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政治・経済に関する雑記

なるべく独自の視点で、簡潔・公平に書きたいと思っています。

ベーシックインカムの問題点

2010-03-23 20:23:01 | 経済制度
先日の新聞記事で「ベーシックインカム」という言葉を知ったが、よい仕組みだと思う。働いているかどうかにかかわらず、すべての人に定額の所得を保証するというもので、究極のバラマキ政策といってもよい。一般のイメージとは違って、バラマキ政策は公平で効率的な優れた福祉政策だと私は思っている。最近の日本の政策では、給付付き税額控除、定額給付金、子供手当てなどが類似の政策と考えられる。

ベーシックインカムは「負の所得税」とほぼ同じ制度といってよいだろう。負の所得税は所得に応じて給付され、ベーシックインカムは所得と無関係に給付されるが、どうせ所得税があるのだから、ベーシックインカムと所得税を併せた結果は税率次第で負の所得税と同じである。

ベーシックインカムと間接税だけにして、所得税を廃止するという案もあるようだが、それも負の所得税を極端な税率カーブで設定した場合と同等だ。税制が劇的に簡素化する面白い案だが、高額所得層への課税累進率が緩くなりすぎるので無理だろう。

ベーシックインカムについてはウィキペディアのページが大変わかりやすい。ここに挙げられている問題点について考えてみた。

財源

当然かなりの財源が必要になるが、代わりに年金、扶養控除、失業保険、生活保護などを一部代替できるのだから、おおまかに言って財源的には中立のはずだ。所得を再配分するなら、どのような方法にしても、結局財源が必要なのであるから、問題はどのような方法が最も効果的かということだ。

なお、高齢者への年金や障害者への保障も一部ベーシックインカムで代替できるだろうが、全額を代替することはできない。ベーシックインカムは若い健康な人、つまり本来は働ける人のための保障であるから、働くことが困難な人への給付よりかなり低くするのが当然だろう。

皆が働かなくなる

所得の再配分には常にこの問題がついて回る。勤労意欲の低下を完全に避けることはできない。しかし同程度の所得再配分をする前提なら、ベーシックインカムや負の所得税は、現在の制度ほどは勤労意欲を低下させないように思える。現行制度では「130万円の壁」に代表されるように、働いても手取りが増えなかったり、さらにはかえって減ってしまう場合すらある。失業保険や生活保護にも同様の構造があって働く意欲を阻害している。生活保護では、節約して貯金することが許されないというおかしなことになっている。

ただ、現在の生活保護は比較的金額が多い(健康な壮年独身でも月12万円ほど貰える)けれども、「仕事が見つからない理由」を何度も聞かれたりするので、そこまでして貰おうという健常者の数は抑えられていると思われる。ベーシックインカムではそのような「後ろめたさ」がなくなるので、誰にとっても働かないという選択が簡単になり、働かない人が増える可能性はあるだろう。対策を考えないとおそらく、ズルズルと「最低保障生活」に安住してしまう人も出てくる。私も危ない(笑)。だから、高齢、障害、子育て、介護等の理由がなく差し引きで税金を貰い続けるには、その条件として、学習でも生活指導でも職業訓練でも何でもよいから、何らかの授業や社会参加を求めたほうがよいのではないか。昨今の「貧困問題」を見ていると、本当に仕事がないというよりは、本人の意欲や生活規則、精神状態、お金の使い方のほうが問題なように思える。

不正受給

給付付き税額控除には納税者番号制が必須だと言われる。ベーシックインカムは所得に関係なく給付されるが、ベーシックインカムと所得税の合算で考えると、給付付き税額控除と同様、所得を隠して不正に税金を貰う人が出てくることが懸念される。しかし、そもそも正確な納税は現行制度でも同じように重要であることが忘れられているのではなかろうか。

本来払うべき税金を払わないのも、本来貰えないはずの税金を貰うのも、不正にお金を得る点では変わりなく、国家財政や福祉に与える打撃は同じである。だから罪の重さも大差ない。

企業がベーシックインカムを当てにして給与を減らす

そのような影響はあるかもしれないが、問題は何もないはずだ。少しくらい給料が減ってもベーシックインカムがそれ以上に増えるのだから個々人にとっては十分だし、皆が同じ影響を蒙るのだから不公平でもない。そもそも現在の累進課税制度にも同様の給与を減らす効果があるはずだが、これを理由として累進率を緩和してほしいという意見はほとんど聞かない。

環境破壊

消費性向の高い低所得層にお金を配ると、今より多くのお金が使われ、景気がよくなると同時に環境破壊も進む可能性がある。だがこれはベーシックインカムとは本質的に別の問題だ。環境をよくするには、再配分をやめるより環境税のほうがずっと効果的だし、景気の過熱が心配なら公共工事を減らせばよい。早く景気過熱を心配できるほどになりたいものである。

移民にも給付するのか

ベーシックインカムの有無にかかわらず、豊かな先進国が門戸を広げれば、移民は殺到する。そうした人々の社会保障の負担をどうするか、といった問題は世界各国で昔から問題になっていることで、これも基本的にベーシックインカムとは別の話である。

移民に好かれないように自国の社会保障を削ろうという本末転倒な話は聞いたことがない。豊かな先進国ほど移民には魅力的だが、移民をどこまで受け入れるか、彼らにどこまで社会保障を適用するかは、別の政策問題だ。

給付が外国製品に使われてしまう

これもまったく別問題である。低所得層のほうが外国製品を好むという根拠はなく、むしろ高額所得層のほうが舶来品を好むかもしれない。だったら外国製品の流入を減らすために高額所得層からもっと税金を徴収すべきだろうか。

いずれにせよ、貿易収支を改善するために自国民を貧しくするというのは本末転倒だし、再配分と貿易収支はさらに無関係だ。そのうえ、そもそも日本は昔から貿易黒字で困っている(最近はそうでもないが)。

生きがいの喪失

働かなくても生きていけると何をしたらよいかわからなくなる人が増えるという意見だが、これは豊かになってかえって不幸になったとか、原始時代のほうがスリル満点で生き生きしていたのではないか、という話と同じようなもので、そういう面もあろうが、だからといって本気で貧しくなりたい人はまずいない。

安心して犯罪に参加できる

前科があってもベーシックインカムを貰えるなら、それを保険と考えて大胆な犯行に及ぶことができる、という面白い意見だが、それなら重大な前科がある人は給付を減らすことも考えられる。それは行き過ぎとしても、刑務所に入っている期間は給付しないことにするだけでも、犯罪のコストはむしろ今より高くなるだろう。

ベーシックインカムや負の所得税には、悪いところがあまりないように思える。制度が簡素化されるために官庁の仕事が減るので官僚がいやがるかもしれないが、公平で簡素な制度によって無駄が減り、福祉レベルが向上し、日本全体が豊かになるだろう。

関連:年金、失業保険、生活保護、所得税の統合

関税は直接所得補償より優れている?

