移転のご案内
このブログは2013年末にて更新を終了し、現在は新ブログで更新しています
移転先:Para Bellum(パラべラム)
また下記サイトも運営しておりますのでぜひ遊びに来て下さい。
サイト:月に叢雲花に風
これからも【Forth!】改め【Para Bellum】を宜しくお願い致します。
2013/12/31 ヒジハラ
今までのスピードから平治の乱まではもう少し間があくのかと思っていましたが、思いの外早かった。
というか、今までが長すぎたんですね…
半分過ぎてるのにまだ平治の乱さえ終わっていないという。どうなんだと思う処が大きいですが^^;
●オープニング
信西と共に清盛が改革を進めていたかのような言われようでしたが、清盛は後白河上皇派にも二条天皇派にもある程度距離がありました。
どっちかにべったりということはなかったようですな。
清盛は娘ふたりを信西、信頼の息子に嫁がせているので、婚戚だけを見てどちらということも言えないようだし。
●三条殿の夜襲
後白河上皇が院御所であった三条殿から内裏の一本御書所に幽閉されてしまいました。
当時信西は後白河院政の中心人物として院御所にいることが多かったようで、それでの夜襲だったと思われます(二条天皇がまだ年若なので院政)。
義朝勢は女官まで殺害していましたが、平治物語絵巻に描かれている通りで官人や女性等にまで射掛けている。
武士の刃に掛かったり火や煙に巻かれて死んだ非戦闘員も随分いたと思われます。
ただ彼らが狙う信西はそうした動きを予め察知していたか、軍に捉えられる事無く逃げ出していた。
逃げ出しはしたものの、信西には特に頼れる勢力がないんですね。
本来なら後白河院が後ろ盾になっていた筈ですが、長恨歌の絵巻を渡しても相手にしてくれなかったくらいですし。
じゃあ清盛は?ということですが、上記した通り信西とはそれほど深い関係がある訳ではなく。
清盛の館があった六波羅に上記の娘婿が逃げ込んで来るのですが、信頼方に引き渡されています。あーあ…
●信西の最期
山城国田原まで逃げてきました。今の宇治田原になります。
僅かな郎党と逃げて来たものの、それ以上はどうにもならず、彼らに穴を掘らせてその中に埋まったらしい。
ドラマでは落とし穴みたいな感じでしたが、うーん…?
私は上から土を被せて完全に埋めたんだと思っていた…いや、だって地中深く埋まって自殺を図ったんでしょ…?
死ぬのを覚悟して地中で念仏を唱えていたと伝えられています。
それを源氏方に見つけられたのが12月14日。
夜襲が12月9日ですので、もしかしたら3・4日程は地中にいたのではなかろうか。
生きていたのか既に事切れていたのかは知りませんが、穴から引きずり出されて首を撥ねられています。
そしてその後、都、西獄の樗(おうち)の木に首を掛けられている。
これは厳しい…
こういう扱いをされた人物は過去に前九年の役の安倍貞任、出雲で反乱を起こした源義親(源義親の乱、為義の父)といった人物で、要するに国家に対する反逆者、謀反人といったようなレッテルが張られている。
それと同等の扱いを受けています。
#24で書いたように、信西は古くからいた院の近臣を押しのけて出世した経緯があり、更に保元の乱後は自分の子供をそれぞれ重職につけていた。
信西排斥の理由は要するに政治の主導権争い、政争で、人事や恩賞に不満があったからという単純な理由ではないようです。
●師光→西光
もしかして信西の西と師光の光からですか。書いてて今思った(遅い)。
前回書きましたが、西光はまだこの後も出てくる(だろう)結構重要な人物です。
●熊野詣
で、そんな中呑気に熊野詣に出掛けていた清盛一行…
郎党含め20人足らず、特に戦の準備もせずに出掛けていたので、都での合戦の話を聞いてびっくり!
