まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

母校の校庭で静かに時代を見守る楷の木

2021-07-17 19:00:04 | 故郷
私の母校の愛知県立成章高校は愛知県の渥美半島の田原市(以前は渥美郡田原町と呼ばれていました)にあります。豊橋鉄道渥美線の終着駅の三河田原の駅から、1キロくらいの距離、標高約250メートルの蔵王山の麓にある高校です。

文武両道の県立高校ですが、高校野球の春の選抜には過去2回出場しており、私が高校在学中に一回目の出場を経験しました。現在ヤクルトスワローズで活躍している小川泰弘投手はこの高校の卒業生(高61回)で、21世紀枠で春の選抜に出場しました。それが二回目でした。

芸能関係では、オアシズの光浦靖子さんや、大久保佳代子さん(ともに高42回)がこの高校の卒業生です。その他、音楽関係、美術関係、書道関係、演劇関係、政治経済界などで活躍されている卒業生は多数おられます。

農業では生産高が日本でトップクラスでありながら、トヨタに代表される自動車産業の工場もあり、工業生産高でも愛知県内でも上位の自治体になっています。観光地としても有名ですが、太平洋岸はサーフィンの世界大会も開催されています。服部勇馬選手を擁するトヨタ陸上長距離部も田原市を拠点としています。

愛知県立成章高校は、1810年(文化7)にできた田原藩の藩校にルーツを持つのですが、1811年にその藩校は「成章館」と名付けられました。明治4年に廃藩置県で廃校となるのですが、明治34年(1901年)に成章館が再興されます。それが成章高校の学校創立の年とされています。

2021年の今年は、創立120年を記念してオオタザクラが植樹されました。植物画家(ボタニカルアート)の太田洋愛さん(この方も成章の卒業生です。中11回)にちなんで名付けられた八重桜です。こちらの動画にオオタザクラおよび太田洋愛さんのことが説明されています。



前書きが長くなりましたが、今回ご紹介したいのは、オオタザクラではなく、今から10年前、創立110周年を記念して植えられた「楷の木」(かいのき)のことです。たまたま2011年に行われた、110周年の記念式典のパンフレットがあったのですが、これに出ていた写真がこちらです。



その文章には「孔子にゆかりのある中国原産の珍木」で、「学問の木」と呼ばれていると書かれています。

楷の木はウルシ科カイノキ属の落葉高木で、秋には紅葉します。同じウルシ科のピスタチオとは同属とのこと。中国では、楷木、奥連木、黄連木と呼ばれ、台湾では欄心木(らんしんぼく)、和名は「ナンバンナゼノキ」または「トネリバハゼノキ」なのだそうです。

今から約2500年前、中国の春秋の時代、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬されました。弟子たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに美しい木々を植えました。孔林という名前で今も残っているそうです。弟子の中で最も師を尊敬していた子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって喪を続けました。子貢がその庵を離れる時に植えたのが、楷の木だったと言われています。

この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に残っています。その後、「楷の木」は科挙の試験の合格祈願の木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになったのだとか。

それまで楷の木は日本にはなかったのですが、大正4年(1915年)、当時、農商務省林業試験場の初代場長であった白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、日本で育てました。その後、湯島聖堂、足利学校、閑谷学校、多久聖廟など、孔子や儒学にゆかりのある学校に寄贈されたのが最初だそうです。

岡山県の閑谷学校(しずたにがっこう)の楷の木が最も大きく育っているそうです。実は、成章高校の110周年に植えられた楷の木は、岡山の閑谷学校から貰い受けたものというのを成章高校の関係者の方から伺いました。孔子の時代から綿々と繋がる由緒正しい楷の木だったんですね。

1670年に岡山藩主池田光政(みつまさ)が日本初の“庶民のための公立学校”を創立。谷深き地に建てられた学校は閑谷学校と名付けられました。講堂は国宝にもなっているのだそうです。