2009-11-27 10:48:47 | 経済制度
農産物に関税をかけるより、農家への直接所得補償をするのが世界の潮流のようだ。民主党も自民党もそれを目指している。新聞等にも所得補償のほうが優れているという論調が多いようだが、その根拠を(外国がそれを求めているという理由を除けば)私は知らない。自分で考えてみると従来の関税のほうが優れているように思えて仕方がない。

先日も書いたが、関税がシンプルで公平なのに対して、直接補償は複雑で政治の入り込む余地が大きい。「貿易非歪曲的な所得補償」(グリーンボックス・イエローボックス)という考え方は、補助するのに生産を増やさないようにしようという無理な発想であり、しかも必然的に自給率を低下させるので、今の日本にとってはもともと不適切だ。

それでは経済的な効率はどちらがよいのか。食料自給率を50%としたときは五分五分のようだ。この効率について計算したことを以下で述べてみたい。

農業の競争力が低い国で、農産物の需要と供給が次のようにバランスしていたとする。
(簡単のため、需要曲線と供給曲線は直線とし、国内供給曲線と海外供給曲線の傾きは同じとする)



関税も所得補償もない自由貿易の場合、国内供給曲線と海外供給曲線の供給が合わさって緑の供給曲線になる(ここでBH=GF)。このときの消費者余剰は三角形ABF、海外生産者余剰は(簡単のため生産費用をゼロとすれば)BDG、国内生産者余剰はBCH=GEFとなり、全体で多角形ADEFになる。このときの余剰合計は、関税や所得補償がある場合より大きく最大になるが、自給率はGF/BFで50%未満である。

それなら社会全体の福利を最大化する自由貿易にすればよいではないか、という主張もあろうが、ここでは自給率を高めたいものと仮定する。関税または所得補償によって自給率を50%まで高めたときの図を次に示す。



関税によって自給率を50%まで高めるには、海外供給に関税をかけて、海外供給曲線がちょうど国内供給曲線と重なるようにすればよい。この場合の国内海外の合計は青の供給曲線になり(ここでIK=KJ)、需要と供給はJで均衡する。消費者余剰はAIJ、海外生産者余剰はICK、国内生産者余剰はICK=KCJで、それらの合計は三角形ACJになり、さらに関税収入として平行四辺形CDLKが加わる。

所得補償によって自給率を50%まで高めるには、国内供給に補助を与えて、国内供給曲線がちょうど海外供給曲線と重なるようにすればよい。この場合の国内海外の合計は赤の供給曲線になり(ここでOP=PM)、需要と供給はMで均衡する。消費者余剰はAOM、海外生産者余剰はODP、国内生産者余剰はODP=PDMで、それらの合計は三角形ADMになり、そこから所得補償に必要な平行四辺形CDPNが引かれる。

この場合、関税と補償のどちらの余剰合計のほうが大きいかというと、ちょうど同じである。補償のほうが消費者余剰+生産者余剰はCDMJだけプラスだが、関税と補償の分はCDLK+CDPNだけマイナスである。この両者を比べると、CDLK=CDRV、CDPN=CDQU=UQMT(ここでDQ=QM)なので後者はCDRV+UQMTとなり、これとCDMJのどちらが大きいかは、結局、平行四辺形VRQUと三角形JSMの比較に帰着するが、RQ:SMはOP-IK:OM-IJとなって1:2なので、VRQU=JSMとなる。

このモデルは需要曲線・供給曲線を単純化したものであり、自給率50%という仮定も入っているが、関税と補償の経済効率が同程度であることを示唆しているように思える。それなら、関税のほうが制度が単純で、低コストで運営でき、不正もしにくいのであるから、総合的に所得補償より優れていることにならないだろうか。

関連:農産物の関税と農家への直接補助

労働の流動化を目指せ

2009-09-25 20:48:48 | 経済制度
民主党は公約どおり派遣労働を規制していく方針のようだ。労働力を固定化しようという発想は自民党にも多かったが、私は間違った考え方だと思う。

理由は至極単純なことで、企業の仕事は増えたり減ったりするのだから、労働力が固定化されたら不具合が生じるということである。そうなると結局、日本国民全体が貧しくなる。当たり前で必然的な結果である。

仕事が減った会社に社員がしがみつかざるを得ない社会を変えなければならない。契約社員、アルバイト、正社員、派遣社員といった差別をなくし、語弊を恐れずに言えば、すべての労働者が今の契約社員やアルバイトのように自由な立場になるのが理想である。正社員化より非正社員化が必要だ。そうならなければ日本の将来は危ういと思う。

言い換えると、現在の「正社員を解雇できない」規制をなくし、社員の解雇をもっと当たり前のこととすべきである。その代わり負の所得税を導入して個人への所得補償に万全を期す。ただし今の日本のように働かないで生活保護を貰ったほうが働く人より所得が高くなるような逆転現象は厳に避けねばならない。

解雇が当たり前の社会になれば、労働者はいつでも調子の悪い会社から調子のよい会社に移ることができる。不要の会社は人件費の負担から逃れることができ、好調な会社は将来の人件費負担を恐れることなく多くの社員を雇うことができる。よいことずくめだ。北欧諸国は高福祉のイメージがあるが、比較的このような制度になっているらしく、そのために高負担でも経済が損なわれていないようだ。

このような社会では、解雇が増えても新規雇用も増えるので、失業者は増えない。失業が増えるのは、労働者が企業に固定化されていて新規参入ができないからか、失業手当てが多すぎて失業状態が得だからではないか。社会全体で本当に仕事が足りないという理由での失業は、少なくとも近年の大都市では、私は聞いたことがない(だから都市部におけるケインズ的政策は的外れだ)。

派遣社員という制度は、雇用関係に第三者の派遣会社が介在するため、物販における「流通の簡素化」とは逆でややもすると不効率な面がある。派遣会社の中間マージンが高いように思えることもある。それでも今の日本で派遣が必要とされているのは、正社員の解雇規制が厳しく、また法定福利の制度が複雑だからだろう。また正社員にはサービス残業に代表されるような不明朗な労働慣行があるため、派遣会社にはそうした労働慣行から社員を守る役目があり、それが派遣社員を希望する人が少なくない理由の1つである。労働環境がもっと近代化されれば、派遣にこだわる必要は減るかもしれない。

岩登りでは岩にしがみつくとかえって落ちるので、岩から離れて身の自由を保つのが正しい姿勢だという。同様に、労働者が企業にしがみつくのはかえって危険ではないか。

関連:日雇い派遣の禁止

市場原理主義の問題点(バブル・カジノ資本主義)

2009-08-25 21:04:22 | 経済制度
前回からの続き)

これまで何回か市場経済の問題点を話題にし、ほとんど毎回市場原理主義を擁護したが、1つだけ真の問題があると思う。バブルの問題である。この問題は難しいが、バブルや金融の暴走は市場経済に内在する問題かもしれない。

バブルの発生は合理的経済人を想定した経済学では説明できないとも言われるが、素人ながら言わせて貰えば、別に説明できないものでもないだろう。バブルに参加した人は「根拠なき熱狂」や「自信過剰」に陥っていることが多いが、薄々(またはかなりの確信を持って)バブルだと気付いている人もまた少なくない。米シティ・グループの元会長は「音楽が鳴っている途中で踊りをやめることはできなかった」と語っていたが、他人や他社がうまいことやっているときに自分だけ我慢して何年も暮らすより、皆と一緒に踊って楽しんでおき、沈むときは皆で沈むほうが、結局は通算で幸せかもしれない。言い換えると、バブルに乗ることの金銭的期待値はマイナスであってたとしても、心的効用は通算でプラスである可能性がある。だから金銭的期待値がマイナスとわかっていてもバブルに乗ることは合理的選択かもしれない。

