サイドキック日記

酒場での愉しさは酒場までの道の愉しさに及ばず。
永美太郎の記録。

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いちがつはいく

2019-01-29 01:51:00 | essay
いく、1月がいく。終る、去ぬる。gone カルロスゴーン…

2019年もはや、1月が終わろうとしている。終る、気が付いたら終わっている。それは月日ばかりではない。連載を、ウサギを追いかけるのろまな亀の童話の心境で、歯を食い縛りながら進めていた仕事が気が付いたら単行本にまとまって刊行されることになり、月末に発売する。その待望の顕本が家に届いた一月中旬、某日、その時、宅配員が不在表をドアの隙間に挟んでいるその頃、レデイオヘッドはパブロハニー随一の名曲、クリープ(のボサノバカヴァーヴァージョン!!)が薄く流れる喫茶店の2階席で、私は恋人にふられた。

幼い時分からよく物を無くす子供だった。通知表には忘れ物が多いと毎回書かれた。だからかどうかは知らないが、ある時期から物に執着することをしなくなった。どうせいつかはなくなるのだと思うとどんなに素敵な物事や時間があったとしても入り込むことに対する違和感ばかりを感じてしまって嫌だった。思春期になって友人らが私たち一生友達だよとか言っているのをしらけながら眺めた。いつか終わるって本人たちも気が付いているのに何でああいう芝居がかったことが出来るのか不思議だった。そんな人間でしたから今も付き合いのある地元の友人は一人もいません。

そして、同じようなことをまた繰り返してしまった、そう思った。彼女にふられた理由は単純で、私が漫画に手一杯になりそれ以外の事を余りにも蔑ろにしてしまい、愛想をつかされたのだった。

昔、18の頃から26までの間1番仲良くしてた友人に絶縁にされた時も同じ様な理由からだった。その友人は私に音楽を教えてくれた友人で私は持っている漫画全てを彼に貸した。予備校で始めて知り合って、毎週梅田にある大きなツタヤに通って彼の進める映画を借りて、彼がヤフオクで安く映画の試写会のチケットを落として毎月のようにそれを観に行った。別々の大学に通うようになってからも夏はフェスにいったり。外付けのHDDいっぱいの曲を貰って、段ボール箱いっぱいの漫画を車で彼の家まで届けたりした。

絶縁されたのは関西コミティアの日だった。彼が短編小説を書いてそれを自分が漫画化したZINを作って売っていた。彼に小説を書いてもらって以降、漫画を描いてコピー屋さんで徹夜で本作って忙しくあーでもないこーでもないと一人でやっていて、即売会当日に彼から開始時間に行けばいいのか、とメールが来ていてその時自分はもう既に搬入で会場にいたのでその旨を返信すると、開場時間になり少ししてから絶縁のメールがいきなり届いたのだった。

その頃私は同人誌活動を忙しくしていた。漫画を描く理由が欲しかったのだ。どうにかこうにか理由をつけて必死に漫画にしがみついていた。だから、私は漫画を描くだしに友人を使ってしまったのかもしれない。漫画に対して誠実であることは他人をないがしろにする理由にはならない。ただ私が馬鹿だった。

漫画にかまけて大切な人を失うことほど悲しいことはない。結局ZINも友人に渡せずじまいだった。単行本見本を手にとっても感動に浸る余裕などは全くなく、いってしまった彼女のこで頭がいっぱいだった。彼女の協力なしではなし得なかった仕事だったのに、それを二人で祝うことが出来ないのが本当に虚しかった。

手元に残った物の影には、いってしまったものの幻影がこびりついている。あるいはそういった幻影の集合体の様なものを作っているのかもしれない。今度は一体何がいってしまい、何が残るのだろうか。怖くてしょうがない。


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時間がたっている

2019-01-15 02:38:32 | essay
気が付くと時間はたっている。成人式が行われたようでSNSでは成人式の思い出が飛び交っていた。私は式には15年前に参加した記憶がかすかにある。式自体を漠然と嫌だなあと思っていて、しかしその思いを共有できる相手も特にいなそうなので、それ自体を悟られないようにふるまっていた気がする、無意識の内に。行かなきゃよかったのかもしれないが、私は成人式には行かなかった、と毎年言うような見ていて痛々しい大人にならないためにも行く意味があったのかもしれない。

