酔っ払いの戯言

塾長から使えば?などと、甘い言葉に
ついつい乗せられて。

ゆとり教育と教育再生(宋文州)

2006-11-09 02:00:45 | 教育改革
教育再生会議という学校教育を見直すための組織が先日発足しました。一般には「ゆとり教育」への批判があり、そうしたこれまでの教育方針を経緯を含めて議論することになります。しかし、「ゆとり」を捨てて、今の韓国やかつての日本のように激しい受験戦争を繰り広げる方がましだと自信が持てる日本の父母はどれほどいるでしょうか。

 僕が日本に来た1980年代は日本はまさに受験戦争の激しい時代でした。子供達の心身の健康を害し、創造性と柔軟性を阻害する詰め込み教育が限界に達していました。そこで、無邪気な子供達に自由に遊ぶ「ゆとり」を与えようと、議論されたのが「ゆとり教育」でした。

 ふたを開けてみるとどうでしょう。ゆとりを与えられたのは子供達ではなく実は教師の方ではないでしょうか。膨大な国家予算を使いながらも、公立学校は必要最低限の教育しかできなくなりました。普通の学力レベルに達するためには塾に通わないといけない教育になってしまいました。私立学校も教師達が生徒の塾通いを前提に授業を行います。

 世間では今、日本の子供達はゆとりを持っているから世界の教育レベルについていけないと言いますが、僕はそうは思いません。そもそもこの数年の「ゆとり教育」は少しも子供達にゆとりを与えていなかったのです。

 ゆとりとは暇ではありません。子供達の一人ひとりの特徴を精査したうえで、その子に合った誘導を行えば、勉強そのものが遊びになり、忙しくてもゆとりがあるのです。



自民党総裁選立候補者の立会演説会で教育改革について述べる安倍氏=9月9日〔共同〕

 個々の子供の特徴と才能を精査して、それに合った誘導をしない限り、教育は必ず間違った方向に走ってしまいます。ゆとり教育をやめてもそれは単に一つの間違った方向からもう一つの間違った方向に変わるだけかもしれません。

 僕は「教育」という言葉さえ好きではありません。「教えて育てる」という発想はEducationと大いに異なります。Educationの語源であるEduceは「誘導」もしくは「引き出す」という意味です。もともと有った潜在的才覚を発見し、伸ばす。

 そのためには必要最低限な暗記も必要でしょう。共通の知識ベースも必要でしょう。しかし、最低限のベースがあれば充分です。

 日本の教育の問題は10年前も今も同じです。それは才覚の異なる子供達を同じ能力、同じレベルに引き上げるという前近代的な教育思想があるからです。良い学校に行くことはつまり決まった「受験能力」をより多く身につけることです。自立する能力、異なる環境に適用する能力、そしてゼロベースでものを考える能力はほとんど未開発のまま、親達の受験戦争に巻き込まれているのです。

 そもそも日本の親達は教育現場に入りすぎです。家で子供と深いコミュニケーションをとらない裏返しで、学校の行事に熱心になっていないでしょうか。些細なことに親達が口を出し、介入することは子供達自身で問題を解決する能力を妨げています。小学校の入学式に親達が出るのはなんとなく分かりますが、大学の入学式はもちろん、会社の入社式まで出る親が現れました。



 日本の学習塾は世界で最大規模を誇ります。言い換えればそれだけ子供達に学校以外の勉強も要求しているのです。実はこれが全部親達の願望で「ゆとり」を求めた分、結局塾での勉強を増やしたのです。また教師の「ゆとり」のしわ寄せでもあります。

 「ゆとり教育」をやめる前に、これまではいったい誰にゆとりを与えてきたかを厳しく問うべきです。そして子供達の個性と創造力を誘導し引き出すための教育は、子供達の心にゆとりを与えてこそできると思います。

 先日、友人の家族と夕食を共にした席で、大学3年生のお子さんが言いました。「小学生の時に父さんに言われてサッカーのクラブを通ったが、僕はいつも天気が悪くなるのを願っていたよ。雨でも降れば練習に行かなくてすむと思って」。聞いた友人はしばらく沈黙し、「お前がそこまで嫌だったのか。父さんは悪かった」と謝りました。

 教育を議論する時は、子供だけでなく親が重要な当事者であり、子供たちの素質を伸ばすことをきちんと考えなくてはいけないと思います。


[2006年10月16日]