私の母校の愛知県立成章高校は愛知県の渥美半島の田原市(以前は渥美郡田原町と呼ばれていました)にあります。豊橋鉄道渥美線の終着駅の三河田原の駅から、1キロくらいの距離、標高約250メートルの蔵王山の麓にある高校です。
文武両道の県立高校ですが、高校野球の春の選抜には過去2回出場しており、私が高校在学中に一回目の出場を経験しました。現在ヤクルトスワローズで活躍している小川泰弘投手はこの高校の卒業生(高61回)で、21世紀枠で春の選抜に出場しました。それが二回目でした。
芸能関係では、オアシズの光浦靖子さんや、大久保佳代子さん(ともに高42回)がこの高校の卒業生です。その他、音楽関係、美術関係、書道関係、演劇関係、政治経済界などで活躍されている卒業生は多数おられます。
農業では生産高が日本でトップクラスでありながら、トヨタに代表される自動車産業の工場もあり、工業生産高でも愛知県内でも上位の自治体になっています。観光地としても有名ですが、太平洋岸はサーフィンの世界大会も開催されています。服部勇馬選手を擁するトヨタ陸上長距離部も田原市を拠点としています。
愛知県立成章高校は、1810年(文化7)にできた田原藩の藩校にルーツを持つのですが、1811年にその藩校は「成章館」と名付けられました。明治4年に廃藩置県で廃校となるのですが、明治34年(1901年)に成章館が再興されます。それが成章高校の学校創立の年とされています。
2021年の今年は、創立120年を記念してオオタザクラが植樹されました。植物画家(ボタニカルアート)の太田洋愛さん(この方も成章の卒業生です。中11回)にちなんで名付けられた八重桜です。こちらの動画にオオタザクラおよび太田洋愛さんのことが説明されています。
前書きが長くなりましたが、今回ご紹介したいのは、オオタザクラではなく、今から10年前、創立110周年を記念して植えられた「楷の木」(かいのき)のことです。たまたま2011年に行われた、110周年の記念式典のパンフレットがあったのですが、これに出ていた写真がこちらです。
その文章には「孔子にゆかりのある中国原産の珍木」で、「学問の木」と呼ばれていると書かれています。
楷の木はウルシ科カイノキ属の落葉高木で、秋には紅葉します。同じウルシ科のピスタチオとは同属とのこと。中国では、楷木、奥連木、黄連木と呼ばれ、台湾では欄心木(らんしんぼく)、和名は「ナンバンナゼノキ」または「トネリバハゼノキ」なのだそうです。
今から約2500年前、中国の春秋の時代、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬されました。弟子たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに美しい木々を植えました。孔林という名前で今も残っているそうです。弟子の中で最も師を尊敬していた子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって喪を続けました。子貢がその庵を離れる時に植えたのが、楷の木だったと言われています。
この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に残っています。その後、「楷の木」は科挙の試験の合格祈願の木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになったのだとか。
それまで楷の木は日本にはなかったのですが、大正4年(1915年)、当時、農商務省林業試験場の初代場長であった白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、日本で育てました。その後、湯島聖堂、足利学校、閑谷学校、多久聖廟など、孔子や儒学にゆかりのある学校に寄贈されたのが最初だそうです。
岡山県の閑谷学校(しずたにがっこう)の楷の木が最も大きく育っているそうです。実は、成章高校の110周年に植えられた楷の木は、岡山の閑谷学校から貰い受けたものというのを成章高校の関係者の方から伺いました。孔子の時代から綿々と繋がる由緒正しい楷の木だったんですね。
1670年に岡山藩主池田光政(みつまさ)が日本初の“庶民のための公立学校”を創立。谷深き地に建てられた学校は閑谷学校と名付けられました。講堂は国宝にもなっているのだそうです。
こちらが岡山県の閑谷学校の楷の木の動画です。
愛知県立成章高校の「成章」の名前は、実は、論語の中に登場する「斐然成章」という言葉に由来します。戦乱の絶えない春秋の時代、各地を放浪する孔子とその弟子たちですが、楚の昭王が亡くなった後に出てくるのがこの言葉です。
この箇所に関して、井上靖さんの「孔子」からその箇所を引用させていただきます。
いま、自分の胸は一つの想いでふくらんでいる。先刻、昭王の柩をお送りしたあと、あの夜道を歩いて、ここに来るまでに、私の胸に生まれ、ふくらみ、溢れるほどいっぱいになった思いがある。それを披露する。
こう仰言って、それから暫く、真暗い夜空を仰ぐようにして、ご自分の胸の想いを整理していらっしゃる風でしたが、やがて口をお開きになりました。
——— 帰らんか、帰らんか。
我が党の少子、
狂簡(きょうかん)にして、
斐然(ひぜん)として章(しょう)を成すも、
これを裁するゆえんを知らず。
二回、ゆっくりと口からお出しになり、それから、ご自分で、それを日常の言葉に置き換えられました。
——— 帰ろうよ、さあ、今こそ帰ろう。
わが郷党の、魯(ろ)に遺(のこ)して来た若者たちは、
みな大きな夢、大きな志の持ち主、
みごとな美しい模様の布を織り上げてはいるが、
仕立てるすべは知らないのだ。
それから、子は、
——— みんな、私を必要としている。帰ろうよ、さあ今こそ帰ろう。彼等の進むべき道を決めてやらねばならぬ。
と、仰言いました。
斐然(ひぜん)として章(しょう)を成す、というのは、見事に、美しい模様の布を織り上げているということ、つまり学問の基礎がしっかり身についているというような意味になるのですね。
岡山の閑谷学校から贈られた楷の木が成章高校の敷地に植えられたのは2011年のことでした。東日本大震災の年でしたが、あれから10年、あんなに頼りなかった苗木が、大きく育ちました。一番上の写真の中央の木が今年の楷の木の姿です。成章高校の関係者の方から送っていただきました。もうこんなに大きくなっていたんですね。と同時に10年の月日の歴史を感じざるをえません。
2011年、私はそれまで、シンガポールに10年、香港に4年駐在していたのですが、2011年に東京に帰ってきました。帰国後1週間後に東日本大震災を経験するのですが、フェイスブックを始めたのがちょうどその頃。成章高校の関東支部の関東成章会の総会の年次幹事にもなっていたので、フェイスブックを同窓会組織のために立ち上げたのが2012年でした。
この10年の間に、再びシンガポールに赴任したり、インドの会社を独資化したり、会社を退職して、シンガポールで起業したり、コロナが世界に蔓延して、これまでの世界が全く変わってしまったり、語りつくせぬことが、いろいろとありました。
楷の木は、すくすくと育っています。これからも私たちの歴史を見守ってくれているのでしょう。
文武両道の県立高校ですが、高校野球の春の選抜には過去2回出場しており、私が高校在学中に一回目の出場を経験しました。現在ヤクルトスワローズで活躍している小川泰弘投手はこの高校の卒業生(高61回)で、21世紀枠で春の選抜に出場しました。それが二回目でした。
芸能関係では、オアシズの光浦靖子さんや、大久保佳代子さん(ともに高42回)がこの高校の卒業生です。その他、音楽関係、美術関係、書道関係、演劇関係、政治経済界などで活躍されている卒業生は多数おられます。
農業では生産高が日本でトップクラスでありながら、トヨタに代表される自動車産業の工場もあり、工業生産高でも愛知県内でも上位の自治体になっています。観光地としても有名ですが、太平洋岸はサーフィンの世界大会も開催されています。服部勇馬選手を擁するトヨタ陸上長距離部も田原市を拠点としています。
愛知県立成章高校は、1810年(文化7)にできた田原藩の藩校にルーツを持つのですが、1811年にその藩校は「成章館」と名付けられました。明治4年に廃藩置県で廃校となるのですが、明治34年(1901年)に成章館が再興されます。それが成章高校の学校創立の年とされています。
2021年の今年は、創立120年を記念してオオタザクラが植樹されました。植物画家(ボタニカルアート)の太田洋愛さん(この方も成章の卒業生です。中11回)にちなんで名付けられた八重桜です。こちらの動画にオオタザクラおよび太田洋愛さんのことが説明されています。
前書きが長くなりましたが、今回ご紹介したいのは、オオタザクラではなく、今から10年前、創立110周年を記念して植えられた「楷の木」(かいのき)のことです。たまたま2011年に行われた、110周年の記念式典のパンフレットがあったのですが、これに出ていた写真がこちらです。
その文章には「孔子にゆかりのある中国原産の珍木」で、「学問の木」と呼ばれていると書かれています。
楷の木はウルシ科カイノキ属の落葉高木で、秋には紅葉します。同じウルシ科のピスタチオとは同属とのこと。中国では、楷木、奥連木、黄連木と呼ばれ、台湾では欄心木(らんしんぼく)、和名は「ナンバンナゼノキ」または「トネリバハゼノキ」なのだそうです。