あの年は2年浪人して美大に合格したけど、人より遅れてしまった自分のプライドを保とうとあくせく生きていた。若いということ以外に価値の欠片もないつまらない自分が心底嫌だったし、若い、ということ自体が嫌だった。若いと舐められる、大人からは馬鹿にされたような扱いしか受けないし、若くて馬鹿な自分を受け入れられるほど成熟してもいなかった。早く年寄りになってつまらなくて馬鹿みたいな自意識から解放されたいと心底思っていた。

十代の頃はとにかく全部が嫌だった。地元も周りの連中も家族も。漫画と映画の中にしか価値を見いだせなかった。周り総てが嘘つきに見えて仕方なくて、そのせいですねてしまっていた。漫画とか映画の中にだけ本当の、嘘じゃないことがあると思っていた。現実が嘘でフィクションが本当に思えるだなんて、全く逆なのに。自分を受け入れることが出来なかったんだろう、悲しい話だ。

自分が嫌だったものから遠く離れて、自分が好きだったものに出来るだけ近づこうと、そのことだけ考えて15年生きた。漫画家になって尊敬する漫画家と話していると、会話が出来ることがある。言葉が通じた喜びで嬉しくなってしみじみとしてしまう。旅の途中で泊った宿屋で偶然出会った旅人と話している様な感じ。こんな街に行った、こんな人がいた、こんな色の空を観た。自分が見てきたものとは違うんだけど、でも自分の旅にも確かにあった、そんな瞬間を旅の途中で交換しあえた喜びでいっぱいになる。

言葉が通じることは素晴らしい。でもこんなことはめったにない。今もSNSを眺めていると皆が何をしゃべっているのか全然わからなくなってしまい呆然とすることが毎日の様にある。十代の頃他人に感じていた違和感そのままの世界だ。他人が作った考え、他人が作ったしぐさ、他人が作った価値観でもってその場をやり過ごすためだけに時間が過ぎていく世界。その中だけであくせく生きて時間がたってしまったら…考えただけでぞっとする。

世界はそんなに単純じゃないし人はそんなに短絡的でもないということはわかってはいるつもり、世界に馴染めなかったのは自分の方だ。だから、自分は馴染めない世界と馴染めない自分の事をじっと見てる。じっとしていたら時間がたっている。時間がたてば大抵のことを忘れる。輪郭がおぼろげになって明瞭に見えなくなる。年をとっている。そうして風雨にさらされた地蔵のように、デティールがあいまいになったもののシルエットをつかみ取って漫画にする。そうしてこう言う。

この地蔵はあなたに似ている様な気がしませんか、と。








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何かを書く

2019-01-03 15:58:30 | essay
また、何か書きたいと思った。漫画を仕事にし、自分の考えを形にしていくばくかのお金をもらって生活をしているけれど、もっと何も考えずに思ったことを形にしたい。漫画を描き始めていた時に考えていたようなことだ。

お風呂に浸かっている時、眠れない夜に布団の上で何度も寝返りを打っている時、珈琲を淹れようとして湯を沸かす炎を眺めている時。そういう時に頭に浮かんでは消えていく、甘くて酸っぱくて苦くてつかもうとすると消えてしまう、思い出とも言えないようなとりとめもない考えや記憶。そういう気持ちを大事にしたいといつも思っていた。我ながら子供じみていると思うが。

なぜまた書くのか、という問いに対する明確な答えはもう既に用意してあって「芸術の第一義は自己慰安にある」という私の好きな言葉に従っている。これは吉本隆明の『中学生のための社会科』の中での言葉だ。大学1年生の時この言葉にとても励まされた。そしてそこから数年煮詰めていって、自己という他人と共有できないものを普遍化することによって自己の慰めが他者の慰めにもなる、そういうことをしたらいいんだと思ってから漫画が違和感なく描けるようになった。

漫画というのはだから自己を普遍化するプロセスみたいなものだ。でも、その過程で失われていくものもひどく多い。大人になって言葉を多く知るようになって、自分の気持ちを出来るだけ違和感なく相手に伝えられるようになって、それはとても素晴らしいことだけど、子供の頃みたいに泣いたり走ったり叫んだりしなくなってしまった。そのことに少し似ている。

泣いたり走ったり叫んだりするようなことが書きたいのかもしれない。大人だからもうそういうことはしないのだけれど、昔そうであった記憶は心の中に残っていて、夢の中では今もあの頃のままだったりする。だから、休みの日にやることがなくて、でも家になんかいたくなくて自転車でただひたすら街をぐるぐるペダルを漕いで回っていた時みたいな。無軌道で、ただエネルギーだけのものが書けたらいいなと思った。
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最近の読書

