うことが出来なかった。

・21-14には「彼女が貴方を気に入られなくなった場合、彼女の意のままに去らねばならない。決して金で売ってはならない。既に彼女を辱めたのであるから奴隷扱いは出来ない」とある。
 「金で売ってはならない」は日本語でになっていない。「金目的で売ってはならない」或いは「売ってはならない」と翻訳すべきではないか。

・24-7には「イスラエルの人々の一人を誘拐し、之を奴隷のように扱ったり、人に売ろうとしたりするのを目撃したら、誘拐したその人間を殺し、貴方の中から悪を除去すべきである」とある。
 これも人身売買であり。イスラエル人は擁護されなければならないと主張している。イスラエル人を奴隷扱いする人間は殺されるべきであるとしている。

・28-68には「奴隷として売ろうとしても、買ってくれるものは居ない」とある。
 これも人身売買である。

・32-30には「神が彼らを売らなければ」とある。
 これも人身売買。

●士師記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・2-14には「主はイスラエルを周りの敵の手に売り渡されて」とある。
 主がイスラエルを見放した。この場合国を売却したことになる。主が国を売却していた。

・3-8には「主は偶像崇拝のイスラエルに対して怒りに燃えて彼らをアラム・ナハライムのクシャン・リシュアタイムに手渡された」とある。
 アラムは現在のシリアに該当する。主は国家の売買が可能であった。偶像崇拝のイスラエルをシリアに売り渡した。

・4-2には「主はハツォルで王位に就いていたカナンの王にイスラエルを売り渡した」とある。
 ハツォルはイスラエルのカナン征服時代。カナン人の王国の首都がハツォルであった。ここでも主は国家の売却が可能であったことを示している。主が売却して得た資本がどのように使われたのか不明である。聖書の中では、売却代金は使途不明金として宙に浮かんだままである。

・4-9には「主は女の手にシセラを売り渡される」とある。
 主が人身売買をしていた。またここでも売買で発生した代金が使途不明金として宙に浮いている。シセラは女将軍だった。イスラエル北部を支配していたカナン人の将軍であった。

・10-7には「主はイスラエルの偶像崇拝に対して怒りに燃えて、イスラエルをペリシテ人とアモイ人に売却した」とある。
 主は国も国民も売却したという。ここでも主は国家売買や人身売買をしていた。

●サムエル記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・12-9には「自分達の神、主を忘れたので、主はハツォル軍将軍のシセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡した」とある。
 主による国家売買と国民売買が実行された。

●列王記上には単語「売」は1回発見される。その位置は
・21-20には「エリアは答えた『そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされる事に身を委ねるからだ』」とある。
 当時、自分を売り渡すことが行われていた。自己売却があった。現代社会にも無い事は無いが、よほどの事態に追い込まれた場合、または自暴自棄の場合に限定される。

●列王記下には単語「売」は6回発見される。その位置は
・4-7には「その油を売って、負債を払いなさい」とある。
 油は家の資産の中でも重要な位置にあったことが窺える。

・6-25には「驢馬一頭が八十シュケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られる」とある。
 日本では鶯の糞が化粧品として売られていた時代があった。聖書の鳩の糞は畑に蒔く肥料として売買されていた。カブはヘブライ語、1.2リットルのこと。シェケルは重量単位で11グラム。シェケルは7世紀ごろから通貨単位になった。サマリアは大飢饉であったので法外な価格を形成した。

・7-1には「サマリアの城門で小麦粉、大麦が売られるようになる」とある。
 大麦や小麦が商品として売買がなされていた。古代の穀物の扱いは日本と大きな落差がある。日本では穀物が商品作物として扱われていない。日本で商品作物の生産が盛んになり穀物が商品化し売買が始まったのは近世以降。日本ではそれまでは農民は農奴であり商品作物栽培の余地が与えられていなかった。

・7-16には「小麦と大麦が売られるようになった」とある。

・7-18には「サマリアの城門で小麦と大麦が売られるように成る」とある。

・17-17には「息子や娘を火の中に通らせ、占いやまじないを行わせ、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い」とある。
 「主の目に悪とされる」の翻訳は妙である。「目に悪」は埃が目に入ったと誤解されかねない翻訳だ。「主の目から見て悪とされる」または「主から指弾されることを行い」とすべきではないだろうか。こんな日本語では聖書を読む日本人が減る一方だ。この場合も自己売却であり自暴自棄のことを指摘しているようである。

●ネヘミア記には単語「売」は5回発見される。その位置は
・5-8には「彼らは私達に熟れれることになるのに」とある。
 人身売買

・10-32には「穀物を売ろうとしても、安息日と聖日には買わない」とある。
 穀物売買

・13-15には「安息日に食品を売っているので彼らを戒めた」とある。
 食品売買

・13-16には「ティルス人は魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込んで安息日に、しかもエルサレムのユダヤ人に売っていた」とある。
 ティルスは地中海に面した貿易都市であった。現在はレバノンの主要観光都市。ティルスはアラビア語であり岩のこと。岩礁海岸がそのような地名を定着させた。

・13-20には「取引する人もあらゆるものを売る人も、エルサレムの外で夜を過ごすことは少なからずあった」とある。

●エステル記には単語「売」は1回発見される。その位置は
・7-4には「奴隷として売る」とある。
 人身売買

●ヨブ記には単語「売」は2回発見される。その位置は
・6-27には「友さえ売り物にするのか」とある。
 人身売買

・40-30には「彼を取引にかけて商人達に切り売りできるか」とある。
 人身売買

●詩篇には単語「売」は3回発見される。その位置は
・44-13には「自分の民を安く売り渡し、それを高く売ろうとはなさいませんでした」とある。
 人身売買

・58-3には「お前達の手は不法を測り売りしている」とある。
 不法の売買

・105-17には「奴隷として売られたヨセフ」とある。
 人身売買

●箴言には単語「売」は3回発見される。その位置は
・11-26には「穀物を売り惜しむ」とある。
 穀物売買

・31-18には「商売」とある。
 「商売」の「売」

・31-24には「亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す」とある。
 この下りは「亜麻布を織りそれを帯に仕立てて商人に売り渡した」としなければ説明しにくい。翻訳文は日本語として成立していない。翻訳文は日本語になっていない。亜麻栽培の原料生産と商品製造との分業は定かでないものの、家内制手工業が既に発達していた。商品製造と流通とが既に分業化していたことを窺わせる。

●イザヤ書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・24-2には「売る者も買う者も全て同じ運命になる」とある。

・47-15には「呪文を売り物にして来た」とある。
 呪文を唱えて金背院を稼いでいた人々が居た。
 呪文が売買対象物になった。

・50-1には「お前達の罪によってお前達は売り渡された」とある。
 罪を負うことが人身売買の原因とされた。
 人身売買

・52-3には「ただ同然で売られた貴方達は、銀によらず買い戻される」とある。
 此処も人身売買

●エレミヤ書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・34-14には「ヘブライ人が身を売って」とある。
 人身売買

●エゼキエル書には単語「売」は5回発見される。その位置は
・7-12には「買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが国の群集全てに及ぶから」とある。
 売る者、売人である。

・7-13には「売ったものを買い戻すことは出来ない。全ての群集に対する審判の幻が撤回されないからだ」とある。

・16-15には「通りかかる者全てに媚を売り」とある。
 売り物は媚

・30-12には「国を悪人に売りわたし」とある。
 国が売買対象物であった。

・48-14には「一部でも売り渡したり、交換したりしてはならない」とある。

●ヨエル書には単語「売」は4回発見される。その位置は
・4-3には「遊女を買うため少年を売り、酒を買うため少女を売った」とある。
 人身売買

・4-6には「ユダとエルサレムの人々をギリシャに売り」とある。
 国家売買

・4-7には「お前たちが彼らを売った」とある。
 人身売買

・4-8には「彼らを遠くシェバ人に売る」とある。
 人身売買

●アモス書には単語「売」は3回発見される。その位置は
・2-6には「貧者を靴一足の値段で売った」とある。
 人身売買
・8-5には「新月祭は何時終わるのか、穀物を売りたいものだ。。安息日は何時終わるのか麦を売りつくしたい」とある。
 穀類の販売

・8-6には「貧者を靴一足の値段で売る」とある。
 人身売買

●ゼカリア書には単語「売」は1回発見される。その位置は
・11-5には「買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売る時は、『主は誉め讃えられよ。私は金持ちになった』というが羊飼い達はそれを憐れまない」とある。


 聖書の「売」は旧約聖書だけでも膨大な量になってしまった。知らぬ間に越年してしまっていた。聖書の「売」の新約聖書に関しては次号で調査結果を発表することにした。

聖堂の詩その829―口笛

2012-12-24 17:41:38 | Weblog
               枯野道口笛を吹き下校の子     紅日2012年4月   

 北海道石狩川の川霧がダイヤモンドダストになっているとニュースは伝えている。近畿地方も今夜は寒くなりそうだ。クリスマス前夜祭は近畿地方でも雪になるかもしれない。昔のキリスト教暦では日没が一日の終わりであり一日の始まりだったそうだ。だから24日前夜祭は日没前のお祭であって日没後は25日になり本祭となっているらしい。日本では足掛け二日のクリスマスイブを巷で騒ぐと言うことになるのであろうか。日没が一日の境となる生活経験が無いので説明されても分りにくい。
 キリスト教圏で日没後が翌日であるとすれば日没後のSupperやDinnerはどのように考えればよいのか。Breakfastは断食からの解放であり朝食ではないと考えた方が良いのであろうか。昼食をeariy deinner、夕食をlate dinnerの呼称もある。そうなるとLunchはどの範囲のことを言うのか。一日の境界の日没手前としてのX'mass eveになるとそのことが頭の中でもやもやする。それからキリスト教文化圏では何故略称略語を簡単に作るのか、これも分らない。christ massをX'mass等と何故イエスキリストの誕生までも略字にしなければならないのか。新嘗祭を「新祭」と唱えたり、天長節を「天説」と唱えたりすれば戦前の日本なら不敬罪になる。
 こんなことを考えると外国語は現地人に学ぶのが一番であるとつくづく思う。高校や大学の日本人英語では分らないことだらけ。食事に関する言葉や考え方はその国の歴史や地理を反映し、その国の思想を表徴するだけに何時も気になる事柄だ。英語教員でイギリスの地理や歴史を学んで教壇に立っているのは居ないのではないか。英文学の研究者で高校時代世界史や地理を学ばなかった教師は山ほど居るのが現実だ。
 地理や歴史を学習しないで外国語教育に携わるのは余りにも無謀だと私は考える。人々の言語活動はその国の風土に立脚しているからだ。私も英語は単語を覚えるだけの勉強しかしなかったが、単語を覚えるだけが語学ではない。語学学習はその国への憧憬が必須条件であり、その国の地理や歴史の学習に半分以上の力を注ぐべきである。日本の学校教育は地理や歴史を忌避する傾向が強い。それが原因で日本の外国語教育にも地理と歴史が欠落している。敗戦のトラウマ、そして今も続いている不平等条約の屈辱が未だに尾を引いている。どんなに表情で隠して居ても潜在的な心の傷跡の治癒は時間がかかる。最近の子供たちは日本への原爆投下国は朝鮮や中国やロシアと答える例が希に見える。子供だけではない大人もそのように答える人が居る。余程、学校が歴史を教えていないのだろう。原爆を投下した国はアメリカである。原爆投下から未だ半世紀あまりだ。そんな短期間でトラウマが消滅するはずが無い。
 今日、クリスマスイブは口笛の句を取り上げた。夜に口笛を吹くと泥棒が入るという言い伝えが日本にある。クリスマスイブに口笛の作品を出すのは少々気が引ける。しかも枯野道を下校する子供が口笛を吹いている姿は何か物悲しい。先生に叱られたのかもしれない。子供がそのように見えて生まれた作品が「枯野道口笛を吹き下校の子」。口笛は心の傷を癒す為に吹くのかもしれない、他人に寂しい顔を見せないようにする為に口笛を吹くのかもしれない。しかし、日本では昔から口笛は忌まわしいものと考えられていたようである。だからこそ口笛を夜に吹くと泥棒が来ると言われたのであろう。日本では忌まわしき口笛。
 聖書では口笛がどのような扱いであろうか。古代中東地方では人々は口笛をどのように感じていたであろうか。クリスマスイブにはあまり相応しく無い主題であるが取り上げてみた。巷の酔いどれが口笛を吹きながら千鳥足で歩いていることを思い浮かべながら、クリスマスイブにそれを取り上げて考えてみたい。聖書には単語「口笛は全部で八箇所である。笛なら角笛なども含めると沢山の笛が聖書に発見できる。30件近くの笛が数えられる。しかし、その中で口笛に限定すれば8件しか発見できない。口笛」は聖書で希少性がある単語だ。数が少ないので口笛の性格がつかみきれないかもしれないが、八箇所の「口笛」を一つ一つ観察してながら古代中東地方の人々の口笛がどうであったか、わくわくしながら思い浮かべて綴ってみたい。こんなことを思い浮かべて綴るのもクリスマスの一つの過ごし方ではないだろうか。

                       (聖書に出て来る口笛の巻別分布表)
●列王記Ⅰには単語「口笛」が1回発見される。その位置は下記
・9-8には「この神殿は廃墟となり、その傍を通る人は皆、驚いて口笛を鳴らし、『この地とこの神殿に、主は何故このような仕打ちをされたのか』と問うであろう」とある。
 此の場面では、口笛は驚きながら吹き鳴らしている。気持ちが良いので口笛を吹いているのではない。愉快なので口笛を吹いているのでもない。それは驚きを包み隠す為の口笛だ。神との掟を破り偶像崇拝をしたことが神殿を廃墟に導いた。皆が口笛吹いて神殿の傍を通るのは偶像崇拝への報いであり罰であると感じていたからだ。それが口笛を吹かせているのであり嘲笑と恐怖が口笛を吹かせている。

●イザヤ書には単語「口笛」が2回発見される。その位置は下記
・5-26には「主は旗を上げ遠くの民に合図し口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速やかに、足も軽くやってくる」とある。
 この場合の口笛は主が民を集める為の合図としての口笛である。通信網の発達が原始的な時代である。口笛は家畜や人々を集める合図となっていた。

・7-18には「その日が来れば主は口笛を吹いてエジプトの川の果てから蝿を、アッシリアの地の果てから蜂を呼ばれる」とある。
 ここでも口笛は終身手段の一つとして描写されている。人間が発する声よりも人間が発する口笛のほうが遠方にまで届いた。当時は口笛は狼煙と並ぶ貴重な通信手段であった。

●哀歌には単語「口笛」が2回発見される。その位置は下記
・2-15には「道行く人は誰もかれも手をたたいてあなたを嘲る。おとめエルサレムよ、貴方に向って口笛を吹き、頭を振って囃し立てる『麗しさの極み、全地の喜びと讃えられた都が之か』と」とある
 この場合の口笛は人を嘲る場合の口笛であり嘲笑の口笛である。蔑視嘲笑の口笛が当時存在していた。

・2-16には「敵は皆、貴方に向って大口を開けて歯を剥き、口笛を吹き鳴らし、そして言う『滅ぼし尽くしたぞ。ああ、之こそ待ちに待った日だ。確かに見届けた』と」とある。
 この場合の口笛は脅しの口笛であり脅迫の口笛である。口笛には様々な意味が含まれ、口笛の含蓄の深さがある。

●エゼキエル書には単語「口笛」が1回発見される。その位置は下記
・27-36には「諸国の民の商人は口笛を吹いて、お前を嘲る。お前は人々に恐怖を引き起こし、永久に消えうせる」とある。
 この場合も嘲りと蔑視の口笛である。

●ゼファにア書には単語「口笛」が1回発見される。その位置は下記
・2-15には「これが、嘗て賑わった都であろうか。嘗て、人々は安らかに住み、心の中に『私だけだ。私のほかには誰も居ない』と言った。どうして、都は荒れ果て獣の伏す所となったのか。此処を通り過ぎる者は皆驚きのあまり口笛を吹き手を横に振る」とある。
 この場合も驚きを包み隠す為の口笛である。「手を横に振る」のは呆れかえる時の仕草。

●ゼカリア書には単語「口笛」が1回発見される。その位置は下記
・10-8には「私達は彼らを贖い口笛を吹いて集める。彼らは嘗てのように再び多くなる」とある。
 この場合の口笛も人々に送る合図の一つであり口笛は通信手段でもあった。

                    (聖書に出てくる口笛の特徴)
<1>口笛の希少性
 聖書には角笛のほかに様々な笛がある。全部で30近くの笛がある。その内で口笛は八回しかない。聖書の中の口笛は希少性の高い単語であり人々の口笛との接触は余り無かったと推定される。

<2>通信手段としての口笛
 口笛は人間や家畜に送る合図として活用された。聖書には遊牧場面が多いが広大な半砂漠の草原では遠方にまで信号を送らねばならない。大声よりも口笛のほうが遠方にまで音波が届いた。狼煙と同様に通信手段としての口笛であった。狼煙は視覚に訴える通信手段であった。口笛は聴力に訴える通信手段であった。

<3>口笛は昆虫にまで通じると信じられていた。
 イザヤ書7-18では蝿や蜂にまで口笛で伝えることができると信じられていた。口笛を吹くことで遠いエジプトの蝿やアッシリアの蜂などに知らせることができると信じられていた。口笛は遠方にまで連絡できる通信手段であると信じられていた。

<4>嘲笑侮蔑の口笛
 口笛は相手を嘲り侮蔑する仕草の一つであった。決して口笛は心地よきものではなかったと推定出来る。

<5>日本の口笛と中東地方の口笛の共通性
 日本では夜口笛を吹くと泥棒が来ると言われている。口笛は余り好ましい行為であると言う点では聖書に出てくる口笛と同じである。

聖堂の詩その828―偶像と仏と(3)

2012-12-23 15:26:29 | Weblog
                  雪原の中の古刹に金の弥陀        紅日2012年5月号
 クリスマスが近い。クリスマスはCrist massでありキリストを賛美しイエスキリストの誕生を祝福するのがクリスマスと言われている。しかし、イエスキリストが12月25日に生まれたという証拠は何処にもない。クリスマスの源流は新年を迎える儀式であるとされている。また、聖書にはCrist1 massに関しては何もかいていないので17世紀ごろキリスト教圏では異教徒の祭りであると考えられ一部の地方ではクリスマスの祝賀行事は禁じられていたこともあった。それが、アメリカへ渡ったオランダ人らによる1647年のピューリタン革命だった。イギリス本国でも同じでクリスマスを祝う祝典を禁止した。また、クリスマスを境に一日の昼の時間が次第に長くなるので北欧の冬至祭が源流であるとも言われたりしている。クリスマス起源説は多種多様である。そのようなことも原因しているのであろうかキリスト教圏ではクリスマス行事は予想以上に静かである。
 世界で驚くほどクリスマスを派手に盛大に祝福するのは日本である。仏教の檀家や神道の氏子が圧倒的に多い日本であるがクリスマスを世界で最も盛大に祝うのは日本であり世界で特異な景色を見せている。マスコミが盛り上げているようであるが、何か政治的目的があるのかもしれないと思うほどのマスコミのはしゃぎようである。
 日本のクリスマス祝賀会はザビエルがキリスト教を日本に齎した時からであり天文年間に遡る。江戸時代も明治時代も実質的には幕府や軍部にキリスト教は弾圧され、クリスマス祝会はなかった。それが劇的に解放されたのは太平洋戦争の敗北以降である、隣国韓国でも朝鮮戦争の動乱期に急激にクリスマスが広がった。二国の共通性は米軍や連合軍のキリスト教普及活動が背後にあったと考えられる。
 ホワイトクリスマスは雪が降るクリスマスを差している。今夜23日あたりは近畿地方でも雪が降るかもしれない。良く考えればクリスマスツリーにサンタクロースもトナカイの橇も吊るしている。イエスキリストが誕生したベツレヘムはエルサレムの南方10kmに位置する半砂漠地方でありクリスマスツリーのような大量積雪は記録したことがない。それに聖書にはカモシカは出て来るがトナカイは何処にも見当たらない。それは北欧の冬至祭がクリスマスに見られる残滓であろう。また、キリスト教は偶像崇拝を厳しく禁じているにも関らずクリスマスはサンタクロースを児童に偶像化させている奇異な風景が見られる。偶像idolは花形スターのことも言うのであればサンタクロースは偶像に該当するではないか。何故聖書に厳禁している偶像崇拝を子供に教えるのか、何故子供に偶像への強いイメージを抱かせるのか。そんな気がしないでもない。キリスト教徒のクリスマスには聖書と大きな乖離を発見することが出来る。

                  (聖書の中で発見される単語「偶像」の巻別の頻度)
●レビ記には4回の「偶像」が発見される。その箇所は
・19-4,25-55,26-1,26-30
●申命記には3回の「偶像」が発見される。その箇所は
・4-14,7-5,29-16
●士師記には2回の「偶像」が発見される。その箇所は
・3-19,3-26
●サムエル記上には2回の「偶像」が発見される。その箇所は
・15-23,31-9
●サムエル記下には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・5-21
●列王記上には4回の「偶像」が発見される。その箇所は
・15-12,16-13,16-26,21-26
●列王記下には5回の「偶像」が発見される。その箇所は
・17-12,16-13,16-26,21-26
●歴代誌上には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・10-9
●歴代誌下には4回の「偶像」が発見される。その箇所は
・15-8,24-18,33-15,34-7
●詩篇には11回の「偶像」が発見される。その箇所は
・31-7,56-8,73-20,78-58,97-7,106-36,106-38
●イザヤ書には21回の「偶像」が発見される。その箇所は
2-8,2-18,2-20,10-10,10-11,19-1,19-3,31-7.40-19,42-8,42-17,44-8,44-9,44-10,44-17,45-16,45-20,45-25,48-5,57-13,66-3
●エレミヤ書には9回の「偶像」が発見される。その箇所は
・8-19,10-14,32-24,44-8,50-2,50-38,51-17
●エゼキエル書には45回の「偶像」が発見される。その箇所は
5-17,6-4,6-5,6-6,6-9,6-13,7-20,8-10,8-12,13-23,14-3,14-4,14-5,14-6,14-7,16-20,16-21,16-36,18-6,18-11,18-12,18-15,20-7,20-8,20-16,20-18,20-24,20-30,20-31,20-32,20-39,22-3,22-4,23-7,23-30,23-37,23-39,23-49,30-13,33-25,36-18,36-25,37-23,44-10,44-12
●ホセア書には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・4-17,8-4,9-4,10-6,11-2,12-1,13-7,14-9
●アモス書には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・5-26
●ミカ書には2回の「偶像」が発見される。その箇所は
・1-7,5-12
●ハバクク書には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・2-18
●ゼカリア書には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・13-2
●使徒行伝には7回の「偶像」が発見される。その箇所は
・7-41,7-43,14-15,15-29,15-29,19-16,21-25
●ローマ人への手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・2-22
●コリント人への手紙Ⅰには15回「偶像」が発見される。その箇所は
・5-10,5-11,6-9,7-40,8-1,8-4,8-7,8-10,9-27,10-7,10-14,10-19,10-20.10-28,12-2
●コリント人への手紙Ⅱには1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・6-16
●ガラテア人への手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・5-20
●エフェソ人への手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・5-5
●コロサイ人への手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・3-5
●テサロニケ人への手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・1-9
●ペテロの手紙Ⅰには1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・4-3
●ヨハネの手紙には1回の「偶像」が発見される。その箇所は
・5-21
●ヨハネの黙示録には5回の「偶像」が発見される。その箇所は
・2-14,2-20,9-20,21-8,22-15

 聖書の160回箇所に「偶像」が発見された。予想外の多くの「偶像」が発見された。これほど聖書は偶像に強く拘っているとは予想しなかった。聖書に出て来る単語の頻度の高い順序を高い順に高頻度、中頻度、低頻度に区分すれば、「偶像」は中頻度であることは明白である。意外な高い頻度で聖書に「偶像」が出てくることに注目すべきであろう。尚、高い頻度の巻別順序は以下の如くである

第一位―エゼキエル書が45回
第二位―イザヤ書が21回
第三位―コリント人への手紙Ⅰが15回
第四位―詩篇が11回
第五位―エレミヤ書が9回
第六位―ホセア書が8回
第七位―使徒行伝が7回
第八位―ヨハネの黙示録が5回
第八位―列王記下が5回
第九位―レビ記が4回
第九位―列王記上が4回
第九位―歴代誌下が4回
第十位―申命記が3回

 エゼキエル記が圧倒的に多い。此の一巻で聖書のほぼ三分の一の45回も「偶像」が出てきている。聖書の中では、エゼキエル書が偶像崇拝を最も厳しく規制し禁止している。もう一つの聖書の「偶像」の分布の特徴では「偶像」がでてこない巻が無いということである。殆どの巻に偶像が出て来て、偶像が出てこない巻を探すのが難しいと言える。旧約新約を問わず全ての巻で偶像崇拝を禁止しているのが大きな特徴であり。そのことからも、偶像崇拝禁止の厳しさが見えてくる。こうした聖書の偶像崇拝の厳禁からすれば、日本の多くのキリスト教会でマリア像やイエス像を見るのは違和感を感じざるを得ない。あれは偶像ではないと言い訳されると尚更訝しく思うのは私だけではなかろう。

聖堂の詩その827―偶像と仏と(2)

2012-12-19 07:27:45 | Weblog
                雪原の中の古刹に金の弥陀        紅日2012年5月号
 昨夜から急に気温が低下して、今朝の北山も比叡山も真白だった。家の周りは雪に包まれた。真白な雪であるものの、純粋の雪ではない。昔は雪のように美しいと形容されたが実際はそうではないそうだ。いつか読んだ論文に雪の中に混じる黄砂を追求していたものがあった。雨は流れてわかりにくいが、雪の中には忠実に黄砂を留保している。雪の中に混じる黄砂、即ち砂塵の成分を分析してその地質を明らかにしようとするのである。その上で地質を照合してモンゴルやシベリアや中国のどの地域から黄砂が日本列島に飛来したか明らかにした論文だった。粒子の中には中国やロシアの核実験場の粒子も存在するだろう。粒子に放射能が含まれていても不思議ではない。そんなことを考えれば、雪景色にうっとり見とれる時代ではなくなった。
 同じように日本ではキリスト者を取り囲む環境は大きく変化しているのは間違いない。その意味で現代日本社会でキリスト者として生きる時、少なくとも近代以降の日本のキリスト教弾圧史、即ち偶像崇拝禁止思想に対する弾圧の概略を知っておく必要があるのではないだろうか。近代以降日本では政府が天皇を現人神に祀った。政府は各学校に天皇の御真影(写真)と共に教育勅語を掲げさせた。教師も生徒もご真影と共に教育勅語に向って礼拝した。学校教育を通じて天皇を現人神として祀り上げた。国民は現人神である天皇の赤子であった。
 切支丹禁制が解かれたのは明治六年(1874)であり、禁制が解かれた後もキリスト教徒弾圧が各地で継続した。それは明治政府は天皇がイエスキリストより高い地位に在ることを強要する弾圧であった。近代に入ってからも天皇を崇めるか崇めないかを問いかける踏絵が存在したことになる。そのような政府の宗教政策は政府とキリスト教徒との対立摩擦を生じさせた。キリスト教徒にとっては政府が強要する天皇崇拝は即ち偶像崇拝に等しいことであり、キリスト教徒の闘いがあった。この場合は仏像ではなく現人神である天皇を写真や教育勅語を通じて崇拝することの拒絶であり、闘いであった。それを日本キリスト教史年表等に従い、近代以降の日本政府による主なキリスト教弾圧事件を羅列してみた。キリスト者にとって偶像とは何か、偶像崇拝禁止とは何かを考える為に事件を羅列してみた。近代以降のキリスト教徒への日本政府の弾圧を考える為に、キリスト教歴史年表で偶像崇拝に関係している目に付くものを幾つか取り上げてみた。

<1>森有礼暗殺事件
 森有礼は明治22年2月11日大日本帝国憲法発布式典に於いて国家主義者西野文太郎に殺害される。刺殺理由は様々ある。第一はイエスキリストとの契約で結婚式を挙げたこと。第二は森有礼の過激な洋化政策抑止。第三は森有礼が伊勢神宮参拝時に土足で社殿に上っただけでなく、神殿の簾を杖の先端で除けて中を覗いたことが背景にあるのだろう。明治6年に政府はキリシタン禁制を解いたものの、実質的には明治22年に於いても政権内部で神道とキリスト教の対立が激化していたことが窺える。

<2>上智大学事件
 昭和7年(1932)5月5日上智大学の学生が靖国神社参拝を拒絶した。そのことが原因で政府は「カトリックだけではなくキリスト教は日本の国体と相容れない邪教である。邪教の学校経営は反国家的である。外人教師達は母国から派遣されたスパイである」との厳しい批判を展開した。之を受けてカトリック教会は「祖国に対する信者のつとめ」を宣言し靖国神社参拝を行うようになった。カトリックのこの時の姿勢には偶像とは何かの議論が無かった。またモーセの十戒の偶像崇拝禁止と現実とを照合する姿勢も見当たらない。この点に関しては中央神学校編集員会が編纂した「中央神学校回想」に於いて、中央神学校のチャップマン氏は信徒の旧約聖書の理解が欠落していたと指摘している。ユダヤ教の経典旧約聖書の理解があれば偶像崇拝をしなかったであろうと指摘している。

<3>日本キリスト教改革派の偶像礼拝拒否宣言
 昭和26年(1951)8月、日本キリスト教団第六回大会において、常葉隆興宮城遥拝は偶像礼拝であると断言した影響を強く受けて「あらゆる神道や神社は偶像である」と断言した。その上で「神棚、仏壇その他いかなる宗教的事物に対しても頭を下げない」との決意を示した。

<4>日本キリスト教協議会の偶像崇拝廃棄宣言
 昭和29年(1954)3月、日本キリスト教協議会主催の「日本宣教百年記念運動」に於いて偶像崇拝をして来たことの罪を告白した。「一切の偶像を廃棄すべく聖書の命令に応える事に於いて、我々キリスト者は欠けていた。神の前にこのことを反省し悔い改めをする」と告白している。

 戦時中は偶像崇拝は朧げながらに罪深い行為であることを知っていた。また、カトリックの「祖国に対する信者のつとめ」もあり、問題意識が有耶無耶となり、靖国神社に参拝し偶像礼拝疾しさも薄れ皇居遥拝をも行っていた。しかし、終戦直後になって初めてそのようないい加減な姿勢で偶像崇拝をしていたことの信徒としての犯罪性に目覚めたということであろううか。
 保守政党に多いのであるが、現在は与野党を問わず日韓キリスト教議員連盟に参加している議員が多い。国会議員のキリスト教信徒は統一教会系列の信徒を含めて、キリスト教の議員の比率は一般社会よりも遥かに高い比率を占めている。千代田区に聳える日本の国会がキリスト教会ではないのかと錯覚するほどキリスト教徒の比率が高い。何故、国会議員には統一教会系列の信徒を含めてキリスト教徒が多いのかその理由は分らないが、国会が教会ではないのかと見間違えるほど国会議員のキリスト者が多い。
 国会議員のキリスト教徒には興味深い現象がみれれる。それは「日韓キリスト教議員連盟」の国会議員と古賀誠氏が代表者である「皆で靖国神社に参拝する国会議員の会」の議員と重複していることだ。政治家は如何なる団体からも支援を受けたい気持ちがあり、相矛盾する団体に顔を出すのは分らないでもないが度が過ぎているのではないか。人間的に余りにも不謹慎では無いだろうか。国会議員が相対立する両者の団体に二股をかけている風景はイソップ物語の蝙蝠である。狡猾で香具師の如き蝙蝠である。こんな節操のない国会議員に不安感と違和感を禁じえない。
 靖国など如何なる宗教機関にも頭を下げないと宣言しながら何故靖国に参拝しようとするのか。何故「皆で」と言う言葉まで添えて精神的威圧を加えながら強制するのか。信仰上の整合性が全く見えてこないのである。似非クリスチャンであると切り捨てて非難することは簡単であるが、何が彼らをそのような行動にまで駆り立てているのかその背景や原因が見えないのが厄介である。人々がよく口にする「小さな悪が大きな悪に繋がる、小さな罪は大罪に繋がる」の類ではなかろう。政治家の集団行動でありその背景に大きな力がかかっていると考えてしまう。そこで、キリスト教では偶像礼拝が如何に犯罪的であるか、罪深いことであるか、次号ではそのことを聖書に出てくる単語「偶像」が如何に多いのか、その数を数えることで偶像礼拝が聖書ではどれほど深く意識されて問題視されていたかを確かめてみたい。

聖堂の詩その826―偶像と仏と(1)