今から約2500年前、中国の春秋の時代、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬されました。弟子たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに美しい木々を植えました。孔林という名前で今も残っているそうです。弟子の中で最も師を尊敬していた子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって喪を続けました。子貢がその庵を離れる時に植えたのが、楷の木だったと言われています。
この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に残っています。その後、「楷の木」は科挙の試験の合格祈願の木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになったのだとか。
それまで楷の木は日本にはなかったのですが、大正4年(1915年)、当時、農商務省林業試験場の初代場長であった白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、日本で育てました。その後、湯島聖堂、足利学校、閑谷学校、多久聖廟など、孔子や儒学にゆかりのある学校に寄贈されたのが最初だそうです。
岡山県の閑谷学校(しずたにがっこう)の楷の木が最も大きく育っているそうです。実は、成章高校の110周年に植えられた楷の木は、岡山の閑谷学校から貰い受けたものというのを成章高校の関係者の方から伺いました。孔子の時代から綿々と繋がる由緒正しい楷の木だったんですね。
1670年に岡山藩主池田光政(みつまさ)が日本初の“庶民のための公立学校”を創立。谷深き地に建てられた学校は閑谷学校と名付けられました。講堂は国宝にもなっているのだそうです。
こちらが岡山県の閑谷学校の楷の木の動画です。
愛知県立成章高校の「成章」の名前は、実は、論語の中に登場する「斐然成章」という言葉に由来します。戦乱の絶えない春秋の時代、各地を放浪する孔子とその弟子たちですが、楚の昭王が亡くなった後に出てくるのがこの言葉です。
この箇所に関して、井上靖さんの「孔子」からその箇所を引用させていただきます。
いま、自分の胸は一つの想いでふくらんでいる。先刻、昭王の柩をお送りしたあと、あの夜道を歩いて、ここに来るまでに、私の胸に生まれ、ふくらみ、溢れるほどいっぱいになった思いがある。それを披露する。
こう仰言って、それから暫く、真暗い夜空を仰ぐようにして、ご自分の胸の想いを整理していらっしゃる風でしたが、やがて口をお開きになりました。
——— 帰らんか、帰らんか。
我が党の少子、
狂簡(きょうかん)にして、
斐然(ひぜん)として章(しょう)を成すも、
これを裁するゆえんを知らず。
二回、ゆっくりと口からお出しになり、それから、ご自分で、それを日常の言葉に置き換えられました。
——— 帰ろうよ、さあ、今こそ帰ろう。
わが郷党の、魯(ろ)に遺(のこ)して来た若者たちは、
みな大きな夢、大きな志の持ち主、
みごとな美しい模様の布を織り上げてはいるが、
仕立てるすべは知らないのだ。
それから、子は、
——— みんな、私を必要としている。帰ろうよ、さあ今こそ帰ろう。彼等の進むべき道を決めてやらねばならぬ。
と、仰言いました。
斐然(ひぜん)として章(しょう)を成す、というのは、見事に、美しい模様の布を織り上げているということ、つまり学問の基礎がしっかり身についているというような意味になるのですね。
岡山の閑谷学校から贈られた楷の木が成章高校の敷地に植えられたのは2011年のことでした。東日本大震災の年でしたが、あれから10年、あんなに頼りなかった苗木が、大きく育ちました。一番上の写真の中央の木が今年の楷の木の姿です。成章高校の関係者の方から送っていただきました。もうこんなに大きくなっていたんですね。と同時に10年の月日の歴史を感じざるをえません。
2011年、私はそれまで、シンガポールに10年、香港に4年駐在していたのですが、2011年に東京に帰ってきました。帰国後1週間後に東日本大震災を経験するのですが、フェイスブックを始めたのがちょうどその頃。成章高校の関東支部の関東成章会の総会の年次幹事にもなっていたので、フェイスブックを同窓会組織のために立ち上げたのが2012年でした。
この10年の間に、再びシンガポールに赴任したり、インドの会社を独資化したり、会社を退職して、シンガポールで起業したり、コロナが世界に蔓延して、これまでの世界が全く変わってしまったり、語りつくせぬことが、いろいろとありました。
楷の木は、すくすくと育っています。これからも私たちの歴史を見守ってくれているのでしょう。