移転のご案内
このブログは2013年末にて更新を終了し、現在は新ブログで更新しています
移転先:Para Bellum(パラべラム)
また下記サイトも運営しておりますのでぜひ遊びに来て下さい。
サイト:月に叢雲花に風
これからも【Forth!】改め【Para Bellum】を宜しくお願い致します。
2013/12/31 ヒジハラ
神戸市立博物館が建っているところは嘗て居留地であったところ。
というかJR三宮~元町間、海側は旧居留地だったところです。
今でも結構建物が残っていますがそのままブティックになっていたり、レストランになっていたり。
神戸市博の建物は旧横浜正銀の神戸支店を転用しています。
そして実は海がすぐ傍。
幕末に勝海舟が作った海軍操練所跡もすぐ傍。
右側に映っているのが神戸市博、左側の白いビルの麓に有るのが海軍操練所跡の石碑。
歩いて大体200メートル位か。とにかく近い。
とにかくでかい。
そして錨、よく見ると「戦艦の錨」とありました。
…何の?そこが知りたい。
軽くググってみたけどよくわかりませんでした。
それはとにかく操練所は随分広い敷地だったようですが、その跡地も現在は高速道路を通す為に埋め立ててしまったと言います。
阪神淡路大震災より少し前、こちらの記念碑は工事の為に撤去されていた時期があります。
「無くなってる!」と思い神戸市に電話で尋ねたら収蔵庫にしまってあるとか何とか…その後何年か石碑不在でありました。
また以前とは場所も変わっているような気がするのですが(道路を挟んで反対側に有った気がする)、記憶が曖昧ではっきり思い出せません。
勝改修は神戸に神戸海軍操練所と神戸海軍塾を開いたそうです。
操練所の方は幕臣を集め、海軍塾の方は勝の私塾で、諸藩士や志士が集まったと言われる。
坂本龍馬が神戸海軍操練所の塾頭になったとよく言われますが、実際には後者の方塾頭のようです。
とはいえこの辺り様々論があるようでどれが正確なのか、私には分かりません。
ただ海軍塾には龍馬初め土佐を脱藩した脱藩浪人がおり、その中の望月亀弥太や北添佶摩が池田屋事件に関与の上死亡しており、これが勝の幕府での立場を悪くして海軍操練所の閉鎖に繋がった。
当時勝は長州や脱藩浪人に同情的であったり、軍艦奉行を罷免されていたり、閉鎖の理由はそれだけは無かったと思いますが。
因みに後外務大臣を務めた陸奥宗光や、日清戦争時の連合艦隊司令長官・日露戦争時の軍令部長を務めた伊東祐亨もここで学んでいました。
伊東なんかは自分は坂本龍馬仕込みだという事が自慢の種だったそうです。笑。
※
訪れた際、ふと海の方を見ると…
帆船が。
近づいてみると日本丸(手前)と海王丸(奥)でした。長崎帆船まつり以来!
そういえば帆船来航のニュースが流れていました。
で、帆船が碇泊しているこのあたり、かつては小野浜と呼ばれていました。
明治初めごろには、小野浜造船所もあった。
戦艦大和というと太平洋戦争の時の大和を思い出しますが、こちらは2代目。
初代艦・大和はこちら神戸、小野浜造船所で作られた軍艦です。
その監督官として神戸に赴任していたのが東郷平八郎。
滞神中はここからほど近い花隈で起居しており、その時に使っていた井戸跡に記念碑「東郷井」が建っています。
ちなみに揮毫したのが財部彪、撰文が小笠原長生。
こちらは史跡レポ頁がありますので、こちらからどうぞ。⇒東郷井@神戸花隈
ですがこちらの造船所は規模がそれほど大きくなく、造られた船も故障が結構あったようで(笑)、結局は明治28年頃までに呉鎮守府に吸収され、閉鎖となった。
小野浜造船所は元々官製の造船所ではありませんでした。
キルスビーというイギリス人が明治初年から個人経営していた鉄工所がその初めで、それが明治10年頃に造船所になった。
初代大和艦の起工が明治16年、竣工が20年。
その途中でキルスビーが亡くなってしまい大混乱になったが、大和艦建造中と言う事もあって海軍が買い取ったのですね。
その消滅までの間に広瀬武夫もこの造船所を訪れています。
広瀬が訪れたのは明治22年の12月26・7日ごろ。
兵学校卒業間際の実地航海演習で、天龍艦に乗って瀬戸内海を1ヶ月少々うろうろしていた時、神戸に上陸している。
その時に神戸の湊川神社(楠正成墓)、兵庫の能福寺(平清盛墓)を詣でているのですが、更に小野浜造船所の見学にも来ています。
因みに北野にある異人館『旧ハンター邸』のハンター氏は小野浜造船所で働いていたそうです。
※
操練所跡からほど近い所に、海軍営之碑があります。
水上警察の隣の公園、メリケンパークの入り口のところ。
歩道橋が掛っているのですぐ分かる。
ふたつ並んでいる内、左側の石碑が海軍営之碑。
撰文は勝海舟です。
