まわる世界はボーダーレス

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ディズニーランドのフォレストシアター入り口の4つのポスターの秘密

2022-05-08 10:42:49 | 文学的な
春休みが終わり、ゴールデンウィークが始まる前の4月の平日の午後、ディズニーランド好きの妻にいざなわれ、ディズニーランドに行ってきました。その日はそれほど混んでいなかったので、人気の「美女と野獣」など数々のアトラクションを待ち時間があまりなく見ることができました。

その中で、「ファンタージーランド・フォレストシアター」で行われていた「ミッキーのマジカルミュージックワールド」というショーも観ることができました。森の中の劇場という雰囲気なのですが、中は1500人くらいが収容できる本格的な劇場でした。約25分くらいのパフォーマンスも想像以上に素晴らしく、ダイジェスト版のミュージカルを観ている感じでした。

全席指定なので、行列に並ぶという必要はないのですが、劇場の建物の前が小さな広場になっています。ディズニーランドは、いろんな物語が随所に散りばめられているのですが、実はこの広場の壁面に飾られている演劇ポスター、これをじっくり眺めずに素通りしてしまうのは非常にもったいないと思いました。

私はディズニーに関してはそんなに詳しいわけではないのですが、大学で英文学を専攻していたし、演劇は自分でも学生時代、シェイクスピア劇で舞台にも立ったこともあり、ミュージカルや演劇もいろいろ観ておりました。

そんな私にとって、ここに飾られている演劇ポスターはそれぞれが魅惑的な芸術作品でした。これに興味を持った人がどれくらいいるのかわかりませんが、そのまま見過ごされてしまうのが忍びないので、このポスターについて語っておきたいとおもいます。

壁面に飾られているのは、過去に上演された演目ということなのか、これから上演予定の演目なのかはわかりませんが、森の中のこのシアターがこの国(ファンタジーランド)の演劇の中心地であるという演出なのだと思いました。

“Cat on a Hot Thin Roof” (熱い薄屋根の猫)



このポスターには、『おしゃれキャット』のマリーが描かれていますが、実は『熱いトタン屋根の猫』という演劇作品へのオマージュとなっています。

オリジナル作品のタイトルは、“Cat on a Hot Tin Roof”(日本語では『熱いトタン屋根の猫』)。『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』で有名なアメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズによる戯曲です。1955年にニューヨークで初演され、ピューリッツァー賞を受賞しています。

癌で余命いくばくもない米国南部の大富豪の農園主。同性愛の恋人を失った次男は酒に溺れ、妻は愛を取り戻そうと悩む。長男とその妻は父の財産を狙い、農園主の誕生日に集まってくるという話。1958年にエリザベス・テイラー、ポール・ニューマンの主演で映画化されている作品です。

こちらが映画のビデオクリップです。


このポスターによれば、この戯曲を演じるのは、『おしゃれキャット』に登場する子猫のマリーということです。『おしゃれキャット』(原題: The Aristocats)は1970年に公開されたアニメーション映画で、日本では1972年に公開されています。

この映画のビデオクリップはこちらです。


この映画ではまだあどけない子猫のマリーなのですが、『熱い薄屋根の猫』が彼女のデビュー作となり、いきなり円熟した女性の役を演じるというギャップがいいですね。タイトルの“Tin Roof”(トタン屋根)が“Thin Roof”(薄い屋根)となっているところがミソです。

ポスターのタイトルの左下に、小さめの文字で“Love,Betrayal, Shoddy Architecture, This play has it all!”(愛と裏切り、そしてしょぼい建築構造。このお芝居にはその全てがある!)と書かれています。「薄い屋根」なので、「しょぼい建築構造」なんですね。

“Pigmalion” (ピグマリオン)



