前回の続きとして、もう少し自分の意見を書いてみたい。
私は昔から功利主義に共感を覚える。それもミルのような折衷案ではなく、元祖ベンサムのシンプルな意見がよい。
功利主義への有力な批判は、それが道徳、伝統、常識などの価値を忘れているというものだろう。しかし道徳、伝統、常識といったものは、そもそも最初から功利主義的説明に合致しているように思える。社会の福利に貢献しない道徳を私はひとつも知らない。時代の変化とともに道徳と福利が矛盾するようになることはあるが、その場合はいずれ道徳が修正される。
人は功利主義的説明に一見合わない不合理な行動を正しいと感じることがある。何もならないとわかっていても、せずにはいられないことがある。たとえば復讐したり、終わってしまったことの責任を取って辞任(昔だったら自害)したりする。だがこうした行動も、広い意味で功利主義的説明に反するものではない。そのような行動は、個人や集団の信頼性を高め、社会に規律を与え、結局は社会全体の福利に貢献しているからこそ、賞賛されているのである。
功利主義的説明にも問題はある。「青い鳥」の童話が示唆するように、所詮、幸福は求めて手に入れられるものではない。何が正しいかを説明するときに「それが幸福だから」と言ってもほとんど同語反復で無内容だ。昔、快楽を至高の価値としたエピクロス派に対し、ストア派のセネカは「快楽のために徳をなすべきなのではなく、徳をなした結果として快楽が与えられるものなのだ」と主張したそうだが、結局、幸福から道徳を説明しても、道徳から幸福を説明しても、ほとんど言葉の問題で実質的な違いはない。
ただ、道徳を主にすると、カントやヘーゲルのようにほとんど理解不能(?)の理論を持ち出したり「神」にでも訴えたりしない限り、何が正しいか決められない傾向があるように思う。エリート主義や独裁につながりやすい考え方だから、ファシズムや共産主義のような不幸な道に進みやすいようにも見える。これに対して、幸福や快楽もまた曖昧な概念ではあるが、道徳に比べればわかりやすく、民主主義と市場経済という現代の価値観との相性もよい。
それでは人は、どのようなことを幸福と感じるのだろうか。私が思うに、結局、個人や社会のためになること、言い換えると個人や社会が生き延びるために有用な行いが、真の幸福をもたらすようになっている。つまり「生き残ること」が「幸福」や「正義」なのだ。身も蓋もないようだが、
社会進化論(社会ダーウィニズム)という呼称もあることを最近知った。
人間を含めてすべての生物は利己的だ。これは個体の利益だけを追求するということではない。人間や生物は自分に近い他者を助ける性質があるから本質的に利他的でもある。ただ自分に近い者を差し置いて遠い者を助けることはない。人は普通、他人より家族を、他民族より自民族を、動物より人類を助けるものだ。まして人類に敵対する病原菌の繁栄を願う者はいない。
こう考えると利他性は利己性の一種である。だから、自己を含む共同体(家族、村、会社、国、人類など)も含めた、いわば「拡大された自己」を考えたうえで「人は利己的である」と考えたほうが、一貫していてわかりやすいように思う。
逆説的なようだが、そうした「利己的」な行動こそ正義であるとも表現できる。これは自分自身だけを優先するという意味ではない。真に「利己的」に振舞うなら、むしろ「我が身を捨てて世のため人のために尽くす」ほうが社会の存続にとってよい場合もある。だから結局、利他性もまた正義なのではあるが、世間やマスコミでは利他的すぎる発言をしながら利己的すぎる行動を取る人が目につく。我々はもっと自らの利己性について反省しなければならないと思う。