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2013/12/31 ヒジハラ

平清盛#19 鳥羽院の遺言

2012-05-14 | ヒストリ:平清盛

前々回といい今回といい、友切の検索で見に来ている人がやたら多いです。
チキンなんで怖いです。
さて、今週の平清盛アワー。
1月に松山ケンイチと深田恭子の公開イベントを見に行った際、番組のプロデューサーが「保元の乱の収録は今から」と言っていたのでまだ先の話かと思ってましたが、思いの他早く保元の乱に突入しそうな雰囲気です。
 
平氏と源氏のカラーが逆転してきましたなあ。
真面目な顔してお笑い担当だった源氏が一転して真面目に深刻になっていくのに比べ、平氏がまるっきりお笑いパートに…
いや、なんつーか、あの清盛自体が(以下ry
確かに平氏は色々あるけれどファミリー色は出し易すかろう…カウンターパートの源氏が酷過ぎるからなあ…
後白河天皇即位に際して藤原信頼が出てきました。
平治の乱の当事者のひとりで、これからの重要人物になります。
 
●藤原頼長
内覧を下ろされてしまいました…
これだけでは分かりづらいですが、要するに頼長は失脚した。
 
ドラマでは綱紀粛正というキーワードの下で世の弛緩、政治の弛緩を正そうとしていましたが、それが実情とあっていなかったんですね…
またこの方、寺社相手にも流血沙汰を色々起こしていまして、各方面から多くの反感を買っていたようです。
その手法が強引なだけに、どんどん孤立して行く。
例えば前回死去した鳥羽院の寵臣藤原家成という人物がいます。
平清盛の継母宗子(池禅尼)の従兄弟です。
何週間か前に源為義(だったかな)に屋敷を破壊されていましたが、これで鳥羽院の信頼を失った。
父忠実に「やりすぎた」と言われていましたが、まさにその通りだったのではないかなー…と^^;

先週権力を振るう頼長を見た忠実が「やり過ぎるな」と忠告した際、「父と言えど容赦しません云々」と答えていましたが、うーん、あれはどうなんだろう…
頼長の立場、結構不安定というか。
この親子兄弟の分裂は兄忠通に男児がいなかった事に始まります。
嫡子がいないため忠通は頼長を養子に迎えていて、いずれはこの弟が藤原氏の嫡流を継ぐことになっていた。
ところが後に男児が生まれてしまい、そうなると弟ではなく実子に跡を継がせたいと思うのが人情かと(お家騒動のテンプレである)。
親兄弟が対立することになったのは、忠通が弟に家を譲るという約束を保護したところにある。

この対立が娘呈子と多子の入内競争に繋がり、入内妨害行為に繋がり…
結局この競争は忠通の勝利に終わりますが、それでおさまらないのが父忠実と弟頼長。
この時に忠通は父より義絶されてしまった(その他にも色々と争いがあるのですが)。
そして氏の長者、それに付随する荘園寺社の管理権等も全て取り上げられています。

これまた数週間前の放送で東三条殿(藤原氏の正邸)より源為義が朱器台盤を奪って行く場面がありましたが、この時に忠通は嫡流に伝わるべき家屋敷や宝物を全て奪われている。
これは結構有名な話で、という事はそれだけエキセントリックな行為でもあったのではないかと思います。
ただ官職は藤原氏内部でどうこうできるものでもないためそのまま据え置きはなっていますが、これだけでもかなりの分裂状態になってる…

この時点で藤原氏の氏の長者は頼長になっている。
とはいうものの忠実は忠通から取り上げた権限を限定的にしか頼長に与えていなかったようで、内実を見たら頼長は父に従属していたのではないかと思う。
氏の長者の地位を譲って大殿になっている忠実ですが、当時親権ってかなり強いものだったようです。
忠通から氏の長者の地位を奪うというだけでも余程だと思う…^^;

頼長は以前書いたように学問に対する情熱は比類ない、博覧強記の人物でした。
しかしながら政治家としては脇が甘くて(最愛の男色相手が死んだショックで職務放棄とか、院の寵臣の邸宅を襲ったりとか)、その上あちこちに敵を作り反感を買い…
まあ政治家としては未熟な上に、本当に「やり過ぎた」、この一言じゃないでしょうかねえ。
 
