サイドキック日記

酒場での愉しさは酒場までの道の愉しさに及ばず。
永美太郎の記録。

押井守について/青春の見た夢

2016-10-22 18:30:53 | MOVIE
『うる星やつら』がメモリアルだとかいう話を耳にして仕事先でその話をしたところ、いつも作業中に流すものは音楽かアニメかドラマの連続物だったので、今回は『うる星やつら』でも流しましょうかとAmazonプライムの恩恵に授かった。TVシリーズは多分高校性の時に見て以来なので15年ぶりになるのではないかと思うと少し気が遠くなった。

『うる星やつら』は一番最初にアニメを好きになった作品の一つで、関西ではよく地方局の朝などに再放送をしており小学生、中学生、高校生と、その都度やっていたのを眺めていた。今回15年ぶりに見直して諸々の発見があった。なぜこの作品を好きになったのか、何が魅力だったのか、当時と今の心境やアニメのリテラシーの変化も含めて色々振り返らざるを得なかった。

流行りのアニメには疎い方だけどそもそもアニメも好きだし大学生時分は作品作ったりもした位だった。両親が共働きだったので、朝や夕方TVで再放送しているアニメを何度も見た。そしてその中の好きな作品の一つに『うる星やつら』もあった。高校の頃色々にくじけてあまり学校に行かなくなった頃から映画をよく見るようになったのだけれど、その時に自分はアニメも好きだったよなと思いだして何となく名作だといわれているものを片っ端から見ることにした。当時地元のTUTAYAはVHSのアニメのレンタルが当日だったら1本100円とかだったのでほぼ毎日通って何かしら見た記憶がある。ジブリとかガンダムとかエヴァとかパトレイバーとか。そういう生活が続いて大阪の梅田にある予備校に通うようになった頃、そこのTSUTAYAの品ぞろえが地元とは違っていて東映劇場アニメとかヨーロッパのアートアニメもその流れの中で見たと思う。

15年前…。高校時代は楽しいものだとなんとなく思い込んでいたのだけれど、蓋を開けてみると楽しい事なんか何一つなかった。地方のベットタウンの中流家庭の学力も飛び抜けて高くもなければ低くもない男女が集まった公立高校が苦痛でしょうがなかった。平日の昼日中学校をサボって、明かりも点けず薄暗いマンションの居間でサンテレビでやっていた『うる星やつら』の再放送をまたぞろボンヤリと眺めていた。小学校や中学の時にも再放送されていたので大体見たことのあるエピソードだった。罪悪感と倦怠感にさいなまれてどうしようもなくなっている時に見る『うる星やつら』はいつも最高だった。主人公のあたるとラムがおこす狂騒とたまに見せるセンチなエピソードに気づかない内に心を鷲掴みにされていた。

『うる星やつら』を観返していてそういう日々の思い出がボロボロこぼれて少し辛かった。登場するキャラクターの中では三宅しのぶが一番好きだったことを思いだした。登場当初はあたるの元彼女という設定で当て馬的なポジショニングであったが、面堂終太郎のキャラが崩壊し始めた辺りからしのぶも自らを確立していき『男なんて~…!!』と机を持ち上げ投げ飛ばすというヒステリーギャグを得て、芯のあるキャラクターになった。なぜしのぶを好きになったかというと、元カレのあたるもイケメンの面堂も男は皆どうしようもなく、乙女心を持て余して怒りに任せて机をブン投げる姿に自らを投影していたのだなという発見があった。高校時分のメンタリティーがしのぶに重なるというのもよくわからないが、今も少女漫画が好きだったり女性が物語の中で怒りに身を委ねている姿にとてもカタルシスを感じるので、あまり変わってはいないな、とも思うが。

少し前にアニメ業界で働く友人と話をしている時にふと押井守の話になった。友人は押井守の大ファンで彼のメルマガを購読するくらいのコアさなので私は足元にも及ばないが、友人との話の結論は押井守は青春を描ける作家であり彼の白眉はそこにあるということだった。押井守はよく自作を語る作家なので皆彼の発言に引っ張られ過ぎているのではないかという話になり、ミリタリーオタク的な薀蓄、シネフィル的な引用、アニメーションの技法など様々に語るのだけれどもそこは作品の一端に過ぎないのだという事を、年甲斐もなく熱く語り合ったのだった。深夜から夜明けまで。

その後TVシリーズを見直していて押井守が後に至るまで使用する技が各話事に開発され洗練していく様が通しで見ていて発見できて興奮した。特に第1シーズンでは1話が15分と短く、スラップスティックでナンセンスなギャグの応酬で物事がエスカレートして行く様を描く時に押井守は光っていた。事件に巻き込まれたキャラクター達が最後には群衆となって友引町を駆け回りこれという落ちもなく投げっぱなして終わる話が多く、それが何とも言えず爽快だった。そういった話は大体アニメオリジナルエピソードっだった。第2シーズンからは1話30分となって、ドタバタの中でたくさん登場したキャラクター達をゆっくり掘り下げる方向で話が展開することが多かった。連続で見ていて最初はそれに少し違和感があったが、ラムやそれを取り巻く登場人物の可愛らしさなどが表現される話が多くそれはまた別の魅力として受け取ることが出来た。印象としては原作に忠実に丁寧に話が作られることが増えたように見えた。そして第3シーズンはその二つがより合わさってエピソードの完成度が物凄く増していった。前半15分或は後半で高橋留美子の原作をやって残りの半分はオリジナルエピソードでやるという方法論が確立された。前半で物凄いドタバタをやって後半で原作のちょっとセンチでナンセンスな物語をしっとりと描くのだった。それは押井守が描く青春なんだという発見があった。それは祭りの狂騒とその後に静寂と共に訪れるセンチメンタルだった。始まりは単なるナンセンスでアナーキーなギャグでしかなかったものが可愛らしいキャラクターと少しナンセンスなエピソードに絡み合うことによって、青春群像の物語として完成したのだった。

例えば何かしらの事件についてキャラクターがドタバタドタバタとギャグの応酬をしたところで急に電車のSEが入ってその狂想から少し距離をとってるキャラクターが喫茶店などでその状況を冷静に滔々と説明してる絵をゆっくりトラックアップで見せる。といったような押井守印の演出にもその一端が伺えると思う。『うる星やつら』から始まって『パトレイバー』のOVAや劇場版、『ご先祖様万々歳』に『攻殻機動隊』に至るまでどれもそのロジックが通底していることを再確認した。

確か小学4年生の頃、夏休みに教育テレビでいつもと違う時間に『うる星やつらが』やっていた。砂漠をホバークラフトのような乗り物にまたがり笑顔であたるに向って「ダーリ~ン!」と手を振るラムの姿を眺めていて、コレは自分が知っている『うる星やつら』と何かが違う気がするとその時に思った。その作品は後に18歳の頃、押井守の名作として観た『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』だったのだと知った。あの頃は過去の名作が続々とDVD化され、それを順番に見ていてその記憶を思いだした時に自分にとって『うる星やつら』は思い出と共に大事な作品となっていた。

そこから美術系の大学に進み色々学ぶ中で、自分はかなり偏った作家主義的なものの見方で映画なりアニメなりを見るようになってしまったのだけれど、今『うる星やつら』を見直して思うのは、様々な要因によってマスターピースは作られたのだという事だ。81年放映当時のニューウェーブ全勢でアナーキーな演出が許された時代背景、第2シーズンの特に押井演出以外で頻繁にあったラムがとても可愛いく演出される今でいう所の美少女ものの基盤となる様なエピソード、原作の持っている人物設計など一言では語りきれないほど複雑な要素が作品の中にひしめいていた事に気が付けたのだった。

昔は雑誌で仕入れた情報を元にレンタルで色々借りていたが、今はSNSで流れてきた情報を元にアマゾンプライムで見ているので変わったような変わっていないようなそういった感慨もあった。自分の生活も変わったといえば変わったようにも感じる。

ただ一つ、変わらないものは名作だ。名作とはダイヤモンドのように見る時の角度によって輝きを変える本当に貴重で美しいものなのだと、秋の夜長に風呂の中で一人ごちていた。





黒澤明について

2016-10-01 16:54:09 | MOVIE
実に2年ぶりの更新。久しぶりに長めの文章書きたくなったので自分用のメモ程度。



『赤ひげ』黒澤明監督1965年

レンタルで観た。自分にとっては長らく謎の作家だった黒澤明だが今回観た作品で色々腑に落ちた。中2の頃に『生きる』を観てそこから足掛け15年以上。やっと作家の特性を理解するに至れたような気がしている。

黒澤映画の特徴はそのダイナミズムにある。思春期の頃に観た時もそれくらい理解は出来た。が、いかんせん最初に観たのが『生きる』『生きものの記録』『羅生門』というラインナップであんまりピンとこず離れてしまった。そこから黒澤監督作品を大体半分位観た段階が今現在。やはり『七人の侍』が一番傑作だったし、なぜそれから観なかったのかと中学生時代の自分の襟首掴んで引きずり回したくなる。来週10/8日から午前10時の映画祭で『七人の侍』4Kリマスター版が新宿TOHOシネマでかかるので忘れずに観に行かないといけない。

そもそも黒澤明の特徴はその過剰な演出にあると思う。雨や風が人や街を打ちつける、霧や砂埃が容赦なく世界を包む、なぜそこまでというほど過剰に。それが全てといってもいいくらいで、ではそれは何かと問われたら、一言でいえば混沌と言い変えることが出来る。黒澤は混沌に名をつけることが出来る作家、というのが今のところの結論。

『七人の侍』の菊千代(三船敏郎)に代表されるようなキャラクターがそれを体現している。農民でもない、侍でもない、怒りを身体全体を使って表現するような過剰で野蛮な人間。そういった人間の持つ生命力を賛歌するのが黒澤映画だと思う。『七人の侍』では農民と侍と野武士との三すくみが入り乱れる混沌とした状況を、持ち前の構成力で区画整理し粒立ててそこで交換される生命力を圧倒的な迫力を持って描き切っていたと思う。しかしそれは諸刃の剣でもあってあまりにも過剰に演出するあまり人物造形、特に女性の描き方で黒澤映画に関心した記憶はほとんどない。繊細な心のグラデーションを描くことにその作家性が不向きであるということだと思う。自分はどちらかといえば溝口や成瀬や木下といった女性映画を得意とする監督にひかれる傾向があるので、若い頃は黒澤のその過剰さゆえの手つきが何かがさつに感じられ得意ではなかった。よく黒澤映画の時代劇を表する時にリアリズムという言葉を使うのを目にするが、それがいつも疑問だった。リアリズムというよりもそれは、それまでの様式化されたチャンバラ映画をダイナミズムを持って解放したといった方が正しいように思う。

『赤ひげ』はそんな黒澤映画の特質が良くも悪くも出ていた映画だった。医療をテーマに人の生き死にに物語として肉薄するにはいささかダイナミズムだけでは片手落ちの感があり、女子供といった弱者を描く時に側面的になりすぎるきらいがあるので作家性にテーマがそぐわないように感じた。ただ大掛かりなセットや撮影の美しさは目を見張るものがあり黒澤映画の面目躍如といったところだった。しかしなぜ『赤ひげ』をみて黒澤映画に対する謎が解けたかというと、その物語の構成上の人物設計の巧みさに、作家性の良し悪しが端的に表れていたからだ。