2018-05-06 16:16:56 | BOOK
最近読書づいているというか仕事のためということもあるけど、よく本を読む。

安丸良夫『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』岩波新書
安丸良夫『出口なお 女性教祖と救済思想』岩波現代文庫

などを仕事の資料として。後は半分仕事半分趣味で、

橋本忍『複眼の映像』文春文庫

などを読んだ。

安丸良夫の著作は、近代化における民衆の教化とそのイデオロギー的な内実がどういう力学で実行されていったのかということが、乱暴に言うと左翼教養主義的な筆致で書かれている。
大本教の開祖出口なおに迫った著作も江戸後期から大正末期までの近代化における下層民の出口なおが、如何なる矛盾と抑圧を内に秘め、それが神がかりとして表出する時に明治期より現れ始めた新興宗教(金光教や天理教)とどういう距離をとって内面的に、或は宗教団体として発展していったかという事が記されている。

近代化の矛盾を宗教的側面から捉え直す勉強のために読んだ本だったけど、これは芸術や文学が近代化をたどった道筋とやはり相似形を成しているのか、というのが一読した感想だった。

キリスト教に対して明治政府がいかに対抗するか、その過程で国家神道が形成されていったことは、近代文学や演劇の発生に伴って、それらが芸術的価値のために切り捨てていった民衆の中に根付いていた娯楽との統合を欠いたままであったこと、と同様なんだろう思える。

近代化における矛盾と葛藤は、単なる過去のことだとはどうしても思えない。
昨今のハラスメント問題におけるネットでの反応は極端なものばかりが目に付くように思うけど、私たちが生きている現代ですらこういった価値観の揺れ動く中にあって、矛盾や葛藤はいつの時代も常に付きまとっている。

個人や或はその時代が抱える葛藤の中に人間の営みがあるのだなあと思う。

黒澤明との『羅生門』の共同脚本によって脚本家としてデビューした大巨人橋本忍が、黒澤との特異な脚本開発の時代を振り返ったエッセイ『複眼の映像』は、いかに脚本が映画の良し悪しの基礎となるのか、それらはどのようなアプローチを持ってして成り得たのかを振り返って描いた青春期の記録だった。特に『羅生門』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』という一連の作品を共同で作り上げていく過程で、橋本忍がどのようにして脚本家として筋金が入っていったのかというところが、ドキュメントタッチで熱く語られていて、旅館に缶詰になって行われている脚本会議を真横で見ているような緊張感があり、一息で読み切ってしまうほどの熱さのある文章だった。

脚本家が監督の事を書いた自伝的エッセイは依田義賢『溝口健二の人と芸術』も非常にお勧めで、脚本家がパートナーとなった監督の事を書くということのアプローチの違いも感じられて良いのではないかと思う。

因みに黒澤といえばルーカスがリスペクトした巨匠であり、監督作のスターウォーズにもそのネタが多くちりばめられているが、ジェダイマスターのヨーダのモデルが依田 義賢であるのも結構有名な話のヨーダ………(ダジャレ!)
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ヘロのヘロ

2018-04-05 11:12:44 | LIFE
今朝連載原稿の第四話を脱稿した。問題なければ数日中にトーチwebのサイトに上がると思う。何だか予定よりもだいぶ押してしまった。

原稿が押した原因は体調不良が主な原因で、三つ位の不調が重なってそれを一つ一つ治していってさあ体調も戻ったしラストスパートって時に今度は風邪をひいてしまって、二日ほど寝込んだのだった。今回の原稿作業中は最初から最後まで体調不良に振り回されほとほと参った。

原因は多分、先週末に山田参助著『あれよ星屑』の完成記念イベントを見に阿佐ヶ谷Rojiに行った折、人がぎゅうぎゅうの中に数時間いたためにあそこで風邪をもらってきたんだと思う。もし、あのイベントに行かずに仕事に打ち込んでいたら多分3月中に原稿が上がってただろうし風邪にもならなかったろうし。しかし、まあ上京して3年半の間お世話になった仕事先の完結記念イベントだったので行かないという選択肢は私にはなかった…しかしそれが凶と出てしまったのだ。なかなか上手くいかないもんです。

やりたいこと、やらなければいけないこと、何やかやと色々あって。プライベートで観たい映画や読みたい本も溜まっている。卓上生活から自分を解き放ち、友人知人と一緒にお酒も飲みに行きたい。が、次の話数の取材と絵コンテを早急にやらなければいけないし、連載を纏めることの予定や打ち合わせをしなきゃいけないだろうし、やらなければいけないことは山積みなので…順番に一つづつ終わらせていきたい。