市場経済では、人間がいくら賢くなってもバブルが発生するのかもしれない。市場経済の中にたびたび自然発生的な賭場ができて、皆がそこでカジノを楽しんでしまうことが避けられないのかもしれない。楽しいのだからいいではないかと、「バブルよもう一度」と言われることもある。でもやはり、崩壊過程でのマイナスが大きく、またバブル好況時には不効率な資源割り当てや無駄遣いが行われている可能性が高いのだから、肯定するわけにはいかない。

だとすると、人為的な規制や税制を導入して、賭場の抑止を考える必要がある。平成初頭の「地価税」や明治初頭の「ウサギ税」は、税によって投機の過熱を抑えようとしたものだが、どちらもよく効いたようだ(地価税は効きすぎてデフレになったと非難されるほどだ)から、これは十分可能なことだ。ただ現時点では、どのように抑え込めば一番よいのかの定説がない。

「金融」も、不安定であることにおいてバブルと似ている。一般に優良な会社ほど低い金利で預金や債権投資を集めることができ、ますます強くなる。問題が起きて各付けが下がったりすると調達金利が一気に跳ね上がって弱り目に祟り目になる。非常に不安定だ。一般の事業会社でも、優良なほうがお客が安心して製品を買うので有利な面はあるが、その関係は金融に比べれば非常に弱い。弱った銀行は金利上昇をくらってますます弱り、それがまた調達金利の上昇に跳ね返る。そして一気に取り付け騒ぎが起きる。下がるから売る、売るから下がるというバブル崩壊の構造と同じである。

もう1つ面白い点として、金融・保険は政府部門が民間より好成績を収められる唯一の部門のように見えることがある。民間でもできることを政府がやると、大抵、不効率であることが露になるものだ。かつての国鉄、住専、グリーンピア等の公共宿泊施設など、政府の失敗例は数多い。ところが日本政策金融公庫は規模が大きい割には赤字が少ないようだし、ゆうちょに至っては黒字のようだ。それに比べて民間銀行の評判はいまひとつである。共済の自動車保険は以前の民間の保険よりもよい商品を出していたと私は思う(今は民間保険も外資等の参入があって改善されたが)。新銀行東京のような失敗例もあるから一概には言えないが、もしかすると、金融・保険は、市場経済においても政府の関与が正当化される部門かもしれない。

金融や保険は、市場経済におけるリスク負担の最後の担い手であるから、特別なのかもしれない。今回のサブプライム不況も、平成日本のバブル崩壊不況も、1929年の恐慌も、すべて金融がらみであった。金融についてはもっと規制や政府の参加が必要なのかもしれない。

ただし、昨今の日本では、何でもかんでも規制しようとする論調が幅を利かせている。これは大変残念なことだし、福祉の低下に通じる危険な道でもある。今の日本にはもっと「市場原理主義」が必要だ。

(終わり)

市場原理主義の問題点(小さな政府・官僚批判)

2009-08-20 14:48:34 | 経済制度
前回からの続き)

このところ官僚批判が続いている。無駄な公共事業、高すぎる給料、天下り。官僚ばかり批判されているようで気の毒だが、官僚機構というシステムには確かに問題が内在する。

かつてカール・マルクスは、資本家のために働く労働者は、他人のためだけに働くことになって労働疎外に陥り、本来の自己を見失うと説いた。共産主義なら労働者は自分たちのために働くことができ、疎外されなくなるというのである。だが国のためというのもいささか対象が広すぎるため、今では官僚機構も誰のために働いているかわからなくなって労働疎外に陥っているようである。もっと小さな単位のために、つまり民間会社や個人事業のために働くほうが、労働者は本来の姿を取り戻せる。マルクスの労働疎外論も市場原理を支持していたのだ、というのは冗談としても、考え方が意外に近いところがある。

人間は誰しも自己中心的だから、官僚機構に無駄が多いのは仕方ない部分がある。自分の仕事の費用対効果が低かったとしても、自分の仕事を(しがたって給料や権限も)努力して減らそうとする人間は少ない。個人ならまだしも、組織が自発的にそういった行動を取ることは皆無に近い。むしろ自分たちの仕事を増やすことが社会正義だという理由を見つけ、それが信念になるのが普通である(この人間の性をわかっていない人は結構多い)。官僚機構に無駄が多いのは、官僚個々人が悪いからではなく、制度上の必然なのである。

この問題に対処するには、結局、国が行う仕事を最小限にするしかない。よく言われるように「民でできることは民で」やらねばならない。昨今いまいち評判が悪いようだが「小さな政府」にするということだ。自己責任を基本とする市場原理主義をもっと導入して、世の中に喜ばれる仕事をすれば高い給料が貰え、無駄遣いをすればその人自身が損するような制度にしなければ駄目なのである。

政府の大きさの実態は、必ずしも数字の上ではわからない。国の一般財源を減らしても、特殊法人や独立行政法人が増えたならば無意味かもしれないし、逆に国の一般財源が増えても、定額給付金や一律の子供手当てなど国の恣意の入りにくい財源が増えたのであれば、必ずしも政府の肥大化とは言えないかもしれない。重要なのは、お金の使途を決めた人自身がその責任を負うということだ。他人から強制的に集めたお金(税金)の使い方を別の人(政府)が決め、その責任を取らないような制度が諸悪の根源なのである。

こう考えると、「バラマキ」政策のほうが「きめの細かい支援政策」や「的を絞った補助金」などより望ましい。もっとも真のバラマキは減税と大差ないから、それなら減税のほうがすっきりする。減税は格差拡大につながるとの懸念を持たれがちだが、格差解消の切り札は累進課税や相続税であって、政府の規模の拡大ではない。政府や国家権力は既得権層を優遇しがちだから、政府の肥大はむしろ格差拡大につながるだろう。

(あと一回続く

市場原理主義の問題点(医療・教育・生活保護・ニート)

2009-08-18 13:44:48 | 経済制度
前回からの続き)

医療荒廃

市場原理主義で医療が荒廃したと言われるが、今の医療ほど市場原理から遠い業界はないだろう。だからうまくいっていない。

よく指摘されるのが医療と報酬の関連付けの不合理だ。役に立たない、または有害な薬漬け医療の点数が高かったり、必要とされている小児科や産婦人科の収入が低かったりするので、不必要な医療が行われたり、必要な医療が提供されなかったりする。開業医ばかり優遇され、病院勤務医が過労になり、病院が立ち行かなくなる。そうした部分については、もっと市場原理を導入する必要がある。

日本の医療は国民皆保険であり、各人は医療を本来のコストより安く受けられる。普通は3割負担、高齢者はタダになることもある。その結果、たいして必要がない人も医者に行く。病院は患者で一杯になり、待ち時間が増え、医師は不足し、地方の病院が疲弊し、医療費は増加の一途となる。

国民皆保険・強制保険には、共産主義的な無責任体制の側面がある。だからその範囲は最小限にすべきだ。高齢者の負担率ゼロはやりすぎだし、風邪や虫歯などの軽い病気はそもそも強制保険から外すべきではないか。これらも保険に入りたい人のためには別の任意保険を用意すればよい。

こうした方向にはいつも医師会が「安心」「平等」などを掲げて猛反発するが、社会正義を志すなら、まずは脱税ランキング上位の常連業界から脱するよう努力したほうがよいのではないか。

