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2013/12/31 ヒジハラ

厨川柵跡1@盛岡

2008-07-14 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※
 
同じき(※九月)十四日厨川の柵に向ふ。
十五日酉の尅に到着。厨川・嫗戸の二柵を圍む。相去ること七十八町許り也。陣を結び翼を張りて、終夜之を守る。
件の柵、西北は大澤、二面は河を阻(へだ)つ。河の岸三丈有餘、壁立途無し。
其の内に柵を築きて自ら固うす。柵の上に樓櫓を構へて、鋭卒之に居る。
河と柵との間、亦た隍(みぞ)を掘る。隍の底に倒(さかしま)に刀を地上に立て、鐡を蒔く。
また遠き者は弩を発して之を射、近き者は石を投げて之を打つ。
適々(たまたま)柵の下に到れば、沸湯を建てゝ之を沃ぎ、利刀を振ひて之を殺す。
官軍到着の時、楼上の兵官軍を招きて曰く「戦ひ来れ」と。
雑女数十人楼に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪む。
  (陸奥話記)

 もりおか

さてさて。
衣川館(衣川)→白鳥館(前沢)→豊田館(江刺)→黒沢尻柵(北上)と北上し、やってきました、安倍氏最期の城砦・厨川柵。現在の盛岡市にあたります。
実際には上記以外にも柵は設けられていたようですが、そこまでは行ってないのでパスします。
そうですなー…
ホントは昼過ぎに盛岡着の予定でしたが、地震にあったのでそれ所では無くなってしまいました。電車終日運転休止でしたよ…;
水沢からバスを乗り継ぎ、到着したのが6時過ぎ。電車なら1時間ほどの距離ですが、4・5時間位掛かったのかな。

厨川の柵を守っていたのは厨川次郎と呼ばれた貞任です。
とはいえ陸奥話記の記載や、戦争の推移を見ると貞任は衣川の前線基地にいたんじゃないかと思いますわ。
厨川柵には城代家老のような役割の家臣か弟を代理に置いていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

その厨川柵ですが、所在の詳細はこれまたよく分かっていません。
「厨川柵跡」とされる史跡はありますが、こちらも他の遺跡と同じように擬定地となっています。
実際の地理と陸奥話記の記載に微妙なズレがあることから、昔から論争があるようです。
ただ引用した厨川柵の様子を見ると、

・西北を大沢に囲まれ、二面は河に挟まれている。
・河岸が9~10m程切り立っていて、登れない

柵を挟んで流れていたのは、北上川と南側の雫石川だと考えられています。
『陸奥話記』(現代思潮社)の解説によると、厨川というのは雫石川の古名だったそうです。
北上川と雫石川の合流点から東側の地域が城砦化されていたと考えるのが常識的でしょうか。

「厨川柵跡」という碑が立っている場所は、2か所あります。
2か所と言っても、恐らく柵があったと考えられる場所が広範囲に及ぶため、その代表的な所が挙げられているのだと思いますが…

 擬定地1:天昌寺

そのひとつ目が天昌寺です。



正面をぐるっと回ると、「ここが擬定地です」という立看板があります。
上記しましたが、この川と川に挟まれた地域一帯は台地になっているようです。
そのどの範囲かは分かりませんが、発掘調査をした際に、濠のあとや土器・鉄片や古銭等が出土したそうです。
まあ擬定地というだけで、特に何がある訳でもないのですが。笑。

 ピンクで囲った所が天昌寺

点線の所が擬定地一帯ッす。
もうひとつの擬定地が地図の上の方、北上川の辺り。
そこ迄歩いて行ってみたいと思いまーす。

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黒沢尻柵@北上

2008-07-12 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※

即ち正任が居る所の和賀郡黒沢尻の柵を襲つて、之を抜く。
射殺す所の賊徒三二人、疵を被ぶりて迯る者その員を知らず。
又鶴脛・比與鳥の二柵、同じく之を破る。
(陸奥話記)

さてさて。
北上川沿いにある安倍の柵を見て行ってます。
今まで出てきたのが
・鳥海柵 →三郎宗任、弥三郎家任
・衣川館/衣川柵 →安倍氏本拠地
・白鳥舘/白鳥柵 →八郎則任(行任?)
でした。南から言うと、衣川→白鳥→鳥海柵となります。
その次に出てくるのが、黒沢尻柵。
先日ご紹介した豊田館や五位塚はこの鳥海柵と黒沢尻柵の中間にあります。
和賀郡黒沢尻とありますが、現在の地名で言うと北上市になります。



現在擬定地が公園になっている。
川岸遺跡というそうですが「安部館公園」という方が一般的なようです。
何があるのかと言われても特に何もないですが(笑)

 堀跡のような土手があります。

そうですねー…
この公園に来るのに何が困るかというと、史跡の名前も公園の名前も地図には載って無いことです。
ハイ。北上駅でもらえる観光地図にも載ってません。
初めてこの公園に行った時、地元の観光案内所のおねいさんに所在地聞いて分かりませんでした。
一体何年前だよ(笑)
「え?黒沢尻…のサク?…」とか言われてよー(笑)
北上市の観光協会に電話されたんたぜー(笑)(スイマセンでした…)
取りあえずは北上川方面、駅の東側に出て下さい。
間違って西側に出ると酷い目に遭います。大変遠回りになる。
駅出て北に5分ほど歩くと向かって右側に公園が見えてきます。
ソコ。
そこそこ広さのある公園なので、見逃すことはないと思われます。

 

ここから歩いて5分くらいで北上川です。
白鳥舘跡から見た川の様子と全然違いますな。
ゆったりと流れていて、ここからの眺めはとても好きです。
川の向こう、ぽっこりした△の山が見えてますが、あの辺りに国見山極楽寺があります。
この極楽寺というのが相当古い。
平泉以前からの存在が確認されており、平泉に移るまではここが文化の中心地だったとも言われています。これは川の東側。
川の西側、JRの線路の西側に行くと江釣子古墳群があります(電車か車必須)。
…大規模なのかな。
行ったことないので分かりませんが、とにかく名前はよく聞きますな。
古代から結構拓けた土地であったことが推察されます。

 萌町名。

陸奥話記を引用しましたが、黒沢尻柵を守っていたのは五郎正任という人物です。
例によって例の如くほんのちょっとの地域伝承しか残されていない正任君ですが、ワタクシこの方、とっても好きで(笑)、サイトでも出現率非常に高い。
いじり甲斐がある方です(コラ)。

前九年の役では安倍氏方が敗北し、その総帥であった安倍貞任、藤原経清、更に貞任の弟の重任が亡くなります。
12年に及ぶ大戦争だったのに意外でしょ?
降伏が認められ、助けられた人は結構いる。ここが日本史のいい所やと思います。
宗任、正任といった貞任の弟たちはそのまま配流されます。
宗任は初め伊予に流されたのですが、勢力をつけてきたという理由でその後大宰府に。
九州には松浦党という有名な水軍が出ていますが、宗任はその祖と言われています。

正任はと言うと黒沢尻柵が落ちた後、伯父の良昭と共に出羽国に遁れていたと陸奥話記にあります。
厨川柵(盛岡市)が陥ち、兄・義兄の死と兄弟たちの降伏を聞いて、正任も伯父を連れて降伏します。戦争が終わって8ヶ月後の事でした。
どうも正任も宗任と一緒に伊予、太宰府に流されたようです。
という事は他の弟達も一緒だったんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
それとも2・3人づつ固めてかな。
まあその辺りはよく分かりませんが。

史跡と関係ないですが、ここでも現地人と間違われ道を聞かれました。
おばあちゃんに。
あー…郵便局に行きたいんだなってことは分かった。
ガイドマップだったけど地図持っててよかったよ。
どこ行っても現地人と間違われます。外国行っても間違われるんだよ。何でかな。