うえええどうするか、となった時に助けてくれたのが地元紀伊の武士、そして熊野別当。
(武蔵坊弁慶は熊野別当湛増の子とされます。この家は後源氏につきますが、元々は平氏方でした)
そして家貞の優秀さ!…といいたい所ですが、これは物語であるようです(笑)
でも先週書いた通り連れて行って良かったね、な展開になりました^^;
ついでに書けば重盛は行っていなかったようです。
●義朝方
で、割とすんなり京都に帰って来た清盛一行。
なんでこんなことになってしまったのかというと、ドラマのような友情がとかもう一度勝負をとかそういうことではありません。
ひとつは上記したように、信頼と清盛は姻戚関係にあるということ。
主導権を信頼が握ってしまえばことさら敵対する事もなく味方になるかもしれないし、襲う必要もなかろうと思ったかと。
また義朝が自由に動かせる武士は殆どが東国におり、京都周辺には少なかったようです。
京都を軍事的に制圧して、その上清盛に対して割ける兵士はなかったと思われます。
初期から独特の個性を見せていた人物がまたひとり去っていきました…
来週、さ来週あたりで義朝もいなくなると思うと寂しいですねえ。
そして入れ替わるように若い世代が現れています。
が!
平氏一門の子弟が全く見分けられません…!!
わ、私だけですか…マジで全く誰が誰だか…orz
知らん俳優ばっかりで頼盛、経盛、重盛位しか分からん。
*
清盛のレビュー目的で御覧頂いてる方が意外と多いようで驚いています。
ありがとうございます。
カテゴリー「平安の風」もぼちぼち似たり寄ったりの時代を扱っていますので、よろしければ覗いてみて下さい^^
>ともみ@satoさん (反転して下さい)
頼光さんのお話ですね!あっちこっち繋がっていて結構量があったかと思いますが、楽しんで頂けたようで…
笑っていただけるなんて望外です。またお暇な時にでも遊びに来て下さいね~^^ メッセージありがとうございました!
●源義朝
由良御前も平氏との差が縮まらないと言っていたけれども、そもそも縮められるような差ではなかったと…^^;
その辺りの話は前回触れたのでもういいですか。
●二条天皇側近
今回初登場かな?
朝廷が後白河上皇派と二条天皇派に分かれていたことへの言及がありました。
二条天皇派としては藤原経宗、もうひとりが藤原惟方。
経宗は母が待賢門院の姉妹で、崇徳院や後白河院とは従兄弟になります。
また妹が後白河の妻となっていて守仁親王、つまり二条天皇を生んでいる。天皇の伯父。外戚ってやつです。
惟方は信頼の叔父にあたる人物で、二条天皇とは乳母子になる。
後白河上皇派は信西入道。藤原信頼もですな。
●藤原信頼
なんだかひとりお花畑に住んでいそうな雰囲気のする信頼…^^;
文才なく武芸の才のない無能の人であるが「アサマシキ程ニ御寵アリ」、後白河の寵愛により昇進したというかなり辛辣な人物評が伝わっています。
とはいえ当時人事を捌いていたのは信西であり、幾ら後白河が愛する男色相手だとはいえ院の一存だけで昇進させる事が出来たと言うのは考えにくいようです。
というか、後白河の政治力の基盤はかなり脆いものでそこまでの力があったかと言われたら…ねえ…
元木泰雄さんの本を見ていると、出世の仕方を見てもそれなりに才能のある人物であったと考えられるようです。
近衛大将昇進への執着も当時の大将職の性格や空きポストがなかったことを思うと、どうも非現実的でフィクション臭いようですな。
他に理由があるようです。
ちなみに信頼の妹は藤原成親の妻になっています。
また自分の息子の嫁に清盛の娘を貰っている。
そして信頼の兄弟基成は陸奥守として長期間現地赴任しており、任期が切れても平泉に滞在。
娘を奥州藤原氏の3代目御館藤原秀衡に嫁がせております。
平泉最後の御館になった藤原泰衡の祖父になる。
それだけでなく基成は平泉の政治顧問のような役割をしていたと考えられています。
信頼は泰衡から見たら大叔父となり、そして基成の任期切れの後、陸奥守は信頼の一族が占めたポストとなります。