『あかひげ』の主人公は江戸の小石川療生所のボスこと赤ひげ(三船敏郎)ではなく、そこに自らの意には反して勤めなくてはならなくなった青年、保本(加山雄三)である。この保本の成長がこの物語の骨子になるのだがそれを表すシーンがいくつかあった。最初保本は長崎でオランダ医術を学んだ跳ねっ返りとして登場するも、その未熟さ故、冒頭の老人の終身場面ではそれをまともに見据えることも出来ずに目を逸らせてしまう。そして物語中盤二度目の終身場面がある。大雨の降る長屋の一室で保本は長屋の中で尊敬を集めていた佐八の隠された懺悔を聞きながらその死を長屋の大勢の仲間と共に看取る。それは佐八とおなかの悲恋。地震による別れやその後悔による、おなかの佐八の腕の中で行われる自死。それらが大雨の中での回想シーンで、強風に煽られる画面いっぱいの風鈴やその音、地震による家屋の倒壊と土煙、といった様々な要因の交錯によるところを美しいカメラで捉えておりこの映画の中の白眉となっている。この悲恋ははまさに人の世のままならなさ、いわゆる混沌である。その混沌を見据えた保本はここから小石川養生所で勤めることを本懐として生まれ変わる。岡場所で周りから愛されることを知らないで育ったおとよを看病し、そのおとよが唯一保本以外に心を許した子、長次の死などを経て季節も廻り保本は小石川養生所に来た時の怒りの元となっていた、許嫁ちぐさの裏切りの傷も癒えその妹と結婚することとなる。物語終盤の保本の婚礼のシーンでは冬であるにもかかわらず部屋の障子の開け放たれた中庭には、雪が静かに降り積もっている。幕府の御殿医の話を断り養生所で働き続ける決意を話した保本の心の中はもう最初の頃のような怒りはない。大雨の中混沌と共に死にゆく人間を見据え、そして自分の本懐を定めて生きることを決意した時に外に降るのは静かな雪である。そして冒頭で養生所の門をくぐって始まった物語も、赤ひげと共に養生所の門をくぐって閉じられる。

黒澤が物語の中で象徴する混沌が分かりやすく表れていたので少々長くなったが説明してみた。黒澤映画はこれの連続だ。『酔いどれ天使』の街のゴミが流れつく泥の川、『七人の侍』の決闘の大雨や地面の泥濘、『用心棒』の乱闘の嵐に舞う土煙、枚挙にいとまがない。ただダイナミズムの中にそれを象徴させるのには十分なのだが、やはりそれでは描ききれない部分が出てくる。『赤ひげ』では弱者が自らをそのように表現する時の行動があまりにティピカルで短絡的に見えてしまう、特に女子供で顕著だ。物語の要請上そのように直接的な台詞や行動をとることは仕方がないことにせよ、本来であるなら混沌そのものであるはずの子供や少女を弱さの象徴としてキャラクターにしてしまうところにその作家性の限界を感じてしまった。

というふうに思いはしたけれど、しかし過剰さを武器にダイナミクスを表現している時の黒澤はやはり光り輝いている。極端なキャラクターたちは物語のシンボリズムの中で躍動して大きな時間の中に存在している。混沌をそういった事象でつかむことのできる作家は世界の中でもそうはいない。自分には欠けている感性なだけに昔は相容れなかったけどようやく楽しめるようになった。時間はかかったけど。さて次見る黒澤映画は何がいいのだろうか。4Kリマスターの『七人の侍』を劇場で観てしまったら、それ以上はもうないような気もするけど。

 


しかし、どうして黒澤がえがく医者はああいつも眉間に皺を寄せてフンッ!っと鼻息を立てているんだろうか。『赤ひげ』の三船敏郎しかり『酔いどれ天使の』志村喬しかり。私は弱っている時にあんな医者にはかかりたくはないが黒澤明はそうじゃないのだろうか。



レンタルで観ました

2014-07-17 22:05:35 | MOVIE
監督 木下恵介 『新釈四谷怪談』 1949
監督 伊藤大輔 『王将』 1948
監督 深作欣二 『仁義なき戦い』 1973
監督 エリア・カザン 『欲望という名の電車』 1951 アメリカ
監督 リドリー・スコット 『プロメテウス』 2012 アメリカ

などなど観ました。『王将』は大阪の素人名人坂田三吉が後の実力制初代名人関根金次郎に出会い、負かされることにより開眼し、将棋一筋に打ち込んで関根に打ち勝つも、初代名人は関根になるといったところを描いた、物凄く浪花節な物語です。史実では関根が名人を名乗った頃、それに対抗して関西の新聞社などの後援もあり坂田も関西名人を名乗るのですが、現代書館刊『反骨の棋譜坂田三吉』によるとその本部があったのが大正14年の堂島ビルヂング内の清交社にあったようなのです。

目下描いている漫画の舞台が同じ頃関西にあったプラトンという出版社が舞台の物語で、その頃プラトン社の事務所があったのも堂島ビルヂングなのです。プラトン社には直木三十五が顧問で入っていました。直木も将棋の愛好家のようで文藝春秋刊『直木三十五伝』によると雑誌文藝春秋の企画で文壇棋術行脚という当時の文壇人の泉鏡花や志賀直哉などなどと手合わせしています。ということから想像を広げると、直木らプラトンの人間が阪田三吉などと駒落ちで指導対局などしていてもなんら不思議ではないということです。自分の好きなものを調べているとこういう発見があって、まあ浪漫ですよね。

印象に残ったのは、若い頃のマーロン・ブランド。男前過ぎて、びびりました。男前というのは説得力なので、自分も男前が描けるように努力せねばと感じ入りました。後、木下恵介みたいな人が恐怖映画やるとじめじめしすぎてちょっといかがなものかというくらいの仕上がりでした。『プロメテウス』はまあ下品が極まっていました、どの作品も面白かったです。



王将は何度か映画化されているようで↑は一度目の映画化時の主演坂東妻三郎。その他にも三國連太郎や、勝新太郎が主演を勤めています。観たい!

今週

2014-07-12 01:30:26 | MOVIE
今週はおおむね引きこもっていた。伸びをしたときに肩、左の僧帽筋をやってしまった。本格的に痛みをとるタイプのシップを張っているけれど、痛みがなかなか引かない。もしかしたら肉離れとかしたのかなあ、憂鬱。


マーティン・スコセッシ 監督 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』2013

ジョン・カサベテス 監督 『こわれゆく女』1974

スタンリー・キューブリック 監督 『アイズワイドシャット』1999

とかレンタルDVDで観ました。最近はぶっ飛んだ女優が踊り狂っているような映画を立て続けて見ています。イカれてない女優なんて女優じゃないと思ってる位です。イカれてる女優が出てくる映画があれば皆さん教えてください。と、同時に見ていなかった名作をちゃんと見る期間が到来中なのでエリア・カザンとか見ていなかったりするので次はその辺り見ようと思っています。

劇場とソフトで

2014-07-02 01:26:56 | MOVIE
監督 ウディ・アレン『ブルージャスミン』 2014 アメリカ

監督 ジャン・ルノアール『河』 1951 アメリカ

を観ました。両極端の映画で両方ともメインは女性なのですが、ウディ・アレンが描く世界はカルフォル二アが舞台で中年の零落した元ブルジョアの精神を病んだ未亡人のお話。一方ルノアールはインドを舞台にした、思春期周辺の少女たちの、児童文学のようなお話。どちらもともに見ごたえがあります。ウディ・アレンは醜いものをとことん追い込んで卑小な人間の姿を暴いていきます。強烈なブラックユーモアです。ルノアールは、蝶よ花よの少女たちが大人の世界に足を踏み入れる瞬間の、はかなく美しい姿をインドの悠久な自然と対比させて描きます。こちらは完全に寓話。

小津とかもそうだけど世界の映画巨人の監督作品を観ていると、今の映画とは根本的に向いている方向が違うような気がしてならない。平たく言うと、普遍的なものを目指して物語が作られている。そういう作品はいつ見ても色褪せることはない。逆に言うとルーカスやスピルバーグ以降の巨大資本映画はPOPさが命綱であることが多いから、今見ると足が早い作品な為か期限切れに感じることが多い。そうじゃないマスターピースのものもあるとは思うが。例えば私はスターウォーズを面白いと思ったことがない。同世代から下の人間で映画をよく見る知人友人でもそういう人は少なからずいた。価値観は時代とともに変わるので、何をどうこうとも思はないが。特に最近は劇場で見ている映画がことごとく面白いし。まあ、ぼんやりそう思ったということに過ぎないけれど。

トーマス・アンダーソンがピンチョンのLAヴァイスを撮っているようで、原作を先に読むかどうか真剣に迷っています。

ここ最近見たもの

2014-06-23 13:07:47 | MOVIE
劇場で

監督 ウェス・アンダーソン 『グランド・ブダペスト・ホテル』

監督 コーエン兄弟 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

DVDで

監督 小津安二郎 『麦秋』


ウェス・アンダーソンの映画の編集の手つきがいよいよ極まってきていて、そのモンタージュや撮影のコンセプトの方針の一貫している様がエイゼンシュテインみたいだと感じらました。POPさとテンポいう面ではエイゼンシュテインとは点と地ほど離れていますが、映画の物語の戯画化された手つきが似ていると、なんとなく思ったりしながら観ていました。

コーエン兄弟の映画は『シリアスマン』が一番好きで、その喜劇と悲劇の紙一重や人間のユーモラスを引き立たせるシチュエーションの手さばきにはうならされます。今回の映画もそういった方向性で、コーエン兄弟の描く世界に存在する不条理という影が今回も秀逸だった。夜のハイウェイとサービスエリアの蛍光灯の漂白された白のコントラストが描くキャラクターの存在にしびれていました。

小津はあんまり数見ていませんが、今迄の中ではこの映画が一番きました。小津のドラマツルギーはモンタージュ的で語られないことを積み重ねによって語るとでも言えばいいのか。そういった手段をとっているので登場人物もかなり形骸化しています。原節子に代表されるようなある種の処女性を兼ね備えたキャラクターたちの織り成す空騒ぎが飄々としていて観ていて震えました。

まだ映画

2014-05-23 17:08:25 | MOVIE
今月に入って立て続けに映画を見ています。レンタルで見たのは。

『ミーン・ストリート』 1973年 マーティン・スコセッシ監督 アメリカ
『シェルブールの雨傘』1964年 ジャック・ドゥミ監督 フランス
『めまい』 1958年 アルフレッド・ヒッチコック監督 アメリカ
『わが青春のマリアンヌ』 1955年 ジュリアン・デュビビエ監督 フランス

レンタルがなかったのでついでにネットで何枚かソフトを購入。その内の

『キッスで殺せ!』 1955年 ロバート・アルドリッチ監督 アメリカ

も観ました。それにしてもここのところよく観ている、映画の勉強をしなければいかなかった学生時代の頃よりも観ていると思う。少しだけ感想を。

スコセッシはやっぱり90年代の頃、それも『カジノ』が一番観ていて楽しい。高校の頃『タクシー・ドライバー』を観た時は全然ピンとこなかった。トラビスがただの愚かな奴にしか見えなかったし、それがポップアイコン化して同一化する奴の神経も理解できなかった。『レイジング・ブル』を観たときに、スコセッシの味わい深さに気が付いた。彼の描く捨て鉢な人間模様とヒステリーなエモーションの先にある諦念が彼の映画の魅力なのだと思う。『ミーン・ストリート』はまだ初期作の中の一つなので、構成の美しさには欠けるが情動の凄まじさには圧倒されました。音楽の使い方もイケテルしね。

個人的に巷で言われるフランス映画っぽさっていうのは何を指し示すのかイマイチ判然としないんだけれど、俗に言うオシャレな雰囲気やアムールなお国柄というのはこの映画には余すところなく詰まっていました。フランス映画特有のインテリ思考というか、語り口それ自体がその映画の持つ表現と渾然となっているところがフランス映画のモードだと感じていて、『シェルブールの雨傘』もその範疇にあると思う。でもそれがポップなミュージカルというので口当たりがよく感じられやすいということかと。落ちがビターで、良かったです。

自分は映画を見るのが、まあ人よりは好きなほうだと思いますが、一般的な評価が高いけど個人的に苦手な作品群というのが確かにあって、ヒッチコック作品がそれの最右翼です。私はヒッチコックの映画を見るとものすごく眠くなる。現に3本くらい今までに見たけどその全てで1時間たたないうちに眠ってしまった。彼の映画は冒頭で突きつけられる命題があまりにもはっきりしすぎていて、頭を働かす余地があまりないので画面を眺めるだけになってしまう。その画面の構成もものすごく抑制が効いていて格式ばった方法論で作られているので、何事もオートマティックに進みすぎるので私個人がどういう風に作品世界に入ればいいかわからなくなって、気が付いたら寝ている。『めまい』にトライするのは確か2回目。途中何度かくたばりかけたけど中盤以降の主人公がぶっ壊れてからは、それなりに楽しく見れた。でもやっぱり肌に合わないと感じるところは彼の女性描写。彼の描く物語の中では女はモノみたいに扱われて、男のリビドーを刺激する装置の一環位にしか感じられない。そういった無意識に訴えかけてくる魅力はあるにはあるけど、個人的に男のそういった側面を相対化するまなざしにかける映画は趣味じゃない。もう2・3本は見てみないことにはなんともいえないけど。見る前も後も彼の作品の持つ印象はそこまで変わらなかった。

デュビビエの作品は『望郷』を観てこれが2本目。『望郷』にもいえるけど作品世界の舞台を作るのに秀でているイメージ。ムード作りが上手い監督は作品世界に掴みきれない抽象的な側面が残る。個人的には観ていてそういった世界が一番性に合うので、この作品も好きだった。しかしよくよく考えてみると、前述のヒッチコックの『めまい』とたいして構造的に変わらないなと今、気が付いた。どちらも主人公の夢想する女性というのは幻想の域を出ないし。何が一番違うかというとヒッチコックの描く男は仕事をやめた中年で、デュビビエの描く男は少年だったということで。男が可愛くないからヒッチコックの映画は嫌いという結論になるな、…。まあ、その通りかもしれない。

絶賛フィルム・ノワール勉強中なので、観ました。物語の大落ちがいわゆるHIPHOP用語的に言うニューヨークエンドだったのでびっくりしました。B級の面目躍如足る幕引きに、娯楽作品の醍醐味を見ました。予算は少なく風呂敷はでかく、最終的にはちゃぶ台ひっくり返して後には何も残りえない。私は湿っぽくて重たい映画が好きな人間なので、この手の映画はあまり興味はないですが、この作品のタイトさにはしびれました。



続・映画

2014-05-15 02:11:53 | MOVIE
DVDで

アッバス・キアロスタミ監督 『トスカーナの贋作』 2010年

エミール・クストリッツァ監督 『アリゾナ・ドリーム』 1992年

ヴィンセント・ミネリ監督 『バンド・ワゴン』 1953年

マキノ雅弘監督 『鴛鴦歌合戦』 1939年

を観ました。
今、自分の大学生時代をモデルに新しい話のコンテに取り掛かってるのですが、大学時代は映画の勉強をする学科に入ったので、美大の映画学科が舞台です。なのでそれに伴って映画をこのところよく観ています。最寄のゲオがなくなったので吉祥寺のツタヤでDVD借りるのですが、品揃えはいいのですがいかんせん土地柄もあってか自分が借りたいような映画は先に借りられてていつも2番手のラインナップになります。フェリーニとかヒッチコック借りるつもりだったのに全部借りられていました。

ミュージカルとフィルムノワールとかを観てネタ元にしようと小ざかしい事なんか考えています。『キッスで殺せ』とか『シェルブールの雨傘』とか次は観るつもりです。その前に借りているツァイ・リャンミンとベルナー・ヘルツオークを消化しなければいけないのですが、めんどくさい映画ばかり借りてしまう癖があるので腰が重くなってなかなか見ようという気になりません。手軽な気持ちで観れる映画で自分にあった映画というのがよくわからなくて、なんなんでしょうか。とりあえず困ったら最近はミュージカル映画借りてます。そういえば一部好事家の間で名の通っている『鴛鴦歌合戦』を観たのですが、昔友人とオールナイトで観た『ジャズ大名』を思い出しました。どちらもあまり私の趣味ではなかったですが。


最近映画

2014-05-08 13:05:06 | MOVIE



監督 呉 美保 『そこのみにて光り輝く』

監督 山田尚子 『たまこラブストーリー』

を劇場で観ました。
たまこ~、は先月友人に連れて行ってもらい。そこのみ~、は昨日仕事が早く終わりましたので帰宅途中に新宿テアトルによって観てきました。後レンタルで

監督 カール・ドライヤー 『さばかるゝジャンヌ』

監督 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『息子のまなざし』

監督 ロバート・アルトマン 『3人の女』

映画を色々みました。ダルデンヌ兄弟の、息子の~以外は女性を描いた映画だったと思います。劇場の二本なのですが、アニメーションのたまこ~、はラブストーリーと銘打っていたもののメロドラマという様な作劇にはなっていなかったです。映画『桐島部活やめるってよ』の桐島が部活をやめないで学校には何も事件が起こらなかったパラレル、みたいな世界観に感じた。喪失のない青春映画といったような印象。

もう1本劇場で観たそこのみにて~、これが驚くべき傑作で同じ原作で同じプロデューサーが3年前に作った『海炭市叙景』を劇場で観た時の驚きに勝るとも劣らない代物でした。主人公は、海辺のバラックに住む家族と知り合います。息子は刑務所帰りで娘は売春で家計を支え父は痴呆で寝たきりで彼らを覆う生活は憐憫の入り込む隙間は微塵もないようなそれで、映画の内容もハードです。ただ実はこの映画はラブロマンスであって、そういった救いが見ているこちら側の心のよりどころになってぎりぎり救われるのですが、女性らしいまなざしに貫かれた映画で、本当に大傑作でした。撮影や音響設計も実に繊細で、ここ数年観た映画の中では一番心を打たれました。

スプリングブレイク

2014-03-28 15:59:43 | MOVIE
DVDレンタルで



ロバート・アルトマン監督『ショートカッツ』


    

ジョナサン・デミ監督『フィラデルフィア』

を見ました。二人とも好きな監督で、特にアルトマンの描く群像劇はもっとも好きな映画の部類です。特に、『ナッシュビル』が最も好きです。『ショートカッツ』もそれに匹敵する代物でした。20人以上の登場人物が緩やかに絡むプロットで上映時間3時間。アイロニーとかブラックユーモアがアルトマンの特質ですが、個人的にはムードを描くのが一流だと思いますしそこが好きです。登場人物らが住んでいる街の空気の切り取り方に魅了されます、それはどの作品にも共通する作家性だと思います。

デミの『フィラデルフィア』はエイズにかかり会社を不当解雇されたトム・ハンクス演じる主人公が、デンゼル・ワシントン演じる黒人弁護士と共に、法廷で偏見や差別と戦うといった、社会派の映画。デミの一番メジャーな作品は『羊たちの沈黙』。ここ最近前見たダラス・バイヤーズクラブもそうですし、最近友人にもらって読んだバンド・デシネの『青い薬』もエイズが物語の核となっている作品でした、偶然ですが。同じエイズを描くにしても、三作品にはそれぞれ違った切り口と趣があったけど、共通していたのが社会と自分を繋ぐ何か、その何かの脆さとか危うさが描かれていた事でしょうか。


上京して一年が過ぎました。春はなんとなく焦燥感を煽られるから好きではないです。不安。特に意味も理由もないですから、ほぼ気のせいですが。最近暖かいし、天気のいい日は朝起きたら窓を全開にするんですが、少し目が痒くなります。花粉症になったのでしょうか。そうすると益々春が辛くなりますね。