去年の秋から春までの間に3回も風邪を引いた。こんな体ではハードワーク出来ない。今年の目標は働くことなので、働くための体力作りをしなければいけない。

原稿を上げた勢いそのままでこれを書いていたので、今、猛烈な腹痛に襲われ一旦トイレに駆け込んだ。昨日の昼まで寝込んでいて、まだ風邪も十分に治っていない状態だったことを脱稿のうかれで完全に忘れてしまっていた。

とりあえず、体力が回復するまで寝ます。なんか、どっと疲れてきた…
と、いう感じでしたので、また今度。おやすみなさい。
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二つのわけ

2018-03-26 02:31:18 | LIFE
春になって桜が満開で、井の頭公園が近所にあるんですけど日曜日ということもあってお花見にシートを敷いて宴会をしたり、散歩をしてるカップルなどがとても沢山いて、私は何故かその人混みを縫う様に一心不乱にランニングをしていました。

毎年春と秋には体調を崩しがちなんですが今年の春はそれが一段と酷く、思い切って体力作りのために数日前からランニングを始めたのでした。と、いうのは名目上の理由で、先日ヘルスメーターを買って体重を量ったところ人生で今が一番太っていて、まあうすうすは気づいていたのですがその現実を目の当たりにして愕然とし、ダイエットするこを決心いたしました。人生初の、です。

自分は産まれてからずっとごぼうみたいな感じのやせぎすで生きてきたので、まさか自分がダイエットなんてする日が来るとは思っていなかったんですが、若さが失われつつある現在、当然のように腹の周りに肉がたまってきて、ああ……これかぁ…噂に聞いてた奴やん、という思いで鏡に映る自分を他人のようにぼんやり眺めたりする毎日でした。

ダイエットということで、ローカロリーを心がけスナック菓子などは出来るだけ控え量も抑えた食事で過ごしているのですが、ランニングなどして体を動かしているためかお腹がすいて仕方がない。机にへばりつく生活なので、休憩の時にせんべいなどを間食したりすることくらいが唯一の安らぎの瞬間だったのに、今はトマトジュースちびちびやることくらいが限界で、非常に気持ちが暗くなってきます。何でこんなことをしているのか、その先に何かあるのか、何もかも分からなくなってきて嫌になりますが、この前かっこいいなと思って衝動的に買ったひざ丈のチャイナ服が着てみるとシルエットが美しくならずにお腹が目立つ感じで辛くなったので、頑張って初夏までに痩せてかっこいい服をかっこよく着たいのです。……と、いうかそんなことより何より、正直酒が飲みたい。お酒が好きで、だらだらとお酒を飲んでいたいのです。本当に切実に。なので体を動かして汗をかいていれば少しは健康的に飲酒が出来るのではないかというのが走る理由なわけです…。

自分で決めたことだからいちいち理由付けする必要もなければ、建前上の動機と本音のそれがあることに何の意味もないけれど自分が行動する時は、何故だかだいたいいつもそうです。

不健康な目的のために健康を維持しようとするのは、とても人生だなと思います。裏腹な感じは否めないですが、腹の肉とはおさらばしたいと思う毎日です。

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白いページ

2018-03-21 08:02:04 | essay
机に向かって漫画ばかり描いていると何も考えない人間になりそうで嫌だなあと思い、久しぶりにまた文章でも書こうかなと思った。確か漫画を描き始めた頃と時を同じくしてブログに日記めいたものをつけだして、3年位前まではコンスタントに書いていたけど、漫画が忙しくなり始めてからは精神的なゆとりのなさから日記から離れてしまった。また帰ってきました。

東京に来てから5年がたった。漫画家としてデビューも果たして連載も去年から一応始まっているが、執筆速度が遅すぎてこれじゃあやってけないよなというのが今のところの正直な感想だ。いつまで漫画が描き続けられるのか皆目見当もつかないし、吐き出せるものは全部吐き出したいのでここでも何か言おうと思ったけど、特に何も言うことがなくて今ちょっと自分でびっくりしている。何か言いたいことが山のようにあった気がしていたけど、具体的に考えてみるとそこには何もなかったようで。

一昨年の秋に短編が載ってデビューして去年の夏に連載が始まった。東京に来てから漫画だけ描いて暮らしている(連載が始まるまではアシスタント)ので漫画だけの生活にも慣れてきたと思う。こっちに越してきてはじめは水道水が不味くて飲めなくてミネラルウォーターを買っていたけど、今ではそのまま平気でゴクゴクと飲めるようになってしまった。不眠症なので心療内科に10年位通院しているけど、東京に引っ越して来て3年位は新しい病院を探すのが面倒で、代りに毎日お酒を飲んで寝ていたら10キロも太ってしまったので1年位前からまたちゃんと通院するようになった。