医療と市場原理は、たしかに相性が悪い面もある。保険を完全に自由加入にすると、保険未加入の人が重病になったときに困る。「俺はそのときは死ぬんだからほっといてくれ」と本人が言ったとしても、周りとしてはそうはいかない。だから自動車の強制保険と同様、最低限の医療保険はやはり強制加入にしなければならない(税金で保障してもよい)。だが現在の強制保障の範囲は広すぎる。範囲を狭めれば重病の患者に集中的に財源を投入でき、今より高度な医療を広く提供できるだろう。それが本当の安心・平等ではないか。

「風邪や虫歯を保険から外すと、医者にかからないで症状を悪化させる人が増える」という懸念がある。だが、自由から逃避して自分の体を国家に管理させるより、自分の健康は自分で気をつけるべきではないか。

「国民皆保険がなくなるとアメリカみたいに医療費がかかる」という人もいる。だが医療は安ければよいというものではない。この先おそらく医療費の伸びはGDPの伸びを上回るだろう。人々がよい医療を望んでいるからだ。それを無理に押さえ込む理由はないはずである。

教育荒廃

市場原理主義による教育の荒廃ということもよく言われる。この論点ははっきりしない感があるが、1つは学校間に自由競争を持ち込むかどうかという問題だろう。私もこれについてはあまり賛成できない。今の画一化された各学校に特色を出したいとの理由はわかるが、選択制だと通学が遠くなるし、各学校に同じような傾向の子供ばかり集まるようになって、子供にとっての環境の画一性はかえって高まる危険もある。昔の公立学校のよさは、いろんな子がいたことだ。

学校間の競争がないと教師が地位に安住してよくないという意見があるが、少なくとも昔の公立小中学校の教師はしっかりした人が多く、公立学校教育のシステム全体も悪くなかったように思う(もっとも大学は駄目なのでもっと自由競争にしたほうがよい)。経済一流と言われた時代の民間企業に入ったとき、意外にいい加減な面が多く目につき、日本の学校教育のよさを再確認したものである。

もう1つ、高収入の親ほど学習塾などに子を通わせられるから、子の学歴が高くなってまた高収入になる、という格差の固定が指摘されることがある。たしかに学習塾に行く子のほうが成績がよいというデータもあるが、それより親が勉強好きかどうか、努力する姿勢を見せているか、といったことが影響している可能性もある。

仮に、塾に行って試験の準備をすれば試験の点数が多少とも上がると考えるとしても、そのような勉強が将来お金を稼ぐ上で意味があるかどうかはまた別問題である(将来幸せになるかどうかはさらに別問題である)。市場経済・実力主義は学歴社会と違って、試験の点数だけを狙うような勉強を減らす方向に作用するのではないか。

さらに譲って、親の収入格差が子の試験の成績に影響するとしても、そもそも市場原理主義のほうが親の収入格差が広がるとは限らない。これはよく誤解されていると思うのだが、収入や資産の格差の問題は、身分社会か学歴社会か実力主義かといった違いより、累進課税・資産課税・相続税などの課税をどのように行うかにかかっている。たしかに市場主義を推進する人には課税の軽減も主張する論者が多いようだが、市場原理主義と課税強化という組み合わせがあっても全然おかしくないはずだ。

派遣村・生活保護

昨年末、日比谷公園に「派遣村」ができて何人かが生活保護を貰ったことが話題になったが、健康な若者や壮年がそのようなことをして恥ずかしくないのだろうか。東京には仕事があり、家に住めないほど安い賃金でもない。働ける人が生活保護を求めるのは、きつい言葉でいえば、本当に困っている人の分を横取りするようなものである。こうした運動に迎合する厚労省もおかしい。ここでも問題は、市場原理主義ではなく、むしろ自己責任の考え方を放棄した際限なき過保護、もしくは声の大きい者ばかり優遇する事なかれ主義にある。

ただ、日本の現在の制度では、低所得層への支援が少なく、一方、いったん生活保護までいくとかなりの額を貰えてしまい、その中間がないという問題がある。この穴を「負の所得税」「給付付き税額控除」で埋めるべきだろう。

ニート

「容赦のない競争社会なのでニートが増えた」と言われることがあるが逆だろう。働かなくても食べていける豊かで優しい社会だから増えたのだ。昔の丁稚奉公など非常に厳しい世界だったらしいが、当時はそれでも働くしかなかった。今の大都市にはそれほど厳しくない仕事がたくさんあるが、それでも働かない人が増えている。

もっともニート的生活も悪いことばかりとは限らない。お金を稼ぐ仕事のための時間に追われないから、家族や地域に貢献できる場合があるし、文化・芸術・学問で大きな成果を上げる人も出てくるかもしれない。もしかすると時代の最先端を行く生き方の1つなのだろうか。

自由な市場経済ではお金のために働く量を自分で決められるから、働かないことも、働きすぎることもできる。選択の自由があるとかえってつらいときがあるが、やはりそれは望ましいことに違いない。

(続く)

市場原理主義の問題点(効率至上主義)

2009-08-17 18:03:27 | 経済制度
前回からの続き)

市場経済は効率がよい。本当かどうかはともかく、現在はこの点が争点になることは少ないので、仮にそうだとしよう。しかし、効率のよい市場経済は、福祉、地域社会、多様性、環境などと対立するものとして語られることがある。無駄の効用が説かれることもある。これについて考えてみる。

福祉

「効率を追求しすぎて福祉が忘れ去られる」といった表現をよく聞く。しかし私が思うに、効率のよい生産活動ができて初めて、福祉の水準を上げることができるのだ。昔は平均寿命が短く飢饉も多かったが、現代は経済の効率化によって豊かになり、福祉も向上した。昨今は江戸時代の人気が高いが、「間引き」や「姥捨て山」という言葉もあった時代である。過去に思いを馳せるのはよいが、社会体制として(たとえば自給自足や「分をわきまえる」ことを)美化できるものではない。

「今の若者は福祉のような金にならないことをやりたがらない」という批判がある。だが膨大な人手が必要な福祉を、他人が生きがいでやってくれることを期待しているとしたら狡猾だ。組織の幹部が「やりがい」や「心」を強調するときは、働く人の給料を安く抑えることの正当化になっていないか注意すべきである。

「効率ばかり求める世の中では、お金にならない福祉は切り捨てられる」といわれることもあるが、ではどうすればよいのか。市場経済によって経済の無駄を減らし、その分多くの税金を福祉に投入して、福祉も「お金になる」ようにするしかないのではないだろうか。

地方

なぜ地方が衰退するのか。世界では人口の少ない小国が繁栄していることも多いので、人が少ないとか、規模が小さいから衰退するということはないだろう。繁栄する小国と日本の地方で何が違うかといえば、国や東京に支配されているかどうか、ではないか。それしか思い浮かばないのである。

今の日本の地方は、国にお金を吸い上げられ、それを再び配られる構図にある。意思決定ができない地方は魅力に乏しく若者が出て行く。89兆円もの国家予算は実質的に東京近辺で使われることが多いだろう。地方のほうが大都市圏より多くの地方交付税を貰っているので、地方は中央集権による再配分で潤っているようにも思えるのだが、現状を見るとそれ以上に中央のほうが吸い上げているのではないか。地方の中でも、県庁所在地はほぼ例外なく発展している。政府の存在が大きいことの傍証である。現代の政府は昔より大きいので、税金をどこで誰が使うかが決定的な影響を持つのだろう。

したがって、地方を活性化するには地方分権しかない。最近ようやく、その方向で意見がまとまってきたようだ。地方分権の考え方は、小さな単位での自由な意思決定と競争を重視する点で、市場主義と通底している。

多様性

グローバル化によって文化等の多様性が失われつつあると言われるが、これは事実だと私も思う。ただこれは市場主義のせいというより、貿易が増えて世界規模の大量生産が行われるようになった結果である。むしろ、世界的統一規格での大量生産を重視する共産主義や、全国一律を好む中央集権国家と比べると、分権と意思決定の自由を尊重する市場主義は、多様性を尊重する側面がある。ちなみに多様性の面では「封建制」にして各地方が自給自足するのが一番かもしれないが、生産性が激減するうえにおそらく情報の遮断や旅行の制限なども必要になり、誰もそのような社会は望まない。

資本主義には独占の問題がついて回るが、独占は多様性も損なう。自由を尊重する市場経済においても、独占を排して競争を維持することだけは、公権力が強制力を持ってやらねばならない。

環境

現在の日本の市場経済体制は外部性をあまり考慮していないため、環境については制度の改善余地が大きいと思う。以前「市場経済に不可欠な環境税」で書いたとおりである。

無駄の効用

「市場経済では無駄なものが切り捨てられる」とよく言われる。本当に無駄なものはなくしたほうがよいが、この文言が意味しているのは、一見無駄であっても役立つものを捨てないようにせよ、ということだ。言い換えれば、本当は無駄ではないものを「無駄」と表現しているだけである。「すぐには役立たないが長い目で見れば効果があるもの」や「普段は役に立たないが危機的状況で重要になるもの」が、このような「無駄でない無駄」であることが多い。

これらは市場経済でも切り捨てられることはない。利益を追求する企業は、こうした「一見無駄なもの」を正しく発見して維持しようと努めるだろう。むしろ、自己責任の原則が崩れて将来の損失を負わなくて済むような社会(たとえば企業が失敗すると政府が救ってくれるような社会)のほうが、必要な備えを切り捨てる危険がある。

もっと根本的に、余暇・家族との時間や「芸術」「文化」「生きがい」などを「無駄」になぞらえる議論もあるが、これは無駄とか効率とかいう以前のものだ。これらは当然最重だが、その追求は「幸せの青い鳥」を追うごとく難しく、政治や国家が主導できるものではない。政治が精神的豊かさを持ち出したら、失政の言い訳にしていないか注意すべきである。

市場経済では、自由であるために選択肢が広く、働きすぎて自分を見失うこともできれば、「拝金主義」に陥って不幸になることもできる。そんなことにならないように自己管理して人間らしく生きるのは、政治ではなく個々人の責任である。

(続く)

市場原理主義の問題点(拝金主義)

2009-08-13 10:18:54 | 経済制度
前回からの続き)

「お金がすべてではない」とか「お金で買えない価値がある」という意見をよく聞く。もっともだ。これに反対する人はあまりいないだろう。だからこうした意見を強調しても意味がなく、ドンキホーテが気負って風車に立ち向っているようなものである。しかし、なぜそういって怒るのか。やはりお金が気になるからだろう。そうでなければ、切手マニアやミニカーの収集家を見るがごとく、「お金コレクター」のことも笑って、もしくはあきれて半ば哀れみつつ、見ていられるはずである。

結局、お金はすべてではないが重要でもある、という当たり前の結論になる。それなら「拝金主義批判」を行うのではなく、「もっと俺にもよこせ」「お金を独占するな」と正直に主張したほうがわかりやすい。そして、たとえば相続税や累進課税の強化による再配分を考えたほうが素直で建設的ではないだろうか。感情的な拝金主義批判をする人は、逆説的なようだが、お金に執着しすぎているように思えることがある。

もう1つ、拝金主義批判には権力闘争の側面がある。こちらのほうが重要だ。昔は家柄や身分で権力の所在が決まった。明治以降は勉強して立身出世できる世の中になり、学歴がものを言うようになった。ところが昨今は実力主義が強まって学歴もさほど役に立たなくなり、いわばより平等になったために、消去法でお金の比重が高まった感がある。

学歴や家柄に恵まれていた人たちにとって、これは面白くない事態だ。彼らは現在のエリートであるから声が大きい。「お金より教養や品格が重要」といった主張は、もっともな面もあるけれども、社会の流動化を恐れる層が昔から言っていることであるから気をつけねばならない。本当は多くの人にとって、身分や学歴のある者が威張っていた頃より、今の傾向のほうが「まし」ではないだろうか。

(続く)

市場原理主義の問題点(環境・安全性)

2009-08-03 20:11:26 | 経済制度
前回からの続き)

規制緩和で企業活動が活発化すると環境破壊が進むという議論があるが、これは真実だ。経済発展すれば環境破壊も進むものである(環境保護を経済発展につなげるという話を考えないとすれば)。

これは、豊かな生活は環境への負荷を伴うというだけのことで、市場主義批判の理由にはならない。むしろ、規制を強化して企業活動が縮小すれば環境破壊が減るが、経済の効率が損なわれるため、それ以上に貧しくなるのではないか。かつての東欧やソ連は、それほど豊かでないのに環境破壊は深刻だった。経済の効率が悪かったからである。つまり、同じ豊かさで比べれば、生産活動の効率がよいほど環境への負荷は小さくなる。市場主義的社会のほうが生産効率が高いとすれば、環境への負荷もより小さくなるはずなのだ。

ただし、外部不経済の問題がある。以前「市場経済に不可欠な環境税」でも書いたが、環境税のような仕組みがないと、公害を出した企業がその費用を負担せずに済んでしまう。これは市場主義から逸脱した状態であり、前回書いたトレーダーの例と同じような弊害が生じる。

いつもは部屋を出るとき電気をこまめに消しているのに、旅館に泊まったときはタダなのでつけっ放しにしたことはないだろうか。その場合、つけっ放しにすることで自分が得られる満足より、旅館が払う費用や環境負荷の損害のほうが大きい可能性がある。費用の自己負担がなければ、同じことがもっとずっと重大な場面でも起こるのである。

ここで「個々人の良識の問題ではないか」という意見が出るが、それは甘い。環境問題が良識だけで解決できるなら、取引にお金など必要ないだろう。個人は利他的に行動することもあるが、多くの行動は自己の利益に合致しているものだ。まして集団や企業はほとんど利害だけで動く(そうでなければ企業の場合、背任に問われかねない)。だから、利己的行動と利他的行動が一致する社会を作ることが重要である。

世界では環境税を導入する国が増えているが、ちゃんと理由があるのだ。日本はここでも出遅れている。

安全性・質の軽視

市場原理によって安全性や品質が損なわれるとの主張がある。安いだけの製品によって、本当によいものが駆逐されてしまうと危惧されている。だがそれはないだろう。消費者が馬鹿だと主張しているようなものだ。

以前、外国産の米が輸入されたとき、安くてまずい米ばかりになるのではないかと心配する意見もあったが、杞憂であった。高くてもおいしい米を買いたい消費者がいれば、喜んで高価格の良い米を作る農家がいるからである。外国産の安い農産物の安全性が疑われれば、高くても国産の農産物が売れるようになる。当たり前のことだ。もし逆に安い製品が増えたなら、それは品質でも消費者を満足させているのである。

