goo blog サービス終了のお知らせ 

Forth!

旧ブログ跡地★移転しました(2014/1/1)

移転のご案内

ご訪問ありがとうございます
このブログは2013年末にて更新を終了し、現在は新ブログで更新しています

移転先:Para Bellum(パラべラム)

また下記サイトも運営しておりますのでぜひ遊びに来て下さい。

サイト:月に叢雲花に風

これからも【Forth!】改め【Para Bellum】を宜しくお願い致します。

2013/12/31 ヒジハラ

神戸あれやこれや

2009-01-05 | 歴史の小旅


いつも行ってるのに行かないのは気持ち悪い。
という事で楠公さんこと湊川神社にお参りに行ってきました。
多田神社は流石にしんどいかと思って。

JRで言うと最寄駅は神戸なのですが、私は何時も元町で降りてそこからてくてく歩きです。
音楽聞きながら線路沿い、歩いて20分位。なのでそんなに遠くない。



流石にまだ参拝客は多かったです。
お参りしてからは山側にある大倉山の図書館へ。
以前紹介しましたが、大倉山は明治の政商・大倉喜八郎の別荘があった所です。
とはいえこの別荘、大倉は殆ど使っていなかったようで。
利用していたのはもっぱら伊藤博文(笑)
そんな事もあって伊藤の死後、大倉は市民に開放するという条件付きで神戸にこの別荘地を寄付しています。伊藤の銅像も建っていた。
山の上にあるだけに相当目立つ銅像だったようで、神戸を行きかう船からもその姿が見えたと言います。
今じゃ山から海も見えないのにねえ(笑)
そう言えば広瀬も湊川神社にお参りしていますね。
確か兵学校卒業前の実地演習で天龍艦に乗組んでいた時だったように思います。

図書館の傍を走る下山手通りを真っ直ぐ東に向かうと兵庫県庁に出ます。
…出るのですが、そこまでいかずにロイホが見えたら海側へ折れる。
真っ直ぐ下りると花隈城跡があるのですが、その途中にあるのが、

 東郷井

ここにはもともと神港倶楽部があった所で、東郷平八郎が1年程滞在していたんですね~
何故かといいますとここから少し歩いた海の方、神戸市立博物館がある辺り(よりもっと海側、高速越えて向こう)、勝海舟肝いりの海軍操練所があった辺り。
その辺りに小野浜造船所がありました。
居留地の外国人の会社だったのを海軍省が買収し、呉鎮守府の監督をうけるようになっていた記憶が…
最終的には呉鎮に吸収されることになり廃止になっている。
割と早い段階で無くなった大して知られていないような造船所なんですが、ここで初代の「大和」が建造されています。
そしてこの初代大和建造の監督官をしていたのが東郷平八郎でした。
それで神戸に滞在していた。
この「東郷井」の石碑のある場所、もともと井戸があったそうです。
その井戸を東郷が朝夕使っていたという所から、この名前がついている。

 

石碑の裏側には撰文がありますがそれを考えたのが小笠原長生。
左側のです。子爵小笠原とあるのが分かりますかね~。
ちゃんと名前も続いてますが、影になってて分かりません。
表の東郷井という文字を書いたのが財部彪。
『彪書(花押)』とあります。
神戸に残る珍しい近代の海軍関連史跡(笑)

因みにここからJR元町駅は程近い所にあります。
その山側に伊藤博文が住んでいた事がある。
伊藤は兵庫県の初代県知事でした。
JR神戸駅のひとつ西隣にはJR兵庫駅があるのですが、明治の初めの頃はここに県庁があった。この辺りは平清盛が拓いた大輪田泊という港で、幕末の「兵庫開港」の『兵庫』はここを指します。
リリーは元町から兵庫まで通ってたみたいですね。
因みに元町の山側には兵庫県公館があり、そこで伊藤の揮毫や文字の書かれた盃なんかを見ることができます。

余りなさそうな印象を受けますが、調べれば結構近代関連の事項って出てくるもんですね(笑)

後はぼちぼちと南京町を通りランダムウォーク(洋書屋)へ向かったんですが。
洋版倒産!!
え?去年7月末?
…うっそ。知らんかった…orz
それで新しく出来た大型書店に洋書の取り扱いが無かったんですか…
ランダムウォークは今月15日で閉店だそうです。セールやってました。
残念だ。雑誌ここが一番安かったのに…



ランキング参加中  にほんブログ村 歴史ブログへ
 
拍手ありがとうございます♪

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都ぶらぶら歩き2/青蓮院門跡

2008-08-24 | 歴史の小旅
昨日の続き。
京国博で坂本龍馬展を見学してからまたぼちぼちと歩いてスタート地点あたりまで戻る(笑)
目的はこちらでした。
私がなっがいこと「すえん」だと思っていた(笑)、「栖園(せいえん)」の琥珀流し。

 

私の大好きな冷菓です(笑顔)
左側が琥珀流し。蜜に寒天が浮かんでいるのですが、これがもうふるっふるです。
寒天だけど口の中に入れるとほどける感じ?そんで加糖されてないんだと思う…
蜜の甘さで食べます。京都らしいなあという上品な甘さ。
この蜜が月替わりになってます。8月は冷し飴かな、多分。あの味は(笑)
何月までやってるのかな。冬場はやって無かった気が。
わらび餅も捨てがたかったので、ミニセットを頼む。うまスー
夏場は鍵善のくずきりか栖園の琥珀流しっすね。

 坪庭もステキ。いかにも京都(笑

栖園を出てぼちぼちと青蓮院門跡へ。



青蓮院は格式の高い門跡寺院です。
門跡寺院というのは、皇族や摂関家の子弟が出家して入る寺院の事。
真言宗では仁和寺、天台宗では青蓮院が筆頭に上げられる事が多いのかな?
よく分かりませんが。
青蓮院には法親王が入る事が多かったようで、幕末には中川宮朝彦親王が門主として入られていました。門主であった頃は青蓮院宮と呼ばれていた。

 

宮は公武合体の立場に立って孝明天皇の信頼がとても厚かった人物で、文久3年8月18日のクーデターの立役者のひとりともなっている。
そう言う係わりから薩摩藩が青蓮院の護衛的役割をしていた時期がありました。
中村半次郎、後の桐野利秋ですが、上京したての彼はここで守衛を務めていたんですな。
また薩摩藩家老小松帯刀に見出されたのもこの頃とされ、他藩人との交流もこの頃に一気に広がります。中村が後に西郷・大久保に多く用いられることになる一因はこの頃に広げた人脈があるという話も有る。
鹿児島での西郷との出会いは、中村の人生を変えたと言って過言ではないと思いますが、実際の所中村に目を付けて個人で動けるまでに引きたててやったのは小松ではないかという気はしますな。

 
本堂への渡廊と客間から見た庭(小堀遠州らしい)

京都時代の中村というと「人斬り半次郎」という通り名?が有名ですが、史料的に残っている中村の「人斬り」はたった1件。
それも一時期流行った天誅とは違いこちらは藩絡みと言っていいようなもんです。
決して中村個人の判断で殺せるような人物ではなかった。
残っていないから他は斬っていないなんてよう言いませんが、卑賤とはいえ当時の中村の"位置"というか"立場"を考えると「人斬り」と称される程人を斬ってはいなかったんではないかと思います。

 
客間から出た所の廊下と客間の襖(綺麗だった)

彼に関しては色々と疑問があるのですが、その内のひとつがその「人斬り」の呼称です。
普通に人斬り半次郎と言いはしますが、コレっていつ頃から言われ始めた事なんですかね?幕末からじゃないような気がしますな~…
調べていないので何とも言えませんが。案外戦後からじゃね?(^^A
なんというか中村半次郎に関しては桐野利秋期(?)の、一般に流布している西南戦争期のイメージが悪すぎる気がします。あーそれに西郷隆盛を庇いたいという心情もプラスされてるよな、たぶん。
それに「人斬りだから」という先入観が加わると、色々な所が中々修正されにくいのかなーと。

 