●信頼と義朝
随分前に源義朝が東国で弟義賢を息子の義平に殺害させる場面がありました。
その際の武蔵守が信頼であり、信頼はこの所業を罪にも問わず黙認したようです。
言ってみれば義朝は信頼に恩がある。
それに義朝は矢羽根や馬といったを武士に必要不可欠な武具を陸奥から購入していました。
東国での一件や、どの一族が陸奥守に就任していたかを思う時、かなりな関係が両者にあったと推測されるようです。
●信西の後白河上皇評
結構辛辣な評価でした。
史実における信西の後白河評は「日本・中国を見渡して比べるものがないような愚かな君主」(※九条兼実の日記『玉葉』に載っている言葉)。
この物語の初めごろ、信西の後白河評は「この方こそ天皇になられるべきお方」云々だったのに、今に至ってこうなるとものすごーく変な感じに…
白楽天の「長恨歌」の絵巻は実在であったようです。
ドラマの中でその絵巻を院に持って行っていたのが藤原師光でした。
藤原家成の養子ですが、信西の家僕になっている。
信西とは乳兄弟ですか。
平治の乱で亡くなる信西に最後までつき従い、その場で出家しています。
その後、後白河の近臣になっていますが鹿ヶ谷事件に関わって斬首されています。
今後も出てくる人物で、藤原成親との関係が深まっていくかと思われますがどうだろう。
●信西と清盛
保元の乱にしても平治の乱にしても、平清盛はあまり関わってなかったようです。
この事件が武士の台頭に繋がったとされるので、清盛も中心的役割を担ったかのように思われる事が多いですが。
ドラマでは随分信西寄りですが、実際には後白河上皇派、二条天皇派、どちらとも距離があり深入りはしていなかった。
だからあの微妙な時期に熊野詣なんてのんきなことしてられたんです…^^;
恐らくどういう状況かあまり良く把握できていなかったのではないかと思う。
●お茶、お酒
清盛が濁り酒を飲んでいました。
随分前に書いた事がありますが、当時の一般的なお酒はどぶろくみたいなものです。
糖度35%位の随分甘さの勝つ酒であったようで、イメージとしてはマッコリに近いのかと思います。
清酒が庶民にまで出回るようになったのは江戸時代初期からです。
平安時代にもあったはあったようですが、口に出来たのは超セレブな人々。
そう言えば藤原頼長が重陽の節句で菊酒飲んでたね。あれ清酒だったわ、確か。
先週書き忘れましたが、当時お茶もまだ貴重品です。
飲料というより薬という位置付けに近いのではないだろうか。
喉を潤すのに飲んでいたのは水か白湯だったと思われます。
平安時代の衣食住を調べていた時に食物史関係で読んだのですが、お茶が日本に入って来たのは結構早くて奈良時代ですが、平安時代、国風文化が起るに従いお茶も衰退。
それを再輸入したのが鎌倉時代の栄西だったようです。
●平治の乱
いやあ展開が早いですね!テンポが良くて見やすいわ~
来週で信西入道はご退場ですか。ということはそろそろ義朝もご退場ですな。
出始めた頃は玉木宏は義朝というには小奇麗過ぎて、個人的にはいまいちだったのですが今一番好きです(笑)
木曽義仲やってくれないかなあ…
そして鎌田正清の趙和気になるわーええわーこの主従…
清盛の熊野詣に家貞がついて行っていました。
連れて行ってて良かったね、という話に来週はなる筈です。多分。
THE MOMOTAROHっちゅう古いマンガがあってだなー…
連載当初から私大好きで、コミックスも買った。で、売って買って売って買って。結局4回売って5回買った。笑。
それから読まなくても置いとこうと。
好きなキャラは王子とベンケー、シュテンドルフです!(^^
で、こういう場面があるんだな…
実在の人物がふたり程出ております。
ちゅうかこの3人とも既にこのブログでは既出で、今まで何度か触れています。
上のマンガの中の頼光公は源頼光。綱は渡辺綱、金時は坂田金時。
頼光は源氏の嫡流になります。
河内源氏かと思いきや、という感じですけどね、三男の系統になるんですわ…
なので源氏の嫡流は摂津源氏(多田源氏)、源氏の棟梁は河内源氏と言われたりする。
ちなみに源氏の上についている摂津とか大和とか河内というのは、本拠が置かれた土地のこと。
源氏というのはイコールで鎌倉幕府、更にイコールで東国、…というイメージがありますが、出自は河内源氏。
大阪府羽曳野市に本拠がありました。
そしてその河内源氏も元を辿れば源満仲の本拠、摂津多田、兵庫県川西市になります。
源氏のルーツは関西にあるんですね。
さて。
その頼光公は藤原道長の四天王のひとりとして数えられる人物でありました。
娘婿が蜻蛉日記の著者の旦那。藤原道綱(道長の異母兄弟)。
館が一条戻り橋のあたりで、安倍清明と家近所。
まあ、おとぎ話で有名な大江山の鬼退治の主人公であります。
頼光には四天王と言われる配下がいまして、それが渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光。
坂田金時は金太郎です。頼光に足柄山でスカウトされた。
まあそれらしい人物はいたようですが、坂田金時は実在が疑わしいと言われています。
渡辺綱は羅生門で鬼退治をする話で有名。実在の人物で、嵯峨源氏の系統になります。
嵯峨源氏は名乗りがみんな一文字なんですよね…分かりやすい。
綱(つな)、競(きそう)、省(はぶく)、渡(わたる)、授(さずく)…
先祖に源融がいます。源氏物語の主人公光源氏のモデルの最有力候補。
モデルになるだけあり、イケメンだったそうで。…イケメン…
平安時代のリアルイケメンってこんな感じ
だったと思うんですが、まあイケメンだったんです(言い聞かせ)。
子孫の綱もイケメン、その上豪勇で有名だったそうです。
ハイ。モモタロウに出てくる綱のイメージだったんで…イケメン?まじでかという感じでした…^^;
で、その綱の本拠地は大阪にあった。
造幣局のある辺り。この辺り、古代は渡辺津と言われた西日本では最大級の港でした。
そこに本拠を置いたのが渡辺氏で、渡辺党と言われる有力な水軍だった。
本拠を置いた地名が渡辺なので渡辺氏ですが、嵯峨源氏というだけあり本姓は源になる。
ちなみにこの辺りに渡辺綱の駒つなぎの松だったか楠だったか、そんな史跡があります。行った事はない。
で、この渡辺党ですが治承寿永の乱(源平合戦)の頃には源頼政の郎党になっている。
頼政は以前源三位と名を出して一度触れました。大河ドラマでも一度出て来た。
上の頼光の子孫になります。
歴史の教科書風に言うと以仁王の令旨を嚆矢として各地で反平氏の狼煙が上がる訳ですが、その以仁王と挙兵を相談し一番初めに立ち上がったのがこの源三位。
そしてそれについている渡辺党だった。
まあ…
この計画、洩れてたみたいでね。ちゃんと準備できないまま頼政たちは挙兵することになってしまいます。
結局衆寡敵せず宇治の平等院で亡くなっている。
平等院の中には頼政のお墓があります。
また頼政は鵺退治でも有名な武将ですねえ。
頼政と鵺に所縁のある場所が2・3カ所ほど京都市内にあります。
●崇徳院配流
保元元(1156)年、保元の乱で敗れてすぐ後に崇徳院は讃岐の国に配流となりました…
それからずっと都に戻りたいと言い続けているのですが一顧だにされず。写経を都に送るも「呪詛じゃない?」といって送り返され。
怒り狂った崇徳院は髪も爪も切らず舌を噛みきり、その血で「日本の大魔王になる」云々。
結局崇徳院は香川で亡くなるのですが(坂出に御陵がある)、亡くなって随分経ってから後白河の身近な人間が次々と亡くなりまた火事が起ったりで、それが崇徳院や藤原頼長の怨霊のせいであるとされました。
それを怨霊ではなく神霊として祀るべしと主張したのが、先日名前を出した崇徳院の側近であった藤原教長になります。
日本で一番の怨霊という扱いになっていますが、実際には配流先で穏やかに過ごされていたようです。
というか、西行…
まさか崇徳院の所に出てくるなんて。この裏切り者(笑)
●信西の新政
荘園整理と内裏の再建が一番大きいのかな?
清盛が仁寿殿、頼盛が貞観殿、教盛が陰明門、経盛が淑景舎を造営。
4か所の造営を請け負うのは相当な経済力がないと難しかったと思います。
清盛はその功績を嫡男重盛に譲り、重盛は従五位下になっています。
清盛本人は既に正四位下。
正四位上は飛ばされるのが当時の慣例であったようで、この上は従三位になる。
三位以上は公卿になりますので、流石に簡単には昇進できませんな…
頼盛以下は従四位下、正五位下、従五位上になっている。
一方源義朝は内裏の北廊の造営を担当。
源氏は保元の乱で一族のほとんどを失っていますので、必然的に参加できる人間もいないという事に…
今まで書いてきたように源氏は源為義初め子供たちも中々の乱暴者で、それが原因で院の信頼を失ったりしており、受領などの旨みのある官職にはつけていません。
平氏とは経済力も官位も相当な水を開けられているという状態。
しかも官位は従五位下→正五位下。
保元の乱の際、信西が義朝に破格の恩賞云々と約束していましたが、その伏線が早くも回収されかかっていると言うか。
その話が出てきました。
義朝が清盛と比べて低い官位、低い評価に不満を持ったという話。
元木泰雄さんによると、んなあほな、という感じですな^^;
私もそりゃそうだよなと思ったのですが、保元の乱前は、
清盛…公卿一歩手前の正四位下、安芸守
義朝…ギリギリ貴族の従五位下、下野守
元々天と地ほどの開きがある。
その上義朝の方は一族のほとんど全部が謀反人です。
義朝が官職に不満を持つというのは、重役が社長に出世したのを見たヒラ社員が、なんで俺を社長にしてくれないんだと言いだすのと同じような、ちょっと飛んでる感覚。
当時の平氏と源氏が対等だと思うからそんな話になるんだ、という事を主張されてました。
激しく納得。
それに左馬頭って、武家にとってはそんなに悪い官職じゃなかったみたいなんですよね。
義朝の前任者は院の近臣で、それなりにいい役職であったようですし。
…関東の研究者はどうしても源氏を贔屓したくて対等に見たがると言う話を以前聞いたことある…^^;邪馬台国論争みたいなものなのか…
●大宰府へ
清盛が太宰大弐に就任しました。
太宰大弐は大宰府のナンバー2になります。
長官は大宰帥(だざいのそち)。
長官になったんじゃないの?という話ですが、太宰大弐は実質的には長官になります。
帥は有品の親王じゃないとダメで、あまり任命される事がなかったみたい。
その代理が大宰権帥(だざいごんのそち)になりますが、権帥が任命されたら大弐は無し、大弐が任命されたら権帥は無しという事になっていた。
私は長いこと清盛は現地赴任していたと(何となく)思っていたのですが、行ってはいなかったみたいですな。
ただ後に弟頼盛が大弐になった時は現地赴任していたようです。
清盛、頼盛の大弐時代、通婚を通して取り込んだのが現地豪族原田氏になります。
原田種直は大宰権少弐だった。
後年平氏が都落ちした際、一行はまず大宰府へと向かいます。その頼った先が原田氏だった。
何となく誤解が多そうだなと思うのですが、平氏は一旦都落ちして九州に向かいます。
そこから九州にもいられず、源氏が身内争いをしている間に屋島、そして神戸にまで戻るものの、一の谷の合戦で叩かれた。
その後屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと続きます。
●重盛の婚姻
藤原成親の娘と通婚ということで。この話は今まで何度か触れたので今回はパスです。
●後白河譲位
あっさり譲位。天皇であった期間は2年ほど。
という事はもうそろそろ信西入道も御退場ですな…
来週は早くも平治の乱の話に突入していきそうな感じでしたが。
信西、自分の息子4人をそれぞれ重職につけています。
院の近臣の性格はふたつに分けられるようで、
ひとつが大国の受領で経済的に院を支える人々。
もうひとつが、有能な実務官僚。実務で院を支える人々。
元々それぞれ違う家の出身者がこのどちらかで近侍していたようですが、信西は4人の息子をどちらにも配した。
ひとつの家でどちらにも人を出すというのは、それまでには無かったようです。
信西は後白河政権の脆弱さの隙間を縫ってのしあがって来た新参者の近臣でした。
元々いた院の近臣を押しのける形で現在の位置についている。
新参者が牛耳っているって言うだけでもアレな感じなのに、これじゃあね。
来週あたりで信頼と義朝の結びつきなんかも出てくるのかな~
清盛の青臭い時代に時間掛け過ぎて、これからの方が大事で長いのになんか掛け足になりつつある…^^;
今平泉にある毛越寺の史跡ページを作ってます。
頑張ってます。もう一息で平泉の史跡ページが全部終わる…!