今はよいものであれば高くても売れる時代である。情報の透明性が保たれている限り、市場原理と安全性・品質とは矛盾しない。専門的知識が重要な場合は国家による品質基準作り等も大切であるが、食品の味や住宅の広さなど普通の人が決められる問題にまで口を出すのは、国家管理の行き過ぎであろう。

(続く)

市場原理主義の問題点

2009-07-31 22:37:35 | 経済制度
市場主義の本質は何だろう。私が思うに、人間の自由に重きを置くことである。そのような社会で他人から何かを得るためには、相手の自由意思を尊重するために、何らかの対価を(つまりはお金を)払わなければならない。だから自由主義と市場主義は表裏一体である。自由な人間が社会を構成するためには市場が不可欠だ(他のよい制度は私は思いつかない)。そこでは他人のものを無理やり分捕ったり、他人を意に反して動かしたりすることはできないのである。

私にはよい社会に思えるのだが、このところ市場原理主義批判の勢いが止まらない。そこで、市場主義の何が問題なのかを考えてみた。

金融危機

サブプライムローンに端を発してリーマンショック、世界的大不況、という一連の流れの原因が市場原理主義だと言われることが多い。だが本当だろうか。

金融機関が短期志向でリスクを取りすぎていたことが問題が拡大した原因と言われるが、なぜそうなったのか。金融機関の経営者やトレーダーが賭けに打って出て利益を上げた後、今回の危機が表面化したが、彼らは巨額の報酬を貰って退職した後だった、といった話をよく聞く。彼らにとっては危険なリスクを取るだけの合理的な理由があったのである。後年損害が生じても自分で支払う必要はなく、公的資金で救済される可能性すらある。つまり本来の市場主義から外れた、他人のふんどしで相撲を取れる報酬制度だったわけだ。

市場主義だったから危機になったというより、市場主義が徹底していなかったから危機が起こったのではないか。そのため今では、こうした報酬制度を見直して、たとえばもっと長期的な収益に報酬を連動させようとの動きがある。これは言い換えると、より市場主義に即した自己責任の報酬精度にしようということである。

もう1つの原因として、金融制度が高度化して人々の理解を超えてしまったことも挙げられる。たしかに金融は資本主義の心臓部であると同時に最大の弱点のように見える。だが代替案があるわけでもない。かつての社会主義諸国では、金融市場・株式市場の役割(資源の配分)を党中央のエリート官僚が一手に握ったわけだが、結局は惨憺たるものであった。

それからバブルの問題がある。この難しい問題については、後日改めて述べてみたい。

グローバル化と賃金の低下

賃金の低下は切実だ。日本ではグローバル化と軌を一にして賃金が上がらなくなった感がある。自由を束縛する規制や関税を削減した結果、貿易と海外投資が増え、海外の安い製品が流入すると同時に工場が海外へ移転した。物価は下がったものの賃金は上がらない。

だが中国など発展途上国の状況はまったく異なる。グローバル化のおかげで輸出が伸び、驚異的な経済成長を遂げている。明らかにグローバル化の恩恵だ。これは日本も辿った道である。かつての日本も輸出主導で高度成長を実現し、欧州や米国の労働者は反発したが、少なくとも日本の労働者は豊かになった。欧州や米国の労働者もマイナスではなかったはずだ。彼らは日本の安くてよい製品を使うことができたし、勤め先は日本に製品を売ることができた。隣が豊かになったほうが自分も豊かになる。現在の中国と日本の関係は、この過去の日本と欧米の関係にそっくりである。

グローバル化では先進国の企業と発展途上国の労働者が真っ先に恩恵を受けるのかもしれない。だが先進国の労働者にとっても長期的にマイナスではない。真の問題は、自分が少し豊かになって隣がもっと豊かになるくらいなら、二人とも貧しいままのほうがよいという嫉妬心にあると私は思っている。

格差の拡大・派遣切り・ワーキングプア

近年の市場主義の結果として格差が拡大したとよく言われるが、どうなのだろうか。

日本の格差は、所得の上位層と中位層の間では少なく、中位層と下位層の間で大きい。おそらく中堅労働者と非正社員の格差が大きいからだろう。正社員ばかり法律で強く保護されているため、格差が広がっているのではないか。正社員の解雇に関する制約等をもっと緩和し、社会保険を平等に適用し、正社員と非正社員の垣根をなくしていくのが格差是正の王道ではないか。

企業の仕事が増えたり減ったりするのは当たり前だ。それなのに従業員を解雇しにくい制度には無理がある。だから嫌がらせによる肩たたきといったおかしなことが起こる。従業員も不調の企業にしがみつかず、もっと調子のよい企業に移ったほうがよい。解雇の規制が緩くなれば企業は恐れることなく従業員を雇うことができ、新規雇用が増える。会社を労使双方にとってメリットばかりだ。ところが昨今の政治の動きにはこれと反対のものが多い。

ただ格差問題は難しい。IT化に伴って事務的な単純作業が不要になり、情報社会化、「地価社会」化してきたことが賃金格差の拡大要因になっているように思える。たとえば伝票整理の仕事に比べると、デザインやプログラミングの生産性はばらつきが段違いに大きい。これによる賃金格差の拡大圧力は小さくないと思われるが、ジニ指数などで測った日本の格差は(高齢化の影響を除く)実はあまり拡大していない。年功賃金が減ったことや規制緩和の流れで新興企業にも活躍の場が広がったことが、格差縮小に寄与しているのかもしれない。

戦後60年以上たって日本の社会が安定したことも格差の遠因になっているのではないか。特に相続財産の格差はかなりのものだ。かつての欧州のように若年層の失業率が上がっているのも、社会で既得権が幅を利かすようになってきたことを示唆しているように思えてならない。

ただし、規制や既得権がなくなっても労働生産性の違いがある分、賃金格差は残るだろう。そこで累進課税や相続税、資産課税が重要になる。賃金格差を減らそうとして産業に規制をかければお互い不自由になり、産業の効率が低下し、さらには規制に巣くう既得権層が現れて格差拡大に寄与する(以前の共産主義国と同じである)。むしろ産業界には自由に稼いでもらい、結果的な賃金・資産の格差を累進課税や相続税で調整すべきだ。そのためには負の所得税(給付付き税額控除)が必要だし、納税者番号制度で所得をきちんと把握する必要もある。

続く

バブルとは

2008-10-28 14:43:54 | 経済制度
サブプライム問題に始まった信用収縮が止まらない。なぜこんなことになってしまったのか。原因を一言でいえば「バブル」だったということだろう。証券化などの金融技術の高度化が重要な要因だとしても、これらは日本におけるかつての「Qレシオ」と同じく、結果論でいえば自信過剰を演出した道具の1つに過ぎなかったと言ってよいのではないか。

それではバブルとは何か。「資産価格が実態から離れて上昇した部分」などと定義されるが、その要因をまとめると「自信過剰」と「買いが買いを呼ぶ状態」の2つではないだろうか。

バブルは歴史的に何度も繰り返されているが、通常、世界で最も勢いがあり国民の多くが自信に満ちていた国で発生する。たとえば、17世紀のオランダ、18世紀のフランスとイギリス、第一次世界大戦後のアメリカ、1980年代の日本で大きなバブルが発生したが、いずれも自国が世界で(経済、社会制度、文化などさまざまな面で)ナンバーワンではないかと国民が思っていた頃だ。2000年頃のインターネットバブルについても似たような状況があったし、今回のバブルも再び世界の先頭に立っていた米英で起きている。

こうして見ると「自信」がバブルの大前提である。1980年代後半を思い起こしてみると、当時、アメリカでは社会の矛盾が表面化して経済的競争力が低下し、ヨーロッパは硬直した社会のもとで沈滞し、産油国は原油安で勢いがなく、中南米は放漫財政とインフレで苦しみ、ソ連など共産圏は崩壊間際であった。これに対して好調な日本経済の世界における比重が高まり、円が将来の基軸通貨になる可能性が語られ、経済的な強さは文化・社会的な評価にもつながって日本的経営、政府の適度な関与、国民の勤勉さや教育水準の高さなどが賞賛され、21世紀は日本の世紀だとすら言われたものだ。

日本国民は自信に満ち、土地や株が上がった。ビルが林立し、給料が上がり、毎日景気のよいニュースを見ているから、ますます気が大きくなる。土地や株の所有者が計算上の資産を増やすことによる資産効果がよく言われるが、それだけでなく、社会全体の雰囲気が変わってしまう。

そうした中で「買うから上がる、上がるから買う」という展開になればバブルである。「使いたいから買う」というより「転売を期待して買う」のが特徴だ。互いに転売するほど儲かり、皆がますます高額な資産を買うようになる。資産価格が急激に上昇すれば割高感が生じるはずだが、未来が明るいと皆が感じていれば、むしろ今までが安すぎたように見える。家を持たない人も早く買わねば買えなくなると焦る。さらに景気上昇が伴い、ケインズのいう乗数効果によって豊かさが増幅する。

バブルは「合成の誤謬」といわれることがある。皆が個々人としては合理的に行動しているのに、社会全体では間違った行動になってしまうという意味である。だがバブルはいつは必ず破裂する。割高な時期に資産を買うという行動は、やはり不合理ではないか。

ただし、資産を最大化することでなく、満足度を最大化するように行動することを合理的というのなら、個々人は合理的に行動している可能性がある。限界効用遁減の法則というものがある。同じ1万円でも、貧しいときの1万円は豊かなときの1万円より価値があるということである。バブル期の個人の行動はこれで説明できる場合がある。

バブル期の資産価格は、通常、徐々に上がって一気に下がる。したがって、バブルの最中に株や土地を買うと、少し上がる可能性が高く、大きく下がる可能性が少しある。何も買わなければ常に損得なしだが、バブルが続いて周囲の皆が豊かになっていき、資産インフレも進むとすると、それは相対的に貧しくなることだ。つまり何も買わなければ、皆より少し貧しくなる場合が多いのである。

金銭的な期待値で考えれば、バブル期の割高な資産は買わないのが合理的だ。当面は貧しくなってもいつかは一気に挽回する可能性が高い。しかし、限界効用遁減を考慮すると、大きな金額の価値はそれほど大きくない。大きな確率で少し貧しくなるくらいなら、小さな確率で非常に貧しくなるほうを選びたいという可能性がある。極端な話だが、95%の確率で100万円支払うのと、1%の確率で2億円支払うのと、どちらがよいだろう。単純な期待値で考えれば100万円で済ませるべきだが、実際には1%が当たらないことに賭ける人が多いだろう。前者がバブル期に何も買わないことだとしたら、後者は皆と一緒に資産を買うことに相当する。

機関投資家だったらどうか。周囲の同僚が成績を上げているのを横目に1人慎重派を貫いたとして何になるだろう。数年後にバブルが崩壊するとき1人だけ成績が上がるかもしれないが、それまで何年も最低の成績に甘んじなければならない。それより、ずっと成功し続けて最後に1回だけ大きく失敗するほうが、気分も上司の覚えもよいかもしれない。

金銭的期待値ではなく満足度を尺度とすると、バブルの危険性に気付いていてさえ、危険を冒して買い上がるのが合理的である可能性がある。ましてもともと危険性に気付かない人が多いのだから、バブルは必然的に繰り返されることになる。

個々人が賢く行動しても避けられないとすると、バブルの構造は現行の資本主義経済の最大の弱点かもしれない。

金利は高くあるべきか

2008-08-21 09:49:57 | 経済制度
ここ20年ほど日本の金利は低い水準にある。これは異常なことなのかどうか。私が思うに、これからの金利は短期的な変動はあっても平均的には低くせざるを得ないだろうし、またそうあるべきである。

金利が高いのは資産の希少価値が高いことを意味する。昔はみな貧しく蓄えが希少だったから金利が高かったが、今日の日本は誰が何と言おうと裕福である。世界の大半も裕福になりつつある。資産はありふれたものになりつつある。そうした時代に資産で金利を稼ごうなどというのは、土台虫がよすぎるのだ。

時代と共に資産の価値は低下し、労働の価値が相対的に上昇する。言い換えると希少な労働力が潤沢な資産を使って生産活動を行うということだ。フローに比べてストックが重くなる。これが豊かになるということである。こうした時代に高金利は時代錯誤でしかない。

高金利は既得権を擁護することでもある。人々の努力や能力より、過去の地位や相続財産が重きをなす、固定化され閉塞した社会を志向してしまう。そうなってはならないし、実際そうはならないだろう。リスクも取らずに金利で生活しようなどという了見は早く捨て去らねばならない。

1人当たりGDPでシンガポールに抜かれる

2008-07-07 19:56:26 | 経済制度
シンガポールの1人当たりGDPが日本のそれを上回ったそうである。まだ差があると思っていたので、ちょっと驚いた。

なぜだろうか。国民が勤勉なのか。英語が得意だからか。都市国家で条件が違うからか。いろいろな原因が考えられるだろうが、私が思うに、主因はおそらく政治がよかったからである。

独裁的、強権的なイメージがつきまとうシンガポールの政治を評価する意見は、日本ではあまり多くない。私はマイナス面についてよく知らないが、しかしリー・クアンユー首相の時代から、シンガポールが先進的な政治を行う一面も持っていたのは確かである。

たとえば同国の自動車取得税は高く、大衆車でも価格の200%ほどの税金が取られるという。都心部に乗り入れても通行税を取られる。この話は、日本では「庶民を痛めつけるひどい政策」というニュアンスで紹介されたことが多かったように記憶しているが、環境税の考え方を取り入れた先進的な政策と見ることもできる。政府の「クリーン度」の評価は以前から日本より高いし、公的部門の電子化が進んでいるため効率がよく抜け道が少ない。統一的な年金・医療制度のおかげで、日本のような職業や働き方による無意味な不公平がないし、国民が複雑な制度に迷って能力を浪費することも少ない。過保護に慣れた国民が権利ばかり主張するといった場面も少ないようだ。

以上は私の印象にすぎないが、要するに合理的で清廉なイメージである。声の大きい者や権力を持つ者ではなく、努力する正直者が報われやすい制度になっているように見える。相続税、贈与税がないなど、個人的にはまったく賛成できない面もあるのだが、それでも日本が同国に学べるところは多いように思える。

会社は誰のものか - 経営者・地域・お客・従業員

2007-09-19 21:28:19 | 経済制度
先日、株主が会社の所有者であると考えたときに最も大きな問題となる「株主は会社を好き勝手にできるのか」という懸念は当たらないと書いたが、それでは他の所有者候補についてはどうだろう。