『クマのプーさん』に登場するピグレットというキャラクターが描かれていますが、バーナード・ショーの演劇作品『ピグマリオン』へのオマージュになっています。

オリジナルのタイトルは“Pygmalion”で、アイルランド出身の英国の作家バーナード・ショーが1912年に書いた戯曲です。1938年に映画化されていますが、その後、舞台ミュージカルとなったのが、『マイフェアレディ』で、オードリー・ヘプバーン主演で映画化されています。『マイフェアレディ』の原作がバーナード・ショーの『ピグマリオン』だったのですね。

こちらが映画『ピグマリオン』のビデオクリップです。


この「ピグマリオン」という話の原作は、ギリシャ神話の、彫刻に恋してしまうキプロス王の話(彫刻に命が吹き込まれ人間の女性に変身する)なのですが、心理学で「ピグマリオン効果」という言葉も使われます。他者から期待されると学習効果が向上するということですね。

このポスターでは、“Pygmalion”の“Pyg”が“Pig”という綴りになっています。主演はピグレットということですが、このピグレットというのは、ピンクの耳の子ブタのぬいぐるみで、プーさんの親友なのですね。プーさんやクリストファー・ロビンといっしょに、100エーカーの森に住んでいると言われています。こちらがピグレットが登場している動画です。


この左上にフクロウが描かれていますが、『ピグマリオン』の中で登場する言語学者のヒギンズ教授の役だと思います。『クマのプーさん』の中に登場するフクロウは、プーさんたちといっしょに100エーカーの森に住んでいて、物知りで、長老的な存在と言われています。こちらがフクロウが登場するビデオクリップ。


子豚のピグレットがフクロウの指導を受けてどのような淑女に変身していくのか見ものです。

“Who’s Afraid of the Big Bad Wolf?” (狼なんか怖くない)



これは、“Who’s Afraid of Virginia Woolf?”(バージニアウルフなんて怖くない)という戯曲のパロディーかと思っていたら、ディズニーの『三びきの子ぶた』の中で歌われる“Who’s Afraid of the Big Bad Wolf”(おおかみなんか怖くない)のほうが先だったのですね。

“Who’s Afraid of Virginia Woolf?”(ヴァージニアウルフなんて怖くない)というのは、エドワード・オルビー(Edward Albee)の有名な戯曲で、1962年にブロードウェイで初演された作品です。

二組の夫婦の偽善的な関係が描かれていて、1963年にトニー賞を受賞、20世紀アメリカ演劇の代表的な作品のひとつと言われています。1966年にはエリザベス・テイラー、リチャード・バートン主演で映画化され、同年のアカデミー賞で五部門を獲得した作品です。

こちらがその映画のビデオクリップです。



ちなみにヴァージニア・ウルフというのは、1882年生まれの英国の小説家で、モダニズム文学の代表的存在と言われていますが、本人はフェミニストでレズビアンで、59才で入水自殺をした人物です。



で、ディズニーのポスターに登場しているビッグバッドウルフなのですが、ディズニーの『三匹の子ぶた』(Three Little Pigs)に登場する悪役キャラクターです。『三匹の子ぶた』は1933年に公開されたアニメーション短編映画ですが、ビッグバッドウルフはその後、『赤ずきんちゃん』(1934)、『オオカミは笑う』(1936)、『働き子ぶた』(1939)に等にも出演しています。

こちらは『三匹の子ぶた』のビデオクリップです。


“King John” (キング・ジョン)



“King John”(ジョン王)はウィリアム・シェイクスピアが書いた歴史劇で、あまり有名作品ではないのですが、日本では、蜷川幸雄氏がシェイクスピア全作上映を目指し、吉田鋼太郎氏が途中からその遺志を引き継いだ「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の第36弾作品として上演される予定だったのが 『ジョン王』でした。コロナ禍で、2020年6月に予定されていた公演は中止になってしまったので、幻の演目になってしまいましたが。

