筑後川の日本人。

明日の日本が、より良い国家になる為に。

靖国の師走号がきましたから、記事をそのまま写し書きましたので。

2013-12-09 14:16:04 | 初心者のブログ作成
今月八日は、日米の戦端が開かれた真珠湾攻撃の日である。
数年前ある新聞のコラム欄では、真珠湾(ハワイのパールハーバー)を
三重県の湾。B29を非常に柔らかい鉛筆と勘違いしたり、挙句の果てには
英霊を、(イギリス軍の幽霊と間違えるご時世)と悲観していた。
若者に、(日本とアメリカが本当に戦争を、したのか)と問われて呆れたと
云う話は枚挙に 暇がないが、同様の事象である。&しかしここにきて
そうした状態に、変化を、もたらして、いるものは、益々緊張が深まる最近の
国際情勢であろう。
<かっての日本の戦争とは何か>
を、問う為に靖国神社を、訪れ遊就館を、拝観する若者が著しく増加していることに、ついては、本誌10月号でも述べた。&こうした流れにあいまって昨今はいわゆる<東京裁判史観>や歪められた近現代史について
新たな視点で見直す試みが相次いでいる。書店には関連の書籍が処狭しと並べられて居るのはその証左であり、誠に心強い。これを機に勝者の論理で固められ極めて歪曲した戦後の歴史観が払拭されると共に史実が
進撃に受け入れられる環境を整えていきたいものである。&来る年は
日本再生の実の上がることを、切に願いつつ御遺族。崇敬者各位のよき
ご越年祈念する次第である。


うえの記事は、完全に靖国神社の新聞の記事ですが、
間違いの無いように書きました。

私は、遺族でも軍属の親戚があるわけでも無しですが。

ある先生との出会いから人生が大きく変化して30歳を、前にしてから

民族運動に、人生の総てを投じて参りまして、気が付けば60歳を超えて

しまいました。その人生の半ばにて靖国神社には、九州から何度も若き人

達と行き来して随分と参拝も行きました。

そして皇居にも行きました。

民族運動に入る前までの人生の、如何に教育のあり方が、刹那で愚かな

人生を過してきたかが身にしみて理解できまして、誰かがやらなければ

過去の戦争で日本を離れて外国の空の下で、沢山の命を懸けてお国の

為又は、家族の為だと信じて戦争の犠牲に成った人々の魂が救われぬと

当時狂人の如く全国を飛び回り民族運動に明け暮れてきました。

そして最近は、行動はあまり起せませんが、近隣の国際情勢を、見ると

益々の緊張感が我が国の国内の政治の様相をみても、安穏として惰眠の

時間を過す事の出来ない状況下に在ると。認識しています。

本日は、靖国の英霊の御霊に少しでも、貢献したく此処に記事を載せました。過去の時代の無念の命を捧げて頂いたこそ、我われの今の時代が
あることを、心して生きる事を、自分に言い聞かせて生きる為にも。
.

韓国の所謂英雄扱いを、してるその根拠に、我われ日本人は、如何にあるべきかを考察すべし

2013-12-02 13:05:29 | 生き様死に様。
『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成25年(2013)12月2日(月曜日)
         通巻第775号   (前日発行)
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「安重根と三島の精神の差異 韓国はなぜ駄目なのか」
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           室谷克実氏(評論家・元時事通信社ソウル支局長)
           三島由紀夫研究会第250回公開講座(平成25年10月22日)


▼李王朝600年から離陸できない国

私は三島由紀夫といえば、高校時代に「文化防衛論」を読んだが、その内容を理解することはできなかった。また、小説『潮騒』の感想文を書かされたぐらいの思い出しかない。 
現在、安重根は韓国で愛国者の代表例になっており、三島も日本では愛国者の扱いを受けているが、両者は全く違う存在である。日本の新右翼には安を尊敬する向きもあるが、韓国で三島は全く相手にされていない。安は1879年、両班(ヤンバン)の家に生まれた。両班とは収奪型貴族と評してよいだろう。1894年、日本は韓国に対する事実上の内政干渉として、身分制度である両班を廃止させた。これによって安の家も特権を失った。では、安はどのような考えにより、どう行動したのか。当時の韓国を知ることがそのキーポイントになるのではないかと思う。

李王朝は徳川幕府の倍に当たる600年続いた。私は今日の韓国の精神的問題点はすべて李王朝から発していると思っている。現在、アラブ諸国で聖職者が絶対的地位にあるように、李王朝は儒教を絶対視する支配構造であった。すでに高麗の時代から身分階層があり、貴族である両班しか漢字の読み書きができなかった。そして、李王朝になって儒教の国教化が進むが、漢字を読めたのは男性貴族だけであり、彼らが自動的に支配者になっていく。当時の李王朝では科挙に合格しなければ官職に就けなかったが、官職の数は非常に少なかった。

現在、韓国の大学進学率は7割台であるが、就職口は限られており、大学卒業者の半分は就職浪人になっている。めでたく大財閥に入れるのは全産業人口の2パーセントにすぎず、いくら仕事が出来ても45歳までに役員になれなければ肩たたきにあってしまう。しかも、この肩たたきはそれより前から始まっている。大学を卒業して、ようやく入社してから3年ほどすると、日本の課長補佐と係長の中間に相当する「代理」という役職が与えられる。その発令対象は半数程度であり、この地位に就けなければ皆辞めてしまう。これは韓国人が自尊心の強い国民だからであり、李王朝時代からの延長と見なすことができる。李王朝時代は科挙に合格してもポストがなかったため、派閥を作ってポストを得ようとする運動が展開された。そして、警察権・裁判権を有する地方の郡長になると、その職権を濫用するのが当たり前だった。この李王朝時代の支配文化がそのまま今日の韓国に流れ込んでいる。

▼日本にきて河に橋が架かっていることに驚いた両班使節

李王朝時代は両班、中人、常民、、白丁という順に厳しい身分支配構造が形成されていたが、その中で経済や物づくりの技術はほとんど発達することはなかった。室町幕府四代将軍・足利義持の頃、朝鮮通信使が初来日している。
その首席代表が帰国後、国王に報告した内容が李王朝実録に掲載されている。すなわち、日本では貨幣経済が発達し、貨幣があれば旅ができる。街道、旅館に加え、川には橋があり、橋を渡る通行税を徴収することで橋の修繕に使われていたことが記されている。

また、日本には屋根のある商店があり、棚に品物が置いてあることや、公衆浴場があることで人々が清潔を保っていることも述べている。その上で、韓国も貨幣経済を導入すべきであることや、屋根や棚のある商店街を作るべきことを提言している。これは当時の朝鮮では土の上に魚を置いて売っていたためである。また、この首席代表が最も驚いたのが揚水水車であり、随行した学生にその設計を学ぶように指示している。そして、朝鮮帰国後は世宗国王に水車の模型を見せて、村々に水車を作るべきことを提言している。

しかし、この水車を作るために必要な木材をまっすぐに切れるような鋸が朝鮮にはなく、水車を作ることはできなかった。また、もう一つの重要な理由として、当時の科挙合格者は幼少期から漢字の勉強ばかりしており、働くという経験がなかった。このため、汗をかく労働は下人の仕事であると見なされ、物づくりをする下人も自らの仕事に誇りを持っていなかった。

江戸時代、12回の朝鮮通信使が来日しており、1748年来日の第10回朝鮮通信使の書記官が日記を残している。そこには淀川の水車が大変素晴らしく、これを朝鮮でも作れないかということが書いてある。つまり、1400年代に国王が命じた水車作りが1700年代の朝鮮でも実現されていなかったのである。しかも、1400年代に国王が水車作りを命じたという記録が1700年代の朝鮮通信使に伝わっていないという没情報化時代にあったわけです。

一方、日本は徳川幕府の下で300年に及ぶ鎖国政策をとっていたが、それは穴だらけの鎖国だった。長崎には出島があり、対馬藩は朝鮮に租界地を有し、琉球は中国と交易があった。日本はこの頃から情報化社会だった。その背景には世界で屈指の識字率の高さがあった。だからこそ、オランダから貴重な情報が入ると、それは文字情報として全国に伝わった。これに比べると、いかに韓国が没情報化の国であったか分かるだろう。当時の朝鮮人にとって、世界とは朝鮮・中国・日本の三国のみであった。

皆さんの中にはハングルは世界全ての発音を正確に表記できるという話を聞いたことのある人がいるかもしれないが、これは誤りである。しかし、韓国の言語学者たちは、ハングルが世界で最も進んだ文字であると主張している。これは朝鮮にとっての世界が中国と日本という範囲に限られていたためである。当時、朝鮮の上流階級は漢文を使い、公文書も漢文であった。そこで、漢文の分からない下級役人たちは漢字の音を借りて朝鮮語を表す方式をとっていたが、朝鮮語の発音を正確に表すことはできなかった。こうした環境の中で、世宗王は下層階級のためにハングルを作り宣布した。下級役人にとって、ハングルは朝鮮語の発音をすべて表せるものであり、やがて世界全ての発音を表記できるという妄想につながっていくのである。


▼捏造が大得意

なお、李王朝時代の下層民であるは両班の一家が食べ残したものを雑穀にのせて、唐辛子味噌を混ぜて食べていた。それが現在のビビンバである。また、最近、「韓国のちゃんこ鍋」として宣言されているものにブテチゲがある。ブテは部隊、チゲは鍋物の意味である。これは朝鮮戦争当時の米軍の残飯に唐辛子味噌を入れて煮立てたものが起源である。それが今や「韓国のちゃんこ鍋」と持て囃されているのである。このように韓国の人々は捏造や言いくるめの上手な人々なのである。

不思議なことに李王朝は600年間、発展なしに続いた国であった。当時、庶民は麻や綿、カラムシなどで作った白い服を着ていたが、これは顔料を作る技術がなかったためである。インターネットで検索すると、李王朝末期の画像が出てくるが、まさに未開の人々の生活であった。戦後、日教組の教師たちは朝鮮半島から稲作が伝えられたと教えてきたが、稲のDNA分析の結果、半島由来でないことが確認されている。高麗王朝時代には医療も日本のほうが進んでいることが知られていたが、そうした事実が李王朝の貴族や庶民に広まることはなかった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵以降、朝鮮通信使たちは日本から帰国しても事実を報告しなくなっていく。その理由は日本が優れているとの報告をすれば、地位を失う恐れがあったためである。それが今でも韓国の対日観に続いているのである。

▼特権収奪階級が「平和」を語るな

安が若いころ、朝鮮半島南部では東学党の乱が起きている。東学党の乱とは、両班支配に対する農民との反乱です。安の家は現在の北朝鮮にあり、激しい乱はなかったはずなのに、安は東学党の追及を避けてカトリック教会に逃げ込んでいる。両班が誰しも逃げ込んだわけではありません。おそらく安は農民から狙われるほどの理由があったのだと見るのが自然な解釈でしょう。のちに安はカトリック教徒になるが、朝鮮では宗教の根底に儒教があるため、日本人の考えるカトリックとは相当に異なっていたはずである。その後、安はウラジオストクへ行くが、当時の安が反日活動に従事していたとの記録はない。のちの裁判で安自身は大韓義軍中将を自称しているが、そのような組織があったのかも明らかではない。

彼は伊藤博文暗殺によって捕まったとき、犯行動機として15か条の供述をしている。そこには伊藤が明治天皇の父を暗殺したことや、閔妃暗殺事件への指令について触れている。確かに孝明天皇については毒殺説が流れていたが、当時の伊藤は宮中に入れるほどの身分ではなかった。安の供述からは当時の没情報化社会にあって、彼自身が噂に支配されていたことが読み取れる。安は処刑前に「東洋平和論」の執筆を手がけており、その序文には朝鮮、中国、日本が手を組んで欧米に当たろうという旨が書いてある。安の言う「東洋」はこの三国のみであり、これが李王朝時代の鎖国政策下で培われた知識であった。彼は東洋を文の国とし、欧米を武の国と位置付けているが、当時の朝鮮の識字率は数パーセントに過ぎなかった。その意味で朝鮮は文の国ではなかったのであり、むしろ識字率は日本のほうが上であった。しかし、安はこうした日本の実情を知らず、非常に小さな世界しか把握していなかったのである。

安については、その供述から明治天皇を尊敬していたのではないかという説、あるいは東洋平和論を大東亜共栄圏に結び付けて評価しようとする向きが日本にあるが、これは誤解の積み重ねによるものである。安は大韓義軍中将であることを理由に、戦時国際法に基づく処分を求めるが、これは一種の命乞いであった。おそらく安は戦時国際法の存在は知っていても、その内容を細部までは知らなかったはずであり、こじつけとして持ち出したものであった。当時、看守として安の周囲にいた人々の中には彼を人格者として評価する者もおり、処刑後、日本で追悼式が行われる。そこに在日韓国人が入ってくることで、業績の捏造が始まったのである。現在、安については本当に暗殺実行犯であったのか、疑問説も提示されており、私はなるほどな、と思っている。

では、今の韓国人はなぜ安重根を英雄視するのであろうか。その一つの理由として、韓国の歴史に英雄がいないということが挙げられる。安は両班の家に生まれただけでなく、東学党から逃げなければならないほど阿漕なことをしていたのでしょう。しかし、伊藤暗殺により処刑されたことで、その後の人生に汚点を残さなかった。そこで英雄として祭り上げられることなったのである。

彼らは李王朝600年に狭い世界に生きており、そこから国粋主義が育っていく。指導者は国民に対して、自分たちが世界で最も優れた民族であると聞かせるのである。その根拠になっているのが儒教を絶対視する考えである。中国では明の時代になると、儒教を知らない指導者・将軍が登場してくるようになり、朝鮮の側は明を見下すようになる。また、日本についても、最初から島国の盗賊集団として下位に位置付けているため、必然的に自分たちを最上位に位置付けるようになる。

そもそも韓国は告げ口社会であり、権力者の有力な側近はすぐに腐敗し、告げ口により失脚している。そして、告げ口により、旧悪を追い出し側近になった者がすぐに新悪になる。そういう歴史が今でも続いているのである。彼らにすれば、告げ口文化も含め、自分たちが最も優れた民族であるとの意識がある。だからこそ、朴槿恵大統領は海外の首脳との対談で日本を批判する発言を行っているのであり、外交慣例に反する悪い行為であるとの自覚はないのである。最近、朴大統領はユーラシア共同体構想を提唱し、韓国メディアもそれを大々的に取り上げている。日本からすれば、馬鹿げた発想です。少なくとも南北を統一を実現してから言うのならまだしも。安重根の発想と同様、あくまでも韓国を中心とした世界観が流れているのである。

▼朴槿恵とそっくりだ

安重根は、日韓併合に至る直前の自分の国の惨状には目もくれず、つまり国家革新を提言することもないまま、韓中日で欧米に対決し、東洋平和を…と言っている。
朴槿恵大統領は、左右対決が激化する一方の韓国の中にいて、北との対立もそのままでいながら、ユーラシア共同体を…と言っている。
安重根と朴槿恵大統領は、その点でよく似ている。2・26の国家革新の理念が頭にあった三島さんとは次元が何段階も違う存在です。

最近、韓国では日本の新右翼の反応を受け、安を親日派とする説が出ているが、これは誤りだと思う。儒教における親思いの発想、伊藤が孝明天皇暗殺に関与したという大誤報が合わさることで、伊藤暗殺の動機となったのである。安の息子は成人後、上海で実業家となり、日本統治下のソウルに戻ったとき、伊藤の息子に謝罪している。伊藤を祀った神社に参拝し、産業報国を誓ったほどの親日派だった。しかし、戦後の韓国で親日派と攻撃されたことから米国に亡命し、米国籍を取得している。現在、その曾孫が在日韓国人グループのリーダーに祭り上げられ、反日活動を展開している。

▼ものづくりは下人のやることという軽蔑の認識がある

現在、韓国軍では様々な兵器の事故が続発しているが、これは李王朝600年の伝統によるもの、技術軽視に由来する。
すなわち、物づくりをする人々を下位と見なし、上流階級は書を読み耽るという伝統である。安重根はその伝統にどっぷりと浸かっていたのであり、その影響が今でも様々な形で出ているのである。たとえば、プラントのメンテナンスに携わる中卒もしくは高卒の作業員は、韓国の労働統計でも明らかなように、入社から1年後に3分の1が離職している。

最新のプラントのメンテナンスには高度な技術を要するが、彼らはマニュアルを覚えきる前に辞めていくのである。日本の中小企業は汎用工作機械を独自に改良して長く使っているが、韓国にはそれがない。その背景には物作りを下人の仕事と見なす発想がある。このため、実際に物づくりに携わる人々の間でも士気は上がらず、一人前になろうという意識もない。

日本の江戸300年の歴史は今日の産業社会のバックボーンになったが、その倍の歴史を持つ李王朝600年の歴史は汗をかく仕事を下人の仕事と位置付けてきた。だからこそ、笑ってしまうような事故が今でも起きるのである。日本文化に比して韓国文化が産業の発展に適さなかったのは、詰まるところ、儒教と両班に彩られた歴史が長すぎたためである。安重根はそうした文化の中に生まれ、情報の真偽を確かめることもなかった。彼は没情報化の鎖国の国に生まれた人物の一人であり、そうした人物を今でも英雄にしなければならないことは不幸であると言わねばならない。
今日の韓国も、「親日派記者」と非難されないようにとばかり思いながら書いた報道にしか接しられない点で、報道の自由がない没情報化社会です。
それなのに大統領が先頭に立って反日の旗を振り続け、自分の立ち位置すら忘れているとは気の毒であり、同時に、日本としては絶対に許せないことでもある。
(三島由紀夫研究会事務局速記)




この現実を、憂国の日本人は如何に、考察をして




掛かるべきかを、真摯に考察が、必要な時が、




今目の前に来てるのだ。