15年位毎年続けて映画を100本以上観ていたと思うけど、去年はその半分も見なかったような気がする。精神的なゆとりと生活環境の変化がそうさせたのだろうけど、今後もそういう風に意識したりしなかったりしながら続けていたものが終わったり、また何か替りに始まったりするんだろう。人間関係なんかもそうやって少しづつ刷新されている気がする。

いつも新しいノートに新しい鉛筆で線を引くような気持ちでいられたらいいのになあと思う。慣れたり諦めたり、力が続かないだとか、そんなことではなく。初めのページに何か試し書きでもするかのように、自由に伸び伸びといられたらいいのに。何もないところから始めていく、そんな感じで。
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押井守について/青春の見た夢

2016-10-22 18:30:53 | MOVIE
『うる星やつら』がメモリアルだとかいう話を耳にして仕事先でその話をしたところ、いつも作業中に流すものは音楽かアニメかドラマの連続物だったので、今回は『うる星やつら』でも流しましょうかとAmazonプライムの恩恵に授かった。TVシリーズは多分高校性の時に見て以来なので15年ぶりになるのではないかと思うと少し気が遠くなった。

『うる星やつら』は一番最初にアニメを好きになった作品の一つで、関西ではよく地方局の朝などに再放送をしており小学生、中学生、高校生と、その都度やっていたのを眺めていた。今回15年ぶりに見直して諸々の発見があった。なぜこの作品を好きになったのか、何が魅力だったのか、当時と今の心境やアニメのリテラシーの変化も含めて色々振り返らざるを得なかった。

流行りのアニメには疎い方だけどそもそもアニメも好きだし大学生時分は作品作ったりもした位だった。両親が共働きだったので、朝や夕方TVで再放送しているアニメを何度も見た。そしてその中の好きな作品の一つに『うる星やつら』もあった。高校の頃色々にくじけてあまり学校に行かなくなった頃から映画をよく見るようになったのだけれど、その時に自分はアニメも好きだったよなと思いだして何となく名作だといわれているものを片っ端から見ることにした。当時地元のTUTAYAはVHSのアニメのレンタルが当日だったら1本100円とかだったのでほぼ毎日通って何かしら見た記憶がある。ジブリとかガンダムとかエヴァとかパトレイバーとか。そういう生活が続いて大阪の梅田にある予備校に通うようになった頃、そこのTSUTAYAの品ぞろえが地元とは違っていて東映劇場アニメとかヨーロッパのアートアニメもその流れの中で見たと思う。

15年前…。高校時代は楽しいものだとなんとなく思い込んでいたのだけれど、蓋を開けてみると楽しい事なんか何一つなかった。地方のベットタウンの中流家庭の学力も飛び抜けて高くもなければ低くもない男女が集まった公立高校が苦痛でしょうがなかった。平日の昼日中学校をサボって、明かりも点けず薄暗いマンションの居間でサンテレビでやっていた『うる星やつら』の再放送をまたぞろボンヤリと眺めていた。小学校や中学の時にも再放送されていたので大体見たことのあるエピソードだった。罪悪感と倦怠感にさいなまれてどうしようもなくなっている時に見る『うる星やつら』はいつも最高だった。主人公のあたるとラムがおこす狂騒とたまに見せるセンチなエピソードに気づかない内に心を鷲掴みにされていた。

『うる星やつら』を観返していてそういう日々の思い出がボロボロこぼれて少し辛かった。登場するキャラクターの中では三宅しのぶが一番好きだったことを思いだした。登場当初はあたるの元彼女という設定で当て馬的なポジショニングであったが、面堂終太郎のキャラが崩壊し始めた辺りからしのぶも自らを確立していき『男なんて~…!!』と机を持ち上げ投げ飛ばすというヒステリーギャグを得て、芯のあるキャラクターになった。なぜしのぶを好きになったかというと、元カレのあたるもイケメンの面堂も男は皆どうしようもなく、乙女心を持て余して怒りに任せて机をブン投げる姿に自らを投影していたのだなという発見があった。高校時分のメンタリティーがしのぶに重なるというのもよくわからないが、今も少女漫画が好きだったり女性が物語の中で怒りに身を委ねている姿にとてもカタルシスを感じるので、あまり変わってはいないな、とも思うが。

少し前にアニメ業界で働く友人と話をしている時にふと押井守の話になった。友人は押井守の大ファンで彼のメルマガを購読するくらいのコアさなので私は足元にも及ばないが、友人との話の結論は押井守は青春を描ける作家であり彼の白眉はそこにあるということだった。押井守はよく自作を語る作家なので皆彼の発言に引っ張られ過ぎているのではないかという話になり、ミリタリーオタク的な薀蓄、シネフィル的な引用、アニメーションの技法など様々に語るのだけれどもそこは作品の一端に過ぎないのだという事を、年甲斐もなく熱く語り合ったのだった。深夜から夜明けまで。

その後TVシリーズを見直していて押井守が後に至るまで使用する技が各話事に開発され洗練していく様が通しで見ていて発見できて興奮した。特に第1シーズンでは1話が15分と短く、スラップスティックでナンセンスなギャグの応酬で物事がエスカレートして行く様を描く時に押井守は光っていた。事件に巻き込まれたキャラクター達が最後には群衆となって友引町を駆け回りこれという落ちもなく投げっぱなして終わる話が多く、それが何とも言えず爽快だった。そういった話は大体アニメオリジナルエピソードっだった。第2シーズンからは1話30分となって、ドタバタの中でたくさん登場したキャラクター達をゆっくり掘り下げる方向で話が展開することが多かった。連続で見ていて最初はそれに少し違和感があったが、ラムやそれを取り巻く登場人物の可愛らしさなどが表現される話が多くそれはまた別の魅力として受け取ることが出来た。印象としては原作に忠実に丁寧に話が作られることが増えたように見えた。そして第3シーズンはその二つがより合わさってエピソードの完成度が物凄く増していった。前半15分或は後半で高橋留美子の原作をやって残りの半分はオリジナルエピソードでやるという方法論が確立された。前半で物凄いドタバタをやって後半で原作のちょっとセンチでナンセンスな物語をしっとりと描くのだった。それは押井守が描く青春なんだという発見があった。それは祭りの狂騒とその後に静寂と共に訪れるセンチメンタルだった。始まりは単なるナンセンスでアナーキーなギャグでしかなかったものが可愛らしいキャラクターと少しナンセンスなエピソードに絡み合うことによって、青春群像の物語として完成したのだった。

例えば何かしらの事件についてキャラクターがドタバタドタバタとギャグの応酬をしたところで急に電車のSEが入ってその狂想から少し距離をとってるキャラクターが喫茶店などでその状況を冷静に滔々と説明してる絵をゆっくりトラックアップで見せる。といったような押井守印の演出にもその一端が伺えると思う。『うる星やつら』から始まって『パトレイバー』のOVAや劇場版、『ご先祖様万々歳』に『攻殻機動隊』に至るまでどれもそのロジックが通底していることを再確認した。

確か小学4年生の頃、夏休みに教育テレビでいつもと違う時間に『うる星やつらが』やっていた。砂漠をホバークラフトのような乗り物にまたがり笑顔であたるに向って「ダーリ~ン!」と手を振るラムの姿を眺めていて、コレは自分が知っている『うる星やつら』と何かが違う気がするとその時に思った。その作品は後に18歳の頃、押井守の名作として観た『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』だったのだと知った。あの頃は過去の名作が続々とDVD化され、それを順番に見ていてその記憶を思いだした時に自分にとって『うる星やつら』は思い出と共に大事な作品となっていた。

そこから美術系の大学に進み色々学ぶ中で、自分はかなり偏った作家主義的なものの見方で映画なりアニメなりを見るようになってしまったのだけれど、今『うる星やつら』を見直して思うのは、様々な要因によってマスターピースは作られたのだという事だ。81年放映当時のニューウェーブ全勢でアナーキーな演出が許された時代背景、第2シーズンの特に押井演出以外で頻繁にあったラムがとても可愛いく演出される今でいう所の美少女ものの基盤となる様なエピソード、原作の持っている人物設計など一言では語りきれないほど複雑な要素が作品の中にひしめいていた事に気が付けたのだった。

昔は雑誌で仕入れた情報を元にレンタルで色々借りていたが、今はSNSで流れてきた情報を元にアマゾンプライムで見ているので変わったような変わっていないようなそういった感慨もあった。自分の生活も変わったといえば変わったようにも感じる。

ただ一つ、変わらないものは名作だ。名作とはダイヤモンドのように見る時の角度によって輝きを変える本当に貴重で美しいものなのだと、秋の夜長に風呂の中で一人ごちていた。




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黒澤明について

2016-10-01 16:54:09 | MOVIE
実に2年ぶりの更新。久しぶりに長めの文章書きたくなったので自分用のメモ程度。



『赤ひげ』黒澤明監督1965年

レンタルで観た。自分にとっては長らく謎の作家だった黒澤明だが今回観た作品で色々腑に落ちた。中2の頃に『生きる』を観てそこから足掛け15年以上。やっと作家の特性を理解するに至れたような気がしている。

黒澤映画の特徴はそのダイナミズムにある。思春期の頃に観た時もそれくらい理解は出来た。が、いかんせん最初に観たのが『生きる』『生きものの記録』『羅生門』というラインナップであんまりピンとこず離れてしまった。そこから黒澤監督作品を大体半分位観た段階が今現在。やはり『七人の侍』が一番傑作だったし、なぜそれから観なかったのかと中学生時代の自分の襟首掴んで引きずり回したくなる。来週10/8日から午前10時の映画祭で『七人の侍』4Kリマスター版が新宿TOHOシネマでかかるので忘れずに観に行かないといけない。

そもそも黒澤明の特徴はその過剰な演出にあると思う。雨や風が人や街を打ちつける、霧や砂埃が容赦なく世界を包む、なぜそこまでというほど過剰に。それが全てといってもいいくらいで、ではそれは何かと問われたら、一言でいえば混沌と言い変えることが出来る。黒澤は混沌に名をつけることが出来る作家、というのが今のところの結論。

『七人の侍』の菊千代(三船敏郎)に代表されるようなキャラクターがそれを体現している。農民でもない、侍でもない、怒りを身体全体を使って表現するような過剰で野蛮な人間。そういった人間の持つ生命力を賛歌するのが黒澤映画だと思う。『七人の侍』では農民と侍と野武士との三すくみが入り乱れる混沌とした状況を、持ち前の構成力で区画整理し粒立ててそこで交換される生命力を圧倒的な迫力を持って描き切っていたと思う。しかしそれは諸刃の剣でもあってあまりにも過剰に演出するあまり人物造形、特に女性の描き方で黒澤映画に関心した記憶はほとんどない。繊細な心のグラデーションを描くことにその作家性が不向きであるということだと思う。自分はどちらかといえば溝口や成瀬や木下といった女性映画を得意とする監督にひかれる傾向があるので、若い頃は黒澤のその過剰さゆえの手つきが何かがさつに感じられ得意ではなかった。よく黒澤映画の時代劇を表する時にリアリズムという言葉を使うのを目にするが、それがいつも疑問だった。リアリズムというよりもそれは、それまでの様式化されたチャンバラ映画をダイナミズムを持って解放したといった方が正しいように思う。

『赤ひげ』はそんな黒澤映画の特質が良くも悪くも出ていた映画だった。医療をテーマに人の生き死にに物語として肉薄するにはいささかダイナミズムだけでは片手落ちの感があり、女子供といった弱者を描く時に側面的になりすぎるきらいがあるので作家性にテーマがそぐわないように感じた。ただ大掛かりなセットや撮影の美しさは目を見張るものがあり黒澤映画の面目躍如といったところだった。しかしなぜ『赤ひげ』をみて黒澤映画に対する謎が解けたかというと、その物語の構成上の人物設計の巧みさに、作家性の良し悪しが端的に表れていたからだ。

『あかひげ』の主人公は江戸の小石川療生所のボスこと赤ひげ(三船敏郎)ではなく、そこに自らの意には反して勤めなくてはならなくなった青年、保本(加山雄三)である。この保本の成長がこの物語の骨子になるのだがそれを表すシーンがいくつかあった。最初保本は長崎でオランダ医術を学んだ跳ねっ返りとして登場するも、その未熟さ故、冒頭の老人の終身場面ではそれをまともに見据えることも出来ずに目を逸らせてしまう。そして物語中盤二度目の終身場面がある。大雨の降る長屋の一室で保本は長屋の中で尊敬を集めていた佐八の隠された懺悔を聞きながらその死を長屋の大勢の仲間と共に看取る。それは佐八とおなかの悲恋。地震による別れやその後悔による、おなかの佐八の腕の中で行われる自死。それらが大雨の中での回想シーンで、強風に煽られる画面いっぱいの風鈴やその音、地震による家屋の倒壊と土煙、といった様々な要因の交錯によるところを美しいカメラで捉えておりこの映画の中の白眉となっている。この悲恋ははまさに人の世のままならなさ、いわゆる混沌である。その混沌を見据えた保本はここから小石川養生所で勤めることを本懐として生まれ変わる。岡場所で周りから愛されることを知らないで育ったおとよを看病し、そのおとよが唯一保本以外に心を許した子、長次の死などを経て季節も廻り保本は小石川養生所に来た時の怒りの元となっていた、許嫁ちぐさの裏切りの傷も癒えその妹と結婚することとなる。物語終盤の保本の婚礼のシーンでは冬であるにもかかわらず部屋の障子の開け放たれた中庭には、雪が静かに降り積もっている。幕府の御殿医の話を断り養生所で働き続ける決意を話した保本の心の中はもう最初の頃のような怒りはない。大雨の中混沌と共に死にゆく人間を見据え、そして自分の本懐を定めて生きることを決意した時に外に降るのは静かな雪である。そして冒頭で養生所の門をくぐって始まった物語も、赤ひげと共に養生所の門をくぐって閉じられる。

黒澤が物語の中で象徴する混沌が分かりやすく表れていたので少々長くなったが説明してみた。黒澤映画はこれの連続だ。『酔いどれ天使』の街のゴミが流れつく泥の川、『七人の侍』の決闘の大雨や地面の泥濘、『用心棒』の乱闘の嵐に舞う土煙、枚挙にいとまがない。ただダイナミズムの中にそれを象徴させるのには十分なのだが、やはりそれでは描ききれない部分が出てくる。『赤ひげ』では弱者が自らをそのように表現する時の行動があまりにティピカルで短絡的に見えてしまう、特に女子供で顕著だ。物語の要請上そのように直接的な台詞や行動をとることは仕方がないことにせよ、本来であるなら混沌そのものであるはずの子供や少女を弱さの象徴としてキャラクターにしてしまうところにその作家性の限界を感じてしまった。

というふうに思いはしたけれど、しかし過剰さを武器にダイナミクスを表現している時の黒澤はやはり光り輝いている。極端なキャラクターたちは物語のシンボリズムの中で躍動して大きな時間の中に存在している。混沌をそういった事象でつかむことのできる作家は世界の中でもそうはいない。自分には欠けている感性なだけに昔は相容れなかったけどようやく楽しめるようになった。時間はかかったけど。さて次見る黒澤映画は何がいいのだろうか。4Kリマスターの『七人の侍』を劇場で観てしまったら、それ以上はもうないような気もするけど。

 


しかし、どうして黒澤がえがく医者はああいつも眉間に皺を寄せてフンッ!っと鼻息を立てているんだろうか。『赤ひげ』の三船敏郎しかり『酔いどれ天使の』志村喬しかり。私は弱っている時にあんな医者にはかかりたくはないが黒澤明はそうじゃないのだろうか。


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八月

2014-09-01 22:55:45 | LIFE
近況としては、月末に知り合いの人から声がかかり、学生時代にかなり好きで読んでいた人のところに仕事を手伝いに行くことになった。仕事としては背景を書いたりPCでトーン作業をするくらいなのでなんとかなりましたが、仕事が押してコミティアにいけなかった。というよりも31日から1日の昼迄徹夜で作業だった。疲れた頭で映画を見るのが好きなので、仕事終わりに映画館の前まで行きましたが月頭1日の映画デーなので行列が出来ており列に並ぶ体力は残ってなかったので退散。ムカついたのでDVDと漫画を買って帰った。

中旬ごろ家族と遠くまで旅行に行った。家族との旅行なんて実に、15年ぶりくらいになると思う。行きの飛行機内で『LEGO THE MOVIE』を見て、面白すぎたので連続で2回見た。アメリカSF映画の総決算のような内容で、アメリカの良心とPOPカルチャーのあいのこ感が素晴らしくて、母の隣の席で半泣きで座席の後ろのちっせーモニター眺めていた。

言葉の通じない街で一人うろうろしながら、パブで孤独にビール飲んだり行きたかった美術館にいったり色々写真撮ったり楽しかったです。

明日1日オフが終わったらまた手伝い仕事が始まるので、色々したいことやしなきゃのことがありますが、うっちゃって1つくらいしか出来ない。今月は仕事してるか、本読んでるか、映画見てるか、コンテひっかきまわしているかしかしていない。まあ中旬頃に長い時間地ビール飲みながらぼんやりしていたのでしょうがないが。色々がんばりたい。

機内でよんだピンチョンの『LAヴァイス』がさすがの面白さだった。
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