●源氏パート
・友切 義朝の手に移ってましたね…この前が私が書いた話は一体何だったんだ(笑)

・下野守 
頼朝が下野守になっていました。あれ?これ先週?(覚えてない)
急に抜擢されたようですね。いきなり抜擢されて、父為義の官位(検非違使)を超えてしまった。
源氏から国司が出るのは源義親以来です。半世紀ぶり。

 

八幡太郎義家の嫡男であった義親(為義の実父)は対馬守になっていた。これが最後。
源氏は義家死去後のお家騒動、跡目相続の争いで滅茶苦茶になりまして、為義の頃は頼義・義家時代の見る影なし、という状態でした。
ドラマの今の段階でも為義は従五位下かな?

以前書きましたが、為義は元々白河院に可愛がられていたんです。
祖父義家が白河院と近い人物であったので、それが大きかったのではないかと思います。
実父義親が反乱を起こした際も伯父一族追討の際も白河院は為義に随分便宜を図っているし、その上院の近臣の娘を娶らせてもいる(義朝の母)。
本来なら出世頭のひとりと言ってもいいくらいの可愛がられようだったと思うのですが、為義は粗暴な行為が目立つ。
それが白河院から遠ざけられる原因になっていたようで、そうなると覚えめでたからず官位も上がらず。

同い年の平忠盛(清盛の父)が出世して昇殿している時期に為義は検非違使ですからねえ。
片や院の近臣としてそれなりの国の県知事となり公卿目前まで出世し続けているのに、片や貴族すれすれで都の警察長官(超大雑把に言うと)。
ちなみに忠盛が死去した時点で清盛は正四位下、昇段を許されていて安芸守。
この雲泥の差。
為義の場合は自業自得といってしまえばそれまでのような気がしますが^^;

それを掬い上げたのが藤原忠実で、どうもこの方のお陰で為義は従五位下(貴族)になれたようです。
その後には頼長に主従の誓いを立てており、その為かそこそこ出世していますので、そりゃ忠勤に励むわな。
それに義朝の弟義賢は以前書いた通り頼長の男色相手でもありますし……
為義の忠実・頼長サイドへの傾倒は、そりゃそうか、という感じですか。

そこに一線を引いていたのが義朝ですが、父らとは違い鳥羽院・美福門院に接近したというのがあるようです。
どうも東国の荘園関係で、らしいのですが、その辺りはまあいいや。
奥さんである由良御前も元々待賢門院に近い人物ですし…
院・院の近臣らと藤原忠実・頼長が対立すれば勿論そこに仕える源為義と義朝も対立することになる。
 
為義が義朝に対抗するために送り込んだ義賢が悪源太義平(頼朝長男)に殺害されたのを見れば、もう和解不可能、何か起きた際に決裂するのは決定的だったと思います…
 
●消失
波乱含みな王家内部の対立と、藤原氏内部の対立ですが、それが表面化しないよう抑制していたのが前者では鳥羽院と後者では藤原忠実になります。
ドラマの鳥羽院はなんというか頼りない感じではありましたが…
実際にはあちこちを抑えつつ、忠通と頼長をうまいこと使い分けていたりもしたようです。
その重しでありバランサーであった人物が今回で欠けてしまいましたが、さて次回はどうなりますか。 

ドラマでは結構細かいところまで史実を追っている気はするんです。
でも、なんというか……
それが断片的な感じになっていて、話の中でうまく繋がっていないのではないかなあ…
そういう気がする。
難しいところやなあ 
  


前回の「岡藩の志士」に結構拍手を頂いたみたいで(どの記事への拍手までかは分からない)、ありがとうございます。
つ、続きいりますか…(笑)
あれは1カ月くらい前に書いて放置していたものでした。
書いたり消したりを何度か繰り返し(でも上手く纏まらない。多分ちゃんと分かってない)
あの話で書きたかったのは実は小河一敏の話ではないのだけど、寺田屋騒動のあたりで嫌になったのね。ややこしくて。
続きはもういっかという気持ちになった^^;
 
