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day by day

癒さぬ傷口が 栄光への入口

新月の彼女 ~3~モーニングセットの彼女

2011-11-10 | オリジナル。
「おはよう。そろそろ寒いわねえ」
「おはようございます!」
 ウッドデッキをブラシで磨いていた柚瑠は手を止め、はきはきと、そしてにっこりと挨拶を返す。
 毎朝同じ時間に通るミニチュアシュナウザーを連れた老婦人。このあたりを一周散歩してくるとちょうど店の開店時間を少し過ぎた頃になり、彼女はこのデッキのオープンテラス席に座ってモーニングを食べるのが毎日の習慣である。

 このカフェはベイカリーも併設しているので開店が早い。朝の7時には開店しモーニング、昼にはランチタイム、夕方からはレストランバーとなって23時閉店。柚瑠は大抵朝の開店からランチタイム終了までのシフトで勤務している。
 柚瑠はこの街に暮らすのが夢だった。
 いわゆる、高級住宅街である。瀟洒な邸宅が立ち並び、お洒落なカフェやレストランやパティスリーや趣味のいい雑貨店などが点在し、そこには裕福で上品な人々が暮らしている。一大決心をしてこの街の地名がギリギリ入るエリアに引っ越してはきたものの、そこはもう『高級住宅街』のエリアからは外れている。同じような平凡なマンションの最低限の間取りでも他の街よりは割高だがもっとお洒落な部屋に住むには収入が見合わないことくらいは柚瑠にも判っている。
 本当は「住むこと」が夢なのではなく、ここに当たり前に住まっているお金持ちの人たちのように暮らしたいのだ。
 引っ越してすぐ、このカフェのアルバイトにうまく採用されることに成功した。まずはここで生活することを楽しまなきゃ。
 カフェでバイトなんかしてたら、もしかしたらセレブで独身の男の人と親しくなれるかもしれないじゃない?

 もっとも、今の彼氏はセレブでもなんでもなく、たいして収入がいいでもない仕事が忙しくて全然かまってくれない、しかも7つも年上のもうすぐ三十歳。今年初めの合コンで知り合った。
 特別イケメンじゃないけど、年の割にちょっと可愛い顔で話も面白くて、でも頼りになる大人の男の人。すぐに大好きになった。付き合ってもう半年以上になるけど、秋がきて、初めてのクリスマスも近づいてきてるのに最近あまり会えていない。
 昨日も、夜9時に送ったメールの返事は返ってこなかった。
 忙しいのはわかってるけど、前にどうして返事くれないのと詰め寄ったら軽くキレられてからなんだか少し気持ちが醒めた。普段はすごく優しくて大人で、言葉遣いも態度も乱暴なところなんてまったく見せない人だから、ちょっと怖かったのもあって。でも、常にあたしより仕事を優先してる彼にむかついたりもして。最初の頃はもっともっと優しかったのに。それとも、他の娘と浮気でもしてるのかな。

 いいもん。もしセレブなイケメンが付き合ってとか言ってきたら、あんなやつ、捨ててやるんだから。

 モスグリーンのエプロンのポケットに突っ込んだ携帯電話をこっそりと覗き見て、まだ返信が無いことを確認すると柚瑠は空を見上げて溜息をついた。
 なにさ。空はあんなに青いのに。

 気を取り直してデッキの掃除を終えると、テーブルをきちんと所定の位置に並べ、丁寧に拭き、ひとつひとつのテーブルに小花を生けた小さなポッドを置いてゆく。店の屋内からはパンを焼き上げたいい匂いが漂っている。このパンを買いにだけ来る近隣の住人も少なくない。最近雑誌にも載ったせいか、遠方からわざわざ朝早くに買いに来る人もいるらしい。
 そうして開店時間を迎えると、朝の常連客がやってくる。
 ミニチュアシュナウザーの老婦人は今日もデッキ席。もっとも、屋内の席は介護犬や盲導犬以外お断りしているのでデッキ席にしか案内できない。
 彼女をはじめとして、優雅なリタイアライフを送る老夫妻や、小さな子供を連れた若い母親のグループ、これから仕事に向かうだろうビジネスマンやキャリアウーマン風の人たち、大抵は決まった顔ぶれである。そして彼らは大抵決まった席に就く。

 その女性客が入ってきたのは、モーニングの常連の第一弾が少し落ち着いた、8時半過ぎのことである。
『その席』に就いた女性に、おしぼりと水とメニューを持って行った柚瑠はぎくりと息を呑んだ。

 このひと、今日はひとりで来たんだ。

 近頃見なくなった、現在彼女の座っている席の向かい側にいつも座っていた男性の顔が頭をよぎる。
 その初老の男性は、この店の向かいにある古い邸宅の主人だった。毎日スクランブルエッグとクロワッサンのモーニングでコーヒーをキリマンジャロに替えて──と必ず同じ組み合わせを注文していた。
 柚瑠がこの店に勤めるようになる前、もう何年も前らしいが、以前は夫婦で来店していたのだという。この店がオープンした当初からの常連らしい。というより、以前は夫人が毎日来店していて夫の方はたまに同伴していただけだったのだが、夫人が亡くなってからは夫の方が毎日のように来店するようになった──
 きっと素敵なご夫婦だったんだろうな。
 柚瑠はいつも空想していた。
 ここは、彼にとって奥さまとの思い出の場所なんだ。だから奥さまを亡くして、それを懐かしむように毎日来てるんだよね。
 そんな夫婦って、すごく憧れる。
 こっそり憧れていたそんな夫婦の、片翼を失った男性が来ると、柚瑠はいつも何故かほっとしていたものだった。

 その男性が、妻を失ってからずっと一人で通っていたはずのこのカフェに他の人間を連れて来るようになったのは、今年の夏前のことだっただろうか。
 最初は、朝いつものように一人でモーニングを食べて行ったあと、ランチ時間の少し前に再び来店した時である。
 見慣れないきちんとしたスーツ姿の彼は、若い女性を連れていた。
 考えてみれば、まだ定年退職の年齢には見えない五十代くらいの男性である。モーニングを食べたあときちんとスーツを着て仕事に行っているのだろう。連れていたのがふんわりとしたロングスカートのワンピースを着た長い黒髪の清楚そうな女性だったので商談の相手には見えづらかったが、例えば彼の職業が不動産業などなら一般の女性と仕事の話をするのは不自然ではない。
 すっごい美人。
 柚瑠はそれが妙に目に焼きついた。
 女優さんかしら、とも思った。ただ、美人ではあるけれど見たことの無い顔だし、華やかな雰囲気でもない。
 彼はその後も彼女を連れて来店した。
 人手が無い時にはごくたまに夜のシフトで勤務する時もあったが、一度はその時にも見た。
 そして、きわめつけは、ついに朝のモーニングの時間にまで彼女を連れてくるようになったのである。いくらなんでも朝の7時に打ち合わせだの商談だのは無いだろう。彼女はきっと、彼の家に泊まったのだ。
 つまり、彼女は彼の、新しい女なのだ。

 奥さまとの思い出の場所に、他の女の人を連れてくるなんて──

 柚瑠は自分勝手に構築していた彼の美しい夫婦愛の物語が脆くも瓦解したことを心から失望していた。
 男のひとなんて、奥さまがいなくなったらさっさと忘れて若くて綺麗な女の人に走っちゃうんだ。
 がっかりだ。
 少しは信じたいと思っていた、永遠の愛、とかそういうものなんて、現実にはきっと無いのね。

 『新しい女』を連れていない日にも毎日の習慣のようにモーニングを食べにきていた彼が姿を見せなくなったのは彼が女を連れてくるようになってから何ヶ月も経たない、まだ暑さの残る秋の初めだった。
 突然ぱたり、と来なくなったのではなく徐々に来ない日が増えていっていた。最後に見たのは2週間ほど前だっただろうか。

「いらっしゃいませ」
 彼がいつも座っていた席の向かいがわ──おそらく、昔は彼の妻が座っていた席に納まった彼女は、柚瑠を見上げて少し寂しそうに微笑んだ。
「おはようございます。スクランブルエッグのモーニング、パンはクロワッサンで──コーヒーをキリマンジャロに替えていただけますか」
 渡そうとしたメニューも受け取らずに彼女はすらすらと言った。
 一瞬、かっと頭に血がのぼった。
 あの人の、いつものメニュー。なんであんたが当たり前みたいに頼んでんの。
「───かしこまりました」
 怒鳴りたいのをやっとのことでこらえて、オーダーを通す。
 なんだろ。
 あたし、なんでこんなに泣きそうになってんだろ。

 注文されたモーニングセットを運ぶと、彼女は暫くそれをじっと見つめたあとクロワッサンをほんの小さくちぎり、口に運んだ。
 柚瑠は彼女の一挙一動から目を離せなくなっていた。

 あんな量、あたしだったら5分でぺろっと食べちゃう。
 なにさ上品ぶって。
 セレブがなんだっての。
 お金持ってたってどうせあんたの稼いだ金じゃないんでしょ。

 この街に暮らしていて胸の中に少しずつ沈殿していった劣等感や僻みのようなものが彼女という生贄を得て一挙に噴き出したようだった。
 そしてそんな言葉が次々と頭に浮かぶ自分が惨めで、悲しくなってきた。

 ふと。

 彼女の、朝食を口に運ぶ動きがぱたりと止まった。
 口に出さない柚瑠の誹謗が聴こえたんじゃないか、と身が竦む。
 彼女は手にしたクロワッサンのひとかけを皿に戻すと、うつむいた。

 え?
 彼女、
 ───泣いてる?

 彼女は、俯いたまま微かに肩を震わせていた。両手を膝の上にじっと握りしめて、堪えながら、でも堰き止めることができないように。
 ぱた、ぱたと涙の粒を落としていた。

 どうしたの?
 あのひとに───何かあったの?
 姿を見せなくなったあの男性。まさか、彼に何かがあって───

 柚瑠は静かに彼女のテーブルに足をすすめると、他の客に見えないようにそっとハンカチを差し出した。
「あの、よろしければお使い下さい」
 彼女は俯いたまま驚いたようにびくりと肩を震わせると、ややあっておずおずと手を出し、ハンカチを受け取った。ありがとう、と小さく言った声は、涙声だった。
「クロワッサンが美味しくて、いろんなことを思い出してしまって。申し訳ありません。ありがとう」
 彼女は涙を拭きながら言い訳をした。
 いろんなこと。
 それはきっとあのひととの思い出。

 彼女はそれ以上何を語ることもなく、モーニングをきちんと残さず食べ、勘定時に照れくさそうに微笑んで柚瑠にハンカチを返した。まだ目と鼻が少し赤いけれど、もう涙は消えていた。
 立ち去る彼女の背中を見送りながら、柚瑠は追いかけて彼との話を洗いざらい詮索したい衝動に駆られたけれど──次の客がやってきてその衝動を実行することは出来なかった。

 その日の正午少し前のことである。
「ねえねえ、ご覧になった?広田さんのお宅」
 週一回ランチにくる近所の奥さま方のグループ。声が大きいので近所の噂は仕事をしながらでもたいていここで仕入れることが出来てしまう。
 柚瑠は忙しく働きながらも一瞬動作が止まってしまった。
 広田さん───というのは、あの、向かいの家のことだ。あの彼の。
 自分以外の5人のマダムたちが口々にあら、知らないわ、何かしらと反応したのでこの場の主人公となった言い出しのマダムは得意げに、大袈裟に、声をひそめた──とは言っても、丸聞こえである。

「あのお屋敷、売りに出されたみたいよ。さっき通ったら売物件の札がかかってましたもの」
 
 売りに出された?
 彼の家が?

 ほんの数時間前のあの長い黒髪の彼女の涙が頭に浮かぶ。

「広田さん、奥さまが亡くなってからご近所付き合いが無かったでしょう、だからどうしてかは知らないけど、あれを売るくらいなんだからもしかしてお金に困ってらしたのかもねえ」
「あら、最近よく若い女性を連れて歩いてらしたから、再婚でもなさるんじゃなくて?この辺りには亡くなった奥さまのお友達も多いから気も引けるでしょう」
「あらやだ、真面目そうな旦那さんだったけど、やっぱり男性は若い子の方がいいのかしらねえ」
 上品なのか下品なのかわからない笑い声が響く。

 違う。
 彼女も、彼を見失ったんだ。
 だから、彼女はここへ来て、彼との思い出を確かめてたんだ。
 彼が、亡くした奥さまとの思い出をここで確かめてたように。

 なにひとつ確かめたこともない、彼と彼女と彼の妻の物語。それは柚瑠の胸の中だけで編みあがったストーリー。
 でも、それは多分、アンハッピーエンドだったのだ。

 ランチ時間が終わって退勤した柚瑠は、携帯にメールの着信があったことにようやく気付いた。
 彼氏だ。やっと返事くれたんだ。

『ゆず、返事遅れてごめんな。』

 短い、謝るだけの返事。
 咄嗟に柚瑠はアドレス帳の一番上に来るように設定してある彼氏の電話番号を押した。
 まだきっと仕事中。
 今電話なんかしたらきっと、またキレられるかも。
 なのに、どうしても止められない。

『もしもし?ゆず?どしたのこんな時間に』

───出てくれた。

「たかちゃん、ごめんね、仕事中に電話しちゃって、ごめんね、でも」
 口がもつれる。
 なんだか涙が出てきた。
「会いたいよ。たかちゃんに会いたいんだよ。5分でもいいから、何時でもいいから、会えない?」
 しまいにはしゃくりあげるようになってしまった。
 どうしたんだろ。あたし、なんでこんなに泣けてしかたないんだろ。
『───わかったよ。今日、なんとかする。あとで電話するから、それまで待ってられるか?』
「ほんと?今日会える?」
『ああ。最近ずっと会えてなかったもんな。ごめん。大丈夫か?』
「うん、たかちゃんの声聞いたらちょっと落ち着いた」

 電話を切ると、柚瑠は歩道のベンチに脱力したように座る。

 ああ、あたし、やっぱたかちゃんが大好き。
 お金持ちなんかじゃなくていい。たかちゃんがいい。
 誰かの物語に憧れるんじゃなくて、あたし、たかちゃんと自分の物語を作りたい。

 さっき、彼女に貸したハンカチ。
 彼女の涙を吸って乾いたハンカチでそれをかまわず自分の涙を拭く。
 ふう、と大きく息を吐くと柚瑠は街外れの平凡なマンションへと帰路についた。
  




禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina

これは「恋愛お題ったー」で出題されたキーワードを元に即興で創作したお話です。
テーマ:ヤマシナセンカさんは、「早朝のカフェ」で登場人物が「泣き出す」、「噂」という単語を使ったお話を考えて下さい。

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