まわる世界はボーダーレス

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「ジョホールバルの歓喜」が残してくれたもの

2020-05-04 18:42:15 | シンガポール

1997年11月16日、岡野雅行が、延長Vゴール(ゴールデンゴール)で起用され、まさに「野人」という呼び名そのままに、誰よりも速いスピードでゴール前に走り寄り、何度かの失敗で観客を落胆させた後、中田英寿のシュートをイランのゴールキーパーが弾いたそのこぼれ球に本能的に反応して、勝利のゴールを決める。そこで日本の勝利が、そして、同時に日本の初めてのワールド・カップ出場が決まったのです。その時の歓喜の声は、今でも鮮明に覚えています。

その時、私は、ジョホールバルのラーキン・スタジアムのスタンドにいました。スタジアムはほとんど日本人で、イランの応援団はかなりの少数でした。日本からこのために駆けつけたファンに加え、シンガポールやマレーシアの現地駐在員も会社や様々な団体がチャーターしたバスなどで来ていました。ニュースキャスターの小宮悦子さんも現地に来られていて、試合前にお姿を拝見しました。

私は、サッカー・ファンというほどではなかったのですが、たまたまその年から、シンガポールで仕事を始めていました。日本の会社の駐在員だったのですが、出張者を含めて、日本人だけで5人ほどいました。ワールドカップの予選がジョホールバルで行われるという情報は入っていましたが、あまりの人気だったので、行くのは不可能だと思っておりました。しかし、たまたま、インターネットのシンガポールの掲示板で、観戦バスツアーの切符が余っているという情報を見て、すぐに連絡を取り、5人分のチケットを確保することができたのでした。それ自体が奇跡でした。

サッカーの試合を生で見るというのも初めてだったのですが、いきなり、三浦和良、中田英寿、中山雅史、川口能活、呂比須ワグナー、井原正巳、名波浩、城彰二、北沢豪、小野伸二というすごいメンバー。一眼レフカメラを持っていましたので、スタジアムから撮りまくっていました。デジカメではなく、フィルムカメラでした。その時の写真は、日本に置いてきてしまったので、残念ながらご紹介できません。

この日の試合で、三浦知良が、岡田武史監督に途中交代させられてしまいます。それまでは途中交代のなかったスター選手だったのですが、その後、日本代表からも外されてしまいます。三浦和良選手はその後も現役で、活躍を続けますが、ジョホールバルを境に彼の歴史も変わったのだと思います。

その年、アジアを通貨危機が襲います。山一證券などが破綻するのもその頃です。たまごっちがブームとなっており、小室サウンドのブームがそろそろ終焉を迎えようとしていた頃です。カラオケスナックはレーザーカラオケでしたし、オフィスでも家でも使うパソコンは全てデスクトップでした。時代は大きく変わろうとしていました。通貨危機が来るまでは、アジア経済は絶好調の成長期で、アジアで頑張ろうとしていた私の個人的な応援歌は、パフィーの「アジアの純真」と、安室奈美恵の「Don’t wanna cry」、マライヤ・キャリーの「Hero」などでした。

それから私は10年間、シンガポールで働き、その後、仕事の都合で、香港に移ります。香港には4年間住んでいました。2009年、偶然、岡野雅行が香港リーグ1部のTSWペガサスというチームに移籍していたのを知りました。1997年、日本のサッカーの歴史を大きく変えた男が、香港の田舎で疾走している姿を想像し、少し寂しさを覚えました。数ヶ月後に香港リーグのシーズン終了と共に、彼は日本に帰って行きました。

その後、私は日本に4年滞在し、2016年再び、シンガポールに戻ってきて、今に至ります。ジョホールバルの歓喜の時から23年、時代は大きく変わりました。あの時のサッカーの試合で、自分の人生も大きく開けました。日本人でも、頑張れば、世界の舞台で勝負できるんだ、遠慮する必要はない、正しく頑張れば、世界は認めてくれるんだと。そんなことを感じたものでした。

最後に、その試合の後のニュースステーションの番組をご紹介しておきます。


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