流れが分かり易いように年表を上げます。
サイトにアップしている年表で、神戸との関連が中心なので京都での話はここからは分かりにくいですが、まあこれで充分だろう。
今回の話が安元2(1176)年、ドラマでは兎丸が尽力していた兵庫の経ヶ島がその前年安元元年に完成を見ている。
前回の話、後白河法皇と滋子が広島の厳島神社に参詣していたのは史実で承安4(1174)年のことになります。
その建春門院滋子が亡くなったのが安元2(1176)年。
享年35という事で若いですねえ…
才色兼備の女性であったと言われ、後白河法皇はそうした点を気に入ってか彼女を寵愛していたことがよく知られている。
平清盛ら平氏一門と後白河法皇・院の近臣の間には、朝廷での除目や荘園・知行国を巡り元々大きな亀裂がありました。
除目は人事のことですが、人事権を専断したい法皇とそうはさせたくない平氏。
法皇が専断したら院の近臣ばかりが昇進し、平氏が排除されることになるのは目に見えている。
知行国や荘園といった財政に関係する話は人事に付いてくると見てもいいと思うので、やっぱり人事が大きな問題だったのじゃないかと。
元々高倉天皇擁立が両者にとってメリットがあるという理由で手を結んでいたので、ちょくちょく両者の間で問題が起っていたのはドラマで描かれていた通りです。
その両者の関係が一見平静に保たれていたのは建春門院がいたからでした。
建春門院は平氏と後白河側の鎹(かすがい)だった。
そうした立場、調整役の人物がいなくなるというのは清盛にとっては文字通り痛恨の出来事であったと思います。
今回のドラマの中で後白河が「滋子がいれば配慮もするけれど」といった旨の台詞を言っていましたが、本当にその通りだったのだろうと思います。
今回もまた千僧供養が行われていましたが、これが建春門院が亡くなった翌年の3月。
建春門院の菩提を弔うという感じの大法会であったようです。
確か後白河が千僧供養で神戸に来たのはこれが最後かな?
●平知盛
平清盛が一番可愛がったのが四男の知盛。
重盛も宗盛も清盛の目には柔弱、優柔不断と写っていたようで、一番期待をかけたのが知盛だと言われています。
『玉葉』では九条兼実が「相国入道最愛の息子」とか、そういう事を書いている。
武に秀で人的魅力もあった人物として知られていて、国司として武蔵国に赴任した際はそこで多数の家人を得ている。
武蔵国は元々源氏の影響の大きな土地ですが、そうした所で現地の人間に受け入れられるのはどういう事か、推して知るべしでしょう。
治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)では知盛が実質的な総大将になっており、壇ノ浦の戦いで「見るべき程の事は見つ」と海に身を沈めました。
上にあげた系図、漢字が間違っていますが、知盛の息子に知章(ともあきら)がいます。
一の谷の合戦で父知盛の代わりに戦死していまして、お墓が神戸の長田にある。
写真、あるんだけどね…なんつーか…うん。なんか写ってるので出さない方がいいと思う。
で、今回蔵人頭に知盛が推されていましたが、豈図らんや実際に蔵人頭になったのは院の近臣藤原光能でした。
次の蔵人頭に知盛がなると言うのは衆目一致の見解であったようで、そんな中の院の近臣の大抜擢。
建春門院が生きていたらこんな露骨な格好にはならなかっただろう。
●高倉天皇
そろそろ成人します。
天皇がいるにもかかわらず後白河法皇が政治に関与していられるのは天皇が未成年だから(院政)。
仏門に入っていたふたりの宮を呼び返し高倉天皇の養子にしたのは、天皇が成人する前に退位させ、引き続き院政を続けるという意思表示と見ていいでしょう。
ただ平氏としては高倉天皇に譲位されたら元も子もない訳で、絶対にこれは阻止したい。
入内して中宮になっている徳子には何としてでも皇子を生んでもらいたい。
高倉天皇には他にも妃がおり子供もいたのですが、内親王のみで皇子はいなかった。
これが高倉天皇自身の立場も不安定にしています。
平氏だけではなく高倉天皇も切実に皇子が欲しかったと思うよ…
●序曲
延暦寺の末社との争いで延暦寺の強訴を招き、それが原因で西光の息子である目代藤原師経、引き続き加賀守藤原師高が配流となりました。
ここからは恐らく次回の話になりますが、たび重なる強訴に業を煮やした後白河法皇は「これは謀反である」として天台座主の明雲をひっ捕らえ、座主を罷免した上流罪に処しています。
これには西光の讒言があったとも言われている。
公卿連の大半は温情を、という感じであったようですが流罪は強行。
以前延暦寺の強訴で院近臣藤原成親も配流の憂き目にあっている事もあるので、法皇側としてはかなり思う所もあったかと思います。
しかしながら配流先に向かう途中で延暦寺の悪僧どもに明雲は奪還されてしまった^^;
これには後白河法皇激怒。
平氏に向かい出した命令が「延暦寺を攻撃せよ」。
権門寺院との争いについては平氏は消極的で、延暦寺が強訴に及んでも積極的には動いていません。
清盛が出家した際の授戒師は明雲で個人的な誼もあったと思いますし、寺院と争うと言うのはやはり得策ではない。
かといって後白河法皇の命令も無視できるものではなく、法皇と寺院の板挟みでどうしようかという時に起きたのが鹿ヶ谷事件でした。
次回か次々回で西光も成親もいなくなるのかー。寂しいなー
●多田行綱
今回出てきてましたが、次週大変重要な役目を負う人です。
多田という姓から分かるように多田源氏(摂津源氏)、源氏の元々の嫡流になります。
「源氏の嫡流」と言うと頼朝、つまり河内源氏の系統だと一般的には思われるようにと思いますが、河内源氏の祖は多田を出て羽曳野に本拠を置いた頼信になります。
確かに一番力があったのも栄えたのも歴史に名前を残したのも河内源氏ですけど。
源氏の嫡流は多田源氏だけれども総領は河内源氏と表現している本なんかもあります。言い得て妙。
この本来の嫡流であったところの子孫が多田行綱。
有名な話ですけど、この方が何をするかは待て次週で良いでしょう。
●北条政子
暫く見ない間に普通になっていたー。何があったー^^;
輿入れ云々の話が出てきました。おー。来週あたり山木兼隆が出てくるのか。なんかあの話創作らしいけどどうなんだ。
再来年の大河がまた戦国時代と言う事で。もういい加減にしてくれ。
最新の画像[もっと見る]