こちらが岡山県の閑谷学校の楷の木の動画です。



愛知県立成章高校の「成章」の名前は、実は、論語の中に登場する「斐然成章」という言葉に由来します。戦乱の絶えない春秋の時代、各地を放浪する孔子とその弟子たちですが、楚の昭王が亡くなった後に出てくるのがこの言葉です。

この箇所に関して、井上靖さんの「孔子」からその箇所を引用させていただきます。

いま、自分の胸は一つの想いでふくらんでいる。先刻、昭王の柩をお送りしたあと、あの夜道を歩いて、ここに来るまでに、私の胸に生まれ、ふくらみ、溢れるほどいっぱいになった思いがある。それを披露する。

こう仰言って、それから暫く、真暗い夜空を仰ぐようにして、ご自分の胸の想いを整理していらっしゃる風でしたが、やがて口をお開きになりました。

——— 帰らんか、帰らんか。
  我が党の少子、
  狂簡(きょうかん)にして、
  斐然(ひぜん)として章(しょう)を成すも、
  これを裁するゆえんを知らず。

二回、ゆっくりと口からお出しになり、それから、ご自分で、それを日常の言葉に置き換えられました。

——— 帰ろうよ、さあ、今こそ帰ろう。
  わが郷党の、魯(ろ)に遺(のこ)して来た若者たちは、
  みな大きな夢、大きな志の持ち主、
  みごとな美しい模様の布を織り上げてはいるが、
  仕立てるすべは知らないのだ。

それから、子は、
——— みんな、私を必要としている。帰ろうよ、さあ今こそ帰ろう。彼等の進むべき道を決めてやらねばならぬ。
と、仰言いました。

斐然(ひぜん)として章(しょう)を成す、というのは、見事に、美しい模様の布を織り上げているということ、つまり学問の基礎がしっかり身についているというような意味になるのですね。

岡山の閑谷学校から贈られた楷の木が成章高校の敷地に植えられたのは2011年のことでした。東日本大震災の年でしたが、あれから10年、あんなに頼りなかった苗木が、大きく育ちました。一番上の写真の中央の木が今年の楷の木の姿です。成章高校の関係者の方から送っていただきました。もうこんなに大きくなっていたんですね。と同時に10年の月日の歴史を感じざるをえません。

2011年、私はそれまで、シンガポールに10年、香港に4年駐在していたのですが、2011年に東京に帰ってきました。帰国後1週間後に東日本大震災を経験するのですが、フェイスブックを始めたのがちょうどその頃。成章高校の関東支部の関東成章会の総会の年次幹事にもなっていたので、フェイスブックを同窓会組織のために立ち上げたのが2012年でした。

この10年の間に、再びシンガポールに赴任したり、インドの会社を独資化したり、会社を退職して、シンガポールで起業したり、コロナが世界に蔓延して、これまでの世界が全く変わってしまったり、語りつくせぬことが、いろいろとありました。

楷の木は、すくすくと育っています。これからも私たちの歴史を見守ってくれているのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母の日」が「母の月」になった今年の5月

2020-05-06 17:03:06 | 故郷

母の日は通例では5月の第2土曜日なので、今年は5月の10日なのですが、今年は、新型コロナで非常事態宣言が出ているのを受け、5月10日の一日だけでなく、丸ごと一月を「母の月」とすることになったのだそうです。日本の花き業界の9団体で構成される日本花き振興協議会からの情報でそれを知りました。たまたま花について検索していたからわかったのですが、どれだけの人がこのことを知っているのかよくわかりません。少なくとも私にとって、これは寝耳に水でした。

「母の日」というのは、諸説ありますが、1907年の5月12日にアメリカのアンナ・ジャービスという女性が、亡くなった母に白いカーネーションを贈ったのが起源だと言われています。やがて5月の第二日曜日が母の日であると決められて、日本もそれにならったのだそうです。30カ国以上がこの日を母の日としているのですが、イギリス、アイルランドは3月だし、イスラエルは2月、中東諸国は春分の日としているし、フランス、スウェーデンなどは5月の最終日曜としています。タイは8月12日、ロシアは11月最終日曜、インドネシアは12月22なんですね。世界的には割とバラバラです。

母の日というと、日本では赤いカーネーションが定番ですが、世界的には、これまた色々あるんですね。日本も最初は母親が健在の場合は赤、亡くなっている場合は白のカーネーションだったらしいのですが、差別になるというので、赤に統一されたのだとか。



カーネーションの国も多いのですが、オーストラリアは何と菊。オーストラリアでは5月は秋で、菊の花が盛りなのだそうです。そして、菊は英語では「クリサンセマム」(Chrysanthemum)、言葉の最後に”mum”の音が。英語では、母親を、マムと呼びますが、アメリカ式のスペルが”Mom”で、イギリス、オーストラリアスペルが”Mum”なんですね(発音は同じ)。



菊というと、日本では、天皇家を象徴する恐れ多い花だし、白の菊は葬儀の時の花でこれまた神聖な感じがします。日常的には、何となく敬遠したくなる花なのですが、実は菊の花も、色や形が多様化しているようです。私の故郷は愛知県の渥美半島の田原市なのですが、花の生産額では日本一の都市です。また昔から、温室で栽培する「電照菊」が有名でした。戦後まもなく始まった「電照菊」のおかげで、田原市と豊橋市で、日本全体の菊の生産の3割を占めているのだそうです。こちらは、日本夜景遺産にも選ばれた渥美半島の温室の風景です。



田原市の市役所の農政課の知り合いに聞いたら、菊の花も最近はオシャレになってきて、丸っこい「マム」と呼ばれている花とかも人気だということでした。今年は、新型コロナの影響で、式典や葬儀なども自粛となり、花の生産者は大変な影響を受けているとのことです。飲食関係のお店の補償とか話題にはなりますが、花は投資金額を大きいし、売れなければ、日持ちもしないので、誰にも喜ばれず枯れていくだけです。花の買い手がつかず、花の出荷量は日々減少。売れ残った花が日々大量に廃棄されてしまう「フラワーロス」が問題視されています。せっかく誰かを喜ばせようとして咲いてきた花が、大量に廃棄されるという現実はとても悲しいものがあります。

花の販売で生計を立てている人々を助けるためにも、地元の生産者を助けるためにも、また、母親に感謝の気持ちを伝えるためにも、そして、花の廃棄を防ぐためにも、花を贈るというのはいかがでしょうか?幸いにも、今年は、母の日が31日間に拡張されたので、今週焦って手配する必要はありません。

さらに、今年は長距離の移動を自粛するということで、帰省したくてもできなかった人が多いのではないでしょうか。また、行楽シーズンでありながら、家に閉じこもることを余儀なくされた皆さんも多いのではないでしょうか。花で帰省しようというキャンペーンも行われています。



ステイ・ホームにも、そこに花があると安らぎがあり、ストレスも解消されるのではないでしょうか?今は、いろんな人が、いろんな状況で困っています。もしも、花が何かの助けになれるとしたら、花もどんなにか嬉しいのではないかと思います。

こちらは、地元田原市の道の駅のサイトです。こちらでオンラインで花を贈ることが可能です。これ以外にも、オンラインで花を贈れるところはいくつかありますが、皆さんよろしくお願いいたします。

https://tahara-michinoeki.com/product-category/tahara_ouen

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校の同窓会にフェイスブックページを利用して一年が経過

2013-02-24 11:47:07 | 故郷

私の母校は愛知県立成章高校という
愛知県の田原市にある高校なのですが、
昨年の2012年の2月6日に、関東
地区の同窓生の集まりである「関東
成章会」のフェイスブックページを
立ち上げてみました。

