聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その768―縄と綱(5)

2012-06-30 22:16:14 | Weblog
                祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号
 聖書に発見できる「縄」に関して通観したのであるが、聖書に於ける縄の一般的特徴が見えてきた。聖書には綱が42回、縄が同じく42回発見出来る。聖書の縄も綱もその頻出度に関しては同じである。此処で聖書に於ける縄と綱に関する近似性と相違性とを留意しながらまとめておきたい。
(1)聖書に出て来る綱と縄の頻出度は聖書にもよるが、ほぼ同じ程度であった。

(2)聖書に出て来る縄は一般的に人を縛る道具としての縄と土地の広狭を調査する為の測り縄が圧倒的に多かった。人を縛るべく縄は恐怖の対象として描写される場合が多かった。

(3)一方、縄に対して綱はその用途の幅が大きく、綱は縄よりも多目的に活用されていた。尚、聖書には「測り縄」も「測り綱」も存在していた。綱の用途は以下の如く多目的である。
①荷役用の綱
②荷車を引く綱
③頸木を引くための綱
④巻尺としての計測用の綱
⑤縄張りを示すための綱
⑥天幕(テント)を張る目的の綱
⑦家畜の手綱
⑧救命ボートを船体につなぐ綱
⑨舫綱
⑩錨綱

(4)縄よりも綱のほうがその用途の幅が大きいのは綱のほうが縄よりも強靭で使いやすかったと推定出来る。

(5)縄は何で綯うのか、縄の原材料が何であるのか。聖書ではそれが発見できなかった。当時、最も普遍的に普及していた亜麻がその原材料ではないかと推定出来る。聖書世界には日本の縄の如く稲藁がない。聖書世界には麦藁が存在するが、麦藁は日本の強靭な稲藁に較べて脆弱なので考えにくい。従って聖書の縄は日本の稲藁の縄と異なり亜麻が原料であったと推定出来る。

(6)綱は何で綯うか。それを暗示する箇所が一箇所指摘できる。それは士師記15-14である。其処には綱の原料を暗示するかのごとく「彼の腕にかかった綱は火に焼けたような亜麻となった」と述べている。どうやら綱は亜麻であったと推定出来る。

(7)縄も綱もそれを綯うための原材料は亜麻である。綱も縄も綯う為の原材料が両者とも亜麻であれば、綱と縄との聖書に於ける分別はつかない。此の違いは日本語への翻訳者が文章の前後関係を勘案しつつ日本の縄と日本の綱とを区分しながら使い分けたのではなかろうか。

聖堂の詩その767―縄と綱(4)

2012-06-29 04:47:08 | Weblog
              祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号
 京都の地名には祇園祭関連地名が散見される。祇園祭の山鉾が立つ位置は変わることはない。町民や市民は山鉾の立つ位置を山鉾名称で呼んでいてそれが地名に定着した。地下鉄四条駅を出たところは四条通りと烏丸通りとが交差する烏丸四条であるが、その交差点の西には函谷鉾が立つので人々は函谷鉾町(かんこぼこちょう)と呼んでいた。それが地名に定着した。地下鉄四条駅を出るや否や函谷鉾の前懸であるあの創世記24章に遭遇する。人々は祇園祭の真っ先に創世記24章に出会う。地下鉄駅から出て地上で真っ先に出会うのが創世記24章の一場面の「イサクに水を供するリベカ」の前懸である。地下鉄駅から出て真っ先に仰ぎ見る「イサクに水を供するリベカ」前懸であり、その印象は強烈である。そして、祇園祭とユダヤ教の深い関りを誰もが直感する。
 何故花嫁になるべくリベカを描写する敷物なのか。その不思議さに誰もが拘るのではないだろうか。「イサクに水を供するリベカ」がは享保3年(1718)に同鉾に寄贈された。具体的に誰から寄贈されたかは不明であるがベルギー製とあるので当時ヨーロッパと唯一通商を赦されていたオランダ人の寄贈であろう。ユダヤ人はスペインやポルトガルで激しいキリスト教からの弾圧を受けたのでオランダに逃げた。その様な理由でオランダにはユダヤ人が多いのであるが、オランダ人は日本人との国際結婚を促す為に祇園の町人に「イサクに水を供するリベカ」を贈ったのであろうか。それとも武士の目を誤魔化す為であったのか。即ち自分たちは禁教のキリスト教では無いことを証明したい。その証しとしてユダヤ教の絵の敷物を贈ったのか。贈ったオランダ人と受け取った祇園祭の町人の気持ちは分らない。それが解明されれば祇園祭真髄の認識がさらに奥深くなるであろう。
 前懸の贈り主がオランダ人であることが理由ではないが、函谷鉾町(かんこぼこちょう)にはオランダ風の喫茶店が最近誕生している。名称はホーリーカフェでなかったかと思う。店員は全員ベレー帽のような帽子を被って茶褐色のオランダ人風のユニフォームを着せられている。入口の右側には水出しコーヒーのサイフォンが並んでいる。水でコーヒーを出すのは燃費を使わない節約目的のためであろう。
 オランダはホラント州に由来して居て日本での大和に該当する。オランダは一般的に低地を意味するオランダ語Nederlandと呼ばれていて、国土の四分の一が海水面下の干拓地ポルダーが占めている。オランダは干拓地の国であるため樹木が乏しく薪等の燃料が高価で自ずと人々は水出しコーヒーを飲むようになった。植民地インドネシアからコーヒー豆は収奪していたのであろう。私は毎年、そのオランダ風喫茶店から祭の人々の往来や函谷鉾や月鉾を眺め俳句を作ることにしている。喫茶店のテーブルからは月鉾が真正面に見えるのが良い。コーヒー代も安いのが助かる。この喫茶店は日本で一番低廉な月鉾・函谷鉾観覧特等席だ。
 イギリスとオランダとの関係は日本と朝鮮の関係と良く似ている。隣同士であるので友好関係時代もあるが、憎悪対立の時代も長かった。イギリスとオランダはドーバー海峡を挟んだ憎悪、日本と朝鮮は朝鮮海峡を挟んだ憎悪関係が有るようだ。海峡を挟んで日本人と朝鮮人とが犬猿の中であるようにイギリス人とオランダ人とも犬猿の中である。イギリス人に言わせればオランダ人はケチ臭い人間の代表であると思い込んでいる。また、ユダヤ人に対する強烈な差別意識が潜んでいるのかもしれないが、それはオランダ人を侮蔑する沢山の英単語から判断出来ることだ。それは、英語に潜む忌まわしき背後の一つだ。それは英国精神文化の貧困、英国人精神の貧しさの表れともいえよう。英語でオランダ人を侮蔑する語は驚くほど多い。一部であるが列挙してみた。
go Dutch
in Dutch
Dutch auction
Dutch count
Dutch gold
Dutch lunchon
Dutch man
Dutch treat
Dutch uncle
Dutch wife
 などであるがイギリス人の心の中に潜む民族差別、他民族への悪意の塊がDutchに象徴的に表れていると私は思う。このような言語が日本国で必須科目にしておくことの疑問すら感じるほどである。そのようなわが国の文化の低劣さを感じない訳ではない。未だに幕末から明治維新にかけての「脱亜入欧」の野蛮な思想から一歩も踏み出すことができない。日本語を粗末にすることなど自国在来文化を放擲する今の低俗日本文化に情けなさを感じないわけではない。日本のフィリピン化を昨今強く感じる。日本は最貧国フィリッピンの如く出稼ぎ国家を目指しているようである。折角の自国文化を放擲し母国語に平気で英語を取り組む無神経さは日本とフィリッピンとの共通性を感じないわけではない。昨今の日本語の「国際化」は「植民地化」と読み替えても差支えがない場面が多い。
 長い植民地時代の歴史を積むフィリピンの地名にはタガログ語、スペイン語、英語など外国語の重層構造が見える。そんなことを調べる為にフィリピンへ何度か渡航したことがある。フィリッピンのテレビと今の日本のテレビと良く似ている。フィリッピンのテレビはタガログ語とスペイン語と英語と混在一体化している。今の日本のテレビがフィリッピン化していることを強く感じる。昨今の日本のテレビは日本語と英語とそして訳の分らぬ隠語とが一体渾然化している。若い女性アナウンサーの日本語の発音イントネーションに危うさを感じるのは私だけではなかろう。ことに正確な情報を提供しなければならない天気予報の発音とイントネーションの崩れに危うさを感じる。あのような喋り方で日本国民の全ての年齢層に正確な情報を提供することが出来るのであろうか疑問に思う。
 何故日本語教育、ことに話し方教育を国語教育に於いて中心に据えないのか疑念を抱かざるを得ない。何時から日本では小学校から英語を必須科目にし、出稼ぎ国家を目指すようになったのか。何時から日本は最貧国を目指すようになったのであろうか。その背後には未だに「脱亜入欧」思想から離脱脱出することが出来ない日本文化の原始性ともどかしさを感じる。最高額紙幣に未だに福沢諭吉の肖像画を有難く掲げる日本国に対してもどかしさを感じるのは私だけではないだろう。
 さて、話を「縄」に戻したい。前号、「聖堂の詩その766―縄と綱(3)」では聖書の「縄」に関して、旧約聖書のモーセ五書、歴史書、知恵文学の三分野でピックアップした。そこでは、縄は人を拘束するための縄が多かった。縄は人々には恐怖の対象であった。また、縄は土地の広狭を計測する縄が圧倒的に多かった。聖書時代の縄の用途は人を拘束する縄、土地を計測する縄が圧倒的に多かったことを明らかにした。今回は残った分野、旧約聖書の預言書と新約聖書に於ける「縄」を取り上げてみたい。
                 (旧約聖書預言書に発見される「縄」)   
●イザヤ書に於いては「縄」は6回発見できる。その箇所は以下である。
・3-24には「香料は悪臭となり、帯は縄になる。編んだ髪は剃り落とされ、晴着は粗布に変わり、美しさは恥となる」とある。帯が縄になるというのは零落の象徴であると考えられていた。縄は帯の代用品でありおぞましさのひとつを現すものであった。
・28-17には「正義を測り縄とした」とある。正義は主により計算されたものであると述べている。
・28-22には「今喋ることをやめなければ、お前達の縄目は厳しくなる」とある。
 「お前達の縄目は厳しくなる」とは「縄で今より強く縛られる」といことであろう。「縄目は厳しくなる」は分かりにくい翻訳ではないだろうか。
・34-11には「主は測り縄として張り」とある。
 縄は計測用の縄である。
・34-17には「主は御手の測り縄により土地を分けて」とある。
 主が土地を計測し手分け与えるとしている。ユダヤ人の土地に対する強い蟠りや拘りがが読み取れる。
・52-2には「首の縄目を解け」とある。
 縄で首を縛られ拘束されていたのである。その首の縄を解けと言っている。この場合も「縄目を解け」と翻訳するより縄を解けで良いのではないか。縄目といえば祇園祭の櫓を組む縄目を連想するのであり。隙間なく巻かれた縄目である。首を縛る時に縄目が出来る筈もない。だから「縄を解け」の方が読者は理解しやすい。

●エレミヤ書に於いては「縄」は2回発見できる。その箇所は以下である。
・3-8には「お前の首から軛を砕き、縄目を解く」とある。
 「軛」は「頚木」が正しいのではないだろうか。「軛」は車の轅(ながえ)の前端に渡して牛が同じところを回転させて労働を強いる仕掛けに付属する装置なので、人間に対する「くびき」は「頚木」が正しいのではないか。尚、この箇所も「縄目と解く」のではなく「縄を解く」の方が読者は理解しやすいと思う。
・31-39には「測り縄は更に伸びて」とある。
 この場合、主が計測する範囲を示すのであり、「測り縄」は領地の意味と捉えて読むと分かりやすい。

●哀歌に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・2-8には「測り縄では測り、御手をひるがえされない」とある。

●エゼキエル書に於いては「縄」は4回発見できる。その箇所は以下である。
・3-25には「貴方は縄をかけられ、縛られ」とある。
 エゼキエルはバビロンで捕囚の身となった。やがて民は破壊されたエルサレムに戻り神殿を再建すると預言し人々に希望を与えた。ここでは、縛り上げられる場面を丁寧に表現している。日本語では「縄をかける」だけで、縛り上げるの意味が含まれるが、聖書は「縄をかけ、その上で縛る」と丁寧に表現している。
・4-8には「私は貴方に縄をかけるので寝返りを打つことも出来なくなる」とある。
 「縄をかける」だけで縛る意味も含まれている。
・40-3には「一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた」とある。長さや広さを計測する道具は測り縄と測り竿とがあった。今で言えば巻尺と物指である。その二つを持っていたのである。
・47-3には「手に測り縄を持って東方に出て行き、1000アンマを測り、私に水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった」とある。「東方に出て行き」とあるが「東方に進み」ではないだろうか。文章の前後から判断すれば「進み」の方が分かりやすい。1000アマンのアンマは英語の腕armの語源であろうか音が似ている。腕であるので踝から肱までの長さで44cm。1000アマンは44000cmであり440mのことである。

●アモス書に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・7-17には「土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ」とある。
 縄は計測用の縄である。

●ミカ書に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・2-5には「縄を張って土地を分け与える者は一人もいなくなる」とある。
 計測用の縄ではない。この場合は境界を示す縄であり聖書では珍しい。日本語で言えば縄張りの縄である。やくざや暴力団の縄張り争いの縄張りである。テリトリーを示す縄張り。

●ゼカリア書に於いては「縄」は2回発見できる。その箇所は以下である。
・1-16には「万軍の主は言われる。エルサレムには測り縄が張られる」とある。
 此処も「測り縄」であるが。縄張りに近い意味であり「測り縄が張られる」とある。
・2-5には「一人の人が測り縄を手にしている」とある。

           (新約聖書に発見される縄)
●ヨハネ伝に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・2-15には「イエスは縄で鞭を作り、牛や羊を全て境内から追い出し」とある。
 新約聖書にも縄が出てくる。イエスは縄で鞭を作っていた。その目的は牛や羊を追い出す為である。

●使徒行伝に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・8-23には「悪の縄目で縛られている」とある。
 縄目で縛られている」は分かりにくい「悪の縄で縛られている」の方が分かりやすい。何故「縄目」でなければならないのか不明である。

●ペテロの手紙Ⅱに於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・2-4には「暗闇という縄で縛って」とある。縄は人に暗黒を与える拘束道具の一つであった。縄の恐怖、暗黒の恐怖を描写している。

●ユディト書に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・6-14には「アキオルの縄を解いて」とある。縄の拘束から縄からの開放を描写している。

聖堂の詩その766―縄と綱(3)

2012-06-23 03:49:14 | Weblog
                祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号

           (聖書の中の縄の巻別分布表)
 聖書には縄は全部で42回発見できる。聖書の中での頻出度は中位である。「聖堂の詩その516」の調査では綱が42回であった。縄は綱と頻出度は同じである。下記の縄に関する聖書からの引用は縄を明確にするために一部書き直している箇所もある。

●士師記に於いては「縄」は4回発見できる。その箇所は以下である。
・15-3には「縄二本でサムソンを縛った」とある。
 人を縛るには一本の縄では不充分であた。
・15-4には「縛った縄目は火がついて燃える亜麻糸のようになり解けた」とある。
 燃えやすさに関しての縄と亜麻糸の比較を描写している。
・16-11には「新しい縄で強く縛れば私は弱ります」とある。
 新しい縄の強靭さを描写している。人々には縄の新旧の違いは縄の強弱を決定するという認識があった。古い縄は時間経過と共に強靭さは劣化するとの認識があった。
・16-12には「サムソンは腕の縄をまるで糸の如く断ち切った」とある。
 サムソンは韓国の巨大企業名称でもあるが、それは韓国に籍を置くユダヤ系資本であり、韓国の民族資本ではない。日本にもトヨタのノア、東亞合成のアロンアルファ、アサヒカメラのペンテコステ由来のアサヒペンタックス、シオンという会社名称や商品名称、化粧品のララソロモンなどユダヤ人資本の命名したまたは教唆したヘブライ語商品名群が劇的に増加している。極東地方のユダヤ資本の進出と経済支配が急速に高まっている。
 本文はそのユダヤ教経典旧約聖書に登場するサムソンの力強さを描写している。サムソンを縛った新しい二本の縄をまるで糸を切るごとく簡単に縄を断ち切る場面である。人を縛る時、普通は一本の縄で縛っていたが、強い人間の場合は二本の縄で縛るのが一般的であった。縄は貴重品であり用途に応じて大切に使っていたことが読み取れる。

●サムエル記下に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・8-2には「新しい縄二本でサムソンを縛り」とある。
 サムエル記下はダビデ一家の近親相姦、強姦、兄弟殺しの三大罪をめぐる話。新しい二本の縄でなければ縛り上げても直ぐに逃げられる。サムソンは強靭屈強な人間だからだ。二本の新しい縄でなければならない。
・17-13には「父上がどこかの町に身を寄せるなら、全イスラエルでその町に縄をかけて引いていって川に放り込み、小石ひとつ残らなくしようではありませんか」とある。父上はダビデのこと。王位を狙うアブサロムを部下であるフシャイが逃げる父親を追い詰めて逮捕し川に投げ込もうではないかとアブサロムを教唆する場面。信じられない強烈な親への憎悪が満ちている。
 日本でも最近は親の子殺し子の親殺しが大流行している。私の長い人生でこんな経験は始めてである。それは日本社会におけるユダヤ教の影響であろうか。今の日本社会は企業の生き残りが最も尊重され、リストラも容認されている。それは学校教育にも見られる虐め社会でもあるが、全ての人間を孤立化させる考え方の影響であろうか。
 旧約聖書の生き残り至上主義サバイバリズムの影響であろうか。そのような死に物狂い競争社会が日本に展開しているのは旧約聖書の影響は考えられないことはない。世界金融を支配するユダヤ巨大資本が日本で推進した国際化や規制緩和を通じた自由化は日本人の心に残留していた儒教精神を一掃させ、日本人の生活や思想を一変させてしてしまったと思う。
 本文の「町に縄をかけて」は比喩的表現。「町を川に放り込む」というのは町の中の何もかも残さないで川に放り込もうとする行為であり、これも比ゆ的表現の連続。「川に小石ひとつ残さないようにしよう」というのもダビデが町に逃げ込んでいるならば、町の全てを川に放り込もう。その結果の川を描写している。川底に小石ひとつ残らない状態にしようというのである。それは比ゆ的表現の延長であり、町にあるもの全てを川に放り込み、川から何もかも溢れ出ることを描写している。聖書には比喩的表現が多い。比喩的表現で誤魔化されて分かったような気持ちで読み飛ばすととんでもない解釈をしている時が往々にしてあるものだ。比ゆ表現は騙されないように注意すべきだ。
 敵を捕らえたら直ちに縄で縛るというのは日本でも同じである。古今東西共通している。泥棒を捕まえてから縄を綯い用意することを日本では「泥縄」として、段取りの悪さを批判する諺として使われている。「泥縄」の諺は縄を用意しておき、直ちに縄で縛ることの重要性を説いている。
・22-6には「陰府の縄がめぐり、死の縄が仕掛けられている」とある。
 陰府は死後の世界のことで冥府や地獄のこと。死後の世界にも縄張りで囲まれた地獄があると考えられていた。また、死後の世界でも道を見失い地獄の縄張りを跨ぎ越えることがあると考えられていた。詩篇18-5にも同じ表現がある。「死の縄がからみつき奈落の激流が私を慄かせ、陰府の縄がめぐり死の縄が仕掛けられている」とある。縄で人を縛る場面が多い。縄は人間を拘束する一つの道具として人々は考えていた。

●列王記上に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・7-23には「周囲を縄で測ると」とある。
 列王記上1-1から11-43まではソロモン王の王位継承からソロモンの死までの物語である。その大半がエルサレム神殿と宮殿の建設を描写している。この場面は神殿建設の一場面。縄は当時の巻尺として利用されていた。縄は人を拘束する道具だけではなく計測道具として利用された。
・20-31には「腰に粗布を巻いて、首に縄をつけてイスラエルの王の下に行きましょう。貴方の命を助けてくれるかもしれない」とある。
 列王記上20章にはアハブとアラムの戦いの物語。ソロモンの死後ユダヤ王国の信仰は邪教に傾斜し国が乱れる。この箇所はアハブがアラムに打ち勝った情景である。アハブとアラムは兄弟であるが骨肉の争いを展開する。今の日本を見る心地である。東京都など首都圏では一世帯あたりの人数が1,9人である。一世帯の中に二人もいない。既に家や家庭が首都圏から消滅している。人類の社会最小単位である家庭が消滅している。日本でも壬申の乱は天智天皇の子供、兄と弟の戦いである。古代から洋の東西を問わず兄弟の間の権力と地位の継承を巡り骨肉の争いがあったが、家族崩壊は現代社会と酷似している。
 本文では縄に関して「首に縄をつけて」とあり人間を拘束するには縄で縛るだけでなく縄で繋ぎとめる方法もあった。縄を活用した人間の家畜化である。兄弟間の戦争の一場面である。
・20-32には「彼らは腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王の前に出てこういった」とある。
 此の場面も人間の家畜化として縄が活用されている。

●列王記下に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・21-13には「測り綱」とある。
 この箇所は主の声の一部である。主はサマリアで測り綱を使った。測り綱とは今で言えば巻尺である。地面の長さを計測する縄のことである。聖書には「測り綱」は頻繁に出てくる。聖書には「縄」が42回出てくるがその内の14回が「測り綱」であった。聖書には人を縛る縄が目立ったが、それに肩を並べるのが測り綱だ。測り綱の聖書時代に於ける普及率が高かったことをも窺わせる。以下はその箇所である。
*サムエル記下では1回で、6-2に発見できる。
*列王記下では1回で、21-13に発見できる。
*ヨブ記では1回で、38-5に発見できる。
*詩篇では2回で、16-6,78-55に発見できる。
*イザヤ書では3回で、28-17,34-11,34-17に発見できる。
*エレミヤ書では1回で、31-39に発見できる。
*哀歌では1回で、2-8に発見できる。
*エゼキエル書では1回で、47-3に発見できる。
*アモス書では1回で、7-17に発見できる。
*ゼカリア書では2回で、1-16,2-5に発見できる。

●歴代誌下に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・4-2には「周囲を縄で測ると」とある。
 ソロモンが作った鋳物の海を計測している場面だ。これも測り縄である。

●ヨブ記に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・36-8には「苦悩の縄に縛られている人もあれば」とある。
 「苦悩の縄」としている。縄は人間に苦悩を与える物の象徴として名詞化している。縄は人を縛る為に存在していたことは明らかである。人々にとって縄は人を縛り上げる為に存在していた事が読み取れる。
・38-5には「誰がその上に測り縄を張ったのか」とある。
 これは主の言葉の一部である。「その」は大地の広がりを示している。
・40-25には「舌を縄で捕らえて屈服させることができる」とある。
「舌を縄で捕らえて」とあるが、これは舌を出させてそれを縄で縛り上げるという意味であるのか、それとも、縛り上げて人間を身動きできないようにする如く物を言わせないようにすることを意味する聖書独特の比喩的表現であるのか判断が難しい。いずれにしても縄は拘束し自由を与えない道具として考えられていた。