こちらがそのプロモーション動画です。


ディズニーのポスターの「ジョン王」ですが、主演がプリンス・ジョンとなっています。プリンス・ジョン(Prince John)は、映画『ロビン・フッド』に登場する悪役で、イングランド王子という設定です。家臣である蛇のサー・ヒスの催眠術を利用し、国王である兄のリチャード王を一時的に追い出して自分が臨時の王になるのですが、税金を取ることしか考えていないという人物。ここで活躍するのがロビン・フッドなんですね。

『ロビン・フッド』(Robin Hood)は、1973年公開の長編アニメーションで、日本では1975年に公開されています。こちらがそのプロモーション動画。



ポスターの上部に、“Love, Deceit and Taxes”(愛、裏切り、そして税金)と書いてありますが、アニメの中でプリンス・ジョンが税金の取り立てが大好きだったことを意味しているのですね。

これら4つのポスターは架空の演目なのですが、実際に見てみたくなりますね。劇場ポスターといえどこんなに深いストーリーがあるのを知ると、時を忘れて鑑賞していたいです。
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原田マハ著「サロメ」のビアズリーを取り巻く情報の蛇足的図解

2022-05-02 22:01:11 | 文学的な
日本橋の丸善に原田マハさんの「サロメ」が平積みになっていたので、衝動的に買ってしまいました。黄色っぽい表紙に印刷されたビアズリーのサロメの絵を見ていたら、買わないという選択はないと思えてしまったのです。

昨年の11月、長年住んでいたシンガポールを引き払うために、大量の書籍を処分した時、もう本は買うのはやめようと思っていました。しかし、この本を目にした瞬間に、その決意はもろくも崩れ、気付いたらレジで支払いをしていました。

私は大学で英文学を専攻していたのですが、ビアズリーやオスカー・ワイルドは素通りしてしまっていました。サロメの話も、詳しくは知りませんでした。しかし、この原田マハさんのこの小説を読み出したら、まるで時間と空間を超えて旅をしているような感覚を味わうことができました。そして、自分がかつて訪れた場所の記憶や、かつて見聞きした記憶の断片が次々と蘇ってきたのです。

ゴールデンウィーク中にゆっくり読もうと思っていたのですが、夢中で読んでしまい、ゴールデンウィークが始まる前に読み終えてしまっていました。読んだ後、不思議な衝動を感じ、上のような物語の相関図を作ってみました。完全に自己満足なのですが、人物の配置とバランス、そして人物を繋ぐ線で登場人物の関係を美しく図式化していくことに喜びを感じるのです。

小説を楽しむにあたって、写真や地図や画像は不要かもしれませんが、実際のものを知るとまた味わいも深くなっていくのではないかと思うので、ネット検索で集めた資料をご紹介していきたいと思います。余計なお世話かもしれませんので、知りたくない方は、この記事から早めに離脱することをおすすめします。

まず、この物語の主人公として重要な人物がどんな姿だったのかをご紹介していきましょう。最初は、オーブリー・ビアズリー。



この小説の中では17歳の頃から25歳までのオーブリー・ビアズリーが描かれています。無名のオーブリーの才能を見出す様々な人々。そしてオスカー・ワイルドとの出会い。最後は結核で25歳の短い人生を終えるのですが、5年ほどの間に一世を風靡し、数々の名作を残します。

そして、もう一人の主人公のメイベル・ビアズリー。



オーブリーの一歳年上の姉ですが、女優で、サロメを演じることを夢見ています。姉としてオーブリーをオスカー・ワイルドから守ろうとします。小説の中では、「ジョー」というお芝居で、当時の人気女優のジェニー・リーと同じ舞台に立つという話や、「アントニーとクレオパトラ」で主役のクレオパトラを演じるという話が出てきますが、上の写真を見るととても綺麗な女優だったのですね。

