最近無性に孤独を感じてしまうことがある。
なぜそんなことを感じるようになったのか正直よくわからない。これまでと生活のあり方があまり変わったとは思わないし、周囲の環境が多少なりとも変わったとはいえ、それが孤独感に直結するような何かとも思わない。
けれども強い孤独感が自分を苛む瞬間が以前よりも頻繁に訪れているような気がする。
昔からふとした瞬間に自分が一人のような錯覚を抱くことはあった。本当に錯覚なのかどうかはともかく、それはおそらく多くの人が持つ想いではないかと思う。その意味ではまったくもって当たり前のことだ。
ひょっとするといま自分に降りかかっているこの気持ちもそうなのかもしれない。誰もが表に出さず、言葉にしないだけのことなのかもしれない。そうならばこれ自体は当たり前のことなのだろう。
ただこの孤独感が自分の心を蝕んでいくような感覚が恐ろしい。別に自殺したいなどというつもりはない。そこまで私の心は打ちのめされてはいないし、自分の在り方に絶望していない。
恐ろしいのはこの孤独感との付き合い方を誤ったとき、自分という存在が失われてしまうのではないかと思えることだ。
私は人は個であると思って生きてきた。親しい友人と共にあっても、彼らは彼らであって私ではない。心を近づけることはできたとしてもひとつになることはありえず、どこまで言っても交わることはできないものだと。しかしながらそうした人との関係性が自分を形作り、自分に自分というものを知らしめてきたというのも確かである。
問題となるのはこの孤独感がその個であるという思想をより明確にし、他者との関係性を内面的に断絶させ、最終的に自分というものをぼかしてしまうという恐怖を感じてしまうことだ。
人が真に孤独に耐え切れないのはそこにあるのかもしれない。他人という鏡を失うことにより自分というものさえも見失ってしまう。自分の存在というものがなくなってしまうのだ。表面上何事もないように見えたとしても、その実中身が空っぽになってしまうのだ。
まさに虚ろな生というべきだろう。生きながらにして死んでいるようなものだ。
人がどこまで言っても個であるということを超えられない以上、どうしようとも孤独であることからは逃れられない。強い孤独感が自らに襲い来ることも避け得ないことだ。
私は、私たちはその孤独とどう向き合えばいいのだろうか。そもそもが向き合う必要などないというのが答えかもしれない。実際孤独を感じてもそれを口にしない人がほとんどなのは、他者との関係に埋没しようとすることでそれをごまかすことができるからなのだろう。
だが、あえて言おう。他者と共に生き、その中で生じる孤独と向き合い、孤独を見据えて生きていこうとする人間はどうあるべきなのか。
私自身その解を持ち合わせてはいない。こうして言葉を紡ぎ、不特定多数の人に発信して一方的ながらも交流のような何かを行いながらも孤独に恐怖している人間に正答するなど不可能な話だ。
私の一生がどの程度の長さなのかは知りえない。平均寿命にのっとるならあと五十年以上はある。その間にこの孤独との付き合い方を言葉にできるほどに理解できるのだろうか。
繰り返すが私はそれを理由に自殺したいなどと微塵も考えていない。今は心を蝕まんとする孤独に恐怖しているが、その強さは何とか向き合うことができる程度のものだ。これがこれからも強さを増していくかもしれない中で、孤独とともにあろうとする中で私は何を見出すことができるのだろうか。
人は個であり、孤独から完全に逃れることはできない。見ない不利をして生きていくのが賢い生き方だとしても、向き合ったその先に何かを見出すことができるのだとしたら眼をそらしたくはない。恐怖を乗り越えて孤独を否定せずに生きることが自分の選んだ生き方なんだと、孤独の先には何があるのかと、胸を張って言えるようにありたいと思うのだ。
なぜそんなことを感じるようになったのか正直よくわからない。これまでと生活のあり方があまり変わったとは思わないし、周囲の環境が多少なりとも変わったとはいえ、それが孤独感に直結するような何かとも思わない。
けれども強い孤独感が自分を苛む瞬間が以前よりも頻繁に訪れているような気がする。
昔からふとした瞬間に自分が一人のような錯覚を抱くことはあった。本当に錯覚なのかどうかはともかく、それはおそらく多くの人が持つ想いではないかと思う。その意味ではまったくもって当たり前のことだ。
ひょっとするといま自分に降りかかっているこの気持ちもそうなのかもしれない。誰もが表に出さず、言葉にしないだけのことなのかもしれない。そうならばこれ自体は当たり前のことなのだろう。
ただこの孤独感が自分の心を蝕んでいくような感覚が恐ろしい。別に自殺したいなどというつもりはない。そこまで私の心は打ちのめされてはいないし、自分の在り方に絶望していない。
恐ろしいのはこの孤独感との付き合い方を誤ったとき、自分という存在が失われてしまうのではないかと思えることだ。
私は人は個であると思って生きてきた。親しい友人と共にあっても、彼らは彼らであって私ではない。心を近づけることはできたとしてもひとつになることはありえず、どこまで言っても交わることはできないものだと。しかしながらそうした人との関係性が自分を形作り、自分に自分というものを知らしめてきたというのも確かである。
問題となるのはこの孤独感がその個であるという思想をより明確にし、他者との関係性を内面的に断絶させ、最終的に自分というものをぼかしてしまうという恐怖を感じてしまうことだ。
人が真に孤独に耐え切れないのはそこにあるのかもしれない。他人という鏡を失うことにより自分というものさえも見失ってしまう。自分の存在というものがなくなってしまうのだ。表面上何事もないように見えたとしても、その実中身が空っぽになってしまうのだ。
まさに虚ろな生というべきだろう。生きながらにして死んでいるようなものだ。
人がどこまで言っても個であるということを超えられない以上、どうしようとも孤独であることからは逃れられない。強い孤独感が自らに襲い来ることも避け得ないことだ。
私は、私たちはその孤独とどう向き合えばいいのだろうか。そもそもが向き合う必要などないというのが答えかもしれない。実際孤独を感じてもそれを口にしない人がほとんどなのは、他者との関係に埋没しようとすることでそれをごまかすことができるからなのだろう。
だが、あえて言おう。他者と共に生き、その中で生じる孤独と向き合い、孤独を見据えて生きていこうとする人間はどうあるべきなのか。
私自身その解を持ち合わせてはいない。こうして言葉を紡ぎ、不特定多数の人に発信して一方的ながらも交流のような何かを行いながらも孤独に恐怖している人間に正答するなど不可能な話だ。
私の一生がどの程度の長さなのかは知りえない。平均寿命にのっとるならあと五十年以上はある。その間にこの孤独との付き合い方を言葉にできるほどに理解できるのだろうか。
繰り返すが私はそれを理由に自殺したいなどと微塵も考えていない。今は心を蝕まんとする孤独に恐怖しているが、その強さは何とか向き合うことができる程度のものだ。これがこれからも強さを増していくかもしれない中で、孤独とともにあろうとする中で私は何を見出すことができるのだろうか。
人は個であり、孤独から完全に逃れることはできない。見ない不利をして生きていくのが賢い生き方だとしても、向き合ったその先に何かを見出すことができるのだとしたら眼をそらしたくはない。恐怖を乗り越えて孤独を否定せずに生きることが自分の選んだ生き方なんだと、孤独の先には何があるのかと、胸を張って言えるようにありたいと思うのだ。