筑後川の日本人。

明日の日本が、より良い国家になる為に。

尊敬する。佐藤宮司さんの文化防衛論のブログより。拝借。

2019-02-02 13:35:26 | 初心者のブログ作成
「國家の改造」NO7
<日本國の再生・蘇りの方向性>
(文化伝統を守る)
宮司は、今、「日本の文化伝統」の事を話そうとして
ふと・・ためらっています。
全てを語ろうとすると400字原稿用紙で
10枚にもなることに気が付きました。
このような日本の文化伝統は底が深すぎます。
そこで、宮司はその中の3つだけ大事だなあ・・と
いつも考えていることだけを、ここに簡記します。
もしも時間のない人は「読まないでください!」
現在は「忙しい時代」です。
みなさんが、あわただしく「スピード」を競っています。
まわりの景色や花や鳥を見つめる余裕などないのです。
だから・・・忙しい人は絶対に読まないでください。
最高に日本人が大切にしなければいけないのは
「さいし」です。
「さいし」は「妻子」も大切ですが・・・・・
そうではなく
「祭祀(さいし)」のことです。
祭祀は、天皇陛下も神職も、
どんなことより大切なことです。
天皇陛下は、祭祀を最も大切になさいます。
国民の平和と幸せを毎日神々に祈られるのです。
国事行為よりもはるかに大切です。
「祭祀」は、不用意に変更しないことです。
日にちは古来の伝統通りにすべきです。
日時は変更などしたら意味不明になります。
土日が都合がいいから変えていいものではないのです。
祭祀は、神々との契約なのです。
国民の都合だけで変更などしないことです。
天皇陛下の譲位の儀式も昔の儘にすべきです。
先例を作りすぎると國が乱れます。
一度特例を作ると取り返しがつきません。
1、彌榮 (いやさか)
日本人なら「乾杯」と言わないで貰いたい。
宮司はお願いしたい。
乾杯は韓国や中国人が飲むときに「カンペイ」とも「かんぱい」と叫びますが・・どうも日本的ではないです。
「イヤサカ」は、縄文時代から使われていました。
「彌榮(いやさか)」と言って欲しい!
古来、われわれの先祖が言ってきた
「言霊(ことだま)」だからです。
言霊には力があります。
日本再生・蘇りのためにも
宮司は、宴会の時に「乾杯」と言うのは好きではない。
「乾杯」という字が嫌いなのである
「杯を飲み干す」事だからである。
杯を空っぽにするのは日本的ではない
日本人は、自分がお酒を飲んだら相手にもそそぎ合い
仲の良い人々は、盃を交わし合うのである。
日本には古来お酒を飲む時は
全国どこでも「彌榮(いやさか)」と
発声して飲んできたからなのです。
それが日本の伝統だからです。
現代でも神社の祝宴は「弥榮(いやさか)」で始まります。
その「彌榮」とはどんな意味が含まれているのか?
すなわち簡単に一言で言うと「共に栄えましょうよ」
「皆さんご一緒に・・いや!栄えましょう」
何と・・日本的でしょうか?
自分だけ飲み干せばいいのではなく
あなたこなたの皆様のご成功と発展を願う
「彌榮(いやさか)」が度量が広いのです。
どうか
全国の皆さん、日本人なら
「彌榮(いやさか)」と唱和してほしいものです。
2、おむすび
「むすび」は日本の文化です。
「おむすび」と「おにぎり」の違い!
「おむすび」と「おにぎり」は、同じだと思っている人は多いと思います。
中には、そんなことはどうでもいいという人もいます。
食べれたらいいじゃないか、呼び方は何でもいいという人もいます。
だが、宮司は、
日本全国の人々が「おむすび」とこれからは、言って欲しいのです。
「おむすび」の方が「鬼斬り(おにぎり)」よりも、
やさしく感じがするからなのです。
皆さんは、おかあさんの「おむすび」と
コンビニの形にはめて作る「おにぎり」と
どちらが好きですか?
「おむすび」で育つと「心の優しい子」になります。
お金だけ渡されてコンビニで買って食べる、「おにぎり」では
心が違います、ぬくもりが違います。
造化三神(ぞうかさんしん)
高天原に日本で始めて現れた神は
産霊(むすび)の神です
◎ 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
◎ 高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)
◎ 神皇産霊神 (かみむすびのかみ)
「むすび」は日本の文化です。・・
断じて「おにぎり」ではないのです。
「おむすび」は中をやわらかく
外を固く結ぶのが最高の「おむすび」です。
(造化三神)を包み込むのです。
聖徳太子は「和を以って貴し」とする
これは和魂(にぎみたま)の考えで日本人のむすびの原点です。
和を結ぶことは「調和」なのです。
大和民族のこの「和」の精神こそ・・・
「随神の道」です世界を調和する力です「おむすび」の力が
世界を調和させるのです。
親が子を子が親を殺し、人が人を憎むのも「結び」・・
「おむすび」の心を忘れていることが大きな原因だと思います。
家族の和と「団結」というか「結束」が
緩くなっているのではないでしょうか?
お母さんが、わが子のために愛情をこめて、
丁寧に結ぶのが本当の「おむすび」です。
あたたかいごはんを、ふうふうしながら、
おかあさんの手のぬくもりを残して結ぶと・・
3時間や4時間すぎても、益々おいしく中は柔らかい。
でも、「おにぎり」は、作業的に型にはめて押し握ったもので、 
ましてコンビニのおにぎりには愛もやさしさもない。
時間が過ぎると味は無くなりぼろぼろにこぼれる・・・
やはり「おにぎり」「鬼切り」です・・・切れやすくなります。
明日からは、コンビにおにぎりから、
母のこころのこもった「おむすび」に日本全国しましょう。
関東や関西で呼び方が違うだけではないのです・・・
日本全国「おむすび」が正しいのですよ!
≪おむすびとおにぎり」言葉の分布≫
地方によって呼び名が違い、東日本のほうに「おむすび」、
西日本のほうに「おにぎり」が多いと言われています。 
しかし地域的な違いではなく、「おにぎり」は、
「にぎり飯」を丁寧にした言葉です。
古くは屯食(とんじき)と呼ばれ、平安時代に旅行中の
食事等に用いられれいたものが、
今日の「おにぎり」となったといわれています。
「おむすび」は女房言葉。
むすびかためることから
この言葉が生まれたといわれています。
水をすくう手のひらの形を「むすぶ」といわれることから
生まれたという説もあるようです。
宮司としては、やはり、産神(むすび)からお米に感謝を持っています。
おにぎりは冷たく感じます・・コンビニの片隅ですねている感じです。
現在・・・コンビニでもどこでも「ニギリ」を売っています。
「おむすび」という言葉には、あたたかさと感謝が溢れています。
日本の古来からの文化伝統の味がします。
とても深い意味がある.
3、「わびとさび」を知らないのに横文字で喋るんじゃない。
「わびとさび」なのです。

宮司は、よく「わびとさびの違いは
どこにあるのでしょうね?」と
世界遺産吉水神社に訪問される
「外国人を案内して来られる日本人のガイドさん」に対して
意地悪な質問をして・・・知らなければ・・・ニヤリと笑います。
何故ならば
日本人でありながら
いやしくも偉そうに・・知った風に
「外人」を引き連れて来ていながら
「わびさび」も知らないで
何を、何処を案内するのか?と
宮司は言いたいのです。
本当のプロの外国人を案内できるガイドなら
他の歴史などはさておき、
「わびさび」だけは勉強しているからである。
宮司は思うのです
真の国際人は
「わびとさび」を知らずに
世界を語るべきではないと
それでは「わびとさび」とは何でしょうか?
「わびとさびってなんですか?」と
問われて即答できる人は少ない。
まあ・・一言で言えば 
「わさびのようなものです」と
ぴりっと辛いもので
つんと頭にくるのが
「わびさび」ですと
答えるようでは
「真の日本人」ではない。

日本独特の美意識「わびとさび」
現代では「わびとさび」をまとめて語りますが
本来的には「わび」と「さび」は
それぞれ意味が違います。

英語が語れても、世界の建築が語れても
「真の日本人」ではない。
「わびとさび」は日本の真骨頂です。
なかなか、外人には真似のできない
「日本の誇り」なのです。
さて
では、そもそも「侘び」と「寂び」はどう違うのでしょうか?
その根底にある者は日本人の美意識なのです。
高度の精神性のレベルの神髄なのです。
「真髄や心髄」を超越した「神髄」なのです。
宮司は、「わびとさび」を説明する時
「淡と枯」を使います。
わび「質素ゆえの趣」とさび「古さゆえの静」
「わび」は、一般的な「侘しい」という概念ではなく
「わび」は「質素」に近い意味に感じます。
「わび」は質素ゆえにかえって趣のあることなのです。
「わび住い」と言うなら・・貧しい住まいと言うよりも
贅沢やきらびやかさや派手さをおさえた
質素で慎(つつ)ましやかな住まいの事なのです。
もともとは貧しい状態、
物が不足することから起こる寂しさを表す言葉だった。
これが中世以降、禅宗などの影響もあって、
肯定的にとらえられるように。
やがて華美を排した閑寂なさまを
積極的に楽しむ境地として使われるようになる。
とりわけ茶の湯の世界は、この美的感覚を重視。
簡素な茶室や茶わん、掛け軸が好まれるようになった。

「さび」は、一般的には「寂しい」という概念ではなく
「さび」は「清楚」に近い意味に感じます。
「神さびた」所とは、神域のような荘厳さの中に
心が鎮まり癒される所を言うのです。
「寂」は、時の経過によって古びたために生じる枯れた渋みのこと。
転じて、人気(ひとけ)のない静謐(せいひつ)な状態をいうようにも。
さびの象徴例としてよく挙げられるのが、コケむした石だ。
風雨にさらされ年月を経た石は、
緑のコケをまとうようになる。

そのように考えると
日本人の素晴らしさは
「わびとさび」に有るのだと言っても
過言ではないのです。
昔の日本人は、これを石の内部からにじみ出てくるものと見立て、
そこに
さびの本質があるとしたのである。
さびは松尾芭蕉以降の俳句の世界で中心的な理念となっていく。
「わびとさび」を理解する
「日本民族の精神文化」は
「世界で並外れた高さ」を持っていると
言っても過言ではないのです。
だから
世界の事は、何でも知っているが
本家本元の「日本の文化伝統」を知らなければ
「真の国際人」ではないのです。
そのような日本人に生まれたことを
われわれは日々感謝したい。

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