やりかけたら結構早いのに、中々気が進まずに放置していたのですがもっと早くやっとけば良かった。今更ながら。
今週末位からてくてく平泉散歩という事で更新して行こうかと思っています。
待っている人そんなにいないと思うけど(笑)
平泉が終わったらタイムリーなので平氏関係でも触ろうかな…地元兵庫だけに写真だけは結構あるんだぜ…
…お前近代触れよという声が聞こえてきそうだな…ははは…
で、毛越寺のページを作りながら、そういやそうだな、と思った事がありまして。
去年の今頃、このブログで二十何回か平泉の話を書きました。
その際に奥州藤原氏の第2代御館基衡の事も少し。
既にサイトにも載せていますので、興味がある方はそちらもどうぞ~^^(「残心18」)
先日このブログで西行法師が平泉を2度訪れていると言う話を書きました。
その西行が初めて訪れた時が基衡の時代だった。
ドラマ平清盛の時代とドンピシャに重なっているんですね。
奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡、泰衡と続きますが、恐らく一番影が薄いのは基衡で、資料が少ないのも多分この人。
なんせ生年も死没年もはっきりしない状態である…
ただ尊卑文脈を見たら亡くなったのが保元2(1157)年とある。
あ、そうなんだ。 (………^^;)
ということは今のドラマの段階で、まだ基衡生きている。
何となく秀衡の代かと思っていた…
その基衡が平泉に建立したのが毛越寺で、現在では復元された浄土庭園で有名な寺院です。
かなり大きな苑池があるのですが、それが平安時代に作られたまま再現されている。
12世紀に作られたままの遺構がそっくりそのまま出土しているんですよ。
こういう例は殆どないそうで、だから特別史跡、特別名勝となっている。
史跡名勝でのダブルの特別指定は全国合わせて89例しかないそうで、かなり貴重(らしい)。
その毛越寺の額を書いたのが時の関白藤原忠通、金堂の色紙形を書いたのが参議藤原教長になります。
ドラマドラマ言って申し訳ないですが、多分今年はその繋げ方が一番分かりやすいと思うので…
関白忠通はもう随分出てきていますので恐らく説明もいらないと思われます。
藤原頼長の兄ですな。
保元の乱で後白河天皇方ににつき、一応勝者とはなったものの、嘗て摂関家が持った力を取り戻すことなく終わってしまいました。
そして参議藤原教長。
誰じゃいな、という感じですが、この方もドラマでめっちゃ出てたよ!(笑)
崇徳院の側近です。
戦に敗れて白河北殿から逃げ出した崇徳院が「出家したい」と言いだす場面がありました。
その時に院に向かい、「僧侶もいない、剃刀もない」と奏上した人がいましたが、その人が参議教長。
忠通の書の先生をしたりして、当時能書家として有名な人物であったようです。
そんな人々に額や色紙形を頼むって、毛越寺っていつできたんや…
そう思って少し調べてみたのですが、ちょっと分からない。
ただ基衡在世中には完成しなかったようで、秀衡が作った堂塔も毛越寺には含まれています。
という事はだなー…
保元の乱の時でもまだ毛越寺建立の真っ最中ってことで。
鳥羽院の在世中に基衡は毛越寺の本尊制作を依頼した雲慶(運慶か)に信じられないほどの報酬を用意したという逸話が残っていますが…
殺伐とした政争が起きている都と、
地方都市で安定した政治を行い(多分)、寺院建立に力を注いでいる平泉とでは随分世界が違うような印象を受けます。
同時代というイメージが中々浮かばないのはそのせいなのか…
基衡が保元2年に没したとして、その後平泉で作られたのは毛越寺の続き(?)、観自在王院、伽羅之御所、無量光院。
それらに加えて清衡が作った中尊寺も維持運営していかないといけないし、それだけでも莫大な費用が必要だったと思うんですよ。
勿論公的な費えはこれだけではないですし。
保元の乱の3年後の平治の乱(1159年)で源氏は一時没落しますが治承4(1180)年「以仁王の令旨」から少しずつ風向きが変わって来る。
味方にならなくても、少なくとも敵対はしないでほしいという意味も込めて、平清盛は秀衡を陸奥守兼鎮守府将軍にする訳ですが…
そりゃこれ、怖いよね…
これだけの経済力があって、更に当時奥州17万騎と言われていた。
関ヶ原の戦い時の両軍の合計人数が大体16・7万でしょ?
奥州17万にはかなり誇張があると思われますが、いざという時には相当な人数を動員できたんでしょう。
そう思うと、文治五年奥州合戦で何故平泉は負けたのか…
資料としては『吾妻鑑』に多くを頼らざるを得ない訳だけど、勝者の作った歴史に全面的に依拠するっていうのはちょっと辛い。
でもそこに隙間があるというか、想像をかき立てられるというか。
…『炎立つ』みたいなエンドだったら悲しい終わり方でも夢があっていいよね(号泣しました…)
拍手レスは次回でお願いします…