サイドキック日記

酒場での愉しさは酒場までの道の愉しさに及ばず。
永美太郎の記録。

押井守について/青春の見た夢

2016-10-22 18:30:53 | MOVIE
『うる星やつら』がメモリアルだとかいう話を耳にして仕事先でその話をしたところ、いつも作業中に流すものは音楽かアニメかドラマの連続物だったので、今回は『うる星やつら』でも流しましょうかとAmazonプライムの恩恵に授かった。TVシリーズは多分高校性の時に見て以来なので15年ぶりになるのではないかと思うと少し気が遠くなった。

『うる星やつら』は一番最初にアニメを好きになった作品の一つで、関西ではよく地方局の朝などに再放送をしており小学生、中学生、高校生と、その都度やっていたのを眺めていた。今回15年ぶりに見直して諸々の発見があった。なぜこの作品を好きになったのか、何が魅力だったのか、当時と今の心境やアニメのリテラシーの変化も含めて色々振り返らざるを得なかった。

流行りのアニメには疎い方だけどそもそもアニメも好きだし大学生時分は作品作ったりもした位だった。両親が共働きだったので、朝や夕方TVで再放送しているアニメを何度も見た。そしてその中の好きな作品の一つに『うる星やつら』もあった。高校の頃色々にくじけてあまり学校に行かなくなった頃から映画をよく見るようになったのだけれど、その時に自分はアニメも好きだったよなと思いだして何となく名作だといわれているものを片っ端から見ることにした。当時地元のTUTAYAはVHSのアニメのレンタルが当日だったら1本100円とかだったのでほぼ毎日通って何かしら見た記憶がある。ジブリとかガンダムとかエヴァとかパトレイバーとか。そういう生活が続いて大阪の梅田にある予備校に通うようになった頃、そこのTSUTAYAの品ぞろえが地元とは違っていて東映劇場アニメとかヨーロッパのアートアニメもその流れの中で見たと思う。

15年前…。高校時代は楽しいものだとなんとなく思い込んでいたのだけれど、蓋を開けてみると楽しい事なんか何一つなかった。地方のベットタウンの中流家庭の学力も飛び抜けて高くもなければ低くもない男女が集まった公立高校が苦痛でしょうがなかった。平日の昼日中学校をサボって、明かりも点けず薄暗いマンションの居間でサンテレビでやっていた『うる星やつら』の再放送をまたぞろボンヤリと眺めていた。小学校や中学の時にも再放送されていたので大体見たことのあるエピソードだった。罪悪感と倦怠感にさいなまれてどうしようもなくなっている時に見る『うる星やつら』はいつも最高だった。主人公のあたるとラムがおこす狂騒とたまに見せるセンチなエピソードに気づかない内に心を鷲掴みにされていた。

『うる星やつら』を観返していてそういう日々の思い出がボロボロこぼれて少し辛かった。登場するキャラクターの中では三宅しのぶが一番好きだったことを思いだした。登場当初はあたるの元彼女という設定で当て馬的なポジショニングであったが、面堂終太郎のキャラが崩壊し始めた辺りからしのぶも自らを確立していき『男なんて~…!!』と机を持ち上げ投げ飛ばすというヒステリーギャグを得て、芯のあるキャラクターになった。なぜしのぶを好きになったかというと、元カレのあたるもイケメンの面堂も男は皆どうしようもなく、乙女心を持て余して怒りに任せて机をブン投げる姿に自らを投影していたのだなという発見があった。高校時分のメンタリティーがしのぶに重なるというのもよくわからないが、今も少女漫画が好きだったり女性が物語の中で怒りに身を委ねている姿にとてもカタルシスを感じるので、あまり変わってはいないな、とも思うが。

少し前にアニメ業界で働く友人と話をしている時にふと押井守の話になった。友人は押井守の大ファンで彼のメルマガを購読するくらいのコアさなので私は足元にも及ばないが、友人との話の結論は押井守は青春を描ける作家であり彼の白眉はそこにあるということだった。押井守はよく自作を語る作家なので皆彼の発言に引っ張られ過ぎているのではないかという話になり、ミリタリーオタク的な薀蓄、シネフィル的な引用、アニメーションの技法など様々に語るのだけれどもそこは作品の一端に過ぎないのだという事を、年甲斐もなく熱く語り合ったのだった。深夜から夜明けまで。

その後TVシリーズを見直していて押井守が後に至るまで使用する技が各話事に開発され洗練していく様が通しで見ていて発見できて興奮した。特に第1シーズンでは1話が15分と短く、スラップスティックでナンセンスなギャグの応酬で物事がエスカレートして行く様を描く時に押井守は光っていた。事件に巻き込まれたキャラクター達が最後には群衆となって友引町を駆け回りこれという落ちもなく投げっぱなして終わる話が多く、それが何とも言えず爽快だった。そういった話は大体アニメオリジナルエピソードっだった。第2シーズンからは1話30分となって、ドタバタの中でたくさん登場したキャラクター達をゆっくり掘り下げる方向で話が展開することが多かった。連続で見ていて最初はそれに少し違和感があったが、ラムやそれを取り巻く登場人物の可愛らしさなどが表現される話が多くそれはまた別の魅力として受け取ることが出来た。印象としては原作に忠実に丁寧に話が作られることが増えたように見えた。そして第3シーズンはその二つがより合わさってエピソードの完成度が物凄く増していった。前半15分或は後半で高橋留美子の原作をやって残りの半分はオリジナルエピソードでやるという方法論が確立された。前半で物凄いドタバタをやって後半で原作のちょっとセンチでナンセンスな物語をしっとりと描くのだった。それは押井守が描く青春なんだという発見があった。それは祭りの狂騒とその後に静寂と共に訪れるセンチメンタルだった。始まりは単なるナンセンスでアナーキーなギャグでしかなかったものが可愛らしいキャラクターと少しナンセンスなエピソードに絡み合うことによって、青春群像の物語として完成したのだった。

例えば何かしらの事件についてキャラクターがドタバタドタバタとギャグの応酬をしたところで急に電車のSEが入ってその狂想から少し距離をとってるキャラクターが喫茶店などでその状況を冷静に滔々と説明してる絵をゆっくりトラックアップで見せる。といったような押井守印の演出にもその一端が伺えると思う。『うる星やつら』から始まって『パトレイバー』のOVAや劇場版、『ご先祖様万々歳』に『攻殻機動隊』に至るまでどれもそのロジックが通底していることを再確認した。

確か小学4年生の頃、夏休みに教育テレビでいつもと違う時間に『うる星やつらが』やっていた。砂漠をホバークラフトのような乗り物にまたがり笑顔であたるに向って「ダーリ~ン!」と手を振るラムの姿を眺めていて、コレは自分が知っている『うる星やつら』と何かが違う気がするとその時に思った。その作品は後に18歳の頃、押井守の名作として観た『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』だったのだと知った。あの頃は過去の名作が続々とDVD化され、それを順番に見ていてその記憶を思いだした時に自分にとって『うる星やつら』は思い出と共に大事な作品となっていた。

そこから美術系の大学に進み色々学ぶ中で、自分はかなり偏った作家主義的なものの見方で映画なりアニメなりを見るようになってしまったのだけれど、今『うる星やつら』を見直して思うのは、様々な要因によってマスターピースは作られたのだという事だ。81年放映当時のニューウェーブ全勢でアナーキーな演出が許された時代背景、第2シーズンの特に押井演出以外で頻繁にあったラムがとても可愛いく演出される今でいう所の美少女ものの基盤となる様なエピソード、原作の持っている人物設計など一言では語りきれないほど複雑な要素が作品の中にひしめいていた事に気が付けたのだった。

昔は雑誌で仕入れた情報を元にレンタルで色々借りていたが、今はSNSで流れてきた情報を元にアマゾンプライムで見ているので変わったような変わっていないようなそういった感慨もあった。自分の生活も変わったといえば変わったようにも感じる。

ただ一つ、変わらないものは名作だ。名作とはダイヤモンドのように見る時の角度によって輝きを変える本当に貴重で美しいものなのだと、秋の夜長に風呂の中で一人ごちていた。





黒澤明について

2016-10-01 16:54:09 | MOVIE
実に2年ぶりの更新。久しぶりに長めの文章書きたくなったので自分用のメモ程度。



『赤ひげ』黒澤明監督1965年

レンタルで観た。自分にとっては長らく謎の作家だった黒澤明だが今回観た作品で色々腑に落ちた。中2の頃に『生きる』を観てそこから足掛け15年以上。やっと作家の特性を理解するに至れたような気がしている。

黒澤映画の特徴はそのダイナミズムにある。思春期の頃に観た時もそれくらい理解は出来た。が、いかんせん最初に観たのが『生きる』『生きものの記録』『羅生門』というラインナップであんまりピンとこず離れてしまった。そこから黒澤監督作品を大体半分位観た段階が今現在。やはり『七人の侍』が一番傑作だったし、なぜそれから観なかったのかと中学生時代の自分の襟首掴んで引きずり回したくなる。来週10/8日から午前10時の映画祭で『七人の侍』4Kリマスター版が新宿TOHOシネマでかかるので忘れずに観に行かないといけない。

そもそも黒澤明の特徴はその過剰な演出にあると思う。雨や風が人や街を打ちつける、霧や砂埃が容赦なく世界を包む、なぜそこまでというほど過剰に。それが全てといってもいいくらいで、ではそれは何かと問われたら、一言でいえば混沌と言い変えることが出来る。黒澤は混沌に名をつけることが出来る作家、というのが今のところの結論。

『七人の侍』の菊千代(三船敏郎)に代表されるようなキャラクターがそれを体現している。農民でもない、侍でもない、怒りを身体全体を使って表現するような過剰で野蛮な人間。そういった人間の持つ生命力を賛歌するのが黒澤映画だと思う。『七人の侍』では農民と侍と野武士との三すくみが入り乱れる混沌とした状況を、持ち前の構成力で区画整理し粒立ててそこで交換される生命力を圧倒的な迫力を持って描き切っていたと思う。しかしそれは諸刃の剣でもあってあまりにも過剰に演出するあまり人物造形、特に女性の描き方で黒澤映画に関心した記憶はほとんどない。繊細な心のグラデーションを描くことにその作家性が不向きであるということだと思う。自分はどちらかといえば溝口や成瀬や木下といった女性映画を得意とする監督にひかれる傾向があるので、若い頃は黒澤のその過剰さゆえの手つきが何かがさつに感じられ得意ではなかった。よく黒澤映画の時代劇を表する時にリアリズムという言葉を使うのを目にするが、それがいつも疑問だった。リアリズムというよりもそれは、それまでの様式化されたチャンバラ映画をダイナミズムを持って解放したといった方が正しいように思う。

『赤ひげ』はそんな黒澤映画の特質が良くも悪くも出ていた映画だった。医療をテーマに人の生き死にに物語として肉薄するにはいささかダイナミズムだけでは片手落ちの感があり、女子供といった弱者を描く時に側面的になりすぎるきらいがあるので作家性にテーマがそぐわないように感じた。ただ大掛かりなセットや撮影の美しさは目を見張るものがあり黒澤映画の面目躍如といったところだった。しかしなぜ『赤ひげ』をみて黒澤映画に対する謎が解けたかというと、その物語の構成上の人物設計の巧みさに、作家性の良し悪しが端的に表れていたからだ。

『あかひげ』の主人公は江戸の小石川療生所のボスこと赤ひげ(三船敏郎)ではなく、そこに自らの意には反して勤めなくてはならなくなった青年、保本(加山雄三)である。この保本の成長がこの物語の骨子になるのだがそれを表すシーンがいくつかあった。最初保本は長崎でオランダ医術を学んだ跳ねっ返りとして登場するも、その未熟さ故、冒頭の老人の終身場面ではそれをまともに見据えることも出来ずに目を逸らせてしまう。そして物語中盤二度目の終身場面がある。大雨の降る長屋の一室で保本は長屋の中で尊敬を集めていた佐八の隠された懺悔を聞きながらその死を長屋の大勢の仲間と共に看取る。それは佐八とおなかの悲恋。地震による別れやその後悔による、おなかの佐八の腕の中で行われる自死。それらが大雨の中での回想シーンで、強風に煽られる画面いっぱいの風鈴やその音、地震による家屋の倒壊と土煙、といった様々な要因の交錯によるところを美しいカメラで捉えておりこの映画の中の白眉となっている。この悲恋ははまさに人の世のままならなさ、いわゆる混沌である。その混沌を見据えた保本はここから小石川養生所で勤めることを本懐として生まれ変わる。岡場所で周りから愛されることを知らないで育ったおとよを看病し、そのおとよが唯一保本以外に心を許した子、長次の死などを経て季節も廻り保本は小石川養生所に来た時の怒りの元となっていた、許嫁ちぐさの裏切りの傷も癒えその妹と結婚することとなる。物語終盤の保本の婚礼のシーンでは冬であるにもかかわらず部屋の障子の開け放たれた中庭には、雪が静かに降り積もっている。幕府の御殿医の話を断り養生所で働き続ける決意を話した保本の心の中はもう最初の頃のような怒りはない。大雨の中混沌と共に死にゆく人間を見据え、そして自分の本懐を定めて生きることを決意した時に外に降るのは静かな雪である。そして冒頭で養生所の門をくぐって始まった物語も、赤ひげと共に養生所の門をくぐって閉じられる。

黒澤が物語の中で象徴する混沌が分かりやすく表れていたので少々長くなったが説明してみた。黒澤映画はこれの連続だ。『酔いどれ天使』の街のゴミが流れつく泥の川、『七人の侍』の決闘の大雨や地面の泥濘、『用心棒』の乱闘の嵐に舞う土煙、枚挙にいとまがない。ただダイナミズムの中にそれを象徴させるのには十分なのだが、やはりそれでは描ききれない部分が出てくる。『赤ひげ』では弱者が自らをそのように表現する時の行動があまりにティピカルで短絡的に見えてしまう、特に女子供で顕著だ。物語の要請上そのように直接的な台詞や行動をとることは仕方がないことにせよ、本来であるなら混沌そのものであるはずの子供や少女を弱さの象徴としてキャラクターにしてしまうところにその作家性の限界を感じてしまった。

というふうに思いはしたけれど、しかし過剰さを武器にダイナミクスを表現している時の黒澤はやはり光り輝いている。極端なキャラクターたちは物語のシンボリズムの中で躍動して大きな時間の中に存在している。混沌をそういった事象でつかむことのできる作家は世界の中でもそうはいない。自分には欠けている感性なだけに昔は相容れなかったけどようやく楽しめるようになった。時間はかかったけど。さて次見る黒澤映画は何がいいのだろうか。4Kリマスターの『七人の侍』を劇場で観てしまったら、それ以上はもうないような気もするけど。

 


しかし、どうして黒澤がえがく医者はああいつも眉間に皺を寄せてフンッ!っと鼻息を立てているんだろうか。『赤ひげ』の三船敏郎しかり『酔いどれ天使の』志村喬しかり。私は弱っている時にあんな医者にはかかりたくはないが黒澤明はそうじゃないのだろうか。