こちらは1875年のメイベルとオーブリーの写真。



子供の頃から仲が良かったという話が小説中で出てきますが、この写真は1875年ということなので、オーブリーが3歳頃、メイベルが4歳頃と思われます。

そしてこちらは、オスカー・ワイルド。



アイルランド生まれの作家・劇作家で、耽美的、退廃的な19世紀末文学の旗手と言われている人物で、『幸福な王子』等の児童文学、『ドリアン・グレイの肖像』等の小説、『ウィンダミア卿夫人の扇』などの戯曲等で有名です。この小説では彼がフランス語で書いた『サロメ』が登場します。男色家で、当時の保守的な英国では問題視され、クイーンズベリー侯ジョン・ダグラスからの訴訟を受け、投獄され、破産。放浪の後、梅毒による髄膜炎で46歳でこの世を去ります。

この小説の中で登場するオスカー・ワイルドは40代で、男の色気たっぷりなのは写真からもわかりますね。



上の写真はオスカー・ワイルドと、小説の中でも登場する美貌の青年アルフレッド・ダグラス。しかし、オスカー・ワイルドのファッションセンスはすごいですね。

こちらは、まだ無名だったオーブリー・ビアズリーの作品を掲載した、雑誌ペルメルバジェットとストゥーディオ。小説の中で二つとも登場してきます。



Pall Mallというスペルを見て「ポール・モール」と読んでしまいそうになりますが(ポールモールというタバコもあるので紛らわしいですが)、これは「ペルメル」です。あるいは、「パルマル」という発音にも近いですが、アメリカ人的に「ポール・モール」と発音してしまうと、英国人は眉をしかめます。ロンドンのトラファルガー広場とセント・ジェームズ・ストリートを繋ぐハイソサエティーな通りの名前なのです。

この通りには、昔からジェントルマンズ・クラブがいくつもあり、私は、広告業界の会合でリフォーム・クラブというクラブで食事をしたことがあります。歴史を感じさせる重厚な雰囲気の空間でした。ペルメル界隈は19世紀末は文化の中心地という雰囲気があったのだと思います。

なぜペルメルと発音されるのかというと、16、17世紀に流行っていたローンゲーム(ゲートボールのような球技)がペルメルと呼ばれていて、それがこの通りの近くで行われていたという由来によります。

Pall Mall Budget(ペルメルバジェット)という週刊雑誌は、Pall Mall Gazette(ペルメルガゼット)という夕刊紙の1週間の記事をダイジェストにした雑誌です。1868年から1920年まで続いた雑誌ですが、1893年にWilliam Waldorf Astorがリローンチを行い、C. Lewis Hindが編集を担当します。

オーブリー・ビアズリーの作品が初めて登場するのが、このペルメルバジェット。そして、間も無く、The Studioという雑誌が創刊され、そこにもオーブリー・ビアズリーの作品が掲載されます。この二つの雑誌にともに関わっていたのが、C. Lewis Hindという編集者なのです。

その頃、挿絵画家としてオーブリー・ビアズリーを起用するのを決めたのは、J.M.デントという出版業を営む人物で、それはトーマス・マロリー著『アーサー王の死』の仕事でした。



そしてこの小説の主題であるオスカー・ワイルド作『サロメ』です。



オスカー・ワイルドが最初フランス語で書いた戯曲だったのですが、その内容が社会良俗に反するということで英国での上演許可は降りませんでした。フランス語のオリジナルを英語に翻訳するということで、オーブリーが翻訳するのですが、上の画像の左のオレンジ色の英語版の表紙に、翻訳:アルフレッド・ダグラスという表記が出ています。この経緯を知りたい方は、原田マハさんの『サロメ』をお読みください。

オーブリー・ビアズリーが有名になった後、彼が編集責任者兼アートディレクターとして関わるのがイエローブックのプロジェクトでした。



「黒いマスクをつけて邪悪な笑みを浮かべる女の顔」というのは上の一番左の絵です。小説の中で、オーブリー・ビアズリーが最後の作品として、シェイクスピアと同時代の劇作家ベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』の挿絵を描いていますが、それがこちらの作品です。