●詩篇に於いては「縄」は7回発見できる。その箇所は以下である。
・2-3には「我らは、枷を外して縄を切って投げ捨てよう」とある。拘束されていた人間は枷をはめられた上で縄で縛られていた。びくりと籾動きが出来ない状態にされていたことが推定出来る。ここでも縄は人間を拘束する為の道具であった。
・16-6には「測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けた」とある。
 「測り縄は麗しい地を示し」は広大な土地を計測したという意味であろう。
・18-5には「死の縄が絡みつき、奈落の激流が私を慄かせる」とある。縄は死へ引きずり込む縄でもあった。拘束する縄、死へ引きずり込む縄、いずれの縄も人間には恐怖の縄である。
・18-6には「陰府の縄がめぐり死の縄が仕掛けられている」とある。
「陰府」はこの場合地獄である。「陰府の縄がめぐり」は地獄を囲む死の縄である。縄はここでも人間には恐怖の対象だ。
・78-55には「彼らの嗣業を測り縄で定め」とある。
 「嗣業」の「嗣」は字義としては後を次ぐの意味がある。漢和辞典に出ている熟語としては嗣子、嗣君、嗣語は発見できるが、「嗣業」は何処にも発見できない。漢和辞典にも嗣業は発見できないのであり、翻訳の時に使う単語として適切であるのかどうか吟味する必要があるのではないだろうか。日本語訳聖書は日本人が読むために翻訳された聖典である。翻訳は日本人に分からなければ意味がない。その目的が叶わなければ意味がない。そのように考えれば漢和辞典にも出ていない「嗣業」という単語の利用は翻訳作業として適切であるのだろうか疑念がある。尚、聖書にはこの「嗣業」が幾つもの箇所に発見できる。
 216回も発見できる。聖書に出てくる単語の頻出度としては中程度である。中程度であるだけに「嗣業」という単語が聖書翻訳に於いて適切であるかどうか検討されて良いのではないか。先代からの引き継いだ業のことを「嗣業」と翻訳しているのであろうが、漢和辞典にも記載されていない単語に無理を感じないではない。なお此処では先代から引き継いだ土地のことを示しており。計測用の縄である。先代からの引き継ぐ土地に関して旧約聖書には深い拘りがあるのは確実だ。土地に関する執着が強烈である。この財産引継ぎの土地への異様な拘りに関してはまた別の機会に触れることにしたい。
・116-16には「どうか主よ、私の縄目を解いてください」とある。「縄目を解いてください」は日本語として無理がある。「縄を解いてください」でよいのではないか。縄目は縄の結び目や土器の表面に押し付けた模様のことを指摘するのであり、「縄目を解く」より「縄を解く」とした方がはるかに明快で分かりやすい。難しい言葉を乱用すると読者は余計なことを考えてしまう。
・119-61には「神に逆らう者の縄が私を絡めとろうとしますが、私は律法を決して忘れません」とある。
 背信者が縄で私を縛ったとしても律法を守るとの決意を示している。この場合の縄も人間を拘束する為の縄。

聖堂の詩その765―縄と綱(2)

2012-06-21 16:18:17 | Weblog
             祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号
 日本語訳聖書には縄と綱とを使い分けていることに気がついた。日本語で「横綱」と言っても「横縄」とは言わない。綱と縄の違いがある。また、「縄目(なわめ)」といっても縄目と同じようなものを「綱目(こうもくこうもく)」とは言わない。「綱目」は「こうもく」音読みをして大要と細部を示していて「縄目」とは縄と綱のそれぞれがまったく意味が違う。縄と綱との違いがある。以前に調べたことであるが、日本語訳聖書で綱と紐の扱いの違いを取り上げた。それは「聖堂の詩その640―綱と紐の用途の違い」において調べたことがある。綱と紐は良く似ているのであるが日本語でも英語でも綱は太いropeであり、紐は細いcordである。綱と紐とは若干その意味や用途の違いが日本語訳聖書にあった。「聖堂の詩その640」及び「聖堂の詩その662」で確かめて貰いたい。今回も縄と紐の違いの調査と同じように、聖書では縄と綱はどのような扱いの違いが有るのか調査して、聖書時代の人々の綱と縄の感じ取り方の違いを明らかにしてみたいと思う。
 聖書の中の「縄」と「綱」の扱いの違いを確かめる前に日本語として「縄」と「綱」の違いをさらに確かめておく必要があるだろう。それを漢和辞典で確かめてみた。それぞれの熟語すべてピックアップすることで日本語において「縄」と「綱」との違いを把握整理しておきたい。

 <漢和辞典の「縄」の説明>
①縄は麻や藁などをより合わせたもの。寄り合わせる作業を「綯う」という。私は此の説明で綯うと縄は音が近いと思った。しかし、語源に於ける関係は不明。
(字義)
②則や法則
③正しくする
④はかる
⑤戒める
(熟語)
縄尺―墨縄と物指
縄文式土器―新石器時代に作られた土器で周りに縄目模様がある黒褐色の土器
縄正―縄を張って真直ぐに正す
縄牀―縄で作った腰掛
縄矩―墨縄と長さを計る差し金。手本、規範
縄索―なわ、つな
縄墨―直線を記す墨縄のこと
縄縄―多い様子。続いて絶えない様子。戒めて慎む様子。

 <漢和辞典の「綱」の説明>
(字義)
①つな、大綱
②要、物事の本質となるもの 
③規則、法則 
④人の守るべき道 
⑤分類上の大きな区分
⑥繋ぐ
⑦しめくくる
(熟語)
綱目―物事を分類する時の大きな単位
綱紀―①大きな綱と小さな綱。国家を治める大きな法律と小さな法律、綱維、綱条 ②国家を治める ③地方の役所で、各地を統括する役 
綱要―物事の最も大切な点
綱常―人が守らなければならない道
鋼領―①物事の大切な所や眼目 ②団体の行動方針や目標

 縄と綱とは日本語でも良く似ている。峻別が難しいのであるが、縄は長さを計測する巻尺の意味が今も色濃く残っている。しかし、直線を形成する道具が縄であったので間違いを正したり間違いを戒めたりする場合も縄が使われる。それに対して、綱は金偏の鋼(はがね)との共通性が見られる。旁の岡は海に対しての岡であり、岡の不動性と強固さを意味している。筋金入りの綱であり、大道を示す綱である。綱紀、綱要、鋼領などの意味が綱(つな)に含まれる。大きな違いではないが、縄と綱との間には微妙な違いが認識できる。さて聖書ではその認識がどのように表れているだろうか。縄と綱との違いを聖書の中でそれぞれピックアップしてそれぞれの用途の違い等の角度から考察を加えてみたい。

聖堂の詩その764―縄と綱(1)

2012-06-19 18:44:56 | Weblog
           祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号
 祇園祭は夏の季語。祇園祭は京都盆地の梅雨明け前の最も蒸し暑い時に実施される行事。葵祭、祇園祭、時代祭は京都の三大祭と言われる。時代祭は京都の衰退を阻止する目的で明治に生まれた新しい祭りだが、葵祭や祇園祭は京都の伝統的な祭。三大祭は今までに何度も見学した。祭に優劣は無いが時代祭は様々な時代を模した五目飯のように何を味わったか分りにくい雑然とした祭である。それに対して葵祭や祇園祭はそれぞれに民衆の願いや訴えを随所に感じる。中でも祇園祭には民衆の声を強く感じる。京都の三大祭では葵祭や祇園祭の方が祭の真髄を感じる。
 祇園祭の函谷鉾(かんこぼこ)に吊るす前懸は圧巻である。旧約聖書創世記を描写した敷物を鉾に吊るしている。京都三大祭の祇園祭でキリストと遭遇するとは誰も考えない。函谷鉾を飾る前懸は人々の予想外の遭遇である。歴史と地理を超越した毛綴の壮大さに圧倒される。四条烏丸西入るに函谷鉾が組まれている。地下鉄四条を出るや否や人々は函谷鉾に出会う。函谷鉾は巡行の順位は五番に定められている権威ある「籤取らず」の鉾であるだけに前懸に於ける旧約聖書描写の驚きが大きい。
 見物客の誰もが何故祇園祭に旧約聖書創世記なのか、四条は京都の金融機関が集合する目抜き通りである。通行者の誰もがその四条に、何故創世記なのかと言う疑念を抱き驚きを抱く。不思議さを引き摺ったまま帰宅する人が多いのではなかろうか。私もその内の一人である。民衆の武士へのレジスタンスを感じないでもない。「切支丹」は武士階級の言う邪教であるが、支配者は無知さが原因でそれに気がつかない。または気がついていても賄賂を貰ってお目こぼしをしていたのではないか。私は函谷鉾(かんこぼこ)の毛綴の前懸をみて祇園祭に秘められた燃えるような商人の武士へのレジスタンスを感じる。商人の強力な訴えと願いが籠められた祭である。平安末期に祇園祭が誕生し、その目的は厄除だった。しかし祇園祭は厄除祭とは感じにくい。祇園祭は平安時代から江戸時代へと大きく変質している。厄除は武士に弁解する抗弁だった。函谷鉾の前懸に私はそれを感じる。
 その様に考えるのは、今も京都市民は函谷鉾(かんこぼこ)に強いこだわりを感じる新聞記事を過去に読んだ覚えがあるからだ。京都府立図書館でその記事を探し出したので此処に記録しておいた。それは2006年6月8日の京都新聞の記事。
 祇園祭の函谷鉾(かんこぼこ)が京都市下京区烏丸西入るに立つ。鉾の前掛の重要文化財になっている「イサクに水を供するリベカ」が復元新調された。旧約聖書の世界が色鮮やかに蘇えった。同鉾保存会が8日、中京区の祇園祭山鉾連合会で公開した。前掛は縦2.7m、横2.2mで、祇園祭の前掛としては最大。16世紀のベルギー製と見られ、享保3年(1718)に同鉾に寄贈された。旧約聖書創世記で、水汲みの娘がイスラエルの信仰の父・アブラハムの子イサクノ妻となる物語を描いている。
 「イサクに水を供するリベカ」がは享保3年(1718)に同鉾に寄贈された。誰から寄贈されたかは不明であるがベルギー製とあるので当時ヨーロッパと唯一通商を赦されていたオランダ人の寄贈であろう。オランダ人にはユダヤ人が多いのでユダヤ系オランダ人が寄贈したと推定出来る。だからこそ新約聖書創世記24章の一場面であった。享保3年前後頃の切支丹弾圧の年表を繰って見ると次のような事件を拾うことが出来る。

●元和二年(1616)キリスト教の禁止令を下す
●寛文十一年(1671)宗門人別改帳の作成を全国に布達。是が世界でも珍しい日本の戸籍制度の出発。日本の戸籍制度は切支丹摘発排除が目的だった。
寺請制度が戸籍の出発点であった。国民を仏教寺院に拘束しキリスト教を禁教にするのが戸籍制度施行の目的であった。
●延宝二年(1674)宣教師訴人褒賞金を銀500枚に決定。宣教師の居場所を役所に通報した者には銀500枚が与えられた。当時の銀500枚は430両で今のお金にすると3400万円の高額である。オウム真理のサリン事件犯人が1000万円であるから、それより遥かに高い。それは幕府の追及の厳しさを示す数字である。
●宝永五年(1720)イタリアからの宣教師シドッチが屋久島に漂着し、幕府に逮捕される。

 ユダヤ教にとってもキリスト教にとっても日本では邪教扱いされて日本で生活するには信徒にとっては極めて厳しかった。このような日本の状況の中で京都の町人はベルギー製の敷物を贈呈されるのであるが、厳しい政府からの監視があるのであり苦しい弁解を繰返す中で敷物の「イサクに水を供するリベカ」が外国人から寄贈された。そして禁制のユダヤ教やキリスト教の敷物を祇園祭に展示した。当時の日本の時代を考えればこの敷物兼壁飾の展示は一種のレジスタントだったと私は疑っている。贈答者であるユダヤ人が何の目的で「イサクに水を供するリベカ」を贈ったのか。そして、何の目的でその「イサクに水を供するリベカ」を函谷鉾を支える町人が受け取ったのか。絵には宗教色の薄いものを選んだのではないか。露骨に宗教色を前懸にして飾ることは出来なかった。贈ったユダヤ人と贈られた町人だけが了解し合える絵画を選んだと推定出来る。
 テレビや新聞の報道では祇園祭は7月16日の宵山と17日の山鉾巡業だけが祭りであるとして報じているが、実際は祇園祭は長い長い祭り行事があり市民は長丁場の祇園祭に連綿として取り組んできた。市民の見えない献身的祭の取り組みがあるからこそ祇園祭は続いた。それは7月1日の吉符入り(きっぷいり)の祭開始行事から延々と7月31日の疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)までの一ヶ月間の祭りである。長い祭りなので私は祇園祭の俳句取材は7月16日宵山と翌日17日の山鉾巡行には絶対に行かない。人混みの中で俳句が出来る雰囲気ではない。余りにも人が多いと祭りが正確に描写できない。雑踏の中で人に酔っ払ってしまい俳句が出来ない。祭の人の渦に入り込まないで外側から祭りを観察するようにしている。喫茶店から祭を観察していると俳句が生まれ易い。
 地下鉄四条駅から出たところが四条烏丸西入る函谷鉾町であるが、その界隈の喫茶店から函谷鉾や長刀鉾を観察することにしている。宵山や巡行当日までに取材に来ると山鉾を組立てる町民の姿が見える。市民の祭への真剣さが見えてくるので俳句が作り易い。作品の「祇園祭鉾の縄目に隙間なし」も宵山や巡行では見えにくい。櫓をしっかりと縛り組む縄目が前懸などで隠されているからである。それは宵山や巡行の晴れ舞台では見えない箇所だ。「鉾の縄目に隙間なし」は堅固な山鉾の完成の町民の願いであり、山鉾の町民の力の籠めようを描写した。鉾の台車を縄で縛って組立てる。その縄目に全く隙間がない。それは力強さを示す芸術である。祭見物の人々が見えない箇所にも力がこもっている。
 最近、スポーツ選手や若者がテレビを通じて「結果を出す」と言うフレーズが大流行させている。それは見かけや帳尻合わせのみを重視する現代社会を反映した軽薄な一現象だと断言出来る。縄目に隙間がない、それは現代社会には考えられない行為である。伝統技術は人が見ないところにまで力が籠められている。だからこそ祇園祭は宵山や巡行の山鉾の晴れ舞台の見物よりもそれまでの山鉾の組立て経過を観察しなければならない。祇園祭の準備風景は人々の祭りに対する熱い思いや高度な伝統技術が見える。そんなことを感じて生まれた作品。

聖堂の詩その763―風の中

2012-06-12 21:54:39 | Weblog
          鯉幟泳ぐ琵琶湖の風の中       紅日2011年8月
 鯉幟は夏の季語。作品は鯉は琵琶湖の水の中でも泳いでいるが、琵琶湖に吹く風の中でも鯉幟が泳いでいるではないか、水の中でも風の中でも泳いで居るではないか、水中空間の中にも風空間の中にも鯉が泳いでいることを描写した。湖畔の鯉幟を眺めていてそんな面白さが頭の中を過った。鯉は水中でも空中でもその泳ぎの力強さと優雅さは同じ。琵琶湖の湖畔での私の閃きであった。それを俳句で切り取って描写したかった。
 ところで、「風を切る」は遂に聖書には発見できなかった。風を聖書時代の人々はどのように感じていたのであろうか。聖書時代の人々の風の感じ方を知りたいものである。日本語訳聖書には漢字「風」は200回発見された。聖書に出て来る単語としては中程度の頻出度だ。聖書時代の人々は風に対する関心は比較的強かった。前号「聖堂の詩その762」での調査では人々には「風を切る」という風に対する感じ方は無かったが、風への関心はそれなりに存在していたことが推定出来る。此処では聖書の全ての「風」を取り上げることは出来ない。漢字「風」の分量が200回(注1)にものぼり余りにも多く煩雑になるからだ。聖書の中の一つのフレーズ「風の中」のみを取り上げて聖書の中の「風の中」の実態に迫ろうと思う。
 日本語訳聖書の中の「風の中」は全部で三箇所に発見された。回数が少ないので「風の中」をどのように感じていたのか推量るのは難しいかもしれない。それら三箇所は列王記上の一箇所、ホセア記の一箇所、シラ書の一箇所の合計三箇所である。下記がその三箇所だ。

●列王記上には「風の中」は1回で、その箇所は下記。
・19-11には「主は『其処を出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、その時主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起り、山を裂き、岩を砕いた。しかし風の中には居られなかった。風の後に地震が起った。しかし、地震の中に主は居られなかった」とある。
 この場面は、洞窟の中に引きこもるエリアと主との対話が描かれている。エリアは450人もの雷神バアルの預言者を殺害し滅ぼした。そのことに関して王妃イゼベルの報復宣言があった。王妃の報復を恐れてエリアはカルメル山から逃亡し洞窟へ逃げ込んだのであった。主は洞窟に立てこもるエリアに洞窟から出て来て主の正面に立ちなさいと誘き出している。
 洞窟は一般的に言えることであるが地震に強い。大きな地震でも洞窟の内部の崩壊は起きにくい。日本にも中東地方にも石灰岩質の鍾乳洞が各地に点在分布しているが、鍾乳洞の内部が地震で崩壊した事例は無いことは無いが稀である。地震は洞窟より地上の方が危険である。エリアは鍾乳洞が安全であるっことを知って鍾乳洞に引きこもっていたのであろう。主は洞窟の中に怯え過ごすのではなく正々堂々と主の前に立つことを促している。洞窟の地震に於ける安全性は主の言葉に於いても裏打ちされている。
 興味深く、しかも地震の一般的特性を正確に描写しているのではないかと指摘できる箇所が在る。それは、地震の前兆現象として風の存在である。また、地震の最中での風の存在であり、地震後の風の存在である。地震後の風は関東大震災の如く、地震に伴う火災旋風である場合が多い。中東地方は乾燥地帯であり地震性火災旋風の可能性もある。地震は急激な地殻変動であり、沖積平野なら、堆積層の波立ちがあり、岩盤の深層に於いては深層破壊が考えられ、地層の擦合や地層同士の摩擦が伴う。
 地震ではそれらの地殻変動だけではなく、地殻変動に伴う地熱の上昇そしてそれに伴う大気の変化が存在する。地震の前兆現象としての風、地震中の風、地震後の旋風が存在する。地殻内部の地層が発する摩擦熱が大気に広がり旋風が生じている。地殻変動の地熱発生による気温の劇的変化が旋風を発生させる。実際、地震に伴う風の特殊現象が多くの地震で記録されている。それを既に古代において記録されている点は地震災害史に於いて特筆すべき事項である。
 地震と風とのかかわりは既に聖書時代の古代において観察されていたことは明白。聖書本文の「風の中には主は居られなかった」は地震が起こした地震旋風の中には主の姿が無かったと描写している。この場合の風は地震後の風であり、どこかで地震火災が発生してそれに伴う火災旋風の可能性が指摘できる。主は地震旋風の真っ只中に立つエリアの前から姿を消していた。地震風の中には主の姿が見えなかったとしている。尚、新約聖書のマタイ伝16-14や17-10にも述べられているが、イエスキリストは、この洞窟前の地震を体験したエリアの生まれ変わりであるとされている。風の中で姿が消える、それはイエスの姿をも髣髴とさせる。

●ホセア書には「風の中」は1回で、その箇所は下記。
・8-7には「彼らは風の中で蒔き嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす」とある。
 ホセア書はイスラエルと神との関係を不貞の女とその夫の関係になぞらえて物語を展開している。イスラエルが不貞の女であり、神が不貞の女の夫ホセアである。イスラエルの腐敗堕落を象徴するのが女の不貞であり、その不貞女である妻を神であるホセアが救済する物語である。ホセア書8-7は退廃するイスラエルへの主の警告場面である。主は退廃腐敗するイスラエルをこのまま放置すれば作物も育たない、収穫も出来ない国になると警告を発している場面だ。
 その場面をもう少し詳細に分析してみたい偏西風が地中海地方にまで南下し、偏西風が中東地方に吹き始める晩秋に種を撒く。強風の為に撒く種が遠方にまで飛ばされて撒くべき畑に種が定着しないのであるから収量は少ないのは当然である。その上、冬を無事に越えたとしても、撒いた種の収穫に関して問題が残る。中東では収穫期の晩春には嵐が発生しやすい。収穫は嵐を避けなければならない。夏が近づくとアフリカからの高気圧が北上し中東地方に二つの異質な大気が衝突する。それは北アフリカからの熱波と地中海の冷たい偏西風との衝突。異質な大気の衝突で大きな気温落差が生じ嵐を発生させる。嵐の中で農夫が刈り取るとすれば嵐の中に含まれる湿気で麦の品質が低下するのも当然である。聖書は麦の収穫の少なさをそのように大気の変動に於いて説明している。「風の中」は種を撒く農夫が強風の中で種をまいている情景を描写する為のひとつのフレーズである。種が遠方にまで強風の為に飛び散るのは現実にある。聖書にしばしば見られる誇張した比喩ではない。

●シラ書には1回で、その箇所は下記。
・48-12には「エリアが旋風の中に姿を隠した時、エリシャはエリアの霊に満たされた。彼は生涯どんな支配者にも動ずることなく、誰からも力で抑え付けられることは無かった」とある。
 シラ書は旧約聖書の続編の中にある一巻であり目に触れる機会が少ない。シラ書はさまざまな教訓の集大成である。その点では箴言との類似性が見られるが、シラ書の背景にあるものは神への忠実さと律法の厳守であろう。神と律法へ忠実さこそ知恵の源泉であるとしている。シラ書は聖書では外典扱いであり見る機会が少ない。しかし。聖書の中で「風の中」は数が少なく三箇所しかないので、此処で取り上げることにした。
 「エリアが旋風の中で姿を隠した時」とある。エリアはエルサレムに蔓延る異教の神バアルと闘う。そのエリアの異教と闘う後継者がエリシャになるのであるが、後継者であるエリシャにエリアの霊を満たしている一場面である。悪霊バアルと闘うエリアは旋風の中で姿を隠している。神は旋風の中に姿を隠すと当時の人々は考えていた。旋風の中に神は姿を隠したのである。
 旋風の中に神の力を聖書時代の人々は感じていた。その感覚は我々現代人でも分らないではない。台風や竜巻は人間が制御できない巨大なエネルギーを隠し持っていることは我々現代人でも理解できる。現代人は台風や竜巻に関して、物理学的気象学的な説明はできるものの、其処に蓄えられたエネルギーの巨大さには人知が及ばない。人間が抵抗できない巨大な力であることは現代人は一人残らず知っている。
 一部の原子力学者の中には原発は地震や台風や竜巻にも耐えることが出来て、如何なる事態でも原発は絶対安全だと主張する人々があるが、それはほんの一部である。科学者なら使ってはいけない言葉は「想定外であった」である。こんな言葉が迸るようでは科学者ともいえないしプロともいえない。恥ずかしく無いのだろうかと私は密かに思った。私なら即座に大学を辞職していたであろう。絶対安全はありえない話である。科学が発達進歩すればるほど絶対安全は有得ないことであることが明瞭になる。自然の力、地震や台風や竜巻は科学が進歩すればするほど人間の力の及ばないものが秘められていることを一部の原子力学者を除いて現代人は認識している。それは言葉として「神」に置き換えても現代人には通用する。

    (聖書に発見される「風の中」の特徴)
(1)日本語聖書には漢字「風」は200回発見されるが「風の中」は三回しか発見されなかった。
(2)聖書には地震と風との関係を描写している箇所があった。列王記上19-11
(3)聖書には地震の前兆としての風を描写している。それは列王記19-11においてである。そこには「主が通り過ぎて行かれた。主の御前には激しい風が起り、山を裂き、岩を砕いた」とある。風が地震の前兆現象としては今の科学でも解明されていないが、雲と地震との関係は追及されている。
(4)列王記19-11では地震を「山を裂き、岩を砕いた」と表現している。「岩を砕いた」の表現であるが、これは地震は地表の揺れだけではなく、岩盤の内部にまで及ぶことがその当時知られていたと考えられる。即ち、当時の人々は地震に伴う岩盤内部の破壊「深層破壊」に関して既に知識があったと推定出来る。
(5)列王記19-11では「しかし風の中には居られなかった。風の後に地震が起った。しかし、地震の中に主は居られなかった」とある。これは地震の起きる前の様子を描写している。地震前兆現象としての風の中に主は居られたと描写している。地震の前兆現象としての風を当時は認識していた。また、主はその風の中に姿を表したが、地震が始まるや否や姿を消している。風の中に主の権威が存在していた。
(6)ホセア書8-7には偏西風の中で麦の種を撒く風景が描写されている。中東地方にまで偏西風が南下する頃、即ち晩秋に入ると種まきが始まる。偏西風の強さが農夫の手の中の種を遠方にまで吹き散らした。中東地方には当時から強い偏西風が吹いていた。
(7)シラ書48-12にはエリアの霊がエリシャに満たされる場面が描写されている。マタイ伝でも示されている如く、イエスキリストは預言者エリアの生まれ変わりであると認識されていたのであるが、そのエリアも旋風の中から姿を表している。主も預言者エリアも風の中に現れて、風の中で消えている。風はひとつの神秘性のあるものとして当時の人々は理解していたり感じたりしていた。
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(注1)聖書の中の巻別の風の分布
 聖書には漢字「風」は200回発見される。その巻別の「風」発見の回数は以下である。
・創世記には5回発見できる。
・出エジプト記には4回発見できる。
・レビ記には4回発見できる。
・民数記には1回発見できる。
・士師記には1回発見出来る。
・サムエル記下には1 回発見出来る。
・列王記上には2回発見出来る。
・列王記下には6回発見出来る。
・ヨブ記には19発見出来る。
・詩篇には15回発見出来る。
・箴言には7回発見出来る。
・コヘレトの言葉には13回発見出来る。
・雅歌には3回発見出来る。
・イザヤ書には18回発見出来る。
・エレミヤ書には12回発見出来る。
・エゼキエル書には7回発見出来る。
・ホセア書には3回発見出来る。
・アモス書には3回発見出来る。
・ヨナ書には2回発見出来る。
・ナホム書には1回発見出来る。
・ハバクク書には2回発見出来る。
・ゼカリア書には4回発見出来る。
・マタイ伝には13回発見出来る。
・マルコ伝には11回発見出来る。
・ルカ伝には13回発見出来る。
・ヨハネ伝には2回発見出来る。
・使徒行伝には14回発見出来る。
・エフェソ人への手紙には1回発見出来る。
・ヘブライ人への手紙には2回発見出来る。
・ヤコブの手紙には2回発見出来る。
・ユダの手紙には1回発見出来る。
・黙示録には2回発見できる。
    (巻別で「風」の多い順序)
第一位はヨブ記19回
第二位はイザヤ書18回
第三位は詩篇15回
第四位は使徒行伝14回
第五位はマタイ伝13回
第五位はルカ伝13回
 となっており、新約聖書に漢字「風」の多さが目立った。

聖堂の詩その762―風を切って

2012-06-10 07:51:23 | Weblog
          薫風を切つて自転車坂下りる     紅日2011年9月号
 薫風は夏の季語。茂る若葉の中を吹く風の良き香りを薫風、または風薫るという。山口誓子の句に「大阪の薫風ここの御堂より」がある。大阪の美しさを御堂筋の並木の薫風により謳い上げた句。大阪の全てを御堂筋の青葉を抜ける風で表現している。昭和42年の山口誓子の作品である。今の大阪と異なり、昭和42年ごろは未だ大阪にはそれなりの美しさが残っていたのではないだろうか。過激な自由主義経済が支配的な大阪である。其処に原因が有るのだろうか、昨今の大阪の行政は暴力的な空気が蔓延すると言われている。その過激さには私も成程と思う。昭和42年頃の方が良かったのかもしれない。
 あの頃からの大阪の衰退と退潮は目を覆うほどである。それを加速させているのが昨今の行政であろうか。東京への一極集中に起因するのであるが、全国の地方都市と同様に転落にブレーキがかからないと言っても過言ではない。リニアーモーターカが開通すれば一気に大阪は崩落する。私はその様に判断している。四国に三本橋がかかって次々と四国の中心都市が衰退した。全国では新幹線の路線が延長されて通過都市が次々と衰退していった。交通路と交通機関が必要以上に発達すればその様に成る事はわかりきっていることである。京都にリニアーモーターカーの駅の誘致が期待できないがのは不幸中の幸いだ。
 作品「薫風を切つて自転車坂下りる」は自転車の爽快感を詩にしてみた。坂を下りるのであり、大阪の様な衰退や退潮ではない。自転車で坂を降りる爽快感である。ペダルを扱がないで坂を降りる時、自転車という乗物の有り難さをつくづく感じる。小細工を加えなくても、そして何もしなくても音も無く気持ち良く稼動してくれる。エンジンやモーターは皆無。今世間で騒がれている原発だの省エネなどの小賢しきエネルギー問題とは無関係の世界を自転車は堪能できる。世の中の流れは不思議なものでその様な自転車が厳しい取締りで日本から追放されつつあるという。
 日本語では風を切るはスピード感と爽快感を表現する言葉として昔から存在していると思うのであるが、聖書ではどうであろうか。聖書には「風を切る」や「風を切って」等は発見出来なかった。それに近い言葉で「宙を切る」や「空を切る」をも調べたが発見できなかった。聖書時代は風を切って走るような乗物が無かったのであろうか。車輪を使った速度が早い乗り物が無かったのだろうか、聖書の中には車輪を使う乗り物はある。その代表は戦車である。聖書に戦車は134回も発見される。聖書の中でも良く出て来る目立つ単語の一つだ。この今の戦車は今の戦車と全く違う。今のキャタピラーがある戦車は1914年の第一次世界大戦出始めて出現したのであり極めて新しい。聖書時代の戦車はそれとは全く異質なものだ。それはエジプトのピラミッドの壁画にも多く描かれている。馬が戦士を乗せた車を牽引させるものであり、キャタピラーは全く無い。それは一頭立ての時もあれば二頭立ての時もあった。戦車の車輪は木製であり、今のように空気の入ったタイヤなどは無い。また道路もアスファルト舗装されていないので、揺れが激しい戦車であったと推定出来る。風を切って駆動する代物ではなかったであろう。
 また、聖書に発見できる車輪のある乗物には他には馬車がある。戦車が134回(注1)も聖書にでてきたのであるが、馬車は聖書に僅か9回(注2)しか出て来ていない。馬車よりも戦車の普及率が高いこと、また人々の関心は馬車よりも戦車に注がれていたことが推定出来る。戦車にしろ馬車にしろ車輪が木製であること、そして道路の舗装が無かったり粗末なものであったりして快適な走行は困難だったと推定出来る。然るに馬車や戦車で風を切るという経験は人々には無かったのではないだろうか。聖書時代の人々の移動手段である戦車も馬車も快適な乗物ではなかったと考えられる。作品「薫風を切つて自転車坂下りる」のような風を切りながら移動する快適さは聖書時代には発見出来なかった。聖書時代の人々は風を切って移動する快適さは味わっていなかったであろう。聖書時代の人々の車を利用した移動は我々が想像する以上に苦痛であったことが推定出来る。

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(注1)聖書に戦車は134回発見される。その箇所は以下である。
創世記には1回
出エジプト記には11回
申命記には2回
ヨシュア記には6回
師士記には6回
サムエル記上には3回
サムエル記下には4回
列王記上には17回
列王記下には25回
歴代誌上には4回
歴代誌下には17回
詩篇には3回
イザヤ書には10回
エレミヤ書には5回
エゼキエル書には3回
ダニエル書には1回
ヨエル書には1回
ミカ書には2回
ナホム書には4回
ハバクク書には1回
ハガイ書には1回
ゼカリヤ書には4回
ヨハネの黙示録には1回
ユディト記には4回

(注2)聖書に馬車は9回発見される。その箇所は以下である。
創世記には4回
イザヤ書には1回
使徒行伝には3回
ヨハネの黙示録には1回
 

聖堂の詩その761―(Ⅰ)モーセ五書、民数記に於ける「満」

2012-06-07 05:13:47 | Weblog
            田に水が満ちて近江の国広し       紅日2011年11月号
 滋賀県の名物では瀬田シジミがよく知られている。瀬田の唐橋のあの瀬田である。滋賀県だけではなく昔は瀬田シジミは全国でも知られていた。昔は琵琶湖の浅瀬では何処でもシジミが取れた。中でも瀬田のシジミは有名だった。琵琶湖の漁師の妻たちは京都に湖産の魚介類、鮎やモロコやシジミを背負って京都の旅館や商家に行商に来ていた。京都の朝は早かった。未だ薄暗い早朝の京都駅前には沢山の滋賀県からの行商人が足早に商店街や旅館街に消えて行った。それは昭和30年代であり、遥か昔の話である。
 高度経済成長に入って京都の町から滋賀県の女行商人の姿が消えた。昨今、国民も政治家も「経済成長」をよく口にするが私は「経済成長」と言う言葉に良いイメージしか持てない。経済成長が無ければ国民が生きることが出来ないかのごとく経済成長を持て囃すのであるが、私は暗いイメージしか持たない。熊本県の水俣有機水銀中毒事件、三重県の四日市喘息など経済成長による環境破壊を思い出してしまう。経済成長には大量人間殺戮しかイメージに上ってこない。一定の成長は生物にも人間にも必要であるが成長は永遠に継続するものではない。某政治家は「改革なければ成長は無い」と国民の前で叫んだ。私には改革も成長も必要ないので何を言っているか全く分らなかったが、その結果が現在の日本である。
 過激にしかも長期に成長すれば必ず反作用が来る。そのことをにわれわれは本当に学んでいないのではないか。毎日のように財界人や政治家がマスコミを通じて「成長、成長」と繰返すが、彼らは人間が生きることと経済成長とのバランスが深く理解できていないのではないか。過激な成長が間断なく続くとすれば生き物は最後には巨大化し化物になってしまう。そのことを弁えていないのではないのだろうか。
 6500万年前地上から恐竜がその巨体を持て余し地球上から突然姿を消した如く、過激な成長の最後には絶滅である。そして、日本経済を観察すると絶滅に一歩一歩進んでいるではないか。東電の原発事故、JALの倒産、オリンパスの長期に跨るインチキ決算、家電メーカの軒並み赤字決算はいずれも巨大企業である。過大に成長して身動きが取れない巨大企業と言っても問題が無い。企業ガバナンスが喪失している。日本の政界も財界もひとりひとりの人間が日本列島に生きることを失念して、経済成長のみに気配りをしてきた結果、日本経済はその絶滅期を迎えている。成長と言う言葉を耳にすると巨大な化物や醜悪な化物しか私の頭の中には浮かばない。
 滋賀県の瀬田シジミもその犠牲である。瀬田のシジミは経済成長の犠牲になっている。それは瀬田シジミの漁獲量の激減に見ることができる。現在は瀬田シジミは一日数kgしか水揚げが無い。年間でも百トン前後しか水揚げが無い。農林水産省の「海面漁業生産統計調査」によると昭和30年頃は6000トンもの水揚げがあった。それが毎年一貫して水揚げ量を減らしている。シジミ水揚げ量の減り方は劇的である。劇的な水揚げ量減少原因は第一に昭和35年頃湖水から除草剤PCPが検出されたこと。第二は湖岸の人口増による都市化による湖水の汚泥化が挙げられる。一言で言えば高度経済成長による琵琶湖の環境破壊が瀬田シジミ漁を壊滅情況に追い込んだ。あの猛烈な高度経済成長の後ろには環境破壊があった。環境破壊がシジミの死を齎した。
 瀬田は瀬戸と語源は同根であり、狭い所の意味であると言われている。琵琶湖が狭くなっって居る地域で、琵琶湖の水が瀬田川に注ぐ直前にあたる地域、瀬田川左岸がその瀬田に該当する。対岸には膳所城がある。「膳所」とは殿に献上する御膳の食材を提供する場所という意味が有り、水城である膳所城沖は水産資源の宝庫であり、城主に献上する豊かな魚介類に恵まれた水域である。
 琵琶湖の水が瀬田川に注がれる直前の瀬田や膳所は古くから琵琶湖で最も漁業の盛んな地域であった。それは石山寺の河畔に残された縄文時代の貝塚の存在からも明らかである。貝塚からは大量のシジミが発掘されている。琵琶湖には定置網漁がある。その網を「魞(えり)」と呼んでいる。私の観察では膳所沖から瀬田にかけて琵琶湖で最もこの魞が立つ密度が高い水域だ。このことは湖水の動きと魚類の分布密度と深い関係が有ることを示しているのであろう。膳所沖から瀬田沖にかけては魚類の出入りが他の水域より多く、琵琶湖の湖水の出口の魞の多さは現代でも此の水域が琵琶湖最大の好漁場であることの証しであろう。
 江戸時代から、瀬田シジミ漁と「満ち溢れる」ことに関連して哀しい伝承がある。湖岸農民の哀しいほどの真摯な生き方を教えてくれる伝承がある。それは藤本太郎兵衛の偉業とも関係が有る話でもある。彼は深溝村、現在の高島市新旭町深溝の庄屋であった。豪雨のたびに琵琶湖湖岸の新田集落が冠水するので命がけでそれを阻止する為に立ち上がった。太郎兵衛は琵琶湖沿岸の村々に呼びかけて177ヶ村に瀬田川の浚渫を呼びかけた。その呼びかけに幕府はしぶしぶ要求に応じなければならなかった。幕府が瀬田川の浚渫をしたがらないのは膳所城や彦根城の水城の水位が低下して軍事機能を損なわれるからだった。しかし余りにも多くの農民の要求であり、全国の打ち続く飢饉の為に瀬田川浚渫により湖岸農作物保護要求に応じなければならなくなった。
 幕府は遂に天明四年(1784)藤本太郎兵衛に瀬田川の河川浚渫を許諾した。此の浚渫事業は藤本太郎兵衛親子三代に跨り続けられて湖岸の新田集落や水田の冠水を和らげることが出来た。この話は「聖堂の詩その758―(Ⅰ)モーセ五書、創世記に於ける満」で述べたのであるが、琵琶湖排水に苦しんだ農民たちは手を懐に入れて傍観していたわけではない。幕府の川攫え禁止に対してそれを了承していたわけではない。農民は幕府が禁止した瀬田川の川攫えをするのではなく、瀬田川のシジミ漁を積極化させた。
 川攫えをするのではなく蜆漁をする、此処には農民のお上に対するレジスタンスの知恵が詰まっていた。農民は何とか川攫えをして琵琶湖の豪雨時の排水を促したかった。しかし、川攫えはご法度である。農民はシジミ漁をしながら密かに瀬田川を浚渫していた。農民は膳所藩士に対して「これは川攫えではない蜆漁である」と抗弁しながら、川底を掘りあげて豪雨時の湖水の排水を速やかにしようとしていた。江戸時代には湖岸の湿地帯の新田開発を推進したのであるが、新田の豪雨冠水を避ける為に瀬田川で漁民の密かなしかも懸命な「蜆漁」が行われていた。その結果、瀬田シジミは近江名物になってしまった。
 瀬田川の川攫え即ち、浚渫を「シジミ漁」と頑固に言い通した農民の藩士に対する「嘘」である。嘘ではあるが生きるために止むを得ない美しい「嘘」である。藩士は琵琶湖水位を保つことは至上命令だった。水城である膳所城や彦根城の城郭防衛の軍事的理由の為である。従って、琵琶湖水位を低下させる川攫えはご法度であった。物が分らない武士の何と愚かしい策であろうか。それに対して農民の命がけの「蜆漁」と称する密かな浚渫作業は何と賢明な策であろうか。瀬田川で武士の愚策と農民の賢策とが深く静かに激突していた。何時の世も支配者階層は愚者であり、被支配者階層は賢者なのかも知れない。
 豪雨時の琵琶湖に水が溢れこぼれることは新田集落の農民にとっては死活問題である。農民の豪雨到来の恐怖が瀬田川の蜆漁に現れている。豪雨となれば手塩に掛けて育てた作物が一瞬にして水没し、財産を一瞬に消滅させることに等しい。それだけに瀬田川の蜆漁は農夫にとっては命がけの浚渫作業であったであろう。さて、琵琶湖では湖水が満ち溢れる現象は新田農民にとっては恐怖の的であったが、モーセ五書の一巻である民数記においては「満」はどのように扱われているであろうか、それを調査して民数記に於ける「満」の特徴を探ってみた。