ランチパックってサンド(?)ご存知ですか?
最近ものすごーく種類増えてますよねー。
大分前にみさわちゃんから「こんなのあるのよ!!」と教えて貰ったのが、

キナコモチ ←きなこクリームに生八橋の生(皮オンリー)入り

聞いた時にすんごいしかめっ面したの覚えてる。
みさわちゃんも選択の余地がなかったらしいのですが、食べてみると意外と美味しかったそうで。
そしたら私も北上駅で似たようなの見つけました。

マシュマロ&チョコ ←チョコクリームにマシュマロ入り

その時は私にも選択の余地がなかった。
内心(げろー…)と思いながら買いましたよ、ええ。
旅行中は殆どまともなご飯食べないので(大抵時間無い)、せめて総菜パン…!と思うんですがねー(笑)
いや、でもこれが意外と美味しかったです。甘かったけど。
地元ではあんまり見ないので、地域性とかあるのかな。
ご当地もの?それも面白いっすね(笑)





KG島県立図書館から本がやってきました!
あー!そうそう!そこが知りたかったの!!という事の記載がありました~。
もっと早く申請してみればよかったな(苦笑)
机上、色々と広げた状態で連載書いてたら「何してる人?」って聞かれた…

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>MVさん
き、巾着ですか…(((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
どんなサドンデスですかそれ(驚愕)
しっかしそれは確かに吐き出せないですね;大人はツライ(笑)
私なら確実に巾着食べれなくなります(笑)


>拍手頂きました方、ありがとうございました!

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五位塚@江刺

2008-07-06 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※



豊田館跡からほど近い所にあるのが、五位塚。
五位塚墳丘群というのが正確な呼び方なのではないだろうか。
「伝」ではありますが、藤原経清とその一族の墳墓だと言われている所です。

藤原経清という人物も最近たびたび名前を出しているので、今更感あふれる感じですが、平泉を作り上げた藤原清衡の父になります。
散位従五位下亘理権大夫という肩書がある。
従五位下(じゅごいのげ)は謂わずと知れたことですが、位階。
その上に付いている散位は「さんに」と読み、位階はあるが官職についていない事を指しています。
亘理権大夫は「わたりのごんのたいふ」と読みます。
亘理は宮城県亘理郡の辺りを指しており、ここからはそこの権大夫という役職についていた事が分かります。
まあ亘理郡一帯を治めていた人物と考えるのが手っ取り早い。
う~ん…しかしながら私…ちょっと分からないのですけど…
散位なのに、亘理権大夫ってなんか矛盾しているように思えるのですが…
中央政府で仕事していない状態が散位ってことなのかな(手元の日本史辞典に載って無かった)。
前九年の役が始まる辺りでは、在庁官人として多賀国府に出仕していたのではないかと考えられています。

凡そ1000年程前、そして対象が当時辺境とされた陸奥、さらに"討伐"された現地の豪族と条件がトリプルに重なり、前九年の役で安倍氏側に関しては史料が決定的に不足しており、分かっている事はかなり少ないです。
経清も詳細がよく分からない人物の一人なのですが、その祖はムカデ退治で有名な俵藤太・藤原秀郷と言われています。
秀郷は平将門の乱を平定した武将してよく知られています。
奥州藤原氏は、秀郷流藤原氏ということですか。
まあその「藤原氏」というのも自称、つまり勝手に称えてたんじゃないかと言われていたのです。
しかし「造興福寺記」という同時代史料の中で経清の名前が発見されたことから、一応は藤原氏一門に名前を連ねる人物という事までは確認されています。



入口をちょっと登る。丘の上にあります。
どーれ位人が来てないのか……クモの巣がそらーもーそらーもー凄かったです。

経清は現地の豪族、安倍氏と通婚しております。
安倍頼時の娘と結婚し、清衡を設けている。
頼時戦没の後、安倍氏を率いて源氏と戦った貞任とは義兄弟の間柄になります。

経清も亘理という土地に暮らしている現地の豪族ですので、京都から派遣され、仕事を終えたら帰京する陸奥守や官人とは立場が違う。
安倍氏を後ろ盾として持つことで、自らの勢力や威権の維持といった余滴に預かろうという思惑も大いにあったと思われます。



在庁官人でありながら、安倍の婿でもある。
どちら側に心を寄せるにしても、非常に難しい立場です。
何か事件が起きた際には両者の力関係を見て、その都度都度で付く側を変える。
そうしなければ生き残れないからです。
全く同じ立場にいた人物としては伊具十郎平永衡がいる。
彼は前出の通り(→豊田館跡@江刺)将軍源頼義に安倍への内通を疑われ、申し開きも許されず即殺されました。
後の結果を見ると、この時の処断のまずさが、戦争を長引かせる一因になっている。
頼義がもう少し両者の立場を理解し慰撫遺留していれば、戦争の推移はやや変わっていたかもしれません。



五位塚、名称は経清の位階従五位下から来ているかと思われます。
古くからこう呼ばれているらしい。
ちょっと山に入った静かな丘の上にある、何となく炎立つの経清をイメージさせる遺跡です。

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豊田館跡@江刺

2008-07-03 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※

白鳥舘遺跡からタクシーを使って前沢駅へ。10分前後です。
まだ時間が早かったので、ここまで来たらと思い江刺まで行くことに。
江刺に行くためにはとりあえず水沢まで出ます。電車待ち…
水沢という地名はこのブログでもサイトでも頻繁に出てきますので、最早耳タコかと思いますが(笑)、
古代では蝦夷の大英雄・阿弖流為(アテルイ)
近世では蘭学の高野長英
近代では海軍の斎藤実、大風呂敷・後藤新平
を輩出した町。JR水沢駅の西側が水沢という地域。
江刺はその逆、水沢駅の東側、車で2・30分の所にあります。
最寄駅は新幹線の江刺水沢駅ではないかと。それでも車で15分は掛かるんじゃないかなあ…
NHK大河ドラマロケ地である「えさし藤原の郷」の傍です。
まあ此処まで来るのは結構不便ですわ…(笑)

とりあえず水沢駅からバスで江刺バスセンターまで。
江刺バスセンターからさらにバスを乗り継ぐか、傍でタクシーを拾うか。
どちらかをお勧めします。歩くのはちょっとしんどいかな~。

 豊田館跡

去る康保年中、江刺郡豊田館を岩井郡平泉に移し宿館となす

という記述が「吾妻鏡」(文治5年9月23日条)にあります(※康保は嘉保または康和の誤り)。
これだけではなんのこっちゃ、という感じですが…(笑)
主語は、藤原清衡になります。
奥州平泉の初代御館が藤原清衡。
その清衡が平泉に遷る前に本拠を置いていたのがここ、豊田館(とよたのたち)。
因みに安倍氏、奥州藤原氏に関しては「館」と書いて「たち」と読むことが多いようです。何でかは知りませんが。
奥州藤原氏ではその族長、清衡/基衡/秀衡/泰衡、を「御館」と呼ぶのですが、これは「おやかた」ではなく「みたち」と読みます。

清衡の父は亘理権大夫藤原経清といい、元々朝廷に仕える官人でした。
宮城にあった朝廷の出先機関、多賀城に出仕していたのではないかと思われます。
そして安倍頼時の娘婿でもあった。
朝廷に仕えながら安倍氏とも係わりを持つ、微妙な立場の人間でした。
もうひとり同じ立場の人間がいます。平永衡。
前九年の役が始まった当時、経清も永衡も朝廷側(源頼義・義家軍)について戦っていました。
しかしながら永衡が安倍との内通を疑われ、詮議もされずに殺されてしまいます。
それを見ていた経清は考えるわけですよ。
経清と永衡は、全く同じ立場なのですから。
「陸奥話記」には以下のようにあります。

(※経清いわく)
「前車の覆るは後車の鑑なり。韓彭誅せられて黥布寒心す。
今十郎已に歿しぬ。(永衡字は伊具十郎)吾れ又知らず、何れの日か死なん事を。
之を為すこと如何」と。
客の曰く、
「公赤心を露はして将軍に事(つか)へんと欲すとも、将軍必ず公を意(うたが)はん。
若かじ、讒口未だ開かざるの前に、叛き走りて安大夫(※安倍頼時)に従はんには。
独り忠功を為すの時、臍を噬むとも何ぞ逮(およ)ばん」と。
経清曰く、「善し」と。


経清が親しい郎党に問うわけです。
前を走っていた車がひっくり返れば、その後ろを走っている車は用心する。
韓彭誅せられて云々は楚漢戦争の故事を引いています。
韓信や彭越といった功臣が謂われなく高祖に殺されたのを見て、同じ立場の黥布(英布)は同様の運命が待っているのではないかと肝を冷やしたという。
十郎永衡が殺されたように、私も殺されるのではないか。
どう進退すべきだろう、と。

客(朗党)は応えます。
殿がどれほどの忠節をもって将軍(源頼義)に仕えようとも、将軍は必ず殿を疑いましょう。
誰かの讒言がなされる前に、安倍氏に走りましょう。
殺されるようなことになっては、幾ら後悔しても遅いのですから。

経清とその一党はその後、上手い事将軍様をだまくらかして、安倍に走ります。

藤原経清という人物は、智将であったようですね。
陸奥話記にもいくつかエピソードが載っていますが、朝廷と相対する政治を意識していた節があります。
この人に対する歴史的な評価は結構高いですな~。
経清を逃してしまった事が、戦が長引いた原因のひとつと称える学者は結構います。

源氏側から見ると、経清は「寝返った」わけですが…
その経清が安倍氏から与えられた土地が、江刺、この豊田館辺りだと言われています。
どうも清衡は豊田館で生まれたらしい。

前九年の役では安倍氏側が敗れ、貞任は戦死、経清も捕えられて処刑されます。
その後安倍氏が治めていた地域(奥六郡といいます)は、源氏と共に戦った秋田の清原氏が治めることになる。
経清の妻―清衡の母―はその後、清衡を連れて清原氏に嫁いでおります。
なので清衡は20年ほど清原氏であった時期がある。
その時に領地として与えられていたのも、ここ、豊田館ではないかというのが通説になっています。

 ステキ幟(笑)

発掘調査の結果から言うとちょっと規模が小さいのでは?という事で、実際には擬定地というのが正確みたいですが。



現在、祠と豊田館跡の石碑が残っています。
此処から清衡は平泉に移ったんですね~…
何故かというのには、まあ色々と理由があるようですが、とりあえず言えることは、平泉・中尊寺は白河(福島県)~外が浜(青森県)間の中心にある事。
平泉は地理的に見て、当時の陸奥の中心地でした。
そこに政権を置くという事は、北方の王者としての権威確立を宣言したことに繋がるとも言われてますな。
私は単に江刺が不便だったんじゃない?と思ったんですが(笑)

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白鳥舘遺跡@前沢

2008-07-02 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※
 


同じき七日、関を破り胆沢の郡白鳥村に到り、大麻生野及び瀬原の二柵を抜き、
生虜(いけどり)一人を獲たり
(陸奥話記)

ここに清衡家衡よろこびをなして、せいをおこして真衡がたちへをそいゆくみちにて、
伊沢の郡白鳥の村の在家四百余家をかつゝゝ焼はらふ
(奥州後三年記)

衣川から前沢に移ります。
前沢…と言っても衣川からはほど近い所にある、白鳥舘遺跡。
「ここから10分位よ」と言われたので、そのまま自転車で行こうかと思ったんですが、道がよく分からなかったのでタクシーで。
平泉駅まで自転車返却しに行ってから、です。観光地だけにタクシーは多いっす。
遺跡の最寄駅は平泉の北隣にある前沢駅ですが、平泉駅からでも15分位かな。
中尊寺からでも10分位じゃないかと思います。
結論から言うと車で行って良かったです。自転車だったら痛い目にあう所でした(笑)
因みに、前沢はあの前沢牛の前沢です(トリビア)

さて、白鳥館、ですが。
今日は初めに陸奥話記と奥州後三年記を引用してみました。
陸奥話記   → 胆沢の郡白鳥村
奥州後三年記 → 伊沢の郡白鳥の村
漢字が違いますが、どちらも胆沢郡白鳥村を指しちょります。
上にあげた写真、北上川の蛇行部ですが、中心部に見える森林部分、その辺り一帯が嘗ての白鳥村、現白鳥舘遺跡となります。

前九年役に興味がある方にとっては、白鳥柵(しらとりのさく/き)という言い方の方がなじみ深いのではないでしょうか。
安倍頼時の八男、貞任の弟である安部則任(または行任)が守っていたと言われる柵。
なので則任は「白鳥八郎則任」とも言われます。

先日、ほぼ確実に安倍氏時代の遺跡といえるのは「鳥海柵(金ヶ崎)」だけです、と書いたのですが、もしかしたらここも含まれるんじゃないかなぁ…
発掘調査から、10~16世紀という長期間にわたって利用されていた事が分かっているそうです。
10世紀からとなると前九年の役(1051-62)の時期も含まれますので、安倍の遺構のひとつと言ってもいいと思われます。
10世紀(古代)は集落、14~5世紀(鎌倉/室町)は城館、16世紀(室町/戦国)には再び集落となっており、特に11~15世紀迄の間は北上川交通の要衝地として機能していたらしい。



現在国指定史跡になっており、平泉世界遺産候補地遺跡群のひとつとして推す史跡にもなっています。いや~驚いたよおいら。
それだけに綺麗に整地されています。とっても歩きやすい。
幾つかビューポイントがあるのですが、今残っているのは城館時代のものが多いのかな?ちょっと良く分かりませんが…伝本丸跡、伝二の丸跡というのがあったので。堀の跡や平安期の品なども出土しているようです。
結構広いです。
時間が無い時に見て回るのはちょっとしんどいかもしれません。

 遺跡から臨む北上川

白鳥舘、白鳥柵はこの北上川の蛇行部にあったわけですが、ここ、高台になっております。
川を見下ろす形になる(上写真)。
蛇行部なので川の流れは比較的緩やかであり、また川幅が狭くなっています。
驚いたのですがこの辺りは、地理的制約より流路が安倍氏の時代から変わっていないのだそうです。
櫓なんかを組んで、行き交う船の監視をしていたと思われます。



遺跡の場所が分かったので、電車の中から写真を(笑)
平泉駅以北北上川沿岸が舗装工事されており、電車から川が全然見えなくなってました…(涙)
しかしながらその中で唯一?、ものすっごく綺麗に川が見えるポイントがあります。
それが平泉~前沢の間なんですが…
その時にちょうど白鳥舘跡を見る事ができます!
電車が噂の蛇行部(笑)に差し掛かるんですよ~。
上写真です。
北(前沢駅)を背に、南(平泉駅)に向いてシャッターを押してます。
左側に砂地が見えますが、その奥に川がSの字に曲がってるの、わかります?
その奥に突き出ている緑が遺跡になります。
ついでに奥に見える山は中尊寺のある関山ですな。
中尊寺の手前にあるのが衣川ですので、本拠とは本当に近い要衝地だったんですね。

ついでに言えば、この白鳥柵を守っていた安部則任、地域伝承があります。
側近を連れて北上にある極楽寺へ詣でた時に、偶然見かけた女の子ちゃんに一目ぼれ。口説き落とした末か恋愛の末か(笑)、夫婦となります。
それで終わればハッピーな感じですが、陸奥話記には則任の妻の事が書かれている。

柵(※厨川柵)破るゝの時、則任が妻独り三歳の男を抱き、夫に語つて言ふ、
「君将に歿せんとす。妾独り生くることを得ず。請ふ、君の前に先づ死なん」と。
則ち乍(たちまち)に児を抱きて自ら深淵に投じて死す。
烈女と謂ひつべし。


何とも切ない話です。

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