2012年の6月に行われた総会の幹事
に自分がなってしまったこともあって、
参加者を増やさないといけないという
課題がありました。フェイスブックが
どの程度のことができるのか半信半疑
のまま、とりあえず作ってみたのです。
お金はかからないし、しかも簡単に
できてしまうところがありがたかった
です。

2012年2月25日のブログ記事によると、
当時の日本のFACEBOOKの登録者の数
は、676万8160人、普及度は5%程度、
国別の順位としては25位でした。
卒業生で関東地区に住んでいて、そして
フェイスブックをやっている人の絶対
数は非常に限られていました。
しかし、きっとこれから若い人を中心に
増えていくに違いないということで
使い続けてみました。

それから一年、2013年2月24日時点
では、1380万9800人、普及度は
10.85%、世界での順位は17位となり
ました。一年で二倍以上になりました。
(出典:Socialbakers)

母校は一昨年、創立110周年で、長い
歴史があります。関東地区にも数多く
の卒業生がいるのですが、昭和63年から
関東成章会ができ、毎年一回、東京で
総会・懇親会をやってきました。

我々の年代(昭和30年生まれ)よりも
上の世代は数が多いのですが、下の年代
があまりいないというのが問題でした。
関東成章会は同窓会組織ではありますが、
世代を越えて、老若男女の集まりです。

昨年の時点で、「いいね!」の数は11人。
週間合計リーチが36でした。一年経って
「いいね!」の数は45人。最新のリーチ
が178。この一年でかなり増えました。

最新のグラフはこちらです。

6月の総会の直後が一番盛り上がったの
ですが、継続して、卒業生の活躍や、
地元ネタなどアップしていますので、
徐々に新しい参加者も増えています。

FACEBOOKページというフォーマットは
同窓会とは非常に親和性があると思って
おります。卒業生の人で関東地区におら
れる方で偶然これを見ておられる方は、
是非、この機会にFACEBOOKに登録して
いただいて、関東成章会のページを訪問
していただければと思います。

成章が甲子園に出た時のエースの小川
泰弘君がドラフトで東京ヤクルトスワ
ローズに入りましたが、彼の活躍も
フォローしておりますし、成章卒業の
タレント光浦靖子さん、大久保佳代子
さんらの活躍、また、画家、書家、
音楽家として活躍されている卒業生の
みなさんの情報や、地元ネタも盛り込み
皆さんがコンスタントに見たくなる
場を目指しています。

関東成章会のFACEBOOKページはこちらです。
http://www.facebook.com/kanto.seishokai

同窓会というのは、まさにリアルな
SNS(ソーシャルネットワーク)です。
FACEBOOKをうまく活用すれば、この
ネットワークをさらに充実拡大させる
ことができるんではないかと思っており
ますので、皆様ご協力よろしくお願いします。

こちらもよろしくお願いいたします

にほんブログ村 海外生活ブログ アジア情報へにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私にとってのヨイトマケの唄

2013-01-03 23:33:36 | 故郷
昨日、紅白で美輪明宏が歌った
「ヨイトマケの唄」のことをブログ
にアップしたら、閲覧数1275、訪問者
数997という、これまでにない数字が。
びっくりして詳細を調べてみたら、
検索サイト経由らしいのです。Yahoo!
とかGoogleなんですが、Googleで
「ヨイトマケの唄 紅白」と入れると、
このブログが9番目くらいに出てきて
います。Yahoo!の検索でも上位に来て
いるようです。美輪明宏の「ヨイトマケ
の唄」は相当インパクトがあったよう
ですね。

昨日紹介したYouTubeの動画は、昨日
の時点で9万6千人の人が見ていました
が、今日見たら、約40万人以上になって
いました。紅白が終わって、すぐ
アップされた別の動画は、「この動画は、
NHK さんによる著作権侵害の申し立て
により削除されました」ということで、
見られなくなっていたのですが、こちら
の動画は一月三日になってもまだ見られ
ます。いつ削除されるのか心配ですが、
まだ消されていないということはNHK
さんの温情なのでしょうか。

