シュレーディンガーの猫という量子力学の有名な「パラドックス」があるが、本当はパラドックスではない単純な話である。素人でも正しく理解している人がいる反面、科学者・哲学者の見解にまで以前から混乱が多く、誤った解説のために市販書籍が出ていたりする不思議な問題だ。現時点のインターネット上の情報は大半がおかしいようなので、おこがましいようだが説明を書いてみたい。
この「パラドックス」は次のようなものである。量子力学によると電子などの小さな粒子をがどこ存在するかといったミクロな事実は確率的にしかわからない。ここである箱を用意し、その中にラジウムを入れ、アルファ粒子が放出されたら検出器が反応して毒ガスが出るようにしておく。この箱に猫を入れてふたを閉めた後、一定時間後に猫は生きているのか死んでいるのかというのが問題である。アルファが放出されたかどうかは、電子がどこにあるかと同様に確率的にしかわからない現象なので、ふたを開けない限り猫が生きているかどうかはわからない。つまり、
人間がふたを開けて猫の状態を確かめないうちは、猫は確率的にのみ生きている半死半生のような状態であり、人間の観測によって初めて猫の生死が確定するということになる。そんなことがあるだろうか、というものである。
「
見てないんだからわからないのは当たり前じゃないか」と思う人もあるだろう。たとえば、丁か半かの賭け事をしているときも、籠を空けない限りサイの目はわからず、偶数か奇数かは50%ずつの確率としか言えないわけで、上の例とよく似ているように思える。だがそうではない。量子力学でいう「確率」という言葉の意味は、このような普通の確率とは根本的に異なる。電子がどこにあるかわからないというのは、
単に見ていないから知らないということではなく、「存在位置が確率的に散らばっている」とでも表現するしかないような状態のことなのである。
ここでこの確率的存在について詳しく説明する余裕も能力もないのだが、たとえばこんな実験がある。2つの穴を開けた板を立て、その向こうに感光版を立てて、1粒の電子をこちら側から板および感光版に向かって放出したとき、電子が感光版のどこに到着するかを調べる。2つの穴の裏側に到着しそうなものだが、実際に電子の到着しやすい場所は、波が2つの穴を通って干渉を起こしたときのように、複雑な形状になる。
1粒の電子が波のように広がって2つの穴を通り抜けたとでも考えるしかない現象なのだが、しかし電子が波のように広がっている現場を押さえることは決してできない。電子がどこにいるか確かめようとして観測すると、必ずどこか一点に普通に見出される。この事態を「
観測によって存在確率が一点に収束する」と表現することもある。
このような電子の振る舞いはなんとも名状しがたいもので、どう考えるべきかは物理学でも哲学でも答えがまとまっていない問題である。そこで猫の問題に戻るが、アルファ粒子が放出されたかどうかが「確率的」で未確定なのだから、
同様に猫の生死も本質的に未確定なのではないかということになる。
さまざまな解釈があり、たとえば「人間が箱を開けて観測した瞬間に猫の生死が決まる」という考え方がある(コペンハーゲン派の解釈)。このことから「精神が物質に及ぼす影響」や「人間の優位性」、「人間原理」を導く哲学者もいる。「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の両方が並行して存在するという考え方もある(多世界解釈)。そもそも量子力学は間違っているのだ、という人もいる。
どれも意外で面白いが、みな誤解である。正しくは「
アルファ粒子が放出されるかは確率的で未確定な事象だが、そのアルファ粒子が毒ガスの測定器と相互作用した瞬間に、存在確立の収束が起こり、確率的・未確定な状態は失われる」と考えるべきなのである。
量子力学でいう「観測」とは、人間の精神が受容することではなく、単に物質同士の相互作用のことである。人間とはまったく関係がない。
それでも「
ふたを開けて見てみなければ猫が生きているかどうかはやっぱりわからないじゃないか」と言う人がいる。だがこれは、自分はまだ見ていないから知らないというだけのことなので、すでに猫の生死は箱の中で確定していると考えるのが当然である。上述の丁か半かの賭け事でサイの目がわからないのと同種の事柄だ。
「
そうは言っても、見てもいないのに猫の生死がすでに箱の中で確定しているとどうして言えるのか」と食い下がる人もいる。それはそのとおりで「本当のこと」は誰にもわからない。だがそれは、「籠の中を見なくてもサイの目がすでに決まっていると、どうして断言できるのか。誰も見ていないのだから、たとえばサイが一瞬消えていたとしてもわからないじゃないか」と主張することと同じで、そこまで疑い出したら切りがない。「自分の背後の世界は常に消えているのかもしれない」とか「現実と思っている人生はただ夢を見ているだけなのかもしれない」とか、いくらでも考え出せる。「我思うゆえに我あり」が問題になるような世界では意味がある問いかもしれないが、量子力学が扱っているのはそのような根源的問題ではない。
結局、
猫の生死がわからないのは単に「見ていないから知らない」だけのことで、丁か半かのサイの目が籠を開けないとわからないのと同じことである。ただ量子力学が(問題の本質と関係ない形で)かかわっているので混乱を招いているだけなのだ。この誤解がいつまでも残っているのは不思議なことだが、人には未知の存在や謎を求める心があるからかもしれない。