2012-12-13 16:28:24 | Weblog
          雪原の中の古刹に金の弥陀        紅日2012年5月号
 雪原は冬の季語。滋賀県湖北での作品。雪原の中に古刹がある。湖北は雪が深い。深い雪に隠れそうな古刹。本堂には阿弥陀如来像。豪雪と阿弥陀如来の金色とが印象的だった。無限大の雪の白と弥陀の金との交錯する詩的衝撃。それを俳句で書き留めた。偶像崇拝に関して日本文化では強い忌避感はない。寧ろ、仏像に対する美意識は根深く我々日本人の心に潜在している。主を信じない全ての言動は偶像崇拝である。従って日本人の仏への合掌はユダヤ教徒、キリスト教徒イスラム教徒の指摘する偶像崇拝に見えるのは当然である。
 偶像に関る事件は世界で多発している。イスラム教一派タリバンが2001年3月バーミャンの石仏を爆破したことが世界を驚かせた。偶像を忌避し偶像崇拝禁止の教えを守る行為を内外に明白化する行為であった。タリバンの行動を野蛮視する人もいるが、日本ではバーミャン石仏破壊以上の蛮行を明治政府が敢行した。「廃仏毀釈運動」がそれである。明治政権が確立した慶応四年(1868)に発布した太政官布告には神仏分離令が唱えられた。また明治三年(1870)年に発布された「大教宣布」は仏教施設破壊令であった。明治政府は日本の国教を神道にするためにあらゆる仏像を破壊することを奨励した。その結果、日本に存在していた仏像のほぼ半数が破壊されるという狂気ともいえる事態が起きた。三権分立も憲法もない時代である。行政も司法も挙って破壊を奨励したのであるから勿論誰も罪に問われることはなかった。
 日本の私鉄のほとんどが都市と神社とを結んでいる。京成電鉄は東京と成田稲荷大社。名鉄は名古屋と伊勢神宮、京阪電車は大阪と伏見稲荷大社などである。明治政府が都市と神社とを結ぶ鉄道会社に資本投下をした結果である。日本の私鉄史を調査すると政府がどれほど宗教政策に対して力を注いでいたかを知ることが出来る。私鉄の終着駅に必ず神社仏閣が存在している。われわれは今も見えない形でそのような歴史的背景を負いながら生活している。政府の宗教への拘りは予想以上に大きい。多くの戦争は政府が宗教を利用しつつ進められたことは世界のあらゆる宗教や教派に共通している。日本も近代化の為に、そして日本の欧米化を急ぐ為にそれを明治政府が模倣した。神道を国家の基本精神に据え周辺国との戦争を重ねた。靖国神社参拝が毎年マスコミに取り上げられるのはそのような歴史的背景があるのだろう。
 明治政府の廃仏毀釈運動、中国文化大革命での仏像破壊、バーミャンの石仏破壊など例外的な仏像に愛する事件も多いのであるが、人々が仏像の美しさに心が惹かれるのは東アジア全域に跨る現象だ。昭和35年(1960)のことだった、仏像の余りにも美しい姿に感動して京都大学の学生が思わず広隆寺の半跏思惟像に抱きついた大事件があった。この大事件のお陰で半跏思惟像は一挙に有名になった。日本にも韓国にもこの半跏思惟像は多いのであるが、その美しさには誰もがなるほどと思える雰囲気がある。宗教には美が不可欠であるが、美術と宗教は次元が違う。東アジア人だけではなくキリスト教圏のドイツの哲学者ヤスパースも半跏思惟像は「人間実存の最高の姿である」と激賞している。
 人類が最初に作ったものは旧石器時代では食べる道具としての狩猟や料理に使われたと推定出来る石斧や石刀であった。一部では釣針も作られた。そして、新石器時代初期段階からで農耕が始まったのであるが、農耕開始時代から土偶が作られ始めた。土偶の殆んどはモデルが女性であり、女性の出産をイメージして作られた。したがって土偶は豊作を祈る為に生産されたものと推定されている。土偶は土器よりも時代が古く、新石器時代でも絵画と並列出来る古い時代の遺跡発掘物であるといわれている。土偶を出発点とする偶像の歴史は人類初期の農耕社会にその源流が求められる。人類が作り上げたもののん赤で石斧や石刀に次いで古いものである。それほど、人類には遠い過去から偶像が存在していた。我が家にも博多人形が居間に一体飾られている。人形をそのような視点から考えると人形が違った形で感じることが出来る。
 そこで、我々日本文化の中で生活していると何故偶像崇拝を忌避するのかという疑念である。何故、ユダヤ教やキリスト教やマホメット教など砂漠誕生の宗教は偶像崇拝を忌避するのかと言う疑念だ。作品「雪原の中の古刹に金の弥陀」に見るような、かくも美を極める金色の阿弥陀仏が何故キリスト教では忌避されなければならないのか。京都大学の学生が思わず抱きついたとされる半跏思惟像が何故忌避されなければならないか。私はシルクロードの旅で敦煌の莫高窟とトルファンのベゼクリク千仏洞をそれぞれ二度訪問した。訪問するたびに偶像崇拝忌避の惨酷さを感じないでは居れなかった。
 莫高窟やベゼクリク千仏洞ではイスラム教徒が洞窟内に描かれた仏像の眼球をナイフで抉り取っているのである。強烈な憎悪がなければあのような残忍な行為は出来ない。莫高窟のイギリス人の行為はもっと残虐である。ここでも眼球抉り取りがあったが、壁に描かれた仏画の前で焚火をした跡があり仏画が煤で汚れたままであった。またここでもナイフを使って壁画をそっくり切り剥がして大英博物館に陳列されているということだ。私は偶像崇拝忌避の惨酷さと冷酷さを感じて強いショックを受けた。それは歴史上のことであって現代のキリスト教徒はそんなことをしないよと説明されても合点が行かない。また、宗教と美術とは別次元の問題ではないかと言い放たれても合点が行かない。私はシルクロードは「偶像崇拝禁止」が齎した血生臭い宗教対立のROADであると感じた。聖書の出エジプト記31-18に記された偶像崇拝禁止がシルクロード宿駅各地の仏像の眼球を抉り出させた。その様に感じた。

聖堂の詩その825―船底

2012-12-12 15:25:00 | Weblog
         船底に炬燵が並ぶ屋形船       紅日2011年2月号
 炬燵は冬の季語。日本には炬燵を見る機会が随分減ってしまった。炬燵があってもほとんどが電気炬燵で遠赤外線などと称して炬燵蒲団の中で真っ赤な光を放つ炬燵しかない。炭火のコタツは日本中探しても発見されないであろう。原発事故で日本中が大騒ぎになるのは当り前のことだ。炭火の炬燵であればそれほど大きな騒ぎにはならなかったであろう。炬燵の電源が無ければ庭で焚火をして湯たんぽの湯を沸かせば対応できるのである。そのような柔軟な対応が不能である。Aが駄目ならBがある。Bが駄目ならCがある。Cが駄目なら次の手がある。日本社会はこれが不可能になっているのではないだろうか。その場その場で臨機応変に対応することが出来ない社会、即ち硬化した貧困社会に零落しているのではないか。
 電力会社のエネルギー独占政策が国民生活を貧困化させていることは間違いない。豊かそうに見えて実は豊かではない根深い貧困がある。独占企業が支配する根深い貧困を感じてならない。此の問題は大災害時に鮮やかに表出する問題である。淡路阪神大地震が起きた時最も市民が困ったのは便所であった。水道管が各地で破裂し水道が仕えなくなったことで同時に便所の利用が不能となった。
 今まで直接的間接的に経験した地震では巨大地震は昭和23年(1948)6月28日の福井大地震がある。その大地震で便所が使えないことによる混乱はあったのかもしれないが最も困ったことであるという話は聞いたことが無い。終戦直後の方が社会の硬直性が無くて、ある側面では今より豊かであったのかもしれない。駅や病院など公共施設でも水洗便所がない時代であった。便所は全国的に所謂ぼっとん落しの時代であった。人間の糞尿は肥料として田畑に還元され有効利用されていた時代である。エコシステムに叶った生活が展開されていた。
 その円滑健全なエコシステムを遮断したのは進駐軍であった。不潔であるという理由で糞尿を肥料として利用することを禁止した。そのために全国の農業地域に雨後の竹の子の如く化学肥料工場が誕生した。これが有機水銀を垂れ流して、水俣病を発生させ、阿賀野川水銀中毒事件など日本中に公害病をばら蒔く結果となった。その公害病に悲惨さは皆さんご存知の通りだ。あの惨酷な公害病の真犯人はGHQであり進駐軍である。私は今もそのように思っている。それまでは穏やかなエコシステム社会が存在していた。その穏やかなエコシステムを切断したのは進駐軍以外には考えにくい。それが我々世代の一アメリカ観である。昔は田舎には「田舎の香水」と呼ばれていた糞尿を蓄えた野壷があった。あの臭いは長閑な田舎の匂いであった。京都の田舎、竹田や六地蔵では蛙の足に糸を縛ってザリガニ釣で遊んだが、あの匂いで精神が何処と無く緩められたものであった。
 「聖堂の詩その168―艀の炬燵」では作品「船底の炬燵に眠る艀の子」を取り上げて聖書に出て来る「舟」の実態に迫った。また、「聖堂の詩その385ー炬燵(2)」でも作品「船底の炬燵に眠る艀の子」を取り上げて聖書の中にある「炭」や「炉」の実態に迫った。今回は作品「船底に炬燵が並ぶ屋形船」を取り上げて、船底そのものを聖書で探求したいと思う。日本の船底と比較しつつ、聖書が描かれた時代の船底の実態に迫ってみたい。日本では諺に「板一枚下が地獄」がある。私の作品「船底の炬燵に眠る艀の子」も「船底に炬燵が並ぶ屋形船」も、共に板一枚上の船内の穏やかさを俳句作品で訴えた。「板一枚下が地獄」の反対の穏やかな世界を俳句作品にした。
 「板一枚下は地獄」の諺は日本に海難事故や海難事件が多かったことを窺がわせる諺である。船底一枚下は地獄である。それは船乗りの仕事の危険性を示している。「一寸下は地獄」とも「板三寸下は地獄」とも言われている。省略して「一寸の地獄」とも言われている。それは座礁などによる船底の破壊の恐怖である。私もそんな恐怖を一度石垣島で味わったことがあった。それは30年ぐらい前のことだ。ダイビングでマンタ(鬼糸巻きエイ)を見に行った時のことだ。石垣島川平湾の湾頭の漁家に投宿していた。湾から小型の木造船でマンタの生息する沖に出た。青年漁夫が舵を握った。水深5m前後の所でマンタの群れに遭遇した。巨大マンタが人間に接近してくるのである。餌付けされているようで青年漁夫は水深5mの所でマンタなどの魚群にソーセージを与えるように私たちに促した。瞬く間に10匹程のマンタに包囲され海底が暗くなった。多過ぎると恐怖である。海水面を仰ぐと複数のマンタが我々「上空」で渦巻きながら泳いでいた。
 マンタの観察が終わって船上に帰った。名称に「鬼」を冠しているだけに多少の恐怖があったもののマンタに出会えたのは良かった。更に大きな恐怖はその後に起きた。心臓が凍りそうな事故が小型船に待ち受けていた。漁船は猛スピードで川平湾を目指していた時のことである。私は船首で大の字になっていた。タンク二本分は潜っただろうか、長時間の潜水の後は眠くなることがある。大の字になってウトウトと心地よい眠りを楽しんでいた。その時である。船首からつんのめって海に突き落とされるのではないかと思うほどの衝撃に襲われた。ガリガリと言う音を立てながら停船した。瞬間に何が起きたのか分った。漁船のスクリューがテーブル珊瑚の上をかき回しながら進んでいる。ガリガリと言う音が長く続いた。30秒ぐらい続けながら遂に停船した。テーブル珊瑚は海水面を目指して成育し珊瑚礁となる。潮が引けば漁船はそれを目視し回避できるのであるが、潮が満ちれば珊瑚礁は海水面下に沈み広大な海原と化してしまう。即ち船上から目視出来ない暗礁となる。漁船は此の暗礁上をスクリューで削りながら停止した。
 船体には損傷は無かったがスクリューは破損しているであろう。青年漁夫は船尾からスクリューを外しながらため息を吐いていた。ヤマハの外付けエンジンだ。スクリューの羽根は傷だらけ。一部は欠けていた。そしてすべての羽根は内側に向って凋んでいた。青年漁夫は「是で前進する他に手はない」と呟きながらスクリューの取り付け位置を船尾の上方に設置し直していた。珊瑚礁に引っかからない為である。小型漁船は爆音を立ながらゆっくりと川平湾に向った。爆音であるが進むスピードは極端に遅い。舵を握る青年漁夫は「これで儲けは何も無くなった」と呟いていた。暗礁に乗り上げて船底に穴が空くほどの事故ではなくて良かった。あれだけのスピードで海原を快走しているのであるから船体が木っ端微塵になっていても不思議ではない。それがスクリューの損傷だけで事は終わった。われわれダイバーとしては胸を撫で下ろす所であるが青年漁夫にはことは深刻だ。気の毒であった。
 さて、聖書の中で漢字「船底」を探しても見当たらなかった。一箇所だけに発見された。聖書には「船底」の単語はあまり相応しくないのであろうか。日本の諺では「板子一枚下は地獄」と言われ生と死とを分ける船底の板一枚である。そのような命に関る船底である。聖書には必ずあちこちに出て来るものであると勢い込んで探したのであるがたった一箇所にしか発見できないのは不思議な感じがしないわけではない。それは、以下の一箇所であった。
      
                        (聖書で唯一の「船底」)
●ヨナ書には「船底」が1回発見された。その箇所は以下。
・1-3には「乗組員達は恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びを上げ、積荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になりぐっすりと寝込んでいた。」とある。
 イタリアの社会風刺童話「ピノキオ」は鯨に飲み込まれる場面など、聖書のヨナ書をヒントにして生まれた作品であるといわれている。日本でも之とよく似た話で一寸法師がある。一寸法師は鬼の口に飛び込んで腹の中で大暴れして鬼を困らせる話である。強大なものや化け物に飲み込まれる話は古今東西共通しているのかもしれない。
 因みに、日本でも現在十二の政党が選挙戦で闘っている。政党と政党との戦いには弱小政党が有力政党と合併し有力政党に飲み込まれるような振りをして有力政党を身中から打倒する手法をとる政党もあった。まるで「一寸法師」の景色をみる心地がした。化物や怪獣に飲み込まれながらその中で大暴れして怪獣や化物を退治する話は古今東西よくある話だ。聖書のヨナ書は鯨を退治する話ではないが、その筆頭に挙げられる物語であろう。
 ヨナ書は預言書のひとつ。ヨナと神との対話が綴られている。ヨナ書の話は鯨に飲み込まれることが主題ではなく、イスラエルの神の慈悲はユダヤ人だけではなく他民族にも及ぶことを示唆していることだ。ユダヤの神をユダヤ人よりも他民族により深く受け入れられている事実を述べていて神の意志は異邦人のほうが受け入れられているという認識が述べられている。ヨナ書を通じてキリスト教はユダヤ人だけではなく世界各国の民族に拡げる預言書となった。
 上に挙げたヨナ書1-3はヨナが鯨に飲み込まれる寸前の場面でタルシシュ行きの船が嵐に遭遇した場面を描写している。使徒行伝でもパウロの乗船していた船の難破の場面がある。沈没を回避する為に船の荷物を海に投げ込む風景があった。このヨナ書でも船上に積み込んだ荷物を船乗りが大急ぎで次々と海に放り込んでいる。一方、ヨナは船乗りのそのような行為を無視して甲板から船底に降りて行く。そして船底では呑気に眠り込んでいる。まるで鯨の中に飛び込むのを予見しているかのごとく。それともヨナは船の重心を低くするほうが船の転覆を回避しやすいことを知っていたのであろうか。まるでヨナは物理学者である。それを知っていたとすればヨナは船乗りよりも荒波の中で難破に直面した場合の知識は豊かであったということになる。船底で横になることが船の重心を最も低くする最良の方法だ。

                    (船底に関して古代中東地方の人々と日本との認識の違い)
<1>聖書に於ける船底の希少性
 聖書には船底が1回しか発見されない。それはヨナ書1-3.聖書では「船底」は極めて希少性の高い単語であることが判明した。

<2>古代中東地方は難破が多かった
 聖書に出てくる船の場面は難破が印象的である。使徒行伝27-13 とヨナ書1-3の二箇所に難破風景が描写されている。古代中東地方の難破が多かったことをうかがわせる。

<3>日本と中東地方の船底に関する認識の違い
 船底の下は地獄であることを表現する箇所は皆無であった。船の沈没を回避する船乗りの行動は共通して積荷を海に放擲することであり、船底が破れることにたいする事例は発見出来ない。

<4>海洋国日本と内陸国中東との海岸地形の違い
 ギリシャのエーゲ海は別であるが聖書が描写される海岸地形は概ね暗礁が乏しい。暗礁の乏しさが船底を破られる恐怖を薄めている可能性がある。

<5>「船底上は天国、船底下は地獄」との認識が無い。
 「船底の炬燵に眠る艀の子」や「船底に炬燵が並ぶ屋形船」のような船底に対する日本的認識が聖書には発見できない。船底の上と船底の下との対照的世界の認識が希薄である。

聖堂の詩その824―秋

2012-12-08 07:01:08 | Weblog
            晩秋の琵琶湖の波の白深し      紅日2011年3月号
 師走に入り何となく心の中が落ち着かない。今年の暮れは、原発事故後の混乱や混沌とした国際経済の中での衆議院選挙だ。少子高齢化が進む中でもあり、国民は誰もが落ち着かないのではなかろうか。午前中は出町柳の歳の市で俳句を作ろうと思った。出町柳では何も出来なかった。心に残ったのは無粋な選挙カーの声だけだった。俳句は出来ないで手ぶらで帰った。心を沈めるために秋の俳句を取り上げて自分の心を鎮めたいと思った。十一月八日が立冬だった。暦の上で冬に入り既に一ヶ月経過している。一ヶ月経過したが晩秋といえば未だ許されるのではないか。晩秋の琵琶湖は未だ許されるのではないだろうか。雪がちらついていたが、今朝の琵琶湖の白波の白さに清浄さがあった。白の深さは晩秋の清浄さと寂寥感である。
 聖書の中の秋を追及する前に当時の人々が春夏秋冬をどのように感じていたかそれを聖書に出て来る漢字春夏秋冬の頻度を調べておきたい。それぞれを数えると次のような結果であった。

<春>15回―創世記に二回、申命記に一回、サムエル記下に一回、列王記上に二回、歴代誌上に二回、歴代誌下に一回、ヨブ記に一回、箴言に一回、エレミヤ書に二回、ホセア記に一回、ヨエル記に一回、ゼカリア書一回

<夏>24回―創世記に一回、サムエル記下に二回、詩篇に二回、箴言に三回、イザヤ書に二回、エレミア書に四回、ダニエル書に一回、アモス書に三回、ミカ書に一回、ゼカリア書に一回、マタイ伝に一回、マルコ伝に一回、ルカ伝に一回

<秋>05回―申命記に一回、エレミヤ書に一回、ヨエル書に一回、ヤコブの手紙に一回、ユダの手紙に一回

<冬>16回―創世記に一回、詩篇に一回、雅歌に一回、イザヤ書に一回、エレミヤ書に一回、ホセア書に一回、アモス書に一回、ゼカリア書に一回、マタイ伝に一回、マルコ伝に一回、ヨハネ伝に一回、使徒行伝に二回、コリント人への手紙Ⅰに一回、テモテ人への手紙Ⅱに一回、テトスへの手紙に一回

 是を頻度の高い順に並べると
夏24回
冬16回
春15回
秋05回

 世界の大陸の西側と東側の気候の大きな違いは、西側は偏西風に支配された気候で東側は季節風に支配された気候であるといえる。春夏秋冬が明瞭に現れるのは大陸の東側で、大陸の西側はどちらかといえば気候が単調で四季が不明瞭である。古代中東地方に四季の単語春夏秋冬が存在していたことは注目すべきではないだろうか。
 聖書の中の春夏秋冬の登場頻度から判断すれば、聖書時代の人々は春夏秋冬の中で最も意識が注がれているのは夏であった。聖書には24回も出て来る。中東地方の夏は北アフリカの高圧帯に覆われ人々の生活に激しい乾燥と高温の直撃を与える。そのことが古代中東地方の人々の夏への関心が高い原因の一つであろう。
 逆に秋は春夏秋冬の中で最も登場頻度が低い単語である。それは古代中東地方の人々は秋に対する興味や関心が最も希薄であったと推定出来る一つの判断資料となるであろう。秋が聖書に出て来る頻度は低いが現実に聖書ではどのような場面で秋が出てくるのか、そして秋に対してどのような気持ちを抱いていたのか。聖書には漢字「秋」は五回しか見つからないが、それを聖書に中から一つずつ取り上げて迫ってみたい。
 
                 (聖書に発見される単語「秋」の巻別分布表)
●申命記には「秋」は1回発見された。その箇所は
・11-14には「主はあなた方の地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時に従って降らせ、穀物と葡萄酒と油を取り入れさせ」とある。
 申命記はモーセ五書のうちのひとつ。モーセがモアブの荒野で民に対して述べ伝えた三つの説話をまとめている。第一は1章から4章までであり、荒野を振り返り神への忠実を説く。第二は5章から26章までであり、十戒の重視。第三は27章から30章であり、神と律法への服従、神とイスラエルの契約、従順でない者への天罰を述べている。この箇所は十戒重視の一節である。神が与える自然の恵みを述べている。秋の雨、春の雨は農耕にとって極めて重要な降水であった。夏の激しい乾季が終わると秋の雨が降り始める。漸く農耕に着手できる。秋の雨は蒔いた種の発芽を促しつつ根を伸ばし越冬に備える。冬も雨が降り続けるのであるが、気温が上る春の雨で一挙に生育を促し収穫を待つ。夏の乾季に入れば収穫が始まる。

●エレミヤ書には「秋」は1回発見された。その箇所は
・5-24には「彼らは『我々に雨を与え、秋の雨、春の雨ともに、時に従って降らせ、われわれのために刈入れの時を定められた我々の神、主を恐れよう』とその心の内にいわないのだ」とある。
 エレミヤ書は預言書の内のひとつ。ユダ王国末期に活躍したエレミアの預言を綴っている。紀元前627年頃である。31-31から34にかけて「新約」という言葉を使っている。新約聖書の預言である。この箇所はユダ王国への北からの侵略を預言している。ここでも農耕における神が降らせる秋の雨と冬の雨の重要性を示唆している。尚、中東地方はケッペンの気候区分では地中海式気候であり、記号ではCsで表される。大文字Cは温帯を示していて、小文字sは夏の少雨を示している。それは温帯冬雨気候と解釈できる。しかし、聖書には「冬の雨」は発見されなかった。冬の雨に対しての関心が薄かった。農民は発芽を促す秋の雨と成育を促す春の雨に神経を注いでいたのであろう。

●ヨエル書には「秋」は1回発見された。その箇所は
・2-23には「シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなた方を義とするために秋の雨賜い、またあなたがたの為に豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨を降らせる」とある。
 ヨエル書も預言書のひとつ。ヨエルは紀元前400年から350年に活躍した預言者。ユダで蝗の大群を目撃してこの世の最終日の予兆を見る。蝗は農耕には大敵であった。イスラエル人に悔い改めを勧めた。イスラエル人は祝福されるがイスラエルを圧迫するあらゆる国が壊滅的打撃を受ける。そのような主の審判が下されるとしている。ここでも秋の雨も春の雨も農耕との深い関連性を示唆している。

●ヤコブの手紙には「秋」は1回発見された。その箇所は
・6-7には「兄弟たち、主が来れれる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまでは忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」とある。
 巻頭に「イエスの僕であるヤコブ」とある。記者はイエスの弟子ヤコブである。書かれた場所はエルサレムであり西暦62年のこと。キリスト者の言動の重要性を唱えている。伝道の為には言動に注意すべきであるとしている。この箇所は試練に於ける忍耐の重要性を訴えている。ここでも農夫にとっては秋の雨と冬の雨の重要性を暗示示唆している。

●ユダの手紙には「秋」は1回発見された。その箇所は
・12には「彼らは、あなた方の愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水無き雲、実らない枯果てて、抜き捨てられた秋の木」とある。
 ユダの手紙はイエスを裏切ったエスカリオのユダではなく一人のユダヤ人キリスト者の手紙であるといわれている。傍若無人な輩を「風に吹きまわされる水無き雲、実らない枯果てて、抜き捨てられた秋の木」のような人間であると比喩的に表現している。古代中東地方の人々は秋から降る雨を首を長くして待っていた。それだけに真夏の高温乾燥を忌避していた。この箇所は真夏の厳しい自然を描写している。「風に吹きまわされる水無き雲」の「吹きまわされる」は翻訳文として余り感心しない。日本語として意味が汲み取りにくい翻訳である。要は雨を降らせる雲と期待しているのであるが吹き回されるだけの軽薄な雲であり何も雨を降らせないことの失望を描いているのであろう。雨が降らないのであるから作物に実が結ぶわけではない。激しい乾燥の結果抜き捨てられた樹木「秋の木」である。「秋の木」はカラカラに乾燥して枯れてしまった樹木である。

             (聖書に発見される秋の特性)
<1>聖書の中の秋の低頻度
 日本語訳聖書には漢字「秋」は旧約新約全体を通じて五回しか発見出来ない。古代中東地方では秋に関する関心は四季の中では低かったと推定出来る。春夏秋冬が聖書に出てくる順位は。夏が24回、冬が16回、春が15回、そして秋が最低の5回しか聖書には出てこない。聖書に出てくる季節名称頻度の低さからも古代中東地方では秋への関心が希薄であったことが推定出来る。

<2>古代中東と俳句の季語との比較
 日本の俳句では季語の数が春夏秋冬の中で最も多いのは秋である。日本独自の短詩型文学では秋への関心が強いことがこのことは示唆している。古代中東地方と日本とは季節感が対照的である。

<3>聖書の秋は「秋の雨」と「秋の木」のみ
 聖書には五箇所にしか秋は発見できない。聖書の秋には「秋の雨」と「秋の木」の二通りしか発見できない。「秋の雨」が四回と「秋の木」が一回だけである。人々の秋への関心の希薄さがここでも観察することができる。

<4>乾季の後の秋の雨
 中東地方の気候である地中海式気候Csは夏の乾燥が激しい。秋の雨は乾燥高温の夏が終了し降り始める雨である。農耕が不可能な夏が終了すると漸く播種が可能である。その種を発芽を促すには秋の雨が欠かすことが出来ない。秋の雨は湿りを齎せる農耕の必須条件である。

<5>聖書には出てこなかった冬の雨
 聖書には「冬の雨」を発見することが出来なかった。冬の雨を挟む秋の雨と春の雨だけである。冬は雨ではなく降雪に切り替わるので「冬の雨」が無いのであろう。日本語では時雨が冬の季語であるが、それに近い言葉も古代中東地方には発見されない。その代わり聖書の中の雪は。聖書に出てくる回数は24回にも登り、春の雨や秋の雨よりも高い頻度で聖書に登場している。

聖堂の詩その823―扉(3)

2012-12-07 11:10:11 | Weblog
                  地吹雪の駅で列車の扉開く      紅日2011年5月号

                   (聖書の中に発見される「扉」の特質)
 師走の扉が開かれた。いつの間にか師走になっていた。この場合日本語では「師走の扉が開かれた」と言っても無理な表現ではない。聖書にはあれと驚くような「扉が開かれた」が発見された。ミカ書の「お前の口の扉を守れ」も奇異な表現の一つだ。日本語では「人の口には戸を立てられない」とは言うが「口の扉を守れ」と言うことはあまりないだろう。是一つを取り上げても聖書は異文化の読み物ではないのかと疑いたくなるものだ。日本文化との大きな乖離を聖書に感じる。その原因の一つには聖書翻訳者の翻訳の仕方や日本文化に対する認識の問題もあると感じる。そのような異文化の聖書であるが「扉」に関しては日本文化との距離はどこに発見できるであろうか。それを羅列してみた。
<1>聖書全体で48回の「扉」
 日本語訳聖書には48箇所に漢字「扉」が発見される。聖書に出てくる単語ではその頻度は中の下程度であり。高い頻度で出てくる単語ではない。どちらかといえば少ないほうである。

<2>旧約にしか発見できない「扉」
 漢字「扉」は旧約聖書には発見できるが、新約聖書には発見出来ない。扉に対する意識が旧約聖書時代にはその珍しさから濃厚であったことが推定出来る。逆に新約聖書時代に入ると扉は一般的に普及し人々の意識の中には珍しくも無く単語として「扉」が出てくることも無かったのであろう。

<3>旧約聖書で最も「扉」の頻度が高い箇所
第一位がネヘミヤ記で11回
第二にが歴代誌で7回
第三位が列王記上で6回
 であった。歴史書に「扉」の半数が集中している。48回中24回である。

<4>歴史書に「扉」が集中している理由
 歴史書のなかでネヘミヤ記にことに単語「扉」が多いのはネヘミヤによるエルサレムの再建復興を描写する場面が多いからである。

<5>扉に付随する構築物
 扉の描写の多くには門柱が必ず並列して描かれている。門の建設過程に扉は不可欠であった。

<6>扉の設定箇所
 扉は一般住宅の扉は余り無かった。ほとんどが神殿の扉や城門の扉であるのが特徴的であった。

<7>扉の装着金具
 扉に付随する装着金具が見られた。列王記7-50には「金の蝶番」、ネヘミヤ記3-14と3-15には「扉の金具」、箴言26-14には「扉は蝶番に乗って回転する」、歴代誌22-3では「門のために大量の釘と蝶番を生産した」などとある。また、扉と閂は一対のものとして扱われている描写も目立った。

<8>扉を覆おう物質の多様性
 扉を覆う物質は多岐にわたっていた。列王記上6-31にはオリーブ材で覆っている。列王記上6-34では杉板で覆っている。列王記下18-16では金で覆っている。歴代誌下3-7には金箔で覆っている。歴代誌下4-9では銅で覆っている。詩篇107-6では青銅で覆っている。イザヤ書45-2では青銅で覆っている。

<9>二つの形態があった扉
 扉には大きく分けて二種類の形態がある。第一は左右一枚ずつの所謂観音開きの扉である。第二は左右それぞれが折畳みになっている扉であり。左側の扉は二枚、右側二枚の扉で、蛇腹式の扉に近い形態である。エゼキエル書41-24にそれが見らる。日本の仏壇の扉はほとんどがこの形である。

<10>扉への彫刻
 扉に装飾としての彫刻を施す例も見られた。エゼキエル書41-25には「拝殿の扉にケルビムとなつめやしが彫られていた」とある。

<11>扉を出産時の女性性器として喩えている
 ヨブ記には何箇所かで扉の描写がある。例えばヨブ記38-8や1-21などである。それぞれが出産風景の中の女性性器を想起させる描写であった。ヨブ記38-8には「海は二つの扉を押し開いて母の胎内から迸り出た」とある。現実描写の利かせた表現である。日本の神話古事記には是に近い描写が無いことはないが古事記は間接的であり此処まで露骨には表現していない。聖書の直裁さと古事記の婉曲さとの落差。そして、神話のおぞましさの共通性。

<12>中東地方の地吹雪の有無
 作品「地吹雪の駅で列車の扉開く」のような風景は聖書には発見できなかった。聖書の扉は悉く観音開きの扉であった。それに対して「地吹雪の駅で列車の扉開く」は一枚板の引き戸の扉であり構造的に全く異なる。聖書の中には一枚板の扉はなかった。またエルサレムの気候は京都の気候とほぼ同じである。中東地方の降雪は地吹雪では見られない。中東地方には夏の砂嵐はあるが、冬の地吹雪はない。聖書にも地吹雪が発見されない。従って当時の中東地方でも現在の中東地方でも「地吹雪の駅で列車の扉開く」の風景は発見できないものと推定出来る。尚、イスラエルでは吹雪を見るのならヘルモン山スキー場や、ヘブロンなどへ行けば可能である。イスラエルでは標高の高い地方でなければ吹雪を見ることが出来ない。

聖堂の詩その822―扉(2)

2012-12-04 16:23:45 | Weblog
             地吹雪の駅で列車の扉開く      紅日2011年5月号
 選挙管理委員会により選挙公示が下された。私は政治は好きではない。話が複雑で生臭いからだ。民主政治ではこんな国民の感じ方では問題があるのだが仕方が無い。こんな山の中まで選挙カーが来なくても良いのに朝から騒がしいことだ。お昼ぐらいまでに三台の選挙カーが来ていた。候補者の連呼が比叡山の空に木霊していた。時々豆腐屋の声が混じっていた「産地地消の豆腐屋の移動販売車です。近江の大豆を使った豆腐は如何ですか」の声が長閑で気持ちが良い。
 選挙カーからの応援者の声も候補者の声も全く聞き取れない。ただ大声だけで何を言っているのか分らない。私の耳が悪くなったのではない、豆腐屋の声が聞こえるのだから。時間の無駄であるというよりご近所の迷惑である。候補者は焦っているのであろうが、焦りは敗北の徴だ。いずれにしても選挙戦の扉は開かれた。既に結果は明らかと言う人もいる。選挙戦の扉が実質的に一ヶ月前に開かれていたのかもしれない。既に闘いは終わっているのかもしれない。扉が何処にあるのか、何時扉が開かれたのか、それは人それぞれが持っている情報と情勢認識の仕方で異なるであろう。
 「聖堂の詩その821―扉(1)」においてはモーセ五書と歴史書の中に出て来る「扉」をすべてを取り上げた。今号においては旧約聖書の知恵文学と預言書の中の「扉」を一つ残らず取り上げてそれぞれの扉を文中で観察吟味し当時の扉の実態を追及したいと思う。