私は学生時代、上智大学の英文科におり、シェイクスピア演劇を原語で上演するシェイクスピア研究会にも属しておりました。今はテレビでも有名になっている吉田鋼太郎もその時の仲間です。

シェイクスピア研究会の顧問の先生が、シェイクスピア研究者の安西徹雄氏で、先生は劇団円でいくつかシェイククスピア劇を翻訳・演出されていました。1981年にベンジョンソンの『ヴォルポーネ・またの名を狐』という演目で劇団円で上演しました。橋爪功さんらが出演しておりました。その後、『錬金術師』というベンジョンソンの作品も安西徹雄訳演出です。

日本ではほとんど知られていない作品でしたが、めちゃくちゃ面白い作品でした。その作品が上演された時代に生きていたとう幸運に感謝したいと思います。

オーブリー・ビアズリーが最後の作品として『ヴォルポーネ』の絵を描いていたというのも面白いですね。

さて、物語の最初にも、途中にも登場してくるのがホテル・ザ・サヴォイのティールサロン。



1887年に創業したこのホテルは、ロンドン随一の一流ホテルですが、オスカー・ワイルドは当時できてまだ間もないこのホテルの常連だったということです。メイベルがオスカー・ワイルドを呼び出すのはこのティーサロンです。

昔、出張でロンドンに行った時、このティールームにアフタヌーンティーをしに会社の仲間数人で行こうとしたら、入り口で、「スニーカーやジーンズは駄目だ」と断られたことを思い出しました。

そしてこちらはカフェロワイヤル。1893年4月最後の土曜日の夜、オスカー・ワイルドがオーブリーと密会する際に、メイベルがこっそり立ち聞きする場所です。



こちらはパリのコメディー・フランセーズ。オーブリーとメイベルが、サラ・ベルナールの『ハムレット』を見る劇場です。



当時ロンドンで有名だった女優のジェニー・リー。彼女の当たり役は、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』(Bleak House)に登場するJoeを主役にして脚色したお芝居の"Joe"でした。オーディションの末、メイベル・ビアズリーはこのお芝居で、ジェニー・リーと同じ舞台に立つことになります。



メイベル・ビアズリーが、アルフレッド・ダグラスの力を借りて、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ役を射止めるという話も出てきますが、この時の資料は見つかりませんでした。

そしてこちらが、最後にメイベル・ビアズリーが1日だけ借りて、サロメを上演するパリの劇場、ブフ・デュ・ノール。



オーブリー・ビアズリーが1897年11月20日から1898年3月16日まで滞在するのが南フランスのマントン。こちらが地図ですが、マントンは南フランスの一番東外れのモナコの隣、イタリア国境のすぐそばの町です。国境を超えれば音楽祭で有名なサンレモもすぐそばのところですね。



ニースには二度ほど行ったことがありますが、マントンはニースからもすぐ近くだったんですね。ここは、19世紀にビクトリア女王も滞在したことがあり、イギリス人には人気のスポットだったようです。この町に英国の医者が5人もいたそうです。

こちらがマントンの動画です。



オーブリー・ビアズリーはこの町のコスモポリタン・ホテルというホテルで85日間滞在し、そこで亡くなるのですが、お墓はこの町の丘の上にあります。



上の左の写真はホテルの部屋のオーブリー・ビアズリー。壁には彼の絵が何枚も貼ってあります。右は丘の上の彼のお墓。彼が亡くなったのは25歳。彗星のように現れて、消えていきました。

25歳と聞いて、私が25歳の時に印刷した詩集を思い出しました。表紙の絵も自分で書いたのですが、当時は細いペンで絵を描いていました。ビアズリーのことは知らなかったのですが、何となくビアズリーが拘っていたことがわかるような気がしました。



『ハートコレクション』というタイトルのこの詩集の表紙は、暗い森の中に、昆虫採集の如く、さまよえるハートを捕まえにいくという設定です。すっかり忘れていた過去の出来事ですが、『サロメ』を読んで、こんなことも思い出させてくれました。
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