<民数記>
 聖書全体に漢字「満」は450回発見された。その内モーセ五書には68回の「満」が発見できた。その中の民数記には10回の「満」が発見された。その箇所は以下である。

●民数記には「満」が10回発見できる。
・6-5には「期間が満ちるまで」とある。一定の時間が経過したことを期間が満ちるまたは時が満ちると翻訳している。

・6-13には「ある期間が満ちた日に」とある。指定された日に達することを「ある期間が満ちた日に」と翻訳している。

・10-36には「イスラエルに満ちる幾千幾万の民のもとに」とある。

・11-1には「激しく不満を言った」とある。
 怒りではないが、心の中が満たされないことを「不満」という。聖書には単語「不満」は12回発見できた。その箇所は創世記48-17、民数記10-36と11-1、サムエル記上22-2、列王記上11-22と18-27、ヨブ記33-10、ヨナ書4-1と4-6、ユダの手紙16、ユディト記5-22、マカバイ記Ⅰ11-39の12回であった。

・14-18には「主は慈しみに満ちて」とある。主は慈愛が満ち溢れているのである。

・14-21には「主の栄光は全地に満ちている」とある。日本語では「全地」とは余り云わない。「全土」である。または「全世界」ではなかろうか。翻訳者には意図があったのかもしれないが、日本語の「全地」は耳慣れない。日本語として私は無理を感じる。

・22-18には「バラクが家に満ちる金銀を贈ってくれたとしても私の神、主の言葉に逆らうことは何も出来ない」とある。バラクはモアブの王で占師バラムを惑わしイスラエルを呪わせよとした。「家に金銀が満ちていた」というのであるからバラク大富豪である。格差社会の今の時代と酷似している。腐敗堕落の時代が見える。

・24-13には「家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らって、私の心のままにすることは出来ません。私は主が告げられたことを告げただけです」とある。この箇所にも「家に満ちる金銀」が見える。バラクの富豪ぶりが見える。

・27-18には「霊に満たされた人」とある。霊が体に満たされるものと考えられていた。霊とは体内を流れる血液のことであると考えられていたのであろう。聖書には家畜の面が多数発見できる。家畜から流れ出る血液を人々は知っていた。そのことが「霊に満たされる」という考え方の源であると推定出来る。日本のような稲作文化と牧畜文化圏の文化との大きな落差がある。因みに「霊に満つ」は聖書には15回発見できる。それは以下である。民数記27-18の一箇所、申命記34-9の一箇所、イザヤ書11-3の一箇所、ルカ伝1-15と1-41と1-67と4-1の四箇所、使徒行伝2-4と4-8と4-31と6―5と7-55と13―9と13―52の七箇所、エフフェソ書5-18の一箇所の合計15回であった。

・29-39には「満願の献げ物や随意の献げ物」とある。今のキリスト教にもこの考え方が生きていると推定出来る。それは献金の多様性に認めることが出来る。「満願の献げ物」は特別献金、「随意の献げ物」は通常献金ではなかろうか。今の日本語では「献金」という言葉は薄汚れてしまった。その理由はマスコミが報じる「政治献金」という言葉の蔓延である。「政治献金」には政治腐敗と同様に薄汚れたイメージしかない。人々の言葉は理念を決定するとも言われている。キリスト教会にとっては迷惑な話であろう。
 因みに聖書には「献げ物」としているが、日本語辞書には「献げ物」は発見出来ない。「奉げ物」としている。翻訳者が「献げ物」でなければならないのなら、文書の前後を考えてそれなりの翻訳をすべきであるが、それが見当たらない。「献げ物」には無理があると思う「奉げ物」に訂正すべきではないか。聖書の日本語としての誤記誤訳が目に余る。少なくとも聖典でありもっと慎重な翻訳が求められるのではないか。聖職者も信徒も聖書から離れた生活をしているのではないかと思うほど誤記誤訳が多い。

            (民数記に於ける「満」の特徴)
(1)日本語訳聖書全体では450回の漢字「満」が発見できる。モーセ五書には68回の満が発見できて、民数記には10回の満が発見できる。聖書の満の45分の1が民数記に存在していることになる。

(2)民数記に時間が満ちる満があった。6-5

(3)民数記には不満の満があった。11-1。尚、聖書全体では単語「不満」は12回発見された。聖書に出てくる単語としては少ない部類に含まれる。

(4)「主は慈しみに満ちる」という表現があった。主は慈愛に満ちているとも表現できる。

(5)全地に満ちる」とあるが日本語としての不自然さを感じた、日本語として「全土」は言うが「全地」は耳慣れない言葉である。14-21

(6)「家に金銀が満ちる」の表現があった。モアブ王バラクの富豪ぶりを描写している。22-18及び24-13

(7)民数記29-39には「満願の献げもの」とあるが、今の日本語辞典にはこのような表現は無い。「満願の奉げ物」でなければならない。聖書の表記は漢字の間違いである。尚、満願とはかねてから願っていたことが満たされること。日本語では「結願」ともいう。但し、四国遍路には「満願」と「結願」とは意味が異なる。八十八ヶ所最後の寺にたどり着くことを結願という。それに対して、八十八ヶ所すべて巡った上で出発点の寺に戻ることを「満願」という。

(8)民数記27-18には「霊に満たされる」は仏教など日本宗教界では耳慣れない言葉である。米作文化圏と牧畜文化圏との文化的落差が発見できる。
 それは気になる落差や違いであるので「霊に満たされる」を聖書でもう少し分析してみた。「霊に満たされる」は聖書全体では15箇所発見される。それは民数記27-18の一箇所、申命記34-9の一箇所、イザヤ書11-3の一箇所、ルカ伝1-15と1-41と1-67と4-1の四箇所、使徒行伝2-4と4-8と4-31と6―5と7-55と13―9と13―52の七箇所、エフフェソ書5-18の一箇所の合計15回であった。
 鳥や獣を解体する場面が聖書には多いのであるが、「霊が人間の体内に満つ」というのは霊が体内の血液を指すと考えられる。そのような解剖学的観察が「霊が人間の体内に満つ」と理解されていたのであろう。しかし、そのような「霊に満つ」は旧約聖書よりも新約聖書に遥かに多く発見できる。「霊に満つ」の考え方はユダヤ教から存在していたのであるが、新約聖書に於いて「霊が満ちる」の概念が発展定着したと推定出来る。

聖堂の詩その760―(Ⅰ)モーセ五書、レビ記に於ける「満」

2012-06-05 05:38:11 | Weblog
                田に水が満ちて近江の国広し       紅日2011年11月号
 明治二十九年の琵琶湖水位が大雨でどれほど上昇したのか、前号では湖北の尾上集落では二階から舟で出入りしたとの記録を示した。それを今度は琵琶湖の西岸での石碑で確かめて見ようと思う。明治二十九年で近代に入ってはいるものの、琵琶湖にはまだ南郷瀬田の洗堰が無かった。洗堰水門完成はその九年後の明治三十八年である。瀬田川は大戸川土砂吐出により堰止められ易く浚渫も不充分であり、琵琶湖の水位が少しの雨で上昇しやすかった。明治二十九年の大洪水時の琵琶湖水位がどれほど上昇したのか、それを示す石碑が琵琶湖の湖岸で比叡山の山麓の町、坂本に立っている。坂本の酒井神社である。それは、下坂本小学校の近くにある。休み時間には小学生の声が聞こえる神社。鬱蒼とした境内の琵琶湖側の端にその石碑が立っていた。石碑の四面に洪水時の琵琶湖高水位が記されていた。明治二十九年大洪水時を基準として水位は記されている。尺貫法をメートル法に換算しさらに標準水位より幾ら高かったのか、これを時系列で並べると次のようになる。
万延元年(1860)五月十七日、  2m52cm
明治元年(1868)五月二十日、  3m34cm
明治十八年(1885)七月三日、  2m80cm
明治二十九年(1896)九月十一日、3m88cm
 この石碑に刻まれた記録では後になればなる程洪水時の琵琶湖水位が高くなっている。明治二十九年は明治二十七年の日清戦争勃発後のことでもあり政府は対外的な面子の為にも瀬田川に近代的な堰建設を強いられた事が推定出来る。農民も市民も琵琶湖の脅威には我慢できなかった。その事は家屋の位置からも判断出来る。洪水時に冠水しにくい旧自然堤防上や旧浜堤上に古い集落があり、古い屋敷を観察すると敷地が高く、床も心持高い住居が目立つ。土蔵は石垣上にあり、物置小屋は高床式だ。洪水時の恐怖心が家屋の位置や形態に具現化されている。
 琵琶湖の標準水位より3m88cm高ければ今の酒井神社の屋根の庇部分までが完全に水中に沈んでしまう。湖岸の集落は殆んど水没だ。神社から路地の隙間に垣間見える琵琶湖を眺めて洪水時の琵琶湖の広大さを思い描いた。酒井神社がある琵琶湖西岸は背後に比良比叡連峰が琵琶湖に聳え立つのでさほど洪水時の琵琶湖の広がりはない。しかし、対岸の琵琶湖東岸は低平広大な沖積平野が拡がる。3m88cmの水位上昇時は琵琶湖は内陸に拡がる。琵琶湖面積は二倍ぐらいに膨張するのではないか。酒井神社の近くから見える対岸、近江富士は湖中の島と化すであろう。低平な平野はどれほど大きな水害となるだろうか目視だけでも凡そ推し量ることが出来る。
 人間にとっては満たされることは多くの場合喜ばしきことである。満足の「満」である。しかし、満ち溢れると困ったことになることもある。一定の容器が満たされるのは良いのであるが、容器の受容能力を超えて溢れた場合それを始末しなければならない。満ち溢れて零れた液体物の処理に余計な労力がかかる。従って満のは喜ばしいが満ち溢れるのは、後始末を考えれば人間に歓迎されない。満ちるというのは人間にとって丁度都合の良い分量でなければならないということになる。匙加減された分量でなければならない。人間が満足するにはその定量があるということである。定量を越えればそれは邪魔物である。滋賀県の水害を調べていてつくづく満ち溢れた場合の人間の困窮を感じる。
 さて、レビ記にはどのような「満」が発見されるであろうか。モーセ五書船体では68回の「満」が発見されたのであるが、レビ記にはその内の14回が発見された。それは以下の箇所である。

   <レビ記>
 モーセ五書には68回の「満」が発見できた。その内レビ記には14回の「満」が発見された。その箇所は以下である。
●レビ記には「満」が14回発見できる。
・7-16 には「満願の奉げ物」とある。願いが全て叶った状態で満足すべき心理を「満願」と日本語で翻訳している。
・14-5には「新鮮な水の満たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じた」とある。水の上で鳥を殺すのであるから新鮮な水に血がほとばしる。現代日本では考えられない動物虐待であるが、当時は当然のことであった。祭壇での儀式と云えども凄惨な現場である。今もユダヤ教にはこのような血生臭い儀式が継続されているのであろうか。
・14-50には「新鮮な水の満たした土器の上で鳥の一羽を殺す」とある。
・16-12には「祭壇から炭火を取って香炉に満たし」とある。当時は既に炭は焼畑農業もあり存在していた。焼畑のない地域では最も原始的な製炭方法である「伏せ焼」があった。生木を並べてその上に土をかぶせて火をつけるという原始的な製炭法が存在していた。この場面の「炭火」は焼畑で拾ってきた炭か伏せ焼」の炭であるかどちらかであったろう。尚、日本では炭窯製炭法が一般的であるが、この製炭法は中国から遣唐使が齎した製炭法であり、伏せ焼製炭法よりはるかに新しい物である。この場面は、香炉の香に着火させる為に炭火を香炉に満たした。「満たした」とあるのであるから、香炉に比べて炭火の多さが見える場面である。香炉に溢れんばかりの炭火。
・19-29には「娘に遊女の真似をさせて娘を汚してはならない。貴方の土地をそれによって汚してはならない。恥で満たしてはならない」とある。自分の娘を遊女にすることは大きな恥であると考えられていた。娘に遊女の真似をさせることの容認は即ち自分の領地をも汚すことであり、自分の領地に恥を満たす行為であると考えられていた。自分の娘の教育のあるべき形が示されている。娘への教育が間違えば自分の領地にまで汚されるというのである。そして、領地が大きな恥で満たされるのである。当時の人々の領地に対する意識も描写されている。
・22-18には「満願の奉げ物」とある。願いが全て満たされた時に感謝の気持ちで奉げる奉げ物。日本語には「満願」に近い単語では「結願」がある。遍路が巡るべく全ての札所を巡り終えて、最後の札所寺にたどり着く。その寺を「結願寺」という。聖書では願いが満たされる。遍路では願いが結ばれる。願いが満たされると、願いが結ばれるとの違いがある。
・22-21には「満願の奉げ物」とある。
・22-23には「満願の奉げ物」とある。
・23-15には「満七週間」とある。予定時間が経過した時は時が満ちると表現した。日本語訳で「満」とした。
・23-38には「満願の奉げ物、随意の奉げ物」とある。奉げ物には二通り存在していた。一つは常々抱いていた願いが満たされた時の「満願の奉げ物」である。もう一つは意識しないで定期的に奉げる奉げ物で「随意の奉げ物」の二つに区分した。この考え方はキリスト教に於いても継承され残留している。満願の奉げ物(注1)は「特別献金」であり、強制や縛りの無い随意の奉げ物(注2)は「通常献金」であろう。
・25-30には「一年未満に買い戻さねば家屋を買い戻す権利が放棄される」とある。「一年未満」は時間を区切るフレーズである。当時は、一年未満であれば自分の売った家屋を買い戻す権利が留保されていた。売ったものの、やはり売らないでおこうという願望が法律的に赦されていた。
・26-26には「満腹する」とある。
・27-2には「満願の献げ物」とある。
・27-8には「彼が満願の献げ物をささげる資力に応じて祭司が決定する」とある。この翻訳は「彼が満願の献げ物をささげる彼の資力に応じて祭司が決定する」とし、「彼の」を加えなければ文章の前後関係から分かりにくいのではないか。司祭が満願のささげ物をささげる者の資力で判断決定していた。この考え方は現在のキリスト教にも継承されている。「満願の献げ物」も「随意の献げ物」も含めて年間総収入のうち十分の一の献金が暗黙の了解事項とされているようである。これを「什一献金」と呼んだり、「十分の一税」と呼んだりしていた。
        (レビ記に発見される「満」の特徴)
(1)器に満たされた新鮮な水の上で鳥が殺されていた。現代社会では考えられない凄惨な場面である。今もユダヤ教においてこのような残虐な儀式が継続されていると考えられる。血に対しての恐怖感が皆無である。7-16、14-5
(2)祭壇では炭が活用されていた。それは焼畑から得られた消し炭であったり、伏せ焼」という原始的製炭法により入手していた。香炉に炭火を満たしていたのであるから。香炉に比べて炭火の大きさが大きかった。16-12
(3)自分の娘を遊女にすることは恥であった。それは自分の領地を汚すことであり領地を恥で満たす行為であると考えられていた。「土地を恥で満たす」という表現は日本語には余り見られない。当時の人々の土地に対する意識が表現されている。日本では「土地本位制」や「土地神話」という言葉があった。それに近い人々の意識が聖書時代に存在していたと推定出来る。それは地域を越えて、時代を超えて空間占有欲望が強烈であったことの証である。19-29
(4)「満願」という言葉が各所に発見できた。常々抱いていた拘りや問題が解決した状態を満願と考えられる。22-18、22―21、22-23、
(5)レビ記に於いては貢献げ物には二通りの扱いが在る。それは一つは満願の献げ物である。もう一つは随意の奉げ物である。これら献げ物は奉げる人物の資力に応じて祭司が決定した。27-8
(6)レビ記は他には「時が満る」満や「満腹」の満が発見された。23-15、25-30、26-26
(7)当時は土地の売買に於いて、売却してから一年未満であれば買い戻す権利が保障されていた。このような農民に与えられた一年間の猶予期間は農民からの税収入が期待できる支配者が農民の生産意欲を尊重したことに由ると推定出来る。25-30


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(注1)聖書に発見される「満願の献げ物」の巻別分布表とその箇所。
聖書全体で22箇所の「満願の献げ物」が発見された。巻別では以下である。
●レビ記では7回発見出来て、その箇所は。
・7-16,22-18,22-21,22-23,23-38,27-2,27-8
●民数記では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・29-39
●申命記では4回発見できて、箇所でその箇所は。
・12-6,12-11,12-17,12-26
●サムエル記上では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・1-21
●ヨブ記では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・22-27
●詩篇では7回発見できて、箇所でその箇所は。
・22-26,5-14,61-9,62-2,66-13,116-14,116-18
●ユディト記では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・4-14
(注2)聖書全体に発見される「随意の献げ物」の巻別分布表
聖書全体に発見される「随意の献げ物」は20回で巻別では以下である。
●出エジプト記では2回発見できて、箇所でその箇所は。
・35-29,36-3
●レビ記では5回発見できて、箇所でその箇所は。
・7-16,22-18,22-21,22-23,23-38
●民数記では2回発見できて、箇所でその箇所は。
・15-3,29-39
●申命記では2回発見できて、箇所でその箇所は。
・12-6,12-17
●歴代誌では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・31-14
●エズラ記では5回発見できて、箇所でその箇所は。
・1-4,1-6,2-68,3-5,8-28
●エゼキエル書では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・46-12
●アモス書では1回発見できて、箇所でその箇所は。
・4-5
●ユディト記では2回発見できて、箇所でその箇所は。
・4-14,16-18