                   (聖書の中の扉の巻別分布―知恵文学と預言書)
●ヨブ記には「扉」は4回発見される。その箇所は以下である。
・31-32には「見知らぬ人さえ野宿させたことはない。わが家は常に旅人に開かれていた」とある。
 当時は商業活動が発達していない時代である。旅人の為の宿所は乏しかった。この場合の扉は「家を旅人に解放する」という意味がある。日本でも最近までは旅人の野垂れ死には珍しい事件ではなかった。四国には善根宿がある。宿の無い遍路を一般の民家が善意で宿泊してもらう家がある。それを善根宿と呼んでいる。また、日本には「木賃宿」という単語が最近まで生きている言葉であった。囲炉裏にくべる薪の代金即ち「木賃」のみでで宿泊を許可する善意ある宿屋のことであった。古代中東地方と現代日本との違いはこの点ではあまり大きな落差が無い。宿所無き旅人への人々の憐憫の情は同じである。
 最近の日本のキリスト教会の門柱には「関係者以外立入禁止」と書いた紙が貼付されている。随分時代が変わってしまったものだ。信徒ですら自分が此の教会の関係者であるのかどうか戸惑ってしまうことがあると言う話だ。犯罪が多発する社会では止むを得ないのだろう。止むを得ないものの一抹の寂しさを誰もが味わう「関係者以外立入禁止」である。寛容さが皆無の競争主義や成果主義の現代日本社会はその程度に凋落したのであろう。嘆いても仕方がないことだ。

・38-8には「海は二つの扉を押し開いて母の胎から迸り出た」とある。
 主がヨブに向って答えた言葉の一説である。ヨブ記1-21には「私は裸で母の胎内から出た」とある。この場面は人間の出産場面として読めないことは無い。扉は母の体の中にある二重の扉と読むことも可能である。また、この場面は海の魔獣それは地震津波の波であると考えることもできる。二通りの解釈ができるように読者に投げかけているのではなかろうか。

・38-10には「私はそれに限界を定め、二つの扉に閂をつけ」とある。
 日本語では一般に「閂をつけ」とは言わない。閂の実態に対する認識があれば「閂をつける」とは絶対に言わない。翻訳者は閂を見たことが無いのではなかろうか。普通「閂を通す」という。または「閂を鎖す」という。海獣がこの世に押し寄せ居ない為に主は二つの門扉を設け、それに閂を通し怪獣を阻止したとしている。

・41-6には「誰がその顔の扉を開けることができるのか。歯の周りには殺気がある」とある。
 この世の終末の一描写である。この世の終わりは海から魔獣が来る。その性質は凶暴であり冷酷無常である。雌のみの冷酷さに満ちている。歯以外の顔面は殺気立っているとしている。

●詩篇には「扉」は2回発見される。その箇所は以下である。
・78-23には「神は上から雲に命じて天の扉を開いた」とある。
 雲は天界に通じる扉であると考えられていた。

・107-16には「主は青銅の扉を破り、鉄の閂を砕いてくださった」とある。
 青銅を貼り付けた扉は聖書では珍しい。神殿の金の扉はしばしば発見できるが、青銅の扉は数が少ない。戦時の放火対策であると推定される。

●箴言には「扉」は2回発見される。その箇所は以下である。
・8-34には「私に聞き従い、私の扉を伺い、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いであることか」とある。
 私は主である。主の言葉を扉に喩えている。

・26-14には「扉は蝶番に乗って回転する」とある。
 当時は既に蝶番が普及していたと推定出来る文書。

●雅歌には「扉」は1回発見される。その箇所は以下である。
・8-9には「この子が城壁ならその上に銀の柵をめぐらしこの子が扉ならレバノン杉の板で覆うことにしよう」とある。
 この翻訳文は日本語を二つに分けるべきである。一つの文章にすれば読者の認識が混同して分かりにくい。「この子が城壁ならその上に銀の柵をめぐらす。この子が扉ならレバノン杉の板で覆うことにしよう」とし、二つに分けるべきである。日本語は元々不明瞭になりやすい傾向がある。明瞭でなければ相手に真意を伝えにくい。聖書はことに明瞭でなければならない。

●イザヤ書には「扉」は3回発見される。その箇所は以下である。
・45-1には「城の扉はキュロスの前に開かれてどの城門も閉ざされることはない」とある。
 この場合の扉は城門の扉である。

・45-2には「キュロスは神の前を進行し山々を平らにし青銅の扉を破り鉄の閂を折」とある。
 山を進軍することで平らにするという意味であろうか。当時から開発は善であるという思想を存在していた。山を削り谷を埋めることに何のこだわりも無かった。自然破壊の地味意識は皆無であった。ユダヤ教思想にもキリスト教思想にもそれが今も生きているのではないだろうか。こと、国家転覆や国家征服に関しては自然への畏敬の念が欠けている一面がある。広島長崎への原爆投下もしかり、中東地方の宗教戦争に於けるナパーム弾の活用、無人爆撃機の大量生産とその活用にそれを見ることができる。

・57-8には「お前は扉と門柱の後ろにお前の像を置き私を背いて裸になり床を広くして其処に上り彼らと契約を交わし床を共にすることを愛し、その徴をみた」とある。
 この文章は偶像崇拝の神への背信の罪深さを描写しているのであるが分かりにくい文章である。その原因のひとつはこの日本語訳も日本になっていないということだ。句読点が出鱈目である。
 「私を背いて裸になり床を広くして其処に上り彼らと契約を交わし床を共にすることを愛し」とあるが何を描写しているのか皆目見当がつかない。酷い翻訳文章である。翻訳する場合は原書の句読点をそのままにして日本語に翻訳すべきではない。なぜならば日本語訳聖書を読むのは日本人であるからだ。日本人に分かる文章でなければ何のための翻訳であるのかわからない。そのような目的意識が無い状態で翻訳作業に当たるべきではない。

●エゼキエル書には「扉」は3回発見される。その箇所は以下である。
・41-23には「拝殿には二つの扉があって」とある。至聖所に来るまでに二つの扉を通過しなければならなかった。

・41-24には「二つの扉があった。それぞれの扉は二つ折れになっている」とある。
 之は日本の仏壇との共通性である。左右の二枚の扉である観音開きではなく。左には二つ折れの扉、右にも二つ折れの扉が設えてある。之は日本の各家庭にある仏壇の扉と同じである。二つ折れの観音開きである。
・41-25には「拝殿の扉にはケルビムとなつめやしが刻まれていた」とある。
 ケラビムは天使名称の一つで智天使と翻訳されることもある。顔も翼も四つ存在する想像もつかない奇怪な天使の姿。
●ヨナ書には「扉」は1回発見される。その箇所は以下である。
・2-7には「私は山々の基まで、地の底まで沈み地は私の上に永遠に扉を閉ざす」とある。
 神の万能力を現して居るくだり。
●ミカ書には「扉」は1回発見される。その箇所は以下である。
・7-5には「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前の懐に安らう女にもお前の口の扉を守れ」とある。
 「扉を守る」とは珍しい日本語である。「門を守る」や「扉を閉じよ」はよく耳にするが「扉を守る」はあまり耳にしたことがない。口という扉があり、その口を守れということになる。不用意な発言をするなと言う意味で受け取ればよいのであろう。

聖堂の詩その821―扉(1)

2012-12-01 06:14:56 | Weblog
           地吹雪の駅で列車の扉開く      紅日2011年5月号
 地吹雪は冬の季語。北陸線で旅をした時に出来た作品。北陸線で最も雪が深いのは敦賀から福井に向う途中北陸トンネルを出た駅である。今庄駅や南条駅が最も雪が深い。特急のサンダーバード号や雷鳥号で通過してしまえばこんな俳句は出来ない。貧しい旅であり、各駅停車の列車の旅であるからこそ地吹雪の駅と遭遇出来る。貧しさと遅いことは必ず人間を豊かにする。貧しいからこそ、遅いからこそ人間は物を考えることが出来る。現代人の文明への過大な依存心は人間が文明に振り回され人間を不幸にしているのではないだろうか。特急列車では地吹雪の猛威を知ることが出来ないと思う。
 原発問題も同じである停電は結構なことである。無停電社会こそが異常ではないか。停電になれば一点の明りに家族が集まる。停電になれば一点の明りに仲間達がひとりでに集まってくる。昭和20年代はしきりに停電があった。私は秘かに停電を待ちわびていた。昔は停電の予告は無かった殆どが「不意打ち停電」だ。停電になった瞬間誰もが「アッ」と悲鳴を上げた。私にはそれは歓声でもあった。家族全員が蝋燭の一つの火に集まるのが嬉しくてたまらなかった。そんなことを思い出すと核廃棄物処理の見通しが無い原子力発電に支えられる無停電社会が異様な社会に見える。医療機関など絶対に必要な所では蓄電しておけば済むことである。
 政治家は何故停電になれば人間が死んでしまうと言わんばかりに国民を脅すのであろうか。まるで脅迫である。国民の口から「原発は必要である」と言わせる為の脅迫である。彼らは脅迫であるということに気がついていない。原発関係者から膨大な政治資金が懐に入り私腹を肥やすからだろうと思う。彼らは貧しいのだと思う。近視眼的な利得でしか動かない。「開発」だの「技術」だの「成長」だの関係の無い単語が口元からあふれ出しているが人間の命の尊厳は頭脳の中には欠片もない。そのような言動が全く見えない。昨今の政治家は、そのことが見透かされている事に気がつかないのが滑稽である。「停電でも良いではないか、大切なのは人間ではないのか。大切なのは人々が寄り添い助け合うことではないのか」と政治家に向って叫んでみたい衝動に駆られる。
 作品「地吹雪の駅で列車の扉開く」は扉の機能を明瞭にしてくれる。暖房の列車内と列車外の猛吹雪とを遮断しているのが扉である。列車の自動扉が開くことで列車内にまで地吹雪が広がる。同時に乗客は寒さで肩を窄める。聖書でも単語「扉」は目に付く。聖書の中での扉の実態はどうであろうか、聖書の中の扉を取り上げながら古代の扉の実態に迫りたい。

                     (聖書の中に発見される単語「扉」の巻別分布表)
 聖書の中には48箇所の漢字「扉」が発見された。聖書に出て来る単語の中でその出てくる頻度としては中程度である。前号までに追求してきた「刀」のように希少性がある単語でもないし、高頻度で遭遇する単語でもない。巻別で多い順はネヘミヤ記が首位で11回の「扉」が発見できた。
第一位がネヘミヤ記11回
第二位が歴代誌下7回
第三位が列王記上6回
第四位がヨブ記4回
第五位がサムエル記3回
第五位がイザヤ書3回
第五位がエゼキエル書3回

「扉」に関しても聖書に出てくる回数が多いので号は複数回に及んでしまう。聖書は旧約聖書と新約聖書に分けられるが、圧倒的にボリュームが大きな旧約聖書ではいくつかに分割して扱われることが多い。それは以下の通りである。
Ⅰモーセ五書―出エジプト記から申命記
Ⅱ歴史書―ヨシュア記からネヘミヤ記
Ⅲ知恵文学―ヨブ記から哀歌
Ⅳ預言書―イザヤ書からマラキ書
 この区分に従い適切に分けながら48箇所に登る「扉」を取り上げることにする。今号ではⅠのモーセ五書とⅡの歴史書に跨る「扉」を取り上げる。

