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2013/12/31 ヒジハラ

平清盛 #23叔父を斬る

2012-06-10 | ヒストリ:平清盛

まあ特に書く事無いです。

●藤原成親
信西に袖を振り払われた後になんとかしてと清盛が泣きつきに行っていた人。
藤原家成の息子になりますが、この娘、つまり成親の妹が藤原信頼の妻になっており、それなりに近しい関係であったようです。
また、もうひとりの妹が平重盛の妻になっている。
3年後に起こる平治の乱の際、信頼は敗死しますが、成親はこの妹の存在の為に大した処分もされずに終わった。
とはいえ後に俊寛らと打倒平氏を企図した鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、遠島になっています。
重盛は嫡男ではありますが、母親やその実家の後ろ盾がない結構難しい立場でした。
その上義兄が平氏打倒の企みに加わっていたので、更に難しい立場に…

●源為義
義朝に船岡山で処刑されたと言う事で。
確か京都の梅小路蒸気機関車館のもう少し西北だったかと思いますが、為義の墓があります。
七条通り沿いにあって、私も京都にいた頃の住所が七条だったのですけど、自転車で移動するにもちょっと距離があってだなー…
義家関係なら迷わず行ったけどな!(^^;
そんなこんなで私はこのお墓には行った事はないんですが、京都の下京には幾らか源氏に所縁のある土地があります。
その辺り、幾つかは今日出て来た左女牛井(さめがい)と一緒にサイトでは既に紹介済。
ぼんやり見ていたのでどういう脈絡で左女牛井が紹介されたのか分からないのですが、この井戸と堀川通りを挟んだ向かい側に源氏累代の屋敷があったんですよ。
六条堀川の館。
そこにこの井戸の水が引き込まれていたと伝わっています。
まあ、名水であったことは確かなようで、茶の湯の村田珠光、織田有楽斎がここの水を使っていたそうです。


 
源氏の六条堀川の方には現在若宮八幡宮という小さな御宮が立っていて、そこの石碑には源義家がここで生まれたと刻まれている。
うーん。八幡太郎は大阪の羽曳野生まれだと思うんだけど……
京都における源氏の拠点だったことには間違いなく、後年源義経の屋敷もここでした。
なので義朝のお屋敷も多分ここだと思う。
 
…申し訳無いもう眠たい!これ書きながら船漕いでる状態なので(まだ10時前…)
今日はここまで!^^;


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平清盛 #22勝利の代償

2012-06-03 | ヒストリ:平清盛

今週の平清盛アワー。戦後処理の話でした。

●藤原頼長
戦に敗れ逃亡の際中で頸部に矢が突き刺さっていました。
保元物語や愚管抄だと顎か頬だったそうで、明らかではないものの矢にて重傷を負ったと言うのは確からしい。
頼長にとって不幸だったのはこれが致命傷でなく、矢傷だけでは死に切れなかった事かもしれません。
父を頼ろうとするも拒絶され、そのまま亡くなっている。
この戦に参加した大物クラスで戦で亡くなったのは頼長ただひとりとなります。
父忠実は当時宇治から奈良に逃れていましたが、上記の如く頼長との対面を拒絶した。
天皇に盾突いた謀反人をかくまう事になるので、家の存続に関わるというそのままの理由だと思われます。
まあまだ理由があるようなんですが、ただこれは人情としては苦しい選択だったのではないかなとは思いますねえ。
以前、忠実は白河院の勘気を蒙ったと書いたことがあります。
あとを忠通に任せ宇治で逼塞していたのですがその時の楽しみというか、生きる糧というか、それが頼長の成長だった。
この頼長にやがて氏の長者を譲りたいというのが忠通との大きな対立点でした。
忠実とっても辛い選択だったでしょうね…

●崇徳上皇
仁和寺の弟の覚性法親王を頼るもこちらも拒否され。うーん。ここまで来ると気の毒の一言です…
処罰は配流という事ですが、当時としてはかなり衝撃的であったようです。
もう前例が奈良時代(の道鏡の時代)にまで遡らないとないんですよ。
出家もしてるし、そこまできつい処罰が必要か?という感じだったんじゃないかなー…と思います。
美福門院にくぎを刺されていましたが、後白河天皇は当時一時繋ぎ的な感じなんです。
何回か前に書きましたが、今様にうつつを抜かしまくって遊びまわっており周囲からは「今様狂い」として見られ、皇位からは遠い所にいたため勿論帝王学など学んでいない。
この人は天皇に相応しいの?という…つまり天皇の権威にかけている。
もし皇位を譲る予定であった後白河の息子守仁親王が亡くなってしまえば、次の最有力者は崇徳の息子重仁になる。
そうなれば崇徳は院政を敷くことだって可能になるわけで。
都にいてもらったら困るっちゅう話だったんじゃないでしょうかね。

ちなみに仁和寺の覚性法親王ですが、後年平経盛の子経正を稚児として預っています。
ハイ。深く突っ込まないでください^^;
以前経盛の親子は音楽一家のイメージがという事を書きましたが、経正は琵琶の名手として知られていた。
それで仁和寺に伝わる名器「青山」を譲られています。ちなみにこのセットになるのが「玄象」と「獅子丸」。
平氏の都落ちの際にこの琵琶が失われる事を恐れ、経正が仁和寺に返しに来たという話が伝わってます。

●長田忠致
源義朝の乳母子鎌田正清の舅。
3年後に起こる平治の乱で敗れた際、義朝は東国に落ちのびようとするのですがその際長田忠致の館に身を寄せた。
そこで風呂を使っている間に騙し打ちといった形で殺害されます。
先週からの登場ですが、これからこの人ちょこちょこ出てくるのかな…
 
●友切→髭切 名前チェンジ
なんかもーいちいち書くの馬鹿らしくめんどくさくなってきたわ…(笑)
サイトへリンク貼りますので、興味がある方は「髭切と膝丸~源氏の宝刀」からどうぞ。

●戦後の恩賞
清盛が安芸守から播磨守に。(随分前に内昇殿が許されている。正四位下)
清盛は忠正叔父に播磨守の実入りのよさばかりを説いていましたが、実際にはそれよりももう少し意味のある官位だったようです。
結論から書くと、この当時の播磨守就任は公卿昇進目前、という意味だったらしい。
播磨守と伊予守は四位上臈が任ぜられる受領の最高格で、当時この両方の守に任じられた者の多くが公卿に昇進しているそうです。
更に当時は正四位上は原則として飛ばされていたようですし(公卿=三位以上)。
忠盛叔父が驚いたのは実入りの良さよりこっちだろ、と突っ込まずにはおれない…^^;
一方の義朝は右馬権頭に、内昇殿を許される。(従五位下。ギリギリ貴族)
  


今日は一日gyaoの怪談話を聞きながら平泉の史跡ページを作ってました。
全然進まない…疲れた…orz
いやーでも書いてしまったからには早くやろうと思って、手はつけ始めました。一番初めのページなんか作ったの去年の9月だよ!(笑)
間開きすぎ!(笑)
最後に訪れたのが既に4年前ですので、結構景観が変わった所もあるのだろうなーと。
一番変わったのは衣川の様子、高館の様子かなと。
またいずれ清盛のレビューで書くつもりでいますが、院近臣の信頼は藤原基成の弟になります。
藤原基成って誰か分かります?^^;
娘が奥州藤原氏の3代目御館秀衡に嫁しており、泰衡をもうけている。
泰衡から見ると信頼は大叔父になる。
あっちこっちに太い繋がりがありますなあ。

Comments (4)
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平清盛 #21保元の乱

2012-05-29 | ヒストリ:平清盛

始まりました。長かった!
場所は大体こんな感じです。
 
…………。ははh…
 
鴨川を挟んでの対峙になります。
後白河天皇側が高松殿。すぐ北側に藤原氏の正邸東三条院が隣接。
崇徳上皇側が白河北殿。平安神宮をもう少し西に行った所になります。琵琶湖疏水の周辺。
高松殿から白河北殿まで歩いてもそんなに時間かからない。
かかっても30~40分くらいじゃないかなあ。

上の緑が源義康100騎、青が源義朝200騎、藤色が平清盛300騎。
ドラマでは義康100騎が省かれて500騎と言われていた…(^^;
先生!義康くんが息してません!(笑)

●夜襲
両陣営で夜襲をかける是非が論ぜられる。
夜襲を主張する義朝と為朝、それに対する藤原信西と藤原頼長の対比が鮮やかでした。
夜討ちは卑怯でも何でもない立派な戦法のひとつという事を去年後三年役の話を進めていた時に書いたのですが、全体的に言える話ではなかったようです。
でも頼長が「夜討ち卑怯!夜討ち反対!」と主張して為朝の主張を退ける話は有名で、これは公家ならではの感覚からかと思っていたんですけど。
うーん?と思ってちょっと調べたのですが、どうも東国、西国、当時の感覚から言うと辺境とされていた所でなら、という感じみたいで。
それなら、後三年はもろ東国。義朝も東国、為朝は西国…
もう少し詰めて調べてみないと、一概にこう、とはいえないような感じがしますなあ。

頼長が大和からの軍勢を待てと言っていましたが、あれは奈良の興福寺の僧兵のことです。
加勢しようとしたものの間に合わなかった。(興福寺は藤原氏の氏寺)
 
●信西と頼長
実は仲がよかったふたり。ひと回り程年の差はあるのだけれども。
頼長の学問の師は信西です。以前書いたように信西は学問の家に生まれた人物になる。
信西の家を巡る変転を巡りその不遇に共に涙を流したのは頼長です。
頼長は来週亡くなるのかな?
死後は奈良の辺りに葬られますが、その墓も信西によって暴かれている。この浮き沈みの激しさよ…
孫子の夜襲に対する解釈の仕方が真逆で面白かったですな。
政治家としての脇の甘さが目立つ頼長と、段々凄味が増していく信西。
後白河サイドではイニシアティブが完全に関白藤原忠通から信西に移ってもいました。
頼長と信西の対比、摂関家と院の近臣の関係と色々なドラマが詰め込まれてますなー。
頼長は頼長で今回は公家の脆さが出てましたな。オウムがいい味出してるよ…

信西は腹黒くなってきたなー^^;
義朝に「破格の恩賞を与えよう」って、これは平治の乱への引きですね、きっと。
 
●藤原信頼
3年後に起こる平治の乱の主要人物のひとりで、院の近臣。寵臣。
年齢を見ればこの時まだ23・4才。
確か数週間前の初登場の時に「後白河が一目で気に入った」という紹介がされていたかと思います。
はい…私この塚地信頼を見た時ものすっごい笑ってしまいました…
あのね、寵臣なんです。一目で気に入った寵愛されている臣下なんです。
要するに男色関係なんですよ!(笑)まあ色白ぽっちゃり系ではあったみたいなんですけど。
もしかして後白河てデブせ(自粛

●鎮西八郎為朝
何かと伝説の多い鎮西八郎。
背が2m強あっただとか、左右の手の長さが10センチだか12センチだか違ったとか。
剛の者だったと言う事は確からしいけれども、あまり良く分からないらしい。
あまりに乱暴でお前ちょっと九州に行って来いと言われ出向いた先でも暴れまわって終いには為義とーちゃんがその乱行の責任を取れという事で解官される始末。マジか。笑。
崇徳院側の一の兵(つわもの)であったのは確かでしょうねえ。
初めは平氏が相手をするもどうにもならず、後に駆け付けた義朝勢、義朝の乳母子鎌田正清辺りが随分奮戦したようです。

●源頼政
義朝勢が為朝にてこずっている間に到着した第2陣が源頼政。
こうした加勢が到着するも中々勝敗を決することができず、ついに後白河側が火を放ったのはドラマでも描かれていた通りです。
頼政は源三位(げんさんみ)ですな。
この方、かなり長生きされた方で以仁王と共に平氏討伐の計画を立て、兵を上げた人物になります。
それまでは源氏は正四位下が極位(最高位)だったのですが、平清盛の口添えで三位に上った。
書きたい事が沢山あるけれどそれはまた後に譲って、とりあえず郎党に渡辺党がいます。

●源氏パート
通清が男を見せて亡くなってしまいました…(;;
由良御前と常盤御前もいい感じじゃないですか。
平氏よりもいい感じに見せてきますな!どちらが主役か分かりません…
こちらの方の一族分裂がより強烈で深刻だからという点もあるかと思いますが、平氏より脇役の方が熱いドラマを魅せてくる。

●大鎧
大興奮です!ギャース!大鎧大好き!
平清盛が黒絲威、忠正叔父が逆沢瀉威(さかおもだかおどし)、清盛の子供は裾濃威(すそごおどし)と中威かな…よく見えん。
義朝は白絲威、為義は裾濃、正清は肩威(わだおどし)、父の通清も色違いの肩威で親子揃ってますな!(※鎧の威のデザインの話です)
めちゃめちゃ燃える一方で、大鎧はねー上下合わせて40キロあるんだよ!
騎射専用、対弓矢用の防具であって、刀で切り結ぶこと(接近戦)は考えられておりません…
当時の主力武器は弓矢です。
刀で切り結ぶような戦が出てきはじめたのは南北朝時代位かららしい。
戦国時代でもさ、徳川家康や今川義元をさして「海道一の弓取り」って言うでしょ?
八幡太郎義家の時代では「弓馬の達者」ですが、弓が上手いというのは武士に対する最大の賛辞です。

●平氏パート
うーん。相変わらずよく分からない清盛…もうちょっと何とかならないか主人公。
忠正に対しては家族大事イエー!な感じなのに、弟に対してのスタンスは一体何なのか…
頼盛が可哀想な感じになってきました。
随分前にも触れましたが、頼盛は清盛とは距離のある弟です。
一門の都落ちの際も同行はせず、鎌倉時代を迎えている。
実母が池禅尼という事で源頼朝は平治の乱の際に彼女に命を助けられたという恩があり、そのまま所領を安堵されていたような記憶があります。
そういう事もあってのあの扱いなのだろうと思うのですが、ちょっと清盛の心の動きについていけません。
唐突過ぎて何が起ったのか良く分からないことが多い^^; 

Comments (2)
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尼崎市崇徳院

2012-05-23 | ヒストリ:平清盛

何かとお思いでしょうが、尼崎市崇徳院、実在の地名です。
ほれ。


 
この辺り時々自転車で通るのですが、なんで崇徳院なのかなー崇徳院祀った神社か何かがあるんだろうなー所縁があるんだろうなーと思いながら、家に帰る頃にはいつも忘れてしまい…
今回はちゃんと写真を撮りました。
どういった所以があるのか、図書館で調べたらすぐに出てくるんだろうと思うんですが、それもめんどくさくて。
ネットで見てみたら国会図書館のデータベースに出ていました。

保元の乱で崇徳院は後白河天皇に破れて讃岐に流されますが、その際に尼崎浜田庄で休憩したという話が残っているそうです。
史実としては保元の乱後崇徳院を慰めるために粟田宮が建てられ、その粟田宮に寄進された荘園のひとつが浜田だったそうで。
ふーん…
近世からの地名だそうですが、尼崎はホント、古くからの地名が結構残ってますねえ。

崇徳院は配流先になった香川県坂出で亡くなった。
都に帰りたいと訴え続けたものの、聞き入れられるはずもなく…そのままそこで葬られています(白峯陵)。
ところが崇徳院が亡くなってから都では凶事が連続して起こり(戦、火事、飢饉等)、これが院の祟りではないかと言われた(そしてつくられたのが粟田宮)。
ついでに言えば崇徳院は日本三大怨霊のひとりです。
後のふたりは菅原道真と平将門。

京都には崇徳院に所縁ある地がありまして、ひとつが崇徳天皇御廟。
これは祇園にある。
東山建仁寺のすぐ傍なのですが、六波羅密寺が管理をしていたそうです。
六波羅は平家にゆかりがあった地で(お屋敷があったのよ)、六波羅密寺は有名な清盛像(と空也像)を所蔵しているお寺。
妙な縁だよね。
六波羅密寺は私が大好きなお寺のひとつで、京都にいた時は本当によく見に行きました…
あの側にハッピー六波羅っていうスーパーがあったのよ。略してハピ六。それもあって近くもよくうろついた。懐かしい(笑)
 
もうひとつが白峯神宮。
これは新京極を登り切って本能寺を抜け御池通りを越え、二条通り辺りまで歩いて御所までもう目と鼻の先、という所にある。
お池越えた所にあるアンジェリーナってカフェ(のオーナー)が好き。どうでもいいですかそうですか。
明治天皇が作った神社です。
都に帰りたがった崇徳院の霊を坂出から京都に移しているんですよね。
明治天皇が即位して一番初めにした事がこれってどういう事なんだろう。なんか色々あるんだろうなー
ついでにこの神宮には源為義、為朝を祀る境内社もあります。

(※追記 場所間違ってます^^; この該当箇所にあるのは下御霊神社。白峯神社は御所の北西にあります)
 

ドラマではひたすら気の毒な崇徳院ですが、もの凄い好演だなーと思いながら見ています。
主人公より脇役が光るドラマじゃないですか?
松ケンが悪いのでは無くて、脚本と脚本家の平清盛像に問題があるような気がする…
脚本家は清盛をイメージしきっていないのではないかな。

藤原頼長は徹底してヒールであったり、源為義・義朝父子の葛藤と訣別であったりとかなり人物像が煮詰ってきているような気がします。
沸点を保元の乱に設定しないといけないと思うと、そらそうか、という感じですが。
鎌田正清が駆け付けるシーンがよかったなー
「遅いではないか」って!ドストライク過ぎて鼻血が出そうでした(炎立つが大好きな辺りで察して下さい)。
忠正叔父の啖呵の当たりもいいなー
いやー史実どうこうの前に、私ああいう話本当に好きなんです。大好きなんです。
幕末や明治じゃありません。源氏とか武者(武士じゃない…)とか合戦とか、この辺りの興奮が私を歴史に引きずり込んだんです。
原点なんです。はあ、大好き…(三回目)

先週の放送分は今までの回の中で一番面白かったです。見ててドキドキした。もう一回見たい。

Comments (2)
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平清盛 #20前夜の決断

2012-05-20 | ヒストリ:平清盛

血がたぎってきました。
やっと戦が始まるよ…!長かった…!
今週は保元の乱前夜ということで、本当に前の日の晩までの話でした。
1156年です。
鳥羽法皇が亡くなったのが同年7月2日、戦が勃発したのが7月11日未明ですから、本当に瞬く間と言っていいほどの期間で起きた戦だったことが分かります。
対立の図式としては
 崇徳院・藤原頼長―源為義・為朝・平忠正
 後白河天皇・藤原忠通―源義朝・平清盛
こういう感じになります。

●戦の後を
旗幟を鮮明にしない平氏に崇徳院、後白河天皇の両サイドがやきもきしていました。
一門から問われた清盛の答えは「恩賞を釣り上げる」でした。
なんというか今に至ってもキャラクターが定まらないんでしょうか。
今まで散々青臭いこと言っといていきなりこれか…どうも主人公がぶれているような気がしてなりません。
成長したとか、そういう段階をすっ飛ばしているような気がするし…
恩賞云々が本気なのかそうじゃないのかがよく分からない。私だけ?^^;
まあ本気っぽい話ではありましたけれども。
 
実際の所、後白河側は平氏一門が自分たちの側に就くという期待はあまりしていなかったと思われます。
ドラマでは一言も触れられていないと思いますが、清盛の義母、池禅尼は崇徳院の第一皇子である重仁親王の乳母なんです。
重仁親王は当時皇位に一番近かった人物ですが、先週(先々週?)の鳥羽院の鶴の一声で後白河の方に皇位が回ってしまった。
乳母というとこの場合は教育係という意味もありますので…
どういう感じかは、信西の妻が後白河天皇の乳母であったことを思って下され。
普通に考えたら平氏は相当崇徳院側に立っていたことになります。
それが天皇側に付いたから殊勲賞ものなんだけどなあ…

●分裂
清盛の決断に納得いかない頼盛を押しとどめ、伯父忠正が崇徳院の方に走ってしまいました…
元々摂関家との結びつきがあった人物のようなので、ドラマのような美しい話ではなかったと思われます。
でもああいう話は大好き…^^A
源氏の方も息子義朝が天皇方につく中、その他の一族ほぼすべてが上皇側に付いています。
こういうのはどちら側についても肩身狭いよね…
主力になったのは義朝と同じ源氏の義康の軍勢約400になります。

●拠点
崇徳院側が白河北殿、後白河天皇側が高松殿。
白河北殿は鴨川の東側。京大の熊野寮のあたり。
高松殿はどの辺りになるのかな?藤原氏の正邸東三条殿と隣接しています。
…え?
という感じでしょうか。
現段階の藤原氏の氏の長者は頼長で、東三条殿の主は当然ながら頼長。
なんでそんなことできたんさ、という感じですが、頼長、実は宇治にいて都にはいない…^^;
高松殿は元々藤原道長の奥さんの家で、時代下って後白河の里内裏にもなった屋敷です。

いやー来週はとうとう保元の乱ですね!
楽しみです!
楽しみなんですが来週は家にいないので見られません!(涙)
    
 
サイトですが、少しCSSをいじりました。
firefoxで御覧頂いている方には随分ご不便をお掛けしていたんですが、あれで随分見やすくなったと思います。
あとメールの方とこちらのコメントもとりあえず元に戻しました。
なんかもう色々と面倒になった。メールのあれをスルーして来る人はよっぽどだろう。
もう本当に返信しないことにします。そんなことしたくないけどさ。


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