事典なんかを見ると誰々と知り合いだったと簡単に書いてあるのですが、それってどういう伝手なのかしら、と思うことが多くて。
有名になると知人友人が増えるとか、あのパターンじゃね?
一面識しかないけど知り合いにしてるんじゃね?みたいな?(笑)
同じ岡藩士の山縣小太郎の場合は田中光顕と香川敬三の名前が上がりますが、これは本当に顔見知り以上の知り合いだった。
そりゃ同じ陸援隊にいたなんて誰が想像しただろう。
田中香川どころか中岡慎太郎の部下やんか。
慎太とか桐野利秋の話は聞かなかったのかい広瀬武夫さんよ…
(※広瀬の師のひとりである山縣は会津戦争の際桐野と一緒に鶴ヶ城を受け取り藩主親子を護送した人物)

岡藩の尊王・勤王の志士はほぼ小河の門下だったようです。
ただ藩が日和見のどっちつかずだったので、彼らはその時々の都合により謹慎になったり許されたり。
佐賀の江藤新平と同じように大したこともできずに国元にいて、表舞台に出てくるのは新政府が成立してのち。
一番の出世頭は小河だと思うのですが、その次が山縣小太郎かな。
勤皇活動しただろう人々がとりあえずは取り立てられていったことを考えると、小河の周辺を見ていたら何か分かることもあるのではないかというくらいの動機だったんです。

広瀬友之丞、広瀬武夫の父ですが、交友関係に村田新八がいる。……らしい(笑)
どこに接点があんねんなと思っていたんですが、竹田から上京する際、恐らく白石正一郎邸で顔を合わせていたのではないかと。
そのあとどういう交流があったのかは分からないのですが、これって交友っていうの?ねえ?
単なる顔見知りじゃないの?^^;


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平清盛#17 平家の棟梁

2012-04-29 | ヒストリ:平清盛

今週の平清盛アワー。
代替わりしたらいきなり普通の風貌になった清盛でした…とうとうアウトロー卒業した。
いつものようにそんなに書く事もないんですが、いくつか。
というか、ひとつ。

友切は源義朝に伝承されています。
ドラマでは源義賢に譲られていましたけれども。
友切は「源氏重代の刀」と言われた源氏の宝刀で、源氏の嫡系に相続されるとされたもの。
 
鎌田通清以上に私が驚いたよ!(笑)


内容が義朝の跡継ぎ否定だったのでそれで引き合いに出されたんだろうと思うんですが^^;
 
源氏には累代の刀が伝わっていましてそれを 友切と膝丸 といいます。
2振1セット。
源氏の祖、源満仲が作らせた宝刀で、嫡流源頼光に伝わり、その後はその弟頼信の子孫に伝わっていく。
源頼信は頼義の父、即ち源義家の祖父に当たる人物です。


   
為義の代までは2振セットで伝わっていたようです。 

友切に限って言いますと、元の名前は 髭切 といいます。
なので、友切と膝丸というよりは「髭切と膝丸」の方が良いかな、と思いますが。

「髭切」の名前の由来のひとつは、満仲がこの二振りを作った時の試し切りで、人の首を切った時に髭の一本も残さずに切り落としたから。
もうひとつは、前九年の役の際、源義家が敵の髭まで薙ぎ切ったから。
 
髭切は友切となる迄、何度か名前が変っています。
まず渡辺綱が主君源頼光から髭切を借りて
 1)羅城門の鬼を退治しに行って鬼の腕を切りとした事から、
 2)一条戻り橋で美女に化けた鬼の腕を切り落とした事から、
 3)大江山の鬼退治の時に持っていたこの刀で鬼を切った事から
鬼切になった。
これは楠桂だったかな?大昔に『鬼切丸』というマンガがありました。ご存じの方もおられるかも。
髭切のことです。
でもね、すぐに分かると思うのですが、時代から言うと頼光・綱→義家なんですよね…
要するに、名前の由来からして何が正しいのかよく分からず、源氏の宝刀の話は半ば伝説に近いものがあるんですよね^^;
 
髭切は義家から源為義へと引き継がれ、その時に名前が2度変わっています。
1度目は「獅子の子」、そして2度目が「友切」です。
由来は長くなるので書きませんが、この友切が義朝に伝わった。
 
ドラマではまだ間がありそうですが、義朝は後の平治の乱で敗戦の憂き目に遭います。
都落ちして逃げのびる際、自分の不運を呪った。
そしてぶつぶつ文句を言う訳です。

「いい刀を持ってるのに、その加護も威力もない。もはや八幡大菩薩にも見限られたか」
  
そうしたら八幡さまが怒った。
八幡太郎じゃなくて(笑)、八幡大菩薩が怒った。
 
「名前をコロコロ変えるからだ。それに何だ、今の『友切』という名前は。縁起が悪いこと甚だしい。味方を滅ぼすのに相応しい名前だとは思わんのか」

そうだよね。るんだもの。神様の言う通り。
そして八幡さまに「元に戻せ」と言われて、友切は元の髭切に戻りました。

だから友切は義朝の手にないとダメだと思うの……^^A
 
 
でね、この髭切は後に平清盛に渡り、その後後白河院の手に渡り、源頼朝の手に渡ることになります。
もう一振の膝丸も何度か名前を変え、持ち主を変えている。
熊野の別当の手に渡り、熊野別当湛増に引き継がれ、源義経の手に渡っている。
湛増は#12宿命の再会でも触れましたが、武蔵坊弁慶の父になります。
普通に考えたら弁慶繋がりでしょうねえ。
ちなみに義経の手に渡った頃には「薄緑(うすみどり)」もしくは「薄縁(うすべり)」と名を変えていた。
その後義経が箱根の権現に寄進し、箱根権現が頼朝に返したといいます。
頼朝の代で別れ別れになった兄弟刀が一所に集う事になった。

でもその後はどうなったのかがよく分からない。
北條氏に受け継がれた、新田義貞が持っていた…これまた諸説紛々で正直な所よく分かりません。
よく分からない…正直言うと行方不明になったようなのですが、川西の多田神社の宝物館には鬼切丸がありますなあ。
行って見せてもらえないけど。
もうひとつ京都の北野天満宮にも鬼切丸が伝わっている。
こちらは平安後期で、重文指定が掛っています。最上家伝来だったそうで。
うーん…?
この辺り探せば研究等もありそうですが、そこまでする気力は流石にありません(笑)

ちなみに義賢は木曽義仲の父親になります。
頼長とは男色関係にあった。
また今回出て来た家成の子、成親も頼長と男色関係にあります。
政治の一環とはいえ本当にこの人達は…^^;


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平清盛#14 家盛決起

2012-04-11 | ヒストリ:平清盛

昨日あれから見られました。
うーん。何と言いますか、想像通りといいますか、私が書く事はあまりない回でした。
歴史の筋を追っていないとね、中々お呼びでないっちゅうか。なんちゅうか^^A

「決起」というから、もうてっきりそういう話かと。
頼長との繋がりを作った上で清盛と家督を巡って争っていくとか、そういう話を想像していたのですがなんだか肩すかしな感じでした。
物理的にどうこうではなくて、心情的な話だったのね…
  
藤原頼長が平家盛を利用して台頭して来た平氏の力を殺ぎ落とそうとするという話でしたが、あそこで何故敢えて男色を持ってきたんだろう…
いや、あそこで敢えて男色を入れた辺りがすごいですね。一応ゴールデンタイムなのに。
これは家族で見ていると会話無くなるよね!(笑)
まあやっちまったなーとは思うものの、別に今更きゃあきゃあ言うような事でもないので、少し真面目な方向にいってみます。
   

 
まあ↑こんな感じで、今迄何回か書いてきた通りです。
その昔友人にもらった台記のコピーもあるのですが、それは出したら元は漢文なので訳付けないとダメでしょ?やだよ!なんの羞恥プレイだよ!(笑)他あたって!(笑)
  
今ドラマに出て来ている貴族連中、大体男色をたしなんでいたと思われます。
何故かというと、この院政期は男色関係が非常に政治に影響した時代です。
ドラマで家盛が頼長に引き立ててやるという意を囁かれていましたが、あれはあながち間違いではありませんし、実際にそのような事があった事は研究史でも明らかにされています。
頼長が当事者です。笑
一族一門の出世や政治的な地位向上のために有力な貴族と男色関係を結ぶという事は確かにありましたし、男色関係を結んだ相手をばんばん出世させるなんて事もあった(後白河院)。
乱暴に言ってしまえば男色は出世の道具、出世するための選択肢のひとつなんですわ。
男色の歴史は古くて、空海が唐から帰って来た時に持ち込まれたと言われています。
どうも弘法大師が唐に留学した時流行ってたらしい。
当時の感覚から言うと唐=今のNYという感覚だと思うんですが、流行の最先端だっちゅうことでお持ちかえりになったとか、そういう話を読んだ事があります。
男色が完全にアブノーマルだという意識になったのが大正時代あたりからですので、そう考えたらセックスの相手が異性でないとダメという観念は日本ではここ100年位のものになります。
日本史という長いスパンから見たら、男色はちょっと、という今の方がアブノーマルかもしれませんな。

少し前にも触れましたが、平清盛の父忠盛が出世したのは白河院に体を預けたからだというまことしやかな話もあるわけで。
ドラマの話としては、別段違和感あるようなものではなかったな、と思います。
実際に頼長は平氏の子弟と男色関係を結んでいたのか、という話ですが、私にはそこまでは分かりません。五味先生に聞いて(笑)
ただ、平氏と仲の良い貴族の子弟と多く関係を結んでいたのは確かです。
 
で、今回で家盛が亡くなってしまった、という事でいいのかな?
これも今まで何回か書きましたが、清盛の次弟家盛は早い時期に亡くなっています。
鳥羽院の熊野詣について行き、その帰りに急逝したらしい。 

●弟たち
た、沢山出てきましたな、急に…
家盛の同母弟、頼盛。
頼盛は清盛とは少し距離のある弟で、平氏一門が都落ちする際にも京都に残っています。
異母弟、経盛。
経正、経俊、敦盛のとーちゃん。
子供がみんな一の谷で亡くなっている…何となく音楽一家で麗しいイメージがあります^^;
経正は琵琶の名手で、仁和寺の名器「青山」を譲られています。
都落ちの時に返したんだっけ。
岡野玲子『陰陽師』に琵琶の「玄象」が出てきますが、この玄象と青山が2大名器と言われる琵琶になります。
経正は神戸の兵庫に琵琶塚がある。
経俊は何かあったかな…この方の供養塔も神戸にあります。
鎮守稲荷神社という小じんまりした神社で、高田屋嘉兵衛の奉納した石灯篭が残っている。
敦盛はもう今更、という感じですが。
青葉の笛!青葉と小枝(さえだ)、笛の名前はどちらなのかいまだによく分からない(笑)
須磨に敦盛塚があります。

皆長兄に向かって酷いことずけずけ言ってたね…^^;
 
今日はこれくらいで。

Comments (2)
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平清盛#13 祇園闘乱事件

2012-04-01 | ヒストリ:平清盛

書く事無いわー。

●右獄
右獄=西獄です。右京にあるから右獄。
…なら 右獄=東獄 だろうと思ったあなたは鋭い。
でも右獄=西獄です。
南面する帝から見て右が右京。だから平安京の西側が右京になります。
左大臣と右大臣、位が高いのは左大臣の方。
左の方が位が高い。
それは南面する帝から見て左から太陽が昇るからだと聞いた事があります。
本当かどうかは知らない。

西獄の前には樗(おうち)の木があり、罪人の首級を晒す時はこの木にかけた。
いずれ起こる平治の乱の際、信西の首級(みしるし)がこの木にかけられます。
前九年の役の岩手の英雄安倍貞任の首級も、その敵方になった源義家の子義親の首級もここにかけられている。 
 
●祇園社闘乱事件
平清盛の郎党と祇園社側の小競り合いから発展した事件で、清盛の郎党が射掛けた矢が神輿に当たってしまった。
祇園というのは今の八坂神社です。
明治の廃仏毀釈までは祇園社とか祇園神社と呼ばれていた。
それで何故比叡山延暦寺が出てくるのかというと、祇園社のボスが延暦寺だからです。
神社のボスが何故に寺、という話ですが、これは平安時代の神仏習合の影響かと思います(調べた事無いので分からないけど)。
 
藤原忠実(國村隼)が「父師通が神罰で」云々といっていましたが、史実です。
神罰じゃなくて、藤原師通が延暦寺の強訴に対し矢を射かけさせて悪僧らを撃退したという方。

藤原師通は「後二条師通記」という日記を残した人物ですが、有能であったようですねえ。
この父が亡くなった際(38才)、子の忠実はまだ若く(22才)、その跡を継ぐ力がなかったようで、それが摂関藤原氏が院の下位につく一因になったようです。

ドラマでは悪僧を撃退してすぐに師通が亡くなったという感じで話していましたが、実際に亡くなったのは4年後。
その際に延暦寺が神罰だとか祟りだとか触れまわり、それ以降は力で撃退するのがタブーになったそうな。
なので都に入る前に説得して帰ってもらうか、それが間に合わなかったら大体言う事を聞いてたらしいよ。

●宗盛誕生
…宗盛…はい……宗盛ですね…
友人に熱烈な平氏ファンがいまして、随分昔ですがその子が平宗盛が主人公の本を読んでいた。
「なんかね、本の帯に宗盛の復権を目指すとか、そんな事が書いてあったの。あれをどうやってと思って」
ホントあれをどうやってですよ…
で、読み終わった後に話を聞いた。ら。
「後書きに無理だったって書いてあった。小説1本書かんとそんな事も分からんかったんかと思うと納得いかんわ」
笑った。

 ●次回予告
 
家盛食われそう
……
……………。
そう思ったの私だけじゃないよね!?ね!!?(爆笑)


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歴史シンポジウム『清盛・縦横無尽』@神戸

2012-03-31 | ヒストリ:平清盛


  
3月25日、神戸朝日ホールで開催された歴史シンポジウム『清盛・縦横無尽』に行ってきました。
主催が神戸市文書館で、4名いる報告者に元木泰雄さんの名前が入っていたので、これは行きたいぞ!と。
前の高橋昌明さんと関幸彦さんの講演会(平清盛と源頼朝)は抽選で外れてしまったので。
   
元木さんが1「政治史から見た清盛」
ということで、基調報告、清盛の政治史における全体像を提示し、その後に
2 「仏教文化から見た清盛」(上川通夫)
3 「日宋貿易から見た清盛」(山内晋次)
4 「文学史から見た清盛」(樋口大祐)
ということで関連報告がなされました。
ちなみに樋口さんは『変貌する清盛』、『乱世のエクリチュール』(←私は読むの挫折した)の著者です。

結果から言うとかなり面白かったです。
どちらかというと専門的な話が主でしたが、政治史や人物評などはある程度知っているため、寧ろ突っ込んだニッチな話の方が聴き応えがありました。
隣に座っていたおばさまと少し話しをしたのですが、これは全く意見一致でした…
そもそも往復はがきで応募して、ああいう処にまで来て話を聞きたいという人はある程度知識があるとか元々興味がある人だと思うんですよね。
そういう人たちに一般的な話をしても、なあ、という感じなので。
4の樋口さんの報告は大体『変貌する清盛』と被っていたのですが、2と3は知らない事と面白い事の連続で食い入るように聞いてしまいました。
恐らく、他の聞きに来られた方々も同じだったと思います。

1 「政治史から見た清盛」
大河ドラマにご不満が大きいようで、会場が何度かそのネタで爆笑に包まれました。笑。
仕方ない。それは仕方ない。
長年地道に研究を重ねて来た方からすると、たった45分でそれまでの積み重ねが全部吹っ飛ぶ(=ドラマが史実と思われる)ことが現実にありえるためですが、あれは歴史じゃないと思っても確かに酷い所は多いとは思います(私はトレンディ大河ドラマだと思って見てます…普通のドラマだと思うとまあ面白い)。
それはいいのですが、ひとつそうなの?と思った話があった。

後白河院、鳥羽院、崇徳院の親子関係で、叔父子という話は何度か書いてきましたが、あれ、現在研究史では否定されているとのことでした。 
話の前提が覆りました(笑)
確かにこの事が書かれているのは古事談だったか十訓抄だったかで、当時の日記類ではなかった気がする。
崇徳院は白河院の子供ではない、というのが現行の研究の主流のようです。
本当に崇徳院が疎んじられていたのなら、実力者平忠盛の妻宗子が崇徳の皇子の乳母になんてならない。他に理由がある、云々…
このことに関しては、考証が色々とありそうですが、今それらを探してまで知りたいと思わないのでこの話はここでやめ^^;
興味がある方は調べてみて下さい。私も気が向いたら調べます。気にはなる。
信じてた事が違うと言われた時の驚き…^^A 
    
2 「仏教文化から見た清盛」
報告者の上川さんは日本中世の仏教を研究されている方だそうで。

●社会に取り込まれた仏教
仏教が社会全体に取り込まれたのが12世紀、清盛の頃だそうです。
日本に入って来たのが…6世紀?パッと浮かぶのは物部守屋と蘇我稲目の争いですが…
随分と緩やかな時間をかけて社会に浸透していったのだな、と。
先日サイトに上げた『平安ライフ』の食事編でも、平安中期、庶民が好きなものを食べている一方で貴族は先例や仏教的思想に縛られて…、という話を書きましたのでなるほどと思いました(清盛の時代は平安末期)。

●日本の仏教
インドの思想を中国語(漢文)で記したものを日本で読み、解釈する。東アジア的な広がりがあるという事を話されていたような…(曖昧)
へーと思ったのは、12世紀の日本仏教は中国の仏教を超えて世界一の仏教を目指そうとしていたのだ、ということを話しておられました。
勿論、事実としてはなかったけれど(そして恐らく無理だっただろうけれど)、そういう事が考えられた事実はある、と。
ちなみに平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声」、この祇園精舎が現地インドでは既に滅び去っていたことを、平家物語成立当時の日本人は知っていたそうです。 

●転法輪法
この話が一番面白かったです。恐らく聞いていた人の多くが一番面白みを感じた所だと思う。
当時の仏教というのは大別してふたつの役割がありました。
1)学問、思想、信仰 2)政治 
「転法輪法」というのは祈りの名称、人を呪い殺す修法のことだそうで、2)の政治と密接に関係していた。
修法というのはまじないというか…呪術に近いもので、目的は息災、増益、降伏(調伏)、敬愛の4つ。
この中で一番政治色が強いのが降伏で、12世紀によく行われていたそうです。
要するに転法輪法はこの降伏の法だということ。
 

 
上の平面図がその転法輪法を行う部屋。
夜中から朝方にかけて真っ暗にした密室の中、大輪明王曼荼羅を掲げた前に三角の爐で護摩を焚き、阿闍梨ら数人の密教僧が印を結びながら呪文を唱える。連夜。
そこで白檀を初めとする数種類の舶来の香木を焚くそうで、噎せ返るようなにおいがしたんじゃないかなあ。
異様な雰囲気です…

大輪明王と爐の間に高さ25センチほどの円筒を置くそうで、これが一番大事らしい。
写真右下の筒、これが実物の写真で、周りに絵が描いてありますがこれが呪詛神。
この中にある絵が描かれた紙か絹が納められている。
その説明が筒写真の左側の漢文。
=「依頼主の等身大の絵を書き、その足元に呪い殺したい人間の姓名を書く事」
漢文の左に足の絵がありますが、これがそれ。
足の下に説明があるけど、これは「院の姿です」という説明が書かれている。
で、この転法輪法を行った人の名前も分かっていて…