今年は百日紅の表年?なんでしょうか。色んな所で見ますが、綺麗ですね。

御本堂で大分長い事居座ってしまいました。
…いやー初めはお寺の方と天気等の世間話をしてたんですが、桐野の話になり歴史の話になり、宗教信仰心云々の話になり最後の方なんか人生相談入ってた…(笑)
気が付いたら1時間半程話し込んでました。
帰る時に「これあげるよ」ってみかん貰う。青不動さんのお下がりでした。ええんか。




にほんブログ村 歴史ブログへ ブログランキングです。



>拍手頂きました方、ありがとうございます!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都ぶらぶら歩き

2008-08-23 | 歴史の小旅
目的は青蓮院+αという事で大した予定もなかったので、本当にぶらりぶらりと。
こんな感じでしたー

IYEMON SALON KYOTO(カフェ・三条烏丸)から中京区を突っ切って東山へ。
祇園界隈を歩いてると筋を間違えたのか安井金毘羅(東山安井)に出てしまったのでそこから六道珍皇寺→六波羅密寺→五條坂へ抜けて、方広寺・豊国神社→京都国立博物館(東山七条)へ。見学の後耳塚の傍を通って鴨川迄抜けて北上、栖園(烏丸六角)でおやつ→青蓮院門跡。
なんか物凄ーい効率悪い歩き方ですな~(笑)
個人的に馴染み深い場所を歩けて良かったです。夏休みにしては人も少なかったし。
安井金毘羅は霊山の麓にある絵馬で有名な神社です。縁切りでも有名。
六道珍皇寺は平安のマイラブのひとり・小野篁ゆかりのお寺です。
六波羅密寺は有名な平清盛、空也の木造を所蔵しているお寺。私の好きなお寺のひとつで、学生時代によく見学に行きました。
京国博に隣接している方広寺・豊国神社、そして程近い所にある耳塚は豊臣秀吉にゆかりの史跡です。
大阪の陣の発端になったと言われる「国家安康 君臣豊楽」の銘文が刻まれた鐘が境内に残っています。
耳塚は朝鮮の役の時に日本の武将が手柄の証拠として持ち帰った耳鼻の供養塔。

例によって例の如く、スタートはブランチから(笑)
IYEMON SALON KYOTO。2・3カ月前にオープンしたばかりのサントリー・伊右衛門モチーフのカフェです。

 焼きおにぎり

和モダンなんかな?席数は多いけど、落ち着いてイイ感じ。
フード・ドリンク・スイーツメニューも結構充実してました。アルコールもあったので夜はカフェバーにもなるんじゃないかと。
あー…最初にサーブされたのが水ではなくお茶だった。
どうも日によって変わるらしく、昨日は水だしかぶせ茶。これは嬉しい。
しかも美味しかった。

てくてく歩きながら目的地のひとつ、京国博へ。



常設展内ですが、プチ特集で坂本龍馬展が。
特に何が出ているか調べもせず、「またあれが出ているだろう」位の認識で見に行ったのですが、初公開資料が2点ほどありました。

実際には大きくふたつに分かれていました。
今年は鳥羽伏見の戦いから丁度140年という事でそのプチ展示と龍馬先生の展示と。

鳥羽伏見の戦いの方に関しては当時の瓦版や浮世絵、明治後期に資料として作られた絵巻といった絵画資料が多かったです。
また資料の出所は、戦いの舞台になった城南宮、御香宮、個人から借り受けた資料等展示。
城南宮は薩摩の本陣になった所、御香宮も薩摩やったかな。
付近にあった伏見奉行所を幕軍が本陣としとりましたな。ちょうど新選組なんかが詰めていたハズ。

そういったことからか城南宮は幾らかの資料をお持ちのようです。
展示されていたものも結構ありましたが…
阿多孫二郎という少年の遺品が目を引きました。
阿多は薩摩兵で奥小姓格、小銃第9隊所属して参戦。慶応4年1月6日に負傷して26日に死亡。享年17歳とありました。
展示されていたのは遺書と鉢振という円錐形の軍帽のふたつだったのですが。
鹿児島にいる家族に宛てた遺書が立派でした。
何て言うか。模範的?だなーと。
こういう時はこういうふうに書くものだという言う事も教えられているんでしょうね。
でも書かれている文を読んでいると「討ち死にと定め候上は、討ち死にと定め候上は」と不必要に繰り返してあったり、筆跡が震えていたり。
17歳。17歳かあ…
何となく生の声を垣間見てしまったような気がしてちょっと、うん…

他にも僅かですが薩摩関連のものがありました。
こんなの残ってるんだ!と思ったのが当時の薩軍軍旗。
薩軍遊撃隊旗、監軍旗、軍旗なんてものもありました。
おお~と思ったのは薩軍2番炮隊旗。
2番炮(砲)隊は大山弥助、後の大山巌が直接指揮した砲隊。
そんなの残ってるんですな。びっくりした。

龍馬関連はいつもの通りですわ(笑)
思った通り大して変わり映えしてませんでしたが、2点初公開史料が。
両方とも龍馬の書簡で、北海道から来てました。
ひとつ目が正真正銘初公開だったらしい、(推定慶応2年)1月20日姪の春猪宛て。
うーん。これはねー…
釈文ついてましたが、一体何が書かれているのか分かりませんでした(笑)
分かったのは春猪に対する口汚い悪口(多分顔に関する)が書かれているということだけ。
お前は男という男も逃げ出すような云々みたいなことも書いてあり、解説にも「酷い」って書かれてた。
書かれた時期が慶応2年1月20日だとすると龍馬には色々なストレスがあった時期のはず、そのせいではないかとありましたが。
龍馬よストレスで姪に八つ当たりかよ、と思うのは私だけですか。

もうひとつは本州では初公開だったという書簡。
姉乙女宛てで、(推定文久3年)某月14日。
これがすんごい微妙な手紙でした。
内容が千葉佐那子の事について。
…と書くと、千葉道場にこんな子がいますっつー内容かと思いますが。
剣の腕はこう、こんな事ができます、あんな事もできます、容姿はこうです云々。
なんだろう…
とりあえず家族に紹介する前にお姉ちゃんに好きな人を紹介するような…?
しかも他の人には黙っていてください、みたいなことが書いてあった。
うわー…どいういうつもりなんだろう。なんか微妙だな~と思いながら読んでました。
所蔵がNPO北海道坂本龍馬記念館実行委員会になっていたのですが、北海道でそういう運動があるんですかね?

さてさて、続きは明日~♪

※坂本龍馬展は8月31日までです。



にほんブログ村 歴史ブログへ ブログランキングです。



>tomiさん
はじめまして、こんばんわ。
ぼろっと零した愚痴にメッセージ頂いてありがとうございました。
ひええぇ広瀬に対する興味、ですか!?これは凄く嬉しい一言でした。
そう言って頂けるとサイトを続けていて本当に良かったと思います。
広瀬の事は物凄く好きですが、好きだからこそ褒める所で終わりたくないと思っていることもあり、彼を扱っている他サイト様に比べるとかなり辛辣な事も書いているだろうな~という自覚があります。
それを批判しているように感じられる方もいるだろうとも思っているので…
tomiさんに興味を持った、続きが待ち遠しいと言って頂けて思わず踊りました(笑)
相当マイペース更新ですが、これからも是非是非お付き合い下さい。
メッセージありがとうございましたvv


>拍手頂きました方、ありがとうございます!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厨川柵+α@盛岡

2008-07-23 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※

…間違って昨日の記事(厨川柵3@盛岡)消しました…(アホ過ぎる)
復活させません(しんどいので)。これはまあサイトの前九年関連の史跡ページの時にでも。あ~あ…(凹)

まあ気を取り直して。
今日は厨川柵+αという事で。昨日の記事で書いた安部館町にあるゆかりの神社なぞを。



緑で囲ってある所の右端と左端、更に道路と面している下部に堀跡があると先日は書きました。
上部(北)には北上川が流れており、すぐそこから崖っぷちになっている。
草木が生い茂っているのですが、危ないからかフェンスが張られています。

 こんな感じ。

写真下部、木の隙間から川の流れが見えています。
こういう所に現在住宅が建っていたり神社があったりするわけです。
神社とはいっても実際にはお社があるだけっぽい。地域の方が手入れされてるんじゃないだろうかと。

 厨川八幡宮

一番大きくて目立つのが、厨川八幡宮。
前九年役後に源頼義(義家父)が勧請した等色々といわれがあるようですが、起源がよく分からないようです。
明治に入る頃にはかなり廃れていたようですが昭和一桁代に地域の神様としてお祀りされ始めたとの事。地域顕彰の一環という事もあったと思われます。



更に少し離れた所にあるのが忠魂碑。
場所は安部館町にあるローソンの道路挟んだ、川側に伸びる道の奥(だったと思う)。
忠魂碑は対象が近代ですな(右側の大きな石碑です)。
揮毫は福島安正ですわ!いやー!知らんかった!(笑
そしてその左側に赤い鳥居が見えますが、こちらが安倍館妙徳稲荷神社。



単に安部館神社とか妙徳稲荷神社とかでも聞きますが、どういった呼び方が正しいのかよく分かりません。
…つか安倍館妙徳稲荷神社が正しい呼び方かもよく分かりません…(><)
御存知の方いらしたら教えて下され…;;

 

そしてその隣にある、貞任宗任神社。
いやーここは盛岡に来たら絶対にお参りしたいのよー!と思う所のひとつだったりします(笑)だってホラ、名前が…(笑)
というか、私まず安部館町にきてこの神社探したんですよ。
流石に細かい場所までは覚えてなかったんですが、この神社だけは衝撃的だったので。
名前もさる事ながら…
以前来た時に何かあるかと思ってこの辺りをふらふら歩ている最中に、偶然見つけたんです。個人宅の敷地内で。コレには流石にビックリしました(笑)
それはばっちり覚えてたんで今回も記憶を頼りに結構歩き回ったのですが、何か…場所変わってるし…見つからない筈ですわ。
良かった、出会えて。

この辺りでとっぷりと日が暮れてきたので、散策は諦めて盛岡駅に戻りました。
せめて原敬と米内光正のお墓詣りにも行きたかったんだけどなー…
まあ仕方なし。これはまた次の機会に。

 

盛岡と言えば冷麺か蕎麦ですな。んまかった。
駅前に啄木(啄木庵?)という蕎麦屋が有り、そこで高橋克彦のサイン見たなーとか。うん。なんか色々と思いだしました(笑)
盛岡は水沢と同じくホント1日で見て回るの無理です…
近代と古代が重なってて(苦
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ブログランキングです。



>拍手頂きました方、ありがとうございました!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厨川柵2@盛岡

2008-07-17 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※
さてさて。先日は厨川柵の擬定地、天昌寺を見てみました。今回はそこからちょっくら歩きまする。


ピンクの所が天昌寺。今から行く所は黄色い所、敵見が森です。

 

ちょちょっと距離あるかな…20分位だと思います。
目の前に見えるJRの高架越えます。さらば天昌寺。
しっかしこの辺り…
歩いていて嬉しいのは歴史が地名に残っていることですな。

 前九年町!萌!

今回御紹介の敵見ヶ森も前九年町にあります。
さてーサクサク歩きます。暫くすると北上川にぶち当たります。
上記地図でも分かるかと思いますが、そこで道がいくつかに分岐している。
右に行けば盛岡駅、左に行けば柵跡になります。
柵跡に行くには坂道を登らないといけません。急いでる時はちょっとつらい。
先日、厨川柵は「川岸が10mほど切り立った絶壁」という事を書きましたが、実際に歩いてみると成程な、と思います。
そして見えてくるのが

 敵見ヶ森

森と言いつつ、実際には木が密集しているだけっぽい…とか言っちゃだめです(笑)
しかしながら大木なので、遠くから見てもかなり目立っている。
目の前に前九年郵便局もあるので迷う事もないかと思われます。

 

神社になっています。
敵陣が対岸に迫っていた時、安倍貞任がこの付近に丘を作り、櫓を構えて敵の動向を監視させたというのが地元の伝承のようです。
また敵味方数多の兵士が亡くなった激戦地でもある事から、土地の人々が祠を建ててその霊を弔ったとのこと。
敵見ヶ森稲荷神社といいます。

岩手・宮城内陸地震被災地宛の義援金について

にほんブログ村 歴史ブログへ ブログランキングです。



>拍手頂きました方、ありがとうございました!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする