嵐山光三郎の「悪党芭蕉」(2006年新潮社刊)を読んでいる
残すところ60ページ
場面は芭蕉の死まで数カ月のところ
連日の歌仙で体力を消耗し、食あたりをして、熱を出して下痢をしたところで
大阪へ行かねばならない・・・(大阪が臨終の地)
この「連日の歌仙」(三十六歌仙)の仕切、今なら「連句の捌」のしごとについて
著者はとても分かりやすく、卓球の混合ダブルスに例えて、こう述べているので
ご紹介をしておこう
芭蕉はいらだっていた。
歌仙を仕切るのは俳諧の知識のみならず、体力を要する。歌仙は遊びでありつつ勝負であり、
句の流れを見て、場の気配に応じつつ自在に作り上げていかねばならない。発句は、次の脇句が
受けやすいように、卓球でいえば打ちやすい球を出す。脇句は、原則としては句会を主催する
主人がつける。いくら打ちやすい球を出しても、相手が下手だと返しそこねる。打ちやすい球
だから、直球を打ち返してくるものもいるし、切ってカーブをつけてくる者もいる。それをまた
打ち返すのは別の俳人で、混合ダブルスのようなものだ。言葉の球を打って、打ち返して、三十六句で
着地する。難しい球が来ると、句順を無視して割り込んで、打ちやすい球にして返してやる。
芭蕉は連衆という俳句選手をコーチする役であった。歌仙というゲームを差配するゲーム・メーカーである。
残すところ60ページ
場面は芭蕉の死まで数カ月のところ
連日の歌仙で体力を消耗し、食あたりをして、熱を出して下痢をしたところで
大阪へ行かねばならない・・・(大阪が臨終の地)
この「連日の歌仙」(三十六歌仙)の仕切、今なら「連句の捌」のしごとについて
著者はとても分かりやすく、卓球の混合ダブルスに例えて、こう述べているので
ご紹介をしておこう
芭蕉はいらだっていた。
歌仙を仕切るのは俳諧の知識のみならず、体力を要する。歌仙は遊びでありつつ勝負であり、
句の流れを見て、場の気配に応じつつ自在に作り上げていかねばならない。発句は、次の脇句が
受けやすいように、卓球でいえば打ちやすい球を出す。脇句は、原則としては句会を主催する
主人がつける。いくら打ちやすい球を出しても、相手が下手だと返しそこねる。打ちやすい球
だから、直球を打ち返してくるものもいるし、切ってカーブをつけてくる者もいる。それをまた
打ち返すのは別の俳人で、混合ダブルスのようなものだ。言葉の球を打って、打ち返して、三十六句で
着地する。難しい球が来ると、句順を無視して割り込んで、打ちやすい球にして返してやる。
芭蕉は連衆という俳句選手をコーチする役であった。歌仙というゲームを差配するゲーム・メーカーである。
この人の素人包丁記はすごいよ。意表をつかれる。
後は沖釣りに出て釣った魚を料理するシリーズも。
でも、あとがきにさすがに「疲れた」って書いてありました。