こちらがその動画です。

何度見ても感動的ですね。
コメントの数も600件以上。削除された
場合、これらのコメントも消えてしまう
ので、消されないことを祈るばかりです。

と書いたのですが、1月4日、とうとう動画
が削除されてしまいました。ちょっと残念です。
でもどうしても見たいという人がいると思い
ますので、こっそりこちらのリンクをご紹介
しておきたいと思います。
美輪明宏「ヨイトマケの唄」
これもいつ削除されるかわかりませんが。

美輪明宏の「ヨイトマケの唄」は、名曲
なのですが、テレビでは放映されること
があまりありませんでした。YouTubeで
見ると、いろんな人がカバーしたのが
アップされていました。米良美一のも
感動的ですが、やはり紅白の美輪明宏の
が一番ですね。自分で作詞作曲をしたと
いうのもすごいです。

黒のシンプルな衣装で、余計な飾りや
応援などなく、歌一つで勝負した
美輪明宏の潔さは感動的でした。
それは、歌だけでは観客を感動させられ
ない歌手や、商業主義で作り上げられた
人気に依存した「商品」に対する、
痛烈な批判だったのだと思います。
2012年の年末に、本物の歌に出会えた
私たちは幸運でした。

まだ丸山明宏と名乗っていた青年が
この歌を初めて歌ったのは1964年。
東海道新幹線が開通し、東京オリン
ピックが開催された年。日本が高度
経済成長のまっただ中にあった時代。
昭和30年に生まれた私はその時、
小学校の3年生。父親は菓子屋を
やっていましたが、母親は炒り胡麻
などを製造する工場に働きに出て
いました。

母は私に工業高校に行って、
エンジニアにでもなってほしいよう
でした。しかし私は普通科の高校に
行き、東京の大学に進学したのでした。
「ヨイトマケの唄」を聞くと、母に
苦労をかけたことを思い出します。
何度も過労で入院していました。

母が亡くなって、昨年、七回忌が
終わりました。この歌を聞くと、
そんな思い出などもだぶってきます。

紅白に美輪明宏を呼ぶ決断をして
くれたNHKの皆さんに感謝したい
と思います。

こちらもよろしくお願いいたします

にほんブログ村 海外生活ブログ アジア情報へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楷の木の物語

2012-03-14 00:43:40 | 故郷

昨年、母校の愛知県立成章高校が創立110
周年を迎えました。それを記念して学校に
「楷の木」が植えられたのだそうです。
上の画像は、110周年の記念式典のパン
フレットに出ていた写真なのですが、
その文章には「孔子にゆかりのある中国
原産の珍木」と書かれています。


楷書という書体は知っていたのですが、
「楷の木」というのは勉強不足で知りま
せんでした。調べてみると、次のような
ことがわかりました。

今から約2500年前、中国の春秋の時代、
孔子が亡くなって、山東省曲阜に埋葬
されました。弟子たちは3年の間、喪に
服し、墓所の周りにいろんな木を植えた
のだそうです。弟子の中の子貢(しこう)
は、さらに三年、小さな庵を作って、喪
を続け、楷の木を植えてその地を離れた
のだそうです。

その楷の木が大きく育ち、「子貢手植え
の楷」として有名になったのだそうです。
やがてこの楷の木は、中国の科挙の試験
の合格祈願のシンボルとなっていったの
だとか。歴代の文人が自宅にこの楷の木
を植えたことで、「学問の木」と呼ばれ
るようになっていったのだそうです。

この木が日本に初めてやってきたのは、
1915年(大正4年)。孔子にゆかりの
ある学校に植えられたのだそうです。

愛知県の成章高校も論語の「斐然成章」
という言葉から取られているので、もと
もと孔子とは深い関係があったのですね。
創立110周年の記念として植えられた
この楷の木。実は長い歴史の物語が
込められていたんですね。

こちらもよろしくお願いいたします

にほんブログ村 海外生活ブログ アジア情報へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする