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政治・経済に関する雑記

なるべく独自の視点で、簡潔・公平に書きたいと思っています。

ブログのアクセス数は見掛け倒し

2016-03-12 00:51:12 | その他
数年前からこのブログを書いているので、記事は累計100本近くにもなった。「アクセス・ランキング」を見ると、毎日の閲覧数は(全ページ合計で)40ほど、訪問者数も30ほどだ。「ランキング」は240万ブログ中10万位前後を行ったり来たりしている。10万番でも上位4%なのだから立派なものだと、ちょっと悦に入っていたのだが、数日前にGoogle Analyticsを導入してみたら、それがまったくの勘違いだったと判明した。

Google Analyticsでは訪問者数は1日平均わずか1人程度となっている。Gooのアクセス・ランキングの30分の1しかなかったのである。

どちらが正しいかというと、残念ながらGoogle Analyticsのほうだろう。Gooのカウントにはクローラー(ロボット)による訪問が入っていて、これが全体の大半を占めていることは以前から知っていた。しかしこれほどまでとは思わなかった。

ここはGooのブログだし、GooがGoogle Analyticsをサポートしてくれたおかげでわかったことだから、こんなことを書くのはちょっと気が引けたが、まあ事実だから仕方ない。いくらなんでも差があり過ぎると思ったので書いてみた。もっとも、もっと人気のある更新頻度の高いブログなら30分の1ということはないかもしれない。

ものづくり礼賛と重農主義

2012-01-07 13:28:00 | その他
日本では相変わらず「ものづくり」が礼賛され、金融やサービス業が低く見られがちだが、困ったことである。この風潮は、農林水産業だけが本当の価値を生むもので商工業はそれに寄生しているにすぎないと考えた過去の「重農主義」と重なって見える。もっともその重農主義からすれば工業である「ものづくり」は本当の価値を生む仕事ではないのだが。

多くの識者がいまだに外国のヘッジファンドや格付機関をハゲタカなどと言って貶めているが、こうしたレベルからは早く卒業してほしい。国債や株のカラ売りが成功して値が下がったなら、その責任はカラ売りした者ではなく、ターゲットになった国や会社自身にあるというのが普通の回答だ。カラ売りした者が問題に早く気付かせてくれたおかげで被害が少なくて済んだので、その報償として利益が与えられたのである。現実はこのような綺麗事だけでは説明し切れないが、少なくともこうした教科書的正論を念頭に置いて議論してほしい。

たしか私にも製造業に比べて金融業が儲けすぎのように見えることはある。ただ本当にそう言えるかどうかはよくわからない。多大な努力で頑張るより、針路をちょっと変えることが大きな貢献になることも珍しくないからだ。エンジンが強力でもハンドルさばきが間違っていたら何もならない。

かつて豊臣秀吉は戦わずに調略で敵を下すことを得意としていたために、武断派の同僚からはたいした仕事をしていないと蔑まれたそうだが、最小の被害で成果を上げて何が悪いと自負していたという。先の大戦で最も必要だったのは、さらに優秀な兵器や兵士の精神力、または石油資源などではなく、そもそも国の方針を変えることだったはずだ。そのような例から類推すると、現代の金融業も、重労働でないからといって(もっとも重労働だという主張もあるが)、巨額の利益に見合う仕事をしていないとは断定できない。

金融は資本主義経済の中心であるとともに鬼っ子のようなところがあり、金融を市場経済の中にどう位置づけるべきか、どの国もまだ確かな回答を持っていない。ただいずれにしても、金融業やサービス業を工業や農業の下に見るような旧弊な思考を続けていると、また遠からず国の針路を誤ることになるだろう。

義捐金の相場

2011-04-16 01:29:28 | その他
今回の地震に関して業界団体と町内会から義捐金を求められ、どうすべきか迷ってしまった。気持ちのままに、といわれても難しい。千円か、一万円か。でもなぜ10万円にしないのか? 気持ちが足りないから? 本当は100万円だって払えるのでは? 募金にはいつもこの種のジレンマを感じてしまう。

後日インターネットで「義捐金の相場」について調べてみたら、ある人は自分の労働3日分といい、別の人は年収の1%と書いている。経団連が会員企業に求める社会貢献の目安も年間利益の1%というから、奇しくもこの3つはほぼ同じ水準だ。ちょっと高めだが手の届く水準、というところがポイントか。

最近は義捐金や募金が前向きに評価されるようになったと思う。そして「気持ち」だけでなく「金額」まで意識する人が増えたようだ。

これはよい傾向かもしれない。ただ、寄付を評価するなら、もっと税金も注目されてほしい。税金は社会への貢献という点で寄付と同種だが、規模は寄付よりずっと大きいのだから(おそらく100倍以上)。

想定外の津波

2011-04-09 22:58:00 | その他
千年に1度と言われる津波で大変なことになってしまったが、これは「想定外」の災害だったのか。今だから言えることだが、非常に稀有な事象というほどではなかったのかもしれない。この程度の災害は、日本のどこかで200~300年に1度くらいは起きるのではないか。数十年間、各地で原発を運転してきたのだから、10~30%くらいの確率で遭遇する災害だったのではないだろうか。

我々日本人は完璧主義だから、リスクや確率という考えが不得意だ。安全を求めるあまり、リスクがあってはならないと思い、リスクに目をつぶり、思考停止に陥る。今後は過度の「安全・安心」志向を捨てるべきだ。そしてリスクの確率を評価して費用対効果の高い回避策を練るほうがよい。そうしなければ結局、肝心の安全や人命を損なうことになる。

以下は余談。

原発に関して「隕石が落ちてくるかもしれないといったことまでは考慮できない」という専門家の意見を読んだことがある。だが大きな隕石が原発を直撃する可能性はゼロに近く、沿岸にある原発が津波に襲われる確率は、それとは比較にならないほど大きい。今までリスクをきちんと評価してきたのか、不安になる話ではある。

今回不幸にして津波に襲われた地域について、もっと高台に移住したほうがよいとの意見がある。もっと強い防波堤を求める声がある。だが本当に可能なのか。今回のような津波は日本の太平洋岸ならどこでもあり得る。そうした地域すべてから移住することなど不可能だし、巨大な堤防を連ねることもできない。専門家の話では、一番の津波対策はとにかく逃げることだ。地震と津波の間には大抵二十分ほどの時間があるから余裕はある(病院等は別にしても)。沖で津波の高さを検知すればさらによい(狼少年のような警報乱発には非常に悪影響がある)。素人考えだが、これが最も現実的な道ではないか。

なぜ計画停電なのか

2011-03-19 01:12:23 | その他
首都圏では計画停電のため、電車の運行が乱れ、信号機まで消える。多くの人が仕事に支障を来たし、電車が乱れて道路がますます渋滞し、ガソリン不足に拍車がかかる。このやり方を続けてよいのか、素人ながら疑問に感じてしまう。

被災地の状況に比べればたいしたことでないのだから我慢しようという殊勝な意見もある。だが、被災しなかった人がすべきことは、電車を待って行列したり停電した自宅で無為に過ごすことではなく、各自の仕事を通じて生産力を維持し、納税することであるはずだ。それが被災地の復興を早める王道だろう。

消費電力がピークになるという夕刻においても、まだまだ余計な電気が使われている。街灯やマンション廊下の電灯が煌々とついているが、こういうものは3分の1に減らしてもさして困らない。オフィスや店舗では蛍光灯を間引きしてもよいだろうし、看板の電灯も消せる。家庭やオフィスのエアコンは消費電力ピーク時に止めてもよいはずだ。

あるブログによると、電力の50%近くが家庭とオフィスで消費され、鉄道の消費量は2%に過ぎない。2%の一部を節電するために社会を混乱させガソリンを浪費させては本末転倒ではないか。計画停電の問題は、重要な電気も重要でない電気も一律に止めてしまうことだ。もっと政府が音頭を取って、何時頃に節電すべきなのか、どんな電気を消すべきか周知し、オフィス・店舗・家庭の節電努力を徹底して、代償の大きい計画停電を止めることはできないのだろうか。

3/28追記:

相変わらず計画停電(輪番停電)を続けているので、停電対象地域の事業所に大きな支障が出ている。このような人為的な不公平・不効率を何ヶ月も続けるのか。停電しない地域に勤めている人は想像力が足りないのではないか。

巷ではかなり節電が行われているが、まだまだ余地はある。街灯はもっと消せるし、エアコンの最高温度を法令で定めてもよい。ピーク時間はアイロンや電子レンジの使用を禁止することも考えられる。それから電気に税をかけて復興費用や補償に充てるべきだ。募金はたくさん集まったようだが、地道に身を削る努力がまだまだ足りない。

追記:

その後、計画停電は原則としてやらないことになった。

『これから正義の話をしよう』を読んで ~ 功利主義

2011-02-06 13:01:18 | その他
この本が話題になっているので読んでみた。英米の代表的な議論が具体的な例とともに公平に説明されていて面白く、啓発された。

ただし、著者の立場であるコミュニタリアンの主張には、私は共感できない。結局、功利主義の手の平の上で踊っているように感じてしまう。

著者は道徳や善、「物語」を重視するが、それらがなぜ好ましいのか、結局のところ理由は説明されない。「善いものは善いのだ」「道徳は根源的なものだから説明不可能」と言うこともできようが、それで済ませるのか。「伝統は大切だ」というのは同感だが、なぜそうした伝統や物語が尊重されているかを探求しないのか。善や道徳を「多数の幸福」から説明しようとした功利主義に比べて、目標が一歩後退している。

もちろん目標が高くても結論が間違っていれば意味がない。それでは功利主義の何が問題なのだろうか。

本書ではわかりやすく具体例で示されている。まず、功利主義が人の利益と犠牲を計りにかける行為の是非が検討される。「1人殺せば5人が助かるとき、あなたは1人を殺す決断ができるか」と問う。そうすべきと言い切れないのなら、功利主義はどこか間違っているのではないか。

だが私にはそうは思えない。この決断に抵抗を感じる理由はいくつか考えられる。第一に、我々は遠い人より近い人の利益を優先する傾向がある。この例では「1人」のほうが「5人」よりあなたに近い位置にいるという些細なことが重要だ。第二に、我々は遠い未来より近い未来を重視する傾向がある。この例は「近くの1人を殺すと、後で遠くの5人が助かる」ものだが、もしこれが「近くの5人を助けると、後で遠くの1人が死んでしまう」例だったら、判断もかなり違ったものになるだろう。第三に、我々はいやなことや怖いことに関わりあわず、綺麗ごとを言って生きていきたい性向がある。たとえ大勢を救うためであっても自ら殺人など犯したくないのだ。第四に、これが一番重要だと思うが、我々は常に計算・反省しながら行動するわけではなく、普通は規範・道徳・常識・信念といったものに従って無意識に行動しているのである。自らの手で殺人を犯すことに反射的に拒否感を持つのは普通だろう。

以上の理由はいずれも功利主義の説明と矛盾しない。最後の理由にしても、それらの規範や常識そのものが功利的観点で個人的または社会的に構成されている可能性がある(このように考える功利主義を「規則功利主義」ということを最近知った)。

本書では、功利主義では個人の権利はどうなるのかとも問われている。ローマで行われたように1人を犠牲にして見世物にし、大勢の観客を喜ばせる行為は(差し引きの幸福が大きいと考えて)正しいというのか。だが、そもそも我々はそういう見世物を見ても幸せにはなれない。ローマ人は違う意見だったのだろうが、現代の功利主義で考えれば、結局そうした見世物は長期的に見て人を幸せにするものではなく、ローマ人はその点では「間違っていた」のである(これは後世からの一方的な批判だが、もとより誰しも歴史によって裁かれる運命にある)。

1人の子供を地下室に閉じ込めれば村人全員が幸せになれるという本書の架空の例もこれに似ている。実際には、そのようなことをしたら村人も不幸せになるだけだ。だからこの仮定は、現代の我々の価値観においては、そもそも成り立たない話である。

1人のテロリストを拷問すれば多数の市民が助かるとしたらどうか。これは被害と「拷問」の程度によっては正当化される可能性がある。上の村人の例でも、多数の村人の命がかかっているなどの場合は、子供を地下室に閉じ込めるのもやむをえない(つまり正しい判断である)と考えられる可能性がある。犠牲によって救われるものが大きくなれば、どこかの時点で、犠牲を払う判断をせねばならない。誰しもそのような判断を下したくはないだろうが、それは我々が皆幾分かは自己中心的で、嫌なことにかかわりたくないからである。

(なお、アフガニスタンで米軍部隊が老人と少年に出遭い、敵に通報されることを恐れて殺害するか迷った末に放免し、その結果通報されて自部隊の何人もが死ぬことになった例も挙げられている。本書の著者は、他の例とは反対に「殺しておくべきだった」と後悔する部隊長に同情的なようだが、私には理解できない。通報の可能性があるというだけで民間人を殺害する正当性がどこにあるのだろう。)

実際、我々の社会では、5人の利益のために1人を犠牲にするようなことが日々行われている。たとえば本書が公平にも挙げているように、交通事故で多数の死者が出ていても自動車を使い続けている。インフラ整備は人口の多い都市部を優先して地方は後回しにされるし、高額な医療には保険がなかなか適用されない。程度問題だが、我々の社会はどこかで利益と犠牲の勘定をしており、皆がその恩恵をこうむっているのである。

著者の意見には「1人の命は地球より重い」というのと似たような独善性を感じる。我々は(特に日本人は)見たくない現実を直視しない性質があるが、本書の見解がそうした傾向を助長して、社会にマイナスの影響を与えないか少々気になるところだ。

多数のために誰か他人を犠牲にする代わりに、自分自身を犠牲にするケースを考えてみるとよい。普通これは賞賛される行為だろう。利益と犠牲を計りにかけることは社会にとって悪いことではなく、むしろ必要とされているのである。

(長くなったので続きは後日)

サマータイムと標準子午線

2008-06-11 17:09:49 | その他
福田首相がサマータイムの導入に言及したせいか、このところサマータイムの話が多いようだ。サマータイムは過去にも繰り返し検討されてきたが、サマータイムの導入を議論するなら、その前に日本の標準子午線について一考するべきではないだろうか。

日本の標準子午線は東経135度で、これは兵庫県の明石付近にあたる。日本の人口重心である岐阜県関市は明石より2度ほど、東京は4.76度ほど東に位置するため、太陽が南中する時刻はそれぞれ11:51分と11:41分くらいになる。つまり日本の多くの地域では太陽が午前中に南中してしまうのだが、このような国・地域は世界的には少数派である。

切りのよい(つまり経度0のロンドン時間から時差が1時間単位またはせいぜい30分単位になるような)経度のうち、国・地域の中心に最も近いものを標準子午線として選ぶなら、太陽が午前中に南中する地域と午後に南中する地域はほぼ同じくらいになるはずだが、実際にはそうなっていない。なぜなら、標準子午線を意図的に東寄りに定めている国・地域も多いからである。

たとえば大陸欧州では多くの国が東経15度を採用しているが、これはチェコあたりなので仏独伊などの主要国にとってはかなり東寄りである(夏の欧州の日没は非常に遅い時間になるが、これは緯度の高さとサマータイムだけでなく、この東寄りの標準子午線の効果も大きい)。中国の標準子午線は東経120度だが、これは上海あたりになり、人口分布から考えるとやはり東寄りである。ロシアには複数のタイムゾーンがあるが、どのゾーンも標準子午線は中心より15度ほど東寄りに設定されている。ほかにもメキシコ、アルゼンチン、チリ、パキスタン、モンゴル、アラスカ、アイスランドなど、標準子午線を本来より1時間ほど東寄りに定めている国・地域は少なくない。

標準子午線を東寄りに設定するとサマータイムと同じような効果があるので、日本にサマータイムを導入することを検討するのであれば、むしろ標準子午線を135度から142.5度か150度に変更することも一考すべきではないか。標準子午線を変更した場合は、毎年時計を早めたり遅らせたりする必要がなく、それに伴う混乱や時差ボケを回避できる。夏だけのサマータイムより省エネ効果も大きいかもしれない。

このようなサマータイムの導入や標準子午線の変更がプラスの効果を持つかどうかは、難しいところだと思う。同じ時間で生活すれば皆自然に早寝早起きすることになるので、早寝早起きが健康によいのであれば、プラスかもしれない。残業が増えたり、結局また夜更かしになったりして、意味がないかもしれない。ただ個人的には、関東地方に住んでいる身としては、太陽が現在よりもう少し遅く昇って遅く沈んでもいいのではないかと感じている。

シュレーディンガーの猫はパラドックスではない

2007-11-19 10:05:31 | その他
シュレーディンガーの猫という量子力学の有名な「パラドックス」があるが、本当はパラドックスではない単純な話である。素人でも正しく理解している人がいる反面、科学者・哲学者の見解にまで以前から混乱が多く、誤った解説のために市販書籍が出ていたりする不思議な問題だ。現時点のインターネット上の情報は大半がおかしいようなので、おこがましいようだが説明を書いてみたい。

この「パラドックス」は次のようなものである。量子力学によると電子などの小さな粒子をがどこ存在するかといったミクロな事実は確率的にしかわからない。ここである箱を用意し、その中にラジウムを入れ、アルファ粒子が放出されたら検出器が反応して毒ガスが出るようにしておく。この箱に猫を入れてふたを閉めた後、一定時間後に猫は生きているのか死んでいるのかというのが問題である。アルファが放出されたかどうかは、電子がどこにあるかと同様に確率的にしかわからない現象なので、ふたを開けない限り猫が生きているかどうかはわからない。つまり、人間がふたを開けて猫の状態を確かめないうちは、猫は確率的にのみ生きている半死半生のような状態であり、人間の観測によって初めて猫の生死が確定するということになる。そんなことがあるだろうか、というものである。

見てないんだからわからないのは当たり前じゃないか」と思う人もあるだろう。たとえば、丁か半かの賭け事をしているときも、籠を空けない限りサイの目はわからず、偶数か奇数かは50%ずつの確率としか言えないわけで、上の例とよく似ているように思える。だがそうではない。量子力学でいう「確率」という言葉の意味は、このような普通の確率とは根本的に異なる。電子がどこにあるかわからないというのは、単に見ていないから知らないということではなく、「存在位置が確率的に散らばっている」とでも表現するしかないような状態のことなのである。

ここでこの確率的存在について詳しく説明する余裕も能力もないのだが、たとえばこんな実験がある。2つの穴を開けた板を立て、その向こうに感光版を立てて、1粒の電子をこちら側から板および感光版に向かって放出したとき、電子が感光版のどこに到着するかを調べる。2つの穴の裏側に到着しそうなものだが、実際に電子の到着しやすい場所は、波が2つの穴を通って干渉を起こしたときのように、複雑な形状になる。1粒の電子が波のように広がって2つの穴を通り抜けたとでも考えるしかない現象なのだが、しかし電子が波のように広がっている現場を押さえることは決してできない。電子がどこにいるか確かめようとして観測すると、必ずどこか一点に普通に見出される。この事態を「観測によって存在確率が一点に収束する」と表現することもある。