聖堂の詩その759―(Ⅰ)モーセ五書、出エジプト記に於ける「満」

2012-06-01 06:56:04 | Weblog
               田に水が満ちて近江の国広し       紅日2011年11月号
 俳句は一生涯に一句秀句が出来ればよいと満足すべきであるという話をあちこちで耳にする。成程と思う話だ。俳句を作ろうとし自然に飛び込んでもなかなか自然との良い出会いが無いものである。出会いが無いからということで自然に飛び込もうとしなければ最早俳句作家ではなくなる。出会いが無くとも常に自然に飛び込んで自分のアンテナを磨いて居ることが大切なのだろう。この作品も駄句のひとつであり、良い作品であると思いながら発表しているのではない。自らの恥部を剝き出しににして発表している。水のエネルギーを感じつつ生まれた作品で詰まらない作品である。
 田植をするために田に水を満たす。田に水を池や河川から導水して水を満たす。その導水は人間に支配された水である。従って水のエネルギーと広大さがいまひとつ伝わりにくい。田に水を満たすことで広大になる近江は人為的に形成された広大さである。一方、人間が制御不能な水がある。それは豪雨水害の水のエネルギー。滋賀県の豪雨水害は主として湖岸の冠水であった。近世においては、是を解決する為に幕府は遂に天明四年(1784)藤本太郎兵衛に瀬田川の河川浚渫を許諾した。その後、明治38年の洗堰の工事と瀬田川跳梁工事が完成するまで、しばしば滋賀県の琵琶湖湖岸は冠水し湖岸農民の悩みの種になった。琵琶湖の唯一の出口となる河川瀬田川の瀬田は瀬戸が訛った地名であるとも言われているが、狭所の意味がある。琵琶湖の水は瀬田で最も狭くなり瀬田川となり、宇治川、淀川へ、そして瀬戸内海へと注ぐ。速やかに瀬戸内海に排出されれば良いのであるが、豪雨となると琵琶湖の注ぐ460本の河川が直ぐに琵琶湖の水位を上昇させてしまう。その為に瀬田川の浚渫や水門工事が求められた。近江の農業は琵琶湖水位との戦いの歴史であった。
 琵琶湖水害の中で特筆すべきは明治29年に起きた大水害である。荒堰の水門着工もこの大水害が引き金になった。明治政府は立ち上がらざるを得なくなったのである。滋賀県県立図書館に存在する当時の水害地図がある。それは西村鶴里堂が明治二十九年十月発行した「明治二十九年九月近江国水害一覧表」である。それをを拡げて、滋賀県の水害地域を見ると琵琶湖の湖水面積が凡そ二倍に膨張し、日野地方にまで琵琶湖が広がっている。琵琶湖水位がそこまで上ったのではないが、滋賀県最大の平野である湖東平野をほぼ水没させている。地図を一瞥しただけで水害規模が如何に大きいものであったのか分る。湖東平野の東の端で琵琶湖岸から25km内陸に位置する日野地方まで水没させた明治二十九年九月の大水害の有様は湖岸の城郭の状態を見ても明確に読み取ることが出来る。琵琶湖を前にした大津城址も膳所城址は完全に水没している。織田信長時代は琵琶湖の内湖である西ノ湖に面した安土城山頂城が立っている。その安土城も琵琶湖に囲まれて完全な島山となっている。また、彦根城も彦根市市街地のほぼ全域が冠水したので此れも琵琶湖に浮ぶ島山と化している。
 北陸本線が琵琶湖を離れて木ノ本駅を過ぎると琵琶湖から孤立独立した余呉湖に出て来る。北陸線が初めての人は日本海と錯覚する湖であるが、この湖も西村鶴里堂の地図によれば水害で琵琶湖とつながっている。余呉湖から琵琶湖の流れる余呉川がある。豪雨による琵琶湖の水位上昇もあるが、元来排水が困難な余呉川で、氾濫を繰り返し農民が苦しんだ。その為弘化二年(1845)西野恵荘が滋賀県伊香郡高月町西野に全長220mの隧道を掘削し、余呉川の水が琵琶湖に排出しやすいようにした。此れが余呉川排水路である。
 明治二十九年には余呉川が氾濫し、琵琶湖と余呉湖が繋がったように西村鶴里堂の地図に描かれ、雨之森芳洲を輩出した高月町も水没した。また、湖北町も水没した。それは琵琶湖水位が豪雨で上昇したことにも拠るが余呉川の排水路西野水路が排水し切れなかったからでもある。もう少し高月町と湖北町の水害の様子を水害記録や地図で観察してみよう。余呉川の排水路は溢れ余呉川本流も溢れた。当時の人々が琵琶湖と余呉湖と大水害により繋がって見えたというのは豪雨の程と出水の激しさを物語る。現在の湖北町の郷土誌、「ふるさとおのえ(42)」には当時の水害を次のように記録している。「明治二十九年九月六日のことである。余呉川下流の尾上に於ける被害甚大にして各戸の浸水甚だしく、二階から舟に乗り、津里の山麓に避難したのである。大切な書類はほとんど床の間や押入れにあったために、水位の高くなるのが急なためこれ等を片付ける暇も無く遂に沈没してしまった」とある。二階から舟に乗ると言うのであるから、道路から水深では3m~4mに至っていたことは確実である。尾上集落は余呉川河口の畔にも琵琶湖の畔にも面した集落であり、琵琶湖の水位の高まりで人家の二階から舟に乗っていたと考えて良い。
 明治二十九年九月の水害を描く西村鶴里堂水害地図の周りに郡別の被害状況を報告しているのであるが、郡別の死亡者数と行方不明者数のみを比較すると、滋賀郡一名、栗太郡一名、野洲郡三名、甲賀郡四名、蒲生郡十一名、神崎郡一名、愛知郡一名、犬上郡三名、阪田郡二名、東浅井郡二名、西浅井郡一名、伊香郡一名、高島郡一人である。死者と行方不明者の数が蒲生郡に抽んでて多い。このことは水害は決して琵琶湖の湖岸の水没だけに終わらなかったことを物語っている。内陸部の犠牲者が多いのが目立つ。それは各河川の上流域、ことに谷口の前に広がる扇状地上での谷口からの鉄砲水とも言える水圧による河川決壊が甚大な被害を及ぼしたことによる。
 近江の国に満ちる水は大水害の水もある。水害を齎す強靭な水、人間が抗うことが出来ない強靭な水が近江の国を満たしている。さて、モーセ五書の出エジプト記に於ける「満」はどのように描写されているであろうか。それを調べてみた。
  <出エジプト記>
(Ⅰ)モーセ五書には68回の「満」が発見できた。その内の出エジプト記では13回の「満」が発見されたがその箇所は以下である。
●出エジプト記には「満」が13回発見できる。それは以下である。
・2-16には「彼女達は水を汲み、水舟を満たし、父の羊の群れに水を飲ませようとした」とある。水汲みや、水の運搬は此処でも女の仕事であった。
・8-10には「屍骸を積み上げたので国中に悪臭が満ちた」とある。屍骸の悪臭が国に満ちた。死体の悪臭の充満を描写している。
・8-17には「エジプトの人家にも人が働いている畑でも虻が満ちるであろう」とある。虻は清流にしか生息できない昆虫であるが、虻に刺されると激痛が走る。その虻が家の中にも畑にも満ち溢れるという恐怖を描写している。虻の充満だ。
 富山湾の氷見市沖合いに虻ヶ島がある暖流と寒流とがぶつかり合っている海域で海の動植物の種の多様性で知られている島である。小さな島であるが、筆者が小学生時代であるから昭和20年代であるが、此処に泳ぎに行ったことがある。「虻ヶ島」の地名が海水の清浄さと共に今も脳裏に残っている。蚊に較べて飛翔力が遥かに大きく猛烈なスピードで人に襲いかかる。刺されれば激痛が走る恐怖の虻であるが彼らは渓流など清浄な環境でなければ生きられない。
 聖書には虻が9回登場している。出エジプト記では8-17,8-18,8-20,8-25,8-27の5回、詩篇では78-45 ,105-31の2回、エレミヤ書では46-20の1回、知恵の書では16-9の1回であり、合計9回であるが、多くはエジプトに於ける虻であり、人々が虻の猛烈な襲撃に苦しんでいたことが描写されている。虻の生息はナイル川の存在と関係が深い。ナイルが虻の生息に適していた。ナイル川流域では虻は人々の恐怖の対象になっていた事は聖書の記述から読み取ることが可能である。
・10-6には「エジプト中の家に蝗が満ちる」とある。エジプトに満ち溢れた物は虻だけではなかった。蝗も国中に満ち溢れた。蝗は作物を食い荒らす害虫であったのは当然であるが、マタイ伝3-4にも描写しているように人々は蝗を食料にもしていた。日本でも蝗食がある。海から隔離された長野県や奈良県などでは動物性たんぱく質を蝗から摂取することが日常的であった。私も蝗の佃煮を試食したことがあるが、それは小海老のような歯ざわりと味であり、蝗の佃煮は決してゲテモノ食いとは思えなかった。寧ろ上品な味覚のうちに入るであろう。
・16-8には「モーセは言った『主は朝にパンを食べて満腹する』」とある。
 この箇所の「満」は「満腹」の満である。この下りは日本語として何か引っかかりを感じる。『主は朝にパンを食べさせて満腹にさせた』としたほうが分かりやすい日本語ではないのだろうか。
 因みに聖書の他には「満腹」が発見される箇所は出エジプト記には16-8,16-12に2回、レビ記には26-26の1回、コヘレトの言葉に5-11の1回、マタイ伝に14-20,15-37の2回、ルカ伝に6-25,9-17の2回、ヨハネ伝に6-12,6-26の2回、フィリピ人への手紙に4-12の1回、ヤコブの手紙に2-16 の1回発見できた。聖書には合計14回の「満腹」が発見できる。
・16-12には「朝にはパンを食べて満腹する」とある。
・31-3には「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ」とある。「彼に霊を満たす」とあるが、霊とは人に満ちるものであるという理解があった。満ちるのであるから、霊の分量も前提にした言葉遣いである事は当然である。彼の半分に霊が注がれることもあるということになる。霊の実態は聖書には描写していないが、霊が満ち足りると同時に知識や技術も磨き上げられると考えられていた。
・34-6には「主は慈しみと真に満ち」とある。主は慈悲と真実に満ちていると述べている。
・35-26には「知恵に満ちた女達は山羊の毛を紡いだ」とある。女の主要業務は水汲みだけではなく羊や山羊の毛を紡ぐことでもあった。それも知恵ある女達だけの特権でもあった。知恵があれば紡ぐのであるから、知恵がある女の特権として考えられていた。
・35-31には「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と知識を持たせた」とある。神の霊が彼の中に入り始めて工芸や英知や知識が優れるのである。言い換えれば神の霊が満たされなければ工芸や英知や知識有得ないと考えられていた。神のない地域や神のない時代はどうであったのかとの疑問が生まれるのは当然である。黄河文明の工芸や知識はどうであったのか、アメリカインディアンの工芸や知識はどうであったのか、インカ帝国の工芸や知識はどうであったのか。物語といえども、時間と空間を越えてこれを肯定するのは難しい。
・35-35には「知恵の心を満たし、全ての工芸に従事させ、彫刻師、意匠師、」とある。この日本語は分かりにくい。「心の中に知恵を満たし」とするのが妥当ではないか。心の中に知恵が溢れるほどに満たされているのである。
・40-34には「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」とある。雲は炎熱の砂漠の中で唯一の冷涼さを齎せる一気象現象。その冷涼さに人々は安息と主の存在を感じていたのではないか。栄光が幕屋に満ちるとは分かりにくいのであるが、冷涼さが人々の齎せる安堵ではなかったか。
・40-35には「モーセは幕屋に入ることが出来ない。雲がその上にとどまり。主の栄光が幕屋に満ちていたからである」とある。主の栄光が幕屋に満ちていたのでモーセは幕屋に入ることが出来なかったと描写している。主の幕屋における威厳を表現している。栄光が幕屋に満ちるとはどういうことか。栄光とは幕屋の上に雲が存在しているのであり幕屋の中の冷涼さを示しているようでもある。炎熱の砂漠であり、雲の存在だけが冷涼さを齎せる。幕屋はその冷涼さの中にあると把握できないことはない。
 
                     (出エジプト記の中の「満」の特徴)
 出エジプト記には「満」が13回発見されたが出エジプト記に於ける満の全体的な特徴を箇条書きにしてみた。
(1)水汲みだけでなく家畜に水をやるのも女性の仕事であったと推定出来る。女性が水舟に水を満たす光景が2-16に発見出来る。
(2)累々たる死体の悪臭が国中に満ちている描写が8-12あった。エジプト国内全体に悪臭が満ちると8-10にあるが、誇張した表現である。
(3)エジプトに充満するのは死体の悪臭だけでなかった刺せば激痛の走る虻も「エジプト国内に満ちる」と誇張した表現が8-17にある。また作物を食い尽くす害虫蝗に関しても10-6には国内に満ちると誇張した表現がある。
(4)「満腹」の単語がある。食べ物で腹が満たされる満腹は16-8、16―12に発見された。
(5)人間に神の霊が満たされると考えていた。当時の人々は人間の中に流れる血液の中に神の霊が移されると考えていたのであろう。現代の新興宗教でも血の中に魂が移る理解が或る様だ。人に神の霊を満たす描写が31-3、35-31に発見された。
(6)神は慈愛と真理に満ちていると考えられていた。34-6
(7)現代社会では、人間の知恵は満ちることは無く次々に新たな知恵が湧く物と理解されている。出エジプト記には人間に知恵が満ちると言う考え方があった。知恵に一定の限定があった。女に知恵が満ちれば女は山羊の毛を紡ぐと考えられていた。女の仕事は水汲みだけではなかった。紡ぐ作業も女性の主要業務であった。35-26
(8)彫刻師や意匠師は神が授けた知恵が満たされていると考えられていた。神の知恵が満たされてはじめて彫刻師や意匠師になれると考えられていた。35-35
(9)幕屋の中には主の栄光が満ちていると考えられていた。それは幕屋の上に雲が止まった時であり、中の冷涼さをも暗示している。40-38
(10)炎熱の砂漠と幕屋の中とは気温の落差が大きかった。40―35