右側は陸奥宗光を称える内容。
兵庫県の初代知事は伊藤博文ですが、陸奥もまた兵庫県知事を務めていた時期があります。
篆額は徳川家達でした。
諏訪山の方にも海軍操練所関連、勝海舟関連の石碑があるのですが、機会があったらまた行ってきます。
(※このエントリーはサイト更新に合わせて大幅に改訂しました)20100112
※追記:2009/10/03 サイトにレポをUPしました。
『六英堂(岩倉具視私邸)@西宮』
(月に叢雲花に風>WORKS>史跡・旅行レポ>近代史)
よろしければこちらからどうぞ。
※
地元、西宮神社に岩倉具視私邸の一部がある!ということで、さっそく行ってきました。
我が家からえべっさんまでは自転車で20分ほどの距離。
夙川に行ったり、あのあたりに用事がある時は必ずと言っていいほどこの西宮神社の隣を通ります。(※えべっさん(十日戎の様子))
本当に身近な神社なんですが、岩倉具視の私邸(一部)があるなんて露ほども知りませんでした。
30年ぶりの公開ということでしたので、まあ…
知らなくても仕方ないか(笑)
とはいえ割と勝手知ったる神社。
正直なところ、そんな建物あったっけ?どうしても思い出せませんでした。
で、行ってみて「あ、これ?」と(笑)
確かに小さな案内版がありましたが、まさかこれとは…という感じで。
地元過ぎて却ってなんの関心もなかったです(^^ゞ
岩倉具視なんて、まさに無縁だと思ってましたから。
というよりも地元に幕末~維新に関する建物が西宮砲台以外にあるとは思わなかった。(→西宮砲台)
地元の歴史には調べてみて意外とびっくりすることが多いです。
調べてみてというより、偶然に知るということが多いのですが。
西宮に海軍航空隊があったというのも2・3か月前に知った。
却説、六英堂。
左写真は入口、右は入口を入ってすぐのところに立っていた石碑。
コレが表に立っていれば少なくとも気が付いていただろうとは思います(笑)
表には「明治天皇御聖蹟」という石碑はあったのですが。
頂いた解説によると。
・六英堂は元岩倉具視私邸の称。邸内建物の一部で、公的な集会所として利用された。のちに「明治高官集会所」とか「明治の論戦跡」などの異名をとった。
・明治6年9月、欧州より帰朝したとき(※岩倉使節団)、征韓論が盛んなころで、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文などがしばしばこの室で会合した。
廊下には維新の元勲たちの肖像画が飾られていました。
元は「隣雲軒」という名称であったそうです。
大正11年7月、神戸に移築された際に「六英堂」と名付けられた。
六英とは、木戸・西郷・大久保・岩倉・三条実美・伊藤の6人のこと。
彼らの位牌と写真をまつり、当時の日本を代表する政治家の英知を集めた建物という意味で「六英堂」となったそうです。
位牌の方は神戸・布引の徳光院にまつられている。
岩倉は明治16年7月に亡くなるのですが、その前に明治天皇皇后両陛下より何度か見舞いを受けている。明治天皇行幸の様子を描いた絵画が残っているのですが、結構目にするものだと思います。
その絵が部屋に飾ってあったので写真を撮ったのですが、光が写りこんでしまいました。行幸された明治天皇を、岩倉が布団の上で拝んでいる絵です。
また亡くなったのもこの部屋(上写真)であったそうです。
絵画を見ると、確かに部屋の様子が一緒。
岩倉が使ったといわれる狩衣も展示されていました。
この建物はもともと東京丸の内にあったそうです。
岩倉が亡くなった際取り壊すことになったが、多田好問(伝記「岩倉公実記」編纂者)が譲り受けて新宿に移築、さらに渋谷に移転。
多田が亡くなった後は所有者が川崎芳太郎(男爵・川崎造船社長)に変わり神戸・布引に移転。さらに大和観光株式会社(神戸)へと所有が移った。
それが西宮神社に移ってきたのは、先日の新聞によると1977年のこと。
(→ 先日の新聞)
戦前には史跡として指定を受けていたが、昭和23年に指定解除となっている。
この建物、ほとんど原形のまま形を留めているそうです。
由緒ある建物として、常に原型保存を目的をしたものであるから、外観はもちろん、内部構造や建具類に至るまで変更を加えることなく旧態を保存してきたとのこと。
神社で頂いた説明読み返してなかなか凄いな~と(笑)
普段はやはり非公開とのことなので、もう1度位行こうかと思います。
「六英堂」
場所:西宮神社
期間:6月までの土・日・祝日
時間:午前9時~午後4時
料金:無料
びっくりなことに西宮神社のHPにこのニュースが一切載っていない(^^ゞ
■
ランキング参加中
拍手ありがとうございます♪励みになります!