『うる星やつら』がメモリアルだとかいう話を耳にして仕事先でその話をしたところ、いつも作業中に流すものは音楽かアニメかドラマの連続物だったので、今回は『うる星やつら』でも流しましょうかとAmazonプライムの恩恵に授かった。TVシリーズは多分高校性の時に見て以来なので15年ぶりになるのではないかと思うと少し気が遠くなった。
『うる星やつら』は一番最初にアニメを好きになった作品の一つで、関西ではよく地方局の朝などに再放送をしており小学生、中学生、高校生と、その都度やっていたのを眺めていた。今回15年ぶりに見直して諸々の発見があった。なぜこの作品を好きになったのか、何が魅力だったのか、当時と今の心境やアニメのリテラシーの変化も含めて色々振り返らざるを得なかった。
流行りのアニメには疎い方だけどそもそもアニメも好きだし大学生時分は作品作ったりもした位だった。両親が共働きだったので、朝や夕方TVで再放送しているアニメを何度も見た。そしてその中の好きな作品の一つに『うる星やつら』もあった。高校の頃色々にくじけてあまり学校に行かなくなった頃から映画をよく見るようになったのだけれど、その時に自分はアニメも好きだったよなと思いだして何となく名作だといわれているものを片っ端から見ることにした。当時地元のTUTAYAはVHSのアニメのレンタルが当日だったら1本100円とかだったのでほぼ毎日通って何かしら見た記憶がある。ジブリとかガンダムとかエヴァとかパトレイバーとか。そういう生活が続いて大阪の梅田にある予備校に通うようになった頃、そこのTSUTAYAの品ぞろえが地元とは違っていて東映劇場アニメとかヨーロッパのアートアニメもその流れの中で見たと思う。
15年前…。高校時代は楽しいものだとなんとなく思い込んでいたのだけれど、蓋を開けてみると楽しい事なんか何一つなかった。地方のベットタウンの中流家庭の学力も飛び抜けて高くもなければ低くもない男女が集まった公立高校が苦痛でしょうがなかった。平日の昼日中学校をサボって、明かりも点けず薄暗いマンションの居間でサンテレビでやっていた『うる星やつら』の再放送をまたぞろボンヤリと眺めていた。小学校や中学の時にも再放送されていたので大体見たことのあるエピソードだった。罪悪感と倦怠感にさいなまれてどうしようもなくなっている時に見る『うる星やつら』はいつも最高だった。主人公のあたるとラムがおこす狂騒とたまに見せるセンチなエピソードに気づかない内に心を鷲掴みにされていた。
『うる星やつら』を観返していてそういう日々の思い出がボロボロこぼれて少し辛かった。登場するキャラクターの中では三宅しのぶが一番好きだったことを思いだした。登場当初はあたるの元彼女という設定で当て馬的なポジショニングであったが、面堂終太郎のキャラが崩壊し始めた辺りからしのぶも自らを確立していき『男なんて~…!!』と机を持ち上げ投げ飛ばすというヒステリーギャグを得て、芯のあるキャラクターになった。なぜしのぶを好きになったかというと、元カレのあたるもイケメンの面堂も男は皆どうしようもなく、乙女心を持て余して怒りに任せて机をブン投げる姿に自らを投影していたのだなという発見があった。高校時分のメンタリティーがしのぶに重なるというのもよくわからないが、今も少女漫画が好きだったり女性が物語の中で怒りに身を委ねている姿にとてもカタルシスを感じるので、あまり変わってはいないな、とも思うが。
少し前にアニメ業界で働く友人と話をしている時にふと押井守の話になった。友人は押井守の大ファンで彼のメルマガを購読するくらいのコアさなので私は足元にも及ばないが、友人との話の結論は押井守は青春を描ける作家であり彼の白眉はそこにあるということだった。押井守はよく自作を語る作家なので皆彼の発言に引っ張られ過ぎているのではないかという話になり、ミリタリーオタク的な薀蓄、シネフィル的な引用、アニメーションの技法など様々に語るのだけれどもそこは作品の一端に過ぎないのだという事を、年甲斐もなく熱く語り合ったのだった。深夜から夜明けまで。
その後TVシリーズを見直していて押井守が後に至るまで使用する技が各話事に開発され洗練していく様が通しで見ていて発見できて興奮した。特に第1シーズンでは1話が15分と短く、スラップスティックでナンセンスなギャグの応酬で物事がエスカレートして行く様を描く時に押井守は光っていた。事件に巻き込まれたキャラクター達が最後には群衆となって友引町を駆け回りこれという落ちもなく投げっぱなして終わる話が多く、それが何とも言えず爽快だった。そういった話は大体アニメオリジナルエピソードっだった。第2シーズンからは1話30分となって、ドタバタの中でたくさん登場したキャラクター達をゆっくり掘り下げる方向で話が展開することが多かった。連続で見ていて最初はそれに少し違和感があったが、ラムやそれを取り巻く登場人物の可愛らしさなどが表現される話が多くそれはまた別の魅力として受け取ることが出来た。印象としては原作に忠実に丁寧に話が作られることが増えたように見えた。そして第3シーズンはその二つがより合わさってエピソードの完成度が物凄く増していった。前半15分或は後半で高橋留美子の原作をやって残りの半分はオリジナルエピソードでやるという方法論が確立された。前半で物凄いドタバタをやって後半で原作のちょっとセンチでナンセンスな物語をしっとりと描くのだった。それは押井守が描く青春なんだという発見があった。それは祭りの狂騒とその後に静寂と共に訪れるセンチメンタルだった。始まりは単なるナンセンスでアナーキーなギャグでしかなかったものが可愛らしいキャラクターと少しナンセンスなエピソードに絡み合うことによって、青春群像の物語として完成したのだった。
例えば何かしらの事件についてキャラクターがドタバタドタバタとギャグの応酬をしたところで急に電車のSEが入ってその狂想から少し距離をとってるキャラクターが喫茶店などでその状況を冷静に滔々と説明してる絵をゆっくりトラックアップで見せる。といったような押井守印の演出にもその一端が伺えると思う。『うる星やつら』から始まって『パトレイバー』のOVAや劇場版、『ご先祖様万々歳』に『攻殻機動隊』に至るまでどれもそのロジックが通底していることを再確認した。
確か小学4年生の頃、夏休みに教育テレビでいつもと違う時間に『うる星やつらが』やっていた。砂漠をホバークラフトのような乗り物にまたがり笑顔であたるに向って「ダーリ~ン!」と手を振るラムの姿を眺めていて、コレは自分が知っている『うる星やつら』と何かが違う気がするとその時に思った。その作品は後に18歳の頃、押井守の名作として観た『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』だったのだと知った。あの頃は過去の名作が続々とDVD化され、それを順番に見ていてその記憶を思いだした時に自分にとって『うる星やつら』は思い出と共に大事な作品となっていた。
そこから美術系の大学に進み色々学ぶ中で、自分はかなり偏った作家主義的なものの見方で映画なりアニメなりを見るようになってしまったのだけれど、今『うる星やつら』を見直して思うのは、様々な要因によってマスターピースは作られたのだという事だ。81年放映当時のニューウェーブ全勢でアナーキーな演出が許された時代背景、第2シーズンの特に押井演出以外で頻繁にあったラムがとても可愛いく演出される今でいう所の美少女ものの基盤となる様なエピソード、原作の持っている人物設計など一言では語りきれないほど複雑な要素が作品の中にひしめいていた事に気が付けたのだった。
昔は雑誌で仕入れた情報を元にレンタルで色々借りていたが、今はSNSで流れてきた情報を元にアマゾンプライムで見ているので変わったような変わっていないようなそういった感慨もあった。自分の生活も変わったといえば変わったようにも感じる。
ただ一つ、変わらないものは名作だ。名作とはダイヤモンドのように見る時の角度によって輝きを変える本当に貴重で美しいものなのだと、秋の夜長に風呂の中で一人ごちていた。
『うる星やつら』は一番最初にアニメを好きになった作品の一つで、関西ではよく地方局の朝などに再放送をしており小学生、中学生、高校生と、その都度やっていたのを眺めていた。今回15年ぶりに見直して諸々の発見があった。なぜこの作品を好きになったのか、何が魅力だったのか、当時と今の心境やアニメのリテラシーの変化も含めて色々振り返らざるを得なかった。
流行りのアニメには疎い方だけどそもそもアニメも好きだし大学生時分は作品作ったりもした位だった。両親が共働きだったので、朝や夕方TVで再放送しているアニメを何度も見た。そしてその中の好きな作品の一つに『うる星やつら』もあった。高校の頃色々にくじけてあまり学校に行かなくなった頃から映画をよく見るようになったのだけれど、その時に自分はアニメも好きだったよなと思いだして何となく名作だといわれているものを片っ端から見ることにした。当時地元のTUTAYAはVHSのアニメのレンタルが当日だったら1本100円とかだったのでほぼ毎日通って何かしら見た記憶がある。ジブリとかガンダムとかエヴァとかパトレイバーとか。そういう生活が続いて大阪の梅田にある予備校に通うようになった頃、そこのTSUTAYAの品ぞろえが地元とは違っていて東映劇場アニメとかヨーロッパのアートアニメもその流れの中で見たと思う。
15年前…。高校時代は楽しいものだとなんとなく思い込んでいたのだけれど、蓋を開けてみると楽しい事なんか何一つなかった。地方のベットタウンの中流家庭の学力も飛び抜けて高くもなければ低くもない男女が集まった公立高校が苦痛でしょうがなかった。平日の昼日中学校をサボって、明かりも点けず薄暗いマンションの居間でサンテレビでやっていた『うる星やつら』の再放送をまたぞろボンヤリと眺めていた。小学校や中学の時にも再放送されていたので大体見たことのあるエピソードだった。罪悪感と倦怠感にさいなまれてどうしようもなくなっている時に見る『うる星やつら』はいつも最高だった。主人公のあたるとラムがおこす狂騒とたまに見せるセンチなエピソードに気づかない内に心を鷲掴みにされていた。
『うる星やつら』を観返していてそういう日々の思い出がボロボロこぼれて少し辛かった。登場するキャラクターの中では三宅しのぶが一番好きだったことを思いだした。登場当初はあたるの元彼女という設定で当て馬的なポジショニングであったが、面堂終太郎のキャラが崩壊し始めた辺りからしのぶも自らを確立していき『男なんて~…!!』と机を持ち上げ投げ飛ばすというヒステリーギャグを得て、芯のあるキャラクターになった。なぜしのぶを好きになったかというと、元カレのあたるもイケメンの面堂も男は皆どうしようもなく、乙女心を持て余して怒りに任せて机をブン投げる姿に自らを投影していたのだなという発見があった。高校時分のメンタリティーがしのぶに重なるというのもよくわからないが、今も少女漫画が好きだったり女性が物語の中で怒りに身を委ねている姿にとてもカタルシスを感じるので、あまり変わってはいないな、とも思うが。
少し前にアニメ業界で働く友人と話をしている時にふと押井守の話になった。友人は押井守の大ファンで彼のメルマガを購読するくらいのコアさなので私は足元にも及ばないが、友人との話の結論は押井守は青春を描ける作家であり彼の白眉はそこにあるということだった。押井守はよく自作を語る作家なので皆彼の発言に引っ張られ過ぎているのではないかという話になり、ミリタリーオタク的な薀蓄、シネフィル的な引用、アニメーションの技法など様々に語るのだけれどもそこは作品の一端に過ぎないのだという事を、年甲斐もなく熱く語り合ったのだった。深夜から夜明けまで。
その後TVシリーズを見直していて押井守が後に至るまで使用する技が各話事に開発され洗練していく様が通しで見ていて発見できて興奮した。特に第1シーズンでは1話が15分と短く、スラップスティックでナンセンスなギャグの応酬で物事がエスカレートして行く様を描く時に押井守は光っていた。事件に巻き込まれたキャラクター達が最後には群衆となって友引町を駆け回りこれという落ちもなく投げっぱなして終わる話が多く、それが何とも言えず爽快だった。そういった話は大体アニメオリジナルエピソードっだった。第2シーズンからは1話30分となって、ドタバタの中でたくさん登場したキャラクター達をゆっくり掘り下げる方向で話が展開することが多かった。連続で見ていて最初はそれに少し違和感があったが、ラムやそれを取り巻く登場人物の可愛らしさなどが表現される話が多くそれはまた別の魅力として受け取ることが出来た。印象としては原作に忠実に丁寧に話が作られることが増えたように見えた。そして第3シーズンはその二つがより合わさってエピソードの完成度が物凄く増していった。前半15分或は後半で高橋留美子の原作をやって残りの半分はオリジナルエピソードでやるという方法論が確立された。前半で物凄いドタバタをやって後半で原作のちょっとセンチでナンセンスな物語をしっとりと描くのだった。それは押井守が描く青春なんだという発見があった。それは祭りの狂騒とその後に静寂と共に訪れるセンチメンタルだった。始まりは単なるナンセンスでアナーキーなギャグでしかなかったものが可愛らしいキャラクターと少しナンセンスなエピソードに絡み合うことによって、青春群像の物語として完成したのだった。
例えば何かしらの事件についてキャラクターがドタバタドタバタとギャグの応酬をしたところで急に電車のSEが入ってその狂想から少し距離をとってるキャラクターが喫茶店などでその状況を冷静に滔々と説明してる絵をゆっくりトラックアップで見せる。といったような押井守印の演出にもその一端が伺えると思う。『うる星やつら』から始まって『パトレイバー』のOVAや劇場版、『ご先祖様万々歳』に『攻殻機動隊』に至るまでどれもそのロジックが通底していることを再確認した。
確か小学4年生の頃、夏休みに教育テレビでいつもと違う時間に『うる星やつらが』やっていた。砂漠をホバークラフトのような乗り物にまたがり笑顔であたるに向って「ダーリ~ン!」と手を振るラムの姿を眺めていて、コレは自分が知っている『うる星やつら』と何かが違う気がするとその時に思った。その作品は後に18歳の頃、押井守の名作として観た『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』だったのだと知った。あの頃は過去の名作が続々とDVD化され、それを順番に見ていてその記憶を思いだした時に自分にとって『うる星やつら』は思い出と共に大事な作品となっていた。
そこから美術系の大学に進み色々学ぶ中で、自分はかなり偏った作家主義的なものの見方で映画なりアニメなりを見るようになってしまったのだけれど、今『うる星やつら』を見直して思うのは、様々な要因によってマスターピースは作られたのだという事だ。81年放映当時のニューウェーブ全勢でアナーキーな演出が許された時代背景、第2シーズンの特に押井演出以外で頻繁にあったラムがとても可愛いく演出される今でいう所の美少女ものの基盤となる様なエピソード、原作の持っている人物設計など一言では語りきれないほど複雑な要素が作品の中にひしめいていた事に気が付けたのだった。
昔は雑誌で仕入れた情報を元にレンタルで色々借りていたが、今はSNSで流れてきた情報を元にアマゾンプライムで見ているので変わったような変わっていないようなそういった感慨もあった。自分の生活も変わったといえば変わったようにも感じる。
ただ一つ、変わらないものは名作だ。名作とはダイヤモンドのように見る時の角度によって輝きを変える本当に貴重で美しいものなのだと、秋の夜長に風呂の中で一人ごちていた。