
国立小劇場は今月文楽です。
近松の、心中ものを、
住大夫の浄瑠璃、蓑助・勘十郎の人形で
遣りますのですから、そりゃ、今最高のものを観れるわけです。
めずらしく、住大夫さんは初っ端からです。
低いお声で、住大夫さんの語りが始まる…、
五月雨ほど恋い慕われて、いまは秋田の落とし水
詩情をじっくり味わって…、情景が目の前に現れる…
ちょうど今の時期なのね、
千代さんの実家、山城の上田村、やっぱり関西なのねー
人物たちに息が吹き込まれると、舞台のほうに集中してきます。
しばしあって、
蓑助さんの千代が登場します。
この出がたまらないのですねー。
浄瑠璃の調子が変わり、下手の幕が開く、
息を詰めた緊張の出…、
悲劇の予感をこの一瞬に込める、…観客が感受する、
蓑助さんにはいつも感じる、これだ!
少しずつ、事情が知れてきます。
どうして夫婦なのに、心中しなくちゃならないのか、
遊女とお店(たな)のボンボン、というパターンからはちょっと異色のカップル、
嫁いじめする姑とは義理の仲でもある半兵衛(勘十郎さんいつの間にか、度量の大きな役になっている!)
それでも何とか家庭内不和を収めることができそうな、
甲斐性がありそう、と思える、が
そこがままならない。
この姑の持って行き場のない悪意は何故か、
事情はこうなのです。
つまり、八百屋の身上は養子にきた半兵衛が苦労を重ねて築き上げたもの、
ただの野菜売りから、金融もやる、ひとかどのお店にしたというわけなのです。
この家の主人は信仰に走り?!店はまかせっきり、
だから財産は正真正銘半兵衛のものでちっともおかしくない、
しかし、義母は血のつながりのある甥(これがちょっとぼんやりさん)がかわいい、かといって、店は養子でもっている…、でもってやり場がなくて八つ当たり、
ということなのです。
ここで近松の義理というものが開花します。
たとえ理不尽でも養い親への義理はそれはそれは固い、
そういう時代、日本にも確かにあった!!
嫁を姑が追い出した、となると世間の評判はどうなるか、
それでは養ってもらった子としての義理がたたない、
だから、夫が縁切り、それしかない、
と元武士の半兵衛は決心するのです。
この論理!! 義理=義、義で武士は死する、
これ誤った武士道ではありますが、
確かにかつての日本にあったものです!!
夫のこの論理に付き合わされる妻もたまったものではない、
のですが、
縁切られるより、至高の愛のほうを良しとする、日本の女、
なんですよねー、
そして道行、となり、刃が向けられる、
と、そのとき、女はためらう、いまさらと男はなじる、
いえいえ、この世に生まれでることのないお腹の子、
その供養がしたかった!!
もう、ここでは涙、涙です。
辞世の歌を短冊にして、果てます。
いにしへを捨てばや義理と思ふまじ
朽ちても消えぬ名こそ惜しけれ
この心中事件、実話をすばやくお芝居にしたのですから…、
なんと哀れではありませんか…。
美しく昇華された悲恋として、せめて世に残していきたいものです…。
2008/5/21 国立小劇場
近松の、心中ものを、
住大夫の浄瑠璃、蓑助・勘十郎の人形で
遣りますのですから、そりゃ、今最高のものを観れるわけです。
めずらしく、住大夫さんは初っ端からです。
低いお声で、住大夫さんの語りが始まる…、
五月雨ほど恋い慕われて、いまは秋田の落とし水
詩情をじっくり味わって…、情景が目の前に現れる…
ちょうど今の時期なのね、
千代さんの実家、山城の上田村、やっぱり関西なのねー
人物たちに息が吹き込まれると、舞台のほうに集中してきます。
しばしあって、
蓑助さんの千代が登場します。
この出がたまらないのですねー。
浄瑠璃の調子が変わり、下手の幕が開く、
息を詰めた緊張の出…、
悲劇の予感をこの一瞬に込める、…観客が感受する、
蓑助さんにはいつも感じる、これだ!
少しずつ、事情が知れてきます。
どうして夫婦なのに、心中しなくちゃならないのか、
遊女とお店(たな)のボンボン、というパターンからはちょっと異色のカップル、
嫁いじめする姑とは義理の仲でもある半兵衛(勘十郎さんいつの間にか、度量の大きな役になっている!)
それでも何とか家庭内不和を収めることができそうな、
甲斐性がありそう、と思える、が
そこがままならない。
この姑の持って行き場のない悪意は何故か、
事情はこうなのです。
つまり、八百屋の身上は養子にきた半兵衛が苦労を重ねて築き上げたもの、
ただの野菜売りから、金融もやる、ひとかどのお店にしたというわけなのです。
この家の主人は信仰に走り?!店はまかせっきり、
だから財産は正真正銘半兵衛のものでちっともおかしくない、
しかし、義母は血のつながりのある甥(これがちょっとぼんやりさん)がかわいい、かといって、店は養子でもっている…、でもってやり場がなくて八つ当たり、
ということなのです。
ここで近松の義理というものが開花します。
たとえ理不尽でも養い親への義理はそれはそれは固い、
そういう時代、日本にも確かにあった!!
嫁を姑が追い出した、となると世間の評判はどうなるか、
それでは養ってもらった子としての義理がたたない、
だから、夫が縁切り、それしかない、
と元武士の半兵衛は決心するのです。
この論理!! 義理=義、義で武士は死する、
これ誤った武士道ではありますが、
確かにかつての日本にあったものです!!
夫のこの論理に付き合わされる妻もたまったものではない、
のですが、
縁切られるより、至高の愛のほうを良しとする、日本の女、
なんですよねー、
そして道行、となり、刃が向けられる、
と、そのとき、女はためらう、いまさらと男はなじる、
いえいえ、この世に生まれでることのないお腹の子、
その供養がしたかった!!
もう、ここでは涙、涙です。
辞世の歌を短冊にして、果てます。
いにしへを捨てばや義理と思ふまじ
朽ちても消えぬ名こそ惜しけれ
この心中事件、実話をすばやくお芝居にしたのですから…、
なんと哀れではありませんか…。
美しく昇華された悲恋として、せめて世に残していきたいものです…。

半兵衛さんとお嫁さん死んでしまうのですね。独特の語りと人形と鳴り物・・・物語の本とは、映画とは違う、魂が揺さぶられると言っておられたことわかるような気がします。(稚拙なコメントでごめんなさい)
かつては義理というタガで、バランスを保っていたのですね。
いま、そういうタガが外れて、
人と人とが感情むき出しになってしまいがち、
(すみれさんのこと、本当にすばらしい嫁姑の間柄を保っておいでだった、と思います。)
こういう時代だからこそ、
近松が書きとめたこの時代の市井の人びとの生き様を振り返ってみるのも、意味ありますね。