まず経営者だが、経営者が会社の所有権を主張できる根拠は見つからない。創業社長であっても株式公開して株を売ったらその分だけ会社の所有権を失うのは当たり前で、そうでなければ株を買った人は何を買ったのかわからない。株式公開会社というのは元々会社の所有権と引き換えに資金を貰った会社なのであるから、後になって経営陣が所有権を主張することはできない。

経営者が直接会社の所有権を主張することはあまりないと思うが、たとえば経営陣の人選や増資の方針など、会社の重大事項の最終決定権を何らかの形で主張しているのはしばしば見かける。ある資産に対する重大事項の最終意思決定権は、私有財産制を基盤とする資本主義社会では所有権者と同じ者に帰属するはずであるから、最終意思決定権の要求は所有権の要求と根本的には同じである。その意味でしばしば経営者が間接的に会社の所有権を主張していることになるが、そこに正当な根拠はないように思える。

社会、世間、地域などが会社の所有者だという意見もある。たしかに自分の物といえども社会的な制約の中でしか使えないのだから、所有権は社会に薄く広く散在していると考えてもよいだろう。ただこれは抽象的な話で、「会社を誰かが私物化してよいものではない」ということを強調するレトリックにすぎない。よい心掛けだとは思うが、会社の所有者は誰かという問いに正面から答えるものではない。

お客様が会社の所有者だという意見も聞く。だがこれも上と似た話で、お客様あっての会社だということを強調した警句と考えるべきものである。考えとしては面白いが、所有という言葉の常識的・法律的な意味において、会社が本当にお客様のものであるはずはない。もしそうであれば、製品価格、従業員の給料、配当方針などの重要事項をお客様に諮らずに決めたなら越権行為になるだろう。

従業員は、会社の所有者として株主以外では最も有力な候補だろう。従業員の会社への関与の度合いは、ある意味で(つまり1人あたりの会社への貢献度、依存度などにおいて)株主のそれを上回っているため、従業員を会社の主人と考えようとの試みが昔からなされてきた。たとえば長年勤務している従業員にある程度の株を与えることが考えられる。これは可能だが、結局ボーナスや給料を株式で払っているのと同じことになる。もしくは従業員に給料の一部で強制的に株を買わせていると見ることもできる。

従業員の勤続年数に応じて少しずつ所有権を与えるのではなく、現在従業員である人が自動的にそれぞれ会社の何分の1かを持つことにできないものだろうか。だがそんなことをしたら優良会社への入社は大変な利権となり、価値ある企業に入社できた人とできなかった人の間に大きな格差が生じるだろう。それを相殺するために「入社金」のようなものが発生するかもしれないが、それはたちの悪い賄賂にならなるのでなければ、株を買うのと同じことになるだろう。そのうえ優良会社の入社金は大変な金額になって普通の若者は入社できなくなるはずだ。

やはり従業員が会社を所有するという考え方にも無理がある。従業員が対価を払わずに会社を所有できるなら歪んだ利権が発生するし、対価を払う必要があるなら従業員が株主になったと考えたほうが簡単である。

昔の入会地などは村民が共有して皆がそこで働く場所だったから、働く人と所有者が一致する理想的な例に見えなくもない。だがその裏には非流動的な社会を前提とした不明朗な支配関係、不効率な資源配分など多くの問題があり、だからこそ近代になって所有権の明確化と労働との分離が進んできたのである。従業員による会社の所有は、下手をすると時計の針を戻して昔の硬直的な社会を再現することになりかねない。

従業員が同時に株主にもなることによって会社の主人になることはできる。そうすれば従業員は自分達自身の会社のために働けるようになって士気が上がるかもしれないし、無知な外部の株主に振り回される心配もなくなる。会社員の自営業化と言ってもよいだろう。これは悪くない考えで、実際いくつか実施例もあるようだ。ただこれにも問題はある。人気のない会社なら従業員が大半の株を買い取れるかもしれないが、優良会社の株は高価なので土台無理である(たとえばトヨタ自動車の従業員7万人で時価総額数十兆円の自社株を買い取るには1人あたり数億円が必要になる)。それに自社株を買うと、勤務先の会社が傾いたら給料と貯金を一度に失うというハイリスクな状態に置かれることになる。また転職するには自社株の売買が必要になるので現在の会社に縛られるようになり、個人の生活設計や会社の柔軟性に悪影響があるかもしれない。多くの従業員持株会が控え目な役割しか果たしていないことには相応の理由があるのである。

会社を所有するとは、その会社の重要な意思決定の最終的な権限を持ち、同時に会社に対して最終的な責任を持つということだ。経営者が会社の所有権を主張できる根拠は特になく、社会やお客様というのはレトリックにすぎない。従業員は有力な候補に見えるが、対価を払わずに手に入る従業員という地位に、価値ある会社の所有権と責任を付与するのは無理がある。

所有するとはどういうことなのか、考え出すと奥が深い問題ではある。だが常識的に考える限り、会社の所有者と呼ばれるにふさわしいのは、株主しかないように思える。

会社は誰のものか - 所有するということ

会社は誰のものか - 所有するということ

2007-09-12 21:17:45 | 経済制度
会社は誰のものかということが繰り返し話題になっている。株主、従業員、経営者、お客様、社会や世間様、それら全部など、さまざまな候補が上がっているようだ。私も何度か考えてみたのだが、やはり教科書どおり、会社は株主のものだと考えるのが妥当と思われる。

会社が株主のものだと言うと、株主の勝手な振る舞いを許すのかという反論が出るが、しかしそもそも何かを所有するというのは自分の好き勝手にしてよいということではない。缶ジュースを買ったからといってそれをどこにでも捨ててよいものではないし、自動車を持っているからといって他人の庭を走り回ってよいわけではない。「君は僕のもの」と言ったとしても相手を意のままにできるわけではないのと同じことで、もともと人は何かを十全に所有し、完全に操ることはできないのである。

株主の企業に対する所有権も同じことだ。所有しているからといって従業員をやみくもに解雇したり、理由なく企業の価値を毀損することは現代には許されない。所有している会社に対して何ができるかは、その時代の法律、社会通念、物理環境などによって大きく制限されているのである。

所有するというのは、その対象を誰よりも自由に左右でき、その対象に対して最も大きな権力を持っているということである。だがあらゆる対象は社会の中に存在しており、誰か1人とのみかかわっているわけではない。所有権が制限されるのはこのためだ。ある対象の所有権を持っていても、それを他人の害をなすような仕方で動かしてはならない場合があるのである。つまり自分の包丁でも街中で振り回してはならないということだ。

会社の所有権を考えるには、土地の所有権と対比するとわかりやすいかもしれない。土地には所有者があるが、所有者による土地の利用方法には制限がある。たとえば農地なら農業しかできないし、市街地なら容積率や建ぺい率の制限を受ける。斜線規制をはみ出す建物を建ててはならないし、住宅地に工場を作ってもならない。自分の土地の上だからといって夜通し騒ぐことも許されない。固定資産税も納めなければならない。土地の所有者には多くの制限が課されているのである。

会社も同じことだ。土地と違って今までは会社の所有者が誰であるかがあまり考えられてこなかったために混乱気味だが、株主が所有者であると言い切っても不都合はなさそうである。これに対して、他の従業員等の候補については不都合がないか、また改めて考えてみたい。

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