それを調べると院は後白河院、いつ行われたかというと鹿ヶ谷事件のころ。
あの上に足に踏まれていた名前は恐らく平清盛だろうと。
呪われていたのは恐らく平清盛だろうと。

………………うわあ……………
あるだろうな、こういうの絶対にあるだろうな、とは思っていても、目の当たりにするとぞっとする。
で、この転法輪法を行った阿闍梨は誰を呪うのか事前には知らされておらず、修法の初日に院に耳打ちされた、という事まで記録に残っていそうです。
 
上川さん曰く、密教=秘密仏教であるがゆえに中々表に出てこない部類の史料。
今回のお話は最近分かってきた話だということでした。
  
 
3 「日宋貿易から見た清盛」
報告者の山内さんは奈良~鎌倉時代の国際研究史が専門、中でも日宋貿易。
日宋貿易の専門家は日本では3・4人しかいない、もの凄くニッチな分野だそうです。
そういう事もあってか、平氏の日宋貿易に疑問を呈しても中々耳を傾けてもらえないと嘆いておられました^^;
全体を通して言うと、「もっと大枠から、冷静に事実を見よう」、という話でした。笑
日宋貿易に関しては私も疑問に思っていた事があったので、すごく興味があった。
簡単に言ってしまうと、平氏の日宋貿易は現在喧伝されるほどの規模では行われておらず、
「神戸=当時から国際貿易港?」言いすぎ!という感じ。

そのひとつの根拠として博多にあった貿易の中心地、チャイナタウン(当時の呼び名は唐坊)の存在を上げておられました。
今の所神戸にはそうした場所の痕跡はない。
神戸でも陶磁器などが出て来ていますが、スライドで見た博多の発掘物を見ると、これはもう圧倒的な差がありますねえ…
宋との貿易の中心地はそれまでと変わらず博多だったと考える方が自然だと。
それに貿易に力を入れていた(従来説)とはいうものの、それならあってしかるべきだろう貿易管理制度がないとも(これは日本史を通じてないそうです)。また平氏が自前で貿易船を送った訳でもなく…

中国商人が海外貿易を盛んにおこない始めたのが9世紀ごろからだそうで。
牛耳っていたのは日本~インド半島という実に広範囲。
そしてそのメインルートは東南アジア。
日本はその支線で、そんなに儲けが出る貿易ルートではなかったようです。
また東南アジアでも日本でも、ルート、ネットワーク共に主体となっているのは中国商人であり、こうした仕組みを覆すのは平清盛でも無理だと。
(ちなみに世界あちこちにあるチャイナタウンの出発点はこの宋代で、華僑が東南アジアに多い理由もここにあるそうです)
日本からだけで見ると「あれ?」となる。
もっと大きな枠組みの中で、冷静に事実を見つめる必要がある、という事を仰っていました。
 
平氏の日宋貿易については記録がない、史料的に確認ができないのに、こうだ、と言われている事が多いようです。 
こうあらまほしという先入観…予念があるのと、日本国内のみの事情ばかりを考えていること、言葉の意味の取り違え、この辺りに問題があるように話を聞いていて思いました。
これは目からうろこボロリでした。面白かった。

最後に樋口さんが山内さんに「大河ドラマで信西が中国語を話していたが、話せたのか」という質問をされていました。
12世紀の京都に宋人がいたことは、記録から分かっているそうです。
僧侶であったりお医者さんだったり。
なので話し言葉としての中国語を習えないという事はなかったようで、あながち荒唐無稽という訳でもないようです。
そうなんだ。 

あとはまあ、いいかなー。
本当に面白いシンポジウムでした。行けて良かった。
 
 
昨日頂いた以外のメールすべてに返信しました。
中には随分お待ち頂いた方もいましたので…改めてすいませんでした。
重なる時は重なると言いますが、本当にそうですね。今回は流石に骨が折れました。
ブログでも本当にひっさしぶりに広瀬武夫に触れていくつか書きたい事が湧き上がっているのですが、そちらはまた後日に。

先程抜糸してきました。でも、何だかまだ不自由です。うーん。不便。
引きつれて痛い事は痛いorz


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