このような電子の振る舞いはなんとも名状しがたいもので、どう考えるべきかは物理学でも哲学でも答えがまとまっていない問題である。そこで猫の問題に戻るが、アルファ粒子が放出されたかどうかが「確率的」で未確定なのだから、同様に猫の生死も本質的に未確定なのではないかということになる。

さまざまな解釈があり、たとえば「人間が箱を開けて観測した瞬間に猫の生死が決まる」という考え方がある(コペンハーゲン派の解釈)。このことから「精神が物質に及ぼす影響」や「人間の優位性」、「人間原理」を導く哲学者もいる。「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の両方が並行して存在するという考え方もある(多世界解釈)。そもそも量子力学は間違っているのだ、という人もいる。

どれも意外で面白いが、みな誤解である。正しくは「アルファ粒子が放出されるかは確率的で未確定な事象だが、そのアルファ粒子が毒ガスの測定器と相互作用した瞬間に、存在確立の収束が起こり、確率的・未確定な状態は失われる」と考えるべきなのである。量子力学でいう「観測」とは、人間の精神が受容することではなく、単に物質同士の相互作用のことである。人間とはまったく関係がない。

それでも「ふたを開けて見てみなければ猫が生きているかどうかはやっぱりわからないじゃないか」と言う人がいる。だがこれは、自分はまだ見ていないから知らないというだけのことなので、すでに猫の生死は箱の中で確定していると考えるのが当然である。上述の丁か半かの賭け事でサイの目がわからないのと同種の事柄だ。

そうは言っても、見てもいないのに猫の生死がすでに箱の中で確定しているとどうして言えるのか」と食い下がる人もいる。それはそのとおりで「本当のこと」は誰にもわからない。だがそれは、「籠の中を見なくてもサイの目がすでに決まっていると、どうして断言できるのか。誰も見ていないのだから、たとえばサイが一瞬消えていたとしてもわからないじゃないか」と主張することと同じで、そこまで疑い出したら切りがない。「自分の背後の世界は常に消えているのかもしれない」とか「現実と思っている人生はただ夢を見ているだけなのかもしれない」とか、いくらでも考え出せる。「我思うゆえに我あり」が問題になるような世界では意味がある問いかもしれないが、量子力学が扱っているのはそのような根源的問題ではない。

結局、猫の生死がわからないのは単に「見ていないから知らない」だけのことで、丁か半かのサイの目が籠を開けないとわからないのと同じことである。ただ量子力学が(問題の本質と関係ない形で)かかわっているので混乱を招いているだけなのだ。この誤解がいつまでも残っているのは不思議なことだが、人には未知の存在や謎を求める心があるからかもしれない。

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日本人英語を話そう

2007-11-13 20:22:18 | その他
英語の重要性が言われて久しい。外国の言葉に親しむのはよいことだが、何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ。誰もが流暢な発音でしゃべろうとしたり、英語の気の利いた言い回しを覚えようとしたりして膨大な時間を使うのは、弊害が大きいのではないだろうか。

日本人に必要なのは「ネイティブの英語」ではなく「国際語としての英語」である。私が思うには、国際語としての英語では難しい言葉を使う必要はないし、むしろ使ってはならない。流暢に速く話すのも、他の非ネイティブの理解の妨げになるから好ましくない。英語ネイティブであっても、国際語としての英語を話すときは、わかりやすくはっきりしゃべらねばならない。

現実には上のように言い放って済ませるのは難しいだろうが、非欧米圏諸国が経済的に発展した結果、さまざまな訛りの「変な英語」が使われるようになってきて状況は好転しつつあるようにも思える。現在のこうした英語は結局、非ネイティブ同士でもわかりにくい場合が多いのではあるが、こうした状況の中から、国際標準語としての平易な英語が形成されていくかもしれない。

だが現在の日本の英語教育は、英語ネイティブに擦り寄ることばかり考えているように見える。英語から非常に遠い母国語を持つ我々としては、自分で自分の首を絞めているようなものだ。それよりも、誰にでも発音しやすく聞きやすい国際語を目指せないものだろうか。