                  (モーセ五書と歴史書に発見される「扉」の巻別分布表)
●士師記には「扉」は1回発見される。その箇所は以下である。
・16-3には「サムソンは夜中に起きて町の門扉と門柱を掴んで閂諸共引き抜いたとある。それを肩に担い山の上に運び上げた」とある。
 サムソン電気は韓国の家電メーカーとして急速に発展した企業である。勿論ユダヤ人の巨大資本のメーカーであり韓国資本企業ではないと言われている。ユダヤ人の世界経済支配は年々強力になっている。それはともかくとして、此処ではサムソンの力強さを描写している。

●サムエル記上には「扉」は3回発見される。その箇所は以下である。
・3-15には「サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリコにこのお告げを伝えるのを恐れた」とある。
 サムエルの少年時代の話である。「エリ家は永遠に贖われることはない」という主のお告げをエリに話すことを恐れている場面。「主の家の扉を開いた」とあり、主は家に生活していると考えられていた。神は家の中で生活していると考えられていた。

・21-14には「城門の扉をかきむしったりした」とある。

・23-7には「扉と閂のある町に入って」とある。
 町は城壁に囲まれ出入りする箇所には門がある。そして、門は日常的には扉で閉じられさらには閂で扉が飽かないようにされていた。そのことがこの箇所から推定出来る。町を敵から守ることが必要であった。それは国内の力は群雄割拠しているさまが見えてくる。

●列王記上には「扉」は6回発見される。その箇所は以下である。
・6-31には「ソロモンは内陣の入口にオリーブ材の扉をつけた」とある。
 オリーブは地中海沿岸の独自の建材。杉や松の針葉樹と異なり、半乾燥地方で育つので材質は堅牢である。昔から寺院の扉や柱などの建材として活用された。木目が他の建材より派手であり床材として引き立つ模様を見せる。

・6-32には「オリーブ材の二枚の扉」とある。
 二枚の扉で開閉される。日本ではこれを観音扉と呼んでいる。左右両側から開閉する構造は古今東西共通している。

・6-34には「糸杉の二枚扉」とある。
 之も観音扉だ。糸杉は桧科で糸杉属。当時はレバノン山脈が主要産地であった。これもオリーブ材と同様建材に使われていてほかには、彫刻や棺に活用されている。ゴッホの作品に「糸杉と星が見える道」がある。樹形はカイヅカイブキと似ている。イエスキリストが十字架に磔された。その十字架の材はこの糸杉である。そのことに由来するのであろうが、糸杉は「死の木」とも呼ばれている。聖樹にも糸杉が使われる。

・7-5には「すべての扉と枠組みは四角形」とある。
 角材の活用が当時既に見られた。

・7-50には「至聖所の扉と外人の扉の為の金の蝶番が」とある。
 金の蝶番で扉が設えている。この時代の扉の貴重性がわかる。

・16-34には「基礎を据えた時に長子アビラムを失い、扉を取り付けたときには末子セグブをうしなった」とある。
 エリコの再建は神から呪われた行為である。呪われるのが分かっていながらヒエルは再建に取り掛かり子供達を失う。

●列王記下には「扉」は1回発見される。その箇所は以下である。
・18-16には「金で覆った主の神殿の扉」とある。
 金で覆った扉は金箔を貼り付けたもの。この時代に金箔を製造する技術が発達していた。金は金属の中でも最も柔軟性が高く金箔製造はそれほど高度な技術を必要としなかった。扉を金箔で飾るということは扉の貴重性と重要性の表れでもある。
 日本でも仏壇は金箔で飾られている場合が多い。扉を金で飾るのは洋の東西を問わず扉の向こう側への大きな期待が潜むからである。東アジアではそれが仏であり、中東地方はそれが主を祀る神殿である。ユダの王ヒゼキヤは金の扉をアッシリアの王に贈った。金の扉の譲渡それは権威の譲渡にも等しく、扉の貴重性がはっきりと表現されている。

●歴代誌上には「扉」は2回発見される。その箇所は以下である。
・9-27には「彼らは神殿を警備し、毎朝その扉を開くことが彼らの責任であった」とある。
 夜になれば神殿の扉を閉鎖し、朝になればそれを開け放つ。それは大切な業務であった。

・22-3には「ダビデは門の扉の釘と蝶番を製造するために鉄を大量に準備した。青銅も夥しく、計測することが出来ないほどの量であった」とある。
 扉を固定する為の釘や蝶番が当時既に存在していた。鉄製の釘は存在していたが、螺子は存在していなかった。発達は釘の段階で留まっていた。抜けにくい螺子にはなっていなかった。

●歴代誌下には「扉」は7回発見される。その箇所は以下である。
・3-7には「神殿の梁、敷居、壁、扉も金で覆い」とある。
 冬の金閣寺は雪の金閣寺が美しい。雪が金箔を白金とし金箔が庭園に際立つ。之を読んでいると京都鹿苑寺、金閣寺を見る思いがする。金閣寺はキリスト教伝来よりも古い。日本へのキリスト教伝来は五世紀で中国で景教と呼ばれていたものが秦河勝の手により伝道されたとの説があるが信頼性に乏しい。1549年イエズス会のフランシスコザビエルが伝えたというのが正しい。足利義満による金閣寺開基は応永四年(1397)であり、日本には聖書もキリスト教の知識も無い時に創建されたのであり、聖書と鹿苑寺とは関係がない。聖書の模倣ではない。関係がないのもの聖書の描写「神殿の梁、敷居、壁、扉も金で覆い」はまるで金閣寺である。

・4-9には「彼は祭司の庭の扉を作りそれを青銅で覆った」とある。
 神殿の扉は金である。祭司の扉は青銅である。神殿の扉よりも祭司の扉格が下に位置づけられていた。

・4-22には「至聖所に入るための奥の扉と、外陣に入るための神殿の扉も金であった」とある。
 至聖所に来るまでには二つの金の扉を見なければならない。

・8-5には「門扉と閂とで固められた砦の町上ベト・ホロンと下ベト・ホロンを築いた」とある。
 ベト・ホロンはエフラムとベニアミンとダンの三国の国境の集落。この地方はベツレヘムやベテルやベテホクラやベテツルなど「ベテ地名」が多い。三国との領土係争地になりやすく砦の町となった。城壁に囲まれ門は扉と閂で厳重に閉ざされ、戦乱時の外界からの進入を防いでいた。

・28-24には「アハズは神殿の祭具をことごとく破壊し、主の神殿扉を閉じる一方でエルサレムのあらゆる街角に祭壇を築いた」とある。
 アハズは紀元前735年から紀元前715年の16年間に跨るユダの国王だった。彼はアッシリアへの隷従姿勢を貫いた。そしてアッシリアの神々崇拝をユダに導入したので聖書では偶像崇拝の悪玉王として描写されている。従ってこの場面での「主の神殿扉を閉じる」は民衆の主への祈りの禁止を意味している。そして、「あらゆる街角に祭壇を築いた」というのはアッシリアの神々のことである。

・29-3には「ヒゼキアは主の神殿の扉を開いて修理し」とある。アハズの破壊活動の後始末を述べている。

・29-7には「また、彼らは前廊の扉を閉じて、灯火を消し」とある。
 ヒゼキアは先祖のアハズの悪行を並べて嘆いている場面。

●ネヘミヤ記には「扉」は11回発見される。その箇所は以下である。
・3-1には「エルヤシブは羊の門の建設に取り掛かりそれに扉を設えた」とある。
 エルヤシブは大祭司。エルヤシブが羊の門を建設した。エルサレムの羊の門はエルサレムの東側を区切る城壁にあり、神殿の北東に隣接する。

・3-3には「魚の門を築いたのはハセナアの子供である。彼らは門に扉と金具と閂をつけた」とある。

・3-6には「古い門を補強したのはパセアの子ヨヤダとペソデアの子メシュラムである。彼らはそれを組み立て扉と閂をつけた」とある。
 この下りで「それを組み立て」とある。それは門であると考えられるが、門をどのようにして組み立てたのか不明。門には幾つもの部品があり、その部品や部材がどこかで製造されそれを古い門のところまで運んできた組み立てたと推定出来る。当時は既に古い門は幾つも存在していた。多数の門の修復のために、仕事を専門化分業化させたプレハブ工法である。今流行のプレハブ住宅の源流は聖書に遡る事が可能である。

・3-13には「谷の門を補強したのはハヌン、それにザノア住民だ。彼らはその後糞の門まで千アンマに渡って城壁を補強した」とある。
 谷の門はエルサレムを囲む城壁の南西端に位置する。ネヘミア時代は「谷の門」であった。それはヒノムの谷の上にある崖の上にある門であるからだ。新約聖書時代にはその名称が「エッセネの門」に変更されていた。千アンマは千キュービットと同じで、一アンマは44cm。1千アンマは440mである。谷の門から糞の門までのエルサレムの南を区切る440mにまたがる城壁の補強であった。エルサレム城郭は平地を最大限に活用した。従って城壁がヒノムの谷の崖の上に沿っているので土壌流出しやすく崖が崩落しやすく城壁も崩壊しやすかった。

・3-14には「糞の門を補強したのはレカブの子マルキヤであった。彼は門を補強し扉と金具と閂をつけた」とある。
 糞の門はエルサレムを囲む城壁の南東端に位置している。シロアム池の上にある。何故、尾篭な名称の「糞」であるのか。名称由来は神殿からのゴミの排出口であったことに由来する。ヒノムの谷間にゴミや人間や家畜の糞尿が廃棄されていたことに由来する。エルサレムのゴミ捨て場である。シロアムの池とゴミ捨て場とが近い。衛生上の問題は発生しやすかったと推定出来る。尚、日本の厠は屋敷の南西端に据えられるのが常であった。それは糞尿の醗酵を促すためである。エルサレムのゴミ捨て場は日本と同じで日当たりが良い南側である点に於いてはその共通性が発見できる。家畜の糞尿や芥は農耕地の堆肥として活用されたことは間違いない。

・3-15には「泉の門を補強したのはシャルンである。彼は門を築きその上に屋根を取り付け扉と金具と閂と取り付けた」とある。
 「扉と金具と閂」は一つのセットになっている。聖書には何箇所かこのセットが出てくる。これは門に据えられる一セットと考えてよいのであろう。尚、泉の門はエルサレムの南西端の糞の門の隣に位置する門である。糞の門から100m北に離れた門である、シロアムの池は糞の門と泉の門とに挟まれている。
 
・6-1には「城壁を再建し崩れたところが一つとして残っていない。後は城門に扉を据えるだけだ」とある。
 この箇所から修復工程の順位が判明する。城壁の修復から着手され、その後門や扉の据付があった。

・6-10には「神殿で会おう、聖所のなかで、聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者が居る」とある。
・7-1には「城壁が築かれたので扉をつけた」とある。

・7-3には「日射が暑くなるまでエルサレムの門を開いてはならない。彼らが任務についている間に扉を固く閉ざしなさい」とある。
 外敵からの守備体制を描写している。

・13-19には「安息日の始まる前に、エルサレムの城門のあたりが暗くなると私はその扉を閉じるように命じた。安息日が過ぎるまではそれを開けないように命じた。そして、部下にその門の前に立たせて、安息日には荷物が決して運ばれこまないようにした」とある。
 安息日への労働禁止への配慮がなされた。それは、エルサレムのすべての門扉を閉ざすだけではなく、エルサレムへの